第三十五章 最終頂上決戦
榊原の告発を受け、元凶……岡是康は見るものすべてを委縮させるような鋭く冷たい視線を榊原に向け、地獄の底から響くような低くてどす黒い声を発した。
「……私が犯人、かね」
その言葉に室内にいる誰もが一瞬ひるむ中、榊原だけは一切動じる事無く真正面からそれを受け止めた。
「不服ですか?」
「当たり前だ。一応聞いておくが……君は全七百万人の愛知県民に選ばれた県知事であるこの私に対してこんな無礼極まりない言い掛かりをつけて、ただで済むと思っているのかね?」
さすがに凄みのある岡の反論に、だがしかし榊原は即座に切り返す。
「ただで済むとは思いませんよ。愛知県知事が殺人罪……それも大量殺人容疑で逮捕となれば、確実に日本の歴史の一つや二つはひっくり返るでしょうからね」
「戯言を。私からすれば、それこそこんな歴史に残るような言い掛かりをつけた君こそ、ただでは済まないと思うわけだがね。それは私だけではなく、私を選んだ全愛知県民に対する挑戦であり、彼ら全員を敵に回す行為だよ。それをわかっているのかと聞いているのだがね」
「……」
「とはいえ、私は寛大だ。今ならまだ冗談として許せるが、その無礼な言い掛かりを引っ込める気はあるかね?」
両者の視線が激しくぶつかり、榊原ははっきりと宣告する。
「私は冗談が嫌いですし、一度した告発を引っ込めるつもりもありませんよ。私も探偵として、それなりの覚悟を持ってこの告発をしているつもりですからね。むしろ、生半可な覚悟でこんな重大な告発をするようでは、その人物は探偵失格だと私は思いますが」
「……」
「御託は結構。もはや事がここに至った以上、民意だの権力だのを盾にした脅しでどうこうできるような段階ではなくなっているのに気付かれた方がいい。この先の結末は二つに一つ。私とあなた……今から始まる『論理勝負』で負けた方が、文字通り身の破滅となるわけです。話は非常に単純でわかりやすい。もっとも……私は負けるつもりなどありませんが」
「……おもしろい。やれるものなら、やってみるがいい。無論、最後に勝つのは私だがね」
「その言葉、そっくりそのままお返ししますよ。あなたも政治家である以上、口はうまいのでしょうが、本職の探偵相手に『論理』で勝てると思わない事です」
岡は眉間にしわを寄せて目を細め、榊原は堂々とその視線をはねのける。かくして、最後の戦いの火蓋が切って落とされた。比喩でも何でもなく、それぞれの『命』を賭した『論理の死闘』の幕が、今、開く。
「まず、今までの話を一度まとめましょう。岡是康知事、あなたは名古屋市長だった十年前、松尾貫之助氏が主宰していた政治塾に参加するために松尾邸を訪れた際に、彼の息子の松尾貫太郎氏の荷物に時限式の爆弾を仕掛けた。狙いは貫太郎氏本人ではなく、彼が秘書をしていた当時の外務大臣・秋田玄志郎氏。貫太郎氏は帰京後、硫黄島で行われる式典に参加するため、問題の荷物を持ったまま秋田大臣と共にヘリに搭乗する予定でした。本来なら問題の荷物はヘリが太平洋上空を飛行している時に爆発するはずで、秋田大臣はヘリごと太平洋の藻屑となる所でした。しかし、実際はそこまで事はうまく運ばなかった。東京に向かうため松尾貫太郎が乗った夜行バスが別件の事件で人知れず乗っ取られてしまい、予定通り東京に到着できなくなってしまったからです。その結果、爆破予定時刻になって爆弾は走行中の夜行バスで爆発してしまい、その結果バスは駿河湾に落下して、大竹たちが殺害した運転手を除く十三名もの人間の命を奪う事になってしまいました。以上が、今回の告発で私があなたにかけている容疑であるわけです。ご理解頂けましたか? ここでそれを認めて頂けるのであれば、私としては話が楽で助かるのですがね」
そう言いつつも、榊原は岡が素直に罪を認めるなどとは全く思っていない。これはあくまで岡という『怪物』に対する一種の牽制であり、案の定、すかさず岡が反論を加えた。
「待ちたまえ。色々好き勝手ありもしない事を並べ立てているところ悪いが、そもそも論理の出発地点の時点でおかしい事を、君はこのまま無視するつもりなのかね?」
「どういう意味でしょうか?」
「言うまでもなく、私には秋田先生を殺害する動機など一切存在しないという事実だ。調べてもらえればわかるが、あの事件が起きた時、私と秋田先生の間には何のつながりもなく、出会った事さえなかった。私は一地方自治体の首長で、向こうは現職の外務大臣。従って、政治上のライバルだったわけでもない。そんな人間が、ばれれば政治生命どころか死刑になるリスクまで犯して秋田先生を爆殺しようとするなんて、あり得ないとは思わないのかね?」
挑むような岡の言葉に対し、しかし榊原は涼しい顔で応じた。
「そうですね、まずはそこからはっきりさせる事にしましょうか」
「何?」
「確かに岡知事、今おっしゃられたように、あなたには秋田玄志郎氏を殺害する直接的な動機は存在しない。それについて否定するつもりは私にもありません。ですが……その代わりに杉原宗佑を排除する動機は確実に存在したはずです」
その名前を聞いた瞬間、岡はわずかではあるが顔をしかめた。
「杉原……宗佑……」
「この名前を知らないとは言わせませんよ。一九九八年に行われ、あなたも出馬した愛知県知事選挙に出馬予定だった参議院議員……あなたの対立候補になるはずだった人物ですからね。そして当時の世論調査では、あなたと杉原氏の支持率はほぼ横一線に並んでおり、どちらが当選してもおかしくない状況だった。いや、むしろ政権の後押しがある杉原氏の方が有利だった可能性さえあります。つまり、知事当選を狙うあなたにとって、対立候補だった杉原宗佑は邪魔者以外の何者でもなかったはずなのです。これは立派な殺人の動機になるとは思いませんか?」
が、ここまでの話を聞いて、岡は低く笑いながら反論する。
「盛り上がっているところ悪いが、君も随分おかしな事を言う。確か君は、私が秋田先生を殺害しようとしたという告発をして、その動機を証明すると言ったはずだ。にもかかわらず、なぜ杉原宗佑に対する動機を証明しようとしている? 全くの的外れだとは思わないのかね?」
だが、榊原は全く動じる事無く反論する。
「いえ、私は的外れの話をしているつもりはありません。あなたは杉原宗佑を排除しようとした。それこそが、あなたが秋田玄志郎を殺害しようとする動機に直結しているのです」
「……言っている意味がわからないのだがね。わかりやすく説明してもらえると助かる」
挑むような岡の言葉を、榊原は真正面から突破しにかかった。
「ポイントは、あなたの目標はあくまで『杉原宗佑の知事選への出馬を止める事』であって、『杉原宗佑を殺害する事』ではない事です。逆に言えば、杉原氏が知事選に出馬さえしなければ、あなたが別に無理をして杉原氏を殺害する必要性は一切ない。そこで問題になるのが、杉原氏がなぜ国会議員の座を捨ててまで知事選に立候補しようとしたのかという理由です」
「……戯言にしてはおもしろい。よかろう、続けたまえ」
岡は試すような視線を榊原に向けて先を促す。榊原は軽く一礼しつつ、容赦なく自身の推理を続けた。
「そもそも、あの時杉原宗佑が愛知県知事選挙に出馬する意向を示したのは、彼が所属していた派閥の長である秋田玄志郎氏の思惑が大きかったというのが当時の政治情勢を知る人間の共通認識だったと聞いています。三大都市圏の一角であり、日本最大の工業地帯を抱える経済王国・愛知における地盤を固めたかった秋田玄志郎が、腹心の杉原氏を知事として送り込もうとした……それがその時の構図だったというわけですね。つまり、杉原宗佑が知事選に立候補したのは、本人が絶対に知事になりたかったからと言うより、将来の出世のために秋田玄志郎の思惑に乗ったに過ぎないという側面が強かった事になるのです」
そこで榊原は一際声を張り上げる。
「しかし、ここで仮に秋田玄志郎が死亡したとなると、杉原宗佑がわざわざ知事選に出馬する理由がなくなる事になります。なぜなら秋田氏が死亡した場合、自動的に彼が就任していた外務大臣のポストが空く事になりますから、秋田氏の右腕で官房副長官として政権中枢とのつながりもあり、おそらく秋田氏の後継者として派閥の長になるであろう杉原氏はその後の人事異動で閣僚に昇進する可能性がかなり高くなるからです。そして、もし杉原氏が閣僚になったとすれば、知事選への出馬は確実に白紙になるでしょう。なぜなら知事と閣僚では、こう言っては何ですが杉原氏からしてみれば閣僚への出世の方が将来的な事を考えると価値があるはずだからです。つまり、あなたは杉原氏を直接殺害するのではなく、杉原氏と関係が深い秋田氏を殺害して閣僚ポストを空け、杉原氏を意図的に出世させる事で知事選に立候補させないようにするというのが、この計画の真の目的だったというわけです」
「……」
「この計画の最大のポイントは、岡是康には杉原宗佑を殺害する直接的な動機はありますが、あなた自身が言ったように秋田玄志郎を殺害する直接的な動機は存在しないという事です。仮にあのタイミングで直接的に杉原宗佑が殺害された場合、知事選というわかりやすい動機のある対立候補の岡是康に疑いがかかってしまうのは自明です。実際、その一年後に本当に杉原氏が殺害された時、結果的にシロと判断されたとはいえ、警察は真っ先に知事選の関係者を調べていますからね。しかし、秋田玄志郎が殺害されたとしても、当然ながら直接的な動機がない岡是康には一切の疑いが発生しません。そうなれば、この計画が成功した場合、岡是康は自身が一切疑われる事なくライバルの杉原宗佑を知事選から撤退させる事が可能となるのです」
しかも、と岡が何かを反論する前に榊原は続けた。
「それどころか、その状況なら逆に明確なつながりがあって派閥や閣僚のポストというわかりやすい動機がある杉原宗佑の方が秋田氏殺害容疑で疑われる可能性さえあります。まぁ、実際に何もしていない以上シロと判断される公算は高いでしょうが、選挙直前のこのタイミングでは疑われるだけでも大ダメージですし、この場合でも杉原氏は知事選どころではなくなる可能性が高い。要するに、岡是康からしてみれば、どちらに転んでも直接手を下す事なく杉原氏を知事選から排除できるというわけですね。考えとしては非常にうまいと思います。ただ、そのためだけに全く関係のない人間……それも国の根幹を担う現職閣僚を殺害しよとする思考は理解できませんがね」
そこまで言って、榊原は一度声のトーンを下げた。
「ただ、実際の所は想定外のバス失踪事件のせいで犯行は不発に終わり、にもかかわらず肝心の杉原宗佑が知事選立候補直前に『政治家事件』で殺害されてしまった事で立候補自体がなくなり、他の泡沫候補の前で、岡是康は特に苦戦する事もなく知事の座に就く事ができました。結果から見ればこの一件は『やる必要性のない犯行』になってしまったわけで、それどころか、実の所は不発どころか無関係のバスの爆破という大量殺人をしでかしてしまっていたわけですがね。これだけはあなたにとって最大の誤算だったはずですが」
「……」
「さて、ここまでの話に対して何か感想はありますか?」
榊原の静かでありながらあからさまな挑発に対し、岡は余裕を持った表情で応じた。
「なるほど。話としては非常におもしろい。君の物語を作る才能だけは認めざるを得ないようだな」
「……」
「だが、所詮は君の作った『物語』に過ぎん。そんな動機など、こじつけようとでも思えばいくらでもこじつけられる。確かに私の動機も無理やり作る事はできるようだが、君も動機があるだけで私を犯人に仕立て上げられるなど思っていないはずだ。違うかね?」
「……もちろんです。話はここからですよ」
やはりこれだけで落とせるほど『知事』という壁は甘くはない。榊原は改めて岡に向き直り、この巨壁に挑みかかった。
「話を最初に戻しましょう。あなたは十年前、松尾貫太郎の荷物に時限式の爆弾を仕掛け、彼ごと秋田玄志郎を爆殺しようと画策した。元理工学部教授のあなたならば、爆発物の原料の入手や製造は充分可能だったはずです。まず、その点についてはいかがでしょうか? 調べればすぐにわかる話ですが」
「……実際にどのような爆薬が使われたかは知らんが、知識の面だけで言えば、確かにそれについては可能だったと認めよう。無論、本当にやってなどいないがね。知識を知っているだけで犯人扱いされるなど、たまった話ではない」
岡はあくまで冷静に応じる。この程度なら認めても問題ないと判断したようで、榊原としてもあくまでこれは確認という名のジャブに過ぎないようだった。
「結構です。さて、最初にご説明したように、あなたはあの日、爆弾を仕掛けた『ある物』を密かに松尾邸に持ち込んで屋敷内のどこかに隠してから座敷に姿を見せた。ちなみにこの時、あなたは一足早く屋敷の近くに到着した上で、三木橋知事がやってきたタイミング……つまり、初めて屋敷を訪れる三木橋知事を貫太郎氏が出迎えて屋敷内に案内した瞬間を見計らって屋敷の中に入ったはずです。当然ながら貫太郎氏が案内している状況では爆弾を隠すなどできませんから、貫太郎氏が三木橋知事を案内しているタイミングで屋敷を訪れる事で、あなたは爆弾を屋敷内に隠す時間的猶予を得る事ができたというわけです」
「ふん、大した想像力だ」
岡は吐き捨てるように言うが、榊原は気にせず先を進める。
「そして、政治塾が始まった後、あなたは時間を見計らってトイレ名目で座席から離席し、隠しておいた爆弾を回収した上で貫太郎氏の部屋へ向かい、そこに置かれていた荷物の中に爆弾を仕掛けた。映像によればあなたが離席したのは十分程度。それだけあれば爆弾を仕掛ける事は充分に可能のはずです」
と、ここでふいに岡が待ったをかけた。
「待ちたまえ。君はさっきから爆弾を仕掛けた『ある物』と言い続けているが、それは具体的に一体何なのだね? ここまで言い掛かりをつけておいて、この期に及んでわからないとは言わせんぞ。今この場で、はっきり答えてもらおうではないか」
岡の真っ向からの挑戦に、榊原は不敵な表情を浮かべながら応じる。
「それについてですが、犯人が貫太郎氏の荷物の中にある『何か』に偽造して爆弾を仕掛けたとした場合、それは当然『元々荷物の中に入っていた「何か」に直接仕掛けた』のではなく、『その「何か」とそっくり同じものを用意してその中に爆弾を仕掛け、松尾邸では荷物の中に入っていた本物と爆弾入りの偽物を入れ替えただけ』と考えるのが自然です。トイレ名目で離席した十分程度で荷物に爆弾を仕掛けなければならない以上、直接仕掛けるよりもその方が効率がいいですから。これについて何か反論はありますか?」
「……」
岡は何も答えない。それは榊原の理論に反論できないという事でもあり、榊原もそう解釈して次の推理に進んでいく。
「さて、そうなると犯人は、爆弾を仕掛けた『偽物』と入れ替えに元々荷物に入っていた『本物』を入手する事になりますが、当然ながらこの『本物』の処分に困る事になります。この『本物』は自分が所持しているのを誰にも見られるわけにはいきません。しかし、だからと言って屋敷から持ち出す事もできない。持ち出そうと思ったら、当たり前ながら座敷に持ち込む事ができないので再び屋敷のどこかに隠して帰りに回収するしか方法はありませんが、その帰りについては貫太郎氏が座敷から玄関まで見送りに来るので回収する機会がない。となると、残された唯一の手段は『貫太郎氏の部屋のどこかにそのまま隠す』しかなく、つまりその隠された『本物』が何なのかがわかれば、犯人が爆弾を仕掛けた物の正体もはっきりするというわけです」
「……」
「その『ある物』は、『本来貫太郎氏が荷物に入れて持っていかなければならないにもかかわらず、なぜか今も部屋に置きっぱなしになっている物』です。そして、警察があの部屋を調べて確認した物品の中に、それらしきものが一つ確認できました」
そして榊原はその『正体』を告げる。
「犯人が爆弾を仕掛けた『ある物』……それは彼が仕事で使っていたビデオカメラ、もしくはそのビデオカメラを収納していたケースの中です」
「……」
心なしか、岡の表情が一瞬引きつったように見えた。間髪入れずに榊原は推理を畳みかけていく。
「貫太郎氏の部屋の中にあった物品のリストを見た時点から、ずっと気になっていたんですよ。貫之助氏の話では、秋田玄志郎の秘書である貫太郎氏は秋田議員の広報なども担当していたようなのですが、だとするならば、そんな人間が間違いなく硫黄島での広報活動で使用するであろうビデオカメラを自室に置きっぱなしにして出かけるはずがありませんからね。犯人は貫太郎氏が使っているビデオカメラのケースと同じものを用意し、そこに爆弾を仕掛けて松尾邸に持ち込んだ。そして貫太郎氏が荷物の中に入れておいた『本物』のビデオカメラのケースと入れ替え、『本物』の方はそのまま部屋の中に隠したのです。物がビデオカメラですから、硫黄島に到着するまでケースが開封される心配もほとんどない。隠し場所としては最適と言ってもいいでしょう」
「ふざけるな! その妄想が正しいという証拠はない!」
岡は低い声で鋭く反論するが、対する榊原も間髪入れずに鋭く反論した。
「いいえ、これに関しては証拠があります。というのも、貫太郎氏の部屋から見つかったビデオカメラのケースを警察に詳しく調べてもらったのですが、その結果、このケースから一切の指紋が検出されなかったのです」
「それが何だというのだね! 指紋が検出されなかったというのなら、それは何の証拠にも……」
「逆です。指紋が検出されなかったからこそ、このケースは重大な証拠になる。なぜなら、もし本当にこのケースが事件に関係なかったとすれば、このケースから持ち主である松尾貫太郎氏の指紋が検出されないというのはあまりにも不自然だからです」
「なっ……」
そこまで言われて、岡の顔色が一瞬だけだが変わった。そして、その隙を榊原は逃さない。
「一般的に犯罪者は犯行を行う際に指紋が付着するのを嫌い、自分の指紋が付着した可能性がある物はとりあえずでも指紋を拭き取ろうとする事が多いのですが、『指紋が付着していない』という状況は、今回のように場合によっては逆に犯人側に不利になる事もあるのです。要するに、闇雲に指紋を片っ端からふき取っておけばいいというものでもないんですよ。まあ、それに気付きにくいからこそ犯人側もミスをしやすいのですが、それはあなたであっても変わりはなかったようですね」
「……」
「改めて言うまでもないでしょうが、もしこのケースが本当に事件に関係がなかったのだとすれば、このビデオカメラを仕事で頻繁に使用している松尾貫太郎氏の指紋が付着していないはずがない。それが付着していないという事は可能性は一つ。誰かがこのケースの指紋をふき取り、その際に持ち主である貫太郎氏の指紋も一緒にふき取ってしまったという事です。そしてそれは、先程推理したように元々荷物の中に入っていた本物のケースと爆弾が入った偽ケースを犯人が入れ替え、本物のケースを部屋の中に隠した時にふき取ったとしか考えられないのです」
「松尾貫太郎本人がケースの汚れを取るとかの理由で指紋をふき取った可能性はないのかね?」
岡が苦しい言い訳をするが、榊原は動じない。
「それはないでしょう。なぜなら仮にそうだったとしても、指紋が一つも検出されないというのは異常だからです。やってみればわかりますが、汚れなりを取る目的でケースやビデオカメラを布でふいたとしても、普通の状況ではふいた後で片づける時にケースやビデオカメラに触れますから、どれだけ注意しても少なからず指紋は残ります。もしそれでも指紋が残らないとすれば、貫太郎さんが相当な潔癖症で、ケースやビデオカメラをふいた後で片付ける時も手袋をしたり布越しにケースを持ったりするなどの行動をした時だけです。そして、貫太郎さんが潔癖症だった可能性はありません。もしそうなら、先程お見せしたビデオに手袋をした貫太郎さんが映っていなければおかしいですし、それでも納得できないなら父親である貫之助氏に直接聞けば済む話です」
「う……む……」
理詰めで言われて、岡も返答に困ったような声を上げる。その隙を見逃さず、榊原は一気に畳みかけにかかった。
「あなたはトイレ名目で座敷を中座し、貫太郎氏の部屋に侵入すると、そこに置かれていた荷物を物色して中に入っていたビデオカメラのケースを取り出し、代わりに爆弾が仕掛けられた偽のケースを荷物の中に仕込んだ。そして取り出した本物のケースは指紋をふき取った上で部屋の中に隠し、全ての作業を終えると再び座敷に戻ったのです。これがあなたが十年前に仕込み、そして多くの人間の人生を狂わせるきっかけとなった犯行の一部始終ですが、まだ何か反論はありますか?」
と、不意に岡の態度が豹変した。
「もういい! 聞いていればさっきから推測と状況証拠ばかり! 証拠は!? 私が彼の荷物に爆弾を仕掛けたという、直接的な証拠がどこにあるというのかね!? それがない限り、私は絶対に認めんぞ!」
腹の底に響くような重い声で怒鳴りつつ怒りのこもった視線を榊原にぶつけた岡だったが、対する榊原はその視線を真っ向から受け止め、そして毅然とした態度ながら静かな口調でこう告げた。
「いいでしょう。そろそろ……終わらせるとしましょうか」
そう前置きして、榊原は岡に対する『切り札』を突きつけにかかる。いよいよ、この論理勝負も終盤に差し掛かろうとしていた。
「今回、この事件の再捜査を行うに当たり、今まで知られていなかった事件に関する様々な事象が判明しました。そんな新たに判明した事象の中に、一見すると些細な事にしか見えない、ある『新事実』があります」
「新事実……だと?」
「えぇ。それはすなわち、問題のバスが名古屋駅前を出発する前、後に涼宮事件の被害者となる涼宮玲音さんと、荷物に爆弾を仕掛けられていた松尾貫太郎氏との間に、わずかながら接触があったという事実です」
それは今回、もう一人の生存者である白小路若菜こと青空雫から話を聞けた事で発覚した、おそらく当人たち以外誰も知らなかったであろう新事実だった。
「十年前のあの日の夜……バスが発車する少し前、乗客たちは名古屋駅前のバスターミナルでバスの到着を待っていたらしいのですが、その時に涼宮さんと貫太郎氏がぶつかって、貫太郎氏が持っていた缶コーヒーが彼女の持ち物にかかってしまうという事態が起こったらしいのです。幸い、彼女自身にコーヒーがかかる事はなかったものの、そのコーヒーがかかった彼女の持ち物はひどい事になってしまったんだとか」
「……さっきからまどろっこしい言い方をするね。その『持ち物』とやらは一体何なんだね?」
岡が少し苛立った風に尋ねた。対して、榊原は静かな口調で答える。
「文庫本です」
「文庫……本?」
「えぇ。彼女が名古屋駅近くの本屋で、待ち時間の間の暇つぶしのために購入した本です。ですが、この文庫本は貫太郎氏のミスでコーヒーがかかってしまい、読む事ができなくなってしまいました。さて……この時、貫太郎氏がどのような行動に出たかおわかりでしょうか?」
「……わかるわけがない。私は貫太郎君ではないのだからな」
岡は白々しくもそう答えるが、榊原は気にする事もなく答えを告げた。
「簡単な事です。自分が持っていた同じ文庫本を、謝罪のつもりで彼女に渡したんだそうです」
「……何だと?」
岡は少し表情を変えたが、すぐに元に戻す。
「実は貫太郎氏も偶然、事件当日に同じ文庫本を所持していたのです。そして、コーヒーで涼宮さんの文庫本を駄目にしてしまった貫太郎氏は、その本がたまたま自身の持っていた文庫本と同じである事に気付き、もう読み終えていた事もあって謝罪のつもりで彼女にその本を渡した。では、その文庫本はどうなったと思いますか?」
「……」
「その場にいたある人物はこう証言しています。『彼女はバスが到着すると、文庫本を自身の上着のポケットに突っ込んで立ち上がった』と。多分、いちいち鞄に入れるのが面倒くさかったんでしょうね。そして彼女は、釈迦堂パーキングエリアで『上着を着たまま』トイレに向かい、そしてバスの失踪に巻き込まれずに済んでいます。つまり、問題の文庫本はバスと一緒に失踪する事なく、事件以来ずっと涼宮さんの手の中にあったという事なのです。では、その本は今一体どこにあるのか?」
そこで榊原は一際声を張り上げた。
「問題の本の正体についてわかっている事は次の通りです。すなわち、交換が成立したという事は、松尾貫太郎が持っていた本と涼宮玲音が読んでいた本は同一のものであるという事。その本は事件当日に松尾貫太郎氏が所持していた本のいずれかであり、そしてその本はバス爆破で失われず、涼宮玲音がずっと所持していた可能性が高いという事です。そして、その条件に合致する本がたった一冊だけ存在しました」
榊原はさらに続ける。
「先程のビデオに記録されていた三木橋知事と貫太郎氏の会話によれば、彼が事件当日所持していた本は『ホッグ連続殺人』『呪骨』『大統領のミステリ』の三冊。その一方、岐阜県高山市蝉鳴村に現在も残る涼宮家の廃墟の中には、死亡当時の涼宮玲音の所持品がほぼそのままの形で残されていました。そして、問題の廃墟に残される涼宮玲音の所持品を調べた所、該当するのはこの一冊だけだったのです」
そう言うと、榊原は鑑識用のビニール袋に入れられた古ぼけた一冊の文庫本を示した。
「これが今回、蝉鳴村に残っていた旧涼宮家の涼宮玲音の自室から回収した問題の文庫本……夢園乱鬼著の『呪骨』の現物となります。この文庫本に残されていた指紋を今回改めて検査した結果、所有者である涼宮さんの指紋の他に、複数の指紋が確認できました。そしてそのうちの一つの指紋が、松尾貫太郎氏のものと一致すると判明したのです」
その言葉に、岡はピクリと眉を動かした。榊原は畳みかけるように言葉を繋いでいく。
「問題のバス以外に涼宮さんと貫太郎氏の間に接点はありません。従って、貫太郎氏の指紋が残されている以上、この文庫本はバス発車前の接触の際に涼宮さんの手に渡ったものと考える他ありません。つまり、この文庫本は問題の爆弾が仕掛けられていた貫太郎氏の荷物の中にあったものとしか考えられないのです。言うなればこれは、爆弾によって跡形もなく粉砕した貫太郎氏の荷物の中で、唯一完璧な形で残された物証という事になります」
そして、と榊原は続けた。
「私の予想が正しければ、この文庫本に残されている指紋の中に、岡知事、あなたの指紋が残されているはずなのです!」
「っ!」
ここで初めて、岡の表情が目に見えて大きく歪んだ。
「先程流れた事件当日の映像を見る限り、あの日のあなたは手袋をはめていない。まぁ、当然でしょう。事件が起こったのは八月。そんな夏真っ盛りに手袋なんかしていたら間違いなく怪しまれますからね。そして、あなたがもし爆弾を仕掛けた際にも手袋をしていなかった場合、荷物の中にあった文庫本にあなたの指紋が付着した可能性が出てくるのです」
「待て!」
岡が鋭く待ったをかける。
「さっきから何度も言っているが、それは君の妄想に過ぎない! 犯人が手袋をしていなかったという証拠でもあるのかね?」
「なければこんな事を言いませんよ」
「ふざけるな! そんな証拠があるわけが……」
「証拠はさっきも言ったビデオカメラのケースです」
榊原の答えは簡潔だった。
「すでに述べたように、部屋から見つかった問題のビデオカメラのケースからは一切の指紋が検出されませんでした。ここから犯人がビデオケースの指紋を拭き取った事がわかるというのは先程証明した通りですが、逆に言えば、犯人にはケースの指紋を拭き取らなくてはならない理由があったわけです」
「理由……」
と、岡の顔色が大きく変わった。すかさず榊原が畳みかける。
「おわかりになられましたか? 犯人がもし手袋をしていたのだとすれば、わざわざケースの指紋を拭き取る必要がないんですよ。『指紋を拭き取る』という行為は、そこに指紋が付着している可能性があるからこそ行われる行為であって、指紋が付着していない事が確実な場合にそんな事をする必要はありません。にもかかわらず、貴重な時間を使ってまでわざわざ指紋を拭き取ったとなれば、ケースに指紋が付着した可能性があった……つまり、犯人が手袋をしていなかったと考えるしかないのです」
「うむむ……」
岡は言葉に詰まる。
「あなたの当初の予定では、仕掛けた爆弾は太平洋上を飛ぶヘリの中で爆発し、その残骸は海の中に落下してしまうはずだった。そうなれば残骸の回収などほぼ不可能ですし、仮に奇跡的に何らかの残骸が回収されたとしても、長時間海水の中にあった以上、指紋の検出などほぼ不可能でしょう。つまり、爆弾を仕掛ける荷物に多少指紋が残っていても何ら問題はなかった事になり、そうなれば爆弾を仕掛ける際に手袋などの指紋対策をしていなかった可能性が浮上する事になるのです。まぁ、さすがに部屋に残す本物のビデオカメラのケースに付着した指紋は拭き取ったようですが」
「……」
「その上で、この文庫本は事件当日、貫太郎氏の荷物の中に入れられていました。となれば、ここまでの推理が正しかったと仮定した場合、爆弾を仕掛ける際に、犯人が手袋をしないままこの文庫本に触れた可能性が極めて高くなる」
そこまで一気に話すと、榊原は決定打を叩き込んだ。
「私からの要求は一つです。岡知事……今この場で、あなたの指紋を採取させてください。そして、この文庫本に残されている指紋と比べてみましょう。その結果、この文庫本にあなたの指紋が付着していれば……その時点で、あなたが十年前に松尾邸にて貫太郎氏の荷物の中にあったこの本に本人の許可なく触れていた事、すなわち、あなたが十年前の事件に関与していた事が疑いの余地なく立証されます。さぁ、いかがですか!」
それはまさに、今は亡き涼宮玲音が、自身の人生を狂わせた根幹である岡是康に時を超えて自ら証拠を突き付けている構図に他ならなかった。そして、その証拠の効果は劇的だった。榊原の要請を受けた岡は、突如カッと目を見開き、鋭い声で叫んだのだ。
「断る!」
「なぜですか!」
榊原は間髪入れずに切り返す。
「こんな無礼で野蛮な捜査が認められるわけがない! これ以上の警察の暴挙に私が応じる必要もなかろう!」
「認めないのなら、名古屋地方裁判所に令状の公布を申請して強制的に指紋を採取するだけです。この状況では、たとえ相手が知事であったとしても、裁判所が令状申請を拒否する理由はありませんよ」
「ふざけるな! 私は……私は認めんぞ!」
「認めないというのならば、指紋採取を拒否する理由を教えてください! 何もなければ、指紋採取の拒否など普通はしないはずです!」
「一介の素人探偵ごときに政治家の苦労がわかるわけがない。指紋を採取されたというだけで痛くもない腹を探られ、その事実は下手をすればそのまま政治生命に直結する。それに対する配慮が貴様にはできんのか!」
「生憎ですが、今のあなたは知事でも政治家でもなく、事件の一容疑者に過ぎません。この期に及んで、それがまだあなたには理解できていないのですか!」
両者が睨み合い、交錯する視線が火花を散らす。が、先に視線を逸らしたのは岡の方だった。この状況下ではどう考えても自分の分が悪い事に気付いたのだろう。
「……仮に、だ」
「何ですか?」
「仮にの話だ! 仮に、その文庫本とやらから私の指紋が検出されたとして、それだけで私を犯人とするのは無茶というものではないのかね?」
「この本に指紋が付着している事を認めるのですか?」
「仮にの話だと言っている! そんな事もわからんのか!」
「では岡知事、この文庫本にあなたの指紋が付着していると仮定して、あなたにはその理由を合理的に説明できるのですか?」
それは榊原からの挑戦とも言える言葉だった。こうなった以上、岡には答える以外の選択肢がない。岡は自身の頭を振り絞り、文字通り「命懸け」の言い逃れを試みる。
「……実は、あの日の前日、私は彼に会っていたんだ」
「彼というのは?」
「松尾貫太郎君だ! 次の日の政治塾の議題について事前に聞いておきたい事があってね。名古屋市内の喫茶店で三十分ほど話をした。その時、先に店に来ていた貫太郎君が本を読んでいてね。興味を持って何の本かと聞いたら、黙って私に見せてくれた。その時の本が、確か君が今示しているその本だったと思う。指紋が付いたとすればその時だろう」
「事件前日に被害者と会っていた……今更そんな都合のいい事があったと本気で主張するつもりなのですか!」
榊原が厳しい声で追及するが、岡は開き直ったように言い捨てる。
「都合がいいかどうかは知らないが、本当の話だ。私はこの主張を変えるつもりはない。この証言が嘘だと立証するのは私ではなく君たちの仕事ではないのかね?」
「……」
すでに十年も前の話である上に、当の松尾貫太郎が死亡してしまっている以上、本当に事件前日にそんな話し合いがあったかどうかを証明するのは普通に考えて不可能である。岡としてはとにかく本に指紋が付いた可能性さえ示せればよいという判断なのだろう。だが、榊原はなおも食い下がった。
「では、その打ち合わせをしたという喫茶店は具体的にどこですか?」
「さぁ、どこだっただろうね。何しろ十年も前の話だ。はっきりとは覚えていない。ただ、つい最近その辺りに行った時にはそれらしい店はなかったから、もしかしたらもう閉店しているかもしれないがね」
いけしゃあしゃあとそんな事を言い切ると、岡はとどめを刺すように榊原に言葉を叩きつける。
「さぁ、どうだね! 要するに、その文庫本とやらに私の指紋が残っていたとしても、私が爆弾を仕掛けた証拠にはならんという事だ! 違うというのなら立証してみるがいい! それが無理だというのなら、こんなくだらない茶番はもう終わりだ! いい加減、君も諦めたまえ!」
だがこの反論を、榊原は不気味なほどに静かに受け止めた。そして、同じく静かな口調のまま、岡にこう告げたのだった。
「……確認します。あなたは政治塾開催の前日に松尾貫太郎氏と名古屋市内の喫茶店で会っていた。そして、その時に問題の文庫本に触れた。その文庫本は今私が示しているこの本で間違いなく、だからこそこの本にはあなたの指紋が付着している可能性がある。それが今のあなたの主張ですね?」
「そうだ」
「今の主張に間違いはありませんね? 後になって勘違いだった、というのは今さら通りませんが、その覚悟があっての発言ですね? 政治家として、自身の発言に責任を持つ事はできますね?」
何度も念押しされ、さすがに岡も不審に思ったのか一瞬言葉に詰まる。が、やがて覚悟を決めたかのように断言した。
「間違いない。もっとも、今更それを証明する事など、私にも君たちにもできんがね」
だが次の瞬間、榊原はどういうわけか小さく笑い、そして岡に対する反撃に打って出た。
「結構です。では、はっきりと申し上げましょう。岡知事……今の発言は完全に墓穴を掘りましたね。これでようやく、長かったこの事件を終わらせる事ができます」
「何?」
「改めて、あなたの主張はこうです。『政治塾開催の前日、松尾貫太郎に会った時に問題の文庫本を見せてもらい、その時に本を手に取った』。しかし、それは絶対にあり得ない話なのです。なぜなら……」
そこで榊原は一際声を張り上げ、岡にとどめを刺しにかかった。
「問題の文庫本……夢園乱鬼の『呪骨』は、バス失踪事件が起こった一九九七年八月十二日当日に発刊されたばかりの新刊小説だったからです!」
その瞬間、岡は初めて大きく顔を歪め、自身が致命的すぎる発言をした事を悟ったようだった。そして、榊原はここぞと言わんばかりに岡を追及する。
「あなたは今、確かにこう言った。『政治塾開催の前日』……つまり一九九七年八月十一日に松尾貫太郎氏と会い、その時にこの本を見せてもらって、実際に触れたと。しかし、そんな事は絶対にあり得ない! なぜなら、問題の一九九七年八月十一日に、この文庫本はまだ市場に出回っていなかったのですからね!」
……それは、あの村で夕闇逢魔の話を聞いた時の話だった。彼はその中で、夢園乱鬼最後の小説……つまり『呪骨』が文庫で発刊されたその『ちょうど』二年後に黒血湖畔の事件で乱鬼が亡くなり、その日自分は取材で御巣鷹山の慰霊祭を訪れていたと発言していた。御巣鷹山の慰霊祭となれば、普通に考えて、それは一九八五年八月十二日に群馬県御巣鷹山で発生した日航ジャンボ機墜落事故の慰霊祭という事になるだろう。となれば、その日付は事故の発生した『八月十二日』と判断できる。
つまり、夢園乱鬼が亡くなったのは一九九九年八月十二日の話で、ここから『呪骨』の文庫本が発刊されたのはそのちょうど二年前に当たる一九九七年八月十二日だとわかる。それはすなわち、今回問題になっているバス失踪事件の主役となるバスが名古屋駅前を発車したまさに当日である。そうなると、問題の『呪骨』を購入する事ができるのはバスが失踪した当日以降でしかあり得ず、必然的に涼宮玲音と松尾貫太郎がこの本を購入できたのも事件当日でしかありえないという結論になってしまうのである。
「さぁ、答えて頂きましょう。あなたは事件前日の八月十一日に、どうやって世に出回っていないはずの文庫本に触れる事ができたというのですか!」
「そ、それは……」
岡は何か言い訳しようとするが、今度こそ完全に言葉に詰まる。言い訳しようがない……それは本人が一番よくわかっているのだろう。
「結論は言うまでもないでしょう。そんな事ができるわけがない。つまり、あなたはできるはずがない事を『やった』と証言し、私が何度も確認したにもかかわらず『間違いない』と断言した。それはこの場にいる警察関係者全員が証人です。ここから導き出される答えは一つです。すなわち……あなたが今した証言は、完全なでたらめという事です!」
「くっ!」
岡が呻くような声を漏らす。榊原はとどめと言わんばかりに一気に畳みかけていく。
「そして、そもそもこの証言は、爆弾が仕掛けられていた松尾貫太郎氏の鞄の中に入っていたはずの本になぜあなたの指紋が付着しているのかという疑問に対しての反論だったはずです。ですが、その証言が嘘だという事が、今この場で明確に立証されました。となると、続く疑問は明白です。『なぜ、あなたはこんな重大な場面で嘘をついたのか?』」
「それは……」
「言っておきますが、今更『別の日の話と勘違いしていた』というのは通りません。言った通り、この本が松尾貫太郎氏の手元にあったのは事件当日だけの話です。恐らく購入したのは午前中に立ち寄ったという書店でしょうが、何にしても、政治塾が行われる当日に事前打ち合わせをするわけがないし、それ以降では肝心の松尾貫太郎氏が死亡してしまっています。記憶違いだったという言い訳は、今回に限っては全く通用しないのは明らかです!」
先手で言い訳を封じられてついに岡は黙り込む。
「本に指紋が付着している合理的な理由を答えられない以上、指紋が付着したのは事件当日、爆弾を仕掛けられた瞬間と考えるしかありません。つまり、指紋の主こそがバス爆破事件の真犯人であるという私の推理は今も有効というわけです。そして、その指紋の主があなたであったとした場合、それはすなわち、この爆弾を仕掛けた犯人があなたであるという、有無を言わさない決定的な証拠となるのです!」
「……」
「さぁ、どうですか! 反論できるというのなら、いくらでもしてください! できないなら、この勝負はここで終わりです!」
「……」
「いかがですか! 岡是康知事!」
その瞬間だった。
「あ、ああ……アアアアアアァァァァァッ」
岡が顔をしかめて両手で頭を抱えながら、地獄の底から響くような低い声で唸り声を上げる。そして警察関係者が緊張した表情で見つめる中、続けざまに憎悪の雄叫びを上げたのだった。
「違う、わしは……わしはただ、あの邪魔者さえいなくなればと……それが県民にとって、いや日本のためだと思って……それが……それが、まさかあんな事になるとはっ!」
「……」
「見るな! そんな目でわしを見るな! わしは間違っていない! わしは正しい事をした! わしが知事になったからこそ、今の愛知の……どころか日本の発展はある! 全ては必要な犠牲だった! なのに……なのに、そんな目でわしを見るんじゃない!」
「……」
「やめろ! やめろ、やめろ、やめろ、やめろ! くそっ、くそがぁぁぁぁぁぁっ!」
絶叫と同時に、岡は呻き声を挙げながらその場に崩れ落ちる。それが、数多の人々を巻き込んだ十年にもわたるこの大事件に、ついに決着がついた瞬間だった……。
「……確認します。岡知事、あなたは十年前に政治塾が行われた松尾邸で松尾貫太郎氏の荷物に爆弾を仕込み、彼が乗車した夜行バスを爆破して十三名の人間の命を奪った。その事実を認めますね?」
崩れ落ちた岡に対し、捜査責任者である瀧江が厳しい声色で確認をする。対し、岡は怨嗟の声を上げ続けていたが、やがてゆらりとした動作でその場に立ち上がると、血走った眼で警察関係者たちを睨みつけながら、地獄の底から響くような低い声で告げた。
「……あぁ、そうだ。全ては私がやった。だが、一つだけ譲れない事がある。そこの探偵が言ったように、私が狙ったのはあくまで秋田玄志郎と松尾貫太郎であって、間違っても何の罪もない国民ではない。あんな事になったのは、完全に想定外の出来事だった!」
「対象の錯誤があったと主張するつもりですか?」
瀧江の慎重な問いかけに、岡は引きつった表情で頷く。
「あぁ、そうだ! 一般市民が死んだのは私のせいではない! 己の強欲のためにバスを乗っ取ったという愚かな犯罪者連中のせいだ!」
だが、榊原の言葉は厳しかった。
「随分な主張ですが、標的が誰であったとしても、そして実際に誰が亡くなったとしても、あなたの行為が正当化される事は絶対にあり得ません。どう取り繕おうが、この事件のもたらした結果は二つ。『あなたのした行為で何人もの人間が死亡した事』、そして『あなたのした行為でいくつもの事件が連鎖し、さらに多くの人間が人生を狂わされた事』です」
「黙れ! 貴様如きに、私の何がわかる!」
「では、全てを話してください! あなたのした事……その全てを、余す事なく、今この場で!」
榊原の鋭い言葉に岡は一瞬ひるんだ様子を見せたが、すぐに不敵な笑みを浮かべてどす黒い声で話し始めた。
「今さら何を話す事がある! すべては貴様が言った通りだ! 私はあの時、何としても知事選に勝たねばならなかった。だが、そんな時に限って政府が余計な横槍を入れてきた。あの杉原宗佑とかいう刺客候補さえいなければ、他の泡沫候補など怖くはない。だから、どんな手段をもってしても、私は杉原を選挙から排除せねばならなかった!」
「その結果あなたが考えた手段が、杉原宗佑を刺客候補として送り込んだ張本人である秋田外務大臣を亡き者にし、逆に杉原を中央政界で出世させる事で知事選への立候補を取り消させようというものだった」
「そうだ。杉原を直接消せば確実に私に疑いがかかる。だからこそ、このやり方を考えた。何しろ私には杉原を消す動機はあっても、秋田玄志郎を消す動機など全くないのだからな! 動機もないのに、私が疑われるわけがなかろう!」
「そして、あなたは秋田玄志郎の秘書だった松尾貫太郎の存在を利用する事にした。政治塾に参加する名目で名古屋市内の松尾邸に出入りしていた事を利用し、一九九七年八月十二日に松尾貫太郎の荷物に爆弾を仕掛けたというわけですね?」
榊原の指摘に、岡は鬼のような形相で榊原を睨みつける。
「あぁ。秋田玄志郎が戦没者慰霊式典出席のためにヘリで硫黄島に向かう事は知っていた。当然、秘書の松尾貫太郎もそれに同行するはず。ならば、その松尾貫太郎の荷物にどうにかして時限式の爆弾を仕掛ければ、ヘリは太平洋の沖合で証拠も残さずに墜落するはずだと考えた」
「何て……恐ろしい事を……」
瀧江が思わずそんな呟きを漏らす。が、岡はその呟きが聞こえなかったのか、悪鬼か何かに憑かれたかのようにまくしたてる。
「全ての細工は上手くいったはずだった。あとは秋田玄志郎の乗ったヘリが行方不明になったというニュースを心待ちにしているだけでよかったはずだった。だが、事態は私の思惑から大きく外れてしまった。秋田玄志郎が乗ったヘリは何の問題もなく硫黄島に到着してしまい、その代わりに松尾貫太郎が乗った夜行バスが姿を消したというのだからな! 私は何が起こったのかわからなくなった。ただ一つ確かなのは、松尾貫太郎が東京に到着する以前の段階で、私も予想できない何らかのアクシデントが発生してしまったという事だった」
岡は引きつった顔で乾いた笑いを上げながら、さらに言葉を続けていく。
「これだけははっきり言っておく。私は確かに松尾貫太郎の荷物に爆弾は仕掛けたが、問題のバスで何が起こったのかという事は全く知らなかった。というより、こんな事が起こっていたなど予想できるわけがない! 松尾が乗ったバスが途中で乗っ取られて、伊豆半島なんぞで爆発していたなどという事は!」
「……でしょうね」
榊原としてもそれは認めざるを得ない様子だった。実際、爆弾を仕掛けただけの岡是康にあの夜あのバスで何が起こったのかを知る機会は一切なかったのだから、これはやむを得ない話である。もっとも、仮にバスで起こった事の詳細を知らなかったとしても、現実としてバスが爆弾の爆発により海に沈んで多くの人間が命を落とし、そして実際に爆弾を仕掛けた張本人が他ならぬ岡である以上、この男が自身の罪から逃れる事は絶対にできないし、またそれを許してはならなかった。さらに言えば、詳細は知らなかったとしても『自身が爆弾を仕掛けた荷物が乗っているバスが消失した』以上、場所は不明なるも爆弾でバスが爆発した可能性はさすがに岡も認識できていたはずであり、状況を知らなかった事が免罪符になるとは思えなかった。それゆえに、榊原の追及はさらに厳しいものとなる。
「結局、知事選挙を巡る情勢は何ら変わる事はなく、結果としてあなたは何の関係もない大量の人間を無駄に殺害しただけで終わった」
「そうだ。結局、杉原宗佑は私が何かするまでもなく東京で勝手に殺され、結果的に私は何の障害もなく知事に当選する事ができた。つくづく君の言う通りだよ」
「……」
「だが、結果はどうあれ、手を血に染めて知事となった私ができる事は一つだけだった。亡くなった者たちの犠牲を無駄にせぬために、誠心誠意、知事の仕事を全うする。ただそれだけを思って、私は県の発展を……」
しかし、それを言い終える前に、榊原は岡の言葉を遮るようにして今回の事件で一番きつい口調で反証した。
「聞き苦しい綺麗事はもう結構! あなたの言っている事はただの詭弁でしかありません。もし本当に罪を悔いていたというのならば、あなたはその時点で潔く知事の座を降りて、警察に自身がやった事を自首すべきでした。そうすればバスがどこかで爆発した可能性が浮上して警察の捜査も一気に進んだでしょうし、何よりその後に続く数々の大事件は起こらなかった可能性が高い」
このバスの事件があったからこそ、真相究明を求める須賀井睦也は生還者である月村杏里の乗る路線バスをジャックし、それが奥多摩・白神村でのイキノコリ事件につながった。また、同じく生還者である涼宮玲音は蝉鳴村へ引っ越す事となり、それをきっかけに涼宮事件が起こったばかりか、その涼宮事件を起点としてさらに関ヶ原事件や日沖事件、そして今回の蝉鳴村事件へと繋がってしまった。岡是康が自身の欲望のために仕掛けたたった一つの爆弾が、その後まるで導火線を伝うかのように様々な事件に連鎖し、何十人もの人間の命を奪ったばかりか、百人を超える人間の人生を狂わせてしまったのである。それは『事件』というものが引き起こす『負の連鎖』の恐ろしさを、これ以上ないほど明確に示す事実であった。
「岡知事、あなたが犯した罪は重いですよ。それこそ、その辺の殺人犯などよりもはるかにね」
その瞬間、岡はカッと目を見開いて絶叫する。
「黙れ! 貴様らに……貴様らに、私の気持ちなど、わかるわけがない! わかってなるものか!」
だが、それに対する榊原の答えは冷ややかなものだった。
「えぇ。わかりませんし、わかりたくもありませんね。自身の欲望のために、爆弾を使って不特定多数の人間を殺害しようとしたあなたの気持ちなど、絶対に! それでもなお自分が正しいと主張するのなら、あなたが人生を狂わせ、人によってはその人生自体をも失う事になった百人を超える人間の前で、今の主張をもう一度言ってみる事です!」
「……」
榊原の剣幕にさすがの岡も黙り込み、それを見届けた榊原は、少し声のトーンを押さえてこう続けた。
「さて、言うまでもない事ですが、ここは日本です。日本国憲法により『法の下の平等』が宣言されている事は、政治家であるあなたが一番よくおわかりでしょう。つまり罪を犯した以上、政治家だろうが知事だろうが、どんな立場の人間であっても法の下に平等に裁かれる事となります。国会議員に適用される不逮捕特権も都道府県知事であるあなたには適用されませんし、あなたも知事だというなら、最後くらい覚悟を決める事です」
その言葉と同時に、今まで控えていた各県警の刑事たちが前に出る。それを見て、ついに全ての元凶・岡是康も覚悟を決めたようで、しかしどういうわけか不敵な笑みを浮かべつつ傲然と言い放った。
「……ふん、好きにするがいい。こうなった以上、どうする事もできないのは事実だからな。だが、言っておくが、私は最後の最後……裁判で判決が出るその瞬間まで抵抗させてもらう。今までどんな逆境があろうとも、諦めるという事だけはしてこなかったものでね」
この言葉には、実際にこの男を起訴する事になるであろう大島瀧江が答えた。
「ご自由にどうぞ。裁判で自身の無罪を主張するのは被告人の正当な権利ですから。もっとも……我々はそんなあなたを全力でねじ伏せ、必ず罪を償わせる所存ですが」
「……そうかね。長年公僕として尽くしてきた私を相手に一切容赦なしか。この国が法治国家として正常に機能しているようで何よりだよ」
皮肉めいた口調でそう言うと、岡はついに刑事たちに拘束された。そのまま部屋から連れ出されようとする。これから警察による本格的な取り調べが始まり、その間に正式に裁判所から逮捕状が発行されるのだろう。この先は榊原ではなく、警察と検察の領域だった。
「あぁ、そうだ。最後に一つ、あくまで個人的に、今この場であなたに聞いておきたい事があります」
と、そこで榊原が連れていかれようとする岡に対しこう声をかけた。顔を上げる岡に対し、榊原は問いかける。
「一九九八年、問題の知事選直前に、杉原宗佑は都内で何者かによって殺害されています。いわゆる『政治家事件』と呼ばれる事件の第一の事件ですが……真実が明らかになった今ここで、改めてお聞きします。岡是康、あなたはこの一九九八年の事件に何らかの関与をしていますか?」
その発言に誰もが息を飲み、しばし沈黙が部屋を支配する。が、岡の答えは短かった。
「いや。生憎だが、その事件について、私は全くの無関係だ。正直、選挙前に痛くもない腹を探られていい迷惑だと思ったほどだ」
「確かですか?」
「ここまで暴かれておいて、今さら否定したところで意味はない。疑うのは自由だがね」
「……そうですか」
榊原はそう言って刑事たちに頷く。それを合図に、今度こそ岡は部屋から出て行った。それを見送った斎藤が、少し心配そうに榊原に近づく。
「榊原さん……」
「……不本意だが、私も同じだよ、岡知事。私は一度関わった事件の解決を諦めるつもりなど全くない。何年かかろうと、己の人生が尽きるその瞬間まで、絶対に逃しはしない」
そう言って、少し肩の力を抜いてフウと息を吐いた。
「あわよくば、『政治家事件』の手懸りの一つでも手に入れられればいいと思ったが……さすがにそれは高望みしすぎたようだ。まぁ、私が十年かけても解決できていない事件だ。一筋縄ではいかない事はよくわかっている。これからも、焦らず根気よくやるとしよう」
「……」
「ひとまず、今度こそ本当に今回の依頼は完了した。これでようやく、東京に帰る事ができそうだ。さすがに疲れたが……そうも言っていられないか」
そう呟く榊原に、斎藤は何も言う事ができなかったのだった……。