第一章 葛原論文
二〇〇七年三月六日火曜日。東京都品川区の品川駅近くの裏町。そこにある三階建ての古いビルの二階に居を構える「榊原探偵事務所」の室内で、この事務所の主である私立探偵・榊原恵一は遅い昼飯を食べていた。
年齢四十歳。パッと見た感じはヨレヨレのスーツにネクタイを締めたくたびれた窓際サラリーマン以外の何者でもない男であり、実際、初見だとそんな容姿の榊原の事を侮る人間も少なくない。だがこの男、こんな外見に反してかつては警視庁刑事部捜査一課の警部補だったという経歴を持っており、当時警察庁が優秀な刑事ばかりを集めて捜査一課に設立した特別捜査班のブレーン的立場を担っていた推理の天才という一面を併せ持っていた。わけあって九年ほど前に警視庁を辞職しているがその推理力は今なお健在であり、こうして探偵事務所を開業して以降も日本の犯罪史にその名を残す数々の事件を解決し続けている事から、一部の関係者からはその徹底して探偵の本分たる論理力と推理力に特化した活動姿勢から「真の探偵」と呼ばれる事も多いという。広告活動に不熱心であるため事務所には閑古鳥が鳴いている事が多いが、本人はそれを気にする事もなく持ち込まれる依頼をこなす毎日であった。
さて、そんな榊原の机の上に、この日はある事件ファイルが置かれていた。ファイルの背表紙にはこんな文字が書かれている。
『第二次白神村事件(通称・イキノコリ事件)捜査ファイル』
イキノコリ事件……それはこの男、榊原恵一にとっても非常に特別な事件であった。なぜなら今から三年前……二〇〇四年に発生したこの事件において、真犯人・葛原光明を壮絶な推理対決の末に陥落させ、逮捕に持ち込んだのが、他ならぬこの榊原恵一だったからである。
榊原がこの事件に関与したのは、白神村における葛原光明の大量殺戮がすべて終わった後の事であった。ある事件関係者の依頼で犯人の逮捕を依頼された榊原は、その依頼に基づいてイキノコリ事件に対する徹底的な捜査を実施。そして、警察の手からまんまと逃げ延びていた葛原をこの事務所におびき出し、激しい論戦の末に見事陥落に追い込んだのである。あの時の推理勝負は榊原の人生の中でも一際記憶に残るものであり、榊原の中ではイキノコリ事件の真犯人・葛原光明という男の事も相当なインパクトを残しているのは確かだった。
そして、その葛原光明の死刑が実施されたのが、つい一週間前の話であった。現在、旧白神村は二つの事件に対する慰霊碑の立つ広場になっているが、そこに葛原の死刑執行の報告をしたのもほんの数日前の事である。榊原からしてみれば、これでようやくあのイキノコリ事件も一区切りついたという思いだった。
だが、事はそう簡単に終わらなかった。今日になって、ある人物からイキノコリ事件に関して話したい事があるという連絡があったのである。そして現在、榊原は事務所の中でその人物を待っているところだった。机のファイルは、それに合わせて事件の事を振り返るために読んでいたものである。
事件はまだ終わっていない。犯人である葛原光明が死んでなお、あの忌まわしき白神村の事件は尾を引き続けている。事件の規模が大きくなればなるほど、事件がもたらし二次的あるいは三次的な影響は増大する。榊原も今までの経験上それはわかっているつもりだったが、今回のイキノコリ事件……さらに言えばその大本である白神事件が残した爪跡は、今まで榊原が経験してきたどの事件よりもその深さが尋常ではなかった。
やがて、榊原が昼食のコンビニ弁当を食べ終え、再びファイルに目を通し始めてから十五分程度経過した頃、その時は訪れた。榊原の正面にある事務所のドアがノックされ、問題の来客が来たことを知らせる。
「どうぞ」
榊原が声をかけると、ドアは音もなく開いてその人物が中に入ってきた。
「お久しぶりです、榊原さん」
その人物……警視庁刑事部捜査一課第三係長の斎藤孝二警部は、そう言って一礼した。年齢三十九歳のこの警部は榊原の刑事時代の後輩でもあり、現在は若くして警視庁捜査一課の係長として多忙な日々を送っている。本庁捜査一課の警部だけあって本人の推理力もかなりのものだが、手に負えない事件があった時は榊原に協力を求めてくる事も何度かあり、実際今まで榊原がかかわった事件のいくつかはこの斎藤からの依頼でもたらされたものだった。
その斎藤が、死んだ葛原について話があると連絡してきたのはつい今朝方の事である。普段から斎藤の依頼はよくあるが、このような形で依頼をしてくるケースは榊原にとっても初めてである。現に、訪れた斎藤の表情はどこか厳しいものが漂っていた。
「来たか……まぁ、座ってくれ。散らかっていて申し訳ないが」
榊原の言葉に、斎藤は黙って来客用のソファに腰を下ろす。一方、榊原もお茶を出したりする事もなく、その反対側のソファに腰かけると、二人の間にある来客用のテーブルの上におもむろに例のイキノコリ事件の捜査ファイルを投げ置いた。二人の間に重苦しい沈黙が広がる。
「これは……イキノコリ事件の記録、ですね」
「死刑囚・葛原光明が旧白神村で引き起こした大量殺人。私が今まで対峙した中でも最悪の部類に属する犯罪者だ。もっとも、こんな事は警視庁にいるお前なら当然知っているはずだが」
そう言ってから、榊原は単刀直入に斎藤に切り込んだ。
「妙な前置きはなしにしよう。斎藤、この段階に至って葛原について話したい事というのは何だ? 奴は一週間ほど前に死刑が執行されたはずだ。イキノコリ事件の真相についてももはや疑問の余地はないし、これ以上、まだ何が残っているというんだ?」
その問いに対し、斎藤はしばらく何かを逡巡しているように黙っていたが、やがて決断したかのように顔を上げた。
「唐突で申し訳ありませんが、奴……葛原光明の経歴についてはご存知ですか?」
「あぁ、もちろん。調べたからな」
榊原はファイルを眺めながらその経歴を暗唱する。
「元々はプロ棋士の養成機関である奨励会に幼少期から所属。かなりの腕前の持ち主だったらしいが、規定年齢までに所定の段になれなかった事から奨励会を退会してその後は大学院まで進学している。大学院での専攻は犯罪学で、そこで犯罪に関するありとあらゆる知識を身につけた。その後に問題のイキノコリ事件を引き起こすわけだが……聞けばわかるように随分異色な経歴の持ち主だ。この葛原という男の最も恐ろしいところは、その辺の短絡的に犯罪を起こすような凡人ではなく、やつ自身が相当な天才であるという点にあったと言ってもいい。だからこそ、あれだけ残虐でありながら複雑な事件を引き起こす事ができたんだろうが……しかし、それがどうしたんだ?」
榊原の問いに対し、しかし斎藤は逆質問の形で問い返した。
「榊原さん、『葛原論文』と呼ばれるものをご存知ですか?」
その言葉に、榊原は眉を顰める。
「いや、初めて聞くが……葛原の事件に関する何かの論文か? 少なくとも私がこの事件を調べたときにはそんな言葉は聞かなかったが」
「無理もありません。イキノコリ事件解決後……正確には葛原が逮捕されて、彼が裁判で死刑判決を受けた頃からネットに流出したといわれている文章ですから。文章の内容自体はその名の通り学術的な論文で、その執筆者は死刑囚・葛原光明本人です」
榊原の表情が厳しくなった。
「葛原の書いた論文だと?」
「榊原さんが言ったように、葛原は大学院で犯罪学を学びながら、後に自身が大量殺人鬼として凶悪犯罪を演出したという異色の人間です。その葛原が二〇〇三年度の大学院卒業時に犯罪学をテーマにして執筆した修士論文……それが『葛原論文』です。日本犯罪史上にその名を残す凶悪犯罪者が執筆した犯罪に関する論文という事で葛原逮捕後に大学でも異端視扱いされ、そのうちにどういうわけかその内容の一部がネット上に流出してしまいました。犯罪マニアの間では、ぜひともこの論文の全文を読みたいという人物が後を絶たないらしくて、今でもネット上ではこの論文の断片が散見されます」
「そんな論文があったとは……」
榊原が珍しくも驚いていると、斎藤はおもむろに持ってきた鞄の中から何か一冊の冊子を取り出してテーブルの上に置いた。パッと見た感じは大学の論文集か何かだろうか。提出されてからかなりの年月が経過しているのかその表紙は薄汚れている。
急にそんなものを出されて訝しげな顔をしていた榊原だったが、ある一点を見て急にその表情が厳しくなった。薄汚れた表紙の片隅の著者名。そこに忘れる事の出来ない『あの名前』がしっかり記されていたからだ。
『葛原光明』
榊原は思わず斎藤の方を見上げた。
「これは……」
「問題の『葛原論文』の原本です。ネット上に転がっている一部しかないものではなく、オリジナルの完全版と言ったところでしょうか。大学に保管されていた提出用の物とは違って、葛原の自宅に保管されて、逮捕後の家宅捜索の際に警察が押収していたものです」
「ちょっと待て。これを書いた葛原が死刑になったこの段階で、どうしてこんなものを今さらここに引っ張り出した?」
榊原の当然の問いに、斎藤はしっかりとした声で告げた。
「それは、噂が噂ですまない話になっているからです。榊原さん、こいつのタイトルを見てください」
言われるがままに榊原は論文のタイトルに目をやる。そこにはこう書かれていた。
『蝉鳴村殺人事件(通称・「涼宮事件」)に関する研究と考察』
それを見た瞬間、榊原の表情が変わった。その村の名前、その事件名に心当たりがあったからだ。
「蝉鳴村の『涼宮事件』……というと、まさか」
「やはりご存知でしたか」
斎藤の確認に、榊原は重々しく頷く。榊原が直接携わった事件ではない。だが、その事件の名前は、一連の白神村で起こった事件とは別の意味で間違いなく日本の犯罪史にその名を残しているほど有名なものだった。
「犯罪にかかわる仕事をしている人間なら誰でも知っている事件だろうな。何しろ、『二十世紀最後の冤罪事件』と呼ばれ、当時のメディアで大騒ぎになった事件だ。確か……発生してから今年でもう八年になるか。しかし、まさかあの男がこの事件の研究をしていたとは……」
最初は驚いた様子を見せた榊原だったが、すぐに冷静さを取り戻して厳しい表情でその論文を見やる。そこに斎藤が注釈を入れた。
「犯罪学会の中では相当有名な事件である上に、彼が論文を執筆した年に最高裁で判決が下された事で話題性もあり、この事件をテーマとして選択したこと自体は珍しい話ではないというのが彼の指導教授だった教授の弁です。ただ、その教授曰く、葛原は他の学生以上にこの事件に関して興味を持っていたとか。実際に現場となった蝉鳴村を訪れるのはもちろん、独自の理論を打ち立てたこの論文は、修士論文でありながら当時この事件に興味関心を持っていた犯罪学者や司法関係者の間で大きな話題となったという事です。もっとも、葛原が逮捕されると同時に論文は異端視されて事実上の封印状態になったようですが」
「だろうな。本物の殺人鬼の書いた論文となれば、世間に与える影響が大きすぎる。だが、大学院生の論文となればネット上に公開される事が多いから、葛原の逮捕後に大学が慌てて削除したものの、削除しきれなかった一部分がネット上に拡散してしまった、という事になるのか」
榊原の指摘に対し、斎藤も同意だというように頷く。
「もっとも、ネットに拡散した論文の一部もいくつか読んでみましたが、やはり部分的でそこだけ読んでも論文の本質をとらえられるような事はなかったと思います。ですから、すべてがそろっているこのオリジナルはかなり貴重なものという事になるでしょう」
「なるほど、な」
榊原は再度その論文を見やった。
「で、こうして持ってきたという事は、まずはこの論文を読んでみるべきなんだろうな」
「お願いできますか?」
「……いいだろう。奴がどんな結論に達したのか興味もある。少し時間をくれないか。とりあえず一読してみたい」
榊原はそう言うと論文の冊子を手に取り、ページをめくりながら、稀代の殺人鬼が執筆した犯罪学の論文を読み始めたのだった……。