第十六章 巫女継承
同じ頃、名崎鳴は榊原や亜由美と一緒に村の中を歩いていた。目的地は蝉鳴神社。これから、巫女継承の儀式が行われる場所である。地震の後片付けをしている周囲の村人たちは彼女の姿を見る度にハッとしたような表情を浮かべ、続けてそれに付き添う榊原たちの姿を見て複雑な表情を浮かべている。
こんな事になったのは、数時間前、調査のために村の中を歩いていた榊原たちが、偶然スーツ姿の鳴の父親・名崎義元に遭遇したためだった。
「折り入って頼みたい事があります」
それが名崎の第一声だった。そして、そんな名崎の頼みというのが、もはや巫女になる事が確定路線になりつつあった鳴の護衛だったのである。
「神社で儀式が終わるまでで構いません。本来なら親である私が一緒にいるのが一番なのですが、この地震で役場職員の私は動き回らねばならないので、どうしてもそれができません。ただでさえ巫女候補が次々殺されているこの状況で、もう他に信用できる人間がいなくて……」
「私は信用できる、と?」
榊原の確認に、名崎は躊躇なく頷いた。
「えぇ。正直に言って、この状況では村の中の人間より外の人間の方が信用できる。それに、あなたは元刑事さんなんですよね?」
「一応、ですがね」
「なら、何かあっても他の人に比べて対処はしやすいはずです。もちろん、これは正式な依頼なので既定の料金はお支払いいたします」
「いえ、この状況なので金銭面については別にいいんですがね……」
とはいえ、名崎が本気なのはよくわかった。
「わかりました。私にも調査がありますので、儀式が終わるまでという条件ならお引き受けしましょう」
「助かります」
そう言って頭を下げてから、名崎は疲れた表情でポツリとこう言ったのだった。
「正直、こうなるとこの子の将来のためにも巫女なんか引き受けたくはないんですが、そうも言えないのが現実でしてね。一介の地方公務員に過ぎない私に村の実権がどうのと言われても困るのですが、逃げるわけにもいかない。困った話です」
「……」
「本当に……こうなってくると、何のための巫女選びなのかわからなくなってきますよ。あまり大きな声では言えない話ですがね」
「……心中、お察しします」
そう言う他ない榊原に、名崎は自嘲気味にこう返した。
「探偵さんにそう言ってもらえると、私はまだまともなんだと実感できます。では、娘の事、よろしくお願いします」
……そんなわけで、榊原たちはこうして鳴の護衛として神社までの付き添いをしているのである。
「名崎さんはあんな風に言っていましたけど、実際の所、巫女候補を辞退する、という事はできなかったんでしょうか? 鳴ちゃんの命の事を考えるのならそれも一つの選択だったのでは?」
亜由美は歩きながらそう言うが、榊原は首を振った。
「現状、確かに巫女候補二人が殺されているが、それ以外の人間も狙われている以上、本当に巫女争いが殺人の動機になっているかどうかも不明だ。つまり、彼女が巫女候補を辞退したとしても、動機が別の物だった場合、何の意味もない可能性があるという事なんだろう」
「それは……そうですけど……」
「それに仮に動機が巫女絡みだったとして、彼女が辞退したところで別の巫女候補者が擁立され、新たな巫女争いが発生する危険性がある。それは新たな惨劇を生み出すだけの話だ。こう言っては何だが、正直、色々手詰まりなんだろう。苦渋の決断、というのは間違いなさそうだ」
榊原の言葉に、亜由美は悔しそうに口ごもる。村の外の人間にはどうする事もできないという事はよくわかっているのだが、それでも納得できないのも事実なのだ。
「おじさん、どうしたの?」
と、そこで鳴が無邪気に笑いながら話しかけてくる。この少女の目に今回の事件がどのように映っているのかわかりかねるが、榊原は小さく笑って彼女に応じた。
「いや、何でもないんだがね。……あぁ、そうだ。君に会ったら、一つ聞いておきたい事があったんだ」
榊原はふと思い出したかのように鳴にこう語りかける。
「なぁに?」
鳴はかわいく首をかしげながら尋ね返す。が、榊原が彼女にした質問は予想外のものだった。
「大した事じゃない。ただ、君はどうしてこの事件以前から、あの神社の地下焼却炉の存在を知っていたのかと思ってね」
「えっ?」
予想外の事を言われて声を上げたのは亜由美だった。一方、鳴本人は動じる様子もなく、相変わらず無邪気に笑いながら榊原に問いかける。
「何でそう思うの?」
「何の事はない。ただ、あの地下焼却炉に入る時の暗証番号が、君が神社で私に出した問題の答えそのものだったからね。これを偶然と片づけられる人間はいないだろう」
事件直前、蝉鳴神社の境内で初めて遭遇した際、彼女は榊原に一問の数学の問題を出した。すなわち、『1~20までの整数をすべて掛け合わせてできる数をAとする。このAが2のX乗で割り切れるとした場合、Xの最大値は何か?』という問題であるが、榊原はこの問題を素因数分解を利用して解き、Xの最大値が18……つまりAは2の18乗で割り切れると答えていたのである。
「で、答えとしてはそうなるが、これを実際に計算してみるとだ……」
『1×2×3×……18×19×20=2432092008176640000』
『2の18乗=262144』
『2432092008176640000÷262144=9280784638125』
「こ、この数字って……」
見覚えがある数字の羅列に亜由美が絶句し、榊原は頷く。
「要するに、あの暗証番号の正体は、1から20までの自然数の積を実際に2の18乗で割った際の答えだったという事だ。正直、あの時の君とのやり取りがなかったら、あの暗証番号を答える事は不可能だったと思っている。だからこそ、改めて君に聞きたい。なぜ君は、あの暗証番号を知っていたのかね?」
榊原の問いかけに対し、鳴は微笑みながら、素直にこう答えた。
「えっとね、あそこにそんな地下室があって、あれが地下室に入るための番号だったって事は知らなかった。でも、あの神社にとって特別な番号だって事は知ってたよ」
「どうしてかね?」
「書庫で読んだから」
「書庫?」
「うん。神社の書庫。そこに前の神主さんの古い日記があって、その中に書いてあったの」
「神社に書庫があるのかね?」
境内に祭具殿や倉庫があるのは知っているが、書庫などというものに記憶がなかった榊原はそう尋ねる。
「社務所の南の端っこの部屋にあるよ。そっちにも外から入れる扉があって、近くの植木鉢の下に隠してある鍵を使ったら誰でも中に入る事ができるの」
詳しく聞いてみると、鳴は普段からよく神社に遊びに行っているらしく、そのうちに書庫にある古い書物を読むようになったのだという。生前の山彦の趣味だったのかそこには数学関連の書物もいくつかあり、学校の図書室にある本よりも専門性が高いものも多かった事から、鳴は無我夢中で読みふけっていたという事だった。問題の日記も、その中に紛れ込んでいたのだという。
「でね、大切な数字みたいだったから覚えておこうって思って、どうやったら覚えられるかなぁって考えたら、1から20までの掛け算の答えを2の18乗で割った数と同じだって事に気が付いて、ちょうどいいかなって思ったの」
どうやら、元の数字は本当にランダムだったらしく、そこに鳴が数学の問題という形で無理やり意味をこじつけたという状況だったらしい。というか、咄嗟にそんな覚え方を思いつけるだけでも彼女の数学センスは尋常ではない。その点について聞いてみると、直前によく似た数学の問題を解いていて頭に残っていたからという事だったらしい。
「暇なときに、頭の体操のつもりで高校入試の数学の問題を解いたりしているの。パズルみたいでおもしろいよ!」
「へ、へぇ……」
趣味で数学の入試問題を解くという感覚が亜由美には理解できないようだった。
「そう言えば、君は夕闇逢魔さんの家にもよく行っているようだね?」
榊原はさりげなくそんな質問をする。
「うん、そうだよ」
「理由を聞いてもいいかね?」
「おもしろいから」
「おもしろい?」
「うん。あの家、数学パズルの本がいっぱいあって、すごくおもしろいの! 結構解いたけど、まだ半分ぐらい残ってるから、この先、どんな問題があるのか楽しみ!」
と、ここで鳴はふと何かを思い出したかのような顔をして榊原に話しかけた。
「あっ、そうそう! 探偵さんが出した問題!」
「ん? あぁ、あれか」
鳴の言葉に、榊原は最初の事件が起こった日に、蝉鳴学校の図書室で鳴にせがまれて出した数学の問題の事を思い出していた。
「あれから立て続けに事件が起こってすっかり忘れていたが、解けたのかね?」
「んー、やっぱり難しくって……」
「あの時も言ったが、簡単な問題を出してもつまらないだろう。やりがいはあるはずだが」
「それはそうだけど……」
一方、あの時図書室にいなかった亜由美は困惑した表情を浮かべる。
「あの、一体何の話ですか?」
「あぁ、実はね……」
榊原は亜由美に鳴に対して問題を出した経緯を簡単に説明する。
「数学の問題ですか。それで、一体どんな問題を?」
「これ!」
榊原が何か言う前に、鳴がポケットからあの時榊原が問題を書いたメモ用紙を取り出して嬉しそうに亜由美に見せた。改めて、それは以下のような問題である。
◎Xの3乗とYの3乗とZの3乗の合計が次の①~⑤の数である時、X、Y、Zに当てはまる整数は何かを答えよ。ただし、答えるのは①~⑤のうち一つだけでよい。
①33 ②42 ③58 ④70 ⑤81
「これは……何というか、難しそうですね」
「だが、累乗の概念さえ理解できれば、内容自体は一応小中学生でも理解はできる問題のはずだ。で、私に出した問題を見ればわかるように、この子はすでにこの歳で累乗の概念はしっかり理解できているようだから、試しに出してみたわけだがね」
そう言っている間にも、鳴はメモ用紙を真剣な表情で見ながらジッと答えを考えている。亜由美はそんな鳴に聞こえないよう、ソッと小声で榊原に尋ねた。
「一応聞きますけど、これ、答えは何なんですか?」
「自分で求めようとは思わないのかね?」
「私、文系ですし、こういうのはあまり得意じゃなくて……」
「ふむ。まぁ、いいだろう」
そう言うと、榊原も鳴に聞こえないよう小声で亜由美に対してこの問題の『正解』を明かした。
「結論から言ってしまうと、この中でちゃんと解く事ができるのは④と⑤だけだ。①から③までの三つは答えがない引っ掛け選択肢でね」
「答えがないって……」
「一見すると単なる数学パズルに見えるが、この問題は数学上では『立法数の和の問題』と呼ばれる難問だ。元々の問題は『Xの3乗とYの3乗とZの3乗の合計が1~100のいずれかの数字だった時、X、Y、Zに当てはまる整数はそれぞれ存在するか』というものでね。もちろん、数字によっては簡単に求められるものもあるんだが、中には当てはまる組み合わせが存在しない数字や、答えがある事はわかっていても具体的な組み合わせがわからなくて数学上の未解決問題になっている数字も存在している。理論自体は簡単でも、実際に解いてみると非常に難しい問題の典型例だよ」
「はぁ」
「具体的に言うと、この条件下では答えの数字を9で割った時に余りが4か5になる場合は、X、Y、Zに当てはまる整数が存在しないという事が立証されている。問題の①~⑤の中でこの条件に合致するのは③の58で、つまり③にはそもそも答えが存在しない。そして①の33と②の42は、答えがある事は確かにもかかわらずX、Y、Zに当てはまる具体的な数字が二〇〇七年現在も発見されていない数学上の未解決問題の一つだ」
「未解決問題……」
今のこの状況を連想させる重々しい言葉に亜由美は複雑そうな顔をする。
「この問題は一九五〇年代にケンブリッジ大学の数学者が考案したものだが、出題から約六十年が経過した現在に至るまでの間に、1~100のパターンの大半はX、Y、Zに当てはまる整数が発見されるか、あるいは当てはまる整数がない事が立証されている。が、最後に残ったこの『33』と『42』だけはどれだけ探しても当てはまる整数が発見されないままになっていて、この二つのケースを解決すべく、今も世界中の数学者たちが躍起になっているところだ」
「探すって、どれくらいですか?」
「少なくとも、1兆以下の数字に該当する数字は存在しないらしい」
さらりととんでもない事を言う榊原に亜由美は呆れたような顔をした。
「そんなわけで、今回は④か⑤のいずれかにおいてX、Y、Zに当てはまる整数を求める事ができれば正解となる。ちなみに、この④と⑤の答えは比較的簡単な数字でね」
そう言って、榊原は手帳を取り出して④と⑤の場合の答えを記す。
④の『70』の場合……X=11、Y=20、Z=-21
⑤の『81』の場合……X=10、Y=17、Z=-18
比較的簡単とは言っているが、亜由美からすればかなり難しいとしか思えない答えである。と、同時に亜由美は何かに気付いたように手を打った。
「あ、整数だから負の数はありなんですね。勝手に自然数だと勘違いしていました」
「自然数だけだとできる数字が限られてしまうからね。とにかく、簡単に正解に辿り着かれて何度も私の所に来られるとこちらの仕事に支障が出るから開き直ってこんな問題を出してみたわけだが、さて、今回の事件が解決する前に、彼女はこの答えに辿り着く事ができるかどうか……」
と、そんな事を話しているうちに、三人は役場前にある竹橋食堂の前に差し掛かった。すると、食堂の前でノロノロとした動作で地震の後片づけをしている人物が目に入った。虚ろな目で覇気がない表情を浮かべているその人物は、竹橋食堂の主人で先日殺害された竹橋美憂の父親・竹橋和興の姿だった。さすがに娘を無残に殺された事もあってか、初めて会った時に比べてずっと老けたように見える。もっとも、彼の気持ちを思うとそれも無理もない話ではあった。
「あぁ……探偵さんか……」
榊原に気付くと、和興は力なく頭を下げた。
「どうも。大変そうですね」
「そうだな……。まだ、娘の葬式も挙げられていないのにこの様とは」
「……その、美憂さんの事は……」
「言わないでくれ。遺体もまだ帰ってきていないのに、気持ちの整理がつくわけがないだろ。そのくらいわかってくれ」
美憂の遺体は解剖が行われた岐阜市内の病院に安置されたままである。地震で交通網の寸断が起こっている現状、返還までそれなりの時間がかかる事が想定された。最悪、こうなってくると岐阜市内で荼毘を済ましてしまうという選択も真剣に検討しなくてはならなくなりつつあるのも事実である。
「申し訳ありません」
「……すまない。あんたに当たっても意味がないのはわかってる。わかってるんだが……悔しくてならないんだ。どうして……どうして美憂が……」
「……」
少しの間嗚咽を漏らしていた和興だったが、やがて首を振って涙をぬぐいながら頭を上げた。
「悪い、情けない所を見せた。ところで、あんたはこんな所で何を……」
そう言ってから、和興は傍らに控える鳴の姿に気付いたようだった。
「ふん、そういう事か。結局、巫女はこの子になったわけか。で、あんたはその護衛か何かと言ったところか」
「よくご存じで」
「あんたも散々経験してきただろ。『この村で噂が広がるのは異常に早い』という事を」
「そうでしたね」
榊原は苦笑気味に答える。が、和興の言葉は終わらなかった。
「それで?」
「はい?」
「それで俺に何を聞きたいんだ? 何か聞きたい事があるんじゃないか?」
「よろしいのですか?」
「ここまできたら隠し事なんか知った事か。わかる範囲なら答えてやる」
どうやら、和興は何か覚悟を決めたようである。榊原はその覚悟を受け止めた上で、ありがたく彼に対する質問をする事にした。
「では、遠慮なく。すでに警察が聞いている事かもしれませんが、村に帰る前、もしくは帰って来てからの美憂さんの様子に、何か変わった事はありましたか?」
「変わった事?」
「何でもいいんですがね。普段と違う事と言い換えてもいいですが」
和興は少し真剣な表情で考えたが、やがて力なく首を振った。
「いや、残念だが何も心当たりはねぇな。俺にはいつも通りのあいつに見えた。と言っても、普段は別れて生活しているから本当の所はわからないが」
「失礼ですが、奥様は?」
「何年か前に病気で逝っちまった。俺にはもったいないかみさんだったよ。だから、美憂は俺に残された最後の家族だったんだ」
「そうでしたか……」
さすがに榊原も一瞬言葉に詰まったようだったが、すぐに何事もなかったかのように別の質問に移った。
「では、娘さんの交友関係については?」
「あまり詳しくは知らない。美憂自身も俺に積極的に話したりはしなかったし」
「今回殺害された人たち……特に、一緒に殺害された雪倉美園さんと何らかのかかわりがあった可能性はありませんか?」
その問いに、和興は顔をしかめつつ応じた。
「わからねぇ。正直、何で美憂が家を抜け出してまで雪倉のお嬢さんと会ったのかもさっぱりだ。ただ……」
「ただ?」
「あいつも雪倉のお嬢さんも普段は村の外にいたんだ。だから、村の外で勝手に会っていたんだったら、俺にはそれはわからない」
「事件前日の美憂さんの様子はどうでしたか?」
「いつも通りだった、と思う。昼間はいくつか出前を頼んで、こんな状況だから店も早めに閉めた。それで、午後九時頃にはそれぞれの部屋に戻ったと思う。それが……俺が生きた美憂を見た最後の瞬間だ。あいつは最後に居間にいた俺に『お父さん、お休み』って声をかけて二階の部屋に戻って行ったんだ。あれが……あれが最後の言葉になるなんて……」
和興は声を詰まらせる。そんな和興に、後ろに控えていた鳴がトコトコ駆け寄って心配そうに言葉をかける。
「おじちゃん、泣かないで。ね?」
「……あぁ、そうだな。悪い」
そう言って顔を上げると、改めて榊原に向き直る。
「俺が話せるのはこんな所だ。悪いが、もう終わっていいか?」
和興はそう言って話を締めようとするが、榊原はさらにこう質問を加える。
「いえ、すみませんがもう一つ、あなたに聞いておきたい事があります。先日、美作清香さんに話を聞いた時に、あなたが最近安住梅奈さんと一緒に美作宿を訪れたという話を聞きました。この話に心当たりはありますか?」
和興は一瞬眉をひそめるような仕草を見せたが、すぐに何かに思い当たったのか力なく頷いた。
「あぁ、そう言えばそんな事があったな」
「いつの事ですか? 清香さんの話では日時がはっきりしなかったので」
「あれは……安住のお嬢さんが帰ってきたその日だったから、三月八日の昼頃の事だ」
つまり、千願寺前の墓地で榊原たちが梅奈に会うよりも前という事になる。そして、それに関連して榊原はある事を思い出していた。
「確か、あの日の昼、あなたはこの食堂にいませんでしたね? 私たちが食堂を尋ねた時、美憂さんが店番をしていて、あなたの事は『用事で出ている』と言っていたのを覚えています」
「あぁ。美作さんに用事があったんだ」
「美作さんというと、父親の頼元さんの方ですか?」
「そうだ。と言っても大した用事じゃない。近々ここで出すはずだった新作メニューの相談に行ったんだ。何だかんだ言って、昔、岐阜のホテルで料理を作ってたあの人のアドバイスは役に立ってよ。普段からちょくちょく相談したりしてるんだ。もっとも……こうなっちまった以上、そんな話はパァだがな」
「しかし、食堂に客が多いはずの昼間に行くというのは……」
「もちろん普段だったらそんな事はしないが、あの時は美憂がいたし、美作さんからは普段から『可能なら昼間に来てほしい』と言われていた。宿にとっては料理を作る朝と夕方が一番忙しい時間帯だし、昼間の方が暇なんだろう」
「なるほど。では、梅奈さんと一緒だったのは?」
この問いに対する和興の答えはあっさりしたものだった。
「たまたまだよ」
「たまたま?」
「あぁ。偶然、美作宿の前で会ったんだ。そんで俺が挨拶したら『少し相談したい事があるから、時間を割いてくれないか』と言われた。正直、面食らったよ。安住のお嬢さんが俺なんかに何の用かと思った。美憂が巫女候補になったからその偵察かとも一瞬思ったが、よく考えたら彼女は今回の巫女候補じゃないわけだし、戸惑ったのを覚えている」
「で、その頼みを受けたんですか?」
「……安住のお嬢さんの頼みを断るなんて俺らにできるわけがないだろう。ただ、美作さんへの用事を先に済ませたいと言ったら『付き合う』と言い始めてな。そんで、一緒に美作宿へ行ったわけだ」
「ですが、美作宿には清香さんしかいなかったはずです」
「あぁ。要するに俺は空ぶったわけだ。まぁ、事前連絡したわけでもないし、仕方のない話だ。それで、そのまま安住のお嬢さんと一緒に食堂に帰って、そこでその『相談』とやらを聞いたわけだ」
「美憂さんは?」
「俺が帰るのと入れ替わりに外に出て行った。どこに行ったのかは知らない」
「ふむ……。それで、肝心の梅奈さんの『相談』は何だったんですか?」
そこで和興は難しい顔をする。
「それがな……最初はどうもはっきりしなかった」
「と言いますと?」
「店のカウンター席に案内して話を聞いたんだが、ゴニョゴニョ言うばかりでさっぱり要領を得ない。で、十分くらい経ってから、ようやく具体的な話をしてくれたんだが……」
「何だったんですか?」
和興は少しためらった後に、こう言った。
「俺の知り合いに口利きをしてくれないかと、そんな話だった」
「口利き?」
「彼女、四月から京都の企業に就職する予定だったという話は知ってるかい?」
「えぇ、事件が起こる前に梅奈さん本人がそう言っていました。ただ、『このまま何事もなければ』と、少し曖昧な表現だったのが気にはなりましたが……」
「じゃあ、その企業っていうのが『篠木製菓』だった事は?」
その言葉に、榊原は少し厳しい顔を浮かべて首を振った。
「いえ、さすがにそこまでは。ですが、その企業名に心当たりはあります。梅奈さんに話を聞いたまさにその日、社長が粉飾決算容疑で逮捕されたという報道を見ましたから」
そう、あの日、竹橋食堂で美憂と話をしていた時に店のテレビで流れていたニュースでそんな事を言っていたのを、亜由美もぼんやりとではあるが覚えていた。
「確か、京都の向日市に本社がある和菓子の製造会社でしたか」
「そうらしいな。規模は小さいが、業界じゃそれなりに名の知れた会社だったらしい」
「梅奈さんがそこに就職するはずだったと?」
「あぁ。ところが、今回の粉飾決算騒ぎでどうも雲行きが怪しくなっていたらしい。肝心の社長が逮捕された上に、実際の経理状況は主力製品の売り上げ激減の影響を受けてかなりまずい事になっていて、その赤字分を粉飾決算で銀行を騙して受け取った融資で誤魔化していたという事だ。詳しい話は俺にはよくわからんが、とにかく単なる社長の不祥事どころか、下手をすれば会社そのものの存続が危ぶまれるレベルの事態になっていたみたいだな」
「となると、梅奈さんの四月からの就職は……」
「はっきり言って、会社自体が新入社員を受け入れられるような状況ではなくなっているらしい。要するに、彼女は大学卒業直前になって、いきなり就職できない可能性が出てきてしまったという事だ」
どうやら思った以上に梅奈の周囲は厳しい事になっていたようである。
「なるほど。彼女の事情は理解しました。しかし、それでなぜあなたに相談を?」
「だから言った通り、俺の知り合いに口利きをしてくれないかと言ってきた」
「口利きと言うと、今までの話から考えるに、新しい就職先の斡旋ですか?」
「あぁ。俺の知り合いに、京都市内で洋食屋を開いている奴がいてな。アルバイトでもいいから、そこを紹介してくれないかと言ってきた」
「それで、何と答えたのですか?」
「話してみるとは言った。ただ、その結果どうなるかまでは保証できないとも言ったよ。こればっかりは村の有力者の娘だからとか、そういうのは関係ないからね。そう言ったら、無言で頷いて暗い表情のまま店を出て行ったな。俺が知ってるのはそれだけだ」
と、ここで不意に亜由美が口を挟んだ。
「あの、就職できないんだったら、実家の安住酒造で働くっていう選択肢もあったんじゃないですか?」
その素朴な疑問に対し、和興は複雑そうな顔を浮かべた。
「あぁ、確かにその通りなんだが、どうも彼女、実家から距離を置きたいと思っていたらしい」
「……家との関係があまりよくなかったと?」
榊原の問いに、和興は曖昧に首を振る。
「というより、この村から出て行きたいと思っていたみたいだな。そうじゃなかったら、最初から篠木製菓に就職したりはしないはず。詳しい事は知らないが、どうも彼女にとって、この村にはあまりいい思い出がないみたいだった。父親の安住さんが気付いていたかどうかはわからないがな」
「そうですか……」
ひとまずそれで聞きたい事は聞き終えたようで、最後に榊原はこう尋ねた。
「あなたはこれからどうされるんですか?」
「さぁな……娘が殺されて、どうしたらいいかもわからない。あの時の涼宮さんの気持ちを、こんな形で味わう事になるとは思わなかったよ。正直、この村で生きるのが疲れた。俺がこれだけあんたに色々話したのも、もう村の事なんかどうでもいいと思っているからだ」
「竹橋さん……」
「……巫女なんて……巫女なんて……あんなものがなければ……」
ブツブツと呟きながら再び作業に戻る和興を、榊原たちは黙って見送るしかなかったのだった……。
……それから十数分後、三人が神社の石段を登り切ると、そこにはすでに左右田常音と神主の海彦がいた。海彦はちゃんとした神主としての正装、常音も正式な巫女装束であり、榊原が近づくと二人はそろって頭を下げた。
「鳴ちゃんを連れてきて頂き、ありがとうございます」
常音が代表して頭を下げ、榊原も軽く会釈してそれに応じる。
「これくらいは構いませんがね。しかし、随分と急な話です。決めたのはあなた自身の意思だと聞きましたが」
その問いかけに、常音は真剣な表情で頷く。
「これだけの被害者が出ている以上、これ以上問題を先延ばしにすべきではないと判断しました。少なくともこれで、次期巫女の座をめぐる争いには一応の決着がつくはずです」
「君のお父さん……左右田元村長は納得したのですか?」
「『好きにしろ』とだけ言われました。もっともいくら父でも、巫女である私の決定を覆す事はできないはずです」
とはいえ、一度巫女経験者を出した以上、左右田家の村における権威は常音が生きている限り継続する事となる。常音本人はそこまで興味がなさそうだが、左右田家としては常音が立派に巫女の役割を成し遂げた以上、次の巫女についてはそこまで介入しない方針なのかもしれない。
「まぁ、私は部外者ですから村の方針に口出しするつもりは全くありませんが……これからどうするんですか?」
「今からここで継承の儀を行います。と言っても、大したことをするわけではありませんが……」
聞けば、神主である海彦が祝詞を読み上げ、それに則って儀式を進めていくだけらしい。時間にしてせいぜい二十分程度。あれだけもめにもめた割には簡素な儀式である。
「境内に被害はほとんどなかったみたいですね」
榊原は境内を見回しながら言う。実際、あれだけの地震でありながら境内の建物に被害らしい被害はなく、石灯籠なども崩れたりはしていないようだった。
「えぇ、おかげさまで何とか。もっとも、社務所の中はかなり散らかっていますが……」
「何にしてもご無事で何よりです」
榊原は海彦にそう言ってから、改めて常音に向き合った。
「ところで、村の人たちの参列などはないんですか?」
「この儀式は神社が主催し、本来なら神主と先代巫女の私、そしてこれから役目を受け継ぐ新しい巫女の三人のみで行われます。一応数名の立ち合いも認められていますし、大抵は村の有力者が何人か立ち会うのが慣例ですが……今回は私の判断で彼らの立ち合いは遠慮して頂きました」
「なぜですか?」
「信用できませんから」
常音の答えは簡潔かつ辛辣だった。はっきり言われて、榊原たちも苦笑するしかない。
「では、私たちもこの場から離れた方がよさそうですね」
榊原はそう言って踵を返そうとするが、それを止めたのは常音だった。
「いえ、できればここで立ち会って頂けますか?」
「……いいんですか? 部外者の私たちに立ち会わせて」
榊原は静かに問いかける。
「いいんです。むしろこの状況だと、村の人間よりも部外者の方が信用できますから。それに、探偵さんには見ておいてほしいんです。もしかしたら、事件を解決する手掛かりになるかもしれませんから」
名崎とほとんど同じ事を常音も言った。榊原としては複雑な顔をするしかないが、その返事は簡単なものであった。
「……なるほど。ならば、私から言う事は何もありません」
榊原はそう言って承諾し、常音は一礼すると鳴を着替えさせるために彼女を促しながら社務所の方へ向かったのだった……。
「これより、継承の儀を始めます」
十数分後、海彦がそう宣言し、巫女服姿の常音と鳴は社の前で向かい合った。海彦は社の前に進み出ると一礼して祝詞を読み上げ始め、それと同時に常音が持っていた槍を頭上で一度振り回し、継承のための演舞を開始した。
演舞が始まると、常音はゆったりとしながらどこかダイナミックな動きで槍を振り回し、その槍の動きに合わせて華麗に舞い踊る。長年巫女を続けてきたからこそ身に着いたと思しきその舞は非常に洗練され、どこか美しさと勇ましさを兼ね備えたような動きをしており、榊原はじっとその様子を観察し続けていた。
演舞そのものは十分程度で終わった。最後に槍の柄頭をダンッと地面に打ち付け、常音は息を吐きながら一礼する。彼女の額には玉のような汗の粒がいくつも浮かび上がっており、見かけに反してかなり激しい動きだったという事はよく理解できた。
そしてそのままひざまずくと、手にした槍を鳴に差し出す。鳴はそれを受け取り、どこかぎこちない動作ながらも槍を一度頭上で振り回し、常音同様に槍の柄頭を地面に打ち付ける。そしてそのまま、常音と同じ舞を舞い始めた。おそらく練習していたのであろう。常音に比べるとやはりまだぎこちなさは残っているが、それでも充分立派な動きで彼女は舞をやり遂げた。常音同様にうっすらと汗を浮かべながら、彼女は最後に深々と社に向かって一礼して儀式を終えた。
「これで、継承の儀を終了します。お疲れ様でした」
海彦の言葉で、儀式は終了した。境内に漂っていた張り詰めた空気が緩み、常音と鳴もどこかホッとした表情を浮かべている。そしてしばらくすると、常音が汗をぬぐいながら榊原の元へやって来て頭を下げた。
「無理を言って立ち会って頂き、本当にありがとうございました」
「これで終わりですか?」
「はい。少なくとも巫女の継承はこれで正式に終わりました。後は油山神主さんから村の人間に向けて正式に巫女継承の儀が行われた旨の通達があるはずで、その辺の細かい手続きさえ終わったら私も晴れて巫女を引退という事になります。この先何があろうと、こうして正式な儀式が行われた以上、この結果を覆す事はもはや誰にも不可能です」
常音は決然とした表情でそう告げる。だがこの状況下において、榊原は探偵として最悪の可能性は考慮しておく必要があった。ゆえに、榊原は厳しい表情でこう言った。
「ただし、それはあくまで当の名崎鳴ちゃんが亡くなるような事がなければ、という条件が付くはずですね」
「それは……」
常音は言葉を濁す。常音自身、その可能性については嫌でも頭によぎっていたのだろうし、鳴を巫女にする事によってそのリスクが発生する事も承知していたはずである。だが、巫女候補が殺され続けている現状、犯行を防ぐために彼女にできる事はもはやこれしか残っていなかったのだ。
それに、厳しい事を言ったが、候補者が鳴一人になってしまった現状では、候補者のままだろうが巫女になろうが鳴が殺されるリスクはそう大差ないという事も事実である。現状、これが限られた中での最善手である事は榊原自身もよくわかっている事だった。
「……申し訳ない。今言うべき事ではなかったかもしれません」
「いえ、大切な事ですから。探偵の立場なら気にして当然の事だと私も思います」
「では、失礼ついでに聞きますが、実際に何らかの理由でこの後鳴ちゃんの巫女続行が不可能になってしまった場合、どうなるのでしょうか?」
榊原の問いに対し、常音は難しい表情で答えた。
「一つ言える事は、私がもう一度巫女になるという事は絶対にないという事です。その場合、実際に巫女の続行が不可能になった美作清香さんと同じ処置がとられると思います」
「というと……村の有力者の寄合による決定、ですか」
「候補者の中から次期巫女を最終的に決定するのは原則その時の巫女本人。その巫女が次期巫女を決められる状況にないとなれば、寄合で決めるしかありませんから」
「やはり……そうなりますか」
榊原としては確認の意味を込めた質問だったらしい。
「参考までに、そうなった場合、次の巫女候補は誰になりますか?」
この問いに対し、常音は困ったように首を振った。
「さぁ、どうなるでしょう。正直な所、今回の事件で目ぼしい候補者は鳴ちゃん以外全員いなくなってしまいましたから。もちろん、蝉鳴学校に通っている女の子は鳴ちゃん以外にもまだ何人かいるはずですが、私からは誰と言う事はできません」
「そうですか……」
「他に何か聞く事はありますか?」
常音の問いかけに対し、榊原はこんな問いを発した。
「では、もう一つだけ。今の儀式で槍を使っていたようですが、もしかしてあの槍は……」
「はい、お察しの通り、涼宮事件で涼宮さんの体を貫いた槍です。ただし、本物は今も警察に押収されたままですので、それを模倣して制作されたレプリカという事になりますが」
「レプリカ、ですか」
「えぇ。実は元々、あの槍はレプリカと本物の二本あったんです。儀式などで行われる巫女の舞は基本的に本物の槍を使っていたんですが、本物はそれなりに重さがありますので、体力のない小中学生が使うと怪我をする恐れがあったんです。それで、中学生以下の巫女でも扱えるように重さの違う精巧なレプリカを作ったと聞いています。以降、巫女が中学生以下……つまり十五歳以下の場合は重さの軽いレプリカを使い、それ以上の年齢になって体力がつくと本物の槍を使って演舞をするという慣習になったみたいですね」
「そういう事でしたか。しかし、巫女の演舞にあの槍を使っていたというのは初耳でしたね」
「実際に儀式を見ないとわからない事ですから。ただ、十年前の涼宮さんの事件で本物の槍が押収されてからは、巫女の年齢にかかわらず残されたレプリカを使って祭事を行っています。だから、今の舞で使ったのもレプリカの槍ですが、軽いとは言ってもそれなりに重さはあるので、やっぱりきつい事に代わりはありませんね」
「ふむ……。ちなみにそのレプリカですが、涼宮事件が起こった時はどこに?」
「社の裏の祭具殿に保管されていたと聞いています。涼宮事件の後は、押収された本物の代わりに社の壁に飾られるようになったみたいですけど」
「なるほどね」
そう言って頷くと、榊原は不意に黙って何かを考え始める。その真剣な榊原の表情に亜由美と常音は思わず顔を見合わせ、何とも言えない沈黙がその場を支配したのだった……。
儀式が終わった後、榊原と亜由美は神社の石段を下り、村の方へ歩き出した。鳴についてはこの後色々な引き継ぎ事項があるため、しばらくは常音と海彦が見てくれるという。
「これで……事件は終わるんでしょうか?」
亜由美の問いかけに対し、しかし榊原は厳しい表情を浮かべていた。
「どうだろうね。そう簡単にいかない事は常音さんや海彦氏も薄々わかっているようだった。これで事件が終わるようなら、警察はここまで苦労していない。ただ、何もせずにはいられなかったんだろう。悪く言ってしまえば『あがき』なのかもしれない」
「……」
「とにかく、巫女が決まろうが何だろうが犯人はいまだ健在である事。そして、我々としてもこれ以上の犠牲者を出すわけにはいかないという事。それだけは確かだ」
「まだ犠牲者が出るんですか?」
「出ると考えて行動した方がいいのは確かだ。正直に言うが、これだけの大事件となると、事件の原因が今回の巫女争いだけという考えでは説明がつかない。とにかく、必要なのは情報だよ」
その後、どこへ向かうかと思いきや、榊原はそのまま村の中心を突っ切り、ある建物の前でその足を止めた。そこは……
「ここって……手原商店ですよね」
そこは、数日前に取り付く島もなく追い返された手原商店の店の前だった。今日も正面のシャッターは閉まったままで、一見すると人のいる気配はない。
だが、榊原が店の横にある自宅へ通じるドアをノックすると、しばらくしてドアが開き、奥から相変わらず不機嫌そうな表情をしたこの店の主・手原岳政が姿を見せた。
「あんたは……」
「どうも。連絡を頂きましたので、早速お邪魔しました」
榊原はそう言って挨拶し、岳政は苦々しげな表情でそれを見つめる。驚いたのは亜由美だった。
「え、榊原さんに岳政さんが連絡を?」
「あぁ。今朝の事件の後、私の携帯電話に直接連絡があった。私の連絡先をどうやって手に入れたのかまではわからないが……」
「ネットであんたの事務所のホームページを調べた。そこに書かれていた連絡先に連絡しただけだ」
岳政は苦い表情のままそう答える。
「しかし、急なお話ですね。私に話す事はない、とおっしゃられていたはずですが?」
「……あぁ、俺は今でもそう思ってるよ。だが、そうも言っていられなくなった。俺が釘木の奴に届けた日本酒に毒が混ぜられたって話で、警察が話を聞きに来た。事件に関わりたくねぇと思っていたが、こうなった以上、無関係を決め込むわけにもいかなさそうだ」
「……」
「それに……息子がどうしてもあんたと話をしたいと言っていてな。俺は反対したんだが、どうしてもと聞かなくて」
「息子って……岳人君、ですか」
亜由美が恐る恐るその名を告げる。手原岳人……涼宮事件当時に蝉鳴学校にいた生徒の中で唯一現在も蝉鳴学校に所属している人間で、来月から中学三年生のはずだ。その岳人が、このタイミングで榊原との接触を試みてきたのである。
「俺は同席しないでほしいって事だ。不本意だが、俺は息子の意見を尊重する。入ってすぐの階段を上って正面の部屋が息子の部屋だ。話を聞いてやってくれ」
「……わかりました」
榊原は一礼すると、そのまま家の中に入った。亜由美も後に続き、二人は岳政に言われたように階段を上がる。そこには廊下沿いにいくつかドアがあったが、階段の一番近くにあるドアに『岳人』のプレートがかかっているのが見える。どうやらここが手原岳人の部屋のようだった。
榊原がノックをすると、ドアの向こうからくぐもった声で「どうぞ」と短い返事がある。それを受けて榊原がドアを開けると、部屋の中は昼間にもかかわらずかなり薄暗かった。窓のカーテンは閉められており、部屋の奥の方にある机の上にはノートパソコンのディスプレイが青白い光を発している。そして、その机の前にある椅子に、眼鏡をかけた一人の小柄な少年が腰かけていてジッと榊原の方を見つめていた。
「手原岳人君、だね」
榊原が静かに尋ねると、少年は無言で頷き、中に入るように促した。中に入りドアを閉めると、室内は再び薄い暗闇に包まれる。
「改めて自己紹介をしておこうか。私は私立探偵の榊原恵一。今回この村で起こっている事件について調べている。こっちの彼女は……」
「宮下亜由美です。よろしくお願いします」
榊原が何か言う前に、亜由美は頭を下げた。それを受けて、岳人もボソボソと自己紹介する。
「……手原岳人、です」
「早速だが、私に何か話をしたいと聞いた。聞かせてもらえるかね?」
「……」
岳人は少し黙って薄暗い部屋の中でジッと榊原を見つめていたが、しばらくしてこんな言葉を小さな声で告げた。
「……その前に一つだけ。僕は探偵さんの事を知っています」
いきなりの告白に亜由美は驚いた顔をしたが、さすがに榊原は冷静だった。
「ほう。どういう事か、説明してもらってもいいかね?」
「この前、あなたがこの家の前に来たところを窓から見て、色々調べたんです。表には出ていないみたいですけど、有名な事件をいくつも解決しているみたいですね。二年くらい前に千葉を中心に起こった連続殺人事件や、一年前くらい前に京都で起こった殺人事件……他にもいくつかあるみたいですね」
その答えに、榊原はチラリとノートパソコンの方を見ながらこう応じる。
「昨今のインターネットというものは、随分便利になったものだね。おまけに、それを扱う人間に年齢の制限がないというのも凄い話だ。君のような田舎の中学生が、ネット上ではプロ級の腕前を持つハッカーであるという事も充分に起こり得る」
「驚きましたか?」
岳人が試すように聞くが、榊原は首を振った。
「いや。今までにも仕事の中でそういう人間は何度か見てきたから、今更驚きはしない」
「さすがですね」
中学生らしからぬ言葉遣いの岳人に対し、榊原は軽いジャブめいた言葉のやり取りをする。すでに駆け引きは始まっているという事でもあり、岳人もそれを理解しているようだった。
「じゃあ、時間も惜しいから、単刀直入に用件を言いますね」
岳人はそう前置きして、直後に爆弾発言を叩き込んだ。
「探偵さん、『加藤陽一』と話をしたくはありませんか?」
その名前が出た瞬間、榊原の表情が一気に真剣なものになり、傍らの亜由美も思わず息を飲んだ。その様子を見て、岳人は満足そうに頷く。
「へぇ、やっぱりちゃんとこの名前を知ってるみたいですね」
「あぁ、もちろんだ。涼宮事件の被疑者だった加藤柳太郎の息子。涼宮事件後に村八分状態になり、君の目の前で自殺未遂をした後で村から出て行ったという」
あえて榊原は加藤陽一の自殺未遂の件まで踏み込んだが、岳人は動じる様子は見せなかった。
「その通りです。実は、彼が探偵さんと話をしたいと言っているんですよ。そこで、彼の代わりに僕が探偵さんをこうしてこの場にお呼びしたというわけです」
「彼はここにいるのかね?」
だが、この質問に対して岳人は首を振った。
「いいえ。結論を先に言うと、彼はチャットで探偵さんと会話をしたがっているんです。僕はその仲介役に過ぎません」
「チャット……ネット上でのコミュニケーションという事かね?」
「その通りです。より正確に言うと、僕と加藤さんだけが参加できるプライベートチャットを使った会話ですね」
そう言いながら、岳人は改めて机の上のノートパソコンのディスプレイを示した。
「君と加藤陽一は今もネットを使った交流がある、という事かね?」
「そうなります」
「一体いつから? 少なくとも涼宮事件のすぐ後という事はないはずだが」
何しろ涼宮事件が起こったのは一九九九年の事であり、まだそこまでパソコンやインターネットが一般に普及していなかった頃の話である。少なくともこんな田舎の小学生がパソコンを所持できていたとはとても思えず、となると、彼ら二人がネット上での交流を始めたのはそれよりもずっと後の時代という事になって来るだろう。
「そうですね。ちょうど二年くらい前からだったと思います」
「君が中学に入った頃か」
「はい。僕が学校に行けなくなって、この部屋にこもるようになってすぐですね」
「一体どういう経緯で?」
「それ、この場で話す必要がありますか?」
岳人はとぼけた口調でそんな事を言う。亜由美がチラリと横を見ると、どうやら答える気はなさそうだと榊原は判断したようだった。
「しかし意外だね。岳政さんの話だと、君は目の前で陽一君に自殺未遂をされてかなりのショックを受け、こうして引きこもる遠因にもなっていたはずだ。その相手と繋がりがあるというのは、こう言っては何だが、いささか不思議に思える」
「……」
「失礼、気を悪くしたのなら謝罪しよう。だが、事件がここまでの規模となると、こちらとしてもなりふり構っていられないものでね。そこは理解してくれると助かる」
これは榊原にとって一種の賭けじみた質問だった。岳人を怒らせる危険性はあったが、実際、事件がここまで進行している以上、多少強引な情報収集が必要なのも事実だった。だからこその思い切った質問だったのだが、しかし、岳人は黙ったまま榊原の質問を聞くと、静かにこう返答する。
「確かに、僕と加藤君の関係は他人には理解できないかもしれません。ですが、言い方は悪いかもしれませんけど、僕も加藤君も涼宮事件の間接的な被害者のようなものです。同じ被害者同士、共感できる事があった。それで納得してはもらえませんか?」
「……そうかね」
「それでどうしますか? 探偵さんは『加藤陽一』と話したくないんですか?」
岳人は改めて先程と同じ質問をする。対して榊原は、今度はすぐに結論を出した。
「いいだろう。話があるというのなら聞こうじゃないか」
「わかりました。ちょっと待ってください」
岳人はそう言うと少しキーボードで何かを打ち込んでいたが、やがて榊原の方に振り返った。
「向こうの準備はできています。あとはそのキーボードで文章を打ち込めば会話できます」
「わかった」
岳人が席を譲って後ろに下がり、入れ替わりに榊原が椅子に座って画面を見やる。すると、それを見計らったかのように、画面上のチャット窓に文字が躍った。
『加藤:初めまして探偵さん。僕が加藤陽一です』
その瞬間、部屋の空気が少し変わった。声がしたわけでも本人の姿が映ったわけでもなく、単に文字が並んだだけ。しかし、それでもこの場の空気を引き締めるだけのものがその文字にはあった。榊原は小さく息を吐くと、キーボードに指を走らせる。
『榊原:こちらこそ初めまして。榊原恵一だ』
その文字列が出るや否や、すぐに相手は返事を返してきた。
『加藤:今回は、僕の頼みを聞いてもらってありがとうございます』
『榊原:礼には及ばない。こちらも少しでも情報を得たいと思ったまででね』
『加藤:事情はどうであれ、こうして会話の機会を得られたのは事実です』
『榊原:では、そういう事にしておこう』
先程の岳人との会話同様、軽いジャブめいた言葉の応酬が画面上で行われる。イレギュラーな状況ではあるが、駆け引きはすでに始まっていた。
『加藤:さて、早速ですが時間もないので本題に入ろうと思うのですが、構いませんか?』
『榊原:それは私も望むところだが、その前に一つ確認しておかなければならない事がある』
『加藤:何でしょうか?』
『榊原:言うまでもなく、証明だよ。君が本物の加藤陽一であるという証明がほしい。何分、こんなチャット上の会話では他人が加藤陽一を名乗っている可能性も捨てきれないわけでね。私が今こうして話している相手が間違いなく本人であるという確証がほしいという事だ。どうだね?』
一瞬、画面上の会話が止まった。が、十数秒ほどして新たな文字が打ち込まれてくる。
『加藤:確かに、それはそうですね。ですが、証明と言われても困りましたね。何かそちらにアイディアはありませんか?』
『榊原:では、こういうのはどうだろう。私は昨日、この村の加藤家の敷地内で第三の事件が起こった際に警察の許可を得た上で加藤家の中を調べさせてもらっている。その際に調べた君の部屋の中の様子についていくつか質問をしたい。家の見取り図は裁判の資料などにも記載されているが、具体的な備品の内容や配置まではさすがに記載されていない。従って、部屋の様子について詳しく答えられるのは、その部屋に実際に住んでいた加藤陽一しかいないという理屈が成立するはずだ』
『加藤:……なるほど。勝手に僕の部屋を調べられた事については言いたい事がないわけではありませんが、確かにそれは妙案ですね。いいでしょう、何でも聞いてください』
『榊原:では、簡潔にいこうか。まず、君の部屋の机に電動の鉛筆削りが置かれたままになっていたが、この鉛筆削りに描かれていたキャラクターは何かね? 日常的に使っていたのならわかるはずだが』
かなり難しい質問だったが、相手はたいして時間を置かずに答えを打ち込んできた。
『加藤:有名な猫型ロボットとその妹のイラストだったはずです。小学校に進学した際に母がプレゼントしてくれたものです』
『榊原:結構。では、その机のすぐ横の壁に張られていたポスターに何が描かれていたかわかるかね?』
『加藤:「ゴジラvsデストロイア」の映画のポスターです。当時、ゴジラシリーズにはまっていて、ずっと張りっぱなしにしていました』
『榊原:なるほど。では、最後の質問だが、部屋のベッドにぬいぐるみが一つ置きっぱなしになっていたのだが、これは何のぬいぐるみなのかわかるかね?』
この質問に対し、答えるまでに一瞬時間がかかったが、やがてこんな言葉が画面に浮かんだ。
『加藤:探偵さんも意地が悪いですね。答えは「そんなものはない」です。僕はぬいぐるみなんか持っていませんでした』
『榊原:ふむ、なるほどね』
『加藤:どうでしょうか? 当たっていましたか?』
その問いかけに対し、榊原は大きく息を吐いてキーボードに指を滑らせた。
『榊原:全問正解だ。いいだろう。君が本物の加藤陽一だと信用する事にしよう』
『加藤:信じて頂けて光栄です。ですが、今度はこちらからも同じ事を尋ねさせてください』
『榊原:どういう事かね?』
『加藤:あなたが本物の「榊原恵一」なのかどうかを確認したいという事です。もしかしたら別人が名をかたっているだけなのかもしれないし、仮に本物だったとしても、一緒にいたという女子大生の子が代わりに返事をしている可能性もありますから』
『榊原:ほう。彼女の事を知っているのかね?』
『加藤:岳人君から事前にあなたの話は聞いています。何日か前に一緒に家の前にいたらしいですね』
『榊原:なるほど。君の心配は理解した。では、さっきの私と同じように、私にしかわからない事を遠慮なく聞くというのはどうかね?』
『加藤:それはいい……と言いたいところですが、生憎、僕自身、あなたの事についてはネット上の噂くらいしか知りません。だから、その情報が正しいかどうか確かめる事ができない』
『榊原:では、どうするね?』
『加藤:そうですね』
一瞬、相手の文字の流れが止まったが、すぐにこんな文字列が現れた。
『加藤:一つ、謎を解いてもらうというのはどうでしょうか?』
『榊原:謎?』
『加藤:あなたの探偵としての実力を確かめたいんです。あなたが本物の「榊原恵一」ならば、僕程度が出す謎、簡単に解けると思うんですけどね。どうですか?』
榊原は一瞬目を細めたが、すぐに返事を打ち込んだ。
『榊原:いいだろう。それで、その「謎」というのは?』
『加藤:では、同人活動をしている僕の知人が何年か前に書いた短編推理小説の謎を拝借するとしましょう。当時、僕も犯人当てに挑戦したのですが、初読の時点では見事に外してしまって、悔しい思いをした思い出がありましてね。ぜひとも榊原さんにも挑戦してもらいたいと思うのですよ。この作品が掲載されている同人誌を購入していない限り、榊原さんが事前にこの作品の内容を知っているなどという事はないでしょうし、ちょうどいいとは思いませんか?』
思わぬ提案であったが、榊原が動じる様子はなかった。
『榊原:なるほど。君がそれで納得できるというのならば、私に異論はない』
『加藤:決まりですね。では早速始めますが、作品を一から十まで書いていると日が暮れますので、知人には悪いですが、ここでは謎解きに必要な要素をかいつまんだ要約だけ紹介します』
榊原の返事に対し、加藤はそう前置きしてから、小説に書かれていたというその『事件』の内容について話し始めた。
『加藤:事件の舞台は夏休み中のある高校で、そこで起こった殺人事件が謎の主題です。被害者は……名前を出すのもあれなので、とりあえずAとしておきましょう。Aは現場となった高校の二年生で、事件当日は部活のために夏休み中の学校に登校していたのですが、校内のトイレで遺体となって発見されたのです。死亡推定時刻は当日午後三時半頃。死因は左胸をナイフで刺された事によるショック死で、凶器は胸に突き刺さったままとなっていました』
『榊原:随分死亡推定時刻がはっきりしているんだね』
『加藤:最後の目撃から遺体発見までの時間が短かったんです。Aは美術部所属で、事件当日は他の部員と共に美術室で次のコンクールに出品する予定の作品を描いていたんですが、午後三時二十分頃にトイレに行くと言って美術室を一人で退出。その約二十分後の午後三時四十分頃に同じく部活で校内にいた野球部員二人が連れ立ってトイレを訪れた所、トイレの個室で倒れている被害者を発見したという流れです。この事から犯行は午後三時二十分から午後三時四十分までの二十分間のどこかで行われた事は確実で、犯行形態から考えるとその中間時刻である午後三時半頃の犯行ではないかと推測されたわけです』
いったんそこで間をあけてから、陽一はさらに文字を打ち込んでいく。
『加藤:その後の警察の捜査で、Aに対する動機を持つ三人の容疑者が浮上しました。三人とも被害者と同じ高校の同級生で、名前は……ひとまずX、Y、Zとしておきます。警察は彼らの中に犯人がいると考えて捜査を進めたのですが、その結果、三人にはそれぞれアリバイがあって犯行が不可能である事がわかったのです』
そう前置きして、陽一はそれぞれの容疑者の詳細について述べていく。
『加藤:まず、一人目のXは野球部員で、Aの遺体を発見した二人の野球部員のうちの一人です。坊主頭の典型的な高校球児といった風貌ですが、事件の少し前に今まで付き合っていた恋人から別れを切り出された挙句、その恋人が新たにAと付き合い始めた事で関係が悪化しており、表ざたにはなっていなかったものの、事件の三日前に校内でAと取っ組み合いの喧嘩をしていたという事実も明らかになりました。しかし、そんなXですが、確かに事件当時被害者と同じ学校の校内にいたものの、遺体発見までの間ずっと野球部の練習に参加していて犯行不可能だったことがはっきりしています。一応、午後三時頃に監督の指示で部室に一人で予備の練習用具を取りに行ったという事実はありましたが、席を外したのはせいぜい五分程度の事だった上に、その時間も被害者の死亡推定時刻より二十分以上も前の話で、この中座時間に犯行を行った可能性は考えられません。アリバイは完璧だと言わざるを得ないでしょう』
そこで陽一は榊原の反応を確かめるように一度文字を打ち込むのをやめたが、榊原が何も反応せずに無言で先を促す態度を示すと、やがて二人目の容疑者の情報について書き込み始めた。
『加藤:次のYですが、被害者の元恋人の女子高生です。スラリと背の高い大人びた美少女で男子からも人気があったようですが、事件の一ヶ月前……つまり夏休みに入る直前に被害者のAから一方的に別れを言い渡され、それでかなり関係がこじれていたようです。ですが、彼女には犯行時刻に自宅にいたというアリバイがありました。彼女の自宅は学校から自転車で片道三十分ほどの距離にあるのですが、事件当日の午後三時十五分頃、その自宅から百メートルほどの場所にある自動車整備工場を経営する父親に自転車で忘れ物を届けに来た事がわかっています。これは忘れ物を受け取った父親のみならず、工場で働いている整備工たち数名も目撃しているため、事実と考えて間違いないでしょう。そして、それから約三十分後の午後三時四十五分頃、これも自宅のすぐ近くにあるコンビニに買い物のために訪れた姿が、防犯カメラにはっきりと映っていました。一応、午後三時十五分から四十五分までの三十分が空白の時間ですが、この三十分で片道三十分の距離にある現場まで行って殺人を犯して帰ってくるのは、時間的にもかなり厳しいと言わざるを得ません』
陽一は再び言葉を切って榊原の反応を伺うが、相も変わらず反応がないのを見て取ると、最後の容疑者について語り始めた。
『加藤:最後のZも女子高生で、被害者と同じ美術部の部員です。Yとは対照的に背が低くて小動物系の容姿の女の子ですが、彼女は事件の少し前にコンクールに出品予定だった作品を何者かに壊されるという被害を受けていて、その犯人についてはわかっていなかったものの、一部から「被害者のAの仕業ではないか」という噂が流れていました。ま、この噂の真偽については不明ですけどね。それはともかく、事件が起こった当時、彼女は体調不良で部活を欠席しており、犯行時刻にはかかりつけの医者の診察を受けていた事がわかっています。彼女がその診療所を訪れたのは事件当日の午後三時頃の事で、診察が終わって診療所を出た時刻が概ね午後三時半頃。これは診療所の医師や看護師らの証言によって確実です。診療所を出て以降の足取りに関しては「自宅に帰って寝ていた」との事で曖昧ではありますが、問題の診療所から現場の学校までは自転車でもおおよそ四十分前後。とてもではありませんが死亡推定時刻には間に合いません』
『榊原:……なるほどね。状況は理解した』
ここで初めて榊原はそんな言葉を書き込んだ。榊原が今での情報をちゃんと把握した事を確認した陽一は、いよいよ榊原に挑戦状を叩きつける。
『加藤:以上が事件の概要と容疑者三人のアリバイです。さて、探偵さん、ここまでの情報を踏まえた上で、この事件の謎を解く事はできますか?』
陽一からの挑戦に対し、榊原は画面の文字列を何度も読みながら真剣な表情でしばらく何かを考えていた。が、やがて五分ほど経つと一度目を閉じて大きく息を吐き、再びその指をキーボードに走らせた。
『榊原:いいだろう。ひとまず、簡単ではあるが推理は成立したと考える』
『加藤:さすがに早いですね。では、早速お聞きしましょう』
『榊原:では、結論から書こう。この事件の犯人はYだと推察する』
榊原はいきなり結論から切り込んだ。だが、もちろんそれだけで陽一が納得するわけがない。
『加藤:その根拠を聞かせて頂けますか?』
『榊原:簡単な消去法だ。単純に、君の話に登場した人間の中で犯行が可能な人間が彼女しかいなかった。だから彼女が犯人であると判断せざるを得なかった』
榊原の答えは単純明快だった。しかし、陽一はさらに質問を重ねる。
『加藤:そうは言いますが、僕からすると彼女にも犯行は不可能に思えます。事件が起こった時、彼女は片道三十分……つまり往復一時間かかる場所にある自宅にいたというアリバイがあるんです。このアリバイが崩れない限り、彼女の犯行を立証した事にはならないはずです』
もっともな疑問である。が、榊原はこんな言葉を切り返した。
『榊原:だが、その「往復一時間」というのはあくまで彼女が通学で使っていると思しき自転車を使った場合の時間のはず。仮にそれ以上の速度で現場と自宅の間を移動できれば、こんなアリバイは簡単に崩れるはずだ』
『加藤:それは、確かにその通りですが、でもどうやって?』
そんな陽一の問いかけに対し、直後、榊原は予想外の言葉をキーボードに打ち込んだ。
『榊原:単純な話だよ。自転車で間に合わないというなら、車を使えばいいだけの話だ』
『加藤:はい?』
『榊原:自転車の速度は大体時速十五キロメートル前後。自転車で片道三十分だというのなら、車で法定速度の時速六十キロメートルで走れば、赤信号なども踏まえても概ね十分程度で目的地につけるはず。それなら往復でも三十分以内で済む』
『加藤:いやいや、待ってください。さっきから何を言っているんですか? そんな事あり得ないじゃないですか』
『榊原:なぜだね?』
『加藤:だって、彼女は女子高生ですよ? 車なんか運転できるわけないし、それでも車を使ったとすれば免許を持った共犯者が必要になるはずですが、この期に及んでそんな共犯者がいるとは思えません。それともまさか、榊原さんは彼女がタクシーでも使ったというつもりですか? 運転手に顔を見られるリスクがある以上、いくらなんでもそれはないと思いますけどね』
当然の反論だった。だが、その反論に対し、榊原はさらにとんでもない反証を仕掛ける。
『榊原:それについてだが、なぜ女子高生に車が運転できないと決めつけるのかね?』
『加藤:なぜって……高校生の彼女が運転免許を所持できるわけないですし』
『榊原:確かに、彼女が運転免許を持っていないというのは事実なんだろう。だが、そもそもなぜ運転免許を持っていないと車を運転できないという話になるのかね?』
『加藤:え?』
『榊原:要するに、運転免許証を持っていないイコール物理的に車が運転できない、というわけではないという事だ。運転免許を持っていないと車を運転できないというのはあくまで法的に許されないという話であって、例えば何らかの理由で免停になったからと言って、その瞬間にその人間が今まで培ってきた運転技術の一切を忘れてしまうというわけではないだろう。要するに、ちゃんと知識と技術さえあれば、無免許運転が前提ではあるものの、物理的に車の運転自体はできるという事になる』
『加藤:それじゃあ、探偵さん。あなたは女子高生の彼女が車を無免許運転をして現場に向かったというつもりですか?』
陽一の確認に、榊原は肯定の意を返した。
『榊原:その通りだ。そもそも、運転手が免許を持っているかいないかは、警察官が職務質問をして免許提示を求めて初めてわかる事だ。ならば、運転している際の容姿に問題がなければ、よほど運が悪くて警察官に止められない限り、事が発覚しない可能性は充分にある。そして、君の話によればYはスラリと背が高くて大人びた少女だったという事だ。という事は、運転中の言動と服装にさえ注意しさえすれば、年齢を誤魔化す事は充分に可能だったと判断する』
『加藤:それは……そうかもしれませんけど』
『榊原:もちろん、普通の人間は捕まるリスクを負ってまで無免許運転などしようとは思わないだろうが、彼女に関しては最終目的が殺人だ。その状況で今さら無免許運転を躊躇するとは思わないし、思うようならそもそも殺人など計画しない。しかも、彼女の父親は自動車整備工場勤務。ならば、娘の彼女に自動車関連の知識があったとしても不思議じゃない』
そこまで一気に推理し、榊原は考えをまとめにかかる。
『榊原:一連の犯行を整理するとこうなる。彼女は午後三時十五分頃、父親に忘れ物を届けて自宅に帰ると、そのまま家の車の鍵を拝借して自ら車を運転し、現場となった学校へ向かった。無論、万が一にでも警察に止められないよう、容姿を大人に見せかけ、安全運転を徹底した上でだがね。そして、現場に到着後被害者を素早く殺害し、再び車で自宅まで帰宅。この間、犯行時間を含めておよそ三十分程度しかかかっていない。で、その後すぐに近所のコンビニに行って自らのアリバイを確保し、『女子高生である自分は車を運転できない』という『常識』を盾に容疑から逃れようとしたと言った所か。まぁ、我々の常識からくる盲点が厄介ではあるとはいえ、タネが明らかになればトリックそのものは至極単純だといえるがね』
『加藤:……一応聞きますが、その推理が正しい事を立証する証拠はありますか?』
陽一の質問に、榊原は至極あっさり答える。
『榊原:彼女が運転したと思しき車のハンドルの指紋を調べるのが一番だ。彼女の指紋が残っていたら、免許を持っていない彼女が車を運転したという決定的な証拠になる。逆に彼女が犯行後にハンドルの指紋を拭き取っていたとしても、普通の人間は運転した車のハンドルを拭いたりしないから、誰かが指紋を消す目的でハンドルを拭いた決定的な証拠になる。そして、それができるのは車の所有者の家族の人間だけとなり、必然的に彼女が容疑者として浮上する事になるわけだ』
『加藤:手袋をして運転していたとすればどうします?』
『榊原:言った通り、彼女は運転中に少しでも警察に疑われるような行為をするわけにはいかなかった。ならば、夏の真っただ中に手袋をして車を運転するなどという事をするはずがない。それだけでもう怪しまれてしまうからね。それに、指紋の件がなくとも、犯行現場に至るまでの防犯カメラを調べれば、もしかしたら車を運転している彼女の姿が映っているかもしれない。それは動かしがたい決定的な証拠になるはずだ。さて、私の推理は以上だが、君の判断を聞かせてくれるかね?』
そこまで聞いて、ついに陽一も納得したようだった。
『加藤:よくわかりました。どうやらあなたは、本当に「榊原恵一」のようですね。僕もあなたの事を信用する事にします』
『榊原:わかってくれてありがたいが、つまり今の推理は正しかったという解釈で構わないかね?』
『加藤:えぇ、はっきり言って完璧でしたよ。さすがというか何というか、正直、脱帽です。今の推理を、この話を考えた知人に聞かせてやりたいくらいですよ』
陽一はそう言って榊原の推理をたたえる。が、榊原はさらにこんな言葉を返した。
『榊原:それについてだが、この話、本当に創作なのかね?』
『加藤:……どういう意味でしょうか?』
『榊原:随分、事件の内容が具体的だと思ってね。あくまで直感に過ぎないから、間違っている可能性は無きにしも非ずだが』
『加藤:断っておきますが、僕は嘘をついていませんよ。この話が知人の書いた小説だという話は事実ですしね』
ただし、と陽一は付け加えた。
『加藤:その知人曰く、この小説はかつて実際に起こった事件をモデルにしたものらしいですが』
『榊原:なるほど、そういう事だったか』
榊原もその説明である程度納得したようである。
『加藤:種明かしをすると、第一発見者兼容疑者として登場した野球部のXが作者本人でしてね。要するに、彼が高校時代に巻き込まれた事件を関係者の名前を変えた上で小説化した作品というわけです。まぁ、実際の所は事件を担当した警察が物凄く優秀で、事件発生から一日も経たずして例のトリックを明らかにして犯人の女子高生を逮捕したそうですが、解決までの時間が短かった事と、被害者と加害者が双方未成年者だった事もあってメディアもあまり派手に報じなかったらしく、地方紙の片隅に『~という殺人があって、警察は被害者の同級生の女子生徒を逮捕した』という簡単な記事が掲載されただけで終わったみたいです。具体的な犯人のトリックが報道される事もなかったみたいですね』
『榊原:確かに、そんな状況なら私が事件の内容を知らないのも納得だ。どうやらその言い方だと、都内で起こった事件ではなさそうだしね』
『加藤:ご明察です。いやぁ、でもまさかそこまで明らかにされるとは思いませんでした。本当に脱帽です』
何にしても、これでようやく話を先に進める事ができそうだった。
『榊原:では、互いに相手を信用できた所で、話を戻す事にしようか。改めて、私に何の話だね?』
『加藤:当然、今、そちらの村で起こっている連続殺人事件についての話です。探偵であるあなたに事件について聞きたい事があります。答えて頂けますか?』
ある意味予想された言葉ではある。だが、榊原は慎重に言葉を返していく。
『榊原:もちろん、こうして君との通信に応じた以上、可能な限りは答えようとは思うがね。その前に、こちらからも君に聞きたい事がいくつかある』
『加藤:構いませんよ。答えられる範囲であれば答えます。そちらも答えられる範囲で答えてくだされば結構です。貴重な機会ですし、お互いにウィンウィンでいきましょう』
『榊原:では遠慮なく聞くが、まず、今現在、君はこの蝉鳴村にいるのかね?』
榊原の本当に遠慮がない直球の質問に対し、加藤はすぐにこう答えた。
『加藤:いえ、残念ですが僕はその村にいません。今は別の場所でこのチャットをしています』
その答えに榊原は少し考え、それから次に聞く事を決めたかのようにキーボードを叩く。
『榊原:わかった。ならば質問を変えるが、なぜ君がこの事件の事を知りたがる? 今、村におらず、今回の事件に関係がないと言うならなおさらだ』
『加藤:僕にとって因縁の村で起こっている事件の事を詳しく知りたいと思っても、何ら不思議はないはずです。違いますか?』
『榊原:単に情報を知りたいだけなら、それこそ手原君から聞けば充分ではないのかね?』
榊原はチラリと後ろに控える岳人の方を見ながら文字を打ち込む。
『加藤:もちろん事件の大まかな情報はこれまでに岳人君からある程度は聞いていますし、テレビや新聞の報道も一通り見ています。でも僕は、実際に現在進行形で事件の調査をしている、名探偵として名高いあなたの意見を聞きたいんです』
『榊原:聞いてどうするね』
『加藤:別に何も。僕はただ、できるだけ確実性の高い答えを知りたいだけです。その一番効率的な手段としてあなたを利用するだけですし、あなたの話をきっかけに何か具体的な行動を起こすつもりもありません。この村にはそんな義理も価値もありませんから』
『榊原:義理も価値もない、か』
『加藤:事実です。この村が僕にした事を考えれば、それは当然だと思いますが』
『榊原:合理的だね』
『加藤:あれだけの経験をすれば、こんな性格にもなります』
『榊原:反論できないのがつらい所だ』
そう言うと、榊原は次の質問に移った。
『榊原:二つ目の質問だが、君自身は今回の事件についてどう思っている? 私に聞きたい事があるという事だが、その前に現時点における君の考えについて教えてほしい』
『加藤:そうですね。少なくとも、誰が犯人なのかとかは残念ながら全くわかりませんね。それを特定するには、僕が村から離れてから時間が経ち過ぎました。まぁ、僕や僕の家族を徹底的にいじめ抜いた連中が巻き込まれているのは、こう言ったら誤解されるかもしれませんけど、正直、いい気味だとは思います。あれを許せるほど僕は聖人君子ではありませんし、もし許せる奴がいたらそいつは正常な人間じゃないと思います。ただ、関係ない人たちまで巻き込んでいるのはやり過ぎだと思いますし、全く共感できませんが』
どこかはぐらかすような答え方だった。が、榊原は表面的には平静を保ったまま話を先に進める。
『榊原:つまり、認めるわけだね。君自身にも今回の事件の動機があると』
『加藤:……それは認めます。動機がある事を否定した所で意味がありませんから。でも、僕は犯人じゃありません。もちろん、父も』
『榊原:どうだろうね。残念だが、この状況でそれを立証するのは不可能だ』
榊原には珍しく、まるで挑発するような言葉だった。が、陽一はその言葉に乗るような事はなかった。
『加藤:でしょうね。自分で言っていても、説得力がないのは充分に理解しています』
『榊原:冷静だね』
『加藤:さっきも言いましたが、あれだけの経験を経ていればこんな性格にもなります。でも、僕としては例え信じてもらえなかったとしても、そう言わざるを得ないという事です。御理解頂けませんか?』
『榊原:……わかった。この件についてはここまでにしておこう』
そこで一息入れると、榊原はさらに素早くキーボードを叩く。
『榊原:では、最後の質問だが、君のお父さんである加藤柳太郎氏が冤罪に巻き込まれた涼宮事件は、裁判で柳太郎氏の無罪が確定し、彼が犯人でなかった事はすでに確定的なものとなっている。そこで聞きたいんだが、君自身はあの事件をどう考えているのかね? 具体的には、誰が犯人だと考えているのかね?』
だが、この質問に対し、陽一は逆質問という形で応じた。
『加藤:それは僕の方からも聞きたいですね。探偵さんは涼宮事件についてどう考えていますか?』
『榊原:難しい質問だね。一つ確実に言えるのは、涼宮事件が今回の事件に大きな影響を与えているという事。それゆえに、今回の事件を解決するためには、涼宮事件の謎も解明しなければならないという事だ』
陽一の質問がやや曖昧だったせいなのか、榊原の答えもどこか抽象的なものだった。それが気に入らなかったのか、陽一はさらに質問を投げかけてくる。
『加藤:随分、遠回しな言い方ですね。もっとはっきり言ってもらえるとありがたいのですが』
『榊原:考えている事がないわけじゃないが、現時点では断言しかねるという事だ。仮にも一度解決に失敗した事件だからこそ、こちらとしても真相解明には慎重になるし、少しでも多くの手掛りを集める必要がある。だから、あの事件を解決するためにも君からも情報を教えてほしい』
『加藤:情報、ですか?』
『榊原:例えば、涼宮事件当時、君がどこで何をしていたのかという点だ。思えば、事件後の騒動の中で君が自殺未遂をしたという話は表に出ているが、それ以前……つまり、事件当時に君が何をしていたのかという事についてはよくわかっていない。もしかしたら事件を解決する情報があるかもしれないし、話を聞いておきたいものだがね』
『加藤:なるほど。一理はありますね』
『榊原:改めて聞こう。あの事件が起きた時、君はどこで何をしていた? 当時、君は小学六年生だったはずだが』
それに対する陽一の答えは簡潔だった。
『加藤:母と家にいました。夏休みの宿題をしていたんです』
『榊原:随分早いね。日付から見るに、まだ夏休みも始まったばかりだったろうに』
『加藤:早いうちにやってしまって、後顧の憂いなく遊び倒そうって計画だったんです。事件のせいで無駄になってしまいましたけど』
いずれにせよ、陽一とその母親……つまり柳太郎の妻には犯行当時のアリバイがあるという事になる。
『榊原:君のお父さん……つまり柳太郎氏は何時頃に帰ってきた?』
『加藤:午後七時頃です。後で何度も聞かれたからはっきり覚えています』
この辺りは裁判で主張された通りのようである。榊原はさらに具体的な探りを入れにかかった。
『榊原:柳太郎氏が帰宅した際、彼はジャージを着ていたかね?』
『加藤:それは、わかりません。父が帰ってきた時、僕は自室にいて、母も夕食の準備で台所にいましたから。父は「ただいまぁ」という声をかけて家の中に入って自分の書斎に向かい、そこでジャージから部屋着に着替えたみたいです。僕たちが姿を見た時にはもうジャージを脱いで部屋着になった後でした』
つまり、帰宅直後に彼のジャージに血痕が付着していたかどうかは家族もわからないという事だ。もしこの時ジャージに血痕が付着していない事を家族が確認していれば、後のジャージの血痕の捏造は成立しなかったかもしれない。
『榊原:普通、そういうジャージは洗濯するものじゃないのかね?』
『加藤:父はジャージを一着しか持っていなくて、しかも次の日にまた別の仕事で着る予定だったので、そのまま洗濯せずにタンスにしまったと後で言っていました。もっとも、事件のせいで仕事どころじゃなくなって、結局、警察に捜査されるまでジャージはタンスの中にしまいっぱなしになっていたみたいですけど』
『榊原:なるほどね』
榊原は画面の文字列を見ながら少し何かを考えるような仕草を見せたが、やがてキーボードに手を滑らせ、次の会話に移る事にしたようだった。
『榊原:結構。私からの質問は以上だ。次は君の方から私に質問したまえ。可能な限りは答えよう』
『加藤:ありがとうございます。では、遠慮なく』
加藤がそうコメントした後、画面にはすぐに次の文字列が流れた。
『加藤:まず最初に、探偵さんは今回の事件の犯人は誰だと考えていますか?』
こちらも榊原に負けず劣らず直球の質問だったが、榊原はのらりくらりとかわしていく。
『榊原:それがわかっていれば、素直に犯人を追及している。わからないからこそこうして情報収集をしているわけでね』
『加藤:本当ですか?』
『榊原:もちろん。そもそも、この事件の犯人は中途半端に追い詰めるとかえって危険な相手だ。下手に中途半端な推理をぶつけて追い詰めきれなかった場合、下手するとこちらを容赦なく殺しにかかってくる可能性さえある。現に今までの犯行において、この犯人は自身の標的を殺害するためなら、その過程で無関係な人間を殺害する事に一切躊躇していない。だからこそ、完全に相手を落とすだけの根拠と論理構築ができない限り、明確に犯人を指名する事はできないというのが私の判断だ』
『加藤:色々考えているんですね』
『榊原:それが探偵の仕事でね。まぁ極端な話、私が殺されるくらいならまだ許容できるが、無関係な人間が犠牲になる可能性があるとなれば話は別だ。だから、現段階ではこう判断せざるを得ないというわけでね』
『加藤:……わかりました。今はとりあえずその答えで納得しておきます』
そう書きながらも、文字からも不満そうな雰囲気が伝わってくるが、だからと言ってこれ以上この話題を続けても無駄だと判断したのか、陽一は別の質問に移った。
『加藤:では、今回起こった事件についての詳細を教えて頂く事は可能でしょうか? 具体的には、それぞれの事件の現場の状況などですが』
『榊原:構わないが、そんな事を聞く理由を聞かせてもらってもいいかね?』
『加藤:村の元住民として、今回の被害者たちの死に様がどんなものだったのかを知りたいだけですよ。生憎、詳しい事はテレビのニュースでも流れていないもので。実際に全ての現場を見ているはずの探偵さんなら、ちゃんとした説明ができると思うのですが、どうでしょうか?』
『榊原:……わかった。約束通り、君の希望に応えようじゃないか』
それからしばらくは、榊原による今回の事件の振り返りのような時間となった。堀川頼子、大津留真造、飯里稲美、安住梅奈、安住煕正、雪倉美園、竹橋美憂、釘木久光、間瀬健太郎、野城敦哉、雪倉統造、雪倉笹枝……今回の事件の被害者となった十二名の遺体発見状況について榊原が説明し、適宜陽一が質問する事に対し、榊原が丁寧に答えていくという形式である。だが、陽一の質問はかなり細かい所まで及び、この奇妙な画面越しの質疑応答は実に一時間以上も続く事となった。亜由美はその様子を岳人と一緒に榊原の後ろから見続けていたが、基本的に榊原が言及する事はこれまでの捜査ですでに明らかになっている事が多く、少なくとも新たな新情報はないように思われた。
『榊原:事件についての状況説明は、今の所はこれで全てだ。参考になったかね?』
やがて、この長い問答も終わりを告げたらしく、榊原がキーボードにそう打ち込んで話を締めくくる。それに対し、画面上には丁寧な挨拶が浮かび上がった。
『加藤:ありがとうございます。長くなりましたが、ここまでの問答で一通り聞きたい事は聞けたと思います。今の所、僕からの質問は以上です』
『榊原:そうかね。では、いったんこの場はお開きという事になるのかね?』
『加藤:それがいいと思います。今までの会話を受けてそれぞれ考えたい事もあるでしょうし、このまま世間話をするような間柄でもないでしょう』
『榊原:確かに、それはそうだ』
どうやら、長かったチャット通話もそろそろ終わりとなりそうである。
『加藤:では、これで失礼します。またお話しできたら嬉しいですが、そうもいかないでしょうね』
『榊原:どうかな。今回の事件では本当に予想外の事ばかり起こる。だから、もしかしたら君の言う「もしも」が起こるかもしれないし、そうなったとしても私は驚かないね』
『加藤:……その言葉、肝に銘じておきますよ。では、今度こそこれで。付き合ってもらって、ありがとうございました。岳人君にもよろしく伝えておいてください』
その言葉と同時に、画面には陽一がチャットルームから退出した旨のメッセージが表示された。それを確認すると、榊原はフウと息を吐いて椅子の背もたれにもたれかかったが、すぐに岳人の方へ顔を向けた。
「これで満足かね?」
「はい。ありがとうございました」
岳人はそう言って頭を下げる。
「まさか、因習の残る山村で起こった殺人事件の調査中にパソコンのチャットを使った情報収集をする事になるとは思わなかった。これも時代か……」
「榊原さん、言い方がおじさん臭いです」
「構わんよ。実際、私も若くないからね」
亜由美の突っ込みに榊原は軽く答えると、さらにこう岳人に話しかける。
「さて、君にはもう少し聞きたい事があるのだがね」
「何ですか?」
「まず、君は今回の事件が発生してから今日にいたるまで、一度でもこの家から出た事はあるかね? その点についてこの場でしっかり確認しておきたい」
その問いに対し、岳人は自嘲気味に言葉を返す。
「つまり、僕が事件に関わっていないかどうかの確認というわけですか?」
「そう捉えてもらって結構だ」
「じゃあこの際はっきり答えますけど、少なくともここ数週間、僕は一度もこの家を出ていません。と言うより、食事とトイレと入浴以外は、ずっとこの部屋に引きこもっています。もちろん、それを客観的に証明する事はできないので、あくまで自己申告ですけど」
「いや、信じるよ。言い方は悪いが、ずっと引きこもっている君が村の外に出たら、目撃情報が一切ないとは考えにくいからね」
榊原は真剣な表情でそう言葉を返す。岳人は何とも言えない表情をした。
「信じてもらえて光栄ですけど、ちょっと複雑な話ですね」
「申し訳ない。話は変わるが、お父さんから今回の事件についての話を聞いたりはしているかね?」
「それなりに、ですね。悪いとは思っていますけど、あんまり面と向かって会話するような関係じゃないので。それでも、事件が事件なので食事の時とかに少しくらいは聞いていますけど」
「具体的にどんな話だね?」
「ほとんどはネットニュースなんかでも流れている事と同じですけど、それ以外だと名崎さんと一緒に堀川さんを探している時に大津留巡査の死体を見つけた時の話とか、釘木さんに届けたうちのお酒に毒物が入れられた話とかですね」
岳人の答えを榊原は静かに聞いていたが、やがてゆっくりとした口調でこう告げた。
「今の話をまとめると、君は事件が起こってからずっとこの家から出ておらず、事件についてはネットニュースの記事に加えて岳政さんから聞いた若干の情報しか知らないという事だね」
「はい。でも、それが何か?」
「いや、少しね」
榊原はそこで話をはぐらかすと、さらに質問を続けた。
「また話は変わるが、今度は涼宮事件当時の君の動きについて聞いておきたい。当時、君は小学一年生だったそうだが」
「よくご存じですね」
「あの事件当日、君はどこで何を?」
「学校の校庭で遊んでいました。夏休みが始まったばかりだったので」
もう何度も聞かれた事なのか、岳人はスラスラと答える。
「一人でかね?」
「えぇ、まぁ。残念ながら、同世代の子はこの村にはいないので。僕以外にも別の場所で何人か遊んでいたようですけど、それが誰だったのかは覚えていません」
「その時、被害者の涼宮玲音さんを見たかね? 彼女も当日、学校の図書館で勉強していたようだが」
「彼女が図書館に入って行ったのは覚えていますけど、そこで何をしていたのかまでは知りません。最後に見たのは午後五時頃に学校を出ていく姿だけです」
「その後は?」
「六時くらいまで遊び続けていました。あの頃は『六時になったら家に帰るように』と指導されていたんです」
「涼宮玲音が帰ってから君が帰宅するまで、学校には誰も来なかった?」
「はい。ずっと校庭にいましたけど、誰も来なかったと思います」
少し間をあけて、榊原はこう尋ねた。
「今した質問を、五年ほど前に誰かに受けた記憶はないかね?」
「……あぁ、そういう事ですか。何かさっきからデジャブを感じていたんですけど、同じ質問をされた事があったんだ」
岳人は合点がいったと言わんばかりにそんな事を言った。
「という事は、やはり?」
「確かに、詳しい年数は忘れましたけど、何年か前に今と同じ質問をされた事があります」
「その相手は誰かね?」
「当時、この村に来ていた若い男の人です。名前は忘れましたけど『東京の学生』と言っていたのは覚えています。僕の事を聞いて、無理に話を聞きに来ました」
「その男、こいつじゃなかったかね?」
榊原はそう言うと、先日処刑された葛原光明の写真を示した。それを見て、岳人が反応を見せる。
「……多分、この人だったと思います。断言はできませんけど」
慎重な口調ではあったが、どうやら葛原という事で間違いなさそうだった。それを聞いて、榊原はこんなつぶやきを漏らしていた。
「やはり、葛原論文に書かれていた『T少年』は君の事だったか」
「T少年? 何の事ですか?」
「いや、こちらの話だ」
葛原論文の中で涼宮玲音が忘れ物を取りに学校に戻ったのではないかという仮説を検証した際に、その反証として登場した『T少年』なる人物。「T」というイニシャルと他に候補がいない事からある程度予測はついていたとはいえ、その正体がここではっきりとわかった瞬間だった。
「ありがとう。君のおかげで、有益な情報を得る事ができたよ」
そう言うと、榊原はおもむろにゆっくりとした仕草で座席から立ち上がった。
「もういいのですか?」
「あぁ。ひとまず、ここで入手できる情報は充分得られたと思う。とても有意義な時間だったよ」
「お役に立てたのなら光栄です」
そう言って頭を下げつつも、榊原の態度に納得できないのか、岳人はどこか消化不良気味の顔をしている。が、榊原はそんな彼の表情にあえて気付かぬ風にしながら、部屋を辞去する姿勢を見せた。
「では、ひとまずこの辺で。また聞きたい事があったら、ここに来ても構わないかね?」
「えぇ、それはもちろん。僕も事件について知りたい事はありますし」
「助かるよ。それじゃあ、これで」
その言葉を最後に、榊原は軽く一礼するとあっさりと岳人の部屋を後にした。亜由美も慌ててそれに続いたが、部屋を出る直前、どこか複雑そうな顔をしている岳人の姿が目に入り、それが物凄く印象的に見えたのだった。
榊原たちが手原家を出て少し歩いていると、向こうから青空雫が急いだ様子でこっちへ向かってくるのに遭遇した。地質学者である彼女は今朝起こった地震への対処でてんてこ舞いのようで、多少ではあるが疲れた表情を浮かべていた。
「あ、探偵さん! どうも」
「青空さんですか。やっぱり、大変そうですね」
「えぇ。まさか滞在中にこんな規模の地震が起こるとは想定外でした。今、駿河大学の研究室とも連絡を取り合って、この辺りの地層の動きの再検討をしているところなんです。今後の予想を立てて、自治体に対する報告を行わなければならなくて」
そう言う青空の手にはデータや図表が書かれていると思しき何枚もの書類の束が抱えられており、かなり緊迫した様子なのは間違いなさそうだった。
「幸い、観測機器や通信網は生きていますので、データ収集や研究所との情報共有はスムーズに行われています。ただ、ここに来るまでの山道で何カ所か土砂崩れが起きているらしくて、現状、現場での調査ができるのは私だけみたいなんです」
「それは……厳しい状況ですね」
榊原としても手助けしたいところではあるが、門外漢の自分が手伝ったところでかえって足手まといになるだけであろう。そしてそれは先日彼女自身が言ったように、雫が榊原の調査を手助けできないのと同じである。
「ここはそれぞれの専門分野同士、互いに全力を尽くす事にしましょう。それが各々の問題を解決する一番の近道になるはずですから」
「同感ですね」
雫の言葉に榊原も頷く。そして互いの仕事に戻ろうと歩き出した……その時だった。
「あっ……」
亜由美が声を上げると同時に、大地が再び大きく揺れ始めた。今朝方の揺れに比べるとまだ小さいとはいえ、それなりの大きさの地震である。
「余震か!」
「伏せてください!」
雫が鋭く叫び、榊原と亜由美はその指示に従う。周囲の村人たちも動揺した声を上げていたが、幸いこの揺れは十秒ほどで終わった。
「収まったか……」
榊原は立ち上がりながらそう呟く。
「震度四か五弱くらいですね。多分、この後しばらくはこのくらいの余震が続くと思います」
「それは……あまりうれしくない情報ですね」
専門家である雫のコメントに、榊原は苦い表情を浮かべるしかなかった。
「実際、この辺は内陸ですけど結構大規模な断層があって、大きな地震も何度か起こったりしているんです。内ケ島氏の滅亡を引き起こした安土桃山時代の天正大地震以外だと、少し離れていますけど濃尾地震を起こした根尾谷断層とかが有名ですね。あとは、戦後直後に福井を壊滅させた福井地震とか……」
と、雫が地震の蘊蓄を語っていたその時だった。不意に周囲の村人たちの動きが慌ただしくなり、何事かと榊原たちがそちらに注意を向けると、こんな声が榊原たちの耳に飛び込んで来た。
「今の余震で、左右田村長の御屋敷が崩れたらしい!」
「何人か怪我してるそうだ!」
「村長は無事なのか?」
「わからない!」
その言葉に榊原と亜由美は顔を見合わせ、雫に「失礼」と一声かけてから、左右田家の屋敷の方へ走り始めた。屋敷の周囲はすでに多くの村人たちが囲んでおり、見てみると確かに屋敷の一角が崩落しているような状況だった。
「あっ、榊原さん!」
その声に振り返ると、後ろから私服に着替えた常音が真っ青な顔で駆け寄って来た。どうやら彼女は無事だったらしい。
「無事でしたか」
「私は神社から帰っていたところで……でも、帰ってみたら……」
「鳴ちゃんは?」
「神主さんがお家まで送ってくれています」
ひとまず、そちらは問題なさそうである。問題はこっちだった。
「ご家族は……左右田元村長は無事なのですか?」
榊原の問いに、常音は顔を蒼ざめさせながらもしっかり答えた。
「村の人の話だと母はたまたま支所にいて無事だそうですが、父は屋敷の崩落に巻き込まれて怪我をしたそうです。命に別状はないそうですが、すでに診療所へ運ばれたと言っていました」
「そうですか……」
とにかくこの状況では、どさくさに紛れて犯人が何をしてくるかわからない。榊原たちは左右田の安否を確認するため、常音と一緒にそのまま蝉鳴診療所へ向かった。
だが、診療所に到着してみると、応対した出島医師が無情な言葉を告げた。
「すみませんが、面会謝絶とさせて頂きます」
その言葉に驚いたのは常音だった。部外者の榊原たちはともかく、身内の常音まで面会できないというのは尋常ではない。
「父は無事なんですか!? それだけでも教えてください!」
「命に別状はありません。ただ、怪我の程度が思わしくなく、本人も精神的にショックを受けているので、面会はご遠慮頂いています。これは医師としての判断です」
「そんな……」
「とにかく、重ねて申し上げますが命に別状はありません。しかし、今は災害中でもあり、場合によってはドクターヘリで岐阜市内の設備の整った病院に搬送する必要になる可能性もあります。もちろん、私も手はつくしますが……何かあれば連絡しますので、とにかく今はお引き取りください」
「娘の私も会えないんですか!」
「申し訳ありません。例え巫女様であっても、今回は医師である私の判断を優先させて頂きます」
取り付く島もない。常音はなおも何か言いたそうだったが、これ以上言っても無駄と判断したのか、そのまま引き下がった。一方、榊原は最後にこう確認する。
「出島先生、面会謝絶は先生の判断という話……間違いありませんか?」
その問いに対し、出島は一瞬目を逸らすような仕草を見せたが、すぐに黙って頷いた。
「……わかりました。では、これで」
榊原はそう言っておとなしく常音の後に続く。そして診療所の敷地から出たところで、榊原は常音にこう尋ねた。
「これからどうするつもりですか? あの様子では屋敷には戻れそうになさそうですが」
榊原のそんな問いに、常音は静かに答える。
「この際ですから、母と一緒に名崎さんの家にお邪魔しようかと思います」
「名崎さんの家、ですか」
「えぇ。少なくともそうすれば、当面の間、私の立場で鳴ちゃんを守る事ができますから。名崎さんも反対はしないと思います」
「……なるほど。悪くありませんね」
榊原も反対はしなかった。それを確認して常音はホッとしたような表情をすると、少し行った先で榊原たちと別れ、名崎家のある方向へ歩いて行った。それを見送ると、榊原は亜由美の方を振り返って告げる。
「ひとまず一度捜査本部に戻るとしようか。ここまでの情報共有をしておきたい」
それから十数分後、蝉鳴学校の捜査本部に戻ると、先程の余震の件もあって、捜査本部は慌ただしさを増しつつあった。中に入ると、榊原に気付いた柊が声をかけてくる。
「あぁ、どうも。儀式は無事に終わりましたか?」
「えぇ。ひとまず巫女の継承は問題なく終わりましたが、問題はこれで事件が終わるかどうか、ですね」
「まぁ、楽観はできないでしょう。これはそんな甘い事件じゃない」
柊も榊原と同じく、これで事件が終わるとは微塵も思っていないようだった。ひとまず、先程の捜査会議で話し合われた情報が榊原との間で共有される。同時に、先程の余震で左右田元村長が負傷して診療所に搬送された件も柊に伝えられ、柊は厳しい表情を浮かべた。
「怪我の具合はどうなんですか?」
「命に別状はないそうですが、どういうわけか家族も含めて面会謝絶になっています。当面は診療所で手を尽くすそうですが、どうしようもなければドクターヘリを要請する事も検討すると出島医師は言っていました」
「……まさかとは思いますが、この状況で自分だけ村を脱出する腹積もりだという可能性はありませんか?」
何しろ、左右田元村長はこの村の事実上の最高権力者である。村の有力者が次々殺害され、さらに地震まで重なる現状に、家族を見捨てて自分だけ逃げにかかった可能性は否定できなかった。
「今の状況では、残念ながら詳細はわかりません。ただ、ドクターヘリを要請するとなれば、着陸場所がこの学校の校庭しかない関係上、その情報はすぐにこの捜査本部に伝わるはずです。向こうもそれはわかっていると思いますが」
「ひとまず、様子見ですかね。とはいえ、面会謝絶となると、左右田元村長に対する聴取は難しくなったようですが」
あるいは村を脱出するのではなく、聴取から逃れる事が目的なのかもしれない。もちろん、本当に怪我の程度が思わしくないだけという可能性も充分考えられるのであるが。
「今日一日の間に色々と事態は急変していますが、榊原さんはこれからどうされるおつもりですか?」
柊からの問いかけに対し、榊原は少し考え込むような仕草を見せると、あくまで慎重な口調で告げた。
「もうあといくつか訪ねたい場所があります。まだバラバラではありますが、事態がこれだけ急激に動いている分、事件を解明するための情報自体もかなり集まっているはず。あと少し……あと少し、何か決定的な情報があれば、真犯人を断定するための論理を組み立てる事はできるはずなんです。問題は、次の事件が起こるまでにそれが間に合うかというこの一点だけですが」
珍しく唇を噛み締めながらそんな事を言う榊原に、柊も悔しそうにこう応じた。
「恥ずかしながら、我々としても事がここに至れば榊原さんに一縷の望みを託すしかなくなりつつあります。とにかく、これ以上事件を引き延ばし続ける事は許されません。それだけは間違いない事実であり、避ける事のできない『現実』です」
「えぇ、それは重々承知しています」
そして、榊原は決然とした風に言う。
「これ以上、私の目の前で犠牲を出すのを許すわけにはいきません。絶対に、です」
……それから数時間後、もうすぐ夕方になろうとする中、榊原と亜由美は再び蝉鳴神社を訪れていた。先刻巫女継承の儀式があったばかりの境内だが目立った人の姿はなく、いたのは社務所の辺りで先程の余震の片付けをしている神主の海彦ただ一人であった。
「おや、探偵さん。どうしてここに?」
「調べたい事がありましてね。どうやら、さっきの余震も大丈夫だったようですね」
「えぇ。おかげさまで何とか。こんな余震がしばらく続くかと思うとゾッとしますが」
「それについては同感です。幸い、村の中で地震による死者は出ていないようですが、岐阜方面の道が崖崩れでふさがれたらしく、そちらを優先した復旧作業が行われているとか」
「……皮肉なものです。この村では地震では誰も死なない代わりに、人間の手によって十人以上の人間が死んでしまう。自然災害よりも人間の悪意の方が怖いというのはもしかしたら世の真理なのかもしれませんが、正直神職としては複雑な気分ですよ。災害に対するお祓いはできても、現実的な殺人鬼の凶行には我々のお祓いなど何の役にも立ちませんからね」
「それは、なかなか斬新な見解ですね」
「こうも事件が続くと、神職の人間だって嫌でも現実的になります。もしかしたら、戦時中の父も同じ気持ちだったのかもしれませんがね」
海彦は一瞬、その視線を社前の石畳の一角……ちょうど地下焼却炉へ続く地下階段の入口がある辺り(もちろん今は入口はふさがれているが)へ向けたが、やがて頭を振ると、改めて自分から本題に入った。
「それで、ここで調べたい事というのは?」
「それなんですがね。鳴ちゃんの話では、社務所の南側に書庫があるとの事ですが、それは本当ですか?」
「えぇ、あります。神社関連の古い記録とか、父や私が個人的に集めていた古書なんかを保管しています」
「申し訳ありませんが、その書庫を見せて頂けませんか?」
思わぬ頼みに、海彦は困惑した表情を見せる。
「それは……まぁ、私は構いませんが、何を調べるおつもりですか?」
「いくつか気になる記録がありますので、事件解決のためにその記録を確認したいのです。お願いできますか?」
「……わかりました。ここまで来たら、何でも自由に調べてください」
海彦の案内で、三人は社務所南にある扉へ向かう。そして海彦は扉の横にいくつかある植木鉢の下から鍵を取り出すと、その鍵で扉の鍵を開けた。
「鳴ちゃんから聞いてはいましたが、いささか不用心ですね」
「そうかもしれませんが、村の人が閲覧する事もあるのでこうするのが一番いいんですよ。それに古い本や記録ばかりですが、だからと言って金銭的に価値があるような稀覯本はありませんから、勝手に入られても盗む物がありません」
「そんなものですか」
「さぁ、どうぞ」
扉を開けると、地震のせいもあってかいくばくか本が床に散らばっていたが、思った以上に整理されている様子である。さすがに古い表紙の本が多く、どこかの古書店を思わせる古い紙の臭いが室内に漂っていた。部屋の中央には閲覧用の机と椅子があり、部屋の奥の方には社務所内へ通じるドア。そのドアの横にサイドテーブルがあり、そこには古めかしい固定電話が備え付けられていた。聞けば、何かあった時に社務所にいる海彦に連絡するための物だという。試しに奥のドアノブをひねってみたが、鍵がかかっているのか開く事はなかった。
「このドアの鍵は社務所側からだけ開ける事ができます。はっきり言えば、私が書庫に入る時しか使わないドアです。さすがに勝手に社務所内に入られるのは困りますのでね」
「まぁ、それはそうでしょうね」
「じゃあ、私は片付けの続きをしますので、ごゆっくり。終わったら一応声をかけてください」
海彦はそう言って頭を下げ、そのまま部屋を出て行った。後には榊原と亜由美だけが残される。
「それで、何を調べるつもりですか?」
「学校の図書室や支所にはなかったから、ここにあると思うんだが……」
そんな事を呟きながら榊原は一つずつ本棚を見やっていたが、やがてその目がある一ヶ所で止まった。
「あった。これだな」
そこには『寄合議事録』と書かれた何冊かのファイルが置かれていた。日付ごとにまとめられていて、一番古いもので戦後直後、新しいものだとここ数年の日付が記されていた。
「これって……」
「この村で行われてきた村の寄合の議事録だ。ないわけがないとは思っていたが、やはりちゃんとあったようだ」
そう言いながら榊原が手に取ったのは、表紙に「一九九六年~二〇〇〇年」と書かれたファイルだった。ちょうど、先代巫女・美作清香の事故から涼宮事件が起こった前後……つまり、前回の巫女選びが行われた頃の記録である。
「どれどれ……」
榊原はファイルを部屋の中央の机に置くと、早速中を確認しにかかる。最初に開いたのは、美作清香の事故から数ヶ月後……事故で重体だった清香が退院した直後に行われた会合の記録だった。記録の記述そのものは簡単に要約されたもので、具体的には以下のようなものである。
『第一八七回寄合
◎開催日:一九九七年十二月十六日
◎場所 :村役場会議室
◎参加者:油山山彦、左右田昭吉、美作清香、美作頼元、沖本吉秀、堀川盛親、安住煕正、雪倉統造……(以下、省略)
◎議題 :現巫女・美作清香の状況確認、及び次期巫女についての議論
◎概要 :事故後の現巫女の容体について本人同席の上で沖本医師から直接説明。外傷性の脳障害及び下半身不随の重傷で、将来的に回復するかどうか不明である旨の説明あり。今後の巫女の職務続行が怪しい事から参加者の一部(堀川氏、安住氏、雪倉氏ら)から巫女交代の要望意見も出るが、巫女本人の後継指名のない状態での巫女交代は前例がない事から想定を超える混乱が発生する危険がある事と、今後回復する可能性がゼロではない事から、左右田村長らの意見により、当面の間、現巫女の様子を見る事を決定』
さらに榊原は念のため、その二年後の一九九九年七月に発生した涼宮事件前後の寄合の記録も見てみる事にした。事件前後の寄合は一九九九年の四月と五月、そして九月に行われており、その具体的な内容は以下のようなものである。
『第二〇九回寄合
◎開催日:一九九九年四月二十五日
◎場所 :蝉鳴神社集会場
◎参加者:油山山彦、左右田昭吉、美作清香、美作頼元、堀川盛親、安住煕正、雪倉統造……(以下、省略)
◎議題 :美作清香の状況確認及び次期巫女への継承の決定、巫女候補者の選定、
◎概要 :美作頼元氏により現巫女(美作清香嬢)の容体を説明。二年前から症状の改善が確認できないため、これ以上の巫女続行は不可能と判断。脳障害により本人による次期巫女指名が不可能であるため、異例ではあるが規定年齢到達前の巫女解任、及び寄合による新たな巫女選定を例外的に行う事を決定。様々な事情を考慮した上で、次期巫女候補として涼宮玲音、左右田常音、堀川頼子、安住梅奈、雪倉美園の五名を選出し、この中から次期巫女候補を選ぶ事を決定する』
『第二一〇回寄合
◎開催日:一九九九年五月二十日
◎場所 :蝉鳴神社集会場
◎参加者:油山山彦、左右田昭吉、美作清香、美作頼元、堀川盛親、安住煕正、雪倉統造……(以下、省略)
◎議題 :次期巫女の正式決定、巫女継承の儀の打ち合わせ、蝉鳴神社補修工事についての現状報告
◎概要 :前会合で選出された五人の候補者の中から次期巫女を正式に決定。協議の結果、多少の反対はあったものの、最終的に涼宮玲音を次期巫女にする事が決定された。これに伴い、近日中に美作清香の巫女退任、及び涼宮玲音の新巫女就任の儀を実施するにあたっての打ち合わせを行う事が決定される。また、蝉鳴神社で行われている補修工事についての現状報告も行われる』
『第二一一回寄合
◎開催日:一九九九年九月二十八日
◎場所 :村役場会議室
◎参加者:油山海彦、左右田昭吉、美作清香、美作頼元、堀川盛親、安住煕正、雪倉統造、涼宮清治……(以下、省略)
◎議題 :油山山彦逝去及び油山海彦の神主就任の報告、涼宮事件への対応協議、涼宮玲音逝去に伴う次期巫女の正式決定、巫女継承の儀の打ち合わせ
◎概要 :本会合は当初は八月上旬に実施予定であったが、七月末の涼宮玲音殺害事件(以下、涼宮事件と呼称)発生に伴う混乱により今日まで延期。会議冒頭、油山海彦氏より山彦氏の死去、及びそれに伴う蝉鳴神社神主継承が報告され、寄合が全会一致によりこれを承認。その後、涼宮氏を交えた上で、涼宮事件や逮捕された加藤柳太郎氏、及び残された加藤家の処遇ついての対応協議。また、保留となっていた次期巫女の選定について協議が行われるが、最終的に残る候補者四人のうち、左右田常音を次期巫女とする事が全会一致により決定。近日中に改めて美作清香の巫女退任、及び左右田常音の新巫女就任の儀を実施するにあたっての打ち合わせを行う事が決定される』
「そういう事か……」
榊原は記録を一通り読み終えてファイルを閉じると、小さく息を吐いて何かを納得したように呟いた。それからファイルを元の棚に戻すと、さらに何かを探し始める。
「今度は何を探しているんですか?」
「さっき鳴ちゃんが読んだと言っていた、例の地下焼却炉への入口を開く数字が書かれていたという文献だ。探すのを手伝ってくれるかね?」
「は、はい!」
最初は長期戦を覚悟していた榊原と亜由美だったが、幸運にも問題の文献は割と早い段階で見つける事ができた。どうやらそれは、戦時中に先代神主の油山山彦氏が書いた私的な日記のようである。
「これか」
榊原は早速、中の詳細を確認していく。詳しい内容はここでは割愛するが、ざっと見た限り何か重要事項が書かれているというわけでもなく、日常的な記録が淡々と書かれ続けているだけであった。当然、神社地下の遺体焼却炉についての記述なども一切ない。だが、そんな日記を読み進めていると、唐突に問題の数字だけが走り書きされているページに行き当たる事になった。
「本当にメモ代わりに書いたみたいに見えますね」
「あぁ。普通ならこの数字だけ見ても何の数字かはわからないだろうし、あれだけの桁数だから私的な日記にこういうメモを残しておく事に不思議はないとは思うがね」
「他に何か気になる事は書いてありますか?」
「……戦時中のこの村の状況についてかなり細かく書いてある。歴史学者からすればかなり有益な史料になるかもしれないが、今回の事件に関係ありそうな記述はさすがになさそうだ」
そう言いつつもさらに先を読み進めていた榊原だったが、不意にページをめくる指が止まった。
「おっと、これは……戦時中に起こった例の『蝉鳴』についての記述だな」
「確か榊原さんの推理だと、この『蝉鳴』は例の死体焼却炉ができて、そこで実際に捕虜の死体が燃やされた事で起こったんですよね?」
「あぁ。現状ではその可能性が高いと考えている。もしかしたら……山彦さん自身、詳しい原理はわかっていなくても、焼却炉が原因なのかもしれないという事くらいはぼんやりと感じていたのかもしれないがね」
実際、書かれている記述はかなり興味深いものだったが、それ以上、今回の事件に関係ありそうな内容は書かれていないようで、しばらく読んでから榊原は大きく息を吐いて日記を閉じた。
「どうします? まだ何か他の文献を調べますか?」
「いや。ひとまずここで知りたかった情報は充分に得られたと思う」
「じゃあ、ここでの調査は終わりですか?」
「いや、もう一度、油山神主に聞きたい事がある。行こうか」
そう言うと榊原は古書を棚に戻し、そのまま書庫の外へと向かったのだった……。
榊原と亜由美が書庫を出て海彦を探すと、海彦はちょうど社務所の前で掃き掃除をしているところだった。まだそれほど時間が経っていないのに書庫から出てきた榊原に気付き、海彦は戸惑ったような表情を向ける。
「あれ、もういいんですか? 随分早いですが」
「えぇ。知りたい事はわかりましたので。それで、それを踏まえた上で少しあなたに聞きたい事がありましてね。事件の解決に直結するかもしれない、重要な話です」
「はぁ……まぁ、ここまできたら何でも聞いてくださいとしか言えませんが……」
海彦はそう言って榊原に先を促した。一体ここに至って榊原が何を聞くのかと亜由美は少し興味深げに聞いていたが、続く言葉を聞いて唖然とする事になった。
「時間もないので単刀直入に聞きます。海彦さん、この神社に『正面の石段以外の進入経路』はありませんか?」
亜由美はどう反応したらいいのかわからなくなった。この神社にそんなものがない事は、すでに涼宮事件の捜査の時に証明されているはずではないか。だからこそ、石段から神社に誰が入っていったのかが争点となった『扇島証言』が問題になったのだろうし、そもそも例の『葛原論文』の中に、「確かに事件当時、蝉鳴神社には正面の石段以外に出入りできる経路はなかった」というような事が書かれていたはずだ。
それに、人の出入りが問題となった涼宮事件ならいざ知らず、今回の事件では事件当時の神社への人の出入りは特に問題となっていない。確かに第一の事件は神社の境内で行われたが、目撃者がいなかった事もあって被害者も犯人もいつ神社に出入りしたのかがわかっておらず、すなわち誰がどこから入ったかわかった所で事件解決のためには何のヒントにもならないはずなのだ。
一体榊原が何を考えているのかわからず、亜由美は呆気にとられたまま海彦の反応を待っていたが、しかし、その海彦の反応も亜由美の予想を大きく超えるものだった。
「石段以外の経路ですか? まぁ……ない事はないですが……」
「えっ?」
海彦の反応に、亜由美は思わず声を出した。その声に、逆に海彦の方がびっくりしたようである。
「な、何ですか? 何か変な事でも言いましたか?」
「正面の石段以外にこの神社に出入りできる経路があるんですか?」
「えぇ、まぁ。ただ、今は使っていませんので、誰も通れないようになっていますが」
一方、榊原は訳知り顔で頷いただけだった。どうやら、この状況をすでに予測できていたらしい。
「見せてもらう事はできますか?」
「はぁ、構いませんが」
そう言うと、海彦は二人を社務所の裏手……境内の西端へと案内した。社のある境内の中心からは社務所の建物が邪魔になって見えない場所であるが、そこには確かに、うっそうとした境内西側の森の中へと続く道の入口があった。ただし、その入口は金網製の高さ二メートル程度の扉が封鎖している。扉には南京錠がかかっており、道の両側は深く落ち込んでいるため、まともなやり方では通れそうにはなかった。道自体も舗装されてはいるようだが、何年も使っていないせいか小石や落ち葉、小枝などがあちこちに転がっており、いかにも『廃道』という趣を見せつけていた。
「こんな所に……」
「境内で修理工事なりをする際の工事用車両を搬入するための裏経路です。さすがに石段からでは車両の搬入はできないので、こういうものが必要になるんです」
確かに言われてみれば、神社の境内に車両を入れようという話になった場合、この手の道が必要になるのは確実である。しかし、亜由美には納得できない話でもあった。
「で、でも……確か涼宮事件の時には、この神社へ侵入するには石段を使うしかないって事が問題になったはずじゃ……」
だが、その疑問に対し、海彦は訳もなくその理由を答えてくれた。
「あぁ、それは間違いありませんよ。涼宮さんの事件が起こった一九九九年当時、この道は事件の一ヶ月前の梅雨の時期に降った大雨のせいで起こった土砂崩れで寸断されて、本当に通れなくなっていたんですから」
「ど、土砂崩れですか」
思いもよらない話だった。
「えぇ。山麓で発生した土砂崩れがこの道を完全にふさいでしまいましてね。通る事ができなくなってしまったんです。まぁ、そのままだと二次災害の危険があったし、当時境内で作業していた工事車両が撤去できない状態が続いていたので、涼宮さんの事件から少しして流入した土砂をすべて撤去して一応通れるようにはしたんですがね。その後も土砂崩れの危険があって通るのは危険という話になって、今はこうして誰も通れないように封鎖しているというわけです」
そう言われてみると、確かに『葛原論文』の記述も「『事件当時』、蝉鳴神社には正面の石段以外に出入りできる経路はなかった」という幅がある書き方だったはずで、これを逆に言えば「事件当時は石段しか神社に出入りできるルートがなかったとしても、それが神社に通じる他ルートがないという根拠にはならない」という理屈にも通じるのである。
「この道、どこへ通じているんですか?」
榊原の問いに、海彦はあっさりと答える。
「このまま山中を西へ進んで、村の北西の道から富山の方へ通じる山道に出るようになっています」
「北西の山道……あれか」
榊原の頭には、白虎橋をそのまま直進した先の突き当りにあったT字路の事が思い出されていた。あのT字路を右に進むとこの神社の入口、左へ進むとそのまま山中に入って富山県側に出る山道が続いていたはずだ。
「念のため、この道を確認しても構いませんか?」
「それは構いませんが……なぜですか? 今回の事件で、犯人がどこからこの神社に侵入したかなんて関係ないと思うんですが……」
そう、それはまさに亜由美も感じていた事だった。
「いえ、念のためです」
「はぁ……じゃあ、ちょっとお待ちください。南京錠の鍵を持ってくるので」
海彦はそう言って一度社務所へ戻っていった。後には榊原と亜由美が残される。
「あの、榊原さん。そもそも、どうしてこんな裏道があるってわかったんですか? さっきも言いましたけど、葛原論文や実際の裁判資料にも、この裏道の存在は書かれていなかったはずです」
正確に言えば、道自体はあったが土砂崩れのせいで通行そのものができなかったので「あったけど書かれなかった」と言うのが正しいのだろうが、この際そんな事はどちらでもいい。問題は、なぜ報告書にも書かれていなかったこの道の存在に榊原が気付いたのかという事だ。
「まぁ、色々考えた上で、そういう道がないとおかしいと考えたまでだ」
「色々って……」
「一つ確かなのは、これで事件の構図が大きく変わるかもしれないという事でね」
榊原の言葉の意味がわからず、亜由美は目を白黒させる。と、そこへ海彦が戻ってきた。
「すみません、もうかなり開けていなかったので鍵をどこにやったのかわからなくなって……」
「そんなに開けていなかったんですか」
「えぇ。土砂崩れを撤去して封鎖した後は一度も」
確かに、目の前の金網製の扉もかなり古そうである。
「ちなみに、富山へ続く山道とこの裏道の接続部分はどうなっているんですか?」
「そっちもこちらと同じように金網式の扉があって、南京錠で封鎖されています」
「ここからの距離は?」
「概ね五百メートルくらいだと思いますが」
そう言いながら、南京錠に鍵を差し込もうとして……海彦は眉をひそめた。
「あれ?」
「どうしました?」
「鍵が……合わない」
それを聞いて榊原の顔が厳しいものになった。海彦は戸惑いながらも何度も鍵を差し込もうとするが、どうやっても鍵穴に合わない。
「おかしいな、この鍵のはずなんだが……鍵を間違えたのかな?」
「ちょっと失礼」
そう言って榊原は南京錠を確認する。そして、その表情がさらに険しくなる。
「確認します。この南京錠、土砂崩れを撤去して以降、まったく開けた事がないんですよね?」
「そうですが……」
「その割には……この南京錠、新しい気がしますね」
「え?」
海彦が慌てて確認する。確かに、話が正しいなら数年間雨ざらしになっていたはずの南京錠が、どういうわけか錆一つない新品同様の状態だった。
「これは……」
「南京錠なら、セットになっている鍵と本体の両方にシリアルナンバーが刻まれているはずです」
そう言いながら榊原がナンバーを確認するが、やがて小さく首を振った。
「一致していませんね。これ……最初にセットしたものとは別の南京錠です」
「そんな……」
「誰かが南京錠を入れ替えたようですね」
そう言うと、榊原はさらにこう続けた。
「念のため、山道側の接続部の扉も確認してください。私の予想が正しいなら……そっちの南京錠も別のものになっている可能性があります」
証拠になるかもしれないので南京錠を取り外すわけにもいかず、やむなく榊原と海彦は金網式の扉を無理やりよじ登って乗り越えて、問題の裏道に入った。長年人が踏み入っていない山道は入口からチラリと見えたのと同じく小石、小枝、落ち葉といったものが所々に散乱しているが、幸い新たな土砂崩れなどはなく、充分に通れる状態ではあった。
やがてしばらくすると山道と接続する場所に到着し、神社側と同じ金網製の扉が見えた。こちらの南京錠は山道側につけられていたが、金網の扉にはそれなりの幅の隙間があり、そこから何とか鍵を差し込む事ができる。が、こちらも本来の鍵と南京錠が一致せず、シリアルナンバーも全くの別物だった。
「でも一体どうして……」
「南京錠さえなければ、ちゃちな扉ですから簡単にここを通る事ができます。見たところ、それ以外の警備装置などもないようですし」
「まぁ……別に盗まれて困るようなものはありませんし。可能性があるなら文化財指定されている例の槍ですけど、あれは今、証拠品として岐阜県警か岐阜地検の証拠保管庫にあるはずですから。……でも、南京錠を入れ替えるなんて」
「発覚を遅らせるためでしょうね。聞いた話、滅多に開けるものではないようですから、下手すれば数年単位で誤魔化す事ができます。その頃にばれても、その意図に気付く人間はいない」
「でも、どうやって……南京錠なんてそう簡単には……」
「どうせ入れ替えるんですから、チェーンカッターか何かを使って完全に破壊してしまえば取り外しは可能でしょう。裏側からでも、扉に隙間がありますからそこからチェーンカッターを差し込んで無理やり破壊する事くらいはできるはずです。あなた一人しかいない神社です。あなたがいない時を狙えば、犯行は充分に可能でしょう」
「だけど、誰が、何のために!」
「さぁ……誰でしょうね」
榊原は意味深にそう言って、鋭い視線を南京錠へ向ける。そして、そのまま再び今来た道を引き返し始めた。
「あの……」
「帰りましょう。その南京錠は後で警察に検査してもらう必要がありますが」
……そして、数十分後、榊原と海彦は再び神社の境内に戻ってきた。その頃には、亜由美から連絡を受けた柊達も境内に来ていて、問題の南京錠の採取が行われていた。
「あぁ、どうも」
「驚きましたよ……まさか、こんな証拠が残っていたとは」
証拠の南京錠を破壊するわけにはいかなかったので、やむなく南京錠が取り付けられていた部分ごと取り外す形で押収作業が行われる。同時に扉が開かれ、榊原たちと入れ替わりに鑑識たちが裏道へと入っていく。山道側の南京錠の押収にも、すぐに捜査員が向かうそうだ。
「どう思います?」
「南京錠の新しさから見て、入れ替えられたのは最近になっての事でしょう。今回の事件に関係あると考えるのが妥当です」
「つまり、第一の事件において犯人は正面の石段ではなくこの裏道を使って侵入したという事でしょうか。何しろ正面には少数とはいえ扇島老人を筆頭とする人家があるわけですから、目撃されるのを嫌ったと考えれば説明がつきます。あるいは……これをやったのは殺された堀川頼子の方だった可能性もありますね」
柊の思わぬ推理に亜由美は驚いた顔をする。
「どういう事ですか?」
「堀川頼子が神社の境内に入る姿は確認されていませんからね。その可能性もあるという事です。もっとも、何のためなのかまではわかりかねますが」
さすがに柊も県警刑事部を率いるだけあって頭の回転が速い。だが、榊原はそれに対して肯定も否定もせず、こんな事を言った。
「柊警部、いくつか確認してほしい事があります。それさえわかればもう充分です」
「そう仰るという事は……何がわかったんですか?」
「えぇ」
そして榊原は告げる。
「ようやく、全てがわかりました」
その言葉に、その場にいた捜査員たちや亜由美、海彦らの動きが止まった。そんな中、柊だけは慎重な言葉を榊原に返す。
「それは……本当ですか?」
「えぇ。正直、遅すぎたかもしれませんが……やっと、尻尾を掴む事ができました」
控えめな口調で言ってはいるが、それを榊原が言っているという意味合いはかなり重い。榊原という男がよほどの事がない限りこんな事を言わないのは、さすがの柊もわかりつつあった。
「全てというのは?」
「文字通り全てです。今回の事件や涼宮事件……長年この村で起こり続けていた全てに、自分なりの結論が出せたと思います。もちろん……今回の事件の犯人も」
「一体……誰なんですか! 犯人は一体……」
「詳しい話は追々説明します。今は急ぎましょう。これ以上、犯人に好き放題をさせるわけにはいきません」
榊原は、神社の石段の方へ向かって歩きながら、静かに何かを決意したかのような表情を浮かべて宣言した。
「さて……ここからが、探偵としての反撃だ。長い間、多くの人々の人生を狂わせ、その命を奪い続けてきたこの事件。今度こそ終わらせるとしよう」
そして、最後にこう付け加える。
「探偵の誇りにかけて、必ずだ」




