第三十七章 そして……
二〇〇七年四月二日月曜日、榊原は久方ぶりに品川の裏町にある自身の事務所で一日を過ごしていた。一連の事件を振り返ってみると、過去も含めて今回榊原が解決した事件の数は全部で五つ。殺害された被害者も相当数にも及び、これだけ見ても前代未聞の大事件だったのは間違いない。それだけに、収集した資料や整理すべき記録は膨大なものとなっており、榊原もその処理に追われているところだった。
と、そこへノックがして、榊原の返事を待つことなく亜由美が事務所の中に入ってきた。先日までの制服姿と違ってパリッとしたスーツ姿であり、あれから少ししか経っていないのに大人っぽく見えた。
「あぁ、今日が入学式だったんだね」
「はい。入って早々大事件でしたけど、改めてよろしくお願いします」
そう言って、亜由美は頭を下げた。
「こちらこそ、よろしく頼むよ。さすがにもう、現場に出てもらうような事はないと思うが」
「そうですね。私も改めて現場よりもバックアップの方が向いていると思いました」
「実際、それでも充分に助かる。整理しきれていない資料が多くてね。それを整理してくれるだけでも御の字だ」
そう言って榊原は立ち上がる。
「ひとまず、学業の方を優先してくれて構わない。来られる時に来てくれたらいいから少しずつでも資料整理をしてほしい。具体的なやり方は追って指示する」
「わかりました。これからお世話になります」
……その後、これから亜由美にしてもらう仕事の引継ぎや確認事項の伝達、雇用に関わる書類の説明などが行われ、それだけで一時間ほどが経過した。一通りの事務処理が終わるとひとまず今日はこのまま帰ってもらう事となり、残りは後日出勤した際に決める事となった。
……それから数時間後の事である。榊原は事務所のデスクで引き続き今回の事件の記録をまとめていた。と、そこへ突然ドアをノックする音が聞こえた。
「……アポはないはずだが」
というより、あれだけの大事件を解決した直後である。事後処理などもあるため、しばらく依頼は受け付けないつもりでいた。だが、ノックの主は懲りる事なくドアを叩き続ける。
「どうぞ」
このままでは埒が明かないため、やむなく榊原はそう声をかけた。するとドアが開き、薄汚れたコートを着た初老の男が姿を見せる。
「よう、榊原。久しぶりだな」
その男の姿を見て、榊原は少し驚いた声でその男に声をかけた。
「もしかして……神崎さん、ですか」
「あぁ。岐阜では随分ご活躍だったみたいじゃねぇか。話は聞いたが、とんでもない事件だったみたいだな」
「いえ……。それより、神崎さんは今何を?」
「この間まで富山県警にいた。もっとも、昨日付で定年になって、警察は辞めたがな」
「それは……お疲れ様です」
榊原は立ち上がってその男に頭を下げた。
この男……本名を神崎十三というが、彼はかつて警視庁の刑事だった男で、榊原が警視庁を辞めたのと同時期に特例により他県警へ異動していた。事実上の左遷に近い処置であったが、その理由は榊原が警察を辞めるきっかけになったあの事件……いわゆる『政治家連続殺人事件』にある事はほぼ間違いなかった。そういう意味では、警察を辞めたかどうかの違いこそあれ、榊原とは似たような境遇であった。
「それで、今日は一体?」
「あぁ、そうだな。別に俺の近況報告に来たわけじゃねぇ。実はさっきも言ったように県警を退職する事になったんだが、一つやり残した事件ができちまってな。まぁ、未練ってやつだ。で……それを解決するのに、お前の力を借りたい。岐阜のあの大事件を解決したお前なら、充分に信用できる」
「……そこまでの事件ですか」
「あぁ、一見すると単純に見えるし、県警は事故と判断している。だが、俺はそうは思わねぇ。この事件、想像以上に深い何かがあると俺は見ている」
「……」
「どうだ? 前の事件の後始末で大変だろうから無理にとは言わねぇが」
「……ひとまず、話を聞かせてください。受けるかどうかはそれからです」
榊原は慎重にそう言ったが、頭のどこかで、神崎の言うその事件の調査を受ける事になるだろうと思っていた。そして、これも根拠はなかったが、この決断が何か大きな変化を招く事になる……そんな感じがしていた。
「……いいだろう。まずその話をしようか」
そう前置きして、神崎は話し始める。
「東京の大崎駅近くに立山高校という都立高校があるのは知っているか?」
「えぇ、まぁ。あくまで、そんな高校があるという事だけですが」
「実はつい先週、そこの高校の生徒の一人が黒部ダムに浮かんで亡くなったんだが……」
……これが、後に蝉鳴村殺人事件と同様に犯罪史にその名を残し、そして真の探偵・榊原恵一が助手・深町瑞穂と出会うきっかけとなった『立山高校同時多発殺人事件』の始まりとなったのだが……
それは、また別の話である。