第二十七章 終わりの始まり
蝉鳴村北東部、蝉鳴村共同墓地及び千願寺跡地……より正確に言えば旧帝国陸軍米軍捕虜収容所跡地の火災は三日三晩燃え続け、鎮火したのは三月十五日木曜日の事だった。鎮火後、すぐに火災現場に対する現場検証が行われたが、かつて千願寺の廃墟のあった場所には陥没した巨大な大穴がぽっかり空いており、その大穴が蝉鳴神社同様に廃墟の地下に放置されたままになっていた遺体焼却炉である事は確実だった。
そして、その大穴の一番底から、焼けただれた車椅子とわずかに残された焦げた人骨が見つかったのは、現場検証が始まってから一時間程度が経過した頃の事だった。長時間燃えていた上に残されていた骨が少なかった事もあって具体的な身元の特定までには至らなかったが、残されていた車椅子の残骸の存在や他に該当者がいない事、何より一部見つかった足の骨が異様に細く、長年使用した痕跡がなかった事から、この骨の主は今回の事件の真犯人である美作清香のものと警察は判断。証拠もそろっていた事から最終的に警察は一連の事件の犯人を美作清香であると断定し、同時に被疑者死亡のまま書類送検がなされる事となった。
また、同時に榊原の推理を元に、八年前の涼宮事件に対する再捜査が本格的に行われる事となり、神社の境内にあった灯篭の一つを取り除いてその下を調べた結果古い血痕を検出。さらに最後まで生き残った堀川盛親が警察の事情聴取に素直に応じ、これにより榊原の推理が正しい事が立証されつつあった。結果、長年犯罪史に残る大きな謎として扱われていた涼宮事件の全貌が今度こそ白日の下にさらされる事となり、事件関係者のうちすでに亡くなった面々については過失致死罪や犯人隠匿、死体損壊、証拠偽造など諸々の容疑で書類送検。関係者の中で生き残った堀川盛親は同容疑で実際に逮捕となり、詳しい事情聴取が行われる事となった。
さらに左右田昭吉については名古屋地検特捜部が公金横領及び公職選挙法違反の容疑での捜査を進め、高山市議会は左右田の逮捕後に左右田の市議会議員としての職を取り上げる事を決定。ついでに左右田の公金横領に協力した疑いで田崎伊周も逮捕される事となり、しばらくしてその職を解任。高山市役所蝉鳴支所の支所長は別の人間が任命される事となった。
その上、榊原の推理に基づき関ヶ原アベック殺人事件に対する再捜査が行われる事になり、この件について堀川盛親を改めて締めあげたところ、二〇〇三年の七月末に今回死亡した安住家や雪倉家の人間と共謀して涼宮事件に対する村の対応に疑問を持った涼宮清治を殺害し、さらにその現場を目撃した江橋統一と高円仄美に涼宮清治の遺体の隠蔽を強要した上でこちらも事故に見せかけて殺害した事を自供。改めて関ヶ原町周辺の捜索が行われたが、その結果二週間ほどして町内の一角にある山林の地中に埋められていた男性の白骨死体が発見され、鑑定の結果、涼宮清治の歯型と一致。これにより堀川盛親は涼宮清治、江橋統一、高円仄美殺害容疑で再逮捕される事となった。後に堀川盛親は、これに加えて十年前の美作清奈、清香親子の事故を仕組んだ容疑でも追及され、こちらも殺人及び殺人未遂容疑で再逮捕(壊滅した安住家と雪倉家の面々も同容疑で書類送検)。諸々の容疑を合わせると少なくとも殺人だけで被害者が四人もいる事になるため、死刑判決が出る公算が強いとされている。
この結果、江橋統一にかけられていた殺人容疑は完全に晴れる事となり、彼を含めた江橋家の社会的名誉の回復が実現する事となった。これはすなわち、日沖事件で江橋一家を独りよがりな動機で皆殺しにした日沖勇也の所業が全くの的外れかつ正義も何もないただの悪行だったという事実が白日の下にさらされる事を意味し、実際に収監されている名古屋拘置所でこの事実を弁護士から知らされた日沖は未だかつてないほどの動揺を見せ、もはや精神的に立て直しができないほどの大ダメージを受ける事になったという。
そしてそんな中、榊原と亜由美は蝉鳴村を離れようとしていた。もはや事がここに至れば、この場で自分たちができる事はない。後は岐阜県警の仕事である。捜査員たちがほぼ出かけていて人が少ない蝉鳴学校の捜査本部の片隅で、榊原と亜由美は帰郷のための荷造りをしている所だった。
「山岡警部補が車で岐阜羽島駅まで送ってくれるそうだ。ひとまず自衛隊の奮闘で村へ通じる道の土砂崩れは解消されたらしい」
「柊警部は?」
「事後捜査の指揮で忙しいそうだ。見送れないのが残念だと言っていたが、この状況では仕方あるまい。気にするなとだけ言っておいたがね」
「そう言えば、やっと千願寺の火が消えたらしいですね」
「あぁ。跡地から焼け焦げた車椅子の残骸とわずかな人骨が見つかったそうだ。破損がひどくて科学的な身元特定は難しいらしいが、他に該当者もいないから、県警はこの骨の主を美作清香と断定した上で、今回の事件については被疑者死亡のまま書類送検するつもりらしい」
「そう……ですか……」
亜由美はどこか歯切れの悪い口調で言った。
「何か気になる事でもあるのかね?」
「いえ。ただ……彼女、本当に死んだのかなって思えてしまって……あの死に様を見たら、実は見つかった骨は偽物で、本人はどこかで生きていてもおかしくないなぁって感じてしまって……」
「……ならば一つ、君に格言を教えておこうか」
「格言、ですか?」
「あぁ」
そう言うと、榊原は窓越しに見える未だ煙が立ち上る山の方に背を向けながら決然とした表情で亜由美にこう告げた。
「人は一度死んだら二度と生き返らない。どれだけ悔やんでも、死んでしまったらやり直す事は絶対にできない。だからこそ、『殺人』という犯罪は重く、取り返しがつかない。当然の事だ」
「……」
「彼女が死んだというのなら、確かに死んだんだろう。そして、一度死んだというなら、少なくともこの世で『生き返る』事は絶対にあり得ない。それが人間というものだからだ」
「……辛辣ですね」
「私も、色々な事件を見てきたからね。残念ながら、それが『殺人』の『現実』だ」
だが、と榊原は言い添える。
「『事件』の恐ろしい所は、本人は死んでも、影響は未来永劫残ってしまうという事だ。事件は様々な人間を引きずり込み、次の事件へと連鎖し、複雑に絡み合う。一度起こった事件は、たとえ大本の事件を解決してもそう簡単に終わらない。だからこそ、探偵として事件に関わるという事は、それこそ己の全てを賭けて事件に対峙するだけの覚悟と信念が必要だという事だ。生半可な気分で事件に関われば、逆に事件の……否、人間の闇に飲み込まれる。少なくとも、私はそう考えて探偵という仕事に取り組んでいるつもりでね」
「……」
「まぁ、あくまでこれは私の個人の見解だ。世迷い事だと思うなら、別に無視してくれても構わない」
榊原はそう言いはしたが、亜由美は榊原が言った言葉を否定する事など、到底できないだろうと思っていた。それだけ榊原の言葉は重く、深いものだったのである。
それからしばらくして、二人が荷造りを終えて外に出ると、そこに何人かの人影が待っているのが見えた。それは今や先代巫女となった左右田常音と新たな巫女になったばかりの名崎鳴、そして鳴の父親である名崎義元の三人だった。
その中でも、左右田常音は榊原たちと同じくスーツケースを横に置いている。彼女も新学期に備えて、このまま榊原や亜由美と一緒に東京の下宿先に戻る事になっていた。左右田昭吉の逮捕で家は大変な事になっているようだが、昭吉の妻で常音の母親である嶋子が背中を押してくれたのだという。
「お待たせしました。準備はもういいのですか?」
「はい、大丈夫です」
山岡がやってくるまでもう少し時間がある。それまで、見送りの時間もしばらくありそうだった。
「見送りがこれだけで、申し訳ありません」
名崎義元が頭を下げるが、榊原は首を振った。
「いえ、むしろ見送って頂けるだけでもありがたい話です。どうも、私はこの村にとっては疫病神だったようですし」
「そんな事は……」
そう言いつつも、名崎は複雑そうな顔をしている。とはいえ、では榊原がいない方がよかったかと言われればそれは絶対にあり得ない話であり、それだけにその後の言葉が続かない風でもあった。
と、そこで鳴が榊原に声をかけてくる。
「帰っちゃうの?」
「あぁ、すまないがね。私も色々とやる事があるのでね」
「……つまんないの」
鳴は寂しそうな顔をしてそう言うが、すぐにパッと顔を上げた。
「あ、そうだ! あの問題!」
「ん? あぁ、あれか」
榊原は、図書室で彼女に出したあの数学の問題の事を思い出していた。
「そう言えば、まだ答えを聞いていなかったね。一応、タイムアップという事になるが、どうだったね?」
「うーん、それが全部は解けなくて……あんなに難しい問題、初めてだった」
「実際、難しい問題だからね。そう簡単に解けてもらっては困る。だが、全部でなくてもいくつか解けたのなら、それだけでも充分凄い事だというのは間違いないよ」
榊原はそう言って彼女を褒めるが、鳴自身はどこか不満そうな顔をしている。だが、直後に鳴が発した言葉で、その場の空気が大きく変わる事になった。
「くやしいなぁ。三つまでは解けたのに、あと二つがどうしても解けなくて……」
その言葉を聞いた瞬間、榊原は眉をピクリと動かした。
「三問……解けたのかね?」
「うん。大変だったけど、おもしろかった!」
「はい、これ!」と、鳴はにっこり笑いながらポケットから一枚の紙を榊原に渡す。榊原が見てみると、そこには鳴が解いたという『答え』が小学生らしいつたない文字で書かれていた。
④の『70』のとき、X=11、Y=20、Z=-21
⑤の『81』のとき、X=10、Y=17、Z=-18
ここまではいい。それは確かに榊原が以前示していたこの問題の答えであり、逆に言えばこの二つ以外の①②③は答えがない引っ掛け選択肢のはずだった。
だが、鳴が差し出した紙には、あってはならない『答え』がはっきり書かれていたのである。
①の『33』のとき、
X=-2736111468807040 Y=-8778405442862239 Z=8866128975287528
「……」
事情を知る榊原と亜由美は思わず無言で鳴の方を見やっていた。
「君は……」
「あーあ、もう少し時間があったら『42』も解く事ができたかもしれないのになぁ。『58』はどれだけ頑張っても答えが出なくて諦めたけど……」
鳴自身は無邪気にそんな事を言っている。そんな彼女に何も言えないでいると、不意に後ろの方から誰かがやってくるのが見えた。
「あぁ、ここにいましたか」
それは、蝉鳴神社の油山海彦神主だった。海彦は榊原に気付くと、慌てて頭を下げる。
「あっ、探偵さん。もしかして、今からお帰りですか?」
「えぇ、やっと道が開通しましたので。海彦さんにも後で挨拶に伺うつもりでしたが」
「いえいえ、そんな。私など、大した事もできませんでしたので」
海彦は謙遜気味にそんな事を言う。
「それより、どうしてここに?」
「それがですね。警察が堀川頼子さんが隠れていた可能性のある神社の祠の中を調べたいと言ってきたのです。神域とはいえさすがに殺人事件の捜査なのでやむを得ず例外的な許可を出す事にしたのですが、儀礼上、祠の開閉には神主の私と巫女の立ち合いが必須なので、申し訳ないのですが鳴ちゃんに来てもらいたいと思いまして……」
早速、巫女としての仕事が回ってきたという事らしい。鳴は一瞬困ったような顔をして榊原の方を見上げたが、榊原はあくまで穏やかな口調でこう言った。
「行ってきなさい。私の見送りよりも巫女としての仕事の方が大切なようだからね」
「……うん。わかった」
榊原の言葉に、鳴は少し迷った後に頷きを返し、海彦についていく事にしたようだった。
「じゃあ探偵さん、また会おうね! バイバイ!」
その言葉を最後に、鳴は海彦と共にその場を去って行った。そんな鳴を手を振って見送りながら、彼女の姿が見えなくなったところで、榊原は思わずこう呟いていた。
「参ったな……まさか、こんな事になるとは……」
榊原が複雑そうな顔をしているのを見て、名崎と常音は不安を覚えたように尋ねた。
「あの、一体どういうことですか? 何か、鳴がまずい事でも?」
「まぁ、まずいというより、とんでもない事と言った方がいいのかもしれませんが……」
そう前置きすると、榊原は改めて、この①がどのような問題なのか……すなわち、出題から約六十年間、誰も解いた事のない数学界における未解決問題である事を常音と名崎に説明した。二人とも、彼女がやり遂げてしまった事の重大さに絶句してしまう。
「そんな……うちの娘が……」
「どうやら、彼女の数学の実力を侮っていたようです。出題した私が言うのも何ですが、まさか、数学上の未解決問題を独力で解決してしまうとは……」
さすがの榊原をもってしても、これは想定外の事態のようだった。
「その答え、本当に間違いないんですか? 鳴の勘違いなんて事は……」
「軽く検算してみましたが、間違いなさそうです。問題自体は中学生でも理解できますので、答えが正しいかどうかの確認は誰にでもできます」
「そんな……」
名崎はそれ以上何も言えないようだった。
「確かなのは、この話をどこかの大学にでも伝えれば、その瞬間に彼女の立場が一変してしまうという事です。何しろ、日本どころか世界で誰も解いた事のない問題を若干七歳の彼女が解いてしまったんですからね。この小さな村の巫女になるかならないかどころの騒ぎじゃない。確実に数学の歴史に彼女の名は残るでしょうし、世界規模の大ニュースになるでしょう。状況次第では、どこかの大学への飛び級入学も可能になる可能性さえあります。少なくとも、普通の小学生の生活はできなくなるはずです」
「……」
「彼女にこの問題を出題した私が言うのもなんですが、この一件を公表するかどうかはあなたと鳴ちゃんの判断にお任せします。いずれにせよ、どうやらあの子は、最初からこの村の巫女程度で収まる器ではなかったようですね。そうなると、この村も今まで通りとはいかないでしょう」
「どういう事ですか?」
常音の問いに、榊原は淡々と事実だけを告げた。
「彼女はまさに『天才』です。比喩でも世辞でもなく、人類の歴史にその名を残すレベルの『天才』と言えるかもしれません。この村は、そんな人類最高クラスの頭脳の持ち主を巫女にしてしまったんです。少なくともこれまでのように、村の大人の思惑でどうこうできるようなおとなしい巫女でない事だけは確実でしょう。『計算』『先読み』という分野において、彼女の右に出る存在がこの村にいるとは思えませんから。下手に彼女を利用したり貶めたりしても、逆に手を出した方がとんでもないしっぺ返しを食らう可能性さえあります」
「……」
「何にしても、これまでの巫女とは明らかに違う存在です。彼女の存在が今後この村にどんな影響を与えるのか……それはさすがの私にもわかりませんね」
榊原の予言めいた言葉に対し、名崎と常音は何も言えないまま顔を見合わせるしかなかったのだった。
……その後、鳴が数学上の未解決問題を解いたという事実は、どこにも公表されないまま終わる事となった。そこにどんな判断が動いたのかはわからないが、蝉鳴村の大事件を受けて、これ以上彼女を権謀渦巻く大人の世界に巻き込みたくないという父親の判断が働いた可能性は充分にある。とにかくこの判断により、彼女は当面の間、今までと変わらぬ名もなき田舎の一少女としての人生を進む事となった。
結局、鳴が問題を解いた事を公に公表しなかった事で、この『立法数の和の問題』の「33」と「42」のケースは未解決問題のまましばらく放置される事となった。事態が動いたのはこの事件から十二年後の二〇一九年の事で、イギリスのアンドリュー・ブッカーという数学者がスーパーコンピューターを長時間ぶっ通しでフル稼働させて片っ端から計算させるという手法で『33』のケースの答えを正式に特定し、さらにそのスパコンを世界中の五十万台のパソコンと接続して同時計算させるという力技で最後に残った『42』のケースを解明する事に成功。『33』は鳴が算出した答えと同一のものであり、『42』に関しては(x,y,z)=(1260212397335631,80435758145817515,-80538738812075974)が答えである事が白日の下にさらされ、約七十年間にわたって数学者たちを苦しめた問題がついに完全解決する事となった。
なお、その後も数学界ではこの『立法数の和の問題』について「ならば、答えが101~1000の間の数の場合はどうなるか?」という問題に拡張されて研究が続けられており、二〇二五年現在、答えが114、390、627、633、732、921、975の7パターンが数学上の未解決問題として再び世界の数学者たちの前に立ちふさがっている。
そんな中、日本の大学に通う地方出身のある女子大生がこの問題について独自の画期的な理論を考案しているという出所不明の噂が二〇二〇年頃に数学界の間で流れ、少なからず話題になったのだという。その噂によれば、この女子大生は実はブッカーが二〇一九年に『立法数の和の問題』を完全解決するより前の時点ですでにその答えに到達していた可能性が示唆されており、一部界隈ではその女子大生の正体について考察する動きもみられていると言うが、未だにその詳細については不明なままなのだとか……。
こうして、榊原と亜由美はついに蝉鳴村から去る事となった。山岡警部補の運転する車で常音と共に土砂崩れが撤去されたばかりの山道を抜け、そのまま二時間ほどかけて岐阜羽島駅北口へと到着する。そして、山岡が何度も礼を言った後にその場を去ると、降車した駅前公園前には榊原たちだけが残される事となった。
「さて、新幹線までもう少し時間があるようだが、それまでどうしたものか」
榊原の言葉に対し、反応したのは亜由美だった。
「あの、来た時から気になっていたんですが、あの銅像、誰だかわかりますか?」
亜由美が示したのは、駅前公園の奥にそびえ立っている二人の銅像だった。それに答えたのは常音だった。
「あれは大野伴睦夫婦の銅像ですね」
「大野伴睦、ですか?」
亜由美は首をひねる。さすがに知らなかったようだ。
「鳩山一郎や岸信介とも渡り合った昭和戦後期の大物政治家です。私もよくは知りませんが、この岐阜羽島駅の誘致にも尽力したと聞いています」
「へぇ」
亜由美は興味深げに銅像を眺めていたが、そんな中、不意に榊原が常音にこんな事を言った。
「あぁ、そうだ、常音さん。帰る前に、あなたにも一つ聞いておかなければならない事がありました」
そう言われて、常音は足を止めて榊原の方に振り返る。
「何でしょうか?」
「いえ、事件の大勢に大きな影響を与える話ではないのですがね」
そう前置きして、榊原はさりげない口調でこんな問いを発する。
「常音さん、あなたは涼宮事件の起こる直前……正確には、彼女が自宅近くで加藤柳太郎氏に最後に目撃されてから名崎義元氏に後姿を目撃されるまでの間に、被害者の涼宮玲音さんに会ったりしていませんでしたか?」
その瞬間、常音の顔色が若干変わるのを亜由美ははっきりと見た。
「……どうして、そう思われるんですか?」
「いえ、これはあくまで私の想像です。そう考えると色々と辻褄が合うというだけで、何か決定的な証拠があるわけでもありませんし、事件そのものに影響を与える話ではない。だからこそ今まで改めて聞くような事はしなかったのですが、こうして涼宮事件の全てが明らかになった今、実際の所がどうだったのか聞いてみるのもいいかと思いましてね。もちろん、違うというのならそれはそれで構いませんし、そもそも私の自己満足に近い話ですので、別に答えて頂かなくても結構ですが」
だが、常音はしばらく黙り込んだ後、やがて小さく息を吐いて、何か覚悟を決めたようにこんな言葉を返した。
「……そうですね。確かにこうなった以上、今更、隠しておく意味もなくなったのかもしれませんね」
「という事は、やはり?」
榊原の確認に、常音は頷く。
「探偵さんのおっしゃられるように、あの日、私は確かに彼女の家の前で涼宮さんに会っています。今まで隠していて、申し訳ありませんでした」
そう言って、常音は深々と頭を下げた。わけがわからないのは亜由美である。
「あの、どういう事ですか? 何でそんな事がわかったんですか?」
「葛原論文の中に、事件当時、涼宮玲音が所持していた鞄の所持品が書かれていたのだがね。その中に一つ、ちょっと不自然なものがあって、ずっと気にはしていたんだよ」
「不自然な物、ですか?」
「そうだ」
そう言うと、榊原は改めて問題の鞄の中身を列挙する。
『筆箱(中身は鉛筆二本、消しゴム、シャープペンシル、ボールペン三本(黒二本と赤一本)、スティックノリ、ハサミ、定規、コンパス、各種蛍光ペン、修正テープ、ホッチキス、ホッチキスの針)、数学Ⅱの問題集、英語の長文問題集、コンパクト版の英和辞典、国語便覧、勉強用のノート二冊(数学と英語)、学校の図書室で借りたと思しき文庫本二冊(『人間の証明(森村誠一著)』と『クロイドン発12時30分(クロフツ著)』)、タオル、ハンカチ、ポケットティッシュ、簡易的な化粧品セット、財布』
「一体、その中の何が気になったんですか?」
常音のどこか試すような問いかけに対し、榊原はあっさりと答えた。
「国語便覧です」
「……」
「彼女はあの日、勉強目的で蝉鳴学校の図書室にいました。ですので、勉強道具を持っている事は一見すると不自然ではないのですが、問題はその勉強内容です」
「内容?」
「えぇ。改めて荷物の中身を確認すると、確かに彼女が数学や英語の勉強をしていたのは間違いなさそうです。なぜならその勉強に使う問題集やノートが存在しており、従ってそのために英和辞典を所持していた事も何ら不思議ではないからです」
ですが、と榊原は言葉を続けた。
「それとは対照的に、彼女の荷物には国語関連……つまり現代文や古文・漢文絡みの問題集やノートが存在していないのです。国語便覧というのは要するに国語の資料集のようなもので、当然ながら国語の勉強をする際の参考資料として使用するものです。ですが、肝心の問題集やノートがないにもかかわらず、参考資料に過ぎない国語便覧だけ持っていたというのは、絶対にないとは言いませんが、いささか不自然に映りました。何しろ、国語便覧はかなり分厚い書籍ですからね。最初から使うつもりがないなら、辛い思いをしてまで持っていったりはしないでしょう」
「……それで、榊原さんはどう考えていたんですか?」
常音の静かな問いかけに、榊原はすぐに答えた。
「肝心の問題集やノートがない以上、彼女が自宅から国語便覧だけを持っていったとは考えにくい。ならばこの国語便覧は、彼女が出かけた後で入手したと考えるしかありません」
「でも、鞄の持ち物は全て涼宮さんの物だったはずでは?」
常音のもっともな問いに、榊原も頷きを返す。
「その通り。つまり彼女は、出かけた先で自分の物である国語便覧を入手し、鞄の中に入れた後で事件に巻き込まれた事になる」
「……」
「回りくどい言い方はやめて結論を言いましょう。要するに、彼女は自分の国語便覧を誰かに貸していた。そして事件当日、家に帰る途中で誰かにその国語便覧を返してもらった。だからこそ彼女の鞄には、その日使う予定もなかった国語便覧が入っていたのです」
「……その、国語便覧を貸した相手というのが、私だと言いたいのですね?」
常音は榊原の推理を先回りするような事を言った。
「その通りです。国語便覧は高校生用の国語の資料集ですが、中学生が使う分にも何ら支障はなく、さらに言えば多くの有名な文豪や作家の作品なども紹介されていて、一種の読書ガイドとしても使える代物です。それで、彼女が国語便覧を貸す相手として誰がいるだろうかと考えました」
状況的に、貸した相手は同じ蝉鳴学校の生徒だろう。だが、当然ながら巫女を巡って対立関係にあった堀川頼子、安住梅奈、雪倉美園の三人に貸すとは思えないし、さすがに高校生用の国語便覧を小学校低学年の子が使うとも思えないので、当時小学一年だった手原岳人が借りたとも思えない。そして、実際の所はどうあれ、彼女自身が脳障害だと信じていた以上、年齢的には条件に合致する美作清香に貸したという可能性も排除して構わないだろう。
「それでも一応、当時小学六年生だった柾谷健介と加藤陽一が借りた可能性については、微妙な所ではありますがないとも言い切れません。ですが、問題は彼ら二人の家が涼宮家から見て学校の反対側……つまり、名崎証言の目撃地点の反対側にある事です」
「どういう事でしょうか?」
「はっきり言いますが、私は涼宮玲音が午後五時十五分に自宅まであと少しの所で加藤柳太郎に声をかけられた後で自宅に帰らなかったのは、加藤氏が声をかけてから自宅に入るまでの五分間の間に国語便覧を貸した相手に話しかけられ、問題の国語便覧を返してもらうためにその人物の自宅までついて行った結果だと考えています。そして国語便覧を返してもらってその人物と別れた後、彼女は巫女の舞の練習をするために、家に帰らず直接例の田んぼ道を歩いて神社に向かっている所で名崎義元氏に目撃され、これが名崎証言になってしまった。となれば、その国語便覧を貸した相手の家は名崎証言の目撃地点の近くでなければならないはずです。この条件から、柾谷健介と加藤陽一は候補から外れます」
となると、残る候補者は一人。
「当時中学三年生で、名崎証言の目撃地点のすぐ近くに屋敷があり、なおかつ生前の涼宮玲音と友人だった事実を認めている人間……左右田常音さん、あなたというわけです」
「……なるほど。確かに理論的ですね」
そこで大きく息を吐き、常音は頭を下げた。
「すべて、榊原さんのおっしゃられた通りです。あの日の夕方、私は涼宮家の前で偶然涼宮さんと会って、借りていた国語便覧を返すために私の家までついて来てもらっていたんです。私たちが二人でいた所を目撃していた人は誰もいなくて、左右田家の屋敷前で彼女に国語便覧を返してそこで別れました。時間は、午後五時四十五分頃だったと記憶しています」
それはついに、長年不明だった空白の時間が埋まった瞬間だった。と、隣でそれを聞いていた亜由美が遠慮がちに尋ねる。
「で、でも、だったら何でそれを今まで誰にも言わなかったんですか? 言っていたら、加藤さんが疑われる事にはならなかったと思うんですけど……」
そもそも加藤柳太郎が疑われるきっかけになったのは、大津留証言により、涼宮玲音と最後に確実に話した相手が加藤だと考えられていたからだ。だが、常音の話が正しいなら、涼宮玲音が生前最後に確実に目撃されたのは左右田常音という事になってしまう。
「そう。だから言えなかった。だって、涼宮さんに最後に会った事がばれたら、私も加藤さんみたいに疑われてしまう可能性があったから」
「あ……」
亜由美は絶句する。確かに、実際にその条件に当てはまった加藤氏が逮捕されている以上、その可能性は充分にあった。むしろ、有力な巫女候補である常音が怪しいという事になれば、堀川家・安住家・雪倉家の三家は、自分の娘たちを救うためと、巫女のライバル候補を蹴落とし、さらに村の中で絶大な権力を持つ左右田村長を失脚させて自分たちが権力を握るために、加藤氏の場合よりもさらに積極的に彼女に罪を着せにかかっただろう。
「今思うと自己本位な考えだと思うけど、当時中学三年生だった私に、そんな難しい判断をする事なんかできなかった。だから、私はこの事を誰にも言えずに黙り込んで、ただ事の成り行きを見守るしかなかったの。単に私が巫女になれないだけならともかく、父や母を巻き込んでまで加藤さんと同じ目に遭う覚悟は、当時の私にはできなかったから」
そんな事を言う常音の顔はどこか苦しく、そして哀しみを含んだものだった。だが、状況が状況だけに、榊原も亜由美も何も言えないようだった。
「でも、それももうおしまいです。巫女の勤めを終えて、こうして全部が明るみに出た以上、もう私が口をつぐむ意味もなくなってしまいましたから」
「……」
「榊原さんは、私をどうするつもりですか?」
それに対する榊原の答えは明確だった。
「最初に言った通りです。あなたの証言を立証する決定的な証拠があるわけでもないし、涼宮事件の全貌が明らかになった今となってはこの証言が事件の捜査に大きな影響を与えるものでもない。そもそもこの追及自体、私自身の自己満足に近いものです。ですので、あえて警察にこの話を伝えるつもりもありません」
「……そう、ですか」
常音は一言そう言うと、やがて深々と榊原に頭を下げる。しばらくそのまま時間が過ぎたが、やがて榊原も小さく頭を下げ、この話を締めにかかった。
「私の話は以上です。最後に辛い思いをさせて、申し訳ありませんでした」
「いえ、こちらこそ。逆にすっきりしたかもしれません。ありがとうございました」
こうして、この蛇足とも言うべき謎解きは終わった。この記録されない謎解きを見ていたのは、当事者の三人以外だと、駅前公園の中に建つ大野伴睦夫妻の銅像だけだったという……
それから十分後、榊原たちは岐阜羽島駅のホーム上にいた。常音は荷物を置いて自動販売機に飲み物を買いに行っており、この場には榊原と亜由美だけである。
「さて、今から帰路に就くわけだが、その前に一つ、君たちに話しておかなければならない事がある」
突然そんな事を言われ、亜由美は目を白黒させた。
「いきなり何ですか?」
「これから新幹線に乗るわけだが、私は途中、新横浜で降りる。すまないが、東京へは君たち二人で帰ってもらえないかね?」
突然の言葉に、亜由美は戸惑った顔をする。
「それはいいですけど……新横浜って、どこかに行くんですか?」
「別に横浜に用があるわけじゃない。そこから八王子経由で山梨県の甲府へ向かうだけだ」
「山梨県ですか? 何で急に?」
その問いに対し、榊原は決然とした表情で告げる。
「最後に残った謎……全ての事件のきっかけとなった、一九九七年の夜行バス失踪事件の謎がまだ解決できていないものでね。今回の事件を受けて、山梨県警でこの事件についての再捜査が行われている。そこに合流し、最後に残ったこの一件に蹴りをつける。それが、今回の事件で私がやらねばならない、本当に最後の役割だ」
榊原の決意に満ちた言葉に、亜由美は思わず息を飲んだ。確かに、蝉鳴村で起こった全ての事件に蹴りがついた今となっても、全ての事件の始まりであるこのバス失踪事件の謎は全く解明できていないのである。そして、榊原はそれを放置したまま引っ込むような人間ではなかった。
「実は昨日、帰る直前の新庄と話をしてね」
……警視庁から現地の捜査本部入りをしていた新庄警部補は、全てに決着がついた三月十二日夕刻の対決の際には千願寺とは別の場所の捜索に向かっていたため、榊原と美作清香の一騎打ちの場に居合わせる事はできなかった。だがそれでも、腐る事なく事後捜査に加わり続け、やるべき事が終わった昨日……つまり三月十四日の時点で県警のヘリで先に警視庁に帰京していたのである。そしてその帰京の直前に、榊原は新庄を通じて山梨県警の捜査本部に入っている斎藤からの伝言を受けたのだった。
「できれば引き続き十年前のバス失踪事件の捜査に協力してほしい。そういう話だった。どうやら、向こうも向こうで苦戦しているようだ。私としても、今回の事件の根幹となっている事件である以上、この要請を断る理由はない。連続の依頼にはなるが、受ける事にしたよ」
とはいえ、と榊原は言葉を続ける。
「さすがにこれ以上、大学入学直前の君を拘束するわけにはいかない。だから、ここから先は私一人で行動する事にする。もちろん、事の顛末は全てが終わった後でちゃんと君たちにも説明するつもりではあるが、そういうわけで、ここは許してもらえないかね?」
そう言われては、亜由美としてもその頼みを拒否する事はできなかった。
「……わかりました。私の事は気にせず、この事件をちゃんと終わらせてください」
「あぁ、もちろんだ」
そして、榊原は静かながらはっきりとした口調で宣言する。
「この調査で、今度こそこの事件を全て終わらせる。必ずだ」




