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蝉鳴村殺人事件  作者: 奥田光治
プロローグ
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プロローグB 死刑執行

 二〇〇七年二月二十七日火曜日午前九時。東京都葛飾区小菅、東京拘置所死刑囚独房。

 いつものように、お迎えの時間が来ようとしていた。


 よくある勘違いだが、日本の場合、死刑囚が収監されているのは刑務所ではなく拘置所である。両者とも牢に入れられる点では同じだが、拘置所は起訴されてから裁判で刑が確定するまで、すなわち刑が未執行の被告人が収監される場所であるのに対し、刑務所は刑が確定した者が刑を執行される場所である。つまり、目的が違うのである。

 ところが死刑囚の場合、刑の執行とは「死ぬ事」であり、それまでは「刑が未執行」という事になる。したがって刑が執行されていない死刑囚を刑の執行場所である刑務所に入れるわけにはいかず、刑が未執行の人間が入れられる拘置所に刑が執行される日……すなわち死ぬその日まで収監される事となる。なので、日本において刑務所に死刑場は基本的に存在しない。死刑場は原則として拘置所に設置されており、管内に拘置所のない北海道地区と東北地区に関して札幌刑務所と仙台刑務所に死刑場が設置されているのが数少ない例外である(その札幌と仙台についても、執行までの間は刑務所に隣接する札幌拘置支所と仙台拘置支所に収監され、執行の際に各刑務所の死刑場に移動する形式が採用されている)。

 そして、死刑の執行には法務大臣による書類へのサインが必須となる。法律上、本来、法務大臣は刑の確定から半年以内にこの書類にサインをしなければならない事になっている。が、実際は事実上の殺人指令書となるこの書類に好き好んでサインをする法務大臣はまれである。執行すれば死刑反対を叫ぶ一部の世論から批判を浴びるのが必然であり、下手をすれば自身の政治家生命にもかかわってくるからだ。職務上どうしてもやらざるを得なくなった場合でもそうした批判のダメージが少なくなる内閣の総辞職や総選挙の直前などに一気にやってしまうのが普通であり、従って死刑囚の方も新聞などでその時々の内閣の動向や総選挙の実施時期などを気にしている事が多いと言われている。

 しかし、一度サインがなされると死刑の執行は速やかに行われる。執行日は執行当日の朝まで死刑囚本人に伝えられず、平日の朝九時頃に死刑囚独房に刑務官たちがやってくる事が「誰かが死刑執行される」という合図になる(なお、土日祝日及び年末年始に死刑は執行されない)。このため、死刑囚にとっては平日の朝九時頃が自分の命運の分かれ道となる時間帯であり、この時間にやってくる刑務官の事を「お迎え」と呼んで恐れている。そしていざ「お迎え」が来ると、死刑囚たちは刑務官たちが自身の独房の前を通り過ぎるのを必死に祈る事になり、自分の独房の前で足音が止まった瞬間、その独房の主の死が確定するのである。


 この日、久方ぶりとなる「お迎え」の足音が、東京拘置所死刑囚独房に響き渡った。


 その独房の主は、近づいてくる足音を、部屋の中央で正座しながら静かに目を閉じて精神統一しながら聞いていた。ここに収監されてからほぼ毎日、この男は必ずこの姿で「お迎え」の時間帯を迎えるようにしていた。今までに、周囲の独房から数人が死刑台の露と消えていった。観念して素直に出て行った人間もいれば、大暴れするのを刑務官たちに取り押さえられた者もいる。そんな者たちの最後の音を聞きながら、この男は、自分は絶対にそんな無様な最後を迎えないと心に決めていた。

 そして、そんな男の決意がついに試される時が来た。いつもは通り過ぎていくはずの「お迎え」の足音が、不意に自分の独房の前で止まったのである。その瞬間、男はカッと目を見開いた。

 ドアの鍵が開けられ、その向こうから無表情な刑務官たちが姿を見せる。男はその様子を、正座したままで見つめていた。

「お迎えだ」

 刑務官の言葉は単純だった。それだけで、男はすべてが終わった事を知った。男は二、三度瞬きをすると、その場で正座のままゆっくり一礼する。

「……今までありがとうございました」

 男の言葉にも、刑務官たちは一切反応しない。そうするように言われているのであろうか。こんな状況だというのに、男は何か滑稽に思えてしまった。

「まだ少し時間はある。少しくらいなら身づくろいの時間は待てるが」

「結構です。ご覧の通り、私物はほとんどありません」

 確かに、部屋の中には布団以外に物らしい物はなかった。

「何か残す物はあるか?」

「ありません。遺族もいません」

「……では、行こうか」

 その言葉と同時に、男は立ち上がった。同時に、刑務官の一人が手元にある書類を確認する。そこにはこう書かれていた。


『No・142 葛原光明くずはらみつあき  罪状・殺人 事件名・第二次白神村大量殺人事件』


 長年多くの死刑囚を送り続けてきた刑務官にとっても、この死刑囚は特別だった。二〇〇四年に東京奥多摩にある旧白神村で発生した通称『イキノコリ事件』と呼ばれる大量殺人事件。その犯人として世間にその名を知られる男である。

 一九九四年に「白神事件」と呼ばれる凄絶な大量殺人の現場と化した旧白神村を舞台に二度目となる大量殺人事件を演出し、最終的に合計九名を殺害。その緻密に計画された犯罪計画はもはや芸術的ともいえるものであり、一時は迷宮入りも示唆されたが、最後は警察の捜査に介入した私立探偵との壮絶な論理の一騎打ちに敗北し、あえなく逮捕される事となった。

 そして今日、その猟奇殺人犯の死刑が、いよいよ執行される事になったのである。葛原はゆっくりと部屋から出てくると、刑務官に続いて廊下を歩き始めた。

 だが、一部の刑務官の視線は、この先にある別の独房に向けられていた。刑務官にとっては、そこにいる囚人の方が問題だったのである。

 やがて、葛原たちはその独房の前に到着した。刑務官たちの顔に緊張が走る。だが、独房の前を通り過ぎようとした瞬間、突然葛原の足が止まった。

「っ……」

 思わず足を止めるほど強烈な視線が独房の中から葛原を射抜いていた。葛原が独房の中を見やると、そこには葛原同様に正座した男が、どす黒い視線を葛原に向けていた。

 その瞬間、葛原は何かを悟ったのか思わず微笑んでこう呟いていた。

「……そうですか。あなたが俺の『先輩』ですか」

 独房の中から答えはない。だが、その強烈な威圧感が、その場にいる者を圧倒していた。本来、刑務官は死刑囚同士が会話するのを止めねばならないのだが、この時はそんな事もできないほどの異様な空気がその場に漂っていたのである。もっとも、この独房の主の正体を知る刑務官たちにとって、口を挟めないのも当然ではあった。

 そんな中、葛原は独房の主を睨み返しながらこう言った。

「『白神事件』の笹沼昇一ささぬましょういちさん、ですよね。お目にかかれて光栄です」

 笹沼昇一……それは葛原が三年前に大量殺人を行った白神村で、十三年前に最初の大量殺人を起こして二十六人を惨殺し、村を壊滅に追い込んだ「白神村事件」の犯人その人であった。殺人数やその残虐さでは葛原でさえ足下に及ばない正真正銘の怪物ではあるが、ここに収監されてから全く口を開いた事がないという事で刑務官の間では有名であった。

 睨みあう二人に、その場に緊張が走る。それは、「白神事件」と「イキノコリ事件」。白神村で起こった二度の大量殺人のそれぞれの犯人が対面した瞬間だった。二人の殺人鬼による無言の睨み合いは数分間続き、誰も何もできずにいた。

 が、その緊張が終わるのはあまりにも唐突だった。突然葛原が視線を外すと、首を振って歩き出したのだった。

「行きましょう」

 そう言われて、刑務官たちも慌てて続く。笹沼は、無言のままそんな葛原を見送っていた。そんな笹沼に、葛原は最後にこう呼びかけたという。

「先に逝かせもらいます。また地獄でお会いしましょう。もっとも、会えれば、ですがね」

 そして、死刑囚独房には再度の静寂が訪れた。


 そして、その三十分後、イキノコリ事件犯人・葛原光明の死刑が、東京拘置所死刑場にて執行された。享年三十歳。


 だが、何も残す物はないと言ったはずのこの凶悪殺人鬼が残した遺産が、この直後、大きな牙をむく事となるなど、この段階では誰も予測できなかった……。


 後に『蝉鳴村連続殺人事件』と呼ばれる猟奇大量殺人事件の幕開けである。

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