第二十三章 執念
同時刻、岐阜県岐阜市、岐阜中央大学附属病院の一室。壮絶な事件の幕引きを尻目に、地震による怪我でドクターヘリにより搬送された左右田昭吉はそのベッドの上で目を覚ました。
「御目覚めですかな?」
視界がまだぼんやりとしている中、ベッドの横から声が聞こえる。まだ頭の中に靄が残っている状態でそちらを見やると、そこには警察官僚の制服を着た恰幅の良い男が立っていた。
「あんたは……」
「お目にかかるのは初めてですな。ですが、お話した事はあります。岐阜県警本部長、法澤公康です」
見た目はかなり温厚そうな男だった。だが、その眼の奥から榊原や柊同様に鋭い何かが発せられている。これが警察官……それもそれ相応の修羅場を潜り抜けてきた有能な警官特有のものである事を、いい加減に左右田も理解できるようになっていた。
「よく覚えている。わしの頼みをはねのけたのだからな」
「県警本部長として当然の事をしたまでです。いくら有力な地方議員でも、百戦錬磨の警察上層部の人間を簡単に動かせるとは思わない事です」
「……ふん」
左右田はそう吐き捨てるとゆっくり上半身を起こし、相手をジッと見据えて改めて問いかけた。
「それで、そんな君がわしに何の用だね?」
「さて……どこからお話すればいいものか」
法澤は意味深にそんな事を言うと、おもむろにこんな事を話し始めた。
「こんな時に何ですが、左右田さん、あなたに公金横領の疑いがかかっています」
突然の言葉に、左右田は目を見張った。
「藪から棒に何だね」
「お言葉を返しますが、実は藪から棒でもない話でしてね」
その言葉と同時に、病室にもう一人誰かが入って来た。それは、左右田が法澤に電話をかけた時、法澤のすぐ傍にいたあのスーツの男だった。
「何だ、君は?」
左右田の不愉快そうな問いかけに、男は慇懃無礼に頭を下げて応じた。
「名古屋地検特捜部検事の高坂重治です。左右田さん、あなたに関する数々の疑惑の捜査を担当しています。岐阜県警さんにも協力して頂いていましてね」
「何を馬鹿な事を……」
「残念ですが、証拠はもうかなりそろっているんですよ。容疑は色々ありますが、今回お聞きしたいのは二年前……蝉鳴神社の修復工事を名目に、雪倉建業を経由して岐阜県から一億もの金を騙し取った容疑です」
高坂の言葉に、一瞬左右田の表情が引きつった。
「……何を言っているのか、さっぱりわからん」
「左右田さん、誤魔化しはもうやめにしましょう。今回の事件の最中に行われた雪倉家の家宅捜索。そこで二〇〇五年の神社の臨時修復工事の作業計画書を押収しました。ですが……この臨時修復工事に疑問があるんです」
「疑問?」
「神主の油山海彦氏の話だと、例の神社の車両用の裏道は、一九九九年の涼宮事件直後に土砂崩れが撤去され、同年の定期修復工事に使用されていた工事車両をその道から退去させて以降は封鎖され、以後は一度も使われていないそうです。ですが……だとすれば妙ですねぇ。もし本当に二〇〇五年に修復工事が行われていたのだとすれば、工事作業車の搬入のためにもあの裏道を使わないというのはおかしいじゃないですか。少なくとも、ずっと封鎖しっぱなしだったというのはあり得ない話です」
「……」
「工事の名目は『雪で破損した社の屋根の修復』。かなり大掛かりな工事です。材料の搬入の事もありますし、工事作業車なしで行うには無理があります」
「そんな事、わしは知らん。そういう工事関連は全て雪倉がやっていた。わしには関係がない」
「ですが、県に対する補助金の申請は当時の村長のあなたがやっていたはず。知らないとは言わせませんよ」
「……」
左右田は黙り込む。が、高坂は首を振ってこう続けた。
「今度はだんまりですか。まぁ、無駄ですがね。この件について直接海彦氏に話を聞きました。彼ははっきりと言いましたよ。『二年前にそんな工事なんかやった記憶はない』と。神主本人が言っているんです。これ以上の話はないでしょう」
「なっ……」
左右田の目が怒りで見開く。
「どうやら今回の事件で、あなたの村に対する威光も地に落ちたようですね。おかげで捜査がはかどって助かります。まぁもっとも、あの神主さんは元々そういう争いから一歩外れたところにいたようですがね」
「……っ」
「……あなたは雪倉建業を抱き込み、本当はやりもしなかった神社の修理名目で県から一億円もの補助金を受け取る事に成功した。もちろん、その補助金は神社の修理なんかに使われていない。金を受け取ったあなた自身の目的に使用された。この補助金は元々国民が支払った税金です。それを勝手に使うなんて、許されるわけがないでしょう」
「そんな事……わしに簡単にできるはずがっ……」
「事前審査で県の担当職員にばれるとでも言いたいんですか? ……調べましたよ。問題の神社の修復工事の申請が行われた時の岐阜県庁側の担当職員は『田崎伊周』。言うまでもなく、今の高山市役所蝉鳴支所の支所長です」
「……」
「報酬は賄賂ですか? それとも地位? あるいは村長の権力を盾に命令した? まぁ、それはこれから調べますよ。とにかく今のあなたと田崎の関係を見れば、この時点で癒着があったと考えてもおかしくないと思いますがね。田崎なら、あなたの偽の申請を故意に見過ごすくらいの事は充分にするでしょう」
「……そんな事をする理由がない。そんな事をせずとも、わしの財力は……」
「それでも足りなかったんでしょう? 目的は、同年に実施された高山市議会議員選挙」
そう言われて、左右田の顔色が少し変わった。
「二〇〇五年……これは行政区分としての蝉鳴村が消滅し、高山市に合併された年です。その時点であなたは長年勤めていた蝉鳴村村長の座を自動的に辞すことになりましたが、それから時を置かずに同年に実施された高山市議会議員選挙に立候補して見事当選。今の地位を確立しています。しかし……この話、いささか都合が良すぎる気がしませんかね?」
「……何が言いたい?」
「要するに、県から不法に搾取したあの一億の補助金は、この市議会選のばらまきに使われたんじゃないかと言っているんです。さっき言いましたよね、あなたには『数々の疑惑』がかけられている、と。その第二の疑惑は、二年前の高山市議会選挙における『公職選挙法違反』です」
「ぶ、無礼な!」
左右田は叫ぶが、高坂は動じない。
「すでに賄賂を受け取った疑惑のある人間に対する捜査は進んでいます。あなた……よっぽどあの村での権力を失う事が嫌だったようですね。村長が駄目なら市議会議員とは……ゆくゆくは高山市長にでもなるおつもりでしたか? そうすればあの村での権力は半永久的ですからねぇ」
「黙れ!」
「雪倉家をはじめとする村の他の有力者たちも、自治体そのものが消滅した以上、岐阜県や高山市に対して政治的に対抗できる人間は必須でした。そしてそれができ、議員になれる可能性がわずかながらでもあったのは、長年あの村の村長として君臨していたあなたしかあり得なかった。だからこそ、この時ばかりは雪倉家もあなたに協力して、補助金の公金横領の手助けをした。そしてあなたはそこで得た一億円をばらまき、見事に議員に当選する事に成功したんです。そして、功労者である県庁の田崎伊周を、議員の立場を活かして高山市への出向という形で高山市蝉鳴村支所の支所長に就任させた。まぁ、これも恐らく、自分の息のかかった人間を支所長にする事で村の支配を継続する目的があったんでしょう」
「知らん! わしは……知らん!」
左右田はなおも頑固に首を振り続けるが、高坂は冷静に告げた。
「病み上がりでしょうから、今日はこの辺にしておきます。しかし、今回の事件で今まで隠され続けていた多くの証拠が次々と出ています。我々特捜部としては、必要な証拠は概ねそろったと考えている次第でしてね」
「知らん……わしは……」
「法澤さんも仰られていたでしょう。そろそろ村の膿を出す時が来たと。お体が回復次第、あなたに対する逮捕状を執行する予定です。逃げたり自殺しようとしたりなど思わない事です。我々がそれを許しませんから。支所長の田崎伊周も、容疑が固まり次第逮捕される事になるでしょう」
「貴様……議員のわしにそんな事をしてただで済むと……」
「済みますよ。国会議員ならともかく、地方議員に不逮捕特権はありませんからね。罪の立証さえできれば、会期中だろうが何だろうが普通の人間と同じく問答無用で逮捕できる。もちろん仮にも議員であるならこんな事は百も承知かと思いますが、もし知らなかったというのなら、そこの所を勘違いされては困りますよ」
「……」
「あぁ、それから、この一件はすでに高山市議会にも通達済みです。市議会としては、疑惑のある人間をこのまま議員にしておく事を憂慮しているようでしてね。あくまで我々の逮捕を待つとは言っていますが、それが確認でき次第、あなたの解職に向けた手続きを行う構えを見せています」
「っ!」
「そうでなくとも、これらの事実は数日以内に特捜本部からマスコミに報じられるでしょう。というより今回の事件を受けて、マスコミ側の村の暗部をめぐる取材合戦が本格化しています。そうした真実を受けてあなたに投票した高山市民がどう思うか……もしかしたら、あなたのリコール騒動に発展するかもしれませんね。実際、リコールに必要な署名を集める活動が一部で始まっているという情報も入っています」
「……」
「まぁ、今はゆっくり体を治して、今後の身の振り方を考える事です。では、失礼」
高坂はそう言って部屋から出て行った。後には法澤と左右田だけが残される。
「わしは……わしは村のためを思って……」
「まぁ、何ですかな。前も言ったかもしれませんが……」
呆然自失状態の左右田に対し、法澤はのんびりした口調でとどめの一言を加えた。
「あんた方はやり過ぎたんですよ。古き良き推理小説じゃあるまいし、今どき、あなた方みたいなやり方が通用するわけがないでしょうに」
「……」
「では、私もこれで。今度は、仕事抜きの場所でお会いしたいものですな。もっとも……何年後の話になるかわかりませんし、それまで互いに生きているかもわかりませんが」
法澤も部屋を去る。後にはすべてを失う事が決まった、憔悴しきった老人だけが残されたのだった……。
法澤が病室を出ると、ドアの傍に同じくスーツを着た女性が立っていた。年齢は三十代後半だろうか。その眼には法澤同様、鋭いものが宿っているのが見て取れる。
「ようやく、終わりましたな」
「えぇ。終わりました」
法澤の言葉に、女性も言葉を返す。
「しかし、何もわざわざあなたがここまで出向かなくともよかったのでは?」
「いえ、私としても、あの男の最後は見ておきたかったので。それに、これから有罪になるまで長い付き合いになる相手ですから」
「執念ですな。大学在籍中に司法試験を突破し、卒業と同時に司法修習生を経て検察官を拝命。出世に出世を重ね、三十代後半という異例の若さで女性として初めて名古屋地検特捜部の特捜部長にまでのし上がったあなたが、まさに自身の人生を賭けて取り組んでいた案件ですからな」
「……こうでもしないと、あの村はいつまでたっても変わらないままでした。私も頑張ったけど、内から変えるのは無理だった。だから外から変えるしかないと決意したんです。でもそれも難しかった。涼宮事件の時も、まだ下っ端検察官だった私は何もする事ができなかった。その後苦労してようやくここまで上り詰めたけど、それでも奴らの尻尾を掴むのにはかなり苦労をしたわ。もっと早く証拠を集めきれさえすれば、ここまでの悲劇は起こらなかったはずなのに……」
「……今回の事件で、ようやく奴らの尻尾を掴む事ができたようですな」
「えぇ。これでようやくあの村も根本的に変わっていくでしょう。本部長には感謝しています。そちらの捜査員に紛れて、うちの検察官も何人か現地入りさせる事ができましたから。おかげであの村から直接、左右田元村長の不正の証拠を集める事ができました」
その言葉に、彼女の後ろに控えていた一人の男が法澤に頭を下げる。その男は、法澤協力の元で本部の捜査員に交じって蝉鳴村の捜査員入りをし、事件捜査の傍らで左右田村長の周辺を極秘に調査していた名古屋地検特捜部の検察官……桜庭克茂その人だった。
「なんの。これくらい、どうって事はありませんよ。その代わり、またこちらから何か頼む事があった時は、ぜひとも協力をお願いしたいものですな」
そう言うと、法澤は一礼した。
「では、後の事はお任せ致します。ここからはそちらの管轄ですので」
「えぇ、任せてください。仰る通り、ここからは私の仕事です」
「それは頼もしい。では、失礼します。名古屋地検特捜部部長、大島瀧江殿」
そう挨拶して去っていく法澤を、あの村の先々代の巫女で、今は名古屋地検特捜部のトップに君臨している女性……大島瀧江はじっと見つめていた。
「さて、左右田元村長。長い戦いだったけど、ついにここまで来たわよ。清香さんの代わりってわけじゃないけど、昔と違って今の立場は対等のはず。元巫女として、そして同じ権力側の人間としてたっぷりと締めあげてあげるから覚悟する事ね。それが、今まで村の犠牲になってきた人たちに対する、何よりの供養になるはずだから」
そう言う瀧江の目は、静かに燃えていたのだった……。




