回想、あの日の飲み会で起きたこと(前編)
「それじゃあ、留学する皆の無事を祈って、乾杯!」
「「乾杯っっ!」」
居酒屋にグラスを突き合わせる音が響く。複数の八人卓が熱気に包まれた。
僕の大学で定期的に行われる交換留学。それに餅宮も応募していた。
学内で人気者な彼女の海外留学決定を機に、突如として開かれた大規模な送別会。同じ学科や複数のサークルも交えて、参加人数は40人を超えるものとなった。普段なら飲み会の類は欠席する僕も、唯一の友人である餅宮の送別会ということで、珍しく参加していた。
ちなみに僕は成人済みだが、お酒は一度も飲んだことが無かった。
餅宮も成人済みだが、これまでお酒を飲むのは家族と一緒の時だけで、大人数の前での飲酒の経験は無いに等しいらしい。
一人で参加するのは不安だからと、餅宮に強く頼み込まれて、僕はこの飲み会への出席を決めた。誰とでも仲良くなれる彼女のような人間になりたい、どうなったらなれるのか知りたい、そういった下心があったのも否定はしない。
「……」
そして、すぐに後悔した。
普段の交流が希薄な人間が飲み会に参加しても、何もやることが無い。さらに悪いことに僕はお酒に酔えない体質だったようで、数杯飲んでも心は冷静に醒めたままで、隣で話に花を咲かせる餅宮と自分とのコミュ力の差を実感する。
初めてのアルコールの味にも、場の空気にも酔えず、中途半端に冷めた意識で、僕は周りの話に相槌だけを打っていた。顔も知らない先輩が気を遣って話を振ってくれたが、それも二言三言で話題が盛り上がることなく萎んでしまった。
「餅宮ちゃん、もっと飲みなよ!ほらグラス空じゃん。何か頼んであげるからさ」
「あっ、あぁ。じゃあ、後一杯だけお願いします」
一歩引いた目線で周りの喧騒を客観視していたから、隣から聞こえる餅宮の少し困った様子の声色に気付いてしまった。
国際交流サークルだか何だか知らないが、送別会に参加している軽い風貌の先輩。腰に巻いた鎖がじゃらじゃらと鳴っている。小山と名乗った彼は、乾杯の直後から餅宮に話しかけていたため、彼の気持ちは、僕のような部外者でも察しやすい。
彼はお酒が入って段々と気が大きくなったようで、餅宮にお酒の追加を迫る態度は加速していった。年上の先輩の言葉を無下にしづらいのか、餅宮も躊躇いながら、徐々にお酒を飲むペースを上げていた。
ただ、彼女の手がピタッと止まる。
「私、そろそろこの辺で…」
「ええー、まだ飲もうよ。何なら一緒に抜けて別の場所行かない?」
下心を隠すこともなく、小山が餅宮に距離を詰める。その圧に押されるように彼女が僕の方に寄った。揺れた亜麻色の髪が僕の首筋をくすぐる。
多分、僕は少し苛立っていたのだろう。
周りの席を見ると、餅宮へ執拗に迫る小山に気付く者もいたが、その殆どが、囃し立てながら見物している野次馬ばかりだった。
「いいぞー、小山ー!」
周囲が僕に望んでいるだろう行動は何もしないこと。場の流れに逆らわず周囲に溶け込み、小山に口説かれている餅宮への静観を続けることだ。それこそが水流に翻弄される雑魚に相応しい行動。
今まで宴会の場を盛り上げようともしなかった参加者なのだから。この盛り上がった状況に水を差すべきでないと割り切り、身の程を弁えるべきなのかもしれない。
「え、えっと…私は…」
ただ、グラスを手にして曖昧に笑む友人を放っておけなかった。目の前の光景を静観することが出来なかった。割り切ったはずの心に、憤りともいうような余計な感情が加算されて。上手に割り切れなくなったから、僕は計算が下手になったのだと思う。
餅宮が杯を卓に置いたのを見計らって、そっと手を動かした。僕の行動が目立つと、餅宮の迷惑になるから。出来るだけ、静かにこっそりと。
「うぇいぃ!餅宮ちゃん、飲んでりゅ?」
「あっ、あれ?」
顔を赤らめ、いよいよ呂律のおかしくなってきた小山から目を逸らして、餅宮が小声で疑問詞を漏らした。その視線の先には、お冷の入ったグラスがあった。
僕は素知らぬ顔をして、すり替えたグラスの中身を一気に飲み干す。度数の強いお酒だったのか、少し頭がクラクラして意識が飛びかけた。それでも、深呼吸をしてから立ち上がる。
「餅宮、そろそろ帰るわ」
間に割って入った僕に対して、怪訝そうに睨みつける小山と、心配そうに見る餅宮の対比が少し笑えた。どうせ、小山と僕がこれから先に絡むことも無いのだ。酔った先輩を見下ろしながら口角を吊り上げて、嗤っているような表情を浮かべる。
自分と餅宮との関係性をこの男に見せつけるように。勘違い野郎と後ろ指を刺されても構わないから。
「餅宮も迎えが来る時間だったよね。一緒に外まで行こう」
「えっと、うん…」
空気が読めない男を装って、隣の友人に助け舟を出した。悪鬼羅刹のような凄い形相で小山に睨まれたが無視した。口説いても相手にされなかった男の嫉妬は、この場で二番目に醜いと思う。
それよりも醜いのは、僕の意地悪な本性だった。
「あ、ありがと」
「…礼なんていいよ、早く帰ろうぜ」
本当に礼を言われる道理がない。
餅宮を助ける振りをして、上手く集団に溶け込めない自分を正当化した。良い人ぶってその実、場の空気に合わせられない苛立ちを発散させただけだ。お酒の力を使えば、人間的に成長すると思った自分が浅ましい。
結局、僕のコミュニケーション力は雑魚のまま。それでいて、大人しく、雑魚らしく、集団内で振る舞うことも出来ない。
幼い頃に読んだ絵本。赤い小魚達の中で一匹だけ黒色だった魚の話を思い出す。自分が在るべき集団に溶け込めなかった小さな魚の話。
「…スイミーかよ」
口の中で言葉を溶かして、自嘲するかのような微笑を浮かべた。