回想、あの日の飲み会で起きたこと(後編)
餅宮と幹事のいる卓まで向かう。元の卓から一番遠い卓だったが、それほど距離がある訳でもないのに。それでも歩く振動が脳に響いて、僅かに涙が混じるようになった視界がふらついた。
「…悪い。もし足りなかったら、次会った時に請求してくれ」
「分かった。粉城…本当に顔色悪いよ、少しここで待っててね」
餅宮に千円札を5枚渡して、一足先に出口へ向かった。歪んだ世界が更に回り始める。周囲の喧騒が煩わしい。
「ごめん、お待たせ」
「おっ、おぉ、平気だよ」
二人分の飲み会費を払い終えた餅宮が戻ってきた。項垂れていた僕を覗き込んでくる彼女の距離が近くて、思わず顔を背けてしまった。
「…付き合わせてごめん。飲み会とか苦手って普段から言ってたのに…」
「今更、気にするなよ」
僕は強引に笑顔を作って返事をした。それより、と言葉を続ける。今になっても、席を離れた僕達の様子を窺う小山に気付いたからだ。これ以上に関わりたくはない。
「早く帰った方がいいぞ、あの人しつこそうだからな」
「でも…」
尚も僕のことを気遣う餅宮を、ドアの方へと促した。僕の体調は既に回復し始めているのだと、平気そうに振る舞ってみせる。やっぱり誰にも迷惑をかけない演技の方が好きだった。
「外に迎え待たせてるんだろ。僕なら、トイレで少し吐いてくるから大丈夫だよ、心配しなくても平気だからさ」
背中を押すように餅宮を外に追い出し、背を向けて軽く手を振った。これ以上、自分相手に彼女の気を遣わせたくなかった。唯一の友人相手ですら、僕は上手く頼ることができないようだった。
ふらつく足でトイレへ入ったが、問題が一つあった。洗面所の鏡に反射した情けない顔に嫌気がさす。
「…吐き方が分からん」
初めての飲酒だ。気分を落ち着かせるために胃の中を全て出してしまいたいが、意外と自分の意志で吐くのは難しいものだった。この具合のままでは、徒歩で帰宅することすら難しいだろう。そう途方に暮れた時だった。
「大丈夫?」
背後から聞き覚えの無い女性の声がした。この居酒屋は男女共用トイレなので、女性と鉢合わせることもあるだろう。
「…だ、大丈夫です。すぐにいなくなるんで!」
今更誤魔化しは効かないだろうが、精一杯の強がりをする。振り返った先に立つ女性の顔に見覚えは無く、自分とは別の卓で飲み会に参加していた先輩だろうと見当をつけた。
ぐるぐる回る思考の中でも、とても綺麗な人だと思った。絶望的な自分の状況とも相まって、冗談抜きで現世に舞い降りた女神だと感じた。
「その顔は大丈夫じゃないね。心配しないで。酔った子のお世話は慣れてるから」
ふっと至近距離に入ってくる濡れた黒髪の香りが鼻腔をくすぐった。それに虚を取られて、咄嗟の反応が遅れた。
「いや、あの…一人で対処でき…」
初対面の相手にかけてしまう迷惑と、重さを増す気怠さを天秤にかけた。秤が傾きを示す前に、彼女は僕の肩に手を置いていた。そのまま丸めていた背中を優しく撫でられる。
その優しい掌の感触に、思わず安心感を覚えてしまった。体の力が抜けていく感覚。
「吐き方は分かる?」
「いえ…すいません…」
もうどうにでもなれと首を横に振った。するとポンポンと背中を軽く叩いてくれていた感触が離れる。それに名残惜しさを感じている自分に戸惑った。ここまで距離が近いのに安心感を覚えるのは、家族以外の人間で初めてだ。
「恥ずかしいだろうけど、我慢してね」
耳朶をくすぐる優しい響き。揺れる視界で声の出処を追うと、彼女は洗面台で入念に指先を洗っていた。その真剣な表情に自分も覚悟を決めた。イレギュラーだらけの一日だ。他人の優しさに甘えるのもしょうがない。
「…じゃあ、少しの辛抱だからね」
「はい、お願いします」
目の前に立つ彼女に視線を合わせると、いい子だね、と優しく微笑んでくれた。ふらふらと個室まで手を引かれて、僕は無言でトイレの水面に俯いた。
「っ!」
冷たい指の感触が口内に侵入し、彼女の空いた方の手が背中を優しく撫でてくれる。舌先の感覚が鋭敏になった短く長い時間だった。
「大丈夫だからね」
「っっっ!」
その囁きが皮切りとなって、僕は一時の解放感に包まれた。これが昨日の情けない顛末だった。