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蝉鳴村殺人事件  作者: 奥田光治
第四部 決戦編
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第三十三章 霞ヶ関

 二〇〇七年三月二十日火曜日深夜、東京某所のビルの一室。そこで日本警察のトップ・警察庁長官の棚橋惣吉郎たなはしそうきちろうが二人の男と対峙していた。一人は警察庁を管轄する国家公安委員会の青倉将勝あおくらまさかつ総務大臣兼国家公安委員長。もう一人は元警察庁長官という経歴を持つ厳島蔵ノ介(いつくしまくらのすけ)法務大臣だった。現職閣僚の中でも特に警察とのつながりの深い二人が、政権代表として棚橋長官との会談に応じた形になっていた。

「棚橋君、話は聞いたよ。もうすぐ参院選というこの大切な時期に、警察が何やら困った動きを見せているとね」

 青倉の牽制めいた言葉に、棚橋はただ肩をすくめて応じた。

「何の事かわかりかねますが」

「とぼけなさんな。先日発覚した十年前のバス失踪事件。その容疑者としてよりにもよって東海三知事をリストアップしているという噂は霞ヶ関にも届いている。都道府県知事が殺人容疑で逮捕されるともなれば正真正銘、前代未聞の話だ。そんな事件は日本の歴史上、一度たりとも発生していないわけだからな。棚橋君、君は優秀な人間だと私は思っている。そんな君であれば、政府がこの案件を黙って見過ごすわけにいかない事も理解できると思うがね」

 青倉のさらなる言葉に、棚橋はなおもとぼけた風に言いつくろう。

「我々は我々の職務を忠実に遂行しているだけです。お言葉ですが、部外者が下手に口を出さんでもらいましょうか」

「職務に忠実すぎるのも問題だよ。日本人は働き過ぎだというのが私の持論でね。ライフワークバランスという言葉も流行っているようだし、警察とはいえ、少しくらい手を抜いても構わんのだよ。働き過ぎは……いずれ自身の身を滅ぼす」

「お気遣いどうも。これが終わり次第、捜査員には残業手当と長期休暇をあてがっておきましょう。国家公安委員長からのお気遣いと知れば、皆喜ぶと思います」

 穏やかな会話ながら、薄暗い室内にはピリピリとした空気が張りつめている。と、ここで今まで黙っていた厳島が口を挟んだ。

「棚橋君。私も元警察官僚ですから、警察の仕事や君の立場もよく理解しているつもりです。それを踏まえた上で聞きますが……もう、止まるつもりはないのですね?」

 穏やかながら鋭い視線から発せられた問いかけに、棚橋は黙って頷く事で応じた。

「……かつて君と同じ立場にいた私が言うのもなんですが、警察もこんな時だけは頑固ですね」

「仕事ですから。それに、今回だけはうやむやのまま終わらせるわけにはいきません。警察の威信にかけて、関連する事件の全てを完璧に解決し、決着をつける必要があります。少しでも手を抜いて遺恨ができれば、後々問題になるのは目に見えていますから」

「たまった膿は一気に出し切ってしまった方がいい……という事ですか?」

「今ならどのような決着であれ、あくまで形式上は『一地方公共団体の不始末』という形で政府に迷惑をかけずに済みます。ですが、ここで下手にそちらが手を出すと、かえってややこしい事になりかねません。汚職や公職選挙法違反どころか事は大量殺人です。うかつに巻き込まれると、最悪、政権がひっくり返る可能性さえある。それはこちらも望まない事です」

「安易に手を出すな、と?」

「それこそ選挙前のこの大変な時期に、そちらが藪をつついて蛇を出す必要性もないでしょう。これは警察と真犯人との間の問題です。自分から火の粉をかぶりにいかない事をお勧めします」

 棚橋の穏やかな脅しに、厳島は苦笑気味に答えた。

「……いいでしょう。そちらから何か私たちに言っておきたい事はありますか?」

 厳島の問いかけに、棚橋は慇懃無礼に応じる。

「では一つだけ。我々……すなわち警察庁と名古屋地検特捜部は、明日にでも東海三知事のうち、こちらが特に容疑が濃いと判断した『ある知事』に対する任意同行に踏み切り、そのまま爆弾によって不特定多数の人間を殺害した大量殺人犯として逮捕する見通しです。先程は『一地方公共団体の不始末』という言い方をしましたが、どのような結果になったとしても県知事を殺人犯として逮捕する事になりますので、先程青倉委員長がおっしゃられたように歴史がひっくり返るレベルの大騒動になるでしょう。さらに言えば、この一件はすでに一都四県の県警が動いています。従って、警察庁としては本件を『警察庁広域手配指定事件』に認定せざるを得ない状況です。具体的には、一年前に『シリアルストーカー事件』を一二五号事件に指定していますので、本件は一二六号事件という事になりますが」

「……政府としても、騒ぎに対する心づもりと準備はしておけ、という事ですか。それは構いませんが……しかし、今回は逮捕ではなく強制力のない任意同行です。拒否されたらそれまでですし、その場合、ダメージが残るのは警察側だけです。その状況下で、誰かは知りませんが君たちが狙う知事が任意同行に応じると本気で思っているのですか?」

 試すような厳島の問いかけに、棚橋は実直に答える。

「普通は思いませんが、今回だけは話が別です。何しろ、警察が動くよりも前に、息子の敵討ちを狙う名古屋在住の与党の元重鎮が裏で勝手に動いたようですので」

 その言葉に、青倉が苦虫を嚙み潰したような顔を浮かべた。

「松尾さんか」

「すでに辞めて余生を送っている身とはいえ、彼の声を無視できる政治家は少ないでしょう。政治上の教え子である東海三知事も、彼が動いているとなれば任意同行を拒否できないはずです。下手に拒否して松尾さんを敵に回せば、それこそ自身の政治生命が危うくなりますから」

 愛知県警から聞いた話では、県警側が何か考える前に、松尾側から愛知県警本部長宛に電話で協力要請があったらしい。任意同行当日、もしその『疑わしき知事』が警察からの要請を拒否するようなら自身に電話をしてほしいとの申し出だった。立場上、直接的な味方はできないが、敵を決闘の土俵に上げるところまでは協力する……それが被害者遺族でもあるかつての大物政治家・松尾貫之助の最大の譲歩であり、同時に政治家として最後のけじめでもあるようだった。

「……わかりました。首相には我々から確実に伝えておきますよ。忙しい所、ご苦労様です」

 厳島の言葉に、棚橋は一礼して部屋から出て行こうとする。と、そこへ厳島が声をかけた。

「最後に聞いておきますが、今回の一件、私立探偵の榊原君が絡んでいると聞いたのですが、間違いありませんか?」

「……それを聞いてどうしますか? 一般人を捜査に参加させたとでも言って我々を処罰しますか?」

「いえいえ、彼の事はよく知っていますのでね。何しろ、かつて彼が所属していた警視庁刑事部捜査一課第十三係……通称・沖田班を設立したのは当時警察庁刑事局長だった私ですから」

「……それは重々承知しております」

 厳島はフッと笑ってこう告げた。

「もし、彼に会うような事があれば伝えてください。私の不始末を押し付けて悪かったと」

「不始末、ですか?」

「蝉鳴村の事件の概要報告は読みました。今回の事件、私があの葛原光明という悪魔の死刑執行命令書にサインをしたのが事の発端だったようですからね。良かれと思ってやった事でしたが、見込みが甘かったようです。元警察関係者としては忸怩たる思いですよ。その尻拭いをしてもらっている以上、私が彼を糾弾する権利などありません。それに……」

「それに?」

「それ以前の話として、私は榊原君に大きな借りがありますのでね。もちろん、君もよく知っているとは思いますが」

「……」

「何しろ十年前、彼は実質的に私のせいで警察を去る事になったのですからね。いくら借りを返しても返しきれないとはこの事でしょう。だから、この際思う存分やったらいい。それが私の考えですが、青倉委員長はどう思われますかね?」

 そう言われて青倉は苦虫を潰したような顔をしていたが、反対するつもりはないようだった。ちなみにこの青倉国家公安委員長は内閣情報調査室(通称・内調)職員から議員当選して閣僚にまでのし上がった人物で、直接面識はないものの、『伝説の刑事・榊原恵一』の事についてある程度の事は知っている人物であった。

「そういうわけで、先程の伝言、伝えてもらえますか?」

「……生憎ですが、私は榊原恵一という男とは直接的なつながりがありません。伝言を頼みたいのなら警視庁の沖田総監か石川副総監、あるいは橋本捜査一課長辺りに頼むのがいいでしょう。それが無理なら、御自分で直接伝えれば誠意が伝わるのではないですかな?」

「……考えておきましょう。引き留めてすみませんね」

 厳島の言葉に、今度こそ棚橋は一礼して部屋を出ていく。後に残された厳島と青倉はしばらく黙っていたが、やがて青倉がおずおずと厳島に話しかけた。

「厳島大臣……」

「聞いた通りです。今回の一件、政府としては静観の姿勢を取ります。警察はどう脅しつけたところで止まるつもりがないようですし、前田首相にもそう進言するつもりです。それで誰が逮捕されようと、政府としては一切関知しない。よろしいですね?」

「……わかりました。遺憾ではありますが、聞いている限り私もそれが一番良さそうだと思います。触らぬ神に祟りなし、という奴ですな」

 厳島は息を吐いてソファに深くもたれかかった。

「榊原君、君は変わりませんね……。だからこそ、扱いが難しい。厄介な事です」

 厳島はそう言って窓の外に広がる東京の夜景を見やる。静かに、しかし確実に何かが動き出そうとしていた……。

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