第二十八章 最後の謎
二〇〇七年三月十五日木曜日、山梨県甲府市。三日前に岐阜県高山市蝉鳴村で起こった連続殺人事件を解決した私立探偵・榊原恵一は、休む間もなく甲府駅にその姿を見せていた。改札を出て駅舎を出ると、そこにはすでに迎えの人間が待ち受けていた。
「榊原さん、お久しぶりです。大変な所、わざわざご足労頂き申し訳ありません」
そう呼びかけてきた男に対し、榊原は軽く会釈をして挨拶を返す。
「いえ、これも仕事ですから。そちらもお元気そうですね、藤警部」
榊原を出迎えたのは、山梨県警刑事部捜査一課係長の藤三太郎警部であった。長年、山梨県警の刑事部を率いてきた刑事で、榊原も刑事時代・探偵時代問わず何度か一緒に捜査をした事があるため、すっかり顔なじみの刑事であった。
そして、その藤警部の隣に、榊原にとっては藤以上に顔なじみの人間も立っていた。
「榊原さん、今回の事件、本当にお疲れ様でした」
その男……今回の事件の依頼人であり、榊原を蝉鳴村に送り込んだ張本人でもある警視庁刑事部捜査一課第三係係長の斎藤孝二警部は、そう言って静かに榊原に頭を下げた。
「あぁ。……本当に、色々な意味で大変だった」
「状況は新庄から聞いています。かなりひどい事件だったようで」
「新庄は警視庁に?」
「えぇ。こちらの捜査が終わるまで、私の代わりに三係の指揮をするように命じました。さすがにずっと三係を機能不全にしておくわけにもいきませんので。とにかく、向こうの事件にひと段落がついたのは幸いでした」
そんな斎藤の言葉に、榊原は静かな口調で切り返す。
「だが、まだ全てが終わったわけではない。そうだな?」
「もちろんです。ですから、今度こそ本当の意味でこの事件を全て終わらせるために、榊原さんにわざわざご足労頂きました。最後は私たちの仕事です。ご協力いただけますね?」
「異存はない。私としてもここまで来て中途半端に終わる事はできない」
榊原は真剣な表情でしっかり頷いた。
「では、県警本部にご案内します。愛知県警からも、長谷川晴隆警部がすでに到着していますので、後ほどご紹介します」
「あぁ、愛知県警からは長谷川警部が出てきましたか。それは頼もしい限りですね」
長谷川警部は愛知県警刑事部捜査一課の中心を担っている刑事で、こちらも藤警部同様、榊原とも何度か一緒に捜査をした事がある仲である。どうやら各県警がそれぞれのエース級の刑事を派遣しているようで、それだけに今回の事件の解決に警察側がどれだけ本気なのかをうかがい知る事ができた。
「さて……長かったこの事件だが、残す謎はただ一つ。ここでこの事件の全てに決着をつけるとしようか」
最後にして最大の謎……『涼宮事件』、『イキノコリ事件』、そして今回の『蝉鳴村連続殺人事件』、そのすべての根幹となった十年前の『鳩野観光夜行バス失踪事件』。その真相解明に向け、榊原によるこの事件最後の捜査が始まろうとしていた……。
それから数時間後、山梨県警本部の大会議室で、ずっと未解決のまま放置され続けていた『鳩野観光夜行バス失踪事件』についての再捜査会議が始まろうとしていた。会議室内にいるのは山梨県警、警視庁、愛知県警の三県警から派遣された総勢五十名前後の捜査員たち。捜査を指揮するのは山梨県警刑事部捜査一課の藤三太郎警部であり、さらに事件に関係する警視庁刑事部捜査一課から第三係係長の斎藤孝二警部、愛知県警刑事部捜査一課から長谷川晴隆警部が参加していた。そして榊原自身は、オブザーバーという形で後方の席に座っている状況である。
「それでは始めます。まず、皆さんすでにご存知の事かとは思いますが、改めて本事件についての情報を整理したいと思います」
そう前置きして、藤は改めて『鳩野観光夜行バス失踪事件』の概要を説明し始めた。
「今から約十年前の一九九七年八月十二日火曜日、夜間に名古屋市を出発して中央自動車道経由で東京を目指していた鳩野観光所属の夜行バスが、翌十三日水曜日の早朝、山梨県下の釈迦堂パーキングエリア到着後に突如失踪。十年経過した現在も乗員乗客十三名の行方はわからないままとなっています。ただし、この事件には生存者がおり、うち一名は具合が悪くなって停車中のバスから下車してトイレに行き、釈迦堂パーキングエリアに取り残される形になった涼宮玲音。もう一人は、事件発生後に山梨県北部の丹波山村近郊の山道で保護された月村杏里です」
そのバスに乗っていた合計十五名の名簿は、蝉鳴村事件の際にすでに斎藤からメールで受け取っている。榊原の手元には、その名簿を印刷したものが改めて配られていた。内容はあのメールと変わっていなかったが、榊原は復習のために今一度その名簿に目を通し、改めてこの事件の関係者たちの名前を思い返していく。
『鳩野観光夜行バス失踪事件 乗員名簿(数字は事件が発生した一九九七年当時の年齢)』
【失踪】
・長崎純平(30)……鳩野観光バス運転手
・諸伏哲彦(41)……鳩野観光バス運転手(交代要員)
・廣井国夫(59)……名阪証券第一営業部長
・廣井千代子(56)……日本舞踏家、国夫の妻
・栗原悟(25)……警視庁八王子中央署地域課巡査
・垣内翔馬(22)……名邦大学文学部四年
・桐野瑠美乃(22)……名邦大学文学部二年
・林田智代(27)……ピアニスト
・松尾貫太郎(45)……代議士秘書
・森永勝昭(43)……戸部島運送社員
・杉沢香江奈(21)……八王子総合大学文学部三年
・神寺茉莉(15)……名古屋市立名古屋第二中学校三年
・白小路若菜(15)……名古屋市立名古屋第二中学校三年
【生還】
・涼宮玲音(15)……名古屋市立名古屋第二中学校三年
・月村杏里(10)……八王子市立八王子中央小学校四年
一通り名前を確認して顔を上げた所で、ちょうど藤が話の続きを始めた。
「しかしながら、生存者の二人も事件後から数年後にそれぞれ別件で死亡してしまっています。涼宮玲音は一九九九年に岐阜県蝉鳴村で起こった『涼宮事件』において。月村杏里は二〇〇四年に東京都奥多摩旧白神村で起こった通称『イキノコリ事件』においてです。もちろん、この二つの事件がバス失踪事件と直接的に関係しているとは考えにくい。ただ、それとは別に大きな繋がりがある事が今回の『蝉鳴村連続殺人事件』の捜査の過程ではっきりしました」
藤は緊張した様子で話を続ける。
「『イキノコリ事件』被害者の一人で、同事件のきっかけとなった八王子におけるバスジャック事件を起こした浪人生・須賀井睦也ですが、失踪したバスに乗車していて現在も行方がわからないままになっている乗客の一人・杉沢香江奈の実の弟だった事がわかっています。そして今回の蝉鳴村の事件の捜査で、須賀井睦也が涼宮事件当日に偽名を使って蝉鳴村にある美作宿という旅館に宿泊していた事実が明らかになりました。さらに、涼宮事件の裁判で問題になった『名崎証言』に登場する『事件直前に被害者と一緒にいた正体不明の男性』の正体が他ならぬこの須賀井睦也だった疑いも浮上しているのです」
実際、涼宮事件の真相が全て白日の下にさらされた今となっては、『名崎証言』で目撃されたという男が涼宮事件の犯人でない事はもはや明白である。するとこの男は一体誰だったのかという話になってしまうのだが、もしそれが村人だったとすれば涼宮事件の真相が明らかになった今、この期に及んで名乗り出ないというのはおかしな話である。そうなると、問題の人物が村外の人物である可能性が浮上し、条件に合致する須賀井睦也がその第一候補者となってしまうのである。
「榊原さんの指摘を受けて警視庁に調べてもらいましたが、涼宮事件当時中学三年生だった須賀井睦也の当時の身長は、健康診断結果などから一七九センチメートル。『名崎証言』における『男は被害者に比べて頭一つほど背が高かった』という証言と一致します。彼が問題の男である可能性はかなり高いと言わざるを得ません」
そして、涼宮事件が起こると、須賀井は逃げるように村を後にしている。動機があり、しかも事件前に被害者と会っていた可能性がある須賀井は疑われる可能性があったからだろう。そしてその数年後、須賀井はなおもバス失踪事件の情報を得ようとしてもう一人の生存者である月村杏里が乗るバスをジャックし……そしてその目的を果たす事ができないまま、イキノコリ事件でその命を散らす事になってしまったのである。
と、ここで斎藤が手を挙げた。
「藤警部、実はその件でこちらも捜査を続けていたのですが、その結果新たな証拠を発見する事に成功しました」
「新たな証拠、ですか?」
「はい。ここでそれを報告したいのですが、よろしいですか?」
「もちろん構いません。お願いします」
藤の了承を得て、斎藤はその報告を始める。
「えー、御承知の通り、須賀井睦也はイキノコリ事件の被害者であると同時に、同事件の引き金となったバスジャック事件の犯人でもある人物です。従って被害者ではありましたが、イキノコリ事件直後に警視庁による自宅の家宅捜索が行われており、この時は特に今回の事件と繋がるような不審なものは発見されませんでした」
そこで一度言葉を切り、斎藤はさらにこう続ける。
「しかし、この時捜索されたのはイキノコリ事件当時に彼が下宿をしていた八王子市内のアパートの一室だけです。須賀井は元々町田市に住む父親との二人暮らしでしたが、高校卒業と同時に実家を出てこのアパートで一人暮らしをしていました。須賀井本人が既に死亡していた事と、彼がバスジャックをした事は明白だった事などから、家宅捜索は彼のアパートの部屋だけで充分と判断されたのですが、もし『名崎証言』で目撃されたのが当時中学生だった須賀井だったとすれば、その関係証拠が残されている可能性があるのは彼が中学生時代に住んでいた町田市内の実家の方です。そこで、今回我々は改めて町田市にある須賀井の実家を家宅捜索する事にしました」
「須賀井の実家は残っているのですか?」
藤の問いかけに斎藤は頷く。
「イキノコリ事件後、須賀井の父親は世間の目を逃れるように調布市へ引っ越していますが、色々事情があって実家を売らずに空き家のまま放置して固定資産税だけ払っている状態でした。なので、問題の実家の建物は内部も含めてイキノコリ事件当時のまま残されており、新たな証拠を押収する事ができた次第です」
そう言うと、斎藤はビニール袋に入れられたあるものを示した。
「それは……ボイスレコーダー、ですか?」
藤が言うように、そこに入っていたのはボイスレコーダーだった。
「須賀井睦也のかつての自室……そこにあった押入れの奥に手提げ金庫があり、鑑識が中を確認した結果、このボイスレコーダーが発見されました。レコーダーには音声データが残されており、そのデータを解析した結果……須賀井睦也と涼宮玲音と思しき少女の会話が記録されているのが確認されました」
その言葉に、捜査本部が一気にざわめき、榊原もさすがに驚いたような表情を浮かべた。
「それはつまり、例の『名崎証言』で目撃された当事者二人の会話、という事ですか?」
藤の問いかけに、斎藤は重々しく頷く。
「その可能性が非常に高いと我々警視庁は考えています。おそらく須賀井は彼女との会話に証拠としての価値を持たせるために、このボイスレコーダーで密かに録音をしていたのでしょう。ですが、直後に涼宮玲音が殺害されてしまったため録音を表に出す事ができなくなってしまい、結局こうして押入れの奥に封印するしかなかったという事なのだと思われます」
そうなると、問題は一体何が録音されていたのかというこの一点である。それがわかれば涼宮事件において大きな謎となっていた『名崎証言』の真実が何年もの時を経て白日の下にさらされる事になる。それだけに、刑事たちは固唾を飲んで斎藤の次の言葉を待った。
「記録されていたデータは、すでに鑑識によって抽出されています。これから提示するのはそのデータをコピーしたもので、原本のデータは現在の所警視庁に厳重に保管してあります」
そう言って、斎藤は一枚のCDを示し、再生の許可を求めた。藤は即座にこれを許可し、すぐにCDがノートパソコンにセットされる。
「では、流します」
斎藤のその言葉と同時に再生が開始され、そして、ついに長年秘密のベールに包まれ続けてきた幻の音声が室内に流れる事になったのである。
『……おい』
『……』
『……おい! お前だよ!』
『……もしかして、私ですか?』
『あぁ、そうだ。やっと会えたな』
『……ごめんなさい。人違いじゃないですか? あなたの顔に心当たりがなくて……』
『涼宮玲音、だな?』
『……』
『二年前、お前は鳩野観光の夜行バスに乗っていた。そうだな?』
『……あなた、誰ですか? 村の人じゃありませんよね? 何で私の名前を知っているんですか?』
『俺の事はどうでもいい。どうなんだ?』
『答える必要性を感じません』
『はぐらかすな!』
『怒鳴り散らす前に、まずはあなたが何者かを明らかにすべきです。違いますか?』
『うるせぇ! さっさと質問に答えろよ!』
ここまでの音声を聞いて、刑事たちは一様に険しい表情を浮かべながら各々が感想を述べていた。
「ひとまず、これが須賀井と涼宮玲音の会話である事は間違いなさそうですね」
「えぇ。本人の名前も出ていましたし、疑う余地はないでしょう。そして、二人が会う機会があったのは涼宮事件当日の蝉鳴村しかありませんから、すでに述べているようにこの録音が『名崎証言』で目撃された際の会話である可能性が非常に高いと考えられます」
「つまり、須賀井は神社へ向かう途中の涼宮玲音に声をかけ、その様子を診療所へ自転車で走る名崎義元に目撃された……という事でしょうか」
「そう考えると筋が通ると思われます」
「当時この会話の事実が明らかになっていれば、涼宮事件があそこまで複雑化する事も、まして加藤柳太郎が罪に問われる事もなかったはずなのですが……」
「結果論的にはそうなりますが、全てが終わった今となっては何とも言えませんね」
「それはもちろんわかっています」
「しかし、須賀井は随分焦っているようですね。これでは涼宮玲音でなくても警戒してしまう」
「当時の須賀井はまだ中学三年生でそこまで交渉ごとに強いとは思えず、しかも姉の行方を追う事で頭が一杯の状況でした。手掛かりが全くつかめず、余裕がなかったという事なのでしょう」
一方、刑事たちが検証を進める中、榊原はどことなく感無量といった風な表情を浮かべていた。
「これが涼宮玲音の肉声か……」
思えば、今回の事件で何度もその名が登場し、ある意味事件の中核を担う存在だった涼宮玲音であるが、そんな彼女の肉声を直接聞くのはこれが初めてである。声はその人の人となりを知らしめるという。初めて聞くその声色は、静かでありながら芯が通ったもので、生前の彼女の性格をうかがい知れる貴重なものであった。
その間にも、録音音声はさらに先へと進んでいく。
『二年前、お前は鳩野観光の夜行バスに乗っていた。そしてそのバスは乗客ごと失踪して、今も見つかっていない。だが、お前は失踪直前のそのバスから降りて、こうして今、のうのうと生きている。違うか!』
『……それが何か?』
『何でお前だけ助かったんだよ! 何でお前だけが助かって……』
『まるで、私が死んだ方が良かったみたいな言い方ですね。さすがに怒りますよ』
『黙れ! あまりにタイミングが良すぎるだろ! 絶対に何か裏があるはずだ! 知っている事を全部話せよ!』
『……何も知らないのに、随分な言い草ですね』
『あぁ!?』
『私があの事件の後、どれだけ苦しんだかも知らないで、随分な言い草だって言ったんです』
『ふざけんな!』
『ふざけているのはあなたでしょう。誰かは知りませんけど、わざわざこんなところまで私に喧嘩を売りに来たんですか?』
『てめぇ……』
『生憎ですけど、あの時に何があったのか知りたいのは私の方です。私だって、あの事件で二人の友達を失っているんです。自分だけが不幸だなんて思わないでください』
『何もわからないっていうのかよ』
『知っている事は全部あの時に警察に話しました。それ以上は何も知りませんし、話す気にもなれません。……もういいですか? 私、これから用事があるんです。あなたにこれ以上関わっている時間はありません』
『ま、待てよ。俺はまだ話したい事が……』
『失礼します』
『待てって! ……畜生!』
……そこで、音声は途絶えた。
「内容は以上です」
一瞬の沈黙の後、捜査本部が喧騒に包まれる。今回の蝉鳴村の事件の中核にいた涼宮玲音と、イキノコリ事件の中核にいた須賀井睦也の直接的な会話。それは、この場にインパクトを与えるには充分すぎる物だった。
ただ、そんな中で榊原はあくまでも冷静な態度を崩さなかった。というのも、確かに内容こそ衝撃的ではあったし、これで涼宮玲音と須賀井睦也の繋がりについて立証されたのは間違いないものの、残念ながらこの会話の内容から肝心の鳩野観光バスの失踪事件についての新たな情報は得られなかったからだ。
考えてみれば、ここで何か新たな情報を得られていれば、須賀井が月村杏里の記憶を目的としてイキノコリ事件の発端となったバスジャック事件を引き起こすはずもない。そういう意味では、この音声データの存在は、今回の捜査においてはあくまで補足情報にとどまると解釈せざるを得ないようだった。そしてそれは、藤や斎藤もよく理解しているようであり、話を次に移しにかかった。
「ひとまず、この須賀井睦也関連の件についての報告はいったんここまでとします。この件について何か気付いた事があれば、また後程ご報告ください。ここからは、本件について最近になって新たに判明した事実……すなわち、失踪した乗客の中にいた強盗犯・森永勝昭について、愛知県警から報告をしてもらおうかと思います。では、長谷川警部、お願いします」
藤の言葉に、愛知県警の長谷川警部が静かに立ち上がり、事務的な口調で事件についての報告を始めた。
「事の発端は一年前の二〇〇六年、京都市山科区のJR山科駅前にあるコンビニの店長から指名手配犯に似た男が買い物に来たという通報があり、通報を受けた京都府警が調べた結果、その男がかつて名古屋市内で起こった現金輸送車強盗殺人事件の容疑者として全国指名手配されていた布田清である可能性が高くなりました。この強盗殺人事件は一九九七年に名古屋市内の地方銀行の駐車場で同銀行に現金を運んできた輸送車が二人組の強盗に襲撃されたもので、犯人たちは乗車していた警備員二名を刺した上に現金一億円を強奪し逃亡。刺された警備員のうち一名が死亡し、もう一人も重傷となっていました。ただ、現場に放置されていた現金輸送車の後部トランクからわずかながら犯人の物と思しき部分指紋がみつかり、この部分指紋を前科者のデータベースに照合したところ、強盗事件の数年前に傷害容疑で逮捕されて執行猶予判決が出ていた元パチンコ店店員の布田が浮上。布田が二人組の強盗のうちの一人である可能性が強まったため、我々愛知県警は布田の顔写真を全国に指名手配していました。通報者のコンビニの店長は駅近くにある交番の掲示板に張られた手配写真を通勤中によく見ていて、買い物に来た布田の正体に気付いたとの事です」
長谷川は淡々と話を続ける。
「京都府警本部は慎重に内偵捜査を進め、しばらくして布田と思しき男が住んでいる山科区内のアパートの特定に成功。さらに密かにこの男の指紋を採取して調べた結果、これが指名手配中の布田清のものと一致したため府警本部は男の逮捕状請求に踏み切り、激しい抵抗の末に布田は逮捕されています。奴の自宅からは強奪された旧札の五千万円が未使用のまま見つかり、布田自身も強盗事件への関与を自白。身柄は間もなく愛知県警本部に護送され、そこで我々による取り調べが行われました。そしてその取り調べの中で、布田は長年正体不明のままとなっていたもう一人の強盗犯の正体についても自白。その自白で明らかになったもう一人の強盗犯というのが、鳩野バス失踪事件に巻き込まれた乗客の一人で現在もその行方がわからなくなっている森永勝昭だったというわけです」
続けて、長谷川は新たにキーマンとなった森永勝昭という男についての説明に入った。
「森永勝昭は当時四十三歳。名古屋市内にあった戸部島運送という運送会社の社員で、主にトラックの運転をしていました。ただ、布田の自白を受けて調べた所、当時の森永には競馬やパチンコでできた多額の借金があり、この借金の返済を目的に現金輸送車の襲撃を計画。ただ、現金輸送車が相手だけに一人では犯行不可能と考え、計画の過程で職と金に困っていた前科者の布田を引き込んだという事です」
「つまり、主犯は森永の方で布田は従犯だという事ですか?」
斎藤の問いに長谷川は頷く。
「仮に布田の自白が正しければそうなります。もちろん、布田が森永の行方がわからない事をいい事に森永に主犯を押し付け、自身の罪を少しでも軽くしようとしている可能性はあります。ですが、我々から見た限りでも布田はかなり小物臭い人間で、このような凶悪な強盗殺人事件の主犯を張るようなタイプには見えませんでした」
「布田と森永にはどのようなつながりが?」
と、ここで榊原が後ろからそんな問いを発した。
「布田曰く、雀荘で麻雀をしていた時にたまたま相席になったのが最初の出会いで、そこから時々一緒に居酒屋で飲むようになったという事です。その中で計画を持ち掛けられ、生活に切羽詰まっていた布田も乗ったと布田は主張しています。計画では強奪した金を山分けし、そのまま各自がその金を持って別々に逃亡する事になっており、事実そうしたという事です」
「盗まれた現金は総額一億円でしたね?」
「はい。正確にはアタッシュケース二つ分で、それぞれがケースを一つずつ持って逃亡したという事です」
そして同日夜、そのまま行方をくらまして一年前に逮捕されるまで逃亡し続けた布田に対し、森永は東京へ向かう夜行バスに飛び乗り、そのままバスごと失踪してしまっているのである。森永が強盗犯だったとわかった時点で、山梨県警がこの情報を重要視したのも無理もない話だった。
「鳩野観光の夜行バスは予約制です。それを予約してバスに乗ったという事は、おそらくですが森永は犯行を終えてそのまま間髪入れずに東京方面へ逃亡し、当局の眼から逃れるつもりだったのでしょう。しかし、そこで何かがあった」
「何しろ、失踪した夜行バスの車内には非合法に入手された五千万円の現金があったわけですからね。これだけの金がある事がわかったら、誰が何を起こしてもおかしくありません」
問題は、言うまでもなく一体あのバスで何があったのかという話である。
「……可能性として考えられるのはまず二つでしょう。一つは、強盗殺人犯の森永自身が車内で何かトラブルを起こしたというパターン。もう一つは、五千万円の存在を知った他の乗客乗員の一人ないし複数人がこの五千万円を奪おうと何かしでかし、それがバスそのものの失踪に繋がってしまったというパターンです」
榊原の指摘に、すかさず藤が意見を述べる。
「しかし、生き残った月村杏里及び涼宮玲音の証言では、少なくともバスが失踪する釈迦堂パーキングエリアまでに車内で何かトラブルが起こった形跡はなかったようです。となれば、何か起こったのはそれ以降という事になりますが……」
「仮に客側が金目的に何かをしたとしても、なぜその人物が五千万円の存在を知ったのかという問題も起こります。逃亡を図っている森永が不自然な大金の存在を他人に知られるような愚を犯すとも思えませんし」
斎藤が後に続く。確かにその点は問題だった。
「失踪直前のバスの様子を覚えていたのは涼宮玲音の方です。その証言によると、彼女が釈迦堂パーキングエリアで目を覚ましてトイレのためにバスを降りた際、乗客はほとんど寝ていたという事になっています。道中で何かハプニングがあったようには見えませんね」
榊原は静かに自身の意見を言う。
「その涼宮玲音の事件直後の証言で気になったのが、彼女がバスを降りた時、運転席に運転手の姿がなかったという点です。これは明らかにイレギュラーな状況といえるでしょうから、取っ掛かりを掴むとすればまずこの辺りからでしょう」
「榊原さんは運転手が事件に関係していると?」
「バスそのものが失踪している以上、そのバスを動かす事ができる運転手に疑いの目を向けるのは当然だと思いますが」
確かに、この状況では運転手が怪しいというのも頷ける話である。ただ、問題はこのバスには運転手が二人存在する点である。
「夜行バスでは二人の運転手が交代しながら運転する事が多く、一方が運転している間もう一人はそのすぐ後ろの席で仮眠をとっているのが普通です。実際、このバスもそうでした」
「問題は、失踪当時どちらの運転手がバスを運転していたのかという事ですね」
事件当時、失踪したバスに乗っていた運転手は長崎純平と諸伏哲彦の二人であり、この二人もバスもろとも失踪している。
「涼宮玲音の証言では、降車する際に運転席の後ろの席でもう一人の運転手が寝ていたとなっています。ただ、記録を見る限り、この寝ていた運転手が長崎と諸伏のどちらだったのかまでは特定されていません」
「事情聴取でもその点は曖昧になっていたようです。何しろ暗い車内での寝起きの中学生の記憶ですし、しかも一瞬の話です。当時の捜査本部も彼女に二人の運転手の顔写真を見せて確認はしたものの、結局本人もどちらと断言はできなかったようです」
藤が当時の状況を補足する。と、ここで斎藤が榊原の方をジッと見やりながら尋ねた。
「榊原さん、確認のために改めてもう一度聞きますが、あなたはどちらかの運転手がこの事件に関係していると考えているのですか?」
斎藤の問いかけに対し、榊原は正面から応じる。
「そこまではまだはっきりしないが、何度も言うように、涼宮玲音の証言から失踪直前に運転していた方の運転手の姿がバスの近くになかった事がわかっている。この観点から事件を見た場合、考えられる可能性は二つ。一つはいずれかの運転手がこの事件に関与している場合で、この場合その運転手は犯行の準備をするために一度バスから離れていた可能性が推測できる。もう一つは乗客のいずれかが失踪に関与していた場合で、この場合……言い方はあれだが、失踪直前に運転手がいなかったのは、その『犯人』の乗客がバスを乗っ取るために運転手の身柄を拘束、あるいは殺害してしまっていたというケースが想定される」
その榊原の推理に、会議室内に緊張が走る。
「つまり、榊原さんは涼宮玲音がバスを降りた時点ですでに何らかの事件が起こっていたと言うつもりですか?」
「誤解のないように言っておくが、これは失踪直前に姿が見えなかったという運転手が事件に関与していなかったと想定した場合の推理だ。絶対に正しいというつもりは現段階ではない。むしろ、この推理に対して何か意見があれば積極的に聞きたいのですが、どうでしょうか?」
榊原が全体に対して発したこの問いかけに反論したのは藤だった。
「仮にその推理が正しかった場合、運転手の殺害は釈迦堂パーキングエリア内で発生した事になります。当然ながら運転中の運転手を殺害する事はできませんし、釈迦堂パーキングエリア到着後でもバスの車内で殺人を起こせばさすがに乗客やもう一人の運転手が異変に気付くはずです。何より、涼宮玲音は降車時に車内に異常を認めていません。ここまではいいですか?」
藤の確認に榊原は黙って頷く。
「事件後、我々山梨県警は当然ながら現場となった釈迦堂パーキングエリア内を徹底的に調べています。まず、駐車場内で殺人があった可能性は非常に低い。深夜とはいえ駐車場内には複数の車が停車しており、人通りもそれなりにありました。いつ誰に見られるかわからない状況で堂々と殺人をするなど不可能ですし、実際にそのような目撃情報も皆無です。そしてこれは、パーキングエリア内の売店エリアや休憩エリアなどでも言える事です。あえて殺人を実行できるとすればトイレくらいしかありません」
ですが、と藤は続けた。
「事件直後に釈迦堂パーキングエリア内の男女トイレを隅から隅まで調べましたが、そこから殺人の痕跡は一切見つかっていません。ルミノール試薬も使いましたが血液反応も出ておらず、わずかな血痕すらありませんでした。もちろん、血の出ない絞殺などの殺害方法も考えられますが、それならそれで痕跡が残るはずで、それを県警の鑑識が見逃すとは考えにくい。正直、事件当時釈迦堂パーキングエリア内で殺人があった可能性はかなり低いと思います」
その藤の言葉に、榊原は深く頷いて告げた。
「結構です。県警がそこまで調査をして何も出なかった以上、確かに運転手が『乗客に』殺害されたという推理は外れと考えるしかありません。しかし、そうなると可能性として考えられるのは……」
「もう一つの推理……つまり、運転手が何らかの形で事件に関与しているという可能性ですね」
斎藤が榊原の後を引き取る。だが、これに異を唱えたのは藤と長谷川だった。
「いえ、ここまで話をしておいて何ですが、我々としては運転手が失踪事件に関与していたとは認めがたいと言わざるを得ません」
「なぜですか?」
「簡単な事です。榊原さん自身がさっきも言ったように、バスがいきなり失踪した事件について運転手が怪しいと睨む……そんな事は、当時の捜査陣も真っ先に考える事だからです」
その言葉だけで、榊原は全てを悟ったようだった。
「つまり、事件発生直後の時点で、それはもう調べてあると?」
「そういう事です。二人の運転手の経歴については当時の山梨県警の依頼で特に詳しく調べられています。二人とも鳩野観光の正社員で、前科など不審な経歴は確認できません。勤務態度も特に問題なく、両名とも非常に真面目で、金銭トラブル等の存在も確認できなかったという事です」
運転手二人の勤務地を管轄する長谷川が淡々と答える。が、それだけではこの状況は打開できない。何しろもう十年以上……それこそ涼宮事件以前から未解決のままの最難関の事案なのだ。何がどう手懸りになるかわからない現状、とにかくありとあらゆる情報が必要だった。
「その経歴について、もう少し詳しくは教えて頂けませんか?」
「えー、そうですね……」
ここで初めて長谷川は持ち込んできた資料を確認する。
「長崎純平は失踪当時三十一歳。愛知県豊田市生まれで地元の高校を卒業後、愛知第三大学経済学部を卒業し鳩野観光に就職。一方の諸伏哲彦は失踪当時四十一歳。三重県亀山市生まれで、亀山北大学文学部卒業後に三重県下の『北鳥羽交通』というバス運行会社に就職後、一九九〇年に鳩野観光に転職しています」
「ふむ……」
榊原は頭に片手をやって考え込む。確かに、ここまでの情報を聞いている限り、この二人の運転手のいずれかが意図してバスを失踪させるなどどう考えてもあり得ないように思われた。
「となれば、残念ですが、話は振り出しですか」
斎藤は悔しそうに呟く。だが、それに異を唱えたのは榊原だった。
「いや、まだだ。確かに今までの考察で、乗客や運転手がバスの失踪に関与していた可能性は概ね否定されたようだが、ならば次に考えるべきは、このバスの失踪に乗客でもなく運転手でもない第三者が関与していたという可能性だ。そしてそうなると、一つの可能性が再浮上してくる事になる」
「その可能性というのは?」
「先程の『運転手が釈迦堂パーキングエリア内で乗客に殺害された』という推理の発展形で、『運転手がパーキング内に停車していた第三者の運転する車の車内に連れ込まれて殺害された』という可能性だ」
榊原が示した新たな可能性に、刑事たちはざわめいた。
「車内、ですか」
「えぇ。先程は『乗客が運転手を殺害した可能性はあるか?』という観点から推測を重ねたため、他人の運転する車内で運転手が殺害された可能性は最初から除外されていました。しかし、犯行に第三者が絡んでいたとすれば、この可能性が浮かび上がってくるはずです」
斎藤達は改めてその可能性を吟味する。そして出した結論は、『可能性を完全に否定する事はできない』というものだった。
「仮に停車中の車内で犯行が行われたとするなら、バスの失踪後に犯行の痕跡を探るのはほぼ不可能です。さすがに外からでも車内の様子が見える小型車では難しいかもしれませんが、大型車の後部座席や、もっと言えばトラックのコンテナ内で犯行を行われでもしたら外から犯行が目撃されなかったのにも頷けます」
斎藤はこう結論付ける。だが、これに食い下がったのは藤だった。
「ですがその場合、犯人は自身の自動車で釈迦堂パーキングエリアに来ていた事になります。そしてその後、犯人は自身が殺害した運転手の代わりにバスを運転しなければならず、そうなれば運転手の死体が乗ったままの自身の車を釈迦堂パーキングエリア内に放置せざるを得ないはずです。状況的に、不特定多数の人間がいる中で運転手の遺体をバスに積み替えるのはリスクが高すぎますからね。しかし、失踪後の釈迦堂パーキングエリア内の捜査でそのような不審な放置車両は発見されていません」
当然と言えば当然の話で、そもそも自動車なしでは脱出不可能な高速道路のパーキングエリア内に無人で放置されている車両があれば、十年前の時点で必ず問題になっているはずである。それがないという事は、そのような車両は発見されていないという事だ。
だが、この藤の疑問に対して、榊原は衝撃的な回答を用意していた。
「なら、バスを運転して失踪した犯人とは別に、犯人の自動車を運転して釈迦堂パーキングから脱出した人間がいたと考えるべきです」
「……共犯がいた、という事ですか?」
それは、今まで考えられていた事件の構図を大きく変える推理だった。
「これだけ大掛かりな事件です。第三者が犯人だった場合、一人でやるのは限界があると私は考えます」
「具体的に、どれくらいの共犯者がいたと思いますか?」
「そうですね……あくまで可能性ですが、この犯行には少なくとも三人の人間が絡んでいると考えます」
予想外に多い人数に刑事たちはざわめく。
「理由を伺っても?」
「本格的なバスジャックを起こそうとした場合、排除した運転手に代わってバスを運転する人間と、乗客を制圧する人間の二人が最低でも必須です。今回はそこに釈迦堂パーキングから犯人の自動車を運転して脱出する人間が必要ですから、合計すると三人という事になります。もちろん、これ以上の人間がいた可能性はありますが」
「他に犯人たちの条件は?」
「そうですね……少なくとも犯人のうち一人が、強盗事件後の森永の動き……言い換えれば森永が問題の夜行バスで東京へ逃亡しようとしていた事を把握できる立場にいた人間だと推測できます。そうでなければ、森永の持っている現金を奪うためにバスを襲ったという根本的な考えが成立しなくなってしまいますので」
「該当するのはバスの運転手を除けば、それこそ事前に乗客名簿を閲覧できるバスを運行する鳩野観光の関係者か、あるいは、森永から直接バスに乗る旨の話を聞いていた人間と言ったところですね」
斎藤が思案しながら該当する人間を列挙していく。
「となると、次の問題はその『第三者』が誰なのか、という点ですが……」
と、ここで榊原は不意に長谷川に向き直って言葉をぶつけにかかる。
「森永の起こした強盗事件について気になる事が一つ。このような強盗事件を避けるため、通常、現金輸送のスケジュールや経路、運送金額等は関係者以外極秘になっているはずです。にもかかわらず、犯人の森永と布田はどうやってそうした情報を得、そして極めて難しいであろう現金輸送車からの現金強奪を成功させる事ができたのでしょうか?」
「……何が言いたいんですか?」
長谷川の表情が険しくなる。それに対し、榊原はとんでもない爆弾発言を捜査本部内に投げ込んだ。
「現金輸送の関係者側に森永達の協力者がいた可能性……それについてはどこまで捜査がなされているのでしょうか?」
思わぬ成り行きに斎藤や藤は目を丸くする。だが、さすがにその辺りは愛知県警側も調べていたようだった。
「もちろん当時の捜査本部も輸送を担当した警備会社や銀行関係者への調査を行っています。しかし、結論から言えば森永に協力しそうな人間は確認できませんでした。その筋からの情報漏れはないというのが我々の結論です」
だが、それに対する榊原の言葉はさらに意外なものだった。
「被害者についてはどうですか?」
「はい?」
「実際に強盗事件で被害に遭った輸送車の警備員二人。その二人が情報を流した可能性は?」
さらなる爆弾発言に、長谷川は信じられないと言わんばかりに榊原の方を見やる。
「榊原さんは、被害者二人が犯人の仲間だったというつもりですか?」
「十年以上も未解決だった事件です。常識的な捜査で結論が出なかった以上、こちらも非常識な可能性を模索すべきだと考えますが」
「いや、しかし……問題の警備員二人のうち、一人は意識不明の重傷、もう一人に至っては死亡しています。その状況で彼らのどちらかが犯人側の仲間だったと言われても……」
確かに想像しにくいのは事実である。だが、榊原はあえてその可能性を探ると言っているのだ。
「死亡した警備員が小野崎靖樹、意識不明になった警備員が新津友信、でしたよね」
「その通りです。なお、当然ですがこの二人が夜行バスの失踪に関与していた可能性は絶対にあり得ません。強盗事件の際に死亡した小野崎はもちろん、新津の方も意識不明で病院の集中治療室にいたわけですから」
「それはもちろんわかっています。知りたいのは、この二人の警備員のいずれかが事件当時外部に情報を漏らすような状況に陥っていなかったかどうかという事です」
「それは……」
長谷川が言葉に詰まる。が、ここで終わらないのが愛知県警だった。
「少なくとも、新津友信に関してはその可能性はありません。意識不明とはいえ生存していましたから、その周辺は県警も調べましたので」
「逆に言えば、死亡した小野崎靖樹の周囲は調べていない?」
「……残念ながらそうなります」
もちろん、形式的かつ最低限の事は調べたものの、さすがに死亡している被害者の周囲を根掘り葉掘り調べるような事は遺族や世論感情的にもできなかったというのが長谷川の答えだった。
「しかし、何度も言うように小野崎は強盗事件の際に森永達に殺害されています。仮に仲間だったとしたら、そんな事をするはずが……」
「本当の意味での仲間ではなかった、とすればどうでしょうか?」
榊原がまたしても意味のわからない事を言い始める。さすがに不親切だと思ったのか、訝しげな表情を浮かべる長谷川に対してすぐに詳しく説明する。
「状況的に、森永と布田は間違いなく仲間だったのでしょう。それは奪った金を均等に分配している事から確実です。しかし、小野崎はあくまで情報収集のために利用されただけの『駒』のような存在で、犯行時に口封じのためにどさくさで殺害した、とすればどうでしょうか? 小野崎があくまで森永たちに利用されただけの関係なら、森永たちにとって自身への情報漏洩の事実を知る小野崎は消したい存在のはずです」
「まさか……」
最初はとんでもない推理といった感じだったが、話を進めていくうちに長谷川の顔も真剣なものへと変化していく。それだけ、榊原の推理は真面目に検討する価値があるものになりつつあった。
「仮にこの推理が外れだったとしても、それはそれで可能性を一つ潰せたことになるので無意味ではないはずです。調査の価値はあると思いますが」
「確かに……私もこれは一度調べてみる必要があると思いますね」
斎藤の賛同するような言葉に、長谷川もようやく頷いた。
「いいでしょう。確かに気になる話ですし、すぐにうちの捜査員に調べさせます」
そう言って、長谷川は即座に携帯で愛知県警に連絡を取る。榊原はその様子をジッと見つめながら、なおも何かを考えるような仕草を続けていたのだった……
……その日の夜、新たにもたらされた情報により、山梨県警内で緊急の捜査会議が行われる事となった。刑事たちと榊原が真剣な顔をして見つめる中、正面に立った長谷川が愛知県警の部下からもたらされた情報を説明していた。
「榊原さんの推理を受けて、改めて森永達の起こした強盗事件の被害者・小野崎靖樹についての周辺調査を行いました。何しろ十年も前の話ですので詳細はさらなる調査が必要ですが、小野崎の両親は事件当時すでに他界しており、大阪府在住の妹が一人だけいるという家族構成だったようです。で、小野崎は死亡時に独身でしたのでその遺産相続者はこの妹一人という事になるのですが、問題の妹が事件後に小野崎の遺産を相続放棄していた事がわかりました」
「相続放棄?」
思わぬ用語に刑事たちのざわめきが大きくなる。相続放棄とは民法の相続関係の条文に記された制度で、文字通り相続候補者が相続を放棄できるシステムである。一般的に「遺産相続」というとメリット的な側面を想像する人間が多いが、例えば死亡者が生前に莫大な借金を抱えていた場合、何もしなければこの借金も相続者に引き継がれてしまう。このため、相続をした場合に相続者に不利益が発生するような場合、相続者が一定期間内に宣言をすれば相続その物を放棄でき、遺産を相続できなくなる代わりに借金も引き継がなくて済むという救済処置が存在する。これが「相続放棄」で、これが行われているという事は、死亡者の資産に何かしらのトラブルがあったという事になる。
「大阪府警に頼んで問題の妹に直接話を聞いたところ、死亡当時、小野崎にはギャンブルによるかなりの額の借金があり、その借金額が想定された遺産額をはるかに越えていた事からデメリットしかないと判断され、相続放棄に踏み切ったとの事です」
「……つまり、事件当時の小野崎は金銭的にかなり困っていた……言い換えると、現金強奪計画に加担するだけの下地があったと?」
「えぇ。そこでさらに詳細に調べた所、当時の小野崎の周囲に一人怪しい人間がいた事が判明しました」
その言葉と同時にスクリーンにその人物の写真と氏名が映し出される。
『大竹義之』
新たに登場した名前に捜査本部が一瞬ざわめいた。
「大竹は事件当時四十三歳で、当時の職業は名古屋市内にある空調設備修理会社『中京クリーンズ』の作業員。小野崎靖樹とは高校時代の同級生……というより悪友に当たります。卒業後も付き合いがあり、週末にはいつも一緒に飲む間柄だったとか」
「その男が浮上した理由は?」
斎藤の問いかけに、長谷川は簡潔に答えた。
「問題は大竹の勤務する『中京クリーンズ』に空調設備の整備を依頼していた事業所の一つに、今回の事件の関係先があった事です」
「関係先と言うと……『鳩野観光』ですか?」
しかし、さすがに県警側も事件発生当時にバスの所有者である鳩野観光の関係者は調べたはずである。にもかかわらず今になってこの情報が出てきたという事実に不審を覚える刑事もいたが、長谷川の答えは違った。
「いえ、『鳩野観光』ではなく、同じく名古屋市内にある『海原エンターツアーズ』というツアー企画会社です。そしてこのツアー会社は、失踪したバスが行っていた高速バスツアーの企画及び募集を行い、鳩野観光に問題のツアーの運行を依頼した会社です」
「そうか……これは『高速ツアーバス』だったな。なら、ツアーを鳩野観光に委託した会社が存在するはずか」
榊原が何か納得したように頷く。これは少し解説しておく必要があるだろうが、一般的に「夜行バス」と呼ばれる高速道路を使ったバスの運行には、大きく『乗り合いバス(もしくは単に『高速バス』)』と『高速ツアーバス』という二つの運行形態が存在する。前者は一般的な路線バスとほぼ同じ運航形式で、あらかじめ各所に設置されたバス停をバスが回る形で乗客を乗せて目的地まで運行する方式。後者は修学旅行などで見られる貸し切りバスを利用したやり方で、ツアー会社があらかじめ「所定の場所まで行くツアー」という形で乗客を募集し、そのツアー会社に依頼されたバス会社が実際の運行を行うという方式である。客側からすればどちらでも同じようなシステムだが、『高速ツアーバス』は名目上あくまで「ツアー旅行」であるため建前上「場合に応じて客の要望に応じる必要がある」ことから路線バス方式の『乗り合いバス』に比べて法律上の規制が甘く、運転手の連続勤務時間の上限や料金設定の制限が緩いためバス会社からすれば新規参入しやすい事もあり、この裏技めいた方式を採用している会社が多くなっているという(注:なお、『高速ツアーバス』はその安全性の欠如と業界のブラックぶりが問題となり、後に二〇一三年に関越自動車道で起こった夜行バスの防音壁衝突事故をきっかけに法改正が行われて乗り合いバスに一本化される形で消滅する事となるが、この物語の時点ではまだこのシステムが存在している事は留意されたし)。
今回の失踪事件で失踪したバスは後者の『高速ツアーバス』の方式を採用しているパターンであり、バスの所有者である鳩野観光はツアー会社からバスの貸し切り・運行を依頼されたバス運行会社に過ぎず、その上に実際のツアー企画及び乗客の募集を行ったツアー会社がさらに存在するはずなのである。そのツアー会社が『海原エンターツアーズ』であり、そうなれば当然、乗客の募集を担当したこのツアー会社の関係者も乗客の情報を知る機会があったはずであり、すなわち犯人の条件を満たす事になるのである。
「当時の捜査員もさすがに実際にバスの運行を行っていた直接的利害者である鳩野観光の社員たちは調べていましたが、その依頼元であるツアー会社の関係者までは、誠に遺憾ではありますが調べ切れていなかったと思われます。しかも、この男は社員ですらなく、ツアー会社の出入り業者です」
「まぁ、確かに初めから目星をつけておかないと、この男が事件関係者だと気付くのは至難の業かもしれませんね」
藤が小声でそんな独り言を言う。
「つまり、空調設備の出入り業者としてツアーを企画した『海原エンターツアーズ』の事務所に出入りしていた大竹が、何らかの方法で問題のツアーバスに『森永勝昭』が乗車する予定である事を知り、強盗事件発生後にその情報を元にしてバスに乗って逃亡を図る森永から現金を強奪する計画を立てた……と言うつもりですか?」
「その通りです」
「しかし、いくら事業所に出入りできたからと言って、乗客の個人情報を得るのは難しいのでは?」
斎藤がすかさず疑問を呈するが、長谷川はすぐにこう反論した。
「いえ、当時はまだ個人情報保護法施行前(注:同法の施行は二〇〇三年)で、企業の個人情報保護の概念がまだかなり緩かった時代です。社外の人間がオフィスにいるのに、電話口か何かで平気で個人情報を大声で話すというような事をやっていたとしても不思議ではありません」
忘れがちだが、この事件が起こったのはまだインターネットがそこまで一般に普及していない一九九七年である。ゆえに夜行バスの予約もネットではなく、大体が電話によって直接行われていたはずだ。となれば、社員が電話口で話す乗客の情報を、同じ部屋で空調設備の修理をしていた大竹が聞いていた可能性は充分ある。
「この大竹という男の現在の行方は?」
藤の問いに、長谷川は少し顔を曇らせながら答えた。
「それが……バスの失踪の約一週間後、職場の空調設備修理会社から最寄りの所轄署に対し、この男の失踪届が提出されています。今回の調査に引っかかったのも、この失踪届の存在からです」
「失踪届……」
「無断欠勤が続き、心配した同僚が当時住んでいた自宅アパートを訪ねた所、もぬけの殻だったと。以降もその行方はわからず、今から三年前……つまり失踪から七年が経過した二〇〇四年の時点で親族が失踪宣告をしています。従って現時点において、大竹義之は法的には死亡したという扱いになっています」
「こっちもバスと同時期に失踪か。臭うな」
時期的に見て、かなり怪しい失踪と言わざるを得なかった。長谷川はさらに報告を続ける。
「先に言ったように小野崎は大竹と同級生でよく一緒に飲む関係だったのですが、どうも小野崎はこの大竹からもかなりの額の金を借りていて、事件直前に大竹からかなり強く借金の返済を求められていた形跡があるのです」
「確かですか?」
斎藤の確認に、長谷川は頷く。
「居酒屋で怒鳴りつける大竹に何度も土下座して返済の猶予を求める小野崎の姿が何度も目撃されています。間違いないかと」
「しかし、大竹はなぜ急にそんな強引な返済の要求を?」
「それがどうも、大竹自身も事件直前に何人かの知人から金を借りてまで行った株取引がものの見事に大失敗して返済地獄に陥っていたようで、その借金の返済のために、株の失敗以前に自身が金を貸していた小野崎に急遽金を返済してもらう必要性が出てきたようです。小野崎も必死でしたが、返済を迫る大竹自身もかなり切羽詰まった状況で、小野崎に情けをかける余裕などなかったというのが真相のようですね」
「……そういう状況なら、鬼のような形相で返済を迫る大竹に対し、強盗に加担する事が決まっていた小野崎が『近々大金が入る予定だからもう少し待ってくれ!』というような言い訳をした可能性が出てきます。そしてその流れの中で、小野崎がうっかり強盗事件の主犯である『森永勝昭』の名前を出してしまった可能性は充分に考えられます。もちろん『強盗に協力する』とはさすがに言わなかったと思いますが、金をくれる人間が『森永勝昭』であると口を滑らせた可能性は捨てきれないかと」
榊原の推理に、刑事たちも同意するように頷いた。長谷川からの報告はさらに続く。
「それと、すでに言ったように小野崎はかなりのギャンブル好きで、日頃からパチンコに入り浸っていたらしいのですが、小野崎がよく通っていたパチンコ店の元店員が京都で逮捕された強盗犯の片割れである布田清だった事もわかりました。つまり、小野崎が金に困っており、さらに銀行の現金輸送車の警備員である事を何らかの理由で知った布田が森永と共謀し、小野崎を計画に引きずり込んだ事は否定しきれないと思われます」
ここへきて、森永たちと小野崎が事件前から繋がりがあった可能性が浮上したのである。と、ここで榊原が発言を求めた。
「少し状況を整理しましょう。まず、殺害された警備員の小野崎靖樹は実は強盗犯の森永や布田の協力者であり、現金輸送車の情報などをあらかじめ森永たちに漏らしていた可能性がある。見返りは彼らが強奪するはずだった現金の一部で、当時小野崎が金銭的に困っていたという事実がそれを裏付けています。しかし、森永や布田からすれば小野崎は所詮情報を得るためだけの駒に過ぎず、最初から分け前を与えるつもりなどなかった。そして彼らは現金輸送車を襲撃し、その際に口封じの意味も込めて、犯行のどさくさに小野崎を殺害した。ここまでの流れはいいですか?」
榊原の確認に、刑事たちはいっせいに頷く。異論はないようだ。
「だが、小野崎の方も事件前に借金返済をしつこく求める大竹に対して『近々まとまった金が入る』というような事を話してしまっており、その際におそらく大竹に対して『森永勝昭』の名前を出してしまった。一方の大竹は、仕事で訪れた『海原エンターツアーズ』のオフィスで同じ『森永勝昭』の名前を社員の電話口の会話か何かで聞き、そこで森永が問題の夜行バスに乗車するという情報を知っていた。そして強盗事件発生後、ニュースか何かで小野崎の死を知った大竹は小野崎の言っていた『大金が入る予定』がこの強盗事件だった事や、その強盗事件の犯人の片割れが森永勝昭であった事、そして森永が奪った金を持って夜行バスで東京へ逃げようとしている事を知り、その金を死んだ小野崎に代わって今度は自分が森永から強奪する事を計画した」
「えぇ。そこまでの流れに矛盾はないように思います」
斎藤は榊原の推理を肯定しつつ、続けてこんな疑問を発する。
「ただ、以前に述べたように一人であの状況の夜行バスを襲う事は間違いなく不可能です。それは大竹もよくわかっていたはず。だから大竹は現金強奪を成功させるために、さらに何人かの人間を犯行に引きずり込んだと考えられます。問題は、それが一体誰なのかという点ですね」
「確か以前の話では、犯行形態的に三人は必要だったという話でしたね。一人は大竹として、大竹の周辺に他に怪しい人間はいなかったのですか?」
藤のそんな問いに対し、長谷川はすぐにこう報告した。
「もちろんその点についても調べました。結果、一人だけですが怪しい人間が確かに存在しました」
そう言ってから、長谷川は正面のホワイトボードにその人物の写真を張り付け、その下に名前を書き込む。
「富石雅信。事件当時三十九歳で、名古屋市内にある土建会社『掛川土建』の作業員。ただし前科者で、かつて窃盗罪で服役し、出所後に先述した土建会社に就職したという流れになります」
「前科というのは?」
「この富石という男、かつては静岡県富士市に本社を置く『アーネスト不動産』という不動産管理会社の社員だったのですが、仕事にかこつけて彼が管理を任されていた箱根の個人別荘からこっそり貴金属を盗んで売りさばいていたようでしてね。別荘の所有者からの訴えで警察が調べた結果、管理のために別荘の鍵を所有している富石が容疑者として浮上し、盗まれた貴金属が彼の自宅から見つかった事で逮捕に至っています。ただ、出所後については記録上ではこれといった刑事事件は起こしていません」
「大竹との関係については?」
「大竹とは競艇仲間で、よく一緒にいたところを複数の人間に目撃されています。そして調べた結果、この富石という男は大竹に金を貸した張本人の一人だったようです」
その言葉に捜査本部が一層ざわめく。
「競艇ですか」
「えぇ。大竹は高校時代にボート部、富石は大学時代にヨット部に所属していて、舟に関する事に興味があったようです。それで二人とも競艇に行くようになったと」
「……大竹が森永からの現金強奪に動いたとすれば、その動機として考えられるのは、本来小野崎を通じて手に入るはずだった金が小野崎の死で手に入らず、金の返済に困っていて切羽詰まっていた大竹が自ら森永から問題の金を強奪しにかかったというものです。だとすれば、大竹に金を貸した張本人であり、前科者でもある富石がその計画に協力したとしても何ら不思議はありません」
「富石の現在の行方に関しては?」
その問いに対し、長谷川は首を振った。
「残念ながらこちらも大竹同様、事件前後を境にして消息不明になっています。身寄りがいないため失踪宣告も出されておらず、現在も行方不明扱いのままです。その事実も、富石が本件に関与している可能性が高いと判断する根拠の一つとなっています」
「こっちもか……」
斎藤は険しい表情を浮かべた。何にせよ、十年前の捜査では名前さえあやふやだった関係者がこうして表に出てくるのは、事件の解決にとって大きな一歩である事も事実である。だが、実の所はこれでもまだ足りないのである。
「それより、問題は三人目です。何度も言うように、この犯行を行うには最低三人が必要です。仮に大竹と富石が実行犯だったとして、あと一人は誰なんでしょうか?」
藤のその問いかけに、誰もが唸り声をあげて考え込む。それは確かにかなり難しい問題だった。
「長谷川警部、今回の調査で浮かび上がったのはその二人だけですか?」
「……現状では、そういう事になります。もちろん、今後の捜査でさらに浮上する可能性はありますが」
長谷川が少し悔しそうに答える。だが、ここで止まるわけにはいかないのだ。
「その人物……ひとまず『X』としますが、とにかくそいつは現金輸送車強盗事件後に大竹の呼びかけですぐにバス襲撃に参加できる人間です。少なくとも大竹か富石とかなり近い関係なのは間違いなく、そして現金強奪に加担している以上、金銭的に困っていた人間である可能性は非常に高いと考えます」
藤が問題の第三の犯人Xの人物像を推測する。と、ここで斎藤がさらにこう発言した。
「仮にバス襲撃の犯人が大竹、富石、Xの三人だったと仮定しても、現状で推測できている彼らの犯行の様子はそう多くありません。今の所の推理では、車でバスを追いかける形で釈迦堂パーキングエリアに到着した大竹たちは、まずこの時に実際に運転をしていたバスの運転手を自身らの車の中に引き込んで殺害。その後犯人のうち二人がバスに乗り込んで一人がバスの運転、もう一人が乗客の制圧を行い、残る一人が乗って来た車を運転して釈迦堂パーキングを脱出する役割を担ったという事になるかと思われます。逆に言えば、無事にバスを乗っ取った後、それぞれの犯人たちがどのような動きをしたのかは現時点でも明確に推理できていません。そうですね、榊原さん?」
斎藤はこの推理をした張本人に確認を取り、榊原も頷き返す。
「その上でお聞きしますが、仮にこの推理が正しかったとして、榊原さんは犯人三人……大竹、富石、Xがそれぞれどの役割を担ったと思いますか?」
刑事たちは榊原の答えに注目する。だが、ここで榊原は静かに目を開けると、質問には答えずにこんな事を言い始めた。
「その疑問に答える前に、今回新たにわかった情報を踏まえた上で、この最後の犯人Xの正体について推測した事がある。もちろん、あくまで推理だからそれが真実かどうかを立証できるかは今後の捜査にかかっているが、その上で私の推理を話しても構わないかね?」
榊原の言葉に、その場の刑事たちの顔が別の緊張に包まれた。
「もちろんです。どうぞ」
「では、失礼して」
そう前置きすると、その場の全員に向けて、榊原はもう何度目かわからない事件についての『推理』を語り始めた。
「まず、このバス失踪事件について考えてみると、まだいくつか大きな謎が残されています。そのうちの一つが、事件発生の翌日に、山梨県北部の丹波山村周辺で乗客の一人である月村杏里がただ一人だけ発見されているという事実です。ここから当時の山梨県警は丹波山村周辺を徹底捜索しましたが、結果的にこの捜索は空振りに終わり、丹波山村周辺で失踪したバスを発見する事はできませんでした。そうですね、藤警部?」
「えぇ、残念ながらそういう事になります」
藤は悔しげにその事実を認める。
「しかし、そうなると必然的に根本的でありながら長年見過ごされ続けてきた疑問が浮かびます。すなわち、なぜ月村杏里は丹波山村周辺で発見されたのか? もっと踏み込んで言うと、この月村杏里の発見はバスを乗っ取った犯人たちにとって予想外のものだったのか、あるいは想定内のものだったのか、そのどちらだったのでしょうか?」
「それは……」
思わぬ問いかけに刑事たちは顔を見合わせる。確かに、今までは月村杏里が丹波山村周辺で発見されたという事実について、単にバスから何らかの理由で脱出できたとしか考えず、その発見が偶発的なものだったのか意図的なものだったのかという点については考えていなかったのである。
「榊原さんは……月村杏里の発見は突発的なものではなく、犯人たちに意図的に仕組まれたものだったというつもりですか?」
「その可能性があるという話です。あくまで現段階では、ですが」
そう言った上で、しかし榊原はなおも推理を続ける。
「疑問二つ目。今までの推理では、釈迦堂パーキングエリアでバスを乗っ取った後、犯人グループは二手に分かれた事になります。つまり、実際にバスを制圧する犯人と、釈迦堂パーキングエリアまで犯人たちが乗ってきた車を運転してパーキングエリアからの脱出を図る犯人です。しかし……ここで考えたいのは『バスを乗っ取った犯人』ではなく『乗って来た車をパーキングから脱出させた犯人』の方です。果たして、その犯人の仕事は単に『車をパーキングから出す事』だけだったのでしょうか? もしかしたら、それ以上の何か大きな『仕事』をこの犯人はしていたのではないでしょうか? 何しろこの犯人は、事件発覚後にどうしても目立ってしまうバスとは違い、警察の目に存在そのものが映っていない言わば『見えない犯人』です。これを利用できるのであれば、最大限利用するのが普通だと思いますが」
そこで一息つくと、榊原は鋭い声を張り上げてさらなる言葉を紡ぎ出していく。
「この二つの疑問に関し、私は『丹波山村での月村杏里の発見』が偶然ではなく犯人たちによる必然だったと仮定した上で以下のような推理を組み立てました。すなわち、『月村杏里は失踪したバスから直接解放されたわけではなく、釈迦堂パーキングエリアでバスから犯人の車に移し替えられ、犯人たちの車によって丹波山村近くまで運ばれて解放された』。そう考えると、これまでとは違う犯人たちの計画が浮かび上がって来ると思われるのですが、どう思われますか?」
榊原の思わぬ『推理』に誰もが絶句している。それは確かに、この十年間誰も考えて来なかった可能性だった。
「し、しかし、一体何のためにそんな事を?」
「それは『月村杏里の発見』によって生じた事を考えれば自明でしょう。月村杏里が丹波山村付近で発見された事により、当然ながら警察は『失踪したバスも丹波山村付近に向かった』と考え、村の周辺に捜索を集中する事になりました。それも当然と言えば当然で、警察は失踪したバスとは別に『犯人たちの車』がある事を知らないのですから、バスの乗客が発見されたとすればバスその物もその周辺にあると考えるのは自然な流れです。しかし、それこそが犯人たちの狙いだったとすればどうでしょう」
「それは……もしかして乗客の一人を解放する事で警察の目をあえて丹波山村周辺に集中させ、その間にまったく別のルートから逃走しようとする策だったという事ですか?」
長谷川の出した結論に、榊原も頷きを返した。
「いくら森永から現金を強奪したとしても、その後警察に捕まってしまっては意味がありません。特に日本の警察は高速を封鎖した上での検問は十八番のようなものですから、釈迦堂パーキングエリアでバスを襲撃した後で犯人の車で逃げても、すぐにバスの乗客なりに通報された上で、警察に高速を封鎖されて終わってしまいます。今さらですが、犯人がバスを乗っ取って乗客ごと逃走したのには、乗客による通報を遅らせて逃走時間を稼ぐという理由もあったのでしょう。しかし、それでも気付かれずに逃げ続けるのには限界があります。バスが予定時間になっても目的地に着かなければ通報されてしまいますし、逃走車両はバスですからかなり目立つはず。だから犯人としても、バスの失踪発覚後にさらに警察の目を誤魔化す工作が必要だったはずなのです」
「それが、月村杏里を丹波山村近辺で解放する事だったというのですか」
「えぇ。犯人たちは釈迦堂パーキングエリアでバスを乗っ取った際、乗客の中から月村杏里を連れ出し、おそらく薬か何かを嗅がせた上で待機していた犯人の車に乗せた。乗客の中から彼女が選ばれたのは、純粋に彼女が小学生で運びやすく、犯人一人だけでも人質の管理がしやすかったからでしょう。そして、バスが釈迦堂パーキングを出た後、月村杏里を乗せた犯人の車もパーキングを後にし、高速を降りて丹波山村の辺りへ向かった。後で警察が料金所のカメラを調べても、バスに注目こそしても存在自体が発覚していない犯人の車に注目できるはずがありません。そして、頃合いを見計らって月村杏里を解放してわざと発見させ、警察側に『月村杏里は丹波山村周辺でバスから脱出した』と誤認させる事に成功。その間に、まったく別の場所にいた本命のバスは、まんまと逃走に成功したというわけです」
「じゃあ、肝心のバスはその頃……」
「丹波山村でこの罠が仕掛けられた以上、まったく逆の方面に向かっていた可能性が非常に高いと思われます。丹波山村は山梨県の北。さらに言えば捜査体制が日本で一番整っており、本来の行き先であるが故に確実に警察が調べると思われる東京方面に向かうとも思われない。ならば、元来た西の長野方面か、あるいは完全に意表を突く南の静岡方面だったと考えられます。もっとも、私は静岡方面に行った可能性が高いと考えていますが」
榊原は断言するように言った。
「なぜ断言できるのですか?」
「丹波山村の工作で一時的に警察の目を逃れる事ができても、そのまま永久にバスで逃げ続けるわけにはいきません。乗客を皆殺しにするつもりでもない限り、どこかでバスを捨てる必要性があるわけですが、問題はその後彼らがどうやって逃走を続けるつもりだったのかという点です。そして、そこで気になってくるのが犯人グループの一人である富石雅信の経歴です」
「経歴……もしかして窃盗の前科ですか?」
長谷川の問いかけに、榊原は肯定の頷きを返す。
「富石は元々富士市にある不動産管理会社の社員で、自身が担当する別荘から貴金属を盗んで逮捕されていたはずです。富士市の会社という事は、その会社が管理を担当している別荘などの不動産の所在地は恐らく静岡県東部から神奈川県西部にかけてのエリア。そして、富石が社員時代に担当していた物件が盗みの発覚した箱根の別荘だけというのは考えにくい話です」
一体榊原が何を言おうとしているのかわからず、刑事たちは訝しげに首をひねる。が、直後の榊原の発言が発せられると、その表情が一気に緊張に包まれた。
「もし、そうした別荘の中に何らかの乗り物が保管されていた場合、その事実を知っていた富石が犯行後にそうした乗り物で逃走を図ろうとした可能性は充分考えられると思われます。特にこのエリアは場所柄海に面した別荘が多数存在するはずですが、そうした別荘なら個人所有のクルーザーやヨットが保管されていてもおかしくないはずです」
「彼らがそうした個人所有の船舶を狙ったと?」
「現段階ではあくまで推測です。ですが、調べてみる価値はあると思います」
と、ここで藤が急に榊原の推理に待ったをかけた。
「ちょっと待ってください。ここまでの推理に妥当性がある事は認めますが、これはあくまで丹波山村近くで解放した月村杏里が誰かに無事に発見される事が前提条件となっている犯行です。それはすなわち、もし解放した月村杏里を誰も発見しなかった場合、せっかくの仕込みが完全に無駄になる事を意味します。丹波山村はかなりの山奥にある村で、そこに続く道路を通る人間も少ない。冷静に考えて、そんな偶然に頼ったリスクを負ってまでこの工作をするはずが……」
と、そこで藤の言葉が急にピタリと止まった。何かに気付いたその顔は驚愕に歪んでいる。それを見て、榊原は静かに告げた。
「そう、普通なら意味がない。しかし、犯人たちはそれでもこの工作を行った。それはつまり、犯人たち自身はこの工作に藤警部が言ったようなリスクを感じていなかった事になります。そして、そんな奇妙な事が起こる可能性は、ただ一つしかあり得ないのです」
そう言ってから、榊原は何気ない様子で、こんな問いかけを発したのだった。
「で、誰なんですかね。十年前、丹波山村の近くで『偶然』月村杏里を発見した人間というのは?」
その瞬間、部屋の中が一気に静まり返ったのを、榊原は静かに感じ取っていたのだった……。
……それから数時間後、再開された捜査会議で、藤警部が緊張の面持ちで急遽調べ上げた事実の報告を行っていた。
「十年前、丹波山村近くの山道で月村杏里を発見した人物は田向貴史という男で、当時四十一歳の銀行員。丹波山村近くの山に登ろうとしていた登山者でしたが、登山中に問題の山道を歩いていたところ月村杏里を発見。子供が一人で山道を歩いているという明らかに不自然な状況だったためすぐに近くの公衆電話に駆け込み、そこから警察に通報したというのが当時の状況です。その田向ですが、住所は岐阜県岐阜市だったものの、勤務先である名神銀行栄町支店の所在地は名古屋市内です」
岐阜市から見て名古屋市は充分に通勤圏内である。つまり、名古屋在住の大竹や富石と繋がる可能性は充分にあり得るという事でもあった。
「田向と大竹・富石との間に何か繋がりはありますか?」
「それについては現時点では調査中。ただ、行方がわからなくなっている大竹や富石と違い、田向は事件から十年が経過した現在もその所在がはっきりしています。公簿によると、事件から三年後に引っ越して転職し、現在は京都府内のタクシー会社に運転手として勤務しているそうです」
「銀行員からタクシー運転手への転職ですか……」
思わぬ報告に刑事たちのざわめきが大きくなる。ここへきて、直接話を聞ける事件関係者の存在が明らかになったのである。
「その田向ですが、事件後、金回りが突然よくなったというような話は?」
榊原が質問を投げかける。もし不自然に金回りが良くなっていれば、田向が犯行に加担していた有力な証拠になる。だが、さすがにそこまでうまい話はないようで藤は首を振った。
「残念ですが、そうした様子は見られませんね。調べた限りでは特段生活様式が変わった様子もなく、ごく普通の質素な生活を送っているようです」
「では逆に、事件当時、田向が金に困っていたというような話は?」
「現時点ではそれも不明です。ただ……」
「ただ?」
「一つだけ気になる事が。先程、大竹と小野崎が同じ高校の悪友だったという話が出たと思いますが、調べた結果、この田向も同じ愛知県下の高校の卒業生だった事がわかりました」
「何ですって?」
思わぬ情報に、榊原は眉をひそめる。が、長谷川は少し残念そうにこう言い添えた。
「ただし、学年は別です。大竹と小野崎が四十三歳で田向が四十一歳。大竹たちが三年生の時、田向は一年生です。さらに言えば、この三人がいた高校は愛知県下でも有数の生徒数を誇るマンモス校で、必然的に卒業生の数も多く、同じ高校出身だったからと言って絶対的な共通点になるかといえば微妙と言わざるを得ません」
「……つまり、彼ら三人が同じ学校にいたのは、年齢から逆算すると、厳密に言えばバスの事件があった一九九七年の二十五年前に当たる一年間だけの話だという事ですね」
不意に、榊原はそんな事を言った。
「えぇ、そうなりますね」
「では、その一年間……より正確に言えば一九七二年頃という事になりますが、その辺りの時期に問題の高校に絡んで何か事件のようなものはありませんでしたか?」
「事件……ですか?」
「えぇ。どんな些細な物でもいいのですが」
「かなり古い話ですね。少し待ってください」
榊原の思わぬ質問に、長谷川は手元の資料をめくってしばらく何かを確認していたが、やがて顔を上げてこう答えた。
「一つありました。一九七二年の十月、当時この高校の二年生だった少女が、学校の敷地に隣接している農業用のため池に転落して死亡するという事件が起こっています。被害者の名前は水梨鮎江。当時の警察は、彼女が誤ってため池に転落した事による事故と判断したらしく、従って事件としての捜査は行われていないようです。なお、事故後、問題のため池は二度と同じ事故が起こらないよう埋め立てようという意見が出たようなのですが、その計画に関わった人間が次々事故に遭った事から『亡くなった水梨鮎江の祟りだ』というような怪談めいた噂が立ってしまい、最終的に周囲を柵で囲われた上で『水梨池』の名前で現在も残っているようですね」
「この事件が気になりますか?」
藤の問いかけを、榊原は重々しい表情で肯定する。
「えぇ。今から三十五年も前の話なので調査が難しいのは理解していますが、事がこうなってみると、調べてみる価値はあるのではないでしょうか。仮にこの一件に大竹か田向のいずれかが何らかの形で絡んでいた場合、そこから両者の繋がりが見えてくる可能性がありますので」
「わかりました。その件については今後さらに追加調査をしてみます」
長谷川のそんな言葉に続いて、藤がさらに新たな情報を報告しにかかった。
「それと、先程の捜査会議で出た意見を踏まえて、富石がかつて勤めていた富士市の不動産管理会社に富石が在職時に管理していた物件についての確認を取りました。結果、当時富石が管理を任されていた不動産は五件あり、そのうち三件が個人所有の別荘である事が判明。一件は窃盗が発覚した箱根の別荘ですが、残る二つは丹沢湖近くと南伊豆町の海沿いにある別荘だそうです」
「その残る二つの別荘に富石による窃盗の痕跡はなかったのですか?」
榊原の問いに、藤は首を振った。
「富石による窃盗発覚後、管理会社からの連絡を受けた持ち主たちがそれぞれ確認をしたそうですが、盗まれたものはなかったというのが当時の証言です。ただ、直接的な被害がなかった事もあって、この二別荘に関しては鍵の付け替えなどはしなかったという話ですが」
「具体的に会社はどのような管理業務を行うのですか?」
「会社側の話によると、月に一回、担当社員が訪れて、数日かけて簡単な清掃作業や設備のチェックなどをするそうです。もちろん社員側にも他にも仕事があるので、一人の社員が受け持つのはせいぜい三、四件程度の物件が限度だったとか」
「問題の二つの別荘の所有者の情報は?」
榊原はなおもしつこくこの別荘の情報に食らいつき続ける。
「丹沢湖の別荘の方は大阪在住の作家が所有。仕事が進まない時にやって来て執筆を進める事が多いと言います。南伊豆町の別荘の方は札幌在住の保険会社社長が所有。使用頻度は少なめで、年二回……七月頃と年末年始頃に一週間ずつ滞在するのが習慣だったという事です」
「そうですか……」
藤の説明に一応納得した後、榊原はすぐに本題に入る。
「先程の私の推理が正しかった場合、怪しいのは海に面している南伊豆町の別荘の方です。その南伊豆町の別荘に、先程指摘したような何らかの船舶は存在したのですか?」
その問いかけに、藤は真剣な表情で頷いた。
「結論から言えば、答えは『イエス』です。管理会社によると、確かにこの保険会社社長は、別荘内に個人購入の小型クルーザーを所有していました」
「持っていましたか……」
榊原が少し安心した風に息を吐く。
「普段は海近くの倉庫に保管してあるそうですが、機械を使えば少人数でも船体を倉庫から海に引っ張り出す事は可能です。おまけに、その倉庫の鍵やクルーザーのキーなどは、全て別荘内に保管してあるらしいんです」
「確かですか?」
「管理会社の管理業務に必要ですし、普段使わないものなので置きっ放しにしてあるという事でした。もちろん別荘には普段鍵がかかっていますが、逆に言えば別荘の鍵を開ける事ができる人間であればクルーザーを使う事は可能という事です」
「そして、先程の話だとこの別荘の鍵は富石の逮捕後も取り換えられていない。という事は、もし富石が逮捕前の時点ですでにこの別荘の鍵を複製なりしていてどこかに隠していれば、別荘に侵入する事は比較的簡単にできたという事になります」
不気味なほどに条件は符合していた。だが、藤は少し残念そうにこう続けた。
「ただし、幸いというか残念と言うべきか、十年前の事件当日から現在に至るまで問題のクルーザーが盗まれた痕跡などは確認できません。つまり、肝心の十年前にこのクルーザーを大竹たちが使用した可能性はほぼないという事です」
「その情報に間違いありませんか?」
「ありません。少なくとも事実として、問題のクルーザーは現在でも南伊豆町の別荘に保管されたままです」
「では、空振りという事ですか?」
斎藤が少し落胆気味に言うが、榊原の見解は違った。
「いや、今の情報が正しかったとして、考えられる可能性は二つある。一つは本当にこの推理が空振りで大竹たちは最初からこのクルーザーを使うつもりがなく、他の逃走手段が存在していたという可能性。この場合は私の推理が完全に間違っていた事になり、最初から推理を組み立て直す必要性が出てくる。そしてもう一つの可能性は、計画自体は私が今まで推理して来たものと同一だったが、バスが南伊豆町の別荘付近に到着する前に何らかのアクシデントがあり、それが原因で大竹たちがクルーザーのある別荘に到達できなかった……つまり計画が途中で失敗してしまっていた場合だ」
「確かにそれはそうですが……榊原さんの見解は?」
斎藤の問いかけに、榊原は即座にこう切り返した。
「私は後者の可能性が高いと思う」
「理由は?」
「共犯と思しき田向の金回りが良くなった痕跡がない事だ。もし森永からの現金強奪が成功した上で何らかの形で彼らが逃走に成功していたとすれば、当然奪った金は三人で山分けという事になったはずだ。それが行われていないという事は、計画が失敗して金が田向の手に入らなかった事を意味する。諸々の状況から、釈迦堂パーキングエリアでのバス乗っ取りと、その後の田向の偽装工作までは計画はうまくいっていたはず。だから、想定外があったとすればその後……田向の工作で警察を欺いてから、バスが南伊豆方面へ向かうまでの間という事になる。そもそも、計画がすべてうまくいっていれば、犯人たちはともかく乗客全員まで失踪してしまった事に説明がつかない。何度でも言うが、この犯行で大竹たちが関係のない一般乗客を皆殺しにするメリットが存在するとは思えないものでね」
「確かに、それはそうですね」
斎藤はそう言ってから、一度部屋の中を見渡してこれまでの情報を整理にかかった。
「話が複雑になってきたので、一度、ここまでの議論について簡単にまとめてみましょう。まず、一見不可思議に見えたこのバス失踪事件には大きく分けて三つのグループが存在していた可能性が高いと考えられます。一つはバス出発の直前に現金輸送車強奪事件を実際に起こした森永勝昭、布田清、小野崎靖樹のグループ。二つ目は小野崎靖樹の情報から森永の動向を掴み、森永が強奪した現金五千万円のさらなる強奪を狙う大竹義之、富石雅信、田向貴史のグループ。三つ目は、前出した二グループに関係なくあの日偶然問題の夜行バスに乗り込んだ乗客たちと運転手のグループです。この三つのグループに属する各々の人間が複雑に関係し合う事で、この事件は大きな謎を作り上げていたわけですが……ここに至っても我々はまだこの事件の全ての謎を明らかにしたわけではない」
斎藤の言葉に、刑事たちも同意するように頷いた。
「問題は、この事件がはらんでいる大きな謎のうち、現時点までに出てきている新たな推理をどうやって『事実』であると証明するかです。わかっている事ではありますが、何しろ十年前の事件ですから証拠も少ない。裁判で勝てるだけの証拠を挙げるのはかなり難しい」
藤が難しい表情で言うが、すかさず長谷川がこう告げた。
「少なくとも最初の部分……すなわち、殺害された小野崎が森永や布田の共謀者だったかどうかの事実確認は、現在名古屋拘置所に収監されている布田本人に直接話をぶつければある程度まで可能であると考えます。今となっては、この布田だけが一連の十年前の事件における数少ない生き証人と言わざるを得ません」
「その確認作業は愛知県警にお願いしてもよろしいですか?」
「えぇ。我々としても、この件については任せて頂きたいと考えています。バスの事件はともかく、強盗事件に関してはウチの管轄ですから」
と、そんな長谷川に、斎藤がこんな言葉を掛ける。
「わかっているとは思いますし失礼だという自覚はありますが、焦って強引な自白の強要だけはしないようにお願いします。現段階では数少ない証拠になるであろう彼の証言が、取り調べの違法性で排除されるような事があっては取り返しがつかなくなりますから」
「もちろん、そこは慎重にやるつもりです。今回の捜査が綱渡りなのはこちらも重々承知の上ですから」
長谷川ははっきりそう言う。いずれにせよ、この件に関しては長谷川に任せる他ないようである。
「お願いします。さてそうなると、次の問題はバスジャック犯側の大竹、富石、田向の三人の方です」
「田向についてはすでに京都府警に身柄確保の要請を出しています。こうなった以上、彼から話を聞かなければ何も始まりません」
「話を聞くのは賛成ですが、口を割らせるだけの材料があるでしょうか。榊原さんの推理が正しいなら、この三人は犯行の過程で少なくともバスの運転手のいずれか一人を殺害した可能性が高い。その状況でそう簡単に自白をするとは思えませんが」
刑事たちが白熱した議論を続ける中、榊原は冷静に自分の意見を述べていく。
「事件当時の釈迦堂パーキングエリアの映像は残っていますね?」
「もちろん。当時のバスの状況を確認するために事件発生前後数時間分を押収しましたから。残念ながらアングルが悪くて決定的な映像は映っていませんでしたが……」
「では、もう一度その映像を確認してください。バスの詳細は映っていなかったかもしれませんが、大竹たちのうち誰かの姿が映っていた可能性は捨てきれません。特に田向の姿が映っていれば、事件発生当時に現場にいたというこれ以上ない証拠になります」
「しかし、仮に映像が残っていても『登山に行く途中で偶然立ち寄った』と言われればそれ以上追及しようがありませんが」
「それでも、話を聞くきっかけにはなります。十年前の事件当時、月村杏里の発見者である田向貴史には、当然県警も最低限の事情聴取はしているはず。もしそうなら、聴取の一環として自宅から月村杏里の発見現場までの足取りを聞くのが普通ですが、今まで話題になっていない以上、その際に釈迦堂パーキングエリアに立ち寄ったというような証言はしていない事になる。つまり、証言に矛盾がある事になるんですよ。その矛盾に対する説明を求めるという形で追及する事はできるはずです」
そう言われて、すぐに藤が当時の捜査資料のファイルを調べにかかる。しばらくするとページをめくる手が止まり、やがて大きく息を吐いて顔を上げると、しっかりとした口調で報告した。
「確かに榊原さんの言うように、十年前、月村杏里を発見した田向貴史に対する簡単な事情聴取が行われていて、その中で田向本人の自宅から現場に至るまでの足取りについても聴取しています。その聴取によると、田向は事件前日の夜に自宅を出発して中央自動車道を使って丹波山村近くに向かい、その後車内で軽い仮眠を取った後、朝になって登山を始めた直後に月村杏里を見つけたと証言しています」
「つまり、田向は事件当日に釈迦堂パーキングエリアに立ち寄ったとは言っていないわけですね?」
斎藤の確認に対し、しかし藤はなぜかフッと笑ってこう答えた。
「それについては、当時聴取を担当した刑事が優秀だったようですね」
「というと?」
「おそらく話の流れでの質問だとは思いますが、その刑事は聴取の中で『念のために聞くが、事件当日、釈迦堂パーキングエリアに立ち寄ったりしなかったか?』とはっきり聞いているんです。そしてその質問に対し、田向は『立ち寄っていない』と明確に答えていました」
刑事たちがざわめく。
「直接本人にその質問をぶつけていたんですか」
「えぇ。これでもし、当日の釈迦堂パーキングエリアの防犯カメラに彼の姿が映っていたらおかしいという事になります。とにかく、大至急映像の再確認をしましょう。全てはそこに何が映っているかにかかっています」
当座の方針は決まった。何にしても、ここから先は田向貴史と布田清の証言次第であり、それは京都府警と愛知県警の動きに任せる他ない。その結果が出るまでの間、こちらはこちらでできる事を一つ一つ潰していくしかないというのがこの捜査会議で出された結論であり、会議終了後、捜査員たちは早速それぞれの仕事に取り掛かり始める事となった。
だがいざ翌日の朝になると、そうも言っていられなくなった。なぜなら榊原たちの手の届かぬところで、事態は思わぬ展開を迎える事になったからである……。




