第三十二章 最悪の容疑者
二〇〇七年三月二十日火曜日の正午頃、愛知県名古屋市内にある名古屋地検特捜部は緊張に包まれていた。すべては先日静岡県でようやく発見された、十年前の『鳩野観光バス失踪事件』の余波によるものだった。
すでに事件は警察庁指揮の元で警視庁、山梨県警、静岡県警、愛知県警の合同捜査が行われており、さらに捜査の過程で東海三県の知事に疑いがかかるという前代未聞の事態になったのに際し、新たに蝉鳴村の事件の処理で揺れに揺れている岐阜県警と、蝉鳴村の左右田元村長の公金横領疑惑の捜査を進める名古屋地検特捜部、さらに統括役として何人かの警察庁関係者も捜査に合流する見通しとなっていた。もちろん、現段階では三知事に対して爆発物を使った大量殺人容疑がかかっているなどという事実は極秘情報とされているが、あの蝉鳴村事件が終わったにもかかわらずどういうわけか警察がピリピリし続けているという状況はマスコミも敏感に感じ取っているようで、何かはわからないが「Xデー」が近づいているのではないかともっぱらの噂になっていた。
この日、今回の事件の捜査に携わる関係者たちが、合同捜査本部が設置される事となった名古屋地検特捜部に集結していた。何しろ相手が三県の知事であるため、逮捕にはこの手の政治関連事件の捜査経験が豊富な地検特捜部の協力が必要不可欠である。このため、警察庁と検察庁の上層部の間で緊急の捜査協力の協定が結ばれ、東海三県を管轄する名古屋地検特捜部に特例で本件に関する合同捜査本部が設置される事となったのだった。
そんな捜査員たちの中に、警察からの要請で引き続きアドバイザーとして捜査に参加する事になった私立探偵・榊原恵一もいた。そして榊原は、多くの捜査員が準備で行き交う中、正面の席の前である人物と運命的な邂逅を果たしていた。
「初めまして、と言うべきなのでしょうね。御高名はかねがね。蝉鳴村の一件では、色々お世話になりました」
「……こちらも初めましてと挨拶しておきましょうか。お名前だけは蝉鳴村で何度も聞きましたが、こういうカラクリだったとはね。改めて、お会いできて嬉しいですよ、蝉鳴村の先々代巫女・大島瀧江さん」
榊原のその言葉に、正面に座る女性……名古屋地検特捜部を率いる大島瀧江特捜部部長は、薄く微笑んでそれに応じた。その後ろに、あの村では岐阜県警の刑事を名乗っていた名古屋地検特捜部検事・桜庭克茂が居心地悪そうな表情で控えているのが見え、その横に同じく特捜部検事の高坂重治が無表情に立っている。
「その肩書はあの狭い村の外では全く意味がありません。今の私は『名古屋地検特捜部部長検事』という事になります」
「そうですか……あの村で話を聞いた限り、他の巫女とは明らかに毛色の違う巫女のようだという感触を持っていましたが、それは当たっていたようですね」
「おほめに預かり光栄です、と言っておきましょうか」
「……聞くところによると、大島家は村から出て行ったという事ですが、ご家族は今?」
「父の幸一郎は東京で今も元気に暮らしています。先日電話しましたが、仮にも村の元有力者として、苦々しい想いで日々の報道を見ていたようです。むしろ私に対して『遠慮せずに容赦なく締めあげて、村の膿を出しきってしまえ』と発破をかけていました」
大島瀧江の母・大島鷹代は旧名を左右田鷹代といい、左右田昭吉の実の妹に当たると同時に左右田常音から数えて五代前の巫女でもある。鷹代自身はすでに死去しているが、その夫で大島家当主だった大島幸一郎は瀧江が巫女の座を退いた後で彼女共々村から追放同然に出て行ったという事だったが、どうやら他の有力者とは違ってまともな人間のようである。
「美作清香の事については……」
「……正直、一言で言い表せないくらい複雑な気分、としか言いようがありません。私が彼女を次の巫女に指名しなければ彼女が堕ちる事にならなかったんじゃないかと思う反面、検察官として彼女の犯した犯罪を許す事ができない気持ちもあり……本当に複雑です」
「……」
「私にできるのは、二度と彼女のような人間を出さないよう、あの村の闇を徹底して暴き切る事だけです。ようやく……あの村を追い出されてから抱き続けたその願いをかなえる事ができそうです」
「左右田村長とはもう?」
「いえ、まだ会っていませんが、いずれその時は来るでしょう。父に言われるまでもなく、容赦するつもりは一切ありませんし、ここからが本番だと思っています。ただ、その前に今回のこの一件を片付ける事にしましょう」
そう語る彼女の目は、すでに元巫女から名古屋地検特捜部部長の顔へと戻っていた。
その一方、岐阜県警からは、蝉鳴村の事件の後処理で忙しい柊警部に代わり、県警刑事部捜査一課から別のベテラン警部が派遣されてきていた。年齢五十代半ばと思しき胡麻塩頭のその警部は、榊原に近づいてきて挨拶する。
「どうも、岐阜県警の小石川蔵彦です。以後、お見知りおきを」
その警部……小石川蔵彦の名前に榊原は聞き覚えがあった。
「確か……関ヶ原事件の時の関ヶ原署の捜査責任者の刑事の名前が『小石川蔵彦』だったはずでは?」
「おや、ご存知でしたか。さすがは関ヶ原事件をひっくり返した探偵さんですなぁ」
どうやら、事件後に昇進して県警本部の刑事部へ異動したらしい。
「柊警部と汐留刑事部長から、榊原さんによろしくと言われてきました。ま、一つお手柔らかに頼みますよ」
「こちらこそ」
かくして、舞台は整った。午後二時、百名を超える捜査員たちが集結する中、いよいよ事件についての合同捜査会議が始まった。まず、桜庭がここまでの捜査の流れを説明する。
「先日、伊豆半島西岸の駿河湾内で、十年前に失踪していた鳩野観光の夜行バスの車体の残骸を発見。調査の結果爆破の痕跡が見られ、この爆発物が当時乗客だった代議士秘書・松尾貫太郎の荷物内で発生した可能性が極めて高いと考えられています。そして、松尾貫太郎は事件前に名古屋市内の実家である屋敷に帰省しており、この際、父親の松尾貫之助氏が問題の屋敷内で行っていた政治塾に参加していたと思われる、三木橋寅蔵、岡是康、高砂勝充郎の三名が松尾貫太郎の荷物に爆弾を仕掛けた可能性が浮上している次第です」
もしこの話が正しいとすれば、標的の錯誤があったとはいえ、犯人は十人以上の人間を殺害してしまっている事になる。事件が十年前なのでまだ公訴時効は成立しておらず、いくら知事とはいえこの事実が明らかになれば政治生命が絶たれる所の話ではない。被害者数だけで言えば今回の蝉鳴村の犯人・美作清香と同格の大量殺人犯という事になり、ほぼ間違いなく死刑判決が下されるだろう。それだけに、三人のうち誰が犯人であれ、相手に気付かれていないこの状況下で一気呵成に逮捕に持っていかなければ、相手が文字通り命懸けで抵抗してくる事は目に見えていた。
「まったく、こっちは左右田村長の逮捕で手一杯だというのに、その上とんでもない爆弾を投げ込んでくれたものですね」
独り言のようにそう言いながらも、瀧江の表情は闘志に満ちていた。これに斎藤が応じる。
「では、立件を見送りますか?」
「冗談。ここで諦めたら、何のための名古屋地検特捜部ですか。こっちも東京や大阪に負ける気は全くありませんよ」
特捜部が設置されているのは東京、大阪、名古屋の三ヶ所で、他の二ヶ所に比べると名古屋地検特捜部はどうしても知名度が高いとは言い難い。それだけに、他の特捜部に対する対抗心は大きいという事のようだった。
「失礼。続きをどうぞ」
斎藤が促すと、桜庭は頷いて話を進めていく。
「松尾貫太郎は当時外務大臣だった秋田玄志郎衆議院議員の秘書で、爆発の時間などから考えるに、問題の爆弾はこの秋田玄志郎氏を狙ったものと考えられます。爆弾の爆破時刻は八月十三日午前十時で、予定通りバスが東京に着いていれば、秋田大臣と共に太平洋上でヘリに乗っている時間帯に爆発しているはずでした。つまり犯人は、秋田玄志郎氏に対する強い動機を持っていたものと考えられます。しかし、実際は問題のバスが釈迦堂パーキングエリアで乗っ取られるという事件が起こって予定通りの時刻に東京に到着しなかった事から犯人の計略が狂い、結果、爆弾は走行中のバスの車内で爆発する事になってしまいました。この爆発によりバスは人知れず駿河湾に落下し、乗っ取り犯を含めた乗客乗員のほぼ全員が死亡する事態になったというわけです」
その乗っ取り事件の詳細については、長年この一件を追い続けていた山梨県警の藤が報告する。その説明が一通り終わったところで、再び進行役の桜庭が発言した。
「ではここで改めて問題の知事三名の簡単な経歴を各県警の捜査員から報告して頂き、全体としての情報共有を行いたいと考えます。それではお願いします」
桜庭の言葉に、岐阜県警、愛知県警、静岡県警の捜査員たちが立ち上がり、それぞれが管轄する県の知事の報告を行う。まずは岐阜県警の小石川警部だ。
「えー、岐阜県知事の三木橋寅蔵は七十二歳。高校卒業後に岐阜市内に本社を置く大手ゼネコン会社に就職し、若い頃は主に現場の作業員として活躍。その後、資材調達係から現場監督へ出世した後に現場を離れて本社の幹部になり、最終的に社長にまで上り詰めています。一九九五年に定年でゼネコンを退社した後、岐阜県議会選挙に立候補してこれに当選。その後、二〇〇一年に行われた岐阜県知事選挙に立候補して当選し、以降は現在に至るまで知事職の座にいます。元ゼネコン出身だけあって公共事業関連の政策に非常に強く、建築業界関係者や政財界の有力者とも深いつながりがあります」
続いて、愛知県警の長谷川警部が報告する。
「愛知県知事は岡是康、七十歳。かつては名古屋市内にある海名大学理工学部の教授でしたが、一九九四年に名古屋市長選挙に立候補して当選し、続けて一九九八年に行われた愛知県知事選挙に立候補し当選。以後、一度も負ける事なく再選を繰り返し、現在に至っています。言うまでもなく、日本三大都市圏の一角である名古屋大都市圏の政治上の最高権力者とも言える存在で、二〇〇五年の愛知万博開催や中部国際空港開港にも大きく関与しています。政治力という点では三人の中でも間違いなく一番の力量の持ち主で、一筋縄ではいかない存在である事に疑いはないでしょう」
最後に立ち上がったのは、静岡県警の榎本警部だった。
「静岡県知事は高砂勝充郎、六十八歳。元々は警察庁の警察官僚で、最終的に岡山県警本部長まで出世しますが、一九九八年に突如退職し、同年に行われた故郷の浜松市議会選挙に立候補して当選し政治家へと転向。六年後の二〇〇四年に静岡県知事選挙に立候補して当選し、二〇〇九年に開港予定の静岡空港建造計画推進にも大きく関与しています。また、警察官僚時代は警備畑を中心に異動し、一九七〇年代に多発していた過激派による爆破テロ事件の捜査にも多数参加。あの『あさま山荘事件』の際にも幹部の一人として現地入りしています。もしかしたら、ここにいる人間の中にも彼の事を知っている人間がいるかもしれませんね」
と、ここで桜庭が補足するようにこう述べた。
「なお、すでに述べられたように三木橋寅蔵は現場経験もある元大手ゼネコン会社社長、岡是康は化学物質を扱う元理工学部教授、高砂勝充郎は爆弾テロ事件の捜査にもかかわっていた元警察官僚です。従いまして、いずれの人物が犯人であったとしても、爆発物を製造・使用するための専門知識や材料を入手する伝手はあったと考えてもよいと思われます」
その言葉に、誰もが厳しい顔をする。つまり、爆薬の知識があるかどうかは犯人を特定する証拠にならないという事でもあった。
「では引き続き、各知事の事件発生当時の状況についての調査結果の報告を各県警からお願いします。まず、岐阜県警!」
桜庭の言葉に、再び小石川が立ち上がった。
「先程申し上げた通り、三木橋寅蔵は元ゼネコン会社社長で政財界の有力者との繋がりが強く、そうした繋がりのある関係者の中に一九九七年当時の運輸省事務次官だった咲沼頼秀という男がいました。この二人の関係はかなり深く、実際に三木橋が社長をしていたゼネコンが運輸省絡みの案件を受注する事も多かったといいます」
「咲沼頼秀……ね」
小石川の出した名前に、斎藤や榊原らが意味深な表情を浮かべる。それを見て、小石川はさらに話を続ける。
「警視庁の方ならご存知かと思いますが、一九九七年当時、咲沼頼秀は東京地検特捜部から汚職の捜査対象としてマークされ、悪い意味で世間の注目を浴びる存在でした。警察内部では『咲沼事件』と呼ばれている一件です」
事の発端は一九九二年に発覚した、いわゆる『ゼネコン汚職事件』と呼ばれる事件であった。一九九二年、歴史にその名を残す『佐川急便事件』をきっかけに当時の与党幹事長が脱税容疑で逮捕された事件の捜査に際し、その与党幹事長の関係先から押収された書類からゼネコン各社が政界の有力者たちに賄賂を贈っていた事が判明し、政財界を揺るがす大スキャンダルへと発展した。この事件そのものは当時の建設大臣、茨城県知事、宮城県知事、仙台市長、茨城県三和町長という五人の政治家が根こそぎ逮捕されるというかなりの大事になる形で幕を閉じたのだが、東京地検特捜部はゼネコン絡みの汚職のさらなる実態解明に向けた捜査の継続を決定して特別捜査本部を設置。そして数年にわたる内偵調査の結果、問題の一九九七年頃になって新たに浮上したのが、当時の運輸省事務次官・咲沼頼秀に関する疑惑だったのである。
「端的に言えば、運輸省が主導していたある公共事業の入札に際し、咲沼事務次官が特定のゼネコンから賄賂を受け取る代わりに便宜を図っていたのではないかという、言っては何ですが典型的な贈収賄の疑惑でした。で、彼に賄賂を贈っていた疑惑をかけられたゼネコンの一つが、当時岐阜県議会議員だった三木橋がかつて社長をしていた岐阜県下のゼネコンであり、しかもその贈賄のいくつかは三木橋が社長をしていた時代に行われていた可能性があったのです」
「つまり……三木橋自身が贈賄に関与していた疑いがあったという事ですか」
「えぇ。実際、当時の東京地検特捜部もその方針で捜査を進めていて、三木橋に対する事情聴取が行われるのも時間の問題だとされていたんです。しかし……そうなる前に、事態は思わぬ展開を迎えました。他でもない、事件の中心にいた咲沼頼秀運輸事務次官が遺体となって発見されたんです」
思わぬ展開に、刑事たちは息を飲む。
「現場の状況と彼自身が逮捕直前だったという境遇から、この事件は当初自殺と判断されていました。しかし、渦中の人間の突然の死ですから警察としても判断には万全を期す必要があり、当時の警視庁内で一番の検挙率を誇った捜査一課十三係が捜査に動員されたのです。そう、そこにいる榊原恵一さんがかつて所属し、そのブレーン役を担っていた伝説の捜査班です」
その事実に、事情を知らない刑事たちが榊原の方を見やるが、榊原は黙って腕組みしながら話を聞いているだけである。小石川は気にせず話を続ける。
「榊原さんをはじめとする十三係の捜査の結果、この事件は自殺に偽装した殺人事件である事が明らかになり、捜査本部が立てられる事となりました。そして捜査の結果、榊原さんたちの尽力もあって、発生から約一週間後に無事に咲沼頼秀を殺害した真犯人は逮捕されました」
「では、咲沼殺害事件自体はもうすでに解決しているわけですね?」
「その通りです。十三係が見つけた犯行を立証する証拠は完璧に近く、犯人自身も己の犯行を認めており、現在は刑務所に服役しています。少なくとも殺人の実行犯がこの人物である事は疑いようのない事実であると考えてよいでしょう」
ただ、と小石川は言い添えた。
「その自白よると、犯人は殺人行為自体は認めているものの、動機については咲沼の犯した汚職事件とはあまり関係がない個人的な事情から発生したものだと主張しており、裁判でもこの主張を覆す事はできませんでした。その一方、事件の中心にいた咲沼が殺害されてしまった事で汚職事件の捜査の方は暗礁に乗り上げてしまい、結局この件に関しては、死亡した咲沼が被疑者死亡のまま書類送検されこそしたものの、それ以外の関係者の逮捕までもっていく事ができずに終わりました。三木橋寅蔵もそうした事件関係者の一人で、今回問題になっている鳩野観光バスの事件は、この『咲沼事件』のゴタゴタが一段落着いた頃に起こった一件でした」
と、ここで藤が質問を投げかけた。
「三木橋寅蔵と咲沼頼秀の関係については理解しました。しかし、肝心の秋田玄志郎との繋がりはどうなっているのですか?」
藤のそんな問いかけに対し、小石川は一瞬そちらの方を見やると、すぐに言葉を返した。
「それについてですが、実は秋田玄志郎は外務大臣になるよりも前、より詳しく言うと一九八六年から一九八九年までの約三年間、運輸大臣に任命されていた時期があります。そしてその三年間、当時は運輸省の一官僚に過ぎなかった咲沼頼秀とは上司と部下の関係になっており、どうやらその際に深い繋がりを得ていたようなのです。実際、咲沼事件の際には咲沼からかつての上司である秋田玄志郎に金が流れていないかという捜査もなされていたようなのですが、この筋については結局確たる証拠がなかったため、東京地検特捜部も追及を諦めています。実際の所は不明ですがね」
「つまり、三木橋寅蔵と秋田玄志郎には直接的な繋がりはないが、咲沼頼秀という存在を通じて間接的な繋がりが存在している可能性がある、という事ですか」
「その通りです。そして、その間接的な繋がりを発端として両者の間に何かがあり、それが原因で三木橋寅蔵が秋田玄志郎に殺意を抱くようになった可能性は捨てきれないと考えます。もっとも、現段階ではその『何か』が本当にあったのかもわかりませんし、それゆえにこの可能性自体も証拠のない想像でしかないわけですが」
小石川の報告は以上だった。続いて、長谷川が事件当時の岡知事の状況について説明しにかかる。
「事件のあった一九九七年ですが、当時の愛知県知事が高齢を理由に引退を表明していて、翌年の一九九八年に行われる愛知県知事選挙で新知事が誕生する予定でした。で、この知事選挙に立候補を表明していたのが、当時の名古屋市長だった岡是康と、愛知選挙区選出の参議院議員で当時内閣官房副長官だった杉原宗佑の二人。他にも何人か泡沫候補はいましたが、実質的にこの二人の一騎打ちだろうと言われていました」
「当時の世論調査の結果は?」
「いくつかの地方新聞やローカルテレビが行っていますが、おおよそ五分五分。正直、この時点ではどちらが当選してもおかしくない状況だったようです。ただ、国会議員の後押しがある杉原宗佑の方が若干有利ではないかという予測もあるにはあったと」
「逆に言えば、この段階で杉原宗佑が選挙に出馬できなくなれば、岡是康の当選はほぼ決定的だったという事ですね」
斎藤の感想に、その場にいる誰もが同感という風な表情を見せた。
「そして、この対立候補の杉原宗佑のバックにいたのが、今回問題になっている秋田玄志郎でした。一九九七年当時、秋田玄志郎は与党の重鎮として外務大臣の座におり、当時官房副長官だった杉原宗佑はそんな秋田玄志郎の右腕兼後継者として活躍していました。杉原が議員の座を捨ててまで愛知県知事選に立候補しようとしていたのもおそらく秋田の意を受けての事で、将来的に首相の座を狙っていた秋田が、三大都市圏の一角である愛知県を自身の地盤に組み込む意図があったと推測できます。実際、当時は参議院選挙区こそ秋田派の杉原が押さえていましたが、衆議院選挙区は全て秋田のライバル派閥に属する議員が押さえているという構図だったようで、秋田がテコ入れを試みようとする下地は充分にあったと考えます」
「となれば、岡是康からすれば、自身のライバルだった杉原宗佑には知事選に立候補してもらいたくなかったはずですね。杉原さえ立候補しなければ、他の泡沫候補に岡是康を負かすだけの実力はなかったはず。つまり……岡是康には杉原宗佑を消す動機が存在する」
が、ここで桜庭から反論が入る。
「しかし、実際に狙われたのは杉原宗佑ではなく松尾貫太郎が秘書をしていた秋田玄志郎の方です。問題の硫黄島の慰霊祭に杉原が同行したような形跡もありません。杉原を消すならともかく、直接的に岡と関係がない秋田を消そうとするのは解せない話に思えるのですが」
それは確かにその通りだった。普通に考えて、いくら秋田玄志郎を殺害したところで、肝心の杉原宗佑がいる限り立候補を止める事はできないはずである。
「結局、一九九八年の知事選では岡是康が当選しています。という事は、杉原宗佑は選挙で負けたという事なのですか?」
これは捜査本部にいた若い刑事の質問だった。が、これに対し、愛知県警や警視庁の捜査員たちはどういうわけなのか重苦しい表情で答えた。
「いや、違う。杉原宗佑は結局この知事選には出馬していない。というより……出馬できなかった」
「出馬できなかった、ですか?」
「あぁ。なぜなら……今回のバス失踪事故から一年後の一九九八年、立候補を間近にして、杉原宗佑は東京都内で何者かに殺害されてしまったからだ」
長谷川の言葉に、その刑事は絶句する。
「殺害……」
「そうだ。これについては咲沼事件とは違って疑う余地のない殺人事件だ。しかも、今に至るまで犯人は捕まっていない」
「で、では、もしかして杉原宗佑を殺害したのは岡知事……」
だが、この言葉に対して斎藤から強い否定の言葉が入った。
「それはあり得ません」
「な、なぜですか?」
当然とも言えるその問いに対し、斎藤はなぜか榊原をチラリとみてからこう答えた。
「なぜも何も……そんな簡単な事件だったら、榊原さんが警視庁を辞めるような事態にはなっていないはずだからです。そうですね、榊原さん」
斎藤の言葉を受けて、ずっと黙って話を聞いていた榊原は、静かに目を開けて呟いた。
「杉原宗佑……まさか今になって、こんな所でその名前を聞く事になるとは……因果は巡るとはこの事か……」
そう言ってから、榊原は真剣な表情で一同を見回し、おもむろにこう語り始める。
「警察関係者の中にはご存知の方も多いかもしれませんが……一九九八年十二月八日、私は当時発生していたある連続殺人事件の捜査失敗の責任を取る形で警視庁を辞職し、こうして私立探偵に転身する事となりました。当時の警視庁に大量の処分者を出し、私が所属していた警視庁捜査一課第十三係……通称『沖田班』の解体のきっかけとなった上に、現在に至るまで未解決状態が続いているあの事件……警察史上最大の敗北劇とまで呼ばれている事件の事を、一般的にはこう呼びます」
榊原はその事件の名を重々しく告げる。
「『政治家連続殺人事件』と」
「っ!」
何人かの若い刑事たちが息を飲んだ。それは現在では警察内部でタブー視されている事件であり、何よりかつて警視庁のエース刑事だった榊原恵一を辞職に追い込んだ……刑事時代の榊原がほぼ唯一ともいうべき「完全敗北」を喫した事で有名な事件の名前なのである。
「それでは、まさか……」
「えぇ。杉原宗佑は『政治家連続殺人事件』……あの事件の第一の被害者となった人物です。私にとっては『因縁の相手』といえるかもしれませんね」
ある意味、当事者とも言える男の言葉に、部屋の中がシンと静まり返る。
「あの事件の捜査の際、当然、杉原宗佑が愛知県知事選挙に立候補しようとしていた事は我々もつかんでいましたし、実際に対立候補への捜査も愛知県警を通じて行いました。ですが、結果はシロ。少なくとも、杉原宗佑殺害事件に岡是康が絡んでいないのは間違いのない事実です」
それに、と榊原は続けた。
「『政治家事件』はその後も連続殺人という形で続き、その中で殺害された政治家たちは、いずれも岡是康とは全く関係のない人間ばかりでした。彼らを殺害する動機が岡知事に存在したとは思えないのが実情です」
「という事は、少なくとも『政治家事件』と岡知事は直接的に関係がない?」
「それが当時の捜査本部の結論です」
榊原の答えは非常に短いものだった。だが、今回の事件で新たに出てきた情報を踏まえるとその結論がどうなるのかは、正直に言って全く予想ができないのも事実であった。
「ひとまず、私からの報告は以上です」
そう言って長谷川は報告を終える。最後は三人目の高砂勝充郎に関する情報である。これについては榎本が報告に入った。
「えー、すでに述べたように高砂勝充郎は元警察官僚で、事件発生当時は岡山県警本部長の職に就いていました。階級は警視長。ただ、この当時から警察官僚としての地位を利用して政治家との繋がりが深く、その一環で松尾貫之助の政治塾にも参加していたようです。そんな高砂勝充郎と秋田玄志郎の繋がりについてですが、端的に申し上げますと、高砂勝充郎は警察官僚だった時代に、秋田玄志郎絡みの一件で警察官僚としての経歴を終わらせるような大失敗をしていた事が確認されたのです」
再び部屋の中にざわめきが起こる。
「その事件が起こったのは一九八七年で、当時、高砂氏は広島県警警備部長の地位にいました。ご存知のように、平和記念公園を抱える広島県は国際的な平和式典などが多い事から国内外の要人が頻繁に訪れる場所でもあり、そんな要人たちの警備業務を統括する県警警備部長の地位は警察官僚にとってはそれなりの重要職となっています。ですが、高砂氏はそんな要職の地位にあった際に、ある致命的な失敗を犯してしまったのです」
そこまで聞いて、何人かの刑事が何かに気付いたかのような顔をした。
「それ、もしかして『広島事件』の事ですか?」
「その通りです。さすがに有名な事件なので、ご存知の方も多いかと思います」
そんな前置きをした上で、榎本は問題の事件の詳細を説明しにかかった。
「一九八七年、広島市内で行われたあるイベントに来賓として何人かの要人が出席したのですが、その来賓の中の一人に、当時運輸大臣だった秋田玄志郎がいました。当然、それだけの要人が集まっていたので広島県警警備部は会場の警備を厳重にしていたのですが、それにもかかわらず、来客に紛れた一人の男が会場内で来賓席目がけて拳銃を発砲するという事件が起こったのです。幸い、銃弾は要警護対象者である秋田たちに命中する事はなかったものの、発砲された三発の銃弾のうち二発が聴衆の一人と主宰側のボランティア一人に命中して負傷。さらに、発砲した犯人もその場から逃走を図ったものの、SPに追いかけられてもはやこれまでと覚悟を決めたのか、会場近くの路上で自ら頭を撃ち抜いて自殺しています」
要人側に被害がなかったとはいえ、不審者の侵入を許し、あまつさえ一般人に犠牲者を出したとなれば、警護を担当した県警側がただで済むはずがないのは確実である。だが、この一件はさらに予想の斜め上の方向へと事態が悪化する事になってしまったのである。
「その後の捜査で、いくら県警側の警備計画に不手際があったとしても、あの厳戒態勢の中で拳銃を持った犯人が会場に侵入できたのはどう考えてもおかしいという事になったのです。そこでさらなる捜査が行われた結果、事件当日に現場の警護を担当していた県警警備部の捜査員……つまり、当時県警警備部長だった高砂氏の部下に、犯人に内通していた人間がいた事が発覚したのです。要するに、その捜査員が拳銃を持った犯人を自身の警備担当区域から会場内へ手引きしたというのがこの事件の真相だったわけですね」
事態を受け、県警側はすぐにその内通した捜査員の確保に動いたが、向こうもその動きを察知したのか、県警の捜査員たちが自宅に駆けつけた際にはすでに自殺を遂げた後だった。このため、結局この内通した捜査員と犯人が銃撃事件を起こした動機や具体的に当時会場にいた誰を狙ったのかについては未解明となり、不祥事の責任を取る形で当時の広島県警の幹部陣が何らかの処分を受ける事になったという。その中には当然、警備部長として警備計画の指揮に当たっていて、部下の裏切りに気付けなかった高砂も含まれていた。
「結局、この一件が原因で高砂氏は警察官僚の出世コースから外れる事になり、以降は中規模県警の警備部長や県警本部長などの職を転々とする事になりました。彼が警察官僚でありながら政治家と繋がるようになったのもこの頃からの事で、彼を知る警察関係者の中には、高砂氏が未だにあの事件の事を悔いていて、犯人たちが事件を起こした動機を解明するための情報を得るために、あの時会場にいた秋田玄志郎を含む要人たちに接近しているのではないかと噂する人間もいたようです。もっとも、最終的に彼は警察を辞めて市議会議員経由で知事になっているため、実際の所がどうなのかはわかりませんが」
こちらからの報告は以上です、と榎本は締めくくり、そのまま自分の席に下がる。捜査本部内に一際大きなざわめきが広がったが、とにかく今の報告で、三人の知事には三者三様に秋田玄志郎との繋がりがある事がはっきりしたわけである。
「……さて、問題はここから具体的にどうやって犯人を特定するかですね」
瀧江の言葉に、立ち上がったのは愛知県警の古部だった。
「それですが、先日行われた松尾貫之助氏への聴取に際し、この状況を知った貫之助氏から今まで表に出ていなかった有力な証拠が一つ提供されました。その証拠を検証すれば、もしかしたら事件の犯人を特定できるかもしれません」
「その証拠というのは?」
「これです」
古部はそう言ってあるものを示した。それは、ビニール袋に入れられた一本のビデオテープであった。
「ビデオテープ、ですか?」
「はい。実は問題の政治塾ですが、貫之助氏の話によると、議事録の意味合いも込めてその様子を貫之助氏のカメラでビデオ撮影していたという話なのです」
その言葉に、室内の捜査員たちがいっせいにざわめき、後ろで聞いていた榊原の目も鋭く光る。
「という事は、そのビデオは……」
「はい。問題の爆弾が仕掛けられたと思われる一九九七年八月十二日、名古屋市内の松尾邸で容疑者三名を招いて行われた政治塾の具体的な様子を知る事ができるほぼ唯一の証拠となります。逆に言えば、当時の状況を知る事ができる証拠は十年が経過した現在となってはこれしか残っておらず、このビデオから事件を解決する何らかの情報を得られなかった場合、その時点で事件の真相究明は暗礁に乗り上げると考えて頂きたい」
それはこの場の捜査員たちにとってかなり重い言葉だった。しかし、道がこれしか残されていない以上、とにかく挑んでみなければ話が始まらない。
「映像をお見せする前に、いくつか事前情報を申し上げます。先述したように、この映像が撮影されたのは一九九七年八月十二日で、政治塾が行われた当日午後二時から午後五時及びその前後の、おおよそ三時間半程度の映像が残されています。鑑識によると加工や編集の痕跡は一切確認されず、完全にオリジナルの生映像と考えてもらって結構です。また、カメラは政治塾の議論が行われた松尾邸の座敷に固定された状態で撮影されており、爆弾が仕掛けられた松尾貫太郎氏の鞄が置かれていたと思われる彼の自室の映像は一切映っていません。つまり、残念ですが誰かが爆弾を仕掛けている直接的な映像は存在しないというわけです」
「まぁ、そんなものが映っていたらさすがに父親の貫之助氏が黙っていないでしょうしね」
斎藤がポツリと呟く。
「映像に登場するのは、松尾貫之助、松尾貫太郎、三木橋寅蔵、岡是康、高砂勝充郎の五名。当時まだ存命だった松尾貫之助の妻は用事で遠出しており、この日は松尾邸にいなかったそうです。その事を前提に、早速ですが映像をご覧ください」
その言葉と同時に部屋の明かりが消され、正面のスクリーンに問題の映像が映し出され始めた。映像が始まると、松尾邸の座敷と思しき和室が映し出され、その一番奥の床の間の前に和服姿の松尾貫之助がどっしりと座っているのが見えた。
『映っているかね?』
『……はい、大丈夫です。バッテリーも五時間くらいは持つはずです』
その言葉と共に、カメラの後ろから映像の中にスーツ姿の若い男が姿を見せる。この若い男が松尾貫太郎なのだろう。
『今日来るのは三人だったね?』
『はい。岡先生と高砂先生、それに今日初参加の三木橋先生です』
『あぁ、そうだった。三木橋君は今日が初参加だったね。議論に深みが出る事を期待しようじゃないか』
貫之助はそう言って出されていた湯呑から茶を一口飲むと、唐突に何かに気付いたように、部屋の準備を続けている貫太郎に声をかけた。
『そう言えば貫太郎、午前中姿が見えなかったが、一体どこにいたのかね?』
『百貨店とか本屋とかでいくつか買い物をして、帰ってからは部屋で明日の荷造りをしていましたよ』
『そうか、硫黄島は明日だったか』
『はい。秋田先生に何か伝言があれば伝えておきますが』
『別にないよ。体にだけは気を付けるように言っておいてくれ』
『わかりました』
そう答えてから、貫太郎はチラリと壁にかかる時計を見て立ち上がる。
『そろそろ玄関に出迎えに行ってきます。三木橋先生は今日が初参加ですので、案内が必要かと』
『あぁ、頼む』
貫之助が頷きながらそう言うと、貫太郎は一礼して座敷から出て行った。そのまましばらく、貫之助が一人で瞑目している姿が映っていたが、十五分くらいして再び座敷の襖を開けて貫太郎が中に入ってきた。
『父さん、三木橋先生がおいでになられました』
その言葉と同時に、貫太郎の後ろからスーツを着た別の男……後の岐阜県知事である岐阜県議会議員・三木橋寅蔵が進み出て正座し、貫之助に対して深々と一礼する。
『松尾先生。この度は、この政治塾に参加させて頂き、ありがとうございます。この三木橋寅蔵、感謝の念に堪えません』
『まぁ、固くならんでよろしい。今日は君の忌憚のない意見を楽しみにしているよ』
『ははっ』
そう言って再び頭を下げてから、三木橋はふと何かを思い出したかのように貫太郎の方に向き直った。
『あぁ、そうだ。貫太郎君、実は君に手土産があってね』
そう言いながら、三木橋は懐から何かを取り出して貫太郎に手渡す。それは古びた表紙の文庫本のようだった。
『先日、行きつけの古書店に行った時にこれを見つけてね。以前会った時に君が探していると言っていたのを思い出して、こうして手土産がてらに持ってきたわけだがね』
その文庫本を受け取った貫太郎の顔に驚きが浮かぶ。
『これは……』
『フランクリン・ルーズベルト著『大統領のミステリ』。君の話だと、かのアメリカ大統領・フランクリン・ルーズベルトがネタを提供し、そのネタを元に当時のアメリカの推理作家たちが合作した作品との事だがね。まさか本当にそんなものがあって、しかも日本語訳されているとは驚きだったよ』
貫太郎はしばらくまじまじと表紙を眺めていたが、やがて深々と頭を下げて礼を言った。
『ありがとうございます。不躾ですが、いくらお支払いすればよろしいでしょうか?』
『いやいや、構わんよ。値段もそこまで高くはなかったし、手土産という事で……』
『いえ、そういうわけにはいきません。後で変な疑いを持たれたくはありませんので』
『そうかね。ならば、お言葉に甘えて千円だけ頂戴しようか。というより、実際にその値段だったわけなのだがね』
『わかりました』
貫太郎は財布を取り出して千円札を取り出し、そのまま三木橋に渡した。
『ふむ、確かに』
『重ね重ねありがとうございます。早速、今夜にでもバスの待ち時間に読ませて頂きます』
『君の本好きも相当だね。そう言えば、明日は硫黄島だったかね』
『はい。この政治塾が終わり次第、夜行バスで東京に戻ってからヘリで移動する予定です。移動時間や待機時間がかなりありますので、時間を工夫すれば、帰ってくるまでに三冊くらいなら充分読み切れると思います』
『ほう、他にも持っていくつもりなのかね?』
『はい。一応、『ホッグ連続殺人』と『呪骨』という作品を今読んでいる途中ですので、持っていこうかと』
『これは恐れ入った。また感想を聞かせてくれると嬉しいね』
三木橋はカカッと笑い声を上げる。と、そこへさらに別の男が貫太郎の後ろから姿を見せた。
『失礼。いつもの事だから勝手に上がらせてもらったが、よかったかね?』
『大丈夫です、岡先生。ようこそいらっしゃいました』
その男……後の愛知県知事である名古屋市長・岡是康は貫太郎から貫之助の方へ顔を向けると、三木橋の隣に正座してこちらも一礼した。
『お久しぶりです、松尾先生。お元気そうで何よりです』
『君もな、岡君。市長の仕事はどうだね?』
『まぁまぁですなぁ。やる事が多くて大変なのは間違いないですが』
そう言うと、持ってきた鞄から一通の茶封筒を取り出し、それを貫太郎の方へ差し出す。
『先日、君に頼まれていた資料だ。確認してほしい』
『お手数をおかけしてすみません』
そう言って頭を下げながら、貫太郎は封筒の中身を確認する。
『何だね、それは?』
『いえ、実は先日、海明大学で政治学者の高梨教授のシンポジウムがあったのですが、所用でそのシンポジウムに参加する事ができなかったのです。それで、せめてシンポジウムで配布された資料だけでも読みたいと思っていたのですが、その話を岡先生にしたところ、資料を取り寄せて頂けるという事で』
『いや何、私も高梨教授は同じ大学の友人でね。貫太郎君が資料をほしがっていると聞いたので、彼に頼んで取り寄せてもらったのだよ』
『ありがとうございます。早速、読ませて頂きます』
『そう言えば、明日から硫黄島だったね』
『はい。しばらくこちらの家を空けますので、よろしくお願いします』
『うむ、わかった』
それからさらに十分後、三木橋と岡が貫之助と話をしている中、再び貫太郎が誰かを連れて座敷に現れ、最後にやってきた男……後の静岡県知事である岡山県警本部長・高砂勝充郎が正座して一礼した。
『ご無沙汰しています、松尾先生。時間ぎりぎりになってしまい、申し訳ございません』
『構わんよ。聞いたところによると、君も警察の仕事で忙しいそうじゃないか』
『いやはや、先生にはかないませんね』
苦笑気味にそう言うと、高砂は手に持っていた箱を差し出した。
『手土産なしもあれだと思いまして、ちょっとした茶菓子を持ってきました。この後の討論の際に皆さんで食べて頂けたらと思いました』
『ほう、気が利くな。貫太郎、せっかくだから後でお出ししなさい』
『わかりました』
貫太郎はそう返事をして、高砂から菓子箱を受け取る。と、不意に高砂の表情が少し真剣なものになった。
『ところで貫太郎さん。聞くところによると、明日、秋田大臣と一緒に硫黄島に行かれるとか』
『そうですが、それが何か?』
『……実は、一つ折り入って貫太郎さんに頼みたい事がありまして』
そう前置きして、高砂は改めて貫太郎に向き直る。
『頼み、ですか?』
『はい。先日、私の叔母が病気で亡くなったのですが、その叔母の夫……つまり私の叔父は戦時中に硫黄島守備隊の一人でしてね。残念ながらそこで戦死してしまい、叔母とは今生の別れになってしまったわけですが、そんなわけで死の間際に自分の形見を叔父が眠る硫黄島に届けてほしいと頼まれたのです』
そう言うと、高砂は懐から一辺五センチ程度の小さな箱を取り出し、それを貫太郎の前に置いて蓋を開けた。その中を覗きながら、貫太郎が呟く。
『これは……指輪、ですか?』
『はい。これを硫黄島の海に投げ込んで頂きたいのですが、可能でしょうか?』
『それは……』
どうしたものかと貫太郎は一瞬貫之助の方に視線をやったが、貫之助がゆっくりと頷きを返すのを見ると、貫太郎も高砂の頼みを引き受ける気になったようだ。
『わかりました。そういう事なら、お引き受けしましょう』
『助かります。本来は私がやらねばならないのですが、あの島は一警察官僚にそう簡単に行ける場所ではありませんので』
高砂は再び頭を下げると、指輪の入った小箱を貫太郎に手渡し、貫太郎はその箱を自身の懐にしまった。それを見届けると、改めて貫之助が声を張り上げる。
『さて、早速だが、時間も惜しいし政治塾を始めよう。今日は初参加の三木橋君もいるが、遠慮せずに忌憚ない意見をぶつけ合ってほしい』
貫之助のその言葉と共に、政治塾が始まった。政治塾とはいっても、その内実は貫之助の指導を受けつつ行う政治討論会のようなもので、その後は時間一杯になるまで休憩もなく何とも難しい政治的な意見の応酬がひたすら続けられた。
その内容に関しては政治家から見れば非常に有意義なものなのだろうが、今回の事件には恐らく関係ないと思われたのでここでは割愛する。それよりも榊原たちが重視したのはこの討論中における座敷の人の出入りであったが、結果から言うと午後三時頃に三木橋が、午後三時半頃に岡がそれぞれ十分ずつトイレのために離席しただけで、後は全員が激しい議論を続けている光景がひたすら映し出されていたのである。無論、トイレのための離席の際に彼らが何か怪しいものを持って部屋を出た様子などない。
そして、午後五時を少し過ぎた辺りで白熱した討論会はようやく終わりを告げ、三人の客は貫太郎の案内で同時に部屋を出ると、そのまま一緒に屋敷から帰って行ってしまった。その後、貫太郎が一人で座敷に戻って貫之助と一言二言話をし、やがてカメラの所に歩み寄って撮影を停止した所で、映像は終わっていた。
「……映像は以上です」
映像が終わると、捜査本部内は一気にざわめきに包まれた。榊原は腕組みをしながら目を閉じて何かを考えており、それを気にしつつも、斎藤たちは今の映像についての検証を始めた。
「予想はしていたが、この映像だけでは誰が爆弾を仕掛けたのかまでは……」
「見た限り、誰も怪しい言動はないようですし、爆弾らしきものを持ち込んだ人間もいないように見えますね」
「よほど小型の爆弾だったとか。例えば手榴弾とか」
「いや、バス一台吹っ飛ばすほどの時限爆弾だとするなら、起爆装置なども含めてそれなりの大きさがあるはず。少なくともポケットに入れられる程度の大きさとは思えません」
「厄介ですね。しかし、当時の状況を知る証拠がこれしかない以上、何が何でもこの映像から手掛りを得なくてはならないのも事実です」
様々な意見が飛び交うが、この映像だけで何か手懸りを得るのは難しそうだという点では意見が一致しているようだった。しかし、それでは全く意味がない。見かねた瀧江が、後ろで腕を組んで黙ったままの榊原に意見を求める。
「榊原さんはどう思いますか? ここまでの話を聞いて、何かわかった事はありますか? あればぜひ、聞かせて頂きたいのですが」
瀧江のその言葉に、刑事たちが固唾を飲んで榊原の方を見やる。だが、その直後に榊原が口に出したのは、その場の誰もが予想にもしない言葉だった。
「ないわけではありませんが……それについて答える前に、榎本警部、昨日の例の事情聴取で新たにわかった事を皆さんに報告しなくてもよいのですか?」
「え? あ……あれですか? いや、しかし、こんなタイミングで……」
榎本は当惑気味に答えるが、その言葉に反応したのは瀧江だった。
「昨日わかった事、というのは?」
「え、えぇ……実はその……何というか……」
榎本は一瞬榊原の方を見やると、なぜか少し言いにくそうな表情でその『新たな事実』について報告し始めたのだった。
……この前日、捜査線上に松尾貫太郎が浮かんだ事を受け、今となっては事故の唯一の生存者である青空雫こと白小路若菜に対する再聴取が西伊豆署の小会議室で行われていた。
「この男について、何か覚えている事はありませんか?」
聴取が行われた小会議室には榎本、斎藤、榊原の三人が入り、雫は松尾貫太郎の写真を見ながら必死にあの日の事を思い出そうとしているようだった。今となっては、バス失踪当時の松尾貫太郎の様子を語れるのは彼女だけである。それだけに彼女も必死なのが伝わってくるのだが、それでも記憶には限界があるようだった。
「……ごめんなさい。少なくともバスが乗っ取られた後は下手に動く事もできなくて、明確に記憶に残るような動きをした乗客はいなかったように思うんですけど……」
「では、乗っ取られる前はどうですか?」
斎藤が尋ねるが、こちらも芳しくない。
「前にも話したように、乗っ取られる前はバスが名古屋駅を発車してからずっと寝ていました。もちろん発車してすぐの頃は玲音たちと小声でお喋りしていましたけど、逆に言えばお喋りに集中していたから他の乗客の事なんか見ていなかったと思います」
「そうですか……」
と、ここで榊原が口を挟んだ。
「根本的な事を聞きます。そもそもの話として、あなたはこの男の顔に見覚えはありますか?」
そう言われて雫は改めて写真を見るが、なぜか首をひねる仕草を見せた。
「それが……見覚えはあるんです。確かにこの人、乗客の中にいたと思います」
「ですが、今の話だとあなたが松尾貫太郎の顔を覚えるような場面はなかったと思われます。にもかかわらず顔を覚えているとなると、何かそのきっかけになる出来事があったのではないでしょうか?」
「そう……ですよね」
と、ここで榊原はさらにこう続けた。
「乗車してからは見ていないとの事ですが、乗車前はどうですか?」
「乗車前?」
「例えば、名古屋駅前でバスが来るのを待っていた時です。先日聞いた話だと、到着からバスが来るまでそれなりの待ち時間があったようですが」
「それはそうですけど、でもそこでもずっと玲音たちとお喋りをしていて……」
「本当ですか? 涼宮さんが本を読んでいたというような事も言っていたはずですが」
「本……あっ!」
と、ここで突然雫が目を見開いた。
「どうしましたか?」
「思い……出した。何で今まで忘れてたんだろ!」
叫ぶようにそう言って、雫は榊原の方をまっすぐ見ながらこう続ける。
「今思い出したんですけど、確かに名古屋駅前にバスが来る三十分くらい前に、私たちその人の顔を見ています。その……ちょっとしたトラブルがあって」
「トラブル?」
「だんだん思い出してきた……そう、確か、その人と玲音が待合所でぶつかったんです」
「ぶつかった、ですか」
「はい。確かあの時、茉莉はちょうど駅のトイレに行っていて、待合所のベンチに私と玲音だけが腰掛けていました。玲音は本を読んでいて、私は確かウォークマンで音楽を聞いていたはずです。それで……その時、待合所にやってきたこの人が何かの拍子でベンチの前でよろめいて……」
そこで雫はハッとした表情を浮かべる。
「そうだ、この人、よろめいた拍子に手に持っていた缶コーヒーの中身を、玲音にかけちゃったんです!」
「コーヒーを……松尾貫太郎が涼宮玲音にかけた?」
それは今まで出てこなかった、事件についての新情報だった。
「確かですか?」
「はい。あ、でもホットじゃなかったから火傷とかもなかったし……というより、玲音の体にはかからなかったはずです。かかっていたらさすがに服をどうするかで悩んだはずですから。確か……コーヒーは玲音が読んでいた本にかかったんです」
「本……ですか」
「はい。本人は無事だったけど、本はもう読めないくらいにグシャグシャになっちゃって。そしたら……」
「そしたら?」
雫は記憶をたどるように真剣な表情を浮かべていたが、やがてポツリとこう言った。
「そうだった……あの人が、玲音に代わりの本をくれたんです」
「どういう意味でしょう?」
「あの人、本を台無しにしちゃって平謝りだったけど、その時ちょうど同じ本を持っていたらしいんです。だから、お詫びにって言って、自分が持っていた本とコーヒーまみれになった本を交換してほしいって言ってきたんです。『自分はもう読み終えたところだから、大丈夫だ』って言って」
「それで涼宮さんは?」
「えっと……確か、その申し出を受け入れて、本を交換したはずです。相手の人は何度も謝りながら自分も近くのベンチに腰掛けて、直後に茉莉も戻って来て……そう、その騒ぎのすぐ後にバスがやってきたんです。玲音はもらった本を上着のポケットに突っ込んでベンチから立ち上がっていました」
それが、十年間一切表に出てこなかった「新たな真実」の内容だった。この些細な出来事が今後の捜査にどう影響してくるかはわからない。だが、この段階で出てきた情報が全くの無駄という事は考えづらかったし、無駄にするわけにいかないというのも事実だった。
「榊原さん、どう思いますか?」
「……雫さん、その交換されたコーヒーまみれの本はどうなったかわかりますか?」
「それは……そこまではわかりません。でも、そんな本はもう読めないから、その辺のゴミ箱にでも捨てたんじゃないでしょうか。まだバスが来る前だったし、当時の駅だったらゴミ箱はいくらでもあったはずですから」
駅などの公共施設からゴミ箱が本格的に撤去され始めるのは二〇〇一年のアメリカ同時多発テロ以降の話である。一九九五年の地下鉄サリン事件の余波があったとはいえ、まだまだゴミ箱はホーム以外にもそれなりの数が設置されていたはずだ。
「あの……こんな証言、何か役に立つんでしょうか? 自分で言うのもなんですけど、正直意味がない証言にも思えるんですけど」
雫は不安そうに言う。だが、榊原は首を振ってこう答えた。
「いえ、絶対に何かの役に立つはずです。貴重な証言、ありがとうございます」
そう言って頭を下げる榊原の目には、静かな闘志が灯っていたのだった……。
「以上です」
榎本が報告を締めくくり、捜査本部の面々が再びざわめく。が、それはどちらかといえば戸惑いの方が大きいようだった。何しろ、肝心のバス失踪時の松尾貫太郎の行動として明らかになったのが「乗車前に涼宮玲音の本に誤ってコーヒーをかけた」という事だけでは、正直どうしようもないというのが大方の捜査員の感想である。
ただ、この証言を受けて一つ新たに判明した事があった。
「青空雫が当日着ていた服のポケットから見つかった四つの残留物のうち、証拠物件4の『茶色い何かの紙片』ですが、科捜研による鑑定の結果、微量ではありますがコーヒーの成分が検出されたそうです。正直、その正体については科捜研も首をひねっていましたが、今回の青空雫の証言を合わせるとその正体は明らかかと思われます。すなわち『松尾貫太郎が交換した、コーヒーまみれになった涼宮玲音の本の破片』です」
榎本の言葉に、今度は違うざわめきが本部内に広まる。
「あくまで推測ですが、松尾貫太郎は問題のコーヒーまみれの本を捨てず、おそらくはビニールか何かに入れた上で自身の荷物に入れたのではないでしょうか。いくら読めないとはいえ、さすがに涼宮玲音がいる前で捨てるのははばかられたでしょうからね。ゆえに、そのまま持って帰ってから捨てるつもりだったのかと思います。という事は、この本は爆発当時爆弾が仕掛けられた荷物の中にあったというわけで、爆発で四散した本の紙片が偶然青空雫の服に残留したと考えても何ら不思議はありません。つまり、この証拠4の存在こそが、青空雫の証言が事実である事の証明につながると思われます」
それについては皆が納得する。問題なのは、この事実が事件にどう影響するかである。
「榊原さん、ここまでの情報を踏まえた上で、何か考えはありますか?」
瀧江の質問に、刑事たちは再び榊原の方を見やる。その視線を受けても榊原は全く動じていないようだったが、やがて静かな口調でこう告げた。
「……一つ、調べて頂きたい物があるのですが」
「何でしょうか?」
「松尾貫太郎氏の部屋に残されていた『ある物』についての調査です。具体的には付着している『指紋』を調べて頂きたいのですが」
そう言ってから、榊原は『ある物』の名を告げる。と、それには長谷川が応じた。
「それならすでに検査は終わっています。結論から言うと、その『物品』からは一切の指紋が検出されていません」
「間違いありませんか?」
「えぇ」
「そうですか……」
榊原はそう呟いて少しの間うつむき加減に考え込む。そして、不意に顔を上げると、静かな口調でこう言ったのだった。
「いいでしょう。ひとまず、これで大まかな道筋は見えたと考えます。もちろん、細かい詰めは必要ですが、『奴』を追い詰めるためのスタートラインに到達する事はできたはずです」
その瞬間、部屋に漂う空気の緊張感が一気に変わった。斎藤が顔に緊張を浮かべながら尋ねる。
「それじゃあ……」
「あぁ。あくまでひとまずではあるが、この事件を解決するための大まかな論理は完成したと考える。あとはここまで出てきた情報を使って、どうやって相手を追い詰めるか、だ」
榊原の宣言にその場の誰もが息を飲む中、瀧江が気を取り直すと、その場を代表して榊原に対して肝心な質問をする。
「榊原さん、教えてください。一体、誰なのですか? 我々が追い詰めるべき相手は、一体……」
その問いに対し、榊原は一瞬黙り込んだ後、あくまでも淡々とした声で、これから自身が相対しなければならないその相手の名を告げた。
「この事件の犯人は……」