第三十章 生き残り
翌、二〇〇七年三月十七日土曜日。山梨県警本部からの連絡を受け、静岡県警本部に緊張が走る事となった。失踪した夜行バスが実は静岡方面に向かっていた可能性……それは、この十年間考えられ続けていた事件の流れを大きく覆すものであり、それだけに十年以上も解決できなかったこの事件の謎に大きな風穴を開けかねないものだった。
もちろん、仮に問題のバスが静岡県内に入っていたとしても、山梨県警の捜査本部が推測するように南伊豆町に向かわず、さらに他県に移動した可能性がないとは言えない。が、状況から考えると強盗事件の捜査を現在進行形でしていることが明白だった愛知県側にわざわざ戻るとも考えにくく、可能性があるとすれば神奈川県方面への逃走である。その場合、さらに神奈川県警に捜査協力を依頼しなければならないが、今はとにかく山梨県警の捜査本部の推測に従って静岡県県内でのバスの動きを確認するのが先決だった。
静岡側の捜査の指揮を執ったのは、静岡県警刑事部捜査一課係長の榎本康之警部だった。仮に山梨県から静岡県側に入ったとすれば、バスの行き先として考えられるのは静岡県東部の自治体である。とはいえ十年前の出来事であり、各種映像記録や目撃者の記憶も残っているとは思えず、捜査は難航が予想された。
実際、捜査員たちの中にはこの捜査はあまりにも無謀すぎるのではないかという声もあった。だが、これに対して捜査責任者の榎本はこう応じていた。
「一日、待ってほしい」
意味がわからず困惑する捜査員たちに、榎本は厳しい表情ながらもこう続けた。
「確かに、この捜査が無謀なのは確かだ。だが今、捜査の突破口になる可能性がある『賭け』が行われている。その『賭け』の結果次第で、今後の捜査の方針を決めようと私は考えている」
「賭け、ですか」
「そうだ。とにかく、本件は十年以上も解決されなかった難題中の難題だ。打てる手はすべて打たなければ解決する事はできない。今はひとまず、『賭け』の結果を待つ事にしよう」
そう言うと、榎本は腕を組んで目を閉じた。その態度に、捜査員たちは何も言う事ができなかったのだった……。
……同じ頃、伊豆半島の西の付け根に位置する静岡県沼津市の海岸。榊原はその波打ち際に一人で立ち、海の方を眺めながらある人物を待っていた。ただし、この場所を待ち合わせ場所として選んだのは榊原ではない。昨日、榊原がその人物に「少し会って話をしたい」と連絡を取った所、相手の方から待ち合わせ場所としてこの場所を指定されたのである。
ここのところずっと海のない内陸部にいたため、吹き付ける潮風と波の音が新鮮に思えてくる。しかし榊原にとって、これから行われる予定の対談はこの事件を解決するための分水嶺になるはずのものだった。それだけに、穏やかな海原に対し、榊原の表情は真剣そのものだった。
と、それからしばらくして、砂浜を歩く足音が榊原の方へ近づいてくるのが聞こえた。榊原が振り返ると、そこには榊原が呼び出した「待ち人」の姿があった。
「どうも、お忙しい中、突然連絡をして申し訳ありませんね。お久しぶり……というほどでもありませんか」
そう言うと、榊原はあくまで表面上は穏やかに告げる。
「何しろ……『あなた』とは先日、あの『蝉鳴村』でお会いしているわけですからね。今さらかしこまるまでもないでしょう」
そんな榊原の言葉に対し、相手は少し困惑気味な様子で、なぜ今になっていきなり自分と会いたいなどと言い出したのかと尋ねた。それに対し、榊原は静かな口調でこう応じた。
「いえ、実はあの蝉鳴村の事件の中ではっきりしないまま終わった事がありましてね。それについてあなたの意見を聞きたいと思っただけです」
それを聞いて、『その人物』はますます困惑する。一方、榊原はあくまで平静だった。
「まぁ、聞いてみればわかりますよ。それに、こうしてこの場に来たという事は、あなたも私の話に興味があるのではないですか?」
「……」
『その人物』は一瞬黙り込んだが、やがて諦めたように榊原に先を促した。とにかく話を聞かなければ話が始まらないと思ったらしい。
「ありがとうございます。では、時間もないので早速本題に入りましょう」
そう前置きして、榊原は早速その『話』とやらを開始した。
「問題は事件の最中、私たちが涼宮家の捜索を行った時の話です。その捜索で涼宮玲音の部屋を調べた際、亜由美ちゃんが彼女の本棚を見ていたのですが、そこで『ある人物』がいささか不可思議なコメントをしたのです。すなわち『まぁ、そういうのが好きな女の子だっているんじゃないかな。私もミステリーは結構読む方だし』と」
「……」
返事はない。どうやら相手は、ひとまず最後まで傾聴の姿勢を見せるつもりのようだ。榊原はそれを確認すると、そのまま話を次の段階に進める事にした。
「一見自然な会話に見えますが、実はこれ、冷静に考えればかなりおかしな会話なのです。確かに、あの部屋の本棚は当時十七歳だった少女の本棚としてはかなり特徴的なラインナップになっていて、実際に『虚無への供物』『樽』『占星術殺人事件』『点と線』などマニアックなミステリー作品も多かった。しかし……問題はこの会話がなされた時点で、『その人物』は問題の本棚を見ていなかったという点です」
相手は黙ったままではある。が、その顔が少し引きつったのを榊原は見逃さなかった。
「私の記憶が正しければ、『その人物』はあの部屋に入るとすぐに涼宮玲音の学習机に近づき、そこにあったノートを見ていたはずで、この会話をしていた時もそれは変わっていなかったはずです。つまり、『その人物』は一度も問題の本棚を見ていなかったにもかかわらず、そこにあるのが『ミステリー作品』である事をなぜか知っていた事になります。もちろん、この時亜由美ちゃん自身は『随分、個性的なラインナップですね』としか言っておらず、そこにある作品にミステリー作品が多い事は一切口にしていません」
確かに、一見些細な話ではある。しかし、それは同時に大きな矛盾そのものだった。
「では、それは一体なぜなのか? 考えられる可能性としては、私たちがあの家を調べるよりも前に『その人物』が涼宮家に侵入し、その際にあの本棚をすでに見ていたという場合です。あの家の鍵の管理はかなり甘く、ダイヤル錠の番号も容易に推測できる簡単なものでしたから侵入自体は容易だったはず。一見すると、この可能性は充分にあり得るようにも思えます」
だが、ここで榊原は自ら否定するように首を振った。
「しかし、言っておいてなんですが、実はこの可能性は容易に否定できるのです。なぜなら私たちがあの部屋に入った時、部屋のカーペットには分厚い埃が積もっており、室内に足跡などは一切確認できなかったからです。あの状況で一切の足跡をつけずに部屋の奥にある本棚を確認する事はまず不可能。つまり、誰かが事前にあの部屋に入って本棚を確認した可能性はあり得ないという事になります」
榊原は一度言葉を切って相手の反応を見ると、すぐに推理を畳みかける。
「そうなると、考えられる可能性は一つだけです。すなわち、一連の蝉鳴村の事件の中でかなりうまく隠してはいましたが、『その人物』は生前の涼宮玲音を知る立場にいた人間であり、まだ彼女が生きていた八年以上前の時点で実際に部屋に招かれて彼女の本棚を見ていたという場合です。今回の事件の際に問題の本棚の確認をした可能性が否定された以上、考えられる可能性はこれしかあり得ません。となれば、『その人物』は生前に部屋に入る事を許されるほど涼宮玲音と親しかった人物という事になります。つまり、今回の事件の関係者の中に、涼宮玲音の隠された関係者がいた事になるのです」
「……」
「しかも、その人物はただの知り合いだったというわけではありません。私の推理が正しければ、その人物は『涼宮玲音が蝉鳴村に来るよりも前』……つまり、彼女が中学生だった頃から、その後いじめが原因で引きこもり、蝉鳴村に引っ越してくるまでの間の知り合いだったと考えられるのです。その理由は言うまでもなく、この発言をした『ある人物』が村の人間ではなく外部の人間であり、彼女が蝉鳴村に引っ越してから涼宮事件で殺害されるまでの数ヶ月の間に村を訪れた形跡が全く確認できない人物であるからです。となれば、『その人物』が涼宮玲音と関係していたのは彼女が村に引っ越してくるより前でしかありえない。さらに言えば、何度も言うように涼宮玲音は『その人物』を自室に招いた可能性が高いため、人との接触を絶っていた引きこもり期間中に知り合ったとは考えにくい。ならば考えられる可能性は一つ。『その人物』が涼宮玲音と親しかったのはバス失踪事件で彼女が引きこもるよりもさらに前の時点であり、つまり名古屋における彼女の中学時代の友人だった可能性が非常に高いという事です」
「……」
そこで、榊原は『相手』を見据える。
「さて、そのようなわけで、『ある人物』が涼宮玲音があの村に引っ越すよりも前からの友人だった可能性は立証できたと考えます。というわけで、あなたにはぜひともこの推理に対する意見を聞かせてもらいたいのです。よろしいですね? あの村でこの矛盾に満ちた発言をした張本人である……」
そして、榊原はその名を告げる。
「駿河大学理学部助手、青空雫さん」
その言葉に、榊原の目の前に立つ人物……今までのフィールドワーク用の服の上に研究者らしく白衣を羽織った地質学者・青空雫は、今までにない真剣な表情で真正面から榊原の鋭い視線を受け止めたのだった……。
「……冗談にしては笑えませんね」
榊原の衝撃の告発に対し、彼女……青空雫は、あくまで冷静に応じていた。ここに呼び出された時点である程度覚悟はしていたのか、見た限りでは動揺は見られない。とはいえ、簡単にこちらの発言を認める気もないようで、榊原も静かな闘志を燃やして彼女に対峙しにかかった。
「冗談に聞こえますか?」
「私が『涼宮玲音の友人』って……いきなり何を言い出すんですか。例の地震のデータ解析で忙しいのに、突然今日になって会いたいと言ってきたと思ったら、まさかこんな話だったなんて……」
雫は白衣に手を突っ込みながら、少し怒ったような声色で榊原を睨みつける。が、榊原は全く動じる様子もなく、話を続けていく。
「不服のようですね」
「当然です。さっきまでは蝉鳴村の事件を解決した榊原さんの事を『やっぱり本職の探偵は凄いなぁ』と思っていたんですけど、今はその称賛を撤回したくなっています」
「別に私は称賛されようが批判されようがどちらでも構いませんがね。それはともかく、先程述べた旧涼宮家における発言の不自然さに対する弁明はありますか?」
「別に何も。そんな事を言った事も覚えていませんけど、もし本当に言っていたのなら何の気なしに言っただけで、他意はなかったと思います。それにその発言だけで私が涼宮玲音さんの知り合いだと言われても、正直、納得できません」
そもそも、と雫はさらにこう続けた。
「百歩譲ってさっきの榊原さんの推理が正しかったとして、わざわざ私に確認しなくても、その涼宮玲音さんが通っていたという名古屋の中学校に直接確認したらすぐにわかる話のはず。まさか、それも確認しないまま私にこの話をぶつけているわけじゃありませんよね?」
どこか挑むような雫の言葉に、榊原は首を振りながら真正面から応じた。
「もちろん調べましたよ。結果、涼宮さんと同学年、もしくはその前後の学年に在籍していた生徒の名簿に『青空雫』の名前は確認できませんでした。念のため卒業アルバムも見せてもらいましたが、あなたと似ている顔の女生徒は何人かいたものの、追跡調査でその全員の現在の所在がはっきりしましたのであなたと別人なのは明らかです」
「当然ですよね。私には全く身に覚えのない話なんですから」
雫は勝ち誇ったように言う。が、榊原にとってその反応は想定内のようだった。
「いえ、正確に言えば『追跡調査ができる人間』の所在ははっきりしましたが、それができない人間の所在は確認できていません。私はその『追跡調査できない人間』の一人があなただったと考えています」
「意味がわかりません。まどろっこしい言い方はやめて、私にもわかるように言ってもらえませんか?」
雫の挑むような言葉に、榊原ははっきりとした口調で答えた。
「『死人』です」
「は?」
「当然ですが、卒業時点で『死亡』もしくはそれに準ずる扱いがなされていた生徒については、すでに『いない人間』という扱いをされているので追跡調査などできるわけがありません。そして、問題の生徒の中には、涼宮玲音が卒業した時点で事実上の死亡に近い『失踪扱い』になっていた人間が二人存在するのです」
そう前置きして、榊原はその本来なら「あり得ない名前」を告げた。
「『神寺茉莉』と『白小路若菜』。十年前、涼宮玲音の人生を狂わせた鳩野観光夜行バス失踪事件において、涼宮玲音と共にバスに乗車し、そのままバスと共に現在に至るまで失踪状態になってしまった彼女の友人二人の名前です。私は、この二人のうちのいずれかがあなたであると考えているのですが、いかがでしょうか?」
「……」
雫は答えない。ただ黙って榊原を睨みつけ、こちらの出方を伺っている様子だった。それを確認した上で、榊原は雫に対して語りかけていく。
「先に言っておきますが、私は別にあなたを犯罪者呼ばわりしているわけではありません。今回の事件で最後に残った謎……十年前に涼宮玲音の人生を歪め、それ以外にも多くの人間の人生を破綻させたバス失踪事件の真相を明らかにするのが目的です」
「……人の事は言えませんけど、随分お忙しいんですね」
雫は少し皮肉めいた口調で言うが、榊原は意に介さない。
「そしてその目的のためには、この場であなたの正体を明らかにし、その上であなただけが持つ情報を得る事が必要なのです」
「私の持つ情報?」
「あなたの正体が失踪した涼宮玲音の友人二人のいずれかだったとして、彼女たちはバスと一緒に失踪した当事者という事になります。つまり……今まで誰も知らなかった、失踪したバスの『その後』を知る人間という事になる」
瞬間、二人の視線が交錯する。
「……何の事なのかさっぱりわかりません」
「否定しますか?」
「否定も何も、私にはわからない話なのですから仕方がありません」
雫は態度を崩さない。榊原はその微妙な均衡が急に崩れぬよう、慎重な口調で話しかけ続ける。
「あなたにとってこの話をする事がいかにつらい事なのかは充分に理解しているつもりです。何しろ、死んだと思われていた人間が実は生きていたわけですから、生半可な経緯ではなかった事は間違いないだろうからです。ですが、私としてもここで引くわけにはいきません。ここまで真相に近づいておきながら私が事件から身を引くという事は、今も行方がわからないままでいるバスの乗客たちの無念を踏みにじる事に等しいからです。言い方は卑怯になりますが、それは被害者の一人でもあるあなた自身、よく理解できる話ではないでしょうか?」
「……」
「正直に言って私自身、死んだと思われていたあなたがどのような状況で生き残り、どのような経緯で『青空雫』になったのかという詳しい事情までは今の段階ではわかっていません。それは私が強引に暴くべき話ではなく、あなた自身の口から語られるべき話だと思うからです。ですが、あなたがここで話さないというのであれば、残念ですが私や警察はあなたの過去について徹底的に調べる事になります。正直な所、それをするのは私にとっても本望ではありませんが、事件解決のためにはやむなしというのが私の判断であり、同時に覚悟でもあります」
そこで初めて、雫は眉をピクリと動かした。だが、それでも雫からの反論はない。榊原はそんな雫の反応を注視しつつ、真剣な表情で彼女の説得を図る。
「ただ、あくまでも私の所感に過ぎませんが、あなた自身、私が連絡をした時点である程度の覚悟はしていたのではないですか? この場所を待ち合わせ場所に指定した理由はわかりませんが、もしかしたらあなたの秘密に関わる何かがこの場所にはあるのではないでしょうか」
「……」
「知恵比べがお望みなら、私はいくらでも付き合います。ですが、私の実力はあの村にいたあなた自身がよくわかっているはず。それでもなお、私と時間をかけて勝負するつもりですか?」
「……」
「さて、どうしますか? 私はどちらでも構いませんがね」
榊原と雫……二人は無言で互いの視線をぶつけ合う。さざ波の音だけが響く中、そこからしばらくの間、二人の間で目に見えない心理的な攻防が繰り広げられていた。
だが次の瞬間だった。雫は軽く天を見上げて小さく息をつくと、どこか疲れたような様子でこう答えた。
「……参りました。さすが、あの蝉鳴村の大事件を解決した探偵さんです。わずかな可能性に賭けて私なりに抵抗してみましたけど、やっぱり私程度の嘘ではどうにもなりませんね。専門外の事をしてもうまくいかないのは、私自身がよくわかっていたのに」
その言葉を聞いた瞬間、榊原は少し安堵したように息を吐くと、改めて真剣な表情で問いかける。
「それは、認めるという事ですか? あなたが例のバス失踪事件で消息不明となった、涼宮玲音の友人二人のうちの一人であると」
榊原の確認に、雫は少し逡巡した後、やがてしっかりと頷いた。
「できれば隠し続けたかったんですけど……その通りです。私の本名は『白小路若菜』。十年前に玲音と一緒にあのバスに乗り、そしてそこで『死んだ』女のなれの果てです」
その名前は、確かにバス失踪事件の行方不明者リストの中に含まれていた名前だった。それはすなわち、涼宮玲音と月村杏里に続く、バス失踪事件の三人目の生還者の存在が明るみに出た瞬間でもあった。
「この名前を名乗るのも久しぶりです。私の中ではもう『死んだ』名前ですから、正直なところ、今はもうその名前に違和感しかありません」
そう言って、雫はさざ波が打ち寄せる海原の方をどこか遠い目で見やった。
「改めて聞かせてもらえますか? 十年前のあの日、バスが釈迦堂パーキングエリアから消えた後、一体何が起こったのかを」
と、そんな榊原の問いかけに対し、雫は一瞬何か考えた後、こんな事を言い始めた。
「その前に一つ、お聞きしてもいいですか?」
「何でしょうか?」
「こんな事を聞くとそれこそ犯人みたいになっちゃいますけど……いつから、私が怪しいと思っていたんですか?」
雫のその問いに対し、榊原は少し考え込むと、こう返した。
「こっちもテンプレのような回答になってしまいますが……あなたに蝉鳴村で最初に会った時から、少なくともあなたが何か隠し事をしているとは思っていました。それが何なのかまでは、今こうして調べてみるまでわかりませんでしたがね」
その答えに、雫は力なく笑う。
「やっぱり本物の名探偵は違いますね。推理小説なんかでよく聞くセリフなのに、迫力というか、凄みが全然違うんですから」
「生憎ですが、私は自分が名探偵だなんて思った事はありませんよ。現に今回の蝉鳴村の事件で、私は事件を途中で食い止める事ができず、多くの犠牲者を出してしまいました。探偵としては失格もいいところです」
「厳しいんですね」
そう言って首を振りながら、雫は続けた。
「せっかくですから、参考までにどうしてそう思ったのか聞かせてもらえますか? 最初に竹橋食堂で会った時、私は何もおかしな事はしていなかったはずですけど」
雫の挑戦に対し、しかし榊原は静かに応じた。
「言動ではありません。私が気になったのはあなたの名前の方です」
「名前って……『雫』ですか?」
「えぇ。当たり前の話ですが、日本では赤ん坊として生まれた際、親が子供に名前をつけて役所に申請する事で本名が決定します。ただし、その際に全ての漢字を使用可能としてしまうと、例えば『殺』『死』など不適切な名前を子供につけられてしまうかもしれず、そうなってしまうと子供の人権が著しく侵害される事になってしまいます。なので、日本では人の名前につける事ができる漢字はある程度制限されており、この人名につける事ができる漢字を『人名用漢字』と呼んでいるわけです。つまり、日本ではこの『人名用漢字』に平仮名とカタカナを加えた文字でしか本名をつけられず、それ以外の漢字で本名をつける事はできないわけです」
そこで榊原は雫をしっかり見据えた。
「そして、あなたが名乗った『雫』という漢字は、意外な事ですが二〇〇四年に行われた法改正で初めて人名用漢字として認められた漢字なのです。女の子につけたい名前にもかかわらずこの漢字をつける事ができない事から批判が相次ぎ、『苺』などの漢字と共に二〇〇四年に追加される事になったらしいですがね。これはすなわち、二〇〇七年現在、改名などの例外がない限り、『雫』を本名にしているのは三歳以下の子どもしかいないという事実を示す事でもあります」
「……なるほど、ね。そういう事ですか」
ここで雫は、ようやく自分のミスに気付いたようだった。
「どう見ても三歳以下には見えない人間が、使えないはずの『雫』という名前が本名だなんて言っていたら怪しすぎますよね。しかもご丁寧に、自分から名刺まで出して『雫』の漢字までしっかり見せちゃったみたいですし」
「えぇ。あの名刺がなければ平仮名で『しずく』と書く可能性もあったので、ここまで疑う事はなかったと思います。いずれにせよあなたの言うように、『雫』が本名だというあなたの発言が矛盾だという事はすぐにわかりましたので、おそらくこの名前はペンネームかそれに類するものだと私は解釈しました。知識から見るにどうやら大学の研究者という身分自体は本物のようですし、わざわざ正式な名刺まで作っている以上咄嗟に考えた偽名というわけでもない。そして学者という職業から考えると、本や論文を出すときなど対外的な場面で使うペンネームか何かで、それとは別に戸籍登録された本名があるはずだと推察した次第です」
「お見事です。正直、そこまでは気付きませんでした。まさか『雫』が人名に使えない名前だったなんて……」
「やはり意外だったようですね」
「えぇ。結構小説とかだとキャラ名で使われている名前ですし、私としては別名を考える時に『雫』という漢字が気に入ってつけただけだったんですが……。まさか、こんな落とし穴があるなんて」
ちなみに、使用できる文字が制限されているのは戸籍に正式登録される本名だけで、例えば役所に届け出る必要がないペンネームや芸名などではこの人名漢字の縛りは存在しないし、役所と違って文句を言う人間もいない。だからこそ彼女はこの名前の盲点に気付かなかったのだろう。なお、度重なる法改正で人名漢字も少しずつ増えてはいるが、現在でも例えば「檸檬」などは人名としてつける事ができない名前として知られている。
「それで雫さん……いや、白小路若菜さん、とお呼びした方がいいでしょうか?」
「できれば、雫のままでお願いします。今となっては筆名の『青空雫』の方が慣れていますし、それに……さっきも言ったように『白小路若菜』はあの時に死んだ、と思っていますから。一応言っておくと、今の私の戸籍上の本名は『青空和歌奈』です」
「改めて、話してもらえますね? 十年前……あのバスで何があったのか?」
榊原の言葉に、雫は頷いた。
「……玲音の事件を解決した探偵さんならすでにご存知だと思いますが、あの日、私たちは夏休みを利用した東京への卒業旅行のためにあの夜行バスに乗る事になりました。夜行バスで東京に着いた後一日遊んで、その日の夜に東京を出る別の夜行バスに乗って名古屋に帰るという旅行です。私たちは少ない手荷物と一緒にバスに乗車し、発車してから少しの間は興奮して三人でお喋りしていましたけど、すぐに眠気が襲ってきて、私はいつの間にか寝ていました。多分、他の二人も同じだったと思います。目が覚めたら東京に着いていると疑いもしないまま……そして、寝る前のあのささやかなお喋りが玲音との今生の別れになるとは夢にも思わないまま、私は夢の世界に沈んでいたんです」
「……」
「そして、次に目が覚めた時、事態はすでに最悪な状況になっていました。バスは高速道路を走っていて、そのバスの中で刃物を持った見覚えのない男が一人、私たち乗客を脅していたんです。反射的に辺りを見回したら、茉莉はいたけど、なぜかさっきまで一緒にいたはずの玲音の姿がどこにもいなくなっていました。正直、わけがわからなかったのを覚えています」
「その乗客を脅していた男は、この二人のどちらかですか?」
榊原はそう言ってポケットから二枚の写真を取り出し、それを雫に見せる。その写真はバス乗っ取りの実行犯である大竹義之と富石雅信の顔写真だったが、雫はしばらく考えた後、しっかりとした仕草で大竹の方を指さした。
「この男です。間違いありません」
「その時、バスを運転していた人物の顔を見ましたか?」
「いいえ、客席からはさすがに見えませんでした。でも、犯人の男が何度も話しかけていたりして、今まで運転をしていた本物の運転手じゃなくて犯人の仲間だって事は何となくわかりました」
「では、車内で危害を加えられた人はいましたか?」
「……はい。男の人が一人、刺されて呻き声を上げていました。死んではいませんでしたけど、座席に倒れて辛そうだったのを覚えています」
「それは、この中でどの人かわかりますか?」
今度は当日バスに乗っていた全人物の写真が貼られた書類を見せる。それを見た雫は、先程よりも少し長い間考え込んでいたが、やがて慎重な仕草で強盗犯・森永勝昭の顔写真に指を置いた。
「多分、この人だったと思いますけど」
「やはりそうでしたか」
二人の犯人の目的は森永が強奪した五千万円であり、しかも森永が輸送車襲撃の際に刃物を使用していた事は当時広く報道されていた。ならば、凶器を所持している危険性が高い森永を真っ先に抵抗できなくしてしまう事は、容易に想像がつく事だった。
「バスがどこを走っているのかはわかりましたか?」
「いえ、夜行バスなのでカーテンが閉められていて、高速を下りた後はどこをどう走っているのかさっぱりでした。ただ、こっそり何度かカーテンの隙間から外を見たんですけど……何時間か走った後に、海が見えました」
「海ですか」
「はい。その頃にはもう夜が明けて、景色もはっきり見えるようになっていました。外は大雨が降っていて、その向こうに荒れた海が見えたんです。だから、海沿いのどこかだというのは間違いありません」
「その海は、進行方向右側か左側か、どちらでしたか?」
「右側です。私たち、バスの右側の座席に座っていたので間違いないはずです」
となれば、彼らの目的地が伊豆半島先端付近にある南伊豆町だった以上、バスが走っていたのは伊豆半島の西側のどこか……駿河湾に面した場所という事になってくるだろう。
「概ね、当時の状況は理解しました。ただ、問題はその後です。一体、あのバスに何があったんですか? 状況的に海中転落の可能性が高いとは推測していますが……」
榊原の言葉に、雫はしばらく無言のままだったが、やがて静かにこう語り始めた。
「……あの時、バスは雨の中、海沿いの道を走り続けていました。犯人は刃物を振りかざして通路を歩きながら私たち乗客を脅し続けていて、私は隣の席の茉莉と手を握り合って互いに励まし合いながら、必死にそれに耐えていたんです。ふと、腕にしていた腕時計を見たら、時間はちょうど午前十時を過ぎようかという頃合いでした。もうそんな時間なのかと思って顔を上げて、一瞬車内の様子を見回した……その次の瞬間でした」
直後、雫はいったん言葉を切って、とんでもない事を告げた。
「突然、鋭い轟音と共に激しい衝撃が下から突き上げてきて、そのまま体中に痛みが走ったと同時に、目の前が真っ白になって……そのまま意識を失ってしまったんです。だから、その後の事はよくわかりません」
「轟音に衝撃? バスが事故を起こした、という事ですか?」
榊原は真っ先に思いついた事を言ったが、しかし、それに対する雫の答えは予想外のものだった。
「いえ、そんなに生易しいものじゃなかったと思います。今思うとあれは……」
「あれは?」
次の瞬間、雫の言葉にさすがの榊原も絶句した。
「……あれはそう、バスが突然爆発したとしか……」
それは、事件の構図を全てひっくり返しかねないほど、あまりにも予想外な情報だった。
「バスが……爆発した?」
「はい。下の方からズドンと。さっきも言ったみたいにその後の事はわかりませんけど……次に気付いた時、私は沼津市の海岸……つまりちょうどこの辺りに倒れていました。それまでの『白小路若菜』としての記憶をすべて失って」
雫は大きく手を広げて辺りの海岸を示しながらそう告げる。どうやらそれが、この場所を今回の待ち合わせ場所にした理由だったらしい。だが、榊原にはそれよりも気になる事があった。
「記憶を失った、ですか」
「はい。覚えていたのは、自分の名前が『わかな』だという事だけでした。多分、バスは爆発した後で海に落下して、その時に私は運よく車外に投げ出されて、そのままここまで流されてきたんだと思います。そうでも考えないとこの状況に説明がつきませんから。そして、そんな私を助けてくれたのが今の私の父……青空海平だったんです」
そこで一拍置いて、雫はこんな事を言い始めた。
「話は変わりますが、榊原さんは同じ一九九七年に起こった船舶事故をご存知ですか?」
「船舶事故……」
それを聞いて榊原は少し考え込んだが、すぐに何事かに思い当たったようだった。
「それは、伊豆半島沖で起こったフェリーの沈没事故ですか?」
確か蝉鳴村の事件の関係者の一人だった佐久川満が巻き込まれたという事故で、鹿児島から東京へ向かっていたフェリーが伊豆沖で悪天候が原因で沈没したという事故だったはずだ。
「そうです。事故が起こったのは八月九日の事ですが、その後も漂流している生存者が断続的に見つかっている状態だったそうです。それで……私はバスの事件ではなく、偶然同時期に起こっていたフェリー事故の被害者と認識されてしまったんです」
聞けば、青空海平が彼女を助けたのは偶然だったらしい。たまたまこの辺りの海岸で日課の散歩をしていたところ、大量に流れ着いた問題のフェリーの漂流物に混ざって雫が倒れているのを見つけたのだという。
「当然、当時の警察は見つかった私がフェリー事故の被害者だと考えました。そして、運が悪い事にそのフェリーの乗客の中に、家族で船に乗っていて事故で一家全滅した『倉浜和歌奈』という同年代の女性がいました。結論から言うと……私はその倉浜和歌奈という少女に間違われたんです」
「……まぁ、状況的に無理もない話ではありますね」
しかし、そういう事情なら身元確認はしっかり行われたはずである。にもかかわらずそんな間違いが発生するものだろうか。そんな榊原の疑問を感じ取ったのか、雫はすぐにこう続けた。
「実は、その倉浜家は一ヶ月くらい前に鹿児島県で起こった土砂災害で家を失っていて、故郷を離れて東京に引っ越す途中だったそうです。『出水市土砂災害』と今では呼ばれているそうですが、御存じありませんか?」
「……確かにあの頃、鹿児島県でそんな災害があったという報道を見た気がします」
「そんな状態で本人たちの所持品が残されていなかった上に、倉浜家は他に親類らしい親類がいなかった事もあって、倉浜和歌奈本人の指紋やDNAの採取ができなかったらしいんです。警察も困ったみたいですが、問題のフェリーに乗っていた人間の中で『わかな』という名前の人物は『倉浜和歌奈』だけしかいなかった事もあって、結局私がその『倉浜和歌奈』だと認定せざるを得なかったみたいですね」
「ふむ……」
「おまけに私は発見された時、顔にかなりひどい傷を負っていたみたいなんです。実際は至近距離で爆発を受けた事による傷だったわけですけど、それは女の子としてあまりにもかわいそうだと父は思ったらしく、救助された後に傷を隠す整形手術を受けました。それで手術は成功して傷は消えたんですけど……その時に少し顔が変わってしまって……」
「それで、ますます正体がばれにくくなってしまった、か」
そこまで条件がそろってしまっていれば、そのようなイレギュラーが発生してしまうのも無理はなかったのかもしれない。
「今だから言える事ですが、もしもあの時、バスが失踪したのが本当は静岡県だったという事がわかっていれば、同時期に見つかった私がフェリー事故の被害者ではなく、実は問題のバスの関係者だという事に警察も気付いたかもしれません。でも……」
「あの時、警察は犯人たちの工作により、バスが消えたのが月村杏里の見つかった山梨県北部だと思い込んでいました。なので、真反対の静岡県の海岸で見つかったあなたの事を見落としてしまった……という事ですか」
榊原は苦い表情で告げる。というより、その状況なら事件と関係ないと考えられていた静岡県警には、そもそもバス事件の被害者の情報が共有されていなかった可能性の方が高い。そうなると彼女の正体がばれる可能性はゼロに等しかっただろう。雫は榊原のこの推理を肯定した。
「何より私自身も記憶をなくしていて、『フェリー事故の被害者である』という警察の説明を信じ込んでしまっていたという事情もあります。とにかく、私は暫定的ではありますが『倉浜和歌奈』と認識されてしまい、しかも言ったように倉浜和歌奈には血縁者がほぼいなかった事から、色々あった末に私を発見した父……つまり青空海平が私を養子として引き取る事になりました。そこから私は、法的には青空海平の娘である『青空和歌奈』として生活する事になったんです。私は本来の自分を忘れたまま父の娘として静岡県内の高校に通う事になり、そこで新しい人間関係を作る事になりました」
「なるほど……そういう事情でしたか」
これで『白小路若菜』が『青空和歌奈』になった事情は理解できた。だが、真の問題はその後である。
「では、あなたが『白小路若菜』としての記憶を取り戻したのはいつの事ですか?」
その問いに対し、雫ははっきりと答えた。
「それは、一九九九年の七月二十四日土曜日……忘れもしない、あの『涼宮事件』が起こった次の日……つまり玲音の遺体が見つかった日です。もちろん、これは偶然ではありません」
「と言うと?」
「あの日……私はたまたまテレビでニュースを見ていました。ニュースは前の日に起こった羽田空港でのハイジャック事件の話ばかりでしたけど、その時に涼宮事件を伝えるニュースも流れて、被害者である彼女……玲音の顔写真も映し出されました。その写真を見て……私は『白小路若菜』としての本当の記憶を思い出したんです。玲音が自分の死と引き換えに私を取り戻してくれた……今でもそう思えてなりません」
雫は真剣な顔でそんな事を言った。だが、榊原はそんな雫の言葉を否定しなかった。
「……あなたは『白小路若菜』としての自分を取り戻した。しかし、その後もあなたは『青空和歌奈』として生活し続けています。なぜですか? 少なくとも白小路家の家族に事実を伝えるくらいの事はしてもよかったのでは?」
そんな榊原の疑問に対し、雫はすぐにこう答えた。
「その理由は簡単です。私の実の家族は、その時点で日本からいなくなっていたからです」
「……どういう事でしょうか?」
「バス事件の後、私や神寺さんの家族が、生還した玲音に理不尽な糾弾をして、その結果、玲音に対するいじめが発生したという話はご存知ですね?」
それは蝉鳴村の事件の捜査の際に出ていた情報だった。榊原が頷くと、雫は話を続ける。
「このいじめの結果、玲音は引きこもりのような状況になってしまって、二年後の蝉鳴村への引っ越し……そしてあの『涼宮事件』に繋がってしまうわけですけど、このいじめの事実は玲音が引きこもった後で当時の学校でも問題になったらしくって、今度はそのきっかけになった私や茉莉の家族の玲音に対する過度な糾弾が槍玉に挙げられる事になったんです。もっとも、正直に言って遅すぎますし、そうなったところですでに引きこもってしまっていた玲音にはもう関係のない話なわけですが。とにかくそんな事があって私の家族はいたたまれなくなってしまったらしく、そのまま逃げるように海外へ移住してしまったそうです。今となってはどこで何をしているのかもわかりません」
「……」
ここにも、今回の事件で未来を狂わされた人間がいた。どれだけの数の人間がこの一連の事件で人生を狂わされる事になってしまったのか……それを考えるだけで榊原は気が重くならざるを得なかった。だが、雫はさらにこう続ける。
「それに、何より私自身が、二度と白小路家に帰りたくなかったというのもあります」
「と言うと?」
「本来の父や母にとって、私は単に白小路家の威信を保つための『道具』に過ぎなかったという事です。彼らが私の『死んだ』後で執拗に玲音を責めたのも、娘の死が悲しかったからというわけではなく、家を存続させるための『道具』である私がいなくなって焦りがあったからだと思います」
聞けば、元々白小路家は地元ではなかなかの名家だったらしい。しかし、子どもが娘の若菜一人しかいなかった事から後継者問題が起こっており、さらに事業の失敗などから家自体が斜陽となっていた事から、何年も前から名古屋に本拠を置く大財閥の御曹司と若菜との間で婚姻の約束がなされ、その御曹司が白小路家に養子入りする事で家を存続させる算段になっていたのだという。いわゆる「許嫁」という奴である。
「古き良き旧家に、家存続のための婚姻、ですか。何だか、今回の蝉鳴村を思い出しますね」
「同感です。私も今回、あの村に行って心の奥では同じ事を感じていましたから。それはもう、本当に苦々しい気分で」
そこだけ心底くだらないと言わんばかりに吐き捨てながら、雫はこう続けた。
「もっとも、当時の私はこの異常な境遇を当たり前と思ってしまっていて、恐ろしい事に何の疑問も感じていませんでしたけどね。本心ではその許嫁の事を好きではなかったにもかかわらず、家を守るために自分が嫁ぐのは当然だと思い込んでいたんです。ふざけてますよね、今こんな風に冷静に自分の愚かな考えを振り返る事ができるのも、青空家で人として当たり前の常識を得て、旧家特有の捻じ曲がった思考から逃れる事ができたからです。……そういう意味では、今回の事件で旧家の呪縛や伝統から逃れられずに命を落とした蝉鳴村の人たちには、若干ではありますが同情を覚えます。もっとも、だからと言って玲音を殺した事まで許すつもりは絶対にありませんけど」
「……」
「こう言っては何ですが、あの時記憶を失って青空家に入らなかったらと思うとゾッとします。だから記憶を取り戻しても、私はもう白小路家に戻る気はなくなっていました。私の本当の親は青空海平であって、白小路の家の両親ではないと今では思っています」
「……ちなみに、その許嫁とやらは?」
榊原の問いに、雫はさばさばした様子でこう答えた。
「風の噂だと、私が『死んだ』後で調子に乗ってマルチ商法か何かに引っかかって大損し、それが原因で実家の財閥からも追放されたと聞いています。まぁ、旧家の呪縛から解放された今となっては、残酷ではありますけど、はっきり言ってどうでもいい話です」
「そう、ですか」
とにかく、彼女は記憶を取り戻しても、自らの意思で『白小路若菜』ではなく『青空和歌奈』である事を選択したという事なのだろう。
「お父さん……青空海平氏はこの事を?」
「……いいえ、話していません。父に秘密を持つ事は心苦しかったですが、身寄りのなかった私を引き取り、人としての私を取り戻してくれた父に、これ以上の負担を背負わせたくありませんでしたから。これは、私だけが背負うべき業なんです」
「……」
「ただ、そういう経緯があって、私は『和歌奈』という名前を名乗り続ける事に心苦しさを覚えるようになっていました。私自身が『白小路若菜』から決別したいと考えていましたし、何より本当はまだ行方不明のまま恐らく亡くなってしまっているだろうに、生きていると誤認されて葬儀も挙げてもらえないままになってしまっている本物の『倉浜和歌奈』さんの名前を名乗り続ける事に罪悪感を覚えたからです。もちろん、正式に戸籍登録された名前なので改名が難しい事はわかっていましたが、せめて普段名乗る名前は別にしたいと思うようになりました。だから大学に入った時、本名とは別に普段名乗る別名を用意する事にしたんです」
「それが、『青空雫』という名前だった」
榊原の言葉に、雫は頷く。
「えぇ。だから、私にとってこの名前は紛れもなく『本名』なんです。ただ、そのせいで榊原さんに正体を見破られた事だけは誤算でしたけど」
厳密に言えば、それ相応の理由があれば改名ができない事はないのだが、彼女の場合は事情が事情だけに役所に対してその「相応の理由」を説明できないのである。それだけにこのようにするのが精一杯だったのだろう。
「大学に入った後、私は高校時代から興味を持っていた地質学を専門に勉強するようになり、大学に残って研究者になる道を選びました。もちろん、記憶を取り戻すきっかけになった玲音の事件の事はずっと気にしていましたけど、すでに『犯人』は捕まっていたので今さら私にできることは何もなく、落ち着いた後で密かにお墓参りに行こうと思っていたんです。だから……二〇〇三年に『犯人』が無罪になった時は、正直、信じられない思いでした」
「加藤柳太郎氏の事ですね」
榊原の確認に雫は頷いた。
「事件の報道を何度も繰り返して見ましたけど、加藤さんが無罪なのは私の目から見ても確かに思えました。でも、だったら誰が犯人なのかという事になります。残念ですけど、私にはそれを推理するだけの能力も情報もなかったし、立場上、私自身が安易に動く事もできませんでした。下手に動いて私が『涼宮玲音の親友』だった『白小路若菜』だとばれたら……それはそれで大変な事になりますから。何より、専門外の私が何をしても事件の真相を解けないだろうって事は、自分自身がよくわかっていました。正直、悔しかったですけど……」
かつて本人が左右田常音に言ったように、彼女は自分の能力とできる事を正確に理解し、それに従って行動していた。
「だからこそ、今回、助教昇進前に好きな場所にフィールドワークに行っていいと教授から言われた時、私は迷う事なく蝉鳴村を選択しました。大学のフィールドワークという名目なら怪しまれる事なく村に行く事ができますし、例え真相がわからなかったとしても、玲音が亡くなった場所には一度行って、ちゃんと手を合わせて報告しておきたかったから」
「報告?」
「はい。『私は生きている』って。ちょっと遅すぎましたけどね」
でも、と雫は続けた。
「私があの村を訪れた後、事態は急展開を迎えました。あの連続大量殺人に地震……あればかりは、私にとって想定外もいい所でした。そして、やっぱり私に謎解きは無理だという事を改めて嫌と言うほど自覚する事になりました。だから、真相を解き明かしてくださった榊原さんには本当に感謝しています。もっとも、こんな後日談が残されていたのは、またしても想定外でしたけど」
そう言ってから、雫は真剣な目で榊原を見つめながら言葉を紡ぐ。
「今回の事件は明らかに涼宮事件と関係しているみたいでしたし、下手に彼女……涼宮玲音と知り合いだとばれると疑われてしまう危険性がありました。警察ならともかく、村の人間に疑われたら冗談抜きで『消される』危険がありましたし、何より私はもう『死んだ』人間なんです。だから、正体がばれないように気を付けてはいたんですが……やっぱり、そう簡単にはいかないようですね」
「……」
「あと、これはあくまで私の予想ですけど、もしかして榊原さんが私の正体をあの村で明かさなかったのも、私が村で『消される』可能性を考えたからじゃないんですか? さっきの話だと、私が玲音の家で失言した時点で私の正体に気付けたはずですし」
雫が試すようにそんな事を言ったが、これに対して榊原はゆっくりと首を振った。
「残念ながら、私はそこまで万能ではありませんよ。あの時点ではあくまで青空雫が『涼宮玲音が蝉鳴村に来る前の友人』である可能性があっただけで、それを立証する直接的な証拠は何もなく、具体的にそれが誰なのかという事まではわかりませんでした。何より……あの時点での私の最優先事項は『今回蝉鳴村で起こった事件の解決』です。あなたの正体を暴く事がそれに必要な話なのかどうかは、あの時点では判断がつかなかった。だからしばらく何も言わずに静観する事にし、必要があるならあなたを追及しようと考えました。そしてその後の調査の結果、犯人の正体がわかり、あなたの正体は蝉鳴村の事件とは直接関係ないとわかった。その上、あの時あなたは地震への対応でかなり忙しく動き回っていて、ここで無理やり正体を暴くと地震対応に支障が出る可能性があった。ならば、あの場でわざわざ暴く必要もない。そう判断したまでです」
「……」
「ですが、その後バス失踪事件の調査をする中で、状況は大きく変わりました。あなたの具体的な正体がバスの事件で失踪した二人のうちのどちらかかもしれないと考えるようになったのは、問題のバスが実は静岡方面に向かった可能性が浮上し、それを受けて実際に涼宮玲音の通っていた中学校の名簿を調べてからの事です。こうなると、あなたの存在はバス失踪事件を解決する重要な手がかりになる。地震への対応があるからと言って話を聞かないというわけにはいきません。だからこそ、この段階であなたを追及せざるを得なかったというわけです」
「……なるほど。理解しました」
「私からも聞きたい事があります。あの日、蝉鳴村の旧涼宮家で私たちの調査に同行したのは偶然ではありませんね?」
榊原の確信を持った問いかけに、雫は頷いた。
「えぇ。玲音の家に入ってあの子の部屋を見てみたいとずっと思っていたんですけど、その機会がなかなかなくて困っていたんです。で、どうにかならないかと何度かあの家の周囲をうろついていたんですけど、榊原さんが常音さんたちと一緒に家に入ろうとしているのを見て、ちょうどいいチャンスだと思って声をかけたんです」
「なるほど、ね」
榊原はそこで一度言葉を切る。しばしの間、二人は波が打ち寄せる浜辺で無言のまま対峙していたが、やがて榊原が毅然とした態度で雫に告げた。
「さて、最初に説明しましたが、私は今あなたが巻き込まれた鳩野観光バスの失踪事件についての調査を行っています。そして、こうしてあなたの正体がはっきりした以上、申し訳ありませんが、私は探偵としてあなたに辛い質問をしなければなりません」
「……」
「十年前、あなたが乗ったバスが転落した場所が具体的にどこなのか、教えて頂けませんか?」
その問いに対し、雫は苦しげに答える。
「……実は正直、それは今でもよくわかりません。何しろその時、私は自分が静岡県内を走っていた事さえわかっていなかったんですから。確かなのは流れ着いたこの場所と海流の関係から、おそらく伊豆半島の西側の海岸線のどこかという事だけです」
「……」
「ただ、今でも爆発直前にカーテンの隙間から見た景色は覚えていますから、その景色をもう一度見れば特定はできると思います。今まで、怖くて一人ではできませんでしたけど……覚悟を決める時が来たという事なんでしょうね。だからこそ、今日はこうしてここにやってきたわけですし」
「……車を用意してあります。これから私と一緒に、確認作業をお願いできますか? それと、もし事件当日に着ていた衣服や所持品が残っているのであれば、少しでも手掛かりを増やすために提供して頂きたいのですが、構いませんか?」
榊原の静かな提案に、雫は黙って頷いたのだった……。
 




