第二十六章 現在の記憶~バーにて
二〇〇七年三月末日。四年前と同じ、岐阜市内の個人経営のバーにて。三十代後半の女性……大島瀧江は、そのカウンターで一人グラスを傾けていた。そこへドアが開き、コート姿の男……猪熊亜佐男が黙って入ってくると、瀧江の隣に腰かけた。
「終わったな」
「えぇ。終わりました」
二人の交わした会話は短かった。だが、その短い会話に込められた想いは、誰にも理解できないものだった。
「長い間、ご苦労様でした。そして……辛い役目を押し付けて、申し訳ありません」
「かまへん。あんたの思惑にのったのは俺の意思や。悪役っちゅうのも、なかなかおもろかったで」
猪熊はせせら笑いながら注文した酒に口をつける。
……あの日、このバーで猪熊が瀧江から受けた頼み……それは村側に都合のよい人間であると認識されている立場を利用し、村の懐に潜りこんで彼らを破滅させるための証拠を握るという、事実上のスパイの役割だった。それはすなわち、自分を破滅させた憎き相手の懐に潜りこみ、表向き友好を結んで、場合によっては彼らに協力する必要さえあるという、猪熊にとっては残酷で耐え難いはずの頼みだった。
だが、猪熊はこれを飲んだ。表向きの隠れ蓑となる警備会社を設立し、その立場から左右田たちに自分を売り込んだのだ。もちろん初めはいい顔をされなかったが、そんな左右田に対し、猪熊は思いっきり意地の悪い表情でこう言ったのだった。
『言うとくけど、例の涼宮事件、俺は証拠の捏造なんかやってへん。世間がどう思とるかはともかく、それは自分自身がようわかっとる話や。けど、それやったら誰があの証拠捏造をやったんやろな。俺にはその心当たりはあんたらしか思い浮かばんわけやけど、どないやろか?』
その言葉に、さすがの左右田も押し黙ったのだという。と言うより、他の人間は騙せても、当事者であるこの男だけは騙しきれない事はあらかじめ村側も想定していたはずだった。だから、恐らく猪熊が何か余計な事を言う前に何らかの手段で口をふさぐくらいの事は考えていたはずだったが、それを実行する前に猪熊の方から接触して来たので戸惑いがあったのだろう。そんな左右田に対し、猪熊はさらにこう続けたのだという。
『安心せいや。今さら俺が何言うたかて世間には一切信用されへん。とはいえ、あんたかて真実を知っとる俺がうろついとるのはおもしろうないやろ。そっちもそっちで俺に対して何か企んどったんちゃうか?』
『……』
『黙るって事は図星かいな。けどなぁ、俺かて真相を知っとるから言うて一方的に消されたりするのは御免被るわ。このままやとどっちにとってもろくな結果にならへん。やから、この際逆に協力せえへんか?』
『……協力とは?』
『俺、会社を作ったはええけど、何しろやらかした元刑事の会社やで、仕事が全くあらへんのや。やから、あんたから適当にこの村の警備の仕事を割り振ってくれへんか? その代わり、俺はあんたらに色々協力する。これでも元は県警本部の刑事やでな。警察関係の人間が味方にいるのは、あんたにとっても悪い話やないと思うけどな。もちろん、あんたらが必要とせん限り、必要以上に村の事に首を突っ込むつもりはあらへん』
『……取引かね?』
『あんたらが色々しでかしたせいで、俺は警察の職を失ったんや。本来やったらあんたらにとって都合の悪い事をやっても文句言われる筋合いはないはずやで。それに目をつぶった上で、多少の金と引き換えにあんたらの駒になろう言うてるんや。俺は仕事と金とこれからの人生を保証され、そっちも俺が何か余計な事をせんか監視し続ける事ができる上に、元刑事の俺という強力な駒を得る事ができる。悪い話やないと思うんやけど、どうやろか? あんたらかて、この忙しい時期に俺なんかにリスクのある労力は割きとうないはずやちゃうか? ここは互いに利益のある行動を選択しようやないか』
……結局、その後も多少やり取りはあったが、最終的に左右田はその条件を受け入れた。その後、猪熊は左右田たちに積極的に協力する事で少しずつ信用を得、今の今まで彼らを告発するためのスパイの役割を果たし続けたのである。対応を一歩間違えれば村側に消されてもおかしくないような危険な役割ではあったが、それが猪熊なりの村に対する「復讐」であった。
「……主だった連中はみんな逮捕されたみたいやな」
「えぇ。現在、名古屋地検特捜部で本格的な取り調べが行われています。抵抗はしていますが証拠は確実です。今年中には起訴される事になるでしょう。……あなたの集めた証拠が役立ちました」
「なら、えぇ」
「それに涼宮事件の冤罪の実態もすべて明らかになりました。彼らが証拠を捏造していた事実も……」
「ふん、今更そんな事がわかっても、俺の生活には何の影響もないわ。せいぜい、俺の気が晴れるくらいやな」
「……」
「もっとも、そんな個人的で小さい事のためにあんたに協力したんやから、俺も人の事は言へんけどな」
「……村での事を聞きました。随分無茶をしたそうですね。あの榊原さん相手に真っ向から喧嘩を売るなんて」
「あの探偵の事、知ってたんか?」
「かつては東京地検や横浜地検にいましたから。あっちでは伝説の刑事として有名だった人です。彼が解決した事件の公判に関わった事も何度かあります。その時に彼の記録は見ましたが……あれは一種の『修羅』ですね。絶対に敵に回してはいけないと思った事を覚えています。そういうあなたは?」
「……知っとった。というか、当時の警察におった人間は、県警に関わらず多少なり誰でも知っとるやろうな。結構、あっちこっちの県警に合同捜査で行っとったみたいやし、あの洒落にならん推理力は話を聞いただけでも背筋が凍るもんがあった。今回、俺もそれを身をもって実感したわ。まさか、ここまで複雑な事件を片っ端から解決してしまうなんてなぁ。はっ、俺が刑事としてどれだけ三流やったか、今になってやっと思い知ったわ。警視庁にはあんな化けもんがおったんか……。むしろ、あいつを野に放ってもうた警視庁はどうかしてるんやないか? あいつが警察におったら、今以上にたくさんの事件が解決していたはずやで」
「そんな人を相手に、どうして対立するような事を?」
瀧江が言っているのは、大津留の遺体現場でのいざこざの話である。村への警察の介入を阻止しようとし、強引に捜査の主導権を握ろうとする姿はまさに「敵役」そのものである。
「優秀やからこそや。相手は『推理の天才』、あるいは『論理の怪物』て言われてたかつての警視庁の伝説の刑事やで。生半可な演技でだまくらかす事なんかできへん。向こうにこっちの正体を暴かれんようにするには、こっちもそれなりの覚悟で演技せななぁ。それに……あれで村の連中は、俺が間違いなく自分ら側の人間やと認識したみたいや。おかげで証拠を集めるのが随分に楽になったで」
「……ちなみに、本当に警察に通報しないつもりだったのですか? もしそれが成功してしまっていたらどうするつもりだったんです?」
そう聞かれて、猪熊はニヤリと笑った。
「成功するわけないやろ。相手はあの榊原やで。俺がどれだけ阻止しようとしたところで、どんな手段を使っても警察に通報するのは目に見えとった。……やからこそ、俺もあそこまで踏み込んだ一か八かの演技ができたわけやけどな」
そう言いながら、猪熊はせせら笑った。
「もっとも、榊原も、最後の方は薄々こっちの事情をわかってたみたいやけどな」
「え?」
「村を出る時に意味深な顔で俺を見とった。直接は何も言われんかったけど、あれは何かに気付いとる顔やった。一体どこで気付かれたんかはわからんけど……つくづく恐ろしい奴やで」
猪熊は小さく息を吐く。
「とにかく、やっと肩の荷が下りた気分や。あんたはこれから大変やな。あいつら全員有罪にせなあかんのやから」
「覚悟の上です」
「……向こうも必死や。全ての黒幕があの村出身のあんたやってわかったら、連中の弁護士、そこをつついてくるんとちゃうか? 自分の正体隠して、私怨で捜査しとったとか」
「問題ありません。私があの村の出身だという事は、私の周囲の検察関係者はほとんどが知っている事ですから。上もそれを知った上で、私に捜査を一任してくれました」
「そうかいな。ま、頑張ってくれや。あいつらが一人でも無罪になったら、裏切り者の俺の身も危なくなってまうからな」
「……私が言うのもなんですが、猪熊さんはこれからどうするつもりですか?」
その問いに、猪熊は笑いながら答えた。
「しばらくはのんびりするつもりや。世間もうるさいやろし、誰もおらんところでゆっくりするのもえぇな。もうしばらくは、こういう事件から離れたいしなぁ」
「……改めて、長い間、お疲れ様でした。そして……ごめんなさい」
瀧江の言葉に、猪熊は一瞬、初めて穏やかな笑みを浮かべて答えた。
「ええて。ほな、元気でな」
その言葉を最後に、猪熊は立ち上がって店を立ち去った。瀧江はそんな猪熊の姿を見送り、深く息をついたのだった。
「……ありがとうございました」
……その後、猪熊がどこに行ったのかを知る者はいない。風の噂では、どこかの片田舎で農業をしている顔のよく似た男が目撃されたと言うが……それは本当にこの物語に関係のない、些末な後日談だったりするのである……。




