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蝉鳴村殺人事件  作者: 奥田光治
第四部 決戦編
48/57

第三十一章 十年前の闇

 二〇〇七年三月十九日月曜日、青空雫こと白小路若菜の告白から二日後のこの日……静岡県伊豆半島の西側にある西伊豆町の海岸近くを、静岡県警や海上保安庁の調査船が行き交っていた。一体何事かと周囲の住人たちが不安そうに沿岸から海の方を眺める中、作業開始から二時間ほどして海上保安庁の調査船から全捜査員に無線の声が響き渡った。

『対象らしき物体を発見! 場所は西伊豆町沖の海底、深さ十五メートルの場所!』

 ……それから数時間後、にわかに現場が騒がしくなる中、クレーンを乗せたサルベージ船が海岸道路近くの海上に姿を見せ、さらにダイバーたちが次々と海中に飛び込んでいった。住人たちのざわめきが最高潮に達する中、ようやくある一つの情報が彼らの耳に飛び込んでくる事となった。


 いわく、海岸道路近くの海中から、転落したバスの残骸が見つかったらしい、と。


「そうですか、見つかりましたか」

 同時刻、緊急で最寄りの静岡県警西伊豆警察署に設置された捜査本部の中で、榊原は重苦しい声でそう言った。それに対し、捜索の捜査責任者である榎本も低い声で応じる。

「えぇ。二日間、あの辺りの海中を徹底的に探しましたが、ようやくです。それでも、見つかっただけまだよかったとは言えますが」

「ようやく……この事件の突破口を開く事ができそうです」

 ……二日前、雫の証言を受け、静岡県警は問題のバスが伊豆半島近くの海底に沈んでいる可能性が高いとして、海上保安庁に協力要請をした上で海中捜索を行う事を決定した。榊原が雫と共に伊豆半島沿岸を走る道路を車で走った上で彼女の記憶から大まかな転落地点の候補を絞り、そこに十年前に彼女が発見された海岸の場所を起点に事件当日の天気などを踏まえて海流の流れなどを逆算するなどの補助計算も行った上で大まかなバスの転落地点を特定。そうして特定された場所というのが、伊豆半島西部の伊豆市、西伊豆町、松崎町に面する海岸線だった。そして、そこを集中的に捜索した結果、二日目の今日になってついに問題のバスの残骸と思しきものを西伊豆町沖の海中から発見したのである。

「今、ダイバーが潜って残骸周辺を調べていますが、周囲や車内から白骨のようなものも複数確認されているという事です。ひとまず主だった残骸は引き上げた上で、そうしたものも回収できるだけ回収したいとは思っています」

 十年間、誰にも知られる事なくずっと海底で眠り続けていた遺骨である。その扱いは慎重にする必要があった。

「念のために聞きますが、発見されたのは間違いなく十年前に失踪したバスなのですか? あってはならない話ですが、他のバスという可能性は?」

 捜査本部入りしていた斎藤が確認を取るが、榎本の答えは明白だった。

「残骸近くの海中からナンバープレートが発見されています。そのナンバープレートに書かれていた数字が、十年前に釈迦堂パーキングで消えた問題のバスのそれと完全に一致しました。まず、間違いないかと」

「そう……ですか」

 予想していた事とはいえ、重い事実だった。

「なお、海中の残骸を調べた結果、青空雫の証言通り爆発があったと思しき痕跡を確認。詳細は残骸を引き上げて調べる必要がありますが……沈没直前に、バスで爆発があったのは間違いなさそうです」

 ここまでの捜査で、青空雫の証言内容が正しかった事は証明された。となると、次の問題はバスを海中に沈める事となったこの『爆発』の正体である。

「一体、どうして走行中のバスがいきなり爆発したんだ?」

 同じく捜査本部入りしていた山梨県警の藤が呟き、愛知県警の長谷川も黙って考え込む。すでにこの事件は、警視庁、山梨県警、愛知県警、静岡県警による広域合同捜査に変貌しつつあった。

「榊原さんはどう思いますか?」

 榎本に水を向けられ、榊原は自身の考えを語る。

「……走行中のバスが爆発したとすれば、可能性は二つしか考えられないでしょう。一つは、バス車両そのものの故障による爆発。もう一つは、乗客の荷物が何らかの理由で爆発した可能性で、この場合も爆発物になりうる物品……それこそスプレー缶などが持ち主の意図しない状況で偶発的に爆発したという『事故』の可能性と、人為的に仕掛けられた何らかの爆発物による意図的な爆発……すなわち『殺人』の可能性が考えられます。ここまではいいですか?」

 榊原の言葉に刑事たちも一様に頷く。

「まず、車両故障による事故の可能性は排除してもよいでしょう。青空雫の証言では、このバスの爆発は何の前触れもなく突然発生しています。車両故障が原因の爆発の場合、前触れなくいきなり爆発するという状況はかなり考えにくい。そのようなケースの場合、その前にエンジントラブルや車両火災など何らかの予兆があるはずで、何のトラブルもなく走っていたバスが突然爆発するというのは不自然すぎます」

「となると、やはり原因は乗客の持ち込んだ荷物ですか」

 状況的にそう考えるのが妥当だというのは刑事たちも意見が一致するところだった。

「青空雫の証言及び状況からすると、爆発が起こったのは客席ではなく車体下の荷物の収納スペースかと思われます。客席でバスが吹っ飛ぶほどの爆発が起こったとすれば、客席にいた人間が五体満足であるとは思えませんから。少なくとも、青空雫のような生存者が発生するとは考えにくい」

 榊原の意見に刑事たちも頷く。となれば、バスの車体下にある収納スペースに入っていた荷物が爆発したと考えるしかないだろう。これならバスそのものは吹っ飛んで海中転落したとしても、収納スペースと客席の間に分厚い鉄板があるため、状況次第では雫のような生存者が発生しても不思議ではない。

「夜行バスの客席はスペースが狭いため、スーツケースのような大型の荷物は収納スペースに積まれるのが普通です。その荷物が爆発したと考えるのが妥当でしょう。爆発した時、バスは現在の西伊豆町の海岸沿いの道を走っており、爆発後、バスはそのまま道路を飛び出して海中に転落した。そして、その時に青空雫は海に投げ出され、潮に流されて沼津市の海岸に漂着する事になった……これが事件の流れだったと思われます」

「つまり、バスが爆発した時間と海中転落の時間はほぼ同じという事ですか」

 となれば、爆発の時間は青空雫の証言にあった午前十時頃と推察できる。なお、この証言の時間を疑問視する声もなくはなかったが、青空雫が提出した当時の所持品の中に壊れた腕時計が含まれており、その時計の時刻が十時を少し過ぎた所で止まっていた事から、午前十時を爆発の時間と考えても問題ないだろうという結論が下されていた。

「事件当日の気象データを確認したところ、伊豆半島周辺は激しい雷雨に襲われており、人通りも普段と比べてかなり少なかったようです。従って目撃者がいなかった事も頷け、さらに爆発音なども当日の雷雨でかき消されてしまったと考えればおかしくありません」

 事件当時大雨が降っていたという情報は確かに雫自身も証言していた。

「海に落下したとなれば、例えばガードレールを突き破った形跡などが残るのではないですか?」

 長谷川がすかさず疑問を発するが、榎本が即座に応えた。

「バスが発見された辺りの海岸道路は現在こそガードレールがありますが、事件の発生した一九九七年の時点ではガードレールが設置されていなかった事が西伊豆町役場の記録で確認されています。そこから落ちたとすれば落下の痕跡がなくても不思議ではありませんし、何度も言うように当日は激しい雷雨が降っていたので、多少の痕跡は洗い流されてしまった可能性もあります」

「今まで見つからなかったのも当然という事ですか」

「それに加えて、警察は長年バスジャック犯たちの工作に引っかかって全く逆の方向を探していたんです。遺憾ではありますが、これで見つかる方が奇跡というものでしょう」

 藤は悔しそうにそう結論付ける。ともあれ見つかった以上、大切なのは今後の話だった。

「……仮に、爆発物が乗客の荷物に仕掛けられていたとして、一体誰の荷物に何の目的で仕掛けられていたと考えますか?」

 斎藤は榊原に対してそんな問いを発する。それに対し、榊原は少し黙り込んでジッと何かを考え込んでいたが、やがて目の前の刑事たち全員に対してこう答えた。

「少なくとも、爆発物を仕掛けた目的がバスの爆破でない事は確実だと思います」

「と言うと?」

「まず、爆発物を仕掛けたのが大竹と富石のバスジャック犯たち自身である可能性はないと判断します。森永からの現金強奪が目的なのにそんな自爆のような事をする意味がありませんし、百歩譲って口封じのために乗客を皆殺しにする目的で爆発物を持ち込んでいたとしても、自身がまだ乗っている状況で爆破しては本末転倒です。なお、犯人が爆発の瞬間にバスに乗っていた事は青空雫の証言からもはっきりしていますので、犯人がバスから逃げた後で爆弾を爆破したという筋は充分否定できます」

 と、ここで藤が反論した。

「その爆発が大竹たちの意図しないタイミングで発生したものだったとすればどうですか? 例えば本来自身がバスを降りてから口封じ目的で爆破する予定だったものが、暴発によって予期せぬ爆発が起こって命を落としてしまった、とか」

 だが、榊原は即座に反論する。

「だとしても、ならばなぜ切り札になる爆弾を自身の手が届かなくなる収納スペースに預けたのかが説明できません。確実に乗客の息の根を止め、なおかつ爆弾の管理を確実なものにするため、普通の犯人なら爆発物は直接車内に持ち込むはずです。よって、最初に言ったようにバスジャック犯たちが自らの荷物に意図的に爆発物を仕込んだ可能性は低いと思います」

 さらに榊原はこう続ける。

「そして、同じ事はバスの乗客にも言える話です。考えたくはありませんが、仮に乗客の一人が上京して都内のどこかで爆弾を爆破させる目的でこのバスに乗っていたのだとしても、先程のバスジャック犯の理論と同様に肝心の爆弾を収納スペースに預けるとはまず考えにくい。何かイレギュラーがあった場合に手元に爆弾が無ければ対処ができませんし、もっと言えばそんな危険物を振動が直に伝わる収納スペースに入れるなど自殺行為もいいところです。この予想が正しいなら、安全のためにもその人物は確実に爆弾を車内に持ち込んで手元に置いておいたはずです。何より、こちらもバスジャック犯と同じく自身がまだバスに乗っているこの状況で爆弾を爆破する意味がわかりません。つまり、乗客や乗員が自らの意思で自身の荷物に爆弾を入れて収納スペースに預けていたという可能性はかなり低いといえるでしょう」

 となれば、と榊原は結論を告げる。

「爆発物を仕掛けたのはバスジャック犯や乗客乗員とは関係のない第三者であり、その第三者が何の事情も知らないいずれかの乗客の荷物に密かに爆弾を仕込んだと考えるしかありません。そしてその場合、爆弾が爆発した時間が問題になります。その爆弾を仕掛けた人物にとって、強盗犯の森永がバスに乗った事や、その森永の所持する大金を狙ったバスジャックが起こる事は完全に想定外で、予測不可能な事象です。つまりこの犯人は、当然ながらこのバスが失踪しない事を前提に爆弾が爆発する時間を設定した事になります。となると、爆発が発生した午前十時というのはバスを狙ったにしては遅すぎる。何しろ、失踪事件さえなければ、この夜行バスは午前七時頃には終着点の新宿駅前に到着していたはずで、誰の荷物に仕掛けられていたとしても、その荷物は爆弾ごとバスから降ろされてしまったはずだからです」

 その推理に、刑事たちの表情が一気に緊張する。

「つまり……榊原さんは、本来この爆発が他の場所で起こるはずだったというのですか?」

「えぇ。本来ならこのバスはあくまで爆弾を運ぶための輸送手段に過ぎなかった。それがバスジャックの発生によって計画が狂い、バスの車内で大爆発が起こる事になってしまった。それが今回の事件における私の推理です」

「……その場合、仕掛けられた爆弾は時限式だった、という事になりますね」

 榎本が確認のために尋ねる。

「私もそう思います。犯人が爆破の有無をコントロールできるリモコン操作式の爆弾なら、こんな状況及び場所でバスを爆破する意味がありませんから。爆弾は犯人ですら途中で解除できない時限式だったと考えるしかないでしょう」

「爆弾を仕掛けた人間は乗客の荷物の中に午前十時に爆発するように時限式の爆弾を仕掛けた。しかし予想外が起こってバスは午前十時までに目的地に到達できず、その結果爆弾は該当時刻にバスの車内にある状態で爆発してしまった……。なるほど、確かに、筋は通りますね」

 榎本はそう言って考え込む。

「となると、問題なのは……問題の午前十時に乗客たちが本来ならどこにいるはずだったのかという『実現しなかった予定』ですね。その予定の中に、言い方は悪いですが爆弾を爆破するにふさわしい場所があれば、爆弾を仕掛けた犯人を一気に絞り込む事ができるかもしれません」

 斎藤の言葉に刑事たちは同意する。だが、何しろ十年前の事件である。どこまで情報を追求できるかは未知数の部分があった。

「被害者遺族の調書が必要ですね。ないようなら直接聞き込む必要性もあります」

 と、ここで榎本の携帯が鳴った。榎本が出て何分か話すと、やがて電話を切った内容を報告した。

「鑑識からです。青空雫から提供された事件当時に着ていたという衣服の鑑定が終わったそうです。わずかではありますが、スカートのポケットの奥から爆発物の残留物を検出できたという事でした」

 それは、疑う余地もなくバスで爆発があった事を示す物的証拠だった。

「さらに詳細な鑑定が必要ではありますが、成分分析から見るに、どうやらプラスチック爆弾のようですね。少なくとも、車両故障やスプレー缶などによる意図しない爆発などではないのは確実です。それと……」

「何ですか?」

「その爆発物の残留物に交じっていくつかの遺留物も検出されました。おそらくですが、爆発物を包んでいた何かの残骸かと思われます」

 その証拠は大きく四つあった。


証拠物件1……焦げた新聞紙の破片

証拠物件2……黒っぽい何かの欠片

証拠物件3……何かの箱の欠片

証拠物件4……茶色い何かの紙片


 いずれも現段階では何の役に立つかもわからない小さな証拠ばかりである。だが同時に、この小さな証拠群は十年間も闇の中に閉ざされ続けてきた事件を解決するために必要な力を持っている可能性がある事も事実だった。刑事たちが真剣な表情で考え込む中、榊原が不意にポツリと呟いた。

「……まるで『横須賀線爆破事件』ですね」

 その言葉に、刑事たちは少しギョッとした表情を浮かべる。

 榊原の言及した横須賀線爆破事件とは、一九六八年六月十六日に神奈川県内を通る横須賀線の北鎌倉駅~大船駅間で、走行中の電車内で網棚に仕掛けられていた時限式の爆発物が爆発し、乗客一名が死亡、二十七名が重軽傷を負ったという日本犯罪史にその名を残す大事件である。当時は「草加次郎事件」など全国各地で爆弾事件が連続して発生した事もあってこの事件は『警察庁広域重要指定第一〇七号事件』に指定され、神奈川県警の地道な捜査の結果、事件から五ヶ月後に東京都日野市に住む大工が逮捕される事となった。

 この逮捕の決め手となったのが、事件現場から押収された『新聞紙の破片』と『菓子箱のボール紙の破片』だった。神奈川県警は現場となった列車の車内から押収された細かい欠片をパズルのように根気よくつなぎ合わせるという気が遠くなりそうな作業を実施し、問題の新聞紙が『一九六八年四月十七日に東京都立川市・日野市のいずれかに配達された毎日新聞の東京多摩版』である事、菓子箱が『名古屋市内にある名古屋城をかたどった最中もなかを販売する製菓会社の箱』である事まで突き止め、この両方を所持していた犯人に見事辿り着く事ができたのであった。新聞紙の紙片と菓子箱の欠片というわずかな証拠から犯人を突き止める事ができた事例として、この一件は警察においても語り草になっている事件である。

「確かに、状況的にはよく似ていますね。もっとも、発見された欠片の数は明らかにこちらの方が少ないですが」

「少なくとも今回はあの事件の時のように『ジグソーパズル』をする事は不可能と考えてもいいでしょう」

「とはいえ、今は横須賀線の事件から約五十年が経過しています。このわずかな証拠からでも、あの時以上の情報が得られるはずです」

「鑑識と科捜研がどれだけ頑張れるかにかかっていますね」

 何にせよ、現段階ではこれらの証拠品については鑑識及び科捜研の調査待ちという事になりそうだった。

「話を戻しましょう。改めて整理しますが、問題はバスに乗っていた乗客が爆破時刻の午前十時に本来どこにいる予定だったかという事です。その場所が『爆破するのにふさわしい場所』だったとしたら、犯人がその場所に行く予定だった人物の荷物に爆弾を仕掛けた可能性が高まるという事になります」

 斎藤が先程まで話されていた論点をもう一度整理して提示する。

「では、逆に現段階で爆弾を荷物に仕掛けられた可能性があり得ない人間を排除する事はできないのでしょうか?」

 榎本の問いかけに応えたのは榊原だった。

「そうですね、全員とまではいきませんが、何人かまで対象者を絞れると思います」

「絞れる、ですか。具体的にはどのような手順で?」

「本件において、荷物に爆弾を仕掛けられた可能性のある人間の条件は二つです。一つは、何度も言うように午前十時時点で『爆破』に適する場所にいる事が確実だった人間。もう一つは、夜行バスの車体下の収納スペースに自身の荷物を入れていた事が確実な人間です。これを逆に言えば、午前十時に爆破にまったく適さない場所にいる予定だった人物や、荷物を収納スペースに入れなかった……もっと言えば、収納スペースに入れるような大型の荷物を所持していなかった人間は爆弾を仕掛けられた人間から除外できます」

 そこから榊原は一気に論理を展開していく。

「まず、先程すでに述べたようにバスジャック犯の大竹たちが爆弾を仕掛けた、あるいは爆弾を仕掛けた荷物を持ち込んだ可能性は排除してもよいでしょう。その次に、二人いた運転手も候補から除外します。夜行バスの運転手が乗客の荷物を差し置いて自身の荷物を収納スペースに入れる事自体があり得ない話ですし、そもそも夜行バスの運転手はそこまで大きな荷物をバス内に持ち込まないはずです。また、強盗犯の森永の荷物に爆弾が仕掛けられていた可能性もほぼないでしょう。状況的に森永の持っていた荷物は強奪した金だったわけで、手の届かない車体下の収納スペースではなく、確実に自分の手元に置いてあったはずですから」

 さらに榊原は論理を突き詰めていく。

「その上で、今回生存者である事が判明した白小路若菜こと青空雫の証言、及び事件直後の涼宮玲音の聴取記録などから、この二人に神寺茉莉を加えた女子中学生三人組も除外です。青空雫本人が三人全員が少ない手荷物と一緒にバスに乗車したと証言していますし、聴取記録を見た限り当時の涼宮玲音も同じ証言をしています。そもそもこの中学三人組の旅行は、夜行バスで東京に出て一日遊び、夜に東京から名古屋へ向かう別の夜行バスに乗って帰宅する予定だったらしく、つまり宿泊の予定はありません。となれば、宿泊用の荷物などを持ち込む必要は一切なく、手持ち式の鞄類を直接車内に持ち込んでいたと考えるのが自然でしょう」

 一度言葉を切ってから、榊原はさらに続ける。

「さらに、以前蝉鳴村で斎藤警部から聞いた際の情報から月村杏里も除外できます。彼女は夏休みを利用して名古屋の親戚の家に泊まりに行った帰りにあのバスに乗ったらしいのですが、その際の持ち物として小振りなリュックサックをバスに持ち込んだという事でした。そもそも、帰省中とはいえ小学生の女の子が収納スペースに乗せるほど大きなキャリーバッグのようなものを持ち込むとは思えません。従って彼女も条件から外れる事になる」

「そうなると、残るは廣井国夫、廣井千代子、栗原悟、垣内翔馬、桐野瑠美乃、林田智代、松尾貫太郎、杉沢香江奈の八人ですね」

 しかしそれでも八人いる。さらなる絞り込みが必要だった。

「この先はより詳細に調べてみないと何とも言えませんね。少し時間を下さい。この八人について、こちらでさらに詳しく調べてみます」

「同感ですね。話はそれからでも遅くありません」

 彼らの居住地は出発地の愛知県か到着地の東京都である。そこを管轄する長谷川と斎藤がそう告げた。榊原たちも頷き、一度この場は解散となったのだった。


 ……それから数時間が経過したその日の夜、西伊豆署の捜査本部で、再度の捜査会議が行われていた。正面には、問題の乗客たちについて調べていた斎藤と長谷川が立っていた。

「何とか一通りの調査はできました。最初に、前回の会議で問題となった八名の乗客についてのさらに詳細な情報についてまとめた資料を作成しましたので、まずはそちらをご覧ください」

 そう言って、長谷川が資料を配布する。榊原もそれを受け取ると、ザッとその内容を確認した。



【廣井国夫】

 事件当時五十九歳。名阪証券第一営業部長。愛知県名古屋市在住。事件当時は夫婦旅行に行く途中で、夜行バスで東京まで移動した後、羽田空港から飛行機で八丈島へ向かう予定だった。その後は八丈島で二泊し、再び空路で羽田まで戻った後、新幹線で名古屋に帰る予定だった模様。

【廣井千代子】

 事件当時五十六歳。廣井国夫の妻で日本舞踏家。愛知県名古屋市在住。事件当時の行動については夫の廣井国夫と同一。

【栗原悟】

 事件当時二十五歳。警視庁八王子中央署地域課巡査。東京都八王子市在住で、八王子駅南第三交番配属。事件当時は休暇を申請した上で名古屋在住の友人(大学時代の同期生)宅を訪れており、翌日朝の出勤に間に合わせるためにバスに乗車した。休暇中であったため私服であり、当然ながら拳銃等も所持していなかったが、警察手帳については所持していたと考えられている。

【垣内翔馬】

 事件当時二十二歳。名邦大学文学部四年。愛知県名古屋市在住。事件当時すでに内定を得ており、卒業後は都内の大手広告代理店に就職予定。桐野瑠美乃とは交際関係。事件当時は夏休みを利用し、奥多摩で発見された古墳の発掘アルバイトに参加するため、恋人の桐野瑠美乃と共に東京へ向かう途中だった。

【桐野瑠美乃】

 事件当時二十二歳。名邦大学文学部二年。愛知県名古屋市在住。高校卒業後、二浪した上で同大学に入学。垣内翔馬とは交際関係。事件当時は垣内翔馬と同じく、奥多摩の古墳の発掘アルバイトに参加するために夜行バスに乗車。

【林田智代】

 事件当時二十七歳。ピアニスト。東京都杉並区在住。事件当時は名古屋市内で行われたコンサートに出演しており、その帰りにバスに乗車した。事件発生の三日後に千葉市内で行われるコンサートにも出演予定だったが、本人が失踪したためこちらについては急遽代役が指名されている。

【松尾貫太郎】

 事件当時四十歳。当時外務大臣だった衆議院議員・秋田玄志郎あきたげんしろうの秘書。東京都新宿区在住。事件当時は名古屋市内にある実家に帰省中で、翌日に秋田代議士が参加する予定だった戦没者慰霊祭に参加するために帰京するところだった。

【杉沢香江奈】

 事件当時二十一歳。八王子総合大学文学部三年。東京都八王子市在住。後にイキノコリ事件で殺害される須賀井睦也の実の姉。元々旅行好きで、事件当時は観光目的で愛知県に二泊三日の予定で単独で訪れており、この日が観光最終日だった。観光中は名古屋城や犬山市の博物館明治村などを訪れていた模様。



「では、このデータを元に、荷物に爆弾を仕掛けられた可能性がある人物を絞り込んでいきたいと思います」

 そんな前置きと共に、事件の根幹を見極めるための本格的な検討が開始された。

「まず、この中で真っ先に除外できたのが、八王子中央署の栗原巡査です」

 斎藤の発言に、その場の誰もが困惑気味にざわめく。警察官という職種上、荷物に爆弾を仕掛けられる動機が一番あるとすれば彼だと考える捜査員が多かったからだ。

「そう判断する理由は何ですか?」

「単純明快に、彼は事件当日、バスの収納スペースに預けるような荷物を所持していなかったからです」

 斎藤の説明によると、そもそも栗原は日帰りの予定で名古屋を訪れており、その目的も友人宅に大学時代の友人数名で集まっての食事会だった事から、大した荷物を持っていなかったというのだ。そして、食事会後に幹事役の友人に名古屋駅まで車で送ってもらったのだが、そこで別れる際に集まった友人全員で駅前で記念撮影をしており、その写真に写っている栗原も荷物らしい荷物を所持していなかったのだという。

「これがその写真です。当日の食事会に参加していた友人の一人が所持していました」

 正面のスクリーンに問題の写真が映し出される。そこには五人程度の男性が写っており、その中の一人が確かに栗原悟巡査だったが、斎藤の言うように、これから夜行バスに乗るにもかかわらず栗原は荷物らしい荷物を持っていなかったのである。

「前回の捜査会議でも榊原さんが言われたように、収納スペースに預ける荷物そのものがない以上、動機云々以前の話として爆弾を仕掛ける事などできません。よって、爆発時刻である八月十三日午前十時の行動を調べるまでもなく、栗原巡査は候補から除外せざるを得ないというのが結論です」

 そして、同じく収納スペースに預ける荷物がなかったという理由で、爆弾を仕掛けられた候補から除外できた人間がもう一人存在した。

「これは全くの偶然なのですが、先程の栗原巡査が最後に写った写真をもう一度よくご覧ください。この写真は名古屋駅の前で撮影されたものなのですが、ポーズを取っている栗原巡査たちの後ろに、何人か通行人が映っているのがわかりますか?」

 確かに、言われてみると通行人と思しき人が何人か写っているのが見えた。

「その中の一人、写真の右の隅の方に写っている人物をご覧ください。小さいのでわかりにくいですが、この人物、どうやら夜行バスの発着場へ向かっている途中の林田智代であるようなのです」

 斎藤の指摘に、捜査員たちは改めて正面の写真に目をやる。

「おそらく、こうして写真に写り込んだのは本当の意味での偶然だったのでしょう。ですが、それによって我々は林田智代についての有力な情報を入手する事ができました。すなわち、事件当夜バスに乗った際、林田智代は収納スペースに入れるような大型の荷物を所持していなかったという事実です」

 その言葉通り、写真に写っている林田智代と思しき人物は肩掛け式のハンドバックのようなものを持っているだけで、キャリーバッグのような大型の荷物を所持している様子はなかった。バスの収納スペースにわざわざ手で持てる大きさのハンドバッグを入れるとは到底思えない。となると、このハンドバッグに爆弾が仕掛けられた可能性は極めて低いものとなる。

「以上、この写真を根拠として、林田智代も候補から除外します。残る候補者は六人です」

 残る六人はいずれもキャリーバッグのような大型の荷物を所持していてもおかしくない客ばかりだった。だが、そのうち廣井夫婦について、今度は長谷川が爆弾を仕掛けられた可能性を否定しにかかった。

「この廣井夫婦ですが、資料にも書かれているように、東京到着後は羽田に移動して空路で八丈島に向かう予定でした。現状、八丈島への空路は羽田空港からしか出ていませんので、朝一番の飛行機に乗ろうと思ったらこの行程でも問題はないのですが、問題なのは彼らが搭乗しようとしていた事件当時の八丈島行きの飛行機の離陸時刻が十三日の午前九時十五分だった事です」

 一瞬、その場に当惑したような空気が漂ったが、長谷川が言わんとしている事に最初に気付いたのはやはり榊原だった。

「なるほど。確かにそれでは、誰かが二人の荷物に爆弾を仕掛けたとは考えにくいですね」

「どういう事ですか?」

 藤の問いかけに、榊原はすぐに答えを返す。

「何度も言うように、仕掛けられた爆弾の爆発時刻は午前十時でした。一方、廣井夫婦は当日の午前九時十五分離陸の飛行機に乗る予定で、そうなると離陸の少なくとも三十分前には搭乗手続きや各種検査を済ませなければいけません。当然、その時点で所持している荷物は金属検査にかけられるはずです」

「あ……」

 そう、仮に廣井夫婦の荷物に爆弾を仕掛けたとした場合、この午前九時前後に空港で行われる荷物検査で爆発前の爆弾が間違いなく発見されてしまうのである。

「これが爆発時刻が午前八時から九時くらいなら空港の爆破を狙ったテロ事件と解釈する事もできるのですが、午前十時ではセットした時間が遅すぎます。発見された時点で爆破までの猶予は一時間以上。確かに空港はパニックになって欠航便も出るでしょうが、それだけ時間があれば乗客の避難もスムーズに進むでしょうし、警察の爆発物処理班も余裕を持って爆弾を解体できるでしょう。そして、証拠となる爆弾を警察に押収されてしまったら、誰が爆弾を仕掛けたのかも簡単にわかってしまうはずです」

「つまり、これだけ大掛かりな爆弾を仕掛けておきながら、羽田空港をパニックにさせる以外の効果がないという事ですか」

「もちろん、パニックを起こすこと自体が目的だったという可能性がないとは言いませんが、それならそれで、言い方は悪いですが例えば空港側に『爆弾を仕掛けた』なりの犯行予告を入れるなど、もっと他に簡単なやり方があったはずです。わざわざ捕まるリスクを上げてまで本格的な爆弾まで用意する意味が見当たらないのですよ」

 要するに、愉快犯目的にしては本格的すぎ、本気で空港を爆破するのが目的だとしたらあまりにもお粗末すぎるのである。そう考えると、廣井夫婦の荷物に爆弾が仕掛けられた可能性は、かなり低いと言わざるを得なかった。これで残る候補者は四人である。

「では次に、名邦大学の二人の学生……垣内翔馬と桐野瑠美乃について検証したいと考えます」

 長谷川はさらに次の候補者に対する検証を始めた。

「資料に書かれているように、彼ら二人は名古屋にある名邦大学文学部の学生で、考古学を専攻していました。そのため、夏休みを利用して東京の奥多摩で発見された古墳の発掘アルバイトに参加するため、問題のバスに乗車したという流れです。問題の古墳は奥多摩の山間部にあり、二人とも登山用の装備を用意していたはずです」

 つまり、彼らはバスの収納スペースに入れてもおかしくない荷物を所持していたという事になる。

「ただ、問題は発掘調査の日程です。当時、発掘を主導した都の教育委員会に問い合わせた所、この発掘調査は八月十三日の午前九時から行われ、当然、関係者もその時間までに現地に集合する手はずになっていたそうです」

「となると、問題の二人も午前九時には現場の古墳に到着し、そして爆発時間の午前十時にはすでに発掘作業をしているはずだった、と」

「えぇ」

「発掘作業中、持ち込んだ荷物はどこに?」

「古墳の近くに休憩用のプレハブ小屋が設置されていて、そこにまとめて置いておいたという話です」

「という事は、仮に予定通りに爆弾が爆発したとしても、その誰もいない山奥のプレハブ小屋が吹っ飛ぶだけだったという事になりますね」

 そうなると、話は微妙なものになってしまう。

「もちろん、爆発した瞬間に周囲に誰か人がいたら巻き込まれる可能性がないとは言えませんが、そんなのは事前に想定できない偶然です。発掘作業中なら荷物の持ち主である二人が死ぬという事もないし、古墳そのものが爆発するという話でもない。山奥のプレハブを吹っ飛ばすためだけにこんな大掛かりな時限爆弾を仕掛けたというのは、かなり無理がある話だと思います」

「となると、この二人も候補から外れますね」

 残る候補は二人。杉沢香江奈と松尾貫太郎である。

「残る二人のうち、須賀井睦也の姉である杉沢香江奈についてですが、資料にも書いてあるように、彼女は愛知県への観光帰りにこのバスを利用しました。問題は、帰京後の彼女の行動予定です」

 再び長谷川と入れ替わって報告を始めた斎藤に、刑事の一人が発言する。

「普通に考えたら、自宅アパートにそのまま帰るんじゃないですか?」

「えぇ、その可能性が高いのは間違いないでしょう。ただ、調べた所、彼女は帰宅した当日に予定があったようなのです」

「予定?」

「えぇ。バイト先の書店のシフトが入っており、午前十時から午後二時までの四時間だけ勤務する予定だったという事なのです。本来問題のバスは午前六時過ぎには八王子に到着する予定だったので、恐らく帰った後で数時間ほど仮眠してから出勤するつもりだったようですね。その上でですが、午前十時からのバイトという事は、当然それ以前……自宅アパートから勤務先の書店への距離から考えるにおおよそ一時間前には家から出る必要があります。そして、まさかバイト先にキャリーバッグを持っていくとは思えませんから、もしキャリーバッグに爆弾が仕掛けられていたとするならば、午前十時に誰もいない杉沢香江奈のアパートの自室が爆発する事になってしまうのです」

 その結論に、その場の刑事たちが立て続けに意見を述べる。

「犯人が彼女がバイトに行く事を知らなかったとすればどうですか?」

「このバイトの予定は旅行のかなり前の時点で決まっていたものでした。犯人が本気で彼女を殺害したいのなら、当然その予定はあらかじめ調べるはず。彼女が部屋にいない事がわかっている時間帯に爆破時刻をセットするなどというへまはしないはずですし、本気で彼女を殺したいなら、それこそ彼女が確実に部屋にいるであろう午前八時辺りに時間をセットすればいいだけの話です」

「なら、狙いは彼女ではなく、例えば彼女の住んでいる部屋の隣室や上下の部屋の住人だったとすればどうですか? 爆発の規模によっては、それらの部屋の住人に危害を加える事ができるはずです」

 刑事の一人がそんな斬新な推理を述べたが、斎藤は首を振った。

「その可能性も考えて事件当時のアパートの住人を調べましたが、問題のアパートは二階建てで、彼女が住んでいたのは二階の一番隅にある角部屋。その隣部屋と斜め下の部屋は空室で、真下の部屋には別の大学生が下宿していましたが、この大学生は夏休みで帰省中であり、事件当時一ヶ月程度部屋にいなかった事がわかっています。つまり、仮に彼女の部屋が爆発したとしても、被害を受ける人間は誰もいなかった事になるのです」

「では、部屋を爆破すること自体が目的だったとか。つまり、彼女の部屋の中にどうしても消したい物があって、それを消すために……」

 言っている途中で、その刑事は「ないな」と思ったのか発言をやめてしまった。一介の女子大生の部屋に、部屋その物を爆破してまで消したい物があるとはとても思えなかったからだ。確かに、まったく可能性がないとまでは言い切れないが、彼女の荷物に爆弾が仕掛けられていた可能性は、客観的に見てかなり低いと言わざるを得ないのが事実だった。

「どうやら、彼女の可能性もないと考えていいようですね」

 斎藤が最終的な結論を出す。これで七人は排除できた。すなわち……残るは一人。

「最後の一人……松尾貫太郎ですが、これがかなり問題です。この松尾貫太郎ですが、問題の時間帯、本来であるならば太平洋上空をヘリで飛んでいるはずでした」

「ヘリですか?」

「えぇ。それも当時の外務大臣・秋田玄志郎と一緒にです」

 その言葉に、部屋の緊張度が一気に跳ね上がった。

「外務大臣ですって?」

「記録を調べました。事件当日……すなわち、一九九七年八月十三日、秋田玄志郎は都内から政府のヘリで硫黄島まで移動し、そこで行われる式典に参加する予定でした」

「硫黄島……」

 その島の名前は蝉鳴村でも出てきていた。小笠原諸島に属する太平洋戦争末期の激戦地で、当時蝉鳴村から出征していた多くの人間が命を落とした因縁の場所である。一九六八年の小笠原諸島返還と同時に日本領に復帰したが現在でも一般人は立入禁止となっており、現在の島内には自衛隊の駐屯地とそれに付随する飛行場だけが存在していた。

「日付を見ればわかりますが、事件当時は八月十五日の終戦記念日直前でした。それに伴い、硫黄島で日米双方の政府要人や実際の戦闘参加者・戦死者遺族を招いた合同慰霊式典が行われる事になっていて、政府の代表として外務大臣が出席する事になっていたんです。そして、松尾貫太郎はその外務大臣・秋田玄志郎の秘書であり、名古屋への帰省から帰京すると同時に、そのままこの式典に同行する予定になっていました」

 もっとも、実際は当の松尾貫太郎がバスもろとも失踪してしまった事から、急遽他の秘書を同行させてのフライトになったそうである。もちろん、当日このヘリは何事もなく硫黄島に到着し、式典も無事に行われて、予定通り秋田玄志郎は帰京している。

「問題のヘリは午前九時頃に都内の政府関連施設の敷地内を離陸し、八丈島と父島を経由して硫黄島に到着する予定でした。午前十時頃となると、おそらく太平洋上空を飛行している真っ只中だったと思われます」

「……そんなヘリの中で爆発が起これば、ひとたまりもありませんね。この状況だと正規の空港を利用していないので、金属検査等は行われていないでしょうし」

 榎本の呟いたその言葉が全てだった。

「調べた結果、松尾貫太郎は夜行バスで東京に帰京後、都内の自宅アパートに帰らず直接ヘリが離陸する政府関連施設に向かい、そこで前準備をした後、秋田外務大臣と共にヘリに乗り込む手はずだったそうです。当然、帰京時に所持していた荷物も一緒にヘリ内に持ち込む事になったはずです」

「そこに爆弾が仕込まれていた、という事ですか?」

「実際に爆破が成功すれば、日本史上一度も発生した事がない外務大臣の暗殺が成立する事になります。当時の秋田大臣は派閥争いや外交問題などで内外問わず敵も多く、暗殺が目的ならこれ以上ない標的の一人と言えるでしょう」

「しかも、仮に太平洋上でヘリが爆発したとなれば、証拠の大半は太平洋の海上に散在する事になる。あの辺りは水深が一〇〇〇メートルを超えるような場所ですし、警察の捜査能力をもってしても、真相解明は絶望的でしょうね。ヘリが爆発した事まではわかっても、その爆発原因が何なのかを突き止めるのは至難の技でしょうし、百歩譲って人為的な爆発である事がわかったとしても、爆弾が松尾貫太郎の荷物の中に仕掛けられていた事が解明される可能性はかなり低いと言わざるを得ませんね」

 榊原がそう補足する。何より、他の面々の可能性が事実上否定された以上、もはや可能性として考えられるのはこのケースしか考えられなかった。

「決まりですね」

 斎藤がそう言い、長谷川の手で捜査本部正面のホワイトボードに一人の男の顔写真が張り付けられる。スーツを着た男の写る写真のすぐ下に、その男の名前がはっきり書かれていた。


『松尾貫太郎』


 それがこれからの捜査の重点となる男の名前であった。早速、長谷川が松尾貫太郎の詳細について説明しにかかる。

「改めてこの男のより詳細な情報を共有します。名前は松尾貫太郎。十年前の失踪当時四十歳。当時外務大臣だった衆議院議員・秋田玄志郎の秘書で、父親は元与党幹事長の松尾貫之助まつおかんのすけ。元々は父親の秘書をしていましたが、松尾貫之助が病気を理由に一九九五年に政治家を引退したため、以降は松尾貫之助と繋がりがあった秋田玄志郎の秘書をしていました。主に広報などを担当していたようですね」

「典型的な政治家一家の人間という事ですか」

「えぇ。本人も将来的に政治家として選挙に立候補したいと考えていたようです。当時の捜査資料によると、松尾貫太郎は事件当日、名古屋市郊外にある実家……すなわち、父親の松尾貫之助の屋敷に帰省しており、例の式典に出席するために東京に帰る途中で問題の夜行バスを利用していました。新幹線で帰京すると朝まで待たなければならないため、早くて安い夜行バスを利用したようだというのが当時の家族に対する聞き取り調査の証言です」

 と、ここで榊原が発言する。

「こうなると、その屋敷への帰省中の状況をもう少し詳しく知りたいですね。状況的に、荷物に爆弾を仕掛けられた可能性が高いのはそこですから。もしそこに来客なりがいたとすれば、その来客が極めて怪しくなってくるはずです」

「そうなると、父親の松尾貫之助氏にもう一度しっかり話を聞く必要がありますが……」

 そう言いつつも藤が口ごもる。何しろ、相手は長年与党の要職を歴任してきた元大物議員である。うかつに手を出すと余計な火の粉を浴びる事にもなりかねない。が、これに対して長谷川が一つ提案をした。

「それについてですが、今回、十年ぶりにバスと遺骨の一部が発見されましたので、その報告名目で松尾邸を訪れるのは不可能ではないと考えます。その際に現状の捜査状況の一部を貫之助氏に共有した上で協力を求める事は不可能ではないかと。貫之助氏も、息子の荷物に爆弾を仕掛けられた可能性があるとなれば、捜査に協力してくれる可能性は充分にあり得ます」

「……確かに、現状ではそれしかなさそうですね」

 斎藤は難しい顔ではあったがその意見に賛同する。他の捜査員たちの大半も同意の意を示し、かくして次の方針は決まった。

「長谷川警部、布田清の件に続いてまたご苦労をおかけしますが、お願いできますか?」

「もちろんです」

 長谷川はしっかりとした頷きを返すと、早速名古屋にいる部下の古部警部補に指示を出すため電話をかけ始める。榊原はそんな刑事たちの様子を、静かにジッと見つめていたのだった……。


 愛知県名古屋市郊外。ここに元与党幹事長にして松尾貫太郎の父親である松尾貫之助の屋敷はある。松尾貫之助は戦後直後に行われた新憲法下における最初の衆議院選挙で愛知県の選挙区から衆議院議員に当選し、以降、昭和・平成と長年永田町に君臨し続けた政界の長老的存在である。首相にこそなれなかったが与党の重鎮として幹事長など与党要職を長年歴任しており、引退した後も政界に一定の影響力がある存在として知られている。

 そんな松尾貫之助も今年で八十五歳となり、最近は寝たきりの生活が続いているという事だった。実際、長谷川警部の部下である古部明警部補らが松尾邸を訪れた時、松尾貫之助はベッドの上に上半身を起こしながら捜査員に応対していた。

「情けないもんだよ。人間、どれだけの事を成し遂げても、老いればこの通りだ。他人の助けがなければ動く事もできん」

 貫之助は背後に控えるヘルパーの女性をチラリと見ながらそんなふうに言った。体こそ弱っているが、頭の方はまだしっかりしているようであり、捜査員たちに対してもはっきりした口調で応じていた。

「それで、こんな老いぼれに何の用だね? まぁ……ある程度の予想はできているが」

「といいますと?」

「昨日のテレビのニュースで見た。……息子が乗っていたバスが海の中から見つかったそうだな」

 そう言うと、貫之助は深いため息をつく。

「あれから十年……まさか、そんなところにいたとはな。本当に……親を散々心配させよってからに」

「……」

「一応聞くが、息子は見つかったのかね?」

「静岡県警の話では、わずかではありますが、バスの周囲からいくらかの遺骨が見つかっているそうです。現在、DNA鑑定を進めていますが、もしかしたらご子息の遺骨が見つかる可能性もあります」

「……十年も海底にいれば、そうなるのもやむなしか。願わくば、一部でもいいから帰ってきてもらいたいものだがな。せめて、母さんと同じ墓で眠らせてやりたいものだ」

 貫之助の妻は息子の身を案じつつ、二年前に病死していた。その一年前に当たる三年前、貫之助はすでに貫太郎の失踪宣告をしており、法的には三年前の時点で貫太郎は死亡したものという扱いになっていたはずである。

「実は、そのバスの事故の件について、先生にお話を聞きたいと思いまして」

「……どういう事かね。わしに話を聞いたところで、意味があるとは思えんが」

「これは極秘にして頂きたいのですが……問題のバスは爆弾により爆破された可能性があります」

 古部のその言葉に、貫之助は眉を少しつり上げた。

「爆弾……つまり、爆弾テロだった、と?」

「その通りです。そして、残骸の状況などから爆発はバスの下部にある収納スペース内で発生したと考えられるのですが、どうも爆弾を仕掛けられたのが、御子息がこの収納スペースに預けていた荷物の可能性が極めて高くなっているのです」

 そう言うと、古部は現段階で話せる限りの情報を貫之助に説明する。最初は「息子の荷物に爆弾が仕掛けられていた」と言われて険しい表情をしていた貫之助だったが、内容がわかってくると目を閉じ、ベッドの背もたれにもたれかかるようにして黙って古部の話を聞いていた。

「……そうか。そこまで証拠があるなら、息子の荷物に爆弾が仕掛けられていたというのは間違いがなさそうだな。あまり、信じたくはない話だが」

 古部の話が終わると、貫之助はポツリとそんな感想を漏らす。

「断っておきますが、我々も御子息が爆弾犯だと言うつもりはありません。自爆テロではあるまいし、自分も一緒に巻き込まれて死んでしまうにもかかわらず爆弾を仕掛けたというのはあまりにも考えにくい話ですから。しかし、そうなると御子息の荷物に爆弾を仕掛け、御子息を含めた何の関係もない十名以上の人間を死に追いやった何者かが存在するという事になるのです」

「……」

「そうなると、問題になるのはその爆弾を仕掛けたタイミングです。我々の調べでは、御子息は事件前日に名古屋にあるこの屋敷に帰省しているところでした。ですので、事件直前の御子息の様子、及び御子息の荷物に爆弾を仕掛けるタイミングがあった人物がいたかどうかについて思い出して頂きたいのですが、いかがでしょうか?」

 古部の問いに対し、貫之助はしばし無言だった。だが、それから数分間黙り込んだ後、貫之助はゆっくり目を開けてこう言葉を紡いだ。

「わしももう先は短い。もはやこうなった以上、残された望みは政治云々ではなく息子の死の真相が明らかになる事だけだ。昔の政治家としてのわしなら国益のために口をつぐんだやも知れんが……今となってはもう、沈黙する理由はない。かたきをとらせてもらおうか」

 そう前置きすると、貫之助は重い口を開き、十年前の事件前日の事について話し始めた。

「事件前日、貫太郎が帰省していたのはすでに知っていると思う。その帰省理由についてだが……当時、わしが主催していた政治塾に参加するためだった」

「政治塾?」

「『塾』というのは大げさかもしれん。公的なものではなく、わしがこの屋敷で個人的に開いていた極秘の政治サロンのようなもので、将来有望な政治家を何人か集めて茶でも飲みながら色々な事を議論するというものだった。昔、かの吉田茂翁がやっていた『吉田学校』の現代版をしてみたかったというのが本音でな。まぁ、政治家を引退したわしの暇つぶしの道楽と思ってくれればよい。とにかく、将来わしの地盤を継いでもらいたかった息子には、ぜひともこの極秘の会合に参加するように言っていて、実際に毎回参加をしてくれていたよ」

「……」

「あの事件の前日、貫太郎はこの会合に参加するために帰省していた。この事はあいつが秘書をしていた秋田君も承知している事だった。そして……あの日の会合には、わしと貫太郎を除くと、三人の参加者がいた」

「三人の参加者……」

「もし、本当に貫太郎の荷物に爆弾が仕掛けられたとすれば、そのチャンスがあったのは家族を除けばこの三人しかいない。帰省中、貫太郎は自身の荷物をこの屋敷にある私室に置いていただろうし、会合中にトイレなりで参加者が中座することはあったから、その隙に貫太郎の自室に忍び込んで荷物に爆弾とやらを仕掛ける事は可能だったはずだ」

 それはかなり有力な情報だった。

「その三人の参加者の名前を教えて頂けるのですか? 聞いている限り、おそらくは政界の有力者かと思われますが」

「……言っただろう。今となってはもう、わしの望みは息子の敵をとる事だけだと。一度しか言わんからよく聞いておけ。後は好きに調べたらいい」

 そう言うと、貫之助はゆっくりとした口調でその「三人」の名前を告げる。そしてそれを聞き終わった瞬間、古部の顔色は明らかに変わっていた。

「まさか……そんな……」

「わしは事実を言っただけだ。わしはなぁ……政治家として戦後直後からそれなりの修羅場を経験してきた。その中には公にできない後ろ暗い事があったのも否定しない。だがなぁ、無関係の国民を殺すのはいかんよ。それは政治家としてやっていい事の範疇を超えている。例えわしの教え子であろうが、どれだけ日本の政治に必要な人間であろうが……長年日本の政治を見守ってきた人間として、そして息子を殺された一父親として、許すわけにはいかんのだよ」

 そう言うと、貫之助は大きく息を吐いて布団にもたれかかった。

「少し話し疲れた。悪いが、わしの話はここまでだ。後はこの情報を好きに使えばよいし、息子の部屋を調べたいというのならば勝手にしたらいい。どういう結末になろうとも、わしは受け止めるつもりだよ。あと、息子の遺骨が正式に確認できたら知らせてほしい。今更だが、ささやかながら葬儀をしたいものでね。わしが望むのはそれだけだ」

 そう言い残し、貫之助は目を閉じた。それを確認すると、古部たちは頭を下げてその場を去ったのだった……。


 その日の深夜、古部からの報告を受けた長谷川の要請で、西伊豆署の捜査本部内で緊急の捜査会議が行われていた。だが、会議の開催を要請した長谷川の表情はなぜかいつもに比べて緊張したものであり、何か想定外の事態が起こったのは明らかであった。が、長谷川は努めて平静を装いながら会議を始め、最初に貫之助に対する聴取内容を詳細に報告すると、次に松尾貫太郎の自室の調査結果の報告に移った。

「……貫之助氏への聴取後、古部君たちは屋敷内に残されていた松尾貫太郎の自室を調べました。貫之助曰く『事件当日、貫太郎が部屋を出て行った時のまま手を付けずに残してある』そうで、念のために鑑識も入れて本格的な調査をしたとの事です」

 正面のスクリーンに映し出される貫太郎の自室の写真と簡単な見取り図を見つつ、捜査員たちはその報告に真剣な表情で聞き入っている。

「貫太郎氏の部屋は、仕事用の机、ベッド、タンス、本棚で構成されるシンプルな作りで、部屋自体もしっかり片付いていました。本棚の蔵書は半分が政治関連の専門書で、もう半分が趣味の小説という内容です。また、タンスの中もスーツ類が何着かと、あとは私服や下着類などで、特に不審なものは入っていませんでした」

「気になるのは机ですね」

 斎藤の指摘に、長谷川も頷く。

「古部君たちもそう考えて、机周りは念入りに調べています。ですが、事務用品や手紙類、それに各種公的な書類などが入っているだけで、その書類や手紙もその場で簡単に調べましたが、手掛かりになりそうなものは特にないと判断しました」

「そうですか……」

 斎藤が少し残念そうに言う。

「残るベッドに関してもごく一般的な物でしたが、ベッドの下が収納スペースになっていて、そこにいくつかの所持品が確認されています。具体的にはアルバム類、本棚に収まりきらなかったと思しきいくつかのハードカバー本、古い衣服、ケースに入った私物のビデオカメラ、小型の掃除機、それに趣味と思しき釣り具が入ったケースといった具合です」

「聞いている限り、何か手懸りになりそうなものはなさそうに見えますね」

 藤がそんなコメントをし、他の刑事たちも同様の反応を示す。榊原だけが腕を組んで何かを考えていたが、特に何か言う様子もなく、その間にも話はいよいよ一番大切な部分に踏み込まれようとしていた。

「前置きはそのくらいでいいでしょう。それで、肝心の事件前日に松尾邸を訪れていた三人の参加者というのは、一体誰だったのですか?」

 斎藤が発したその肝心要かんじんかなめの問いに対し、長谷川は一瞬押し黙る。重苦しい沈黙の中、やがて長谷川はどこか苦しそうな声でこう言った。

「……その事について話す前に先に言っておきます。これから話す内容に関しては最重要のトップシークレットとし、事件が解決するまで外部への口外の一切をしないという事をいつも以上に徹底して頂きたい。もし万が一この情報が漏れた場合……冗談抜きで、日本という国そのものが揺らぎかねません。そのくらいの重要機密事項である事はご理解ください」

 そう前置きすると、長谷川は古部が貫之助から聞いた、事件前日に極秘に松尾邸を訪れていた「三人の参加者」の名前を告げた。そしてそれを聞いた瞬間、その場にいた捜査員たちの顔色が明らかに青くなっていく。なぜならその名前というのが……



①三木橋寅蔵 ……現岐阜県知事、当時は岐阜県議会議員

②岡是康   ……現愛知県知事、当時は名古屋市長

③高砂勝充郎 ……現静岡県知事、当時は岡山県警本部長



「嘘だろう……」

 藤が呻き声を上げ、他の刑事たちも似たような反応をする。榊原の表情もいつも以上に険しいものへと変貌していた。全ての名前を言い終えると、長谷川は重苦しい声色で結論を述べる。

「以上です。本件の容疑者は……岐阜、愛知、静岡の東海三県の各現職知事という事になります。誰が犯人であれ、この先、我々は最低でもいずれかの都道府県知事と直接対決をしなければならなくなったわけです」

 その言葉に、捜査本部を重い沈黙が支配したのだった……。

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― 新着の感想 ―
これは強烈だな。 部下がやったこと系エラい人はよく見るが、エラい人で直接の実行犯というのは珍しい。 しかも犯行当時すらかなり偉い人だしな。
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