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蝉鳴村殺人事件  作者: 奥田光治
第一部 訪村編
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『葛原論文』 蝉鳴村概要

  蝉鳴村概要

 さて、一連の事件を検証するにあたっては、まず舞台となった岐阜県高山市蝉鳴村に関する独特の歴史や風習について述べるのが妥当であると判断されよう。ゆえに本論文では、事件について語る前にこの特異な村に関する概要を解説しておきたいと思う。

 事件の舞台となった岐阜県高山市蝉鳴村ぎふけんたかやましせみなきむらは人口二百人~三百人程度の小さな山村である。立地的には世界遺産で有名な白川の合掌造り集落からそう遠くない場所にあるが、白山連峰や飛騨山脈などの山々に阻まれた両者の文化交流はほぼ無きに等しく、村内にも合掌造り建築の建造物は確認できない。今のところは独立した自治体であるが、自治体としての過疎化及び財政難ゆえに二〇〇五年の二月に近隣の大野郡の村と共に隣接する高山市と合併する事がすでに決定しており、将来は高山市内の一地域になる予定である。が、地域名としては「蝉鳴村」の名を使い続ける予定となっており、高山市の影響下にありながら他の地域とは大きく隔絶された状況下にあると言ってもいいだろう。

 この村の名前が歴史上初めて登場するのは室町時代頃の話であり、記録によれば当時この周囲を治めていた守護大名の土岐康行ときやすゆきが室町幕府三代将軍・足利義満あしかがよしみつの軍勢に攻められた際に、土壇場で土岐氏を裏切った家臣(記録の上では「瀬見何某」と書かれている)がこの地に落ちぶれて土俗化し、ともに落ちぶれた領民らと共に集落を作ったのが始まりとされている(歴史的には「土岐康行の乱」と呼ばれる事件である)。この集落の中心のやや北を西から東に流れる川はこの落ちぶれた家臣の名字から「瀬見川せみかわ」と名付けられ、ここから当初この村は「瀬見川村せみかわむら」と呼ばれていた事が記録の上からはうかがい知る事が可能である。

 では、村の名前が現在の「蝉鳴村せみなきむら」になったのはいつ頃の事なのであろうか。それを知るためにはさらに資料を精査する必要があるが、歴史学的な史料の上でこの次にかの村が登場するのは、時代が下って戦国時代になって以降の話である。

 戦国時代になるとこの村の周辺は、当時白川郷一帯を支配していた帰雲城城主・内ヶ島氏理うちがしまうじさとが治める領土に隣接する事となった。この内ヶ島氏(または白川氏)という大名は元々足利義政あしかがよしまさの時代に金山開発を目的にこの近辺に入封された小領主であり、戦国時代当時は当主の内ヶ島氏理が周辺の鉱山を独占してその経営で財を成し、複数の支城を持つ戦国大名へと成長していた。が、世が本能寺の変を経て豊臣秀吉とよとみひでよしの時代になっていくと単独での統治が難しくなり、越中の戦国大名だった佐々成政さっさなりまさに従属。しかしその佐々成政が賤ヶ岳の戦いや小牧長久手の戦いで秀吉と敵対したため、内ヶ島氏も後に飛騨高山藩初代藩主となる金森長近かねもりながちかの侵攻を受ける事になり、所詮は小大名に過ぎなかった内ヶ島氏理はこれにあっさり敗北して降伏する事になった。ここに来て内ヶ島氏は取り潰しの危機を迎えたわけであるが、内ヶ島氏理は秀吉が鉱山経営の技術を評価しているところに目をつけ、その経営技術をアピールする事でお家を存続させようという案を思いついた。そして、そのためには現時点で所有している鉱山の数のみでは不足であり、より多くの鉱山経営を可能にしているという実績を秀吉に見せつけるために、氏理は密かに領土周辺の鉱山の奪取をもくろむようになったのである。そして、このときその標的と化したのが、この瀬見川村だった。

 記録によれば、この当時瀬見川村は先に登場した瀬見何某の子孫である瀬見武親せみたけちかという小領主が村の長を務め、周辺大名とうまくやり取りをする事で村を守っている状態だったという。当時の瀬見川村にはわずかながらにも金の鉱脈があり、瀬見武親はこの鉱脈を背景に大名との取引をしていたのだが、皮肉にもこの鉱脈が所有鉱山の数を水増ししようと画策する内ヶ島氏という大名を引き寄せる結果となった。氏理は武親に対し瀬見川村の金鉱を譲るように持ちかけてくるが、村を守ろうとする武親はこれを認めず、結果的に瀬見川村は内ヶ島氏理による侵攻を受ける事となった。この侵攻は苛烈を極め、瀬見武親をはじめとする村の武家衆はほぼ皆殺しとなり、瀬見川村は侵攻からわずか三日にして内ヶ島一派により制圧される事となってしまったのである。村は内ヶ島一派により蹂躙され、男は殺され女は連れ去られ、生き残ったのは村の北の高台にあった「瀬見川神社」という神社に逃れた神主の油山芳洲あぶらやまほうしゅう以下わずかな村人のみだったという。

 結局、瀬見川村から奪い取った金鉱が結果的には決定打となり、内ヶ島氏はその鉱山経営の手腕を買われてほとんど罰らしい罰を受ける事無く秀吉からその所領を安堵された。しかし、沸き立つ内ヶ島氏に対し侵略された瀬見川村の生き残った村人たちの怒りは凄まじいものだった。彼らは村で唯一無事だった神社に籠り、神主の油山芳洲と共に連日内ヶ島氏への呪いを密かに念じ続けた。日中夜問わず行われたその呪詛であったが、呪詛開始から七日目になってそれは起こったのだという。

 その日の夜、いつもの通り村人たちが社の中で呪詛を行っていると、不意に境内にある御神木の辺りが騒がしくなった。何事かと思い彼らが呪詛を中断して外に出てみると、もう十一月も終わりになる季節だったというのに地中から大量の蝉の幼虫がはい出て、呆気にとられている村人たちの前で次々と羽化するや、御神木で季節外れの蝉の大合唱を繰り広げたという。もうすぐ冬になろうかという奥飛騨の寒村に暗闇の中響き渡る蝉の声はもはや不気味の一言では片づけられるものではなく、村民たちがその異常すぎる光景に震え上がっていると、一刻ほどしたところで蝉たちは急に一斉に鳴きやみ、そのまま御神木からぼとぼとと落ちて皆死んでしまったという。後には不気味な静けさと、境内に散乱する一万はいようかという蝉の死骸、それに御神木を埋め尽くす大量の蝉の抜け殻……空蝉うつせみだけが残されていたという。

 呪詛を主導していた油山神主であったが、さすがにこの天変地異は予想だにしなかった事であり、彼は村人を説得してしばしの間呪詛をやめて静観する事を決断した。目の前の光景にすっかり怖気づいていた村人たちも同意し、それから数日彼らは息をひそめるように何かが起こるのを待った。

 そして、瀬見川村における蝉の不気味な大量死から四日後。それは起こった。一五八五年十一月二十九日の深夜。現在の地震規模でマグニチュード8.0を超える大地震が美濃の国を震源地にして中央日本を襲ったのである。歴史上で言う、いわゆる天正大地震である。地震は日本全土に壊滅的な被害を与え、近江では秀吉の最初の居城であった長浜城が全壊し、当時の城主だった山内一豊やまうちかずとよの娘が死亡。琵琶湖では津波が発生し、長浜の街そのものが液状化で水没したとされている。その他、大垣城、長島城など中央日本の主要な城が全壊の被害を受け、越中では木舟城の全壊により城主だった前田利家の弟夫婦が死亡するという惨事になっている。それはまるで、天下統一を目前にした豊臣政権に対する神の怒りのようだったとも記録には伝わっている。

 そして、この天正大地震で最大の被害を受けたのが、他ならぬ震源地付近の大名だった、帰雲城の内ヶ島氏理だった。この地震の直前、氏理は領土安堵を祝うための祝賀会を帰雲城で開こうとしており、一族郎党や家臣・領民一同を帰雲城城下に集めていた。ところがその祝賀会の前日深夜に発生したこの地震により帰雲城の背後にあった帰雲山が山体崩落を起こし、発生した巨大な土石流がその下にあった帰雲城及び三〇〇件ほどの家があった城下町を一瞬のうちに飲み込んだのである。これにより内ヶ島氏理はもちろんその一族郎党、さらには城下町の家臣や領民はことごとく死に絶え、戦国大名・内ヶ島氏はたった一晩のうちに文字通り跡形もなく滅亡するという運命をたどったのである。

 これに戦慄したのは、当の瀬見川村の村人たちであった。瀬見川村もかなりの揺れを体験したが幸い土砂崩れなどはなく、瀬見川村の村人たちはこの地震においては誰一人死者を出す事がなかった。むしろ、金脈の監視のために残っていた内ヶ島氏の武士たちが、当の金鉱の崩壊に巻き込まれて全滅するという始末である。この結果を受け、村人たちは自分たちの内ヶ島氏に対する呪詛が成功した事を悟り、あの不気味な蝉の大合唱はその前触れとして邪神が村人たちにその事実を伝えたと解釈するようになった。かくしてこの村は以降も飛騨高山藩主・金森家の領土として江戸時代を生き延びる事となるが、その頃から開祖である瀬見一族が先の内ヶ島氏との戦いで滅亡した事もあって、村の名前が「瀬見川村」から別のものへと変わる事となった。

 その名前こそが現在の村の名前である「蝉鳴村せみなきむら」である。表の意味はそのままに「蝉が鳴く村」で、蝉によって村が救われた事から蝉を守り神として祀り、村に災いが起きたときに蝉が鳴いて知らせてくれるという意味でつけられた名前である。本来ならばここに突っ込む余地はない。

 しかし、実はこの名前は表の名前であり、村人たちの中ではこの名前と同時に読み名は同じでも漢字の違う裏の名前……簡単に言えば「忌み名」も伝えられていたという事が伝承にはうかがえる。この忌み名を知るのにかなりの労力を費やしたが、神主一族である油山家に残る文書から私はついにこの忌み名を知る事ができた。そして、その忌み名の存在が、この村の本質を指し示すある事に気付いたのである。

 「蝉亡村せみなきむら」。これが村に伝わるもう一つの忌み名である。御察しの通り、これは問題の伝承の際に蝉たちが一斉に死に、その直後に呪詛の対象だった内ヶ島氏までもが滅亡した事を暗喩する名であり、蝉が鳴くときその命と引き換えに村の敵が滅ぶという言葉かけにもなっているらしい。そして、実際に問題の瀬見川神社……現代では「蝉鳴神社」と名を変えているが……には、この二つの名前になぞらえたある口伝が伝わっているという。

 すなわち、『災い鳴く時 蝉が鳴く 蝉が亡く時 災い亡く』と。

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