ちいさなさかな
マンションに帰宅した後、僕はぐったりとしていた。
「食べ過ぎた…」
机の上には、一人で完食したチキンの残骸が転がる。片付けやシャワーなどもする気になれず、油で胃がもたれた僕は横になっていた。冬場のフローリングは冷たいが、それでも起き上がる気にはなれなかった。
「ん?」
その時、心境とは裏腹に軽快な着信音が鳴った。床に行儀悪く寝転がった姿勢のまま、手探りで机の上に放置していたスマホを取る。息継ぎをする間もなく、通話相手と音声が繋がる。
「もしもし、こんばんはー」
「こんばんは」
「ふふっ、お久しぶりだねぇ」
着信相手は寧々子さんだった。久々に耳にした穏やかな声音に耳朶をくすぐられて、どこかに息苦しさが飛んで行ってしまうような気分になる。
「仕事は終わりましたか?」
「ばっちりだよ!」
電話越しに伝わる上機嫌な声。どうやら、彼女が手掛けたクリスマスイベントは成功に終わったようだ。
「大盛況だった。受付に聞いたら、昨対比が一二五%を超えたって!」
「おぉ、凄いですね」
クリスマスに仕事をした僻みは一切無く、本当に嬉しそうに語る声。彼女が時間を費やした甲斐はあったようで僕も安心した。
「いつ帰ってきます?」
「うーん、明後日に会場から撤収かな。新幹線使うから、お昼過ぎには戻れると思うよ」
「そうですか」
ふふっ、と電話越しの息遣いに悪戯な微笑が混じる。
「まだ、お酒我慢しているからさ。帰ったら一緒に飲もうね。いいお酒も貰ったし!」
「僕もですか。いいですよ」
「お、やったぁ」
いつもと同じ会話。しかし、「んー?」と寧々子さんは怪訝そうに唸った。
「何かあったの?」
「無いですよ」
思わず即答してしまった。完全に図星を突かれたと、自白したようなものだ。
「そっかぁ」
何かを察したらしい。首を傾げている彼女の姿が想像出来る。
「いや、本当に大したことないです」
同級生からの誘いを断るために嘘を吐きました。その口実にバイト先の先輩という体で、仲良くしている寧々子さんの存在を使いました。なんて吐き出せる訳がない。
「そうなの。少し疲れているような声だったからさ。大したことなくて良かった!」
「ははっ」
くっきりとした気遣いに胸が痛む。
「大量にチキン食べ過ぎて、胃もたれしただけです。浮かれた気分で買ってしまって」
自分の道化っぷりを笑ってみせる。耳に当てた電話越しに、苦笑する声が聞こえた。
「ふふっ、粉城君が食べ過ぎなんて珍しいね。クリスマスで盛り上がってたのか。こういう行事は、冷めてるタイプだと思ってたけど」
「意外でしたか。本当は寧々子さんのイベントも見に行きたかったですよ」
「本当?今度会った時、写真見せるよ!」
「ははっ、楽しみにしてます」
その時、充電残量の通知が来た。右上の表示が赤色に変わる。名残惜しいが、そろそろこの長電話の終了の時間だ。
「じゃあ、そろそろ充電切れそうなので…」
「そう。あっ、最後に一つだけ!」
通話を切ろうとすると、慌てた様子で呼び止められた。「通話終了」の上まで動かしていた指先を止める。
「おやスイミー!」
結局、いつもの就寝前の挨拶だった。何事かと、身構えていた自分が馬鹿らしい。
「…」
沈黙する僕に対して、得意げそうな解説が続く。
「ふふー。これはね、「スイミー」って絵本と「睡眠」を掛けた高度な…」
「あっ、はい。懐かしいですね」
その話は僕も知っている。
「知っていたの?」
「はい、それじゃあ、レオレオニー」
電話先で息を吸い込む気配がした。
「わぁっ、粉城君が返してくれるなんて珍しい。もっかい言って、言ってみて!」
「だめです、切りますね」
「うわーん」
ささやかな意趣返しで、会話を締めた。
普段は「おやすミッキー・ミニー」だの、僕に返事を求めてからかってくるのに、不意を打たれると素直な動揺を見せる。その姿は稚くて可愛い印象を心臓へとぶつけてくる。
僕が即興で思いついた程度の返しでも驚くのは、これまでの恋人の前では猫を被り続けてきたからだろうか。評論家気取りの自分に苦笑して、雑多に散らかった机の中に埋もれた充電器を探した。
「…スイミー、かぁ」
常夜灯の薄明かりの下、布団に潜りながら、僕は呟いた。安い賃貸の部屋は暖房を点けても、壁越しの冷気が忍び寄る。生地の薄い掛け布団の裾を首筋まで引っ張り上げた。
僕は、いつかの居酒屋でもそうだが、自分をスイミーと重ねることが多々ある。
赤い魚達の中で一匹だけ黒い魚。
周りに上手く溶け込めない自分。
浮いている自分を許容して生きてきた。誰にどう思われても構わないと。一人で過ごす方が気楽だと。
これは全て本心だ。嘯いてなどいない。
それでも他人と関わりたい自分が、心の海の奥底に泳いでいる。それが決して深い場所から、情けない顔を覗かせることは無いけれど。
スイミーは群衆から浮いてしまう自分の黒色を、自分の個性を理解していた。小さくも賢いスイミーは、仲間の大群で作った大きな魚の目玉になるという大役を果たして仲間の命を救った。
それを初めて読んだ時、幼かった僕は思ったのだ。
周りに溶け込めなくても、他人の役に立つことは出来ると期待したのだ。自分を正当化して、「ちいさなさかな」のコミュ力のままで生きてきた。
そして、何も起きなかった。
スイミーには行動力があって、それが僕には無かった。都合よく僕の助けを必要としている人などいなかった。僕の見えない場所で困っていたとしても、そこまで他人のパーソナルスペースに踏み込む勇気がなかった。同じ小魚に例えても、絵本と現実世界では違う話に決まっていて。
今日だってそうだ。聖夜の雰囲気に任せて、新たな交友関係を持つ好機だったかもしれない。
それでも自分のコミュ力の無さに日和って帰ってしまった。それも、咄嗟に寧々子さんを利用した嘘の理由を吐いてまで。
「…気にし過ぎ、なんだよな。自分でも分かってるんだよ」
全てが自意識過剰だと理解している。本当に面倒な奴だな、と自嘲する溜息が出る。
芹江さんも所詮はただの同級生だ。彼女は急な遭遇に気を遣って、顔見知りの同級生として誘ってくれただけかもしれない。
それでも、人の心の機微が読み取れないのだ。
だから、人付き合いは苦手だ。相手の言葉を信用するまで時間がかかる。唯一の友人である餅宮は、一年という長い期間を僕が心を開くまで待ってくれた。
だからといって、他の人に責任は求められない。餅宮が特別に優しかっただけで、僕の友達が少ないのはコミュ力の乏しい自分自身が原因だ。
「…難しいなぁ」
大学生になってしても。他者と仲良くなるために必要な行動や手順が、僕には…。
積み重なっていく感傷を振り払うように、ぎゅっと目を閉じた。常夜灯の橙色が瞼の裏に焼き付いてしまって、鬱陶しい残像はしばらく消えてくれなかった。