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蝉鳴村殺人事件  作者: 奥田光治
第三部 解明編
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第二十五章 過去の記憶~バーにて

 ……岐阜市内の一角にある小さな個人経営のバー。その一番奥のカウンター席に、一人の男が疲れた表情で座っていた。ちびちびと男はグラスを傾けながら、ぼんやりとした視線でグラスに注がれた酒の水面を見つめている。それは、全てに敗北し、何もかもを失ってしまった男の顔だった。

「……」

 男は背中を丸くしながら酒を飲み続けていた。どう考えても自分の失態だった。自分を擁護してくれる相手は誰もいない。長年連れ立った家族にも軽蔑され、妻からも離婚を切り出された。子どもたちも全員妻の味方をし、男は離婚届に判を押さざるを得なかった。

 もうどうにでもなってしまえばいい。男は腐れ気味にそんな事を思いつつ、なおも酒を飲み続けていた。

「隣、いいですか?」

 と、不意に声をかけられ、男は虚ろな視線を声の方へ向けた。そこには見覚えのないスーツ姿の女性が立っていた。

「……姉ちゃん、俺なんかに何の用や。席なら他にもようさんあるで」

 実際、バーに客は彼一人であり、ママは男の事など放って奥でぼんやりと店備え付けのテレビを見ている有様だった。わざわざ男の隣に座らずとも、他にもたくさん席があるのは見ればわかった。

「あなたと話をしたいんです」

 そう言いながら、女性は男の隣に腰かけた。男は吐き捨てる。

「俺に用? アホ言うなや。今の世の中に俺に用がある人間なんかおらん。おったとしたら、俺のこの強面を撮りたいと思うてるどこぞの記者くらいや。まさか、姉ちゃんもその口か? やったら残念やったなぁ。無実の人間をまんまと犯人に仕立て上げた噂の鬼刑事は、しみったれた顔して酒を飲み散らかしとるんやからな」

 クックックッと自嘲気味に笑いながら男は言い、そしてこう付け加えた。

「……いや、『元鬼刑事』と言うた方がええんか。体よく自主退職という名のクビになったばっかりやしな。傑作な話やで。まぁ、自業自得やけどな」

 そう言いながら再び酒を飲もうとする男に、女性はきっぱりとした声で言った。

「あなたの立場は知っています。知った上で、こうして声をおかけしました。ここがあなたの行きつけのバーだという事は調べればわかりましたので」

 その言葉に、男は一瞬考え込んだ後、スッと目を細めて女性を見やった。

「……姉ちゃん、何もんや?」

 女性は黙って、ポケットから何かを取り出してカウンターの上に置いた。特徴的な形のバッジ。それを見て、男は女性の正体を悟ったようだった。

「……検事さん、か。初めて見る顔やな」

「岐阜地検の人間ではありませんから」

「他の地検か? 岐阜地検の人間やったら勝率九十九パーセントに泥を塗った俺に文句を言うために接触するんはわかるけど、他の地検っちゅうのうはどういう事や? 俺が冤罪起こした事がそこまで問題になってんのか?」

「……いいえ、今回は検察としてではなく、個人としてあなたに会いに来ました」

「ふん……。やから、冤罪起こした俺に、何の用やって聞いてるんや。用件次第では、ただやすまへんで。こっちはもう、失うもんは何もないんやからな」

 少しドスの効いた声で脅す男に対し、女性は表情を変える事無く続けた。

「あの村に復讐したいですか?」

 思わぬ言葉に、男は眉をひそめた。

「何やて?」

「あなたを破滅させたあの村……蝉鳴村に復讐したいか、と聞いているんです」

「……」

「あの村が捻じ曲げた証拠で、あなたは破滅した。やり返す権利はあると思いますが」

「何を言うとる?」

「裁判で捏造認定されたあの証拠……捏造したのはあなたですか?」

 その問いかけに、男は少し黙り込んでいたが、やがてぼそりと答えた。

「俺やない。確かに俺は失格の烙印を押された腐った刑事や。やけどなぁ、どれだけ腐り果てたとしても、証拠の捏造だけは絶対にやらへん。それが俺の刑事としての最低限度の矜持や。ま、信じてくれんでもかまへんけどな」

 だが、女性はすぐにこう切り返した。

「ならば話は簡単です。捏造を行ったのは警察ではない。ならば、やったのは事件の関係者……あの村の人間しかいないはずです。私は、その復讐をしないかと持ち掛けているんです」

「何のつもりや? 何のつもりで俺なんかに声をかける?」

 男の顔つきが真剣なものになる。

「私は、あの村の闇を憎む者。あの村の闇を祓いたいと思っている者です。ですが、私だけの力では限界があります。ですので、あなたに協力を頼みたいのです」

「俺に協力って言われても……」

 戸惑う男に対し、女性はこう続けた。

「その前に一つ言っておきます。今回の裁判ですが……三田先生に加藤氏の弁護を依頼したのは私です」

 それを聞いて、男の顔色が変わった。

「何やて?」

「表向きは国選弁護の形になっていますが、その国選弁護を受けるように密かに依頼したのは私です」

「て……てめぇ……」

 男の顔に怒りが浮かぶ。三田の弁護で冤罪が立証され、その結果身の破滅につながったのだから当然の感情ではあった。が、女性はそんな男にぴしゃりと言い放つ。

「あのままあの村の横暴を許しておくわけにはいきませんでしたから。四年前、あの村で本当は何があったのかまではさすがに私にもわかりません。ですが、あの村が不都合な事を隠すためにそれくらいの事をするだろうという事はわかっていました。だからこそ、それを食い止めるための手段が必要だった。……それとも、あなたはあのままねじ曲がった証拠で無実の人間が有罪になるべきだったとでも言うおつもりですか?」

「い、いや……」

 男は口ごもる。どれだけ落ちぶれ腐り果てようと、元刑事としてそれだけは口が裂けても言う事ができない。そもそもこんな事になったのは、村の思惑に担がれる形でねじ曲がった証拠で無実の人間を逮捕してしまったこの男の失態という面も大きい。それだけに、男としては言い返す事ができなかった。

「この事実をあなたに言った事が、私の覚悟だと思ってください。気に入らないなら、この事を岐阜地検にでも言ったらいいでしょう。仮にも検察官の私が、何の関係もないのに他の地検の起訴した人間に対する弁護を依頼していたなんてばれたら、私もただでは済まないでしょうし」

「……」

 男はしばらく拳を震わせていたが、やがて力を抜いて吐き捨てるように言った。

「んな事はせぇへん。その村の思惑とやらを見抜けんとまんまと冤罪を起こしてしもうたんは俺やしな。それはどんなに取り繕っても変えられへん事や」

 そして顔を上げて尋ねる。

「俺に何しろって言うんや?」

「……あの村の思惑に担がれ、村の思惑通りに動き、その結果冤罪を引き起こしてしまったあなただからこそできる事があります。村の思惑通りに動いたがゆえに……村にとって都合のよい人間だと認識されたあなただからこそできる事が」

「……詳しく話、聞かせろや。どうするかはそれから決める」

 ……男がそう言って話を聞き始めたその瞬間、バー備え付けのテレビではニュースが始まっていた。それは先日下された、涼宮事件の最高裁における無罪確定判決についてのニュースであったという……


 ……二〇〇三年七月、岐阜市の一角での、取るに足らない昔話である。

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