『葛原論文』 涼宮事件概要
蝉鳴村事件(通称・涼宮事件)概要
前章で今回の論文の主題となる蝉鳴村事件の舞台となる蝉鳴村の歴史概要を説明したわけであるが、わざわざこの話を記したのには理由がある。というのも、今回の事件がこの蝉鳴村の歴史的な事象とかかわる部分があるからである。本章ではいよいよ、私が研究の題材としている蝉鳴村の殺人事件……通称「涼宮事件」に関する概要を記していきたいと思う(なお、この事件の流れに関しては、二〇〇三年六月発刊の『判例日報』当該事件判例記事(p74~75)、二〇〇三年六月発刊の『判例タイム』当該事件判例記事(p68~69)、一九九九年七月から二〇〇三年五月にかけての本事件を扱った国民中央新聞記事、及び京邦大学大学院犯罪学研究科教授・湊川千重郎著『涼宮事件全記録』(法文館書房 二〇〇三年九月発行)を中心に、各種文献から適宜引用したものである。詳細な引用ページや新聞の発刊日等に関しては巻末の注釈にてまとめて提示する)。
さて、この事件が『蝉鳴村事件』と呼ばれると同時に『涼宮事件』という通称を持っているという事はすでに冒頭から何度も書いている事であるが、この事件が『涼宮事件』と呼ばれている理由は単純であり、それはこの残虐な猟奇殺人事件の被害者の名前が「涼宮」というからである。被害者となった少女の名前は涼宮玲音。事件当時、すなわち一九九九年七月の時点で十七歳であった。
ここでこの涼宮玲音という少女の村での立場と、蝉鳴学校なる特殊な学校の事について述べねばなるまい。実の所、涼宮玲音はこの蝉鳴村の出身ではなく、出産時の本籍地は名古屋市となっている。涼宮玲音の父親・涼宮清治はこの村の出身であるが若い頃に名古屋に出て大手観光会社に就職し、そこで結婚して娘の玲音を授かっている。しかし、玲音は中学校の頃からいじめを原因とする不登校状態に陥っており、中学卒業後も高校に行く事なく家に引きこもっていた。そんな中、彼女が十七歳の時に彼女の母親が病気で早世し、清治はこの妻の死をきっかけに故郷である蝉鳴村に帰郷する事を決断。帰京後は村内にある蝉鳴村役場の観光案内事務所で働いていた。事件は、彼が帰郷してから……つまり、被害者の涼宮玲音が村に来てからわずか三ヶ月後に発生している。
蝉鳴村に引っ越した後、彼女が通う事になったのが、村内にある蝉鳴学校だった。全国の過疎化しつつある山村の例にもれずこの村でも子供の数は少なく、学校は小中学校合同のこの学校が一つあるだけで、それでも当時の生徒数は十人以下だったという。教師はこの村の出身で当時大学を出たばかりの女性教諭が一人いるだけで、それだけにやや排他的な雰囲気が漂う場所だったらしい。玲音は年齢的にはすでに高校生に該当するが、先も述べたように中学時代に不登校だった影響で学力面で少し遅れがあった。高卒認定試験を受けての大学進学を目指していた彼女は、正式な生徒という形ではなかったが特例でこの蝉鳴学校の図書室を利用する許可を県の教育委員からもらい、村に引っ越して以降は毎日図書室に通って勉強していたのだという。
事件はちょうどノストラダムスの大予言で世間が騒がれていた一九九九年七月二十三日金曜日の夕方に発生した。皮肉な偶然かな、おりしもこの日は羽田空港でいわゆる全日空六一便ハイジャック事件が発生したまさに当日であり、夕方のニュースではハイジャック機の機長が犯人に刺されて死亡したニュースが繰り返し報道されていた。結果的にこのハイジャック事件があったせいで、発生当初この蝉鳴村の事件はあまりニュースになる事もない地方の一事件と認識される事になるのだが、いずれにせよ、事件は比較的静かな形で幕を開く事となる。
事件当時、蝉鳴学校はすでに終業式を終えて夏休みに入っていたのだが、他にこれと言った娯楽がない田舎の山村だけあって子供たちは夏休みになって以降も学校の敷地内で遊んでいる事が多く、事実上敷地は解放されている状態だった。この日、被害者となる涼宮玲音は夕方近くまで蝉鳴学校の図書室で勉強をしていた事が確認されている。後にこの時校庭で遊んでいた子供たちから聴き取られた警察の調書記録によれば、午後五時頃になって遊びは解散となって子供たちはそれぞれの帰路に就いたのだが、それと同じ頃に彼女が図書室から出て校門へ向かったのが目撃されたとされている。そして、これが生きている涼宮玲音が確実に確認された最後の瞬間とされている(ここで「確実に」と書いたのには理由があるが、その理由は後述する)。
事件の第一報が入ったのは、この約二時間半後、記録によれば午後七時二十五分だったとされている。この村に唯一存在する蝉鳴駐在所に、涼宮玲音の父・涼宮清治が「娘が帰ってこない」という届け出を出したのである。駐在所に残っている記録からその時刻が午後七時二十五分だったのは間違いないとされ、後の裁判でもこの記録が提出されている。
さて、清治氏からの捜索依頼を受けた蝉鳴駐在所の巡査・大津留真造は、当初彼女がどこかに寄り道している可能性を指摘した。が、清治はそれに対してすでに主な心当たりのある場所には確認を取っていると言い、何より彼女自身がまだこの村に引っ越してきてから三ヶ月しか経っていない事もあって、大津留もこの状況が普通ではない事にこの時点で確信したという。すでに村の中でも清治が各家へ確認の連絡を取っていた事から騒ぎとなり、やがてすっかり日が暮れた蝉鳴村で村民総出の捜索活動が実行される事となった。しかし、闇夜の探索だった事もあって結局この時彼女は見つからず、大津留ももはや一駐在だけでは手に負えないと判断して岐阜県警本部にこの一件を報告。二次災害の危険がある事から捜索は一度打ち切られ、翌朝の県警本部到着まで持ち越される事になった。ただ、この時点では、彼女の失踪は事件ではなく事故か何かだと考えられていたようで、実際駐在の記録にもその旨の事が書かれている。
だが、その翌朝、すなわち七月二十四日土曜日になって、この不気味な失踪事件はとんでもない形で急展開を迎える事になった。
話は少し逸れるが、前章の話の中で出てきた瀬見川神社は、現在でも蝉鳴神社と名を変えて村内に現存している。境内は江戸時代そのままの風貌を残し、特に社はいくつかの所蔵品と共に県の有形文化財指定を受け、神主も伝説に出てきた油山一族の末裔がそのまま務めている。この事件の際の神主は油山山彦という人物であったが、彼自身は事件の直前に病気のため急逝しており、村の外に出ていた息子の油山海彦が近日中に後を継ぐために戻ってくるのを待っているという状況だった。そのため、事件当時この蝉鳴神社は無人だったという事になる。
そして、そのわずかな合間が最悪の状況を生み出した。二十四日早朝、駆けつけた県警の警官たちと合流した村人たちが再度境内を調べに行くと、昨夜の時点では気付かなかったが社の正面の扉に少し隙間が空いている事に気付いたのだ。山彦の死によって無人と化していた神社であるがゆえに、村人たちは海彦が帰ってくるまで神社を守るべく戸締り等はしっかり確認しておいたはずなのだ。その神社の社の扉が開いているのは、尋常ではない話だった。
村人たちは即座に社の扉を開けて中を確認した。だが、そこに広がっていたのはあまりにも想像を絶する光景であった。当時その場に居合わせた岐阜県警の警官の証言によれば、それを見た村人は全員が例外なく絶句し、大の大人や百戦錬磨の刑事の中にも気絶する人間が続出し、境内が一時野戦病院のような有様になったという。
社の中にあったもの……それは祭具用の槍で正面から胸を貫かれ、貫通した槍を壁に突き刺す形で磔にされていた涼宮玲音の変わり果てた姿だったのである。
これが、俗にいう「蝉鳴村事件」、もしくは「涼宮事件」と呼ばれる事件のあらましである。もっとも、この事件は通常の事件とは違い、むしろ事件が発覚してからの方にその核心を抱えているところが変わっている。引き続き、その後の捜査に関して述べていこうと思う。
さて、人間の尊厳を踏みにじるようなこの猟奇殺人事件に対し、岐阜県警は大規模な捜査を実施した。捜査の指揮を執ったのは、当時岐阜県警刑事部捜査一課に所属していた猪熊亜佐男という警部である。この警部に関しては後の裁判で論点になるのだが、今はとりあえず置いておく事としよう。
遺体発見後、神社は即座に封鎖され、岐阜県警による初動捜査が行われた。その初動捜査の結果、いくつかの事実が判明している。後の裁判の記録によれば、それは以下のようなものであった。
1、遺体は行方不明だった涼宮玲音のもので間違いない。遺族の確認の他、指紋、DNA鑑定等複数の個人識別によりその事実は証明されている。
2、死亡推定時刻は七月二十三日午後六時から七時頃までの一時間。彼女が確実に目撃されたのは七月二十三日の午後五時頃に学校から帰宅するところが最後であるので、その一時間後から二時間後までに彼女は殺害された事になる。なお、学校から彼女の自宅までは、後の検証の結果彼女の足で二十分程度しかかからないものとされている。この事から、彼女が学校を出た後まっすぐ家に帰らずに、途中でどこか別の場所に寄り道をしていたのは確実とされる。
3、彼女の所持していた鞄は現場の社内に放置されているのが発見されており、遺族の確認では鞄の中身でなくなったものはなさそうだという事である。なお、肝心の鞄の中身に関しては、筆箱(中身は鉛筆二本、消しゴム、シャープペンシル、ボールペン三本(黒二本と赤一本)、スティックノリ、ハサミ、定規、コンパス、各種蛍光ペン、修正テープ、ホッチキス、ホッチキスの針)、数学Ⅱの問題集、英語の長文問題集、コンパクト版の英和辞典、国語便覧、勉強用のノート二冊(数学と英語)、学校の図書室で借りたと思しき文庫本二冊(『人間の証明(森村誠一著)』と『クロイドン発12時30分(クロフツ著)』)、タオル、ハンカチ、ポケットティッシュ、簡易的な化粧品セット、財布となっており、図書室の貸し出し本である二冊の文庫本を除くと、いずれも被害者自身の以前からの所持品だったと確認されている。
4、直接的な死因は胸部を祭具用の槍で貫かれた事による出血性のショック死で、ほぼ即死あると判断された。槍は彼女の胸から侵入し背中まで突き抜けており、相当な力で彼女の胸部を貫通した事は確実である。ただし、それ以外に彼女の体に不審な傷痕などは確認されておらず、性的暴行の痕跡もなかった。
5、凶器となった祭具用の槍は、かつて戦国時代にこの地を治めていた領主・瀬見武親が使用していたもので、内ヶ島氏の侵略で武親が討ち死にした後、村人が回収して呪詛の道具として利用した物の現物だという。社と共に県の有形文化財に指定されているもので、普段は社内部の壁に飾られていた。が、社自体が特に警備設備があるわけでもないので、持ち出しなどは比較的容易にできる状態だったという(もちろん、ある意味神域である社の中に祭事以外で入る村人は存在しないというのが村人たちの弁であるが)。
6、現場となった神社の社内部には有力な証拠は存在しなかった。いくつか指紋は確認されたがいずれも古く、祭事の際などに境内に入った村人のものだと推察されている。凶器の槍や放置されていた鞄などの遺品にも際立った痕跡は確認されなかった。
現場から有力な証拠が見つからなかった事もあり、警察は彼女が最後に目撃された午後五時から死亡する午後六時から七時までの空白の時間に焦点を当てた。すなわち、彼女が学校を出てから死亡するまでの間にどこで何をしていたのかが問題になったのである。村人に対する徹底した聞き込み調査が行われ、彼女の足取りが検証される事となった。
ポイントとなったのは、彼女が学校を出てから二十分間の足取りである。先にも述べたように、学校から彼女の自宅までは彼女の足で二十分程度しかかからない。つまり、普通に帰っていたとしたらこの時点で自宅に到着していなければならないわけで、その痕跡がない以上この二十分間の間に彼女が家に帰れなくなった何かがあったと考えるのが妥当なのだ。そして、警察がこの二十分間の行動について調べ続けた結果、一人の男が浮上する事になった。
加藤柳太郎。年齢は三十歳。村の人間ではなく最近になって名古屋の会社を辞めて家族でこの村に引っ越してきたばかりの男であり、事件当時は蝉鳴村役場の臨時職員(非常勤)として活動していた。その男が午後五時十五分頃、涼宮家近くの交差点で被害者らしき女性に何かを話しかけていたのを、先程紹介した駐在所の巡査・大津留真造がパトロール中に目撃していた事を思い出したのだ。その時は特に何もおかしなところはなかったためそのまま通り過ぎたという事であったが、捜査陣営はこの目撃証言から加藤氏に事情を聞く事となった(後にこの証言は「大津留証言」と呼ばれる事になる)。
調べに対し、加藤氏は該当時刻に彼女に声をかけた事自体は認めた(このため、被害者が生前目撃された最後の時間が十五分繰り下げられる事となった)。ただし、それはあくまで以前からの顔見知りだった彼女に挨拶と軽い世間話をしただけで、すぐに別れて目的地へ向かい、その後は午後七時頃に自宅に帰宅して、以降は家族と一緒に過ごしていたというのが本人の主張であった。なお、事件当時の加藤氏は役場からの指示で役場が管理する村内の空き家の除草作業業務を行っており、被害者と出会ったのは次の作業を行う空き家への移動途中であり、実際の犯行時間については指示通り空き家の除草作業を一人で行っていたため明確なアリバイはないとの事だった。また、被害者と以前からの顔見知りだったという主張について疑問視する声もあったが、これについては彼女の父親で役場の観光案内事務所職員である涼宮清治氏と加藤氏が同じ職場に勤める上司と部下のような関係で、同じ名古屋からこの村に引っ越してきたという共通点からこの二人には面識があり、その縁で清治氏の娘である玲音とも会った事があったというのが加藤氏の説明だった(この主張については清治氏も認めている)。
しかし、県警はこの時点で加藤氏にかなりの疑いを抱いていた。先述したように加藤氏に事件当時の明確なアリバイがなかった事に加え、元より手掛かりがほとんどなかった事や、この猟奇殺人の一刻も早い解決を望む村側や警察の上層部の思惑などが捜査本部の焦りを誘い、猪熊警部率いる捜査本部は確たる証拠もない状態で加藤氏に対する任意の事情聴取に踏み切ったのである(あくまで任意聴取で、この時点では逮捕ではない)。後に、この判断は時期尚早だったと最高裁判例の中で大批判を受ける事となるが、この点については後述する。
もちろん加藤氏は犯行を否認した。自分はあくまで挨拶をしただけであり、その後の事については何も知らないと当初の主張を繰り返し続けたのである。だが、この時警察も引くに引けないところまで来ており、任意聴取にもかかわらず取り調べは苛烈を極めた。後に加藤氏に話を聞いた犯罪学者の話によれば、焦りのためか証拠が乏しかったためか、自白目的と思しき拷問まがいの恫喝や休憩やトイレも取らせない長時間の拘束などもあったようである(当然これらは刑事訴訟法違反の取り調べである。無論、後の裁判においても県警側はこれらの証言について頑なに否認をしたが)。
さらに村の中でも加藤を犯人と決め付ける流れがすでにできつつあった。元々余所者だった事もあるだろうが、村人たちは一斉に「どこそこで加藤と被害者らしき人物を見た」だの、「普段から加藤には怪しい言動があった」だのと言った、加藤に不利な証言を始めたのである。そうした証言の大半はあやふやなものとしてそこまで重要視はされなかったが、その中でも特に警察が重視したのは、後の犯罪学者の間では「名崎証言」「扇島証言」と呼ばれる二つの証言であった。
まず、「名崎証言」は蝉鳴村役場職員の名崎義元という人物が行った目撃証言である。名崎はこの日村内の診療所に入院中の妻が産気づいたとの連絡を受け、村の中央にある役場を出て蝉鳴学校のすぐ隣に立地する村の診療所への道を自転車で急いでいたという。時刻は役場を出た時点で午後五時四十五分頃。後に警察官が実際に同じ道を自転車で走って計測したところ、役場から診療所までは自転車で十分程度の距離だという事がわかった。
その道すがら、暗くなりかけていた田んぼ道を男と女の二人連れが北の神社方面へ向かって歩いているのを走りながら目撃したのだという。残念ながら二人は背を向けていたので顔まではわからなかったが、その背格好や雰囲気はそれぞれ被害者と加藤氏によく似ており、特に男性が着ていた服は普段から加藤氏がよく着ていたジャージと同じだったと発言している。役場から問題の場所まで自転車で到達するのに先の実験では五分程度で、その目撃地点から二人が歩いていた田んぼ道までおよそ二十メートル程度の距離があった。自転車で走りながらだったとはいえ名崎の視力ならばそれを目撃するのはたやすかったというのが警察の判断であり、またこの証言が事実だとするなら五時十五分に被害者に道を聞いただけだという加藤氏の証言に矛盾が生じる事になってしまう。
一方、もう一つの「扇島証言」とは、遺体発見現場の神社周辺に住む扇島利吉という老人が行った証言である。彼の家の居間の縁側は神社の入口にある石段を見渡せる場所にあり、午後六時半頃、彼はその居間でテレビのニュースを見ていたのだという。その際ふと何気なく神社の方を見ると、薄暗い闇の中、神社へ続く石段を登っていく男女と思しき二つの人影を見たというのがこの目撃証言の内容だった。これはすなわち、死亡推定時刻範囲内の六時半頃に神社に出入りしていた何者かが存在していたという事でもあり、それが被害者と犯人である可能性が極めて高いという事でもあった。
さらに、加藤氏に対する疑いを深めた捜査本部は、任意聴取で加藤氏を取り調べるのと同時並行で、加藤氏の自宅に対する家宅捜索を行った。そしてその結果、疑惑を決定づける物的証拠が初めて出現する。加藤氏のタンスの中にかけられていたジャージ……そこからルミノール反応が検出され、わずかに残されていた血痕をDNA鑑定した結果、その血液が被害者の物と一致したというものだった。しかもこのジャージは加藤氏が事件当日に着ていたものであると複数の人間が証言しており、加藤氏自身もそれを否定する事はできなかったのである。それ以外に加藤氏と犯行を結びつける証拠を見つける事はできなかったが、警察にとって、このジャージの存在はずっと探し求め続けていた決定的証拠に他ならなかった。
任意聴取から数日後、警察はこれら村人の一方的な証言、及び任意聴取中に行われた家宅捜索で押収された被害者の血痕付きのジャージを根拠に、加藤氏が否認した状態のままで加藤氏の逮捕に踏み切った。直接的な物的証拠は問題のジャージだけで、他にあるのは間接的な目撃証言のみであり、動機に関しても不明のまま。それでも警察や検察はそれで充分加藤氏を有罪に持ち込めると判断したのだろう。逮捕された時の村人の加藤氏に対する罵倒は激しいもので、連行されていく加藤氏に対し激しい罵詈雑言が投げかけられたという。この時点で加藤氏はまだ否認していて有罪も確定していない状態だったというのに、すでに村の中では加藤氏が犯人である事が確定事項として認識されてしまっていたのである。結果、残された加藤氏の家族は村八分状態にされてしまい、ついには被害者と同じ学校に通っていた加藤氏の息子が自殺未遂を起こすという事件が発生。幸い息子の命は助かったものの、この事件がきっかけとなって加藤氏の家族は村を離れる事になり、彼の妻も失意のままこの一年後にストレス性の疾患で急死する事になったという。
逮捕後の警察や検察による取り調べにおいても加藤氏は徹底して容疑を否認し、結局警察が頼りとしていたであろう自白をする事は最後までなかった。しかし、担当検事は数々の証言や血痕付きのジャージという決定的証拠から起訴は可能と判断し(後に、この時の世論の流れや上層部の指示などから、いくら証拠が少なくても起訴しないわけにはいなかったとこの検事は証言している)、加藤氏は岐阜地裁での裁判にかけられる事となった。村の圧力でもあったのか彼の弁護依頼を引き受ける弁護士など存在せず、結局加藤氏は国選弁護人で裁判に臨む事となっている。
だが、ここで加藤の弁護についた国選弁護人……三田大治郎氏が奮闘した。彼は村人の白い目が光る中で地道な検証調査を実施し、全国的な冤罪キャンペーンを展開したのである。そんな中で開かれた岐阜地裁での第一審は、日本の裁判史に名を残す大論戦の舞台となった。
三田弁護士が問題視したのは、加藤氏が怪しいと主張する多くの村人の証言が何の根拠もない不確かなものである点、そして事件直後と加藤氏の任意聴取前後で多くの証言が変遷しているという点だった。そこで三田弁護士は、証言をした村人一人一人に対する徹底的な尋問を行ってその嘘や勘違いを暴き、なおかつ曖昧とされていた加藤氏のアリバイを確定させる方策に打って出た。
法廷における三田弁護士の追及は苛烈を極め、彼を犯人と決めつけたあやふやな証言ばかりしていた村人たちは次々と陥落していった。特に事件の鍵を握る三つの重要証言の当事者……すなわち「大津留証言」の大津留真造、「名崎証言」の名崎義元、「扇島証言」の扇島利吉に対する尋問は非常に激しいものとなったという。事件の流れを見ればわかるが、加藤氏は「大津留証言」に関しては「被害者に挨拶をした」という形で認めているが、残る「名崎証言」「扇島証言」に関しては全面否認している。よって三田弁護士の戦略は、後者二つの証言を打ち崩した上で「大津留証言」の曖昧さを示し、なおかつ加藤氏に犯行が不可能である事を証明する事にあった。
まず、「名崎証言」に関して三田弁護士が問題視したのは、妻の出産という一大事に全力で一心不乱に自転車をこいでいたはずの名崎が、はたしてその途中で数十メートルも離れた場所を歩いていた通行人の事をそんなに都合よく詳細に覚えているのだろうかという点だった。いくら田舎で人通りが少ないとはいえ、そのような切羽詰まった状況ですれ違ったわけでもない人間の服装まで覚えているのは不自然だというのが三田弁護士の主張である。しかも彼の場合、この証言をしたのは加藤氏が任意同行されて以降の話であり、そんな都合のいいタイミングでその事実を思い出したということ自体に違和感があるのも事実だった。
もちろん名崎は反論した。確かに急いではいたが、男性と女性が暗くなりかけている田んぼ道を歩いているという奇妙な光景に思わず違和感を覚えたというのが名崎の主張だった。すると三田弁護士は、ならば目撃した二人の様子をもっと詳細に証言するようにと名崎に求めた。
その結果、この証言で名崎は初めて『明確な矛盾』を口にする。三田弁護士の要請を受けて改めて目撃した事を証言した名崎は、その中で「目撃した男女は男の方が女性よりも頭一つ分ほど背が高く見えた」と供述したのだ。事件の少し前に村内の診療所で行われた健康診断を被害者の涼宮玲音も受けており、その際に測定された彼女の身長は、同世代の女性としてはやや高めの一六三センチメートル前後。これに対し、逮捕時に測定された被告人の加藤柳太郎の身長は逆に同世代の男性としては低めの一六七センチメートル前後。両者の身長差はわずか四センチメートルほどしかなく、この身長差では証言通り遠くから自転車で走りながら二人を見た場合二人の身長はほぼ同じに見え、少なくとも「頭一つ分高い」という表現にはならないと三田は主張したのだ。なお、実際に三田が検証をした結果、名崎が目撃したように見えるには被害者ともう一人の男の間に少なくとも十五センチメートルから二十センチメートルほどの身長差が必要だとわかっている。
検察側は身長の問題はあくまで名崎の主観によるところが強く、彼が被害者と似た服装の男を見たという事実こそが重要だと反論したが、弁護側も負けじと「仮に目撃された女性が本当に被害者だったとした場合、身長の問題で彼女が話していた男性が被告人ではない事が立証できる。逆に女性が実は被害者ではなかったとすれば身長の問題は解消できるが、その場合は加藤氏が「大津留証言」以降に被害者と出会っていたという検察側の主張自体が虚構という事になり、それはすなわちこの証言その物が事件とは何ら関係がないものだという事になる。従って女性が被害者であろうとなかろうと、同時に目撃された男性が加藤氏でない事は明白である」と主張し、検察側と弁護側はこの身長の問題をめぐって激しい論戦を展開する事となった。
最終的にこの名崎証言をめぐる論争において、弁護側は名崎が目撃した二人の人影のうち、女性側が被害者であるという検察側の主張こそ崩す事はできなかったが、もう一人の男が加藤氏であるという検察側の主張については大きなひびを入れる事に成功した。もちろん、弁護側の言うようにその人影が加藤氏でないとすれば「ならばそれは誰だったのか」という点が問題になるのだが、三田弁護士はそこまで追及すると際限がなくなり、証明できないとかえって検察側に付け入る隙を与えると考えたのか、それ以上の追及をする構えは見せなかった。肝心なのは「名崎が目撃したのが加藤氏ではなかったかもしれない」というこの一点であり、これが事実だとすれば名崎証言の根幹を否定する事は充分にできたというのが三田弁護士の判断だったのである。実際、正体こそわからなかったが目撃された男が加藤氏ではなかったという可能性が提示された事で名崎証言の信憑性に疑問が生じたのは事実であり、この点においては三田弁護士の作戦勝ちと言ったところだった。
続く「扇島証言」についても、三田弁護士は扇島老人に対して激しい尋問を行った。彼は神社前に外灯などが一切存在しないという点に着目し、目撃時間が午後六時半頃だった事からその頃の神社の入口付近は薄暗くなっているはずだと指摘(このとき三田弁護士は、実際に自分で該当時間に神社の前に出向き、問題の時刻の目撃現場がいかに薄暗かったかという事を写真で撮影して立証するという事まで行っている)。明かりのついている屋内からそんな場所を見ても、人影がいる事はわかっても、それが誰なのかまでは明確に判断する事は不可能であるはずだと追及した。
当然検察側は反論した。弁護側の反論は憶測にすぎず、実際には見えたかもしれないと主張したのだ。しかしこれに対し、弁護側は「裁判官立会いの元で実際に犯行時刻と同時刻に現場で扇島老人が神社の前を通る人の判別ができるか」の実験を提案するという過去に類を見ない奇策に打って出た。検察側の反対にもかかわらず裁判所はこの提案を受諾。事件からちょうど一年ほどが経過した二〇〇〇年七月某日、裁判官、検察官、弁護人立会いの元で、蝉鳴村の扇島老人の自宅において実際にこの前代未聞の実験は実行に移された。実験は複数のペアを用意して該当時間に目撃された神社の入口を歩いてもらい、それらのペアの存在や詳細を扇島老人が実際に自宅から判別できるかという形で行われた。ペアは弁護側により様々なシチュエーションが用意され、扇島が見たと証言している「被害者と加藤氏と同年代かつ当時と同じ服を着たペア」を筆頭に、被害者と加藤氏とは別の服を着た男女のペアや、被害者と加藤氏と同じ服を着た男同士のペア及び逆に女性同士のペア、果てにはあからさまに被害者と体形も服装も違うペアなど、いくつもの状況がシミュレーションされたのである。
その結果、外灯がない神社入口を明かりのついた扇島老人の家から見た場合、扇島老人は誰かが神社入口を通りがかっている事とその人物が男女のどちらかである事までは見分けたものの、その人物の具体的な服装や顔までは確認する事ができなかった。これにより、事件当夜に扇島老人が死亡推定時刻前後に神社入口で謎の男女二人組を見た事までは確実とされたものの、その人物が誰かと言うところまでは断言できないという事が立証されたのである。無論、検察側はこれが被害者と加藤氏であると主張し、逆に弁護側は彼ら以外の第三者であると主張した。しかし、この人物が誰なのかを示す明確な物的証拠は検察側も弁護側も用意できず、この後果てしない両者による論争が繰り広げられる事となった。
事件当時、神社の境内に入るにはこの石段を上る以外に方法はなく、検察側は他に扇島老人が目撃していない以上はこの目撃証言の女性と思われる人物が被害者と考えるしかなく、同時に目撃された男性と思しき人物こそが犯人であると主張した。しかし弁護側は、扇島老人は常に神社の入口を見ていたわけではなく、問題の目撃証言もテレビを見ている合間にたまたま目撃したに過ぎないと主張。その根拠として、神社から去っていったはずの犯人の姿を扇島老人が目撃していないという事実を挙げ、被害者は扇島老人が神社入口の方を注視していない時に神社に入った可能性があり、彼が目撃した二人は被害者とも加藤氏とも違う第三者だった可能性……つまり、未知の事件関係者がいる可能性を指摘した。要するに、神社に入った可能性があるのが目撃された二人だけだったと判断するのは早計だというのである(無論、弁護側は加藤氏が神社に行った事自体を否定している)。この論争はかなりの期間続いたが結局明確な結論は出る事がなく、しかしながら弁護側の奮闘により、この証言の信憑性にも大きな疑惑が生じる事となった。その点では、再び弁護側が一矢報いたと言えなくもなかった。
いずれにせよ、逮捕の根拠となっていた決定的な証言二つが不完全とはいえ崩された事により、検察側の残る牙城はほぼ唯一とも言える加藤氏の犯行である事を証明する物的証拠……すなわち『加藤氏の自宅から見つかった被害者の血痕付きのジャージ』のみとなった。このジャージは被告人が事件当日着ていたもので、これについては加藤氏自身も認めている。しかし、本当に加藤氏が無罪だとするなら。このジャージに被害者の血痕が付着しているというのはおかしい。検察側はそれこそが加藤氏が犯人である決定的な証拠であると主張しており、実際にかなり不利な証拠である事は間違いないのだが、先の証言が崩れた事で勢いに乗る弁護側はこの証拠についても異議を挟んだ。加藤氏が犯人でないならジャージに血痕が付着するはずがない。にもかかわらずジャージから血痕が検出されたとすれば、考えられる可能性は一つしかない。すなわち……このジャージに付着した血痕が「捏造された」証拠品である可能性である。有体に言って、弁護側は決定的な証拠が出ない事に焦った警察が加藤氏を確実に有罪にするためにジャージの血痕を偽造したのではないかと主張したのだ。
弁護側が問題視したのは、問題のジャージが押収された家宅捜索のタイミングである。家宅捜索は加藤氏に対する任意聴取と同時並行で行われており、すなわちジャージの持ち主である加藤氏が不在の状況下での捜索となっている。無論、家宅捜索には立会人として加藤氏の妻子がいたが、彼らは夫の任意同行と家宅捜索という突然の事態に呆然自失状態で、立会人としての役目を果たせていたとは言い難いというのが実態だった。少なくとも諸々の証言から、彼女たちがジャージの発見された加藤氏の自室の捜索に立ち会っていないのは確実である。となれば、そのタイミングを見計らって警察が遺体から押収した被害者の血痕をジャージにまぶしたのではないかというのが弁護側の主張だった。この小細工は被害者の血痕がなければ不可能ではあるが、解剖のために遺体を押収していた警察ならそれが可能であるというのである。
もちろん県警側は激しく反論した。法廷には捜査責任者である県警刑事部の猪熊警部が呼ばれ、彼は捏造について「そんな事を警察がするなど神に誓ってあり得ない事である」と徹底して否定した。しかし弁護側は、『免田事件』『財田川事件』など過去に実際に警察が証拠を偽造して冤罪に発展した事例が複数存在し、すなわち「警察が証拠の少ない事に焦って証拠を捏造する可能性がないとはいえない事」を主張。さらに、事件の残虐性と村側からの圧力、そして決定的証拠の乏しさから捜査本部がかなり追い詰められており、ようやく任意同行までこぎつけた加藤氏を何もないまま釈放するわけにはいかなかった事から、加藤氏を確実に犯人に仕立て上げるために家宅捜索の際に被害者のジャージに血痕を付着させたのではないかと追及した。
この主張にそれでも県警は激しく反発し、弁護側の主張は証拠も何もない悪質な言い掛かりであるとまで主張した。だが、県警と弁護側の激論の応酬の中で、弁護側は切り札ともいうべき矛盾を叩きつける。それは、ジャージに付着した血痕の形状についての矛盾で、ジャージの脇腹の辺りに小さくではあるが「滴下血痕」と思しきものが確認できるというものだった。
滴下血痕とは、簡単に言えば血が高所から垂直に落下した際に発生する、円の中央から放射状に筋が伸びる形状の血痕で、これは当然高所から血が滴り落ちるなどの挙動がなければ発生しない。仮に加藤氏が今回の事件の犯人でジャージに付着していたのが犯行時の返り血だとすれば、槍で相手を突き刺すという犯行形態上、付着するのは正面からの飛沫血痕(飛び散った血を浴びた際に付着する細長い形状の血痕)であり、高所から垂直に滴った血によって発生する滴下血痕が付着するなど絶対にあり得ない。それが確認できるという事は、何者かがジャージを床に広げて置いた上で血を浴びせて飛沫血痕を付着させ、その作業中に血を入れていた容器などから偶然滴り落ちた血によって滴下血痕が発生したと考えるしかなく、すなわちこの滴下血痕の存在こそがジャージが捏造された証拠である事を示す何よりもの証明であるというのが弁護側の主張であった。これに対して県警及び検察側は、指摘のあったジャージの血痕は小さい上に極めて曖昧なもので、滴下血痕ではなく付着していた飛沫血痕がにじんだ結果発生したものだと反論。弁護側はこれを詭弁であると批判し、しかし双方ともにこれという決定打を示す事ができなかったため、ジャージをめぐる論争は硬直状態に陥る事となってしまった。
このように、証拠や証言をめぐる弁護側と検察側の攻防は熾烈を極め、この後も裁判は数年にわたって様々な証言をめぐって検察と弁護側で激しい論争が続けられる事になった。だがそんな中、ついに弁護側は警察が立証できなかった決定的な証拠を見つけ出す。それは、加藤氏が物理的に犯行不可能であったという事実を完璧に立証するものであり、結論から言えばアリバイ云々以前の話として、加藤氏には凶器の槍を使って犯行を行う事が不可能だったのである。
具体的に説明しよう。何度も言うように、被害者の涼宮玲音は真正面から胸を槍で貫かれて即死していた。槍は彼女の体を突き抜けて背中にまで達しており、かなりの勢いで突き刺されたのは明白である。この事から槍そのものの重さも併せて考えると少なくとも男性による犯行である事は確実(女性の場合、槍を持ったり振り回したりすること自体はできるだろうが、あそこまでの勢いで人を刺し殺す事は物理的に不可能と考えていいだろう)で、この点も加藤氏に対する疑惑を助長する結果となっていた。
ところが、三田弁護士の調査の結果、思わぬ事実が発覚した。そもそも加藤氏が蝉鳴村に引っ越してくるきっかけとなったのはかつて勤めていた名古屋の企業を辞める事になったためであったが、その辞めた理由というのが、彼が社内で所属していた社会人野球チームにおけるトラブルによるものだった。彼はこの社会人野球チームでピッチャーを勤めていたのだが、そんな中でどういうわけか肩の違和感を訴えるようになり、しかもそれでいながら医者の診断では「問題なし」と言われ続けていたため、問題がないにもかかわらず肩の違和感を理由に登板を回避し続ける彼とチームメイトの仲が険悪化。これがきっかけで彼は会社を辞める事となり、静養のために蝉鳴村に引っ越してきたのだった。幸い村に引っ越して以降、力仕事から離れていたためか肩の違和感は収まっており、多少違和感はあるが本人もすでに治ったという認識をしていた。
だが、三田弁護士はこの事例がかつてプロ野球で発生したある事例と酷似しているのではないかと疑いを持った。それは、かつて巨人に所属していたエリック・ヒルマンという外国人選手の事例で、彼は何度も肩に違和感を覚えて訴え続けていたにもかかわらずチームドクターの診断では問題なしとされ、最終的にそれを理由に何度も登板回避を繰り返した事が理由で巨人を解雇されるも、その後の診察で左肩回旋筋腱板断裂という重傷だったことが発覚。チームドクターの診察は誤診であり、結果的にこの怪我が原因でヒルマンは引退する事になったというものだった。
加藤氏が会社を辞めるきっかけになった一件がこのヒルマンの事例と酷似している事に気付いた三田弁護士は、裁判中にも関わらず、自身の信用する医師による加藤の肩に対する精密検査を要求。検察側は「事件に関係がない」として反対したが三田弁護士の再三の要請についに裁判所側も医師による精密検査の実施を許可。その結果、彼がヒルマン同様に右肩回旋筋腱板断裂を負っており、肩に強い衝撃を与えたが最後、二度と右腕が使えなくなるほどの重症だったという事実が暴露される事となった。これは社会人野球時代に診察した医師はおろか当の加藤氏本人ですら認識していなかった事実であり、そして、これこそが加藤氏の犯行が不可能である事を実証する最大の証拠となった。
先述したように、加藤氏は社会人野球時代の時点ですでにこの右肩回旋筋腱板断裂を発症していた可能性が高く、彼がその後最悪の事態に陥らなかったのは、辞職後にあまり体力仕事をしていなかった事と、引っ越ししてからあまり期間を置く事なく涼宮事件に遭遇して逮捕され、肩を使うような行動と無縁だったからという偶然が重なったからに過ぎない。つまり、彼は蝉鳴村に引っ越した時点で右肩に本人も気づかぬ爆弾を抱えている状態だったわけで、そんな彼が人の体を貫くほどの勢いで槍を突き刺せば確実に右肩が破壊されて取り返しのつかない事態になったのは間違いなく、それどころか現在の状態ではそれなりの重量を持つ凶器の槍を持ち上げただけでも下手をすれば右肩にとって致命傷になりかねないと、三田弁護士の要請で加藤の肩を診察した医師は断言した。しかも、問題の槍は神社の社の壁のかなり高い位置に安置されており、これを手に取ろうと思えばどうしても両手を上に伸ばす必要があるため、このような体勢で重い槍を持ったとすれば、その時点でほぼ間違いなく肩は壊れていたはずだとその医師は追加証言したのである。つまり、加藤氏が社の壁に安置された槍を手に取って構え、あまつさえ人の体を貫通するほどの勢いで突き刺す事など、物理的にとても不可能である事が立証されてしまったのである。
この新事実に、検察は必死の反論を試みようとした。真っ先に主張したのは、精密検査の結果発覚した負傷状況は犯行を行ったからこそ発生したもので、犯行までにはまだそこまでの重症ではなかったのではないかというものだった。症状が軽かったからこそ辞職前の診断では問題なしと判断されたが、犯行によって肩に負荷をかけたがために現在の破滅一歩手前の状況まで追い込まれたのであり、ひいてはそのような状況になっている事こそが逆に彼が犯人であるという決定的な証拠だとまで主張したのだ。だが、精密検査をした医師はその可能性を真正面から否定し、たとえ検察側の主張通り辞職時点で軽症だったとしても槍で人を背中まで貫くとなれば健常者でも肩が外れてもおかしくないほどの反動が返ってくるのは自明であり、そのような状況では仮に軽症であってもほぼ間違いなく一発で肩が故障するはずで、今のように限界ギリギリで踏みとどまるなどという事はあり得ないと反論した。また、検察は苦し紛れに加藤氏が左手一本だけで犯行を行った可能性を示唆したが、それなりの重さを持つ槍を利き腕ではない左手一本で相手を貫通するほどの勢いで突き刺すなど現実的ではなく(そんな事をしたらたとえ肩が健常でも一発で壊れてしまうのは間違いない)、そもそも本人が重症である事を認識していないのにわざわざそんな面倒臭い事をする必要性がないという三田弁護士の反論を崩す事ができなかった。
さらに、この事実は、激しい弁護側の攻撃を受けながらもなお検察側の最後の砦になっていた血痕付きのジャージの信憑性にも決定的な影響を与える事になった。というのも、加藤氏が槍で被害者を刺し殺せなかったとなれば、当然ながら被害者の血痕がジャージに付着するなどあり得ない話だからである。しかし、絶対にあり得ないにもかかわらずジャージに血痕が付着していたのは事実である。となれば、このジャージの血痕は本人のあずかり知らないところで捏造されたと考えるしかなく、それが可能なのは被害者の血痕を用意する事ができる、事件を捜査した県警の捜査本部しかありえないという当初からの弁護側の主張が、ここへきて全面的に認められる事になってしまったのだ。もちろん、県警側は改めてこの結論に大反発したが、何度も言うように被害者に槍を使った犯行ができない以上ジャージに血痕が付着するなどという事があり得ないのはもはや否定できない話であり、捜査陣でないなら一体誰が何の目的で加藤氏のジャージに血痕を付着させる事ができるのかという事になる。そして、県警側はそれを指摘する事ができなかったのだ(加藤氏を真犯人として逮捕し裁判にかけている以上、警察側が「真犯人が加藤氏に罪を着せるために血痕を付着させたのかもしれない」などと加藤氏が無罪であるかのような発言は口が裂けても言う事ができないため)。さらに、弁護側はこの一連の流れを見て機が熟したと判断したのか、改めて弁護側が用意した学者による問題のジャージの血液の再鑑定を裁判所に申請するという乾坤一擲の策に打って出た。検察側は猛反発をしたが、これだけの数々の疑惑が出てしまえば裁判所としても事実関係をはっきりさせた方がいいと判断したらしく、検察側の異議を却下してジャージの再鑑定の実施を許可。その鑑定の結果、問題の血痕のDNAが被害者の涼宮玲音のものと同一であるという点は間違いないと改めて認定されたものの、同時にとんでもない事実が白日の下にさらされる事となってしまった。何と、問題の血痕の一部から、微量ではあるが「クエン酸ナトリウム」の痕跡が検出されたのである。
クエン酸ナトリウムとは抗凝血剤の成分として知られる代物である。血液は体外へ飛び出すとすぐに凝固してしまうため、輸血などでは血液の凝固を防ぐために抗凝血剤を混ぜる事が多い。つまり、このジャージにかけられた血液は、抗凝血剤によって凝固を阻止する処置がなされた血液である事が明るみになってしまったのである。当然ながら、体内から直接噴き出た血液に抗凝血剤が含まれているわけがない。含まれているとしたら、被害者から採取した血液を凝固しないようにした上で、犯行後しばらく経ってからジャージに振りかけられたという場合だけである。つまり、このクエン酸ナトリウムの検出という事実は、ジャージの血痕が犯行後に何者かの手によって振りかけられたという決定的すぎる証拠になってしまったのである。
当然、県警は必死に捏造の事実を否定した。しかし、クエン酸ナトリウムが血痕から検出されたというのは動かぬ事実であり、仮に本当に警察が捏造していなかったとしても、それならそれでなぜ警察側の検査でクエン酸ナトリウムが検出されなかったのかという事になり、それはそれで深刻な捜査ミスか証拠の隠蔽が行われた事を意味する事になってしまうのである。その後もこのジャージをめぐって激しい論争が行われ、最終的に、誰が実際にこの捏造を行ったのかという点までは証明する事はできなかったものの、このジャージの血痕が加藤氏を犯人にでっちあげるために捏造されたものであるという事は裁判所も事実上認める形となった。その結果、決定的な証拠だったはずのジャージの公判における証拠採用は却下される事となり、検察側にとっては大きな打撃となってしまったのである。
以上により、加藤氏にはどのようにしても犯行が不可能だった事が白日の下にさらされた結果、裁判の状況は一気に被告人有利へと覆り、激しい裁判の末、第一審の岐阜地裁は加藤氏に対して無罪判決を下す事になった。それでもこの判決に反発する警察や村側の後押しを受けた検察は加藤氏の有罪を訴え続けて控訴や上告を繰り返したが、二審の名古屋高裁も判決は無罪。三審の最高裁も弁護側が暴いた加藤氏が物理的に犯行不可能であったという点を重視し、事件から約四年が経過した二〇〇三年の五月十五日、加藤氏に対する完全無罪判決が最高裁でも下され、最高裁判事が謝罪するという事態に発展した。ここに、加藤柳太郎の無実が公に認められる事になったのである。特に曖昧な証言と捏造された証拠で逮捕に踏み切った岐阜県警に対しては最高裁も判決文の中でかなり強い表現で批判をしており、国民からの批判にさらされた県警上層部が謝罪。実際に捜査を行った県警刑事部の猪熊警部は責任を取って自主退職という名前の解雇処分を受ける事となってしまった。後に加藤氏には、憲法に基づき拘束された日時に基づいて刑事補償金が支払われる事になっている。
さらに言えば、この事態に青くなったのは村人である。加藤氏を犯人とし、捜査の際に徹底的に不利になるような証言をした上で、村八分までして家族を追い出した結果が「完全無罪」である。そして、判決確定の数日後、今度は加藤氏の方が村の人間を名誉棄損及び民事での損害賠償請求で訴えるという逆襲に転じたのである。
加藤氏の反撃に対し、村人たちは一致団結して激しく抵抗した。すでに裁判で加藤氏の無罪は疑いのないものとされていたが、真犯人が逮捕されていない以上村人の中で加藤氏の容疑が完全に晴れたわけではなく、ゆえに自分たちが警察や検察の誘導で加藤氏を犯人と信じてあのような証言をしてしまったのは仕方がない事であり、むしろ自分たちをそう誘導した警察や検察にこそ責任があるという反論を展開したのだ。こうして両者は真っ向から法廷でぶつかり合い、肝心の真犯人の正体が一向にわからないまま、月日だけが流れていく事になったのである。