第三十四章 全ての元凶
二〇〇七年三月二十一日水曜日、名古屋地検特捜部及び警視庁・山梨県警・静岡県警・愛知県警・岐阜県警によって構成された捜査本部は、岐阜県知事・三木橋寅蔵、愛知県知事・岡是康、静岡県知事・高砂勝充郎のうち、特に容疑が濃いと判断した『ある知事』に対する任意同行を要請した。容疑は十年前の『鳩野観光夜行バス失踪事件』で爆弾を使って十三名もの人間を無差別に殺害した『殺人罪』及び『爆発物取締法違反』。予想されたように、その知事は当初任意同行を拒否しようとしたが、計画通り警察側がその場で松尾貫之助に電話を掛けると、松尾はその知事に対し電話口で、短く、静かながら重々しい声でこう告げたのだった。
『応じないなら犯人とみなす。その場合、二度と政治の表舞台に立てると思うな』
その一言で、その知事は折れた。不承不承ではあったが、今日一日だけという条件付きで任意同行に応じたのである。警察側が松尾に礼を言うと、松尾は淡々とした声でこう返した。
『わしができるのはここまでだ。あとは警察諸君にお任せする。政治家・松尾貫之助ではなく父・松尾貫之助としてお頼みしたい。息子の敵を……よろしくお願いする』
任意同行とはいえ一県知事が殺人容疑で連行された事は、たちまちマスコミ各社の大ニュースとなった。知事を連行するという切り札を切った以上、日本警察が前代未聞の大博打に出た事は誰の目にも明らかである。そしてその事実は、警察側に知事に対する何らかの勝算がある事を示唆するものであり、すなわち、問題の『知事』がここから二度と出てこない可能性があるかもしれないとマスコミ関係者は早くも予測していたのだった……。
二〇〇七年三月二十一日水曜日午後三時、場所は名古屋地検特捜部大会議室。蝉鳴村事件を解決に導いた名探偵・榊原恵一は、大勢の捜査関係者が見守る中、この事件最後の相手となるその『大物』が姿を見せるのを静かに待ち続けていた。事前の協議で、榊原がこの強敵と直接対決をする事は決まっていた。それが、今回の複雑極まりない事件を片っ端から解決し続けた榊原に対する警察の総意であった。
やがて時間となり、数名の刑事が後ろから続くような形で『その男』が大会議室のドアを開けて部屋の中に入って来る。男はチラリと中の刑事たちを一瞬見やったが、そのまま何も言わずに政治家特有の強烈な威圧感を放ちながら用意された正面の椅子の方へ向かい、そのまま誰かが指示する前に当然のようにその椅子に腰かけて正面にいる榊原に視線を向けた。
そしてそれを確認すると、榊原はジッと相手を見据えた上で、唐突にこの勝負の口火を切った。
「さて、早速ですが始めましょう。改めまして、警察の要請により今回あなたの聴取を担当する私立探偵の榊原恵一です。以後、お見知りおきを」
そう言って榊原は丁寧に一礼する。一方、相手はその挨拶に眉をひそめ、周囲の捜査員たちに「どういう事か説明しろ」と言わんばかりの威圧的な視線を送る。それはその知事が普段周囲の人間に見せている視線なのだろうし、実際に今まではそれだけで周囲の人間は自分の思うがままに動いたのだろう。
が、今回ばかりは誰もその態度に応じる事はしない。周りの警察官や検察官たちは、この世紀の対決の始まりをただただジッと見つめ続けている。必要とされるまでは、あくまでこの場は榊原に任せる……それが彼らの共通した認識だった。
やがて諦めたのか、男は改めて榊原の方に鋭い視線を向けた。それを真正面から受け止め、榊原は静かに言葉を紡ぎ出していく。この世紀の対決は、榊原による淡々とした事実確認から始まる事になった。
「まず、簡単にではありますが事件の流れと、そこからどうしてあなたが容疑者として浮上したかについて説明したいと思います。よろしいですね?」
それを聞いた男は、少しの間じろりと榊原を睨みつけていたが、やがて「勝手にしろ」と言わんばかりに腕組みをして、とりあえず話を聞く姿勢を見せた。それを確認すると、榊原は一呼吸おいて話を進めていく。
「数日前、伊豆半島西伊豆町沖の海底から、一台の大型バスの残骸が発見されました。このバスは一九九七年八月十二日に名古屋駅前を出発しそのまま乗員乗客もろとも行方不明となっていた鳩野観光の夜行バスで、今回の調査により、釈迦堂パーキングエリアでバスジャックされて伊豆半島方面へ向かっていた事実が発覚しています」
そう前置きして、榊原は今回の再調査で判明した事……すなわち、問題のバスに名古屋で現金輸送車を襲撃した強盗犯・森永勝昭が強奪した現金五千万円と共に乗車しており、その強奪された五千万円の横取りを狙った大竹義之、富石雅信、田向貴史のグループが釈迦堂パーキングエリアで運転士を殺害してバスをジャック。乗っ取られたバスが警察の目を誤魔化しながら伊豆半島方面へ向かっていたという事実について詳しく説明した。説明を聞いても男の表情は変わらなかったが、時々こめかみが小さく動くのを榊原はしっかり見て取っていた。
「しかし、現実にはバスジャック犯たちが目的地である南伊豆町に辿り着いた形跡はなく、問題のバスはそこへ向かう途中の西伊豆町沿いの海岸付近から発見されています。そしてこれが問題なのですが、今回発見されたバスの残骸の一部から、わずかではありますが爆発物の痕跡が確認されているのです。つまり問題のバスは、バスジャックの最中に突如として爆発物によって爆発し、そのまま海に転落した事になります。そしてこの爆発は、強盗犯の森永やバスジャック犯の大竹たちとは関係なく、まったくの第三者の手によって乗客の荷物に最初から仕掛けられていた可能性が非常に高いのです」
そう言うと、榊原はこの爆弾がバスの爆破を目的としたものではなく、バスジャックというイレギュラーが発生した事で結果的にバスの爆破という大量殺人を引き起こす事に繋がってしまった事。そしてその爆弾の仕掛け場所が乗客の一人である代議士秘書・松尾貫太郎の荷物であり、爆弾を仕掛けた犯人の真の目的がヘリで硫黄島に向かう予定だった当時の外務大臣・秋田玄志郎の殺害にあった事。そして、松尾貫太郎の荷物に爆弾を仕掛けられる人間が、事件直前に名古屋の松尾貫之助の屋敷を訪れていた現在の東海三知事の誰かだという事情を駆け足で説明した。
「この時点で、バスを爆破した犯人の候補は三人の知事のいずれかに絞られました。残る問題はただ一つ。すなわち、三知事の中の誰が実際にバスを爆破した真犯人なのか、という点です。そして、それを特定するためのたった一つの手がかりが残されていました。すなわち、爆弾が仕掛けられた当日、松尾邸で行われた政治塾の様子を撮影したビデオです」
その言葉に、男の体がわずかながらピクリと反応する。
「事件から十年が経過した現在、もはやこのビデオ映像だけが犯人を特定するためのほぼ唯一と言ってもよい証拠になります。そして映像を確認した結果、犯人を特定するための決定的な情報が、確かにこの映像には残されていたのです」
榊原がそう言うと同時に、刑事の一人が機器を操作し、部屋の正面のスクリーンに映像が映し出される。それを確認すると、榊原は切り札の第一手を叩きつけにかかった。
「すでに述べたように、爆弾は松尾貫太郎氏の荷物に仕掛けられており、その荷物はこのビデオが撮影された時間帯、同じ屋敷内にある松尾貫太郎氏の自室に置かれていました。また、単に爆弾を仕掛けただけではもし松尾貫太郎氏に荷物の中を見られでもしたらすぐにばれてしまいますので、その爆弾はすでに荷物の中にあった『何か』に偽造されていたか、あるいはこの政治塾の後で松尾貫太郎氏が荷物の中に自ら入れた『何か』に偽造されたかのいずれかだと考えられます。となれば、犯人がこの場で松尾貫太郎氏の荷物に爆弾を仕掛ける手法は、『隙を見て自室に忍び込んで荷物の中に「何か」に偽造した爆弾を仕掛ける』か、『政治塾の最中に爆弾を仕掛けた「何か」を直接松尾貫太郎氏に手渡し、松尾貫太郎氏自身に政治塾の後で荷物の中に入れるように仕向ける』のどちらかという事になる。ここまでの論理展開に何か反論はありますか?」
榊原がいったん男に尋ねるが、男は腕組みをしたまま、まるで榊原に挑戦するかのように話を先に勧めるよう促す仕草を無言で示す。そして、榊原もその挑戦に真っ向から応じた。
「まず、後者の可能性……つまり『犯人が松尾貫太郎氏に渡した「何か」に爆弾が仕掛けられていた可能性』について考えてみましょう。それを踏まえた上で映像を見てみると、松尾邸を訪れた三人がそれぞれ手土産を持参しており、それを貫太郎氏に手渡していた事がわかります。他に貫太郎氏に渡されたものがない以上、爆弾が仕掛けられるとすればこの手土産という事になってくるでしょうが、当然ながらその手土産が松尾貫太郎氏の荷物に入れられなければ何の意味もなく、よってその可能性がない手土産は爆弾候補から除外される事になります」
榊原は淡々と言葉を紡ぎ出していく。
「その上で、三人が貫太郎氏に手渡したものを確認してみると、三木橋知事が古い文庫本、岡知事がシンポジウムの資料が入った封筒、そして高砂知事が茶菓子と硫黄島で供養してほしいと頼まれた指輪入りの小箱となっています。いずれも茶菓子以外は貫太郎氏が自身の荷物に入れる可能性があるものですが、これらのいずれかに爆弾が仕掛けられた可能性は低いと判断します。というのも、問題の爆弾は時限式かつバス一台を吹っ飛ばすほどの威力を持つもので、そうなれば使用される配線の本数や爆弾の量から考えて、それなりの大きさの物体に仕込まれていたと考えるしかないからです。先程列挙した品々では、いずれであってもこの規模の爆弾を仕掛けるのには明らかにサイズが小さすぎ、よってこれらの品々に爆弾が仕掛けられていた可能性は否定できると判断します」
ここで一度言葉を切り、榊原はさらに論理を積み上げていく。
「となれば、残る可能性はもう一つのケース……すなわち『犯人が隙を見て貫太郎氏の自室に忍び込んで荷物の中に爆弾を仕掛けた』という可能性に絞られる事になります。そして、この可能性が浮上した時点で高砂知事は容疑者から外れる事となる。なぜなら映像を見る限り、彼は松尾邸を訪れてから政治塾が終わって屋敷を去るまでの間、一度もカメラの前から姿を消していないからです!」
松尾貫太郎の自室にある荷物に爆弾を仕掛ける以上、名目は何であれ一度はカメラのある部屋を出る必要があるのは自明であり、それはすなわち一度も部屋を出た事がない人間に爆弾を仕掛ける事ができないという理論に直結する。そうなると、一度も部屋を出ずにずっと松尾貫之助と話をし続けていた高砂が犯人でないのはもはや明白極まりない話であった。
「その一方、残り二人の知事は、政治塾の途中でそれぞれ一度ずつ、トイレ名目で十分程度離席しているのが映像でも確認できます。となれば、この二人のうちどちらかが離席した際に貫太郎氏の自室に密かに忍び込んで爆弾を仕掛けたと考えるしかありません。ですがその場合、犯人にはもう一つの条件が付属する事となる。それはすなわち、『部屋を出る時にそれなりの大きさの荷物、つまり仕掛ける爆弾の現物を持っていかなければならない』という事実です。これは先程の手土産についての理論を考えた際にも問題になった話ですが、仕掛けられた爆弾は複雑な配線処理が必要な時限式だった上に、威力もバス一台を吹っ飛ばすくらいのものでした。となれば、これまた先程と同じ事を言いますが、その爆弾はポケットに入れられるようなサイズではなかったはずで、確実に何かの荷物に偽装して部屋から一緒に持ち出さなければならないはずです」
一気にそこまで話しきると、榊原は一度言葉を切り、相手の反応を伺ってから推理を続けた。
「ところが、映像を確認すると、トイレのために離席した二人は、部屋から出る際に荷物らしい荷物を所持していません。まぁ、これは当然ですね。普通はちょっとトイレに行く際に荷物を一緒に持ち出すなどという事はしませんし、そんな事をしたら確実に怪しまれてしまいますから。では、この二人も犯人ではないのか? いえ、実はもう一つだけ可能性が存在するのです」
そして榊原は結論を告げる。
「すなわち、問題の爆弾は松尾邸を訪問してから部屋に入るまでの間に屋敷のどこかに隠しておき、トイレ名目で部屋を出た後で隠しておいた爆弾を回収してから貫太郎氏の自室にある荷物に仕掛けに向かったという可能性です。そしてこの可能性が正しかったとした場合、容疑者はさらに絞れる事になります。なぜなら、事件当日に最初に松尾邸を訪れた知事は、松尾貫太郎氏自身が玄関まで直接出迎えに行き、そのまま一緒に部屋まで案内しているからです。当然、そんな状況で屋敷のどこかに爆弾を隠す事などできるわけがない。従って、彼も犯人ではない事になります。よって消去法から、残る一人の知事こそが爆弾を仕掛けた犯人であると断定する事ができるのです」
その瞬間、室内にいる人々の視線が一斉に『知事』へと向く。その人物こそが全ての元凶……文字通り何十人、何百人もの人々の人生を狂わせ、破滅させ、果てに命を奪うきっかけになった諸悪の根源……
「以上の理由から、今ここに、私は告発します。この事件の犯人は、あなたです」
全てに決着をつけるその名前を、榊原は鋭く、はっきりした口調で叩きつけるように告げた。
「愛知県知事、岡是康!」
その名を呼ばれ、全ての『元凶』……日本三大都市圏の一角・愛知を十年以上にわたって率い続けてきた男は、無言のまま鋭い眼光を榊原に向けたのだった……。
ようやく、ここまで追い詰めた。
ようやく、ここまでたどり着いた。
長い道のりだった。
何人もの人間が死んだ。
何百もの人生が狂った。
だが、それもここまでである。
涼宮事件、関ヶ原事件、日沖事件、イキノコリ事件、蝉鳴村事件……
そのすべての大事件の遠因となり、『元凶』となった『鳩野観光夜行バス失踪事件』。
今ここに、今度こそ、全てに『決着』がつく。
名探偵vs知事
後に文字通りの『伝説』と化す、一切の血も流れず、一切の武力も用いない、『言論』という凶器を使った文字通りの『死闘』が、今、幕を開けようとしていた……。