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蝉鳴村殺人事件  作者: 奥田光治
第四部 決戦編
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第三十六章 密会

 二〇〇七年三月二十一日午後六時。警察庁を主軸とする一都四県警と名古屋地検特捜部による合同捜査本部は、十年前の『鳩野観光夜行バス失踪事件』における不特定多数に対する殺人容疑で愛知県知事・岡是康を逮捕した事を正式に公表。現職知事……それも日本の経済を支える愛知県知事の逮捕にマスコミは上を下への大騒ぎとなった。しかも、翌日改めて棚橋警察庁長官が行った発表で、本事件がシリアルストーカー事件に続く『警察庁広域手配126号事件』に指定されたと発表された事、さらにこの事件が過去に発生したいくつもの大事件……すなわち、『涼宮事件』、『関ヶ原事件』、『日沖事件』、『イキノコリ事件』、そして今回の『蝉鳴村事件』との遠因になった可能性がある事まで判明し、マスコミ報道は過去に例を見ないほどの過熱ぶりとなった。

 当然ながら、愛知県議会は逮捕から数日後に本人不在のまま岡知事の不信任決議を可決し、期限の十日以内に岡知事が判断を明言しなかったためその時点で失職が成立。これにより岡是康は知事の座を正式に追われる事となり、近日中に後継を決める知事選が行われる見通しである。元より岡が七月に行われる参院選に出馬するという噂があった事もあって立候補者の候補はある程度出揃っている状況ではあったが、それでも急な選挙の前倒しに、政府も含めた各関係各所には混乱が発生しているらしい。とはいえ、そうした政治ゲームは事件とはまた別の話であり、警察や検察などにとっては関係のない事だった。

 


 二〇〇七年三月二十二日木曜日、東京都内某所。私立探偵・榊原恵一は、その一角にある寂れた居酒屋のカウンター席で一人飲んでいた。今度こそ蝉鳴村に関わる全ての事件は解決し、すでに榊原の仕事は終わった。後の事を警察に託し、榊原は一足早く帰京していたのである。

 ただ、目的もなく飲んでいたわけではない。飲んでいるのもノンアルコールビールであり、それはすなわち榊原にとってこれは「仕事」の一環である事の証明でもあった。

 それからしばらくして店の扉が開き、コートを着たスーツ姿の老人がゆっくりと店内に入ってきた。店内に客は榊原一人。男は迷うことなく榊原の隣に腰かける。そして、何か心得ているのか店主は新たなその客の前に料理と酒を出すと、そのまま奥へ引っ込んでしまった。

「……わざわざ来てもらってすみませんね、榊原君」

「急な呼び出しで驚きました。何のつもりですか?」

 榊原は男の方を見る事なく正面を見ながら返答する。傍から見ると、とても友好的な会話には見えなかった。

「辛辣ですね」

「私はともかく、あなたはもう少し立場を理解された方がいい。天下の法務大臣閣下がこんな寂れた居酒屋に護衛なしでいるなんてわかったら、それこそ大騒ぎになりますよ」

 榊原のその言葉に相手の男……元警察庁長官でもある日本国法務大臣・厳島蔵ノ介は穏やかに笑った。

「ここは私の昔からの行きつけです。極秘の会談があるときは今でもよく使わせてもらっています。それに、店の周りには護衛が張り付いていますので心配は無用です」

「……そうですか」

 榊原は小さく息をついて先を促した。

「それで、ご用件は?」

「……まずは、君に謝罪を。今回は迷惑をかけて申し訳ありませんね」

「どういう謝罪ですか?」

「いえ、私が葛原光明の死刑執行書にサインしたせいで、ここまでの大事になってしまったようですのでね。おかげで君を巻き込む事になってしまいました」

 その言葉に、榊原は深いため息をつくだけだった。

「別に気にしていませんよ。あなたと同じく、私はただ仕事をしただけですから」

「そう言うと思って、私もこうして会うつもりはなかったのですがね。棚橋君からそういう事は直接言えと言われたもので、それを実行しただけです」

「……そうですか」

 榊原としてはそう言う他なかった。

「いずれにせよ、今の段階で全てが明らかになったのは不幸中の幸いです。もし、岡知事……いや、岡元知事が党公認で参院選に立候補した後でこの事実が明らかになっていたら、政府は致命的なダメージを受けていたところでした。もちろん、今の状況でも全くのノーダメージとは言いませんが、最悪の事態は避ける事ができました。青倉国家公安委員長も安堵しています」

「……」

「それに、このままいけば政府が後押しする候補者が次の知事選で当選するでしょう。与党と繋がりの深い知事が愛知を押さえるだけでも政府としては充分です」

「……生憎、私はそういう政治ゲームは嫌いでしてね」

「でしょうね。『政治家事件』を経験している君が、政治家によいイメージを持つはずがありませんからね。違いますか?」

「……私は、人を肩書で見るつもりはありません。政治家でも信用できる人間なら、別に嫌いになったりはしませんよ」

「そうですか。一つ勉強になりました」

 厳島はあくまで表面上は穏やかに言いつつ、さりげない口調でこう続けた。

「ところで……岡元知事は何か言っていましたか?」

「何か、とは?」

「もちろん、『政治家事件』について、です。当然、聞いたのでしょう? 一応、あの時の関係者の一人として、私としても彼の言葉には興味がありますのでね」

 榊原はしばし沈黙する。が、少しして首を振った。

「何も知らない、という事です。私の感触ではありますが、この期に及んで嘘は言っていないと思います」

「……そうですか」

 今度は厳島がそのセリフを言った。榊原はさらに続ける。

「もっとも、杉原殺しについては当時からシロ扱いされていた人物です。ある程度予想できた返事ではありますがね」

 だが、そんな榊原に対して厳島はこう言った。

「今回、岡元知事が逮捕された事に伴い、愛知県警と名古屋地検特捜部は名古屋市内にある岡元知事の自宅及び事務所、さらには愛知県庁に対する家宅捜索に踏み切り、関係資料を押収したそうです。今、書類を精査しているところですが……そこから何か出てくる可能性がゼロとは言い切れないのも事実です」

「……」

「これでも一応法務大臣ですのでね。今のうちの事務次官は随分おとなしい人間ですので、大臣命令で検察を通じてそれらの資料を提出させる事はできます。そこから何か見つかったら君に知らせても構いませんが、どうでしょうか?」

 通常、霞ヶ関の各省庁では大臣よりも官僚トップの事務次官の権力の方が強くなる事が多いのだが、現在の法務省では元警察庁長官で日本の司法・治安分野の表も裏も知り尽くしている百戦錬磨の厳島の方が権力基盤や発言力が強く、法務省事務次官が肩身の狭い思いをするという歪な状況になっているというのが、政界関係者の間のもっぱらの評判だった。どうやら、その噂は正しいようである。

「私に何を求めるつもりですか?」

 榊原の静かな問いかけに、厳島は肩をすくめた。

「別に。ただ、当時警察庁長官だった私にとってもあれは忘れられない事件ですからね。解決できそうなら、それに越した事はありません」

「……」

「それに、君の事ですから、私が何も言わずとも調べ続けるのでしょう。だから、私は何も君には求めません。君の好きにすればいい。私はただ、それを応援するだけです」

「……お話がそれだけなら、これで失礼します。私も忙しいので」

 榊原はそう言って立ち上がった。話は終わりという事らしい。何しろ相手は、榊原をもってしても『完全敗北』という結末で終わった事件だ。一筋縄でいかない事は榊原自身がよくわかっているだろうし、多少情報が出たところで今すぐに簡単に解決できるような事件でない事も確実だろう。もしかしたら、どれだけ調べても永遠に解決できない危険性さえある。何度も言うが、これはそういう類の事件なのである。

 だが、それでもこの男が諦めるという事はないのだろう。厳島はそれをよくわかっている。だから、榊原を止めるような事はしなかった。

「機会があれば、また一緒に飲みましょう。今度は、いい知らせを聞けることを期待していますよ」

「……」

 榊原は無言で店を出ていく。残された厳島は苦笑しつつも、杯を傾けながら何かを考えていたのだった。

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― 新着の感想 ―
バタフライエフェクトとか風が吹けば桶屋とか言うが、この犯人が事件起こさなけりゃホントかなりの事件が起きなかったと思うとやりきれんな。
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