大晦日にて(前編)
大晦日、当日の朝。
寧々子さんが車で迎えに行く、と提案してくれたので、僕は自宅で待機していた。
「そろそろ到着する時間だな」
今日の予定は寧々子さんと一緒に昼食を取って、そのまま本命の目的地へ行く。車を運転してくれるのは寧々子さんなので、相乗りさせてもらう僕が遅刻するのは申し訳ない。
早朝に起床して、黙々と外出の準備を整えていると、充電済みのスマホが着信音を鳴らす。
「はい、もしもし」
「もしもし、粉城ー。お久しぶりだねっ」
寧々子さんからだと思い、表示された名前も見ずに通話に出ると、同じ餅宮でも妹の方だった。冬の寒さを吹き飛ばすように溌剌とした声が耳朶を打つ。遠い異国の地でも元気そうで安心した。
「おぉ、なんか久しぶりに話すな」
「そうだねー、そっちはまだ朝でしょ。相変わらず早起きだねぇ」
フィンランドと日本の時差は約6時間ほどだったか。向こうはまだ夜中の時間帯だろう。
「相変わらず、そっちは夜更かしだな」
そう言い返すと、深夜特有の抑えた笑い声が聞こえた。僕からも餅宮に質問を投げかける。
「急にどうした?」
「お姉ちゃんと遊びに行くって聞いたから。もし寝坊していたら、私が粉城を叩き起こしてやろうと思って」
「それは怖いな。大丈夫、ちゃんと早起きしたよ」
規則正しい生活は、僕の代名詞といってもいい。冬休みとて、身についた習慣は変わらず。
「なら良いのだ」
「何だよ、その口調は」
餅宮は姉のことになると、過保護になってしまうらしい。唐突な合格判定に苦笑した。
「まぁ、粉城は律儀だからね」
「あぁ…」
短く言葉を零した。そのまま続ける。
「…でも、無理してる訳でもないよ」
「うん、知ってる」
餅宮も吐息を零した。その時、曇った窓の外から車の停まる音が聞こえてきた。部屋の暖房を全て切った後、荷物の入ったリュックを背負う。今夜、僕が自宅に戻ることはないだろう。
「じゃあ、行ってくる」
「行ってらっしゃい」
なんだか湿っぽい空気になったので、通話を切る前に一言だけ残した。
「餅宮が帰ってきたら、三人で遊ぼう」
「うんっ」
元気な声が戻ってきた。きっと彼女は、姉に似た微笑を浮かべていることだろう。
「じゃあね」
すっと電話を切って、階下の駐車場に向かった。
僕の接近に気付いて運転席から手を振る寧々子さんがいる。
「今日はお願いします」
「はーい、荷物は後部座席に置いといてね」
ドライブが始まってから数時間が経って。いったん、ハンバーガー店を経由することになった。
「うぅ、熱いよー」
「火傷しないでくださいよ?」
ポテトを咥えながら、口をすぼませた寧々子さんが呻く。
「…たとえ猫舌でもね、根性を見せなきゃいけないときがあるのよ」
「ポテト食べるだけで大袈裟ですね」
昼食をドライブスルーで簡単に済ませ、車を走らせること一時間程。今日の目的地に到着した。ドーム状の巨大な建物がそびえ立っている。
「水族館ですか」
「そう!」
最後に水族館に行ったのは小学校の見学以来だろうか。運転席から降りた彼女がコートを畳み始める。
「あれ、車にコート置いていくんですか。寒くないです?」
「うん、意外と大丈夫だと思うよ」
寧々子さんが用意した前売り券のおかげで入館はスムーズだった。冬風に震えながら歩いた駐車場に比べると、確かに館内は暖房が強すぎるほどに効いていた。ほっと一息吐いて、羽織っていたジャケットを脱いで腕に抱える。
早くも目を輝かせている寧々子さんの様子を窺うと。
「ねっ、やっぱりあったかいでしょ?」
「…そうですね…」
綺麗だな、と思わず見惚れてしまった。数ヶ月前に居酒屋のトイレで介抱してもらった時の印象が甦る。
黒のタートルネックと胡桃色のパンツ。チェック柄の大判ストールが、華奢な上半身をすっぽりと包んでいる。外気で赤くなった耳には、それぞれ星と月を象ったピアスが吊るされている。
普段は身に着けない印象があるピアスについて触れようとして、お洒落なお姉さんへの適した褒め言葉が思いつかず、嘆息した僕は役立たずの口を閉じた。
「それじゃあ、行こっか!」
寧々子さんが僕を振り返った。その拍子に肩からストールと黒髪が零れ落ちる。ふわりと揺れる髪が照明を反射した。
「うわぁ、サメもいる!?」
「あのサメはシロワニって言うの。おとなしい子だから、他の魚を襲わないんだって」
数多くの水槽が並ぶ中、僕達が最初に見学したのはサメやエイ、マグロにマンボウが泳ぐ巨大な水槽だった。通行人の流れに逆らわず、意気揚々とした魚の流れを見守る。
煌々としたライトアップに大きな魚の群れが照らされる光景を見ているだけで非日常感を感じる。まるで映画館のスクリーンの如く、ぶ厚いガラス越しに目を惹きつけられる。
隣の寧々子さんも微笑みながらマグロが泳ぐ様子を目で追っていた。蒼い光に真剣な彼女の横顔が照らされる。
水槽内を回遊する魚群が二周目に入ったところで、次の展示水槽へと進んだ。
周りの景色が暗くなり、不思議な姿をした深海生物の世界にお邪魔した。
「わぁ、大きい蟹だねぇ」
「タカアシガニっていうみたいですよ」
「…美味しそう」
大きなカニやアンコウが光の差し込まない真っ暗な水槽に佇んでいる。食べてみたいかも、とカニに向かって熱視線を飛ばす寧々子さんに苦笑した。水槽に阻まれた言葉はカニまで届いていないだろうけど、寧々子さんから逃げ出すように動き出す様子に二人で笑い合う。
そのまま順路に従って進み、明るい雰囲気の階層に出た。
「あっ、タツノオトシゴだ。可愛いねぇ、写真撮ろうよ!」
「いいですよ」
小さなタツノオトシゴがそっぽを向いている。何歳になって見ても不思議な生き物だと思う。
「もっと、こっち寄って!」
少し離れた位置でスマホを構える僕を手招きしたかと思えば、はしゃぐ寧々子さんに体を引き寄せられた。水槽を背景に自撮りする体勢となる。
「せーのっ!」
その掛け声に応じて僕も笑顔を作った。作り慣れていないから、ぎこちない表情だった。それでも寧々子さんは満足気に笑っていた。そこで彼女の接近に動揺しなかった自分に気付く。二ヶ月の月日は、確かに積み重ねたものがあったらしい。
歩みを進めると、中に岩山がある水槽が目に入った。アザラシやペンギンが、陸上での愛らしい仕草を見せつけている。
他の客もしっかり魅了されているようで、ぱしゃぱしゃとシャッターを切る音が絶えない。いったん水槽に近づくことは諦め、二人して腕組みをしながら壁際に寄り、遠くから水族館の人気者を眺めていた。
「ふむふむ」
「どうしました?」
ペンギン達を真剣に見つめながら、寧々子さんは静かに頷いている。その様子に気付いた僕が首を傾げると、彼女は言った。
「あの子達も立派に成長したねぇ」
「うわぁ…この人、ペンギンに後方保護者面してる」
一歩引いた反応を気にせずに、目頭を擦る芝居を続ける彼女。
「私と別れてから一年、新しいファンが出来たんだねぇ」
「…後方彼女面でしたか。しかも、水族館のアイドル、ファンに手を出している…」
「いいの、それがあの子の望みなら」
「うっ…健気だ」
ひそひそと声を潜めた三文芝居が幕を閉じた。組んだ腕を解いて歩き出す。
「ふふっ」
寧々子さんが笑う。背後では、ペンギンが水面に飛び込んだのか、ばしゃんという音と客の歓声が上がっていた。
イソギンチャク、サンゴなど色鮮やかな水槽の間を回る。その中で僕の目が留まったのは大小様々のクラゲが漂う水槽だった。
「綺麗だねぇ…」
寧々子さんが立ち止まる。僕も同じ感想を抱いた。形容し難い幻想的なフォルム。透明で長い触手が揺れては閉じて、お椀型の体躯は遊ぶように浮遊を続ける。
「えいっ」
寧々子さんが掛け声とは裏腹に、ぺたっと静かに水槽へと掌を当てた。僕も真似して水槽に手を這わせた。ひんやりとした硝子が手の熱を奪う。
「イルミネーションみたいだね」
赤、蒼、黄色。様々な光源でライトアップされたクラゲは、イルミネーションの輝きと確かに似通っていた。明滅する照明。
「そうですね…」
僕は小さく呟いた。反射する硝子越しに寧々子さんが軽く微笑むのが見えた。
「そろそろ行こうか」
楽しい時間が過ぎるのは早く、閉館時間が近づいていた。