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蝉鳴村殺人事件  作者: 奥田光治
第二部 殺戮編
28/57

第十四章 情報収集

 同時刻、村の中心にある高山市役所蝉鳴村支所の支所長室(旧村長室)で、元村長の左右田昭吉と支所長の田崎伊周、それに元岐阜県警警部の猪熊亜佐男の三人が再び密談を行っていた。本来なら雪倉統造と笹枝もこの場にいるべきであるが、何しろ娘を殺されたばかりの状況で警察などへの対応が忙しく、この密談に出席する事などできない状態だった。

「県警はまた殺人を防げなかったようやな。まぁもっとも、これは県警が無能というより、犯人の方が一枚上手と言った方がよいのかもしれへんけどなぁ」

 猪熊がせせら笑いながらそう言うのを、田崎は蒼ざめながら、左右田は苦々しげに聞いていた。

「で、どうするつもりや、村長さん。まだ、何か打つ手はあるんかいな?」

 猪熊の問いに左右田はじろりと睨み返す。と、隣にいた田崎がこう言った。

「い、猪熊さん。これを理由に警察を村から追い出す事はできないんですか?」

 この期に及んでなおも警察をこの一件から手を引かせようと画策する田崎に、猪熊は滑稽そうに笑いながらも答えた。

「これだけ徹底的に捜査をしておきながら殺人を防ぐ事ができんかったから村から出ていけって事か?」

「そうです」

「じゃあ、逆に聞くけどなぁ、支所長さんが警察の立場やったらそう言われて『はい、そうですか』と応じるかいな?」

 その問いかけに、田崎は黙り込んでしまう。それが事実上の答えとなった。

「そういうこっちゃ。はっきり言って事がここまで至ったら、どれだけ犠牲者が出たところで警察は絶対にこの村から手を引かへん。向こうの面子にもかかわるやろし、もっと言うたら世論が納得せえへん。むしろこんな所で手を引いたら、村を見捨てた言うて国民から警察に非難が殺到するで。警察の辛い所やな」

「……」

「というか、言わしてもらうけど、ここで警察が手を引いたりしたら、それこそ犯人側の思うつぼやろうな。これ幸いと次々村人を殺し始めるかもしれへんし、それを防げる手段は俺らにはない。その時犠牲者になるのはあんたらかも知れへんで」

「ヒッ」

 田崎が悲鳴を上げるのを、猪熊は嘲るように見ていた。

「支所長さん、もうええ加減に現実を見た方がええで。初期段階での隠蔽に失敗した以上、もう警察を追い出すなんてのは夢のまた夢や。やったら、それを受け入れた上で次の手を打つしかないやろ」

「……わしに何をしろと?」

 左右田が険しい声で聞くが、猪熊は肩をすくめる。

「さぁなぁ。それを考えるんは俺の仕事やないし、部外者の俺が何か言うたところでそっちは納得できへんやろ。ただ、そっちも今まで色々やってきたみたいやし、俺が何も言わんでも何とかするんやろうな」

「……」

「とにかく、今の俺に言えるんは、支所長さんの言うように警察を引かせるんは最悪の手でしかないっちゅうこっちゃ。こうなった以上、前に村長さん自身が言うたみたいに、多少の事が明るみに出るのは致し方なしと覚悟を決めた上で、本当に隠さなあかん事を隠し通す事に全力を注ぐしかないんちゃうか。あるいは、警察が何もかもを暴いてまう前に、こっちが犯人を特定してまうっていうのもありかもしれんけど」

「私たちで犯人を……」

 田崎が息を飲むが、猪熊はかぶせるようにこう続ける。

「もっとも、今回はいつかの加藤柳太郎の時みたいに適当な人間を犯人扱いするのはなしや。それをしても喜ぶのは真犯人だけで、そのまま元気に殺人を続けるだけやさかいな。やるからには、ちゃんとした根拠を掴んで真剣にやらなあかん。まぁ、警察が総力を結集しても正体を掴めへん犯人を俺らだけで突き止められるか言うたら、ほとんど絶望的でしかないけどなぁ。あえて言うなら、警察は知らんけど村の人間だけが知ってる情報があるっちゅうのがアドバンテージになるくらいか」

「……」

「あぁ、一応言うときますけど、俺にその役をやれっちゅうのは勘弁してください。長い間、村長さんには御贔屓にはしてもろてるけど、肝心の村の人間だけが知ってる情報は俺も聞いてへんからな。唯一のアドバンテージがないんやったら、俺にできる事はあらへん。それでもどうしても俺に犯人捜しを頼みたいっちゅうんやったら、まずは村長さんの知ってることを話してもらう事になるけど、それはできへんのやろ? 長い付き合いやから、それくらいはわかりますよって」

「……」

 左右田は何も言わなかった。ただ、それでも猪熊の言葉は響いているらしく、怖い顔で唇を噛み締めているのがわかる。

「ま、その気がないんやったら今の話は忘れてください。俺も駄目元で言っただけやさかいに。そやけど村長さん、それならそれで早めに打つ手を考えてくださいや。俺も、村長さんらと共倒れはしとうないんで。何も対策がないんやったら、こっちも『引き際』を考えなあきまへんからなぁ。もちろん、できるならそんな事はしとうありまへんけど」

 ほな、と言って、猪熊はそのまま部屋を出て行った。後には左右田と田崎だけが残される。

「くそっ、好きな事を言いやがって……」

 田崎は悔しさのあまり拳を握りしめるが、同時に猪熊が言っている事が正しい事も理解していた。そして、左右田はそんな田崎の様子を見ながら、すでに選択肢が限りなく少なくなっているこの状況を打破するにはどうするべきなのかを、静かに考え続けていたのだった……。


「あの古狸、この期に及んでも何も言わんのかい。味方の俺にくらい、少しは腹の内見せろや。そうでないとこっちとしても動きが取れんぞ」

 支所長室を出て少し歩いたところで、猪熊は苦々しい顔でそんな言葉を吐き捨てていた。そして、周囲に誰もいない事を確認すると、おもむろにポケットから携帯電話を取り出してどこかにかける。

「……あぁ、俺や。そっちは今、大丈夫か?」

 やがて相手が出たのか、猪熊は気楽な口調でそう話しかけた。が、その目は全く笑っていない。そして、その口からはいささか不穏な言葉が出てくる。

「ほんで、今、捜査本部はどんな様子や? 何か新しい情報は出たかいな? ……あぁ、わかっとる。むやみに連絡すんな言うのはこっちも理解しとるが、何しろこの状況や。俺としても少しでも警察側の情報はほしい」

 そして、猪熊はせせら笑うように言った。

「まぁ、警察にしろ件の探偵にしろ、まさか俺が『あんた』とこうしてつながっていて、捜査情報が筒抜けになっとるとは夢にも思っとらへんのやろうな。その情報を使って、こっちもせいぜい上手く立ち回らせてもらおうやないか」

 それからしばらく、誰も何も知らない所で、猪熊と「何者か」による電話越しの密談は続く事になったのだった……。


 同じ頃、榊原と亜由美は村の一角にある、ある一軒の家の敷地の入口に立っていた。そこは加藤家同様に古い廃墟で、瀬見川にかかる東橋のすぐ南側に位置する場所にあった。

 旧涼宮家……それがこの家の名前である。言うまでもなく、涼宮事件の被害者・涼宮玲音と、その父親である涼宮清治の二人が住んでいた家屋である。広い敷地内にこの村としては珍しい洋風の二階建ての家屋が建っているが、長年手入れされていないのか敷地内は雑草が生い茂っており、加藤家以上にその荒廃ぶりは極まっていた。

「これはひどいな……」

 榊原はそう言いながらも、敷地内の様子をジッと静かに観察している。今となっては誰からも忘れられたこの廃墟から、少しでも今回の事件に解決につながるかもしれない証拠を得ようという思いがひしひしと伝わってくるのを、傍らの亜由美は感じ取っていた。

「これが、涼宮事件の被害者の家……ですか」

「あぁ。罪を着せられて村八分にされた加藤家の有様はまだ納得できない事もないが……被害者である涼宮家までこの惨状とはね。この様子だと、村人もまともな管理をしていないようだ」

「まるで、腫れ物に触るみたいな扱いですね」

「たった一人の被害者遺族……涼宮玲音の父親・涼宮清治は、加藤柳太郎に対する無罪判決が出た直後にショックのためか村を飛び出し、事実上の失踪状態になっている。警察も涼宮清治の現在所在地を探しているが、今のところ手懸りはないらしい」

「それもちょっと気になりますよね。一体、どこで何をしているのか……」

「あの裁判は当時かなり話題になっているし、法曹業界や犯罪学会では今も有名な事件だ。当然、村の人間と一緒になって先頭に立って加藤柳太郎の有罪を主張していた涼宮清治の事もよく知られているし、確か裁判中は実名報道もされていたはず。それが無罪となったんだから、立場はなかっただろうな」

「名前を変えてどこかに隠れているって事ですか?」

「あるいは……姿も何もかも変えて今この村のどこかにいるのかもしれないな」

 榊原がとんでもない事を言い始めた。

「本当ですか?」

「例えば、の話だ。そんな荒唐無稽な可能性も捨てきれないほど、この事件の人間関係は複雑に入り組んでいて、そして誰もかれもが何かを抱えているという事でもある。とにかく、普段の事件以上に一筋縄ではいかないのは確かだ。そもそも大量の関係者の誰がどの事件に絡んでいるかを整理するだけでも難しい」

 逆に言えば、それをする事がこの事件を解決する大きなカギになる可能性があるという事でもある。

「聞いた話では、涼宮清治の行方がわからない現状、この家は村の共同管理という事になっているらしい。まぁ、見た限りちゃんと管理しているかどうかは怪しいがね。同じく無人になっている加藤家も村の共同管理になっているそうだが、さっき調べた限り、中は荒れ果ててひどいものだった」

「あ、そう言えば加藤家の中を調べたんですよね。どうでした?」

 亜由美の質問に、榊原は首を振ってこたえる。

「正直、大した収穫はなかった。強いて言えば、葛原論文に書かれていた加藤家の家屋についての記述が正しかった事をこの目で直接確認できただけだ」

「そうですか……」

 亜由美は残念そうな顔をする。何にせよ、一筋縄ではいかなそうなのは間違いなさそうだった。

「それはともかく、管理が村になっている以上は支所の許可が必要だが、普通に頼んでも左右田元村長や田崎支所長は絶対にここの調査の許可をくれないだろう。だからと言って、私の調査のためにわざわざ警察に令状請求してもらうのもあれだから、今回はちょっと裏技を使った」

「裏技?」

「巫女様の御威光、という奴だ」

 と、そこへ誰かが駆け寄ってきた。

「すみません、遅くなりました」

「と、常音さん、ですか」

 やってきたのは現巫女の左右田常音だった。そんな常音に、榊原は頭を下げる。

「わざわざ来てもらって申し訳ありません」

「いえ。調査に必要なら、いくらでも協力は惜しみません。正直、今の私にはこの程度しかできませんし」

「あの、何を?」

 亜由美が戸惑ったように両者を交互に見やる。

「彼女には調査の立会人になってもらう」

「立会人、ですか?」

「さっきも言ったように、この家はこの村の共同管理になっているが、巫女である彼女も名目上は管理者の一人という扱いになっているらしい。それだけこの村における巫女の権限が強いという事でもあるんだが、管理者の彼女の許可を得て立ち会ってもらいさえすれば、敷地内の調査は充分に可能だ」

「なるほど……」

 つまり、名目上ではあるが、常音にもこの家の調査に同行してもらう事になるわけだ。

「でも、お父さんにばれたら大変じゃないですか?」

 亜由美は心配そうにそう言うが、常音は首を振った。

「その辺はうまくやるつもりです。巫女である私を排除して困るのは父も同じでしょうし、何とかなると思います」

「……仲があまりよくないんですか?」

 亜由美の問いに、常音の顔に少し影が差した。

「ご想像にお任せします、とだけ言っておきましょう」

「そう……ですか」

 亜由美が少し気まずそうな顔をする。とにかく、これで調査の下地は整った。

「では、お願いします」

 榊原の言葉に常音は頷き、先導して敷地内に入っていく。それに榊原と亜由美も続き、雑草をかき分けながら家屋の方へ向かっていった。やがて家屋の玄関に到着する。

「これは……」

 榊原が眉をひそめながら扉を見る。なぜなら、どういうわけか玄関の扉の取っ手に何重にも鎖が巻きつけられ、小型のダイヤル錠が取り付けられていたからだ。

「私も父から聞いただけですが、涼宮清治さん、鍵を持ったままいなくなったみたいなんです。その後、家の中を確かめるために鍵を壊したらしくって、直すのが面倒だからという事で、こうして鎖とダイヤル錠で代用しているらしいんです」

「ダイヤル錠の番号は?」

「父から聞かされています。少し待ってください」

 そう言って、常音がダイヤル錠に触れようとした……その時だった。

「あれ、こんな所で何をやってるんですか?」

 突然背後から声がかかり、榊原たちが振り返ると、さっきまでいた敷地の入口に見覚えのある人物が立っているのが見えた。

「青空さん、ですか」

 そこには、地質学者の青空雫が物珍しそうな顔をして立っていた。

「たまたま近くを通りかかったら、不審な人影を見かけたもので。で、また何か見つけたんですか?」

 彼女には、先日の神社地下の焼却炉発見の際に世話になっている。なので、あまり無下にはできなかった。

「常音さんに立ち会ってもらって、この家を調べようとしているところです」

「この家を、ですか? 一体誰の家なんです?」

 雫は興味津々という風に辺りを見回しながら近づいてくる。

「涼宮、という家です」

「涼宮……もしかして、涼宮事件の被害者の家ですか?」

 さすがに涼宮事件の事は知っていたようだった。

「事件の事、ご存知でしたか」

「えぇ。さすがにあの頃ニュースで散々流れていましたし」

 そう言いながら、雫はその場から離れようとしない。それどころか、こんな事を言い始めた。

「あの、よかったらご一緒してもいいですか?」

「はい?」

「こういうの、ちょっと興味ありますし。それに、ちょうど時間が空いていたところだったので。お願いします!」

「いや、しかし……」

 結局、それからしばらく押し問答が続いたが、雫が引く気配を見せなかったので、最終的に折れたのは榊原の方だった。

「議論する時間がもったいないので同行は許可しますが、こちらの指示には従ってください。あと、指紋をつけたくないので手袋をつけてもらいます」

 榊原はそう言って予備のビニール手袋を取り出そうとするが、雫がそれを遮った。

「あ、大丈夫です。フィールドワーク用に自前の手袋を持っていますから」

 そう言って、雫はズボンのポケットから取り出した手袋をつけてみせる。ちょうどその時、常音がダイヤル錠を外し、巻き付けられていた鎖も解き放った。ちなみに、ダイヤル錠の番号はまさかの『1234』だった。

「……防犯的にその番号はどうなんですか?」

 亜由美は少し呆れた風に言う。

「盗むものもないだろうからって、簡単に覚えられるこの番号になったそうなんです。だから多分、私たち以外でも知っている人は知っていると思います」

 常音が少し恥ずかしそうに答えた。その間に、榊原は玄関のドアを開け、持参してきた懐中電灯のスイッチを入れる。

「さて、行こうか」

 榊原のその言葉を合図に、四人は涼宮家の中へ入っていく。中は薄暗く、壁や床はかなり汚れている上に、あちこちに瓦礫やゴミが散乱していて、かなりひどい状況だった。

「足元に気を付けて。この状況だと、怪我でもしたら破傷風になりかねん」

「は、はい」

 亜由美が返事し、他の二人も頷く。雫は普段からフィールドワークでこのような障害物だらけの場所を歩くのに慣れているらしかったが、残る亜由美と常音はかなり慎重な様子で中を進んでいた。

 まずは一階を調べてみる。廊下の先にダイニングキッチンやリビング、さらに廊下の途中にトイレや洗面所、バスルームなど一通りの部屋が備え付けられている。食器や家具などはほぼそのまま残されているようで、どれもが経年劣化で破損するか、そうでなくても埃まみれになっているものが多かった。

「マスクを持ってきた方が良かったかもしれないな」

 そう言いながらも、榊原は慣れた手つきで部屋の中を調べて回っている。他の三人はそれを興味深げに見つめていた。

「あの、何か目ぼしいものはありましたか?」

「……いや、今の所は特にないな。そっちから見て、何かおかしなところはあるかね?」

 逆に榊原から亜由美たち三人に尋ねるが、三人とも首を振る。

「見た限り不審そうなものはなさそうですけど……」

「廃墟になっている事以外は、普通の家に見えますね」

 亜由美の言葉に、雫も同意するように頷く。結局、一階に気になるようなものはなかったため、一行はそのまま慎重な足取りで二階へと階段を上った。二階はそれぞれの私室などのようだったが、榊原が目を付けたのは一番奥の部屋だった。その扉には薄汚れた木製のプレートがかかっており、そこにはこう書かれている。


『REINE』


「れいね……『玲音』だな」

「という事は、ここは……」

「あぁ。涼宮事件被害者・涼宮玲音の自室という事になる」

 そう言いながら、榊原は慎重に扉を開け、部屋の中に入った。カーテンが閉められているのか室内は暗い。懐中電灯で中を照らすと、そこには多少薄汚れてはいたが、どこにでもあるような少女の部屋の光景が広がっていた。ベッドに学習机、タンス、鏡、本棚……一通りのものが今もそのまま残されている。それでも床のカーペットには埃が分厚く積もっており、もうかなりの間、誰もこの部屋に足を踏み入れていないのは一目瞭然だった。

「へぇ、随分几帳面に整理されているのね。これは……数学のノートかな」

 雫が学習机のノートをペラペラめくりながら感心した風に言う。一方、亜由美は奥にある本棚を眺めていた。

「結構、本好きな人だったみたいですね。どれどれ……」

 そう言いながらタイトルを確認していく。文庫本の小説が多く、例えば一番上の棚は左から順番に『いちご同盟』『虚無への供物』『リング』『樽』『占星術殺人事件』『新幹線大爆破』『マッハの恐怖』『呪骨』『セーラー服と機関銃』『点と線』となっている。何冊か……というかほとんどが若い女の子らしからぬ本であるようだが、何でも読む乱読派だったのかもしれない。すっかり埃に覆われているが、思ったよりも保存状態はいいようで、不謹慎ではあるが古書店辺りに持っていけばいい値段で買い取ってくれそうな気もした。

「随分、個性的なラインナップですね」

「まぁ、そういうのが好きな女の子だっているんじゃないかな。私もミステリーは結構読む方だし」

 亜由美の感想に、雫がノートを閉じながらそんな言葉を返す。一方、榊原は棚や机の引き出しなどを調べているようだった。

「どうですか? 何か気になる事はありますか?」

 常音が心配そうに聞くが、榊原の返事は芳しくないものだった。

「……駄目だな。まぁ、涼宮事件の時に一度警察も調べているはずだから仕方がないか。肝心要の証拠類は、事件自体が未解決である以上、今も岐阜地検の証拠保管庫にあるはずだからな」

「でも、その時に調べたのって、あの猪熊っていう感じの悪い元警部ですよね。だったら何か見落としがあってもおかしくありませんか? 実際、裁判では証拠の捏造も発覚しているみたいですし、私、この時の捜査を信用できないんですけど」

 亜由美は少し嫌そうにそんな事を言う。

「まぁ、可能性が全くないとは言わないが……どうだろうな」

 せっかくなので、榊原は気になっていた事を常音に尋ねた。

「警備会社社長の猪熊という男ですが、どういう経緯でこの村に?」

「さぁ……何年か前から、父の紹介で支所の警備システムの管理を担当するようになったとは聞いています」

「お父さん……つまり左右田元村長の紹介ですか」

「はい。本社は高山市内にあるらしいんですけど、何だかんだで、よく村には来ているみたいですね。村にいる時は、支所の警備室に泊まっているみたいですけど」

「ふむ……」

 と、ここで雫が尋ねた。

「えーっと、あまり事件の事をよく知らないから聞くんですけど、その地検に保管されている肝心要の証拠って何ですか?」

 その問いに対し、榊原はすぐに答える。

「遺体発見現場から発見された被害者の鞄とその中身、それに事件当時に被害者が着ていた服、ですね。これらの私物は重要証拠の一つですから、返却されずに保管され続けているはずです。それこそ、事件が解決するまでには永遠に」

「そう、ですか」

 それからしばらく、榊原は慎重な様子で部屋の中を調べていたが、やがて軽く息を吐いてこう言った。

「こんなものか。ひとまず、見たいものは見れたから、この辺りで引き上げるとしよう。あまり長い事いていい場所でもなさそうだからね」

「……そうですね」

 亜由美も頷き、他の二人も同意する。結局、そのまま四人は家の外に出て、常音がダイヤル錠を再びセットして涼宮家の探索は終了した。

「この後はどうするのですか?」

 常音の問いに、榊原は少し考えながら答える。

「そうですね……夕闇逢魔さんに話を聞こうかと思います」

「夕闇さん、ですか?」

「今回の事件の第一発見者でもありますし、色々言動に不審な点がありますので。一度、一対一でじっくり話を聞く必要があると思います」

「そう……ですか」

「常音さんから見て、夕闇逢魔という人物はどう見えますか?」

 榊原の逆質問に対し、常音はこう答えた。

「よくわからない人。そして、あまり関わりたくない人、ですね。多分、村の人間はみんな少なからず同じ感想だと思いますけど」

「なるほど……それは理解できますね」

 榊原は逢魔の事を思い出しながらそんな事を言い、さらにこう続けた。

「この村で、彼と付き合いがある人はいますか?」

 ある意味、駄目元でした質問だったが、意外にも常音はこう答えた。

「それなら、鳴ちゃんとかよく遊びに行っていたみたいですけど」

「鳴ちゃん、ですか?」

 思わず人物の名前が出てきた。

「はい。もちろんお父さん……名崎義元さんはいい顔をしていないんですけど、どういうわけか懐いてるみたいで、よく家に行ったりしているみたいです」

「……こう言っては何だが、普通ではない者同士、波長が合ったという事なのか?」

 榊原が呟くように言う。奇抜な言動をする怪奇作家と数学の天才である小学生。合うのか合わないのかよくわからない二人である。

「あと……そうですね。村人ではありませんけど、編集者の方が時々来ているみたいです。詳しくは知りませんけど」

「それは当然ですね」

 どれだけ奇抜な言動をしていても、逢魔はあくまでどこかの出版社と契約を結んだ作家である。連絡や原稿などは電話やメールでやり取りできたとしても、定期的に作家本人と直接会っての打ち合わせをしたりはするのだろう。むしろ、そのためだけにこんな山奥の村まで足を運ばなければならない編集者の苦労がしのばれるというものである。

「わかりました。常音さん、調査に同行してもらってありがとうございました」

「この程度ならお安い御用です。また何かあれば声をかけてください」

「もちろんです。では、ひとまずこれで」

 榊原はそう挨拶して、亜由美と共に次の目的地……夕闇逢魔の家へ向かったのだった。


 ……榊原と亜由美が去った後、残された常音と雫は、しばらく何の気もなしについさっきまで自分たちがいた涼宮家を眺めていた。冷たい風が二人の間に吹き、涼宮家の敷地内に生える雑草を揺らす。

「あの、これからどうされるつもりですか?」

 沈黙に耐えきれなくなった常音が思わずそう尋ねると、雫はさばさばした様子でこう答えた。

「私? 私はまた調査に戻らないと。フィールドワークも楽じゃないのよね」

「……これだけの事件が起こっても調査ですか」

 反射的に出た皮肉のようなものだったが、雫の返事は変わらなかった。

「それが私の仕事だからね。適材適所って大切じゃないかな。今回は興味本位で付き添ったけど、素人の私が本格的に捜査に関わった所でかえって邪魔になるだけだしね」

「ですけど……」

「これは例えばの話だけど、数学を専門にしている教師なりに『そっちの方が少人数で回せて効率いいから』って理由で全教科の指導を無理やりやらせても、結局全ての教科が中途半端になって本人にとっても生徒にとっても何の利益にもならない。それと同じ事。私は私の専門範囲内で、私ができる事をするだけだよ」

「それは……そうですけど」

 常音が納得できないという風な言葉を漏らすと、雫は思いの外真剣な表情でこう続けた。

「それにね、人の命に関わるという事なら、私の仕事だって同じようなものだと思う。というか、想定される死者の数だけで言えば、こっちの優先度の方が高いかもしれないわよ。何しろ私の相手は、誇張抜きに地球そのものなんだから」

 そう言いながら、雫は靴で軽く地面を叩いた。

「極論を言えば、災害と犯罪は似ているのかもしれないね。いつどこで起こるかわからないし、いざ起こってしまえば死者が出る可能性さえある。明日新たな殺人が起こるのと同じくらいの確率で、もしかしたら明日地震が起こったり、あるいは明日いきなりどこかの火山が噴火したりするかもしれない。だから、いざという時のために色々調べて準備が必要なの。私がやっているのはそういう仕事」

「……」

「なんてね。ちょっと、格好つけすぎちゃったかな」

 そう言いながら軽く伸びをした雫だったが、今度は逆に常音にこう尋ねる。

「ところであなた、この家に住んでいた涼宮玲音さんとは会ったことあるのかな?」

「え、えぇ。当時、私はまだ中学生でしたけど」

「ふーん。参考に聞きたいんだけど、どんな子だったの?」

「それは……」

 常音は少し迷った仕草を見せたが、やがてこう答えた。

「私にとってはお姉さんみたいな存在でした」

「……そっか。いい子だったんだね」

 雫は少し感慨深げにそう言って、家の方を見ながら呟きを漏らす。

「もし、生きている時に会えたら、いい友達になれたかもしれないね」

「雫さん……」

「人が死ぬっていうのは、いつ聞いてもむなしいよ。災害でも、犯罪でもね」

 そう言ってから、雫は首を振って続けた。

「感傷的になっちゃったかな。じゃ、私はこれで。常音さんも早く帰った方がいいよ」

「え?」

「だって、巫女の関係者がこれだけ殺されているんでしょ。当の巫女本人が狙われたっておかしくないと思うんだけどなぁ」

「っ!」

「ごめん、別に脅すつもりはないんだけど、用心に越した事はないから。じゃ、今度こそこれで」

 そう言って、雫はその場から去って行った。後に残された常音はしばらく呆然としていたが、やがてもう一度涼宮家の方を見て人知れず呟きを漏らしていた。

「涼宮さん……私……どうしたら……」

 巫女であるにもかかわらず、自身にできる事が限られているというこの現状に、常音はどこかもどかしさのようなものを感じているようだった……。


 一方、榊原たちは、今回の事件の第一発見者であり、さらにその言動が予測できない相手……怪奇作家の夕闇逢魔が居座っているという家へと向かっていた。生前の大津留の話では、元々空き家だったところを借りているという事だが、その家は村の北東……涼宮家から東橋を渡ってそのまま突き当りまで直進したところにあった。扇島宅ほどではないが蝉鳴神社の入口にかなり近く、さらには千願寺へ向かう道にも近い場所にある家である。

「ここだな」

 問題の家の前に着くと、榊原はそう呟きを漏らした。典型的な和風の一軒家で、こちらは純粋な一階建ての木造建築である。常音に聞いた話では、この村でも過疎化は深刻な問題になっていて、持ち主がいなくなった空き家を売りに出したり貸したりするという事はしばしば行われているのだという、ただ、やはりこの村特有の閉鎖的な空気に嫌悪感を抱く人間も多く、逢魔のように長期的に居座る人間はそう多くないらしい。

「さて、鬼が出るか蛇が出るか……見物だな」

 榊原はそう言って、玄関の呼び鈴を押す。しばらくするとドアが開き、相変わらずニヤニヤした笑みを浮かべた書生姿の逢魔が姿を見せた。

「ほう、これは、これは……。このような所に探偵殿がお越しとは、歓迎すべき事なのか否か、迷うところでありますなぁ」

「あなたに少し話を聞きたいのですがね」

 榊原が正面から切り込むと、逢魔は肩をすくめつつせせら笑いながら応じた。

「どうぞ、どうぞ。事件が起こった時に探偵が関係者から話を聞くのは小説などではおなじみの光景ですからなぁ。小生はそれを断るような事は致しませぬぞ」

 そう言って、二人を室内に招く。中に入るとそのまま床の間のある和室に通されたが、その床の間の前に卓袱台ちゃぶだいが置かれ、その上にノートパソコンや様々な資料と思しき書類、いくつかの書籍が乱雑に置かれていた。

「失礼、次に出す作品の原稿を書いている途中でしてな。この村は小生に素晴らしいインスピレーションを与えてくれる。なかなかに最高の環境ですぞ」

 そう言いながら、逢魔はノートパソコンの前の座布団の上に腰かけた。純和風の家に住み、格好も古き良き時代の書生姿でありながら、執筆自体は手書きではなくワープロ打ちらしい。その点について尋ねると、逢魔は肩をすくめながらこう答えた。

「小生も手書きの方が書きやすいのですがね。いかんせん、出版社側が手書きの原稿を受け付けてくれぬのですよ。これも時代という事でしょうなぁ」

 そう言って不気味な笑みを浮かべた後、逢魔は改めてこう切り出してきた。

「さて、小生に話を聞きたいとの事ですが、どのようなお話を?」

 ふざけた態度に見えて、余計な無駄話をするつもりはないようである。榊原もそのつもりで質問を始める。

「では、遠慮なく。まず、あなたの本名を教えて頂けますか?」

 いきなり先制パンチのようにそんな事を聞かれたにもかかわらず、逢魔はせせら笑いを崩さなかった。

「ほう、どういう意図ででしょうかな?」

「事件関係者の身元をはっきりさせておきたいと思うのは当然でしょう。前に会った時、『夕闇逢魔』はペンネームだとおっしゃっていましたから、本名を知りたいと思いまして」

「なるほど。確かに、以前言ったように『夕闇逢魔』はペンネームです。ですが……申し訳ありませんが、教える気はありませんなぁ」

 逢魔は挑戦するようにそう言い張った。

「理由は?」

「こう見えても小生は覆面作家なのですよ。本名を明かす事は作家活動に支障をきたしますのでなぁ」

「これだけの事件が起こっていても、ですか?」

「無論、小生の名前が事件に関係するのであればお教えしますがね。ですが……現状、そんな証拠はどこにもないのではないですかな?」

 確かに、現段階ではこれ以上突っ込み切れないのも事実だった。

「どうしても、ですか?」

「どうしても、です」

「……結構。では、それ以外の事をお聞きしましょう」

 榊原は別角度から攻める事にしたようだった。

「話は変わりますが、あなたの作品は実際に起こった事件を題材にしている事が多いとか」

「そうですな。例えば、デビュー作の『黒水面』は一九九九年に滋賀県の黒血湖こっけつこで起こった殺人事件、二作目の『紅鐘楼』は二〇〇一年に京都府の法國寺ほうこくじで起こった殺人事件をモデルに書いています。探偵殿であるなら、どういう事件なのかはご存じなのでは?」

 試すように尋ねる逢魔に対し、榊原はあくまで冷静に応じた。

「そうですね……黒血湖の事件は、ホラー小説の鬼才・夢園乱鬼ゆめぞのらんきの館で起こった殺人事件。法國寺の事件は、境内の五重塔で歴史学者・宝殿龍馬ほうどのりょうまが殺害された事件、でしたかね。いずれも解決自体はしているはずですが」

「左様。特に、夢園乱鬼殿は小生にとって長年目標だった御仁でしてなぁ。生涯に残した作品は『鬼花』『赤鮫』『呪骨』のわずか三作品のみにもかかわらず、そのいずれも文壇にその名を残す傑作ばかり。しかし、最後の作品が文庫で発刊されたちょうど二年後にあたる一九九九年の夏に、乱鬼は黒血湖畔にある自身の館で起こった事件によりその生涯を終える事になりました。小生、事件当日は小説の取材目的で御巣鷹山の慰霊祭に参加していたのですが、その時にこの事件の情報が飛び込んできて衝撃を受けましてなぁ。デビュー作は絶対この事件を題材にすると心に誓ったものです。今となっては懐かしい思い出ですなぁ」

 逢魔はそう言いながらクックと不快な笑い声をあげる。しかし榊原はそれをあえて無視するように尋ねた。

「私が聞いたところによると、三作目の『呪武者』という作品は、二〇〇三年に関ヶ原町で起こった殺人事件をモデルにしているとか」

「ほう、よくご存じで。いかにも、あの作品は一般に『関ヶ原事件』と呼ばれている事件をモデルに執筆したものです。もっとも、モデルにしただけで主な部分はさすがに現実から大きく変えていますがな」

「なぜ、関ヶ原事件をモデルに?」

 榊原の問いに逢魔は肩をすくめる。

「別に。当時話題になっていて、しかも身近な事件だったから題材にしただけですよ。場所も関ヶ原ですし、落ち武者伝説と絡めやすかったという理由もありますな」

 そう言ってから、逢魔は逆にこう質問した。

「何ですかな? 関ヶ原事件に興味でもあるのですかな?」

「……まぁ、探偵として気にならないと言えば嘘になりますね」

 意外にも、榊原はそんな返事をした。すると、逢魔はこんな事を言い始めた。

「そうですか……。では、このようなものに興味はありませんかな?」

 そう言って、卓袱台の上からクリップでとめられた紙の束を差し出す。その表題に書かれていた文字を見て、不意に榊原の表情が険しいものに変わった。


『関ヶ原アベック殺人事件(通称・関ヶ原事件) 捜査報告資料』


「これは……」

「お察しの通り、関ヶ原事件の捜査資料です。もちろん簡易的なもので、本物ではなく写しですが」

「どうやってこれを?」

「情報ソースは明かせませんなぁ。お好きにご想像ください。ただし、違法な事はしておりませんので、その点はご安心を」

「……」

「よろしければお貸ししますよ。この村を出る前にでも返して頂ければ結構です」

 榊原は少しの間ジッと逢魔の方を見ていたが、やがて覚悟を決めたかのように資料を受け取ると、軌道修正にかかった。

「話を戻しましょう。逢魔さん、あなたが今書いているその作品は……」

「言うまでもなく、涼宮事件と今回の事件を主題とした小説です。これだけの事件、題材にしない方がおかしいというものではありませぬかな?」

「あなたが一年前からこの村に住み始めた理由も、それが理由ですか?」

「無論、その通りですとも。もっとも、小生は涼宮事件を題材に小説を書くつもりだったのですが、そこに起こったのが今回の事件です。構想が次々沸いて、嬉し涙ならぬ嬉し笑いが止まりませぬなぁ」

「……人が殺されているわけですが?」

「それを飯のネタにするのが物書きというもの。少なくとも、小生はそう思っておりますぞ。もっとも、小生同様に事件で食べている探偵殿に言われたくはありませんがなぁ」

「……」

 明らかな逢魔の挑発に、榊原は静かな怒りを込めた無言という形で応じる。両者の視線の間に見えない火花が散った。

「ま、この話はなしという事で。小生も、無駄に探偵殿と敵対したくはありませぬからな」

「……同感ですね。ただ一つだけ、聞きたい事があります」

「何でしょうか?」

「涼宮事件を題材にした小説を書きたかった。それはいいでしょう。でも、なぜですか?」

「なぜ、とは?」

「そのままの意味です。あなたはなぜ、数ある事件から次の小説の題材として『涼宮事件』を選んだのですか? その理由を教えてもらいたいのですがね」

 その問いかけに対し、逢魔は相変わらずの軽薄な笑みを浮かべつつも、その目が少し真剣になった。そして、それを見逃す榊原ではない。

「別に理由はありません。単におもしろそうだと思ったからです」

「それにしたところで、なぜ何年も前に起こった事件を? あなたの傾向として、作品のモデルにする事件は大体執筆の一年から二年ほど前に起こった事件を題材にしている。例えば二〇〇一年に発表されたデビュー作の『黒水面』のモデルとなった滋賀県の黒血湖の事件が一九九九年だったように。他の二作品も同じようなものです」

「……」

「あなたがこの村に越してきたのは昨年……つまり、二〇〇六年の事。となれば、執筆を始めたのもその頃でしょう。にもかかわらず、あなたは七年以上も前の事件を題材に選んだ。不自然に思うのも当然でしょう」

「……」

「もう一度お聞きします。なぜ『涼宮事件』を小説の題材に?」

 しばし、張り詰めた沈黙が続く。が、やがて逢魔は面白そうに笑い声をあげると、どこか白々しい口調で告げた。

「いやはや、そう怖い声を出さずともよいではないですかな。せっかくの機会です。探偵殿には特別にお教えいたすとしましょうか」

 そう前置きして、逢魔は少し声を潜めて告げた。

「実はですなぁ。小生も涼宮事件とは無関係ではないのですよ。というのも、涼宮事件が起こった時、小生の知り合いが偶然この村に滞在していましてなぁ」

「お知り合い、ですか?」

「えぇ。で、二年ほど前にその知り合いの方から私に連絡がありましてな。まぁ、一種の企画の持ち込みのようなもので、向こうから自分の知っている情報を元に涼宮事件を題材にした小説を書いてみないかと、こう持ち掛けられたわけです。小生もかねてからこの事件については気になっていたのですが、何分、表に出ている情報が限られている事件でしたのでなかなか執筆に踏み切れないでいましてなぁ。そんな所に事件の詳しい情報を持ったその知人からの情報提供があったわけで、ちょうど次の作品のネタ探しをしていた時期だった事もあって、あぁ、これは運命なのかもしれないなぁと思ったわけです」

「その知人と言うのはどなたですか?」

 答えてくれないかもしれないと駄目元で聞いた質問だったが、意外にも逢魔はあっさりとその名を告げた。

「魚肥由紀也という男です。小生が大学生の頃に知り合った男でしてなぁ」

「魚肥由紀也……ですか」

 榊原はその名を繰り返すように呟き、亜由美は気になって尋ねた。

「心当たりがあるんですか?」

「あぁ。確か、涼宮事件当日に美作宿に宿泊していた客の一人がそんな名前だったはずだ。美作さんに見せてもらった宿帳にその名前が書かれていた記憶がある」

 そう答えた上で、榊原は改めて逢魔に向き直った。

「その魚肥さんですが、事件当時はなぜこの村に?」

「なぜにも何も、仕事ですよ」

「仕事?」

「魚肥君は写真家でしてなぁ。当時、この村の役場が観光向けのパンフレットを作っていて、そこに掲載する写真の撮影を依頼されていたそうなのです。結局、最終的に涼宮事件のせいでこの仕事はお釈迦になったそうですが、とにかくその依頼のためにこの村を訪れていたとか。あぁ、一応言っておきますが、魚肥君が涼宮事件の犯人だったという可能性はありませんぞ。事件が起こった時刻、彼には明白なアリバイがありましたので」

 榊原が考えている事を見越したかのように、逢魔は先手を打ってそんな事を言う。が、榊原はすました表情で話を続けた。

「別に彼が犯人だなどと思ってはいませんよ。そんな簡単な事件なら、今に至るまで未解決なわけがありませんので」

「言いますなぁ」

「事実です。それより、その魚肥さんは今どこに?」

「それは言えませんなぁ。というより、わからないと言った方がいいかもしれません」

「というと?」

「なぁに、ここ最近、彼は海外を中心に活動していて日本にいない事が多いのです。半年前にもらった手紙の消印はブエノスアイレスだったと記憶していますがなぁ」

「ブエノスアイレス……」

 それは日本から見て地球の裏側……南アメリカにあるアルゼンチンの首都の名前である。

「パタゴニアでオタリアとシャチの写真を撮りたいとか何とか小生にはよくわからない事が書いてあったはずですが、それが成功したかどうかは知りません。それ以来、連絡がこないもので」

 どうにも曖昧……というよりどこかはぐらかされているかのような話だった。それを悟ったのか、榊原は別の方面から切り込む事にする。

「ちなみに、先程話に出ていた、涼宮事件当時の魚肥氏のアリバイというのはどのようなものだったのですか?」

 その質問に対し、逢魔はニヤリと意味深な笑みを浮かべた。

「役場の担当者さんの接待を受けていたのですよ。接待場所は役場のすぐ目の前にある竹橋食堂の座敷席。そしてその担当者というのが……他ならぬ涼宮玲音の父親・涼宮清治氏だったそうなのです」

 思わぬ話に、榊原は小さく眉を動かす。確かにそう言われると、涼宮事件が起こった当時の涼宮清治は、当時の蝉鳴村役場の観光案内事務所で働いていたと葛原論文に記されていたはずだった。

「そのアリバイ、確かですか?」

「確かですぞ。接待とは言っていますが打ち合わせも兼ねていたようでしてな。当日の午後五時から七時までの二時間、ずっと二人であの食堂の座敷席に居座って食事をしていたとか。証人は料理を出していた竹橋食堂の主人。少なくともこの三人には涼宮玲音の死亡推定時刻にずっと一緒にいたというアリバイがあるわけです。そして、接待がお開きになって清治氏が帰宅した所、帰っているはずの涼宮玲音の姿がなく、しばらくして駐在に通報する事になったという流れのようですな」

「……なるほど、そういう事でしたか」

 どうやら被害者の身内である清治にあまり疑いがかかっていなかったのは、このアリバイの存在があったからという事らしい。

「ところで、話は変わりますが、名崎鳴さんがよくこちらに来られるとか?」

 本当にいきなり話をガラッと変えた榊原だったが、この質問を受けて、初めて逢魔の表情が少し苦々しいものになった。

「あぁ、あの子ですか。えぇ、確かに、呼びもしないのによく小生の家にやってきますよ」

「何のためですか?」

「小生が聞きたいですなぁ。何やらこの家の書斎にあるパズル本をよく読んでいるようですが」

「パズル本?」

「えぇ。この家、今でこそ空き家ですが、かつては千倉何とかという偉い数学の学者さんが休暇の際に利用する別宅として使っていたようなのですよ。涼宮事件の数年後にその学者さんが病気で亡くなった際に空き家になったそうなのですが、その時の蔵書が今も書斎に残っていましてな。名崎嬢にはその蔵書が宝の山か何かに思えてならないのでしょう」

「つまり、あなた自身と話す事はあまりない?」

「そりゃ世間話くらいはしますがね。小生、こう見えても執筆で忙しいのですよ。こう言っては何ですが、子どもの相手をしている余裕などありませんな」

 そう言いながら、逢魔はせせら笑った。

「ひとまず、小生が話せるのはこの程度。参考になりましたかな?」

「……えぇ。とても」

「では、この辺りでご勘弁頂けませぬか。先程も言ったように、こう見えて小生、執筆で忙しいのですよ」

「……」

 遠回しに「帰れ」と言われている状況ではあるが、今の榊原にはさらに逢魔を追及する材料がない。榊原は無言で頭を下げると立ち上がって部屋を辞去し、亜由美も慌ててそれに続く。それを面白そうな顔で見送りながら、逢魔は人知れずこう呟いていたのだった。

「さてさて……おもしろくなってきましたなぁ。これはなかなか見ものですぞ」


「あれはかなりの切れ者だな。人は見かけによらないとはこの事だ」

 逢魔宅を出ると、榊原が開口一番言い放ったセリフはそれだった。

「そうなんですか?」

「態度や口調はふざけているが、自分なりの計算をして物を喋っている。食えない相手だというのは間違いなさそうだ。のらりくらりとかわされて、やりにくいことこの上ない」

 亜由美の問いかけに、榊原は珍しい事に苦虫を潰したような顔で答える。

「じゃあ、何かを隠しているって事ですか?」

「嘘をついているという感触ではなかったが、だからと言って腹の内を全て話しているという事もないだろう。それが事件に関係があるのかどうかまではわからないが……」

 と、そんな風に逢魔に対する感想を言い合っていた時だった。

「あ、あの! 警察の方ですか?」

 突然呼びかけられて、二人は声のした方を見やる。するとそこには、初めて顔を見る女性が立っていた。年齢は二十代半ば……おそらく青空雫辺りと同い年だろうか。上下パンツスーツのOL風の姿で、都会ならともかく、この村では明らかに浮いた格好をしている。こんな女性がいればこの村で気付かないはずがないのだが、実際に榊原と亜由美にとって、この女性は今この場で初めて会う人物だった。

「失礼ですが、あなたは?」

「あ、すみません。えっと、講英館の編集者をしています不破関美ふわせきみです。逢魔先生の担当をしています。やっと……やっと村に入る事ができました……」

 その女性……関美はそう言って頭を下げた。どうやら、常音の話に出てきた夕闇逢魔の担当編集者らしい。講英館というのは、都内にある大手出版社の名前だった。

「って、そんな事より、大変なんです! 神社の石段の前で、おじいさんが苦しんでいて……誰か、助けてもらえませんか?」

 その言葉に、榊原と亜由美の顔に緊張が走る。もしや、日中にもかかわらず新たな事件が発生したのか……この状況なら、誰もがその可能性を思い浮かべて当然であった。

「案内してください!」

 榊原の剣幕に関美は頷くと、そのまま蝉鳴神社の前まで二人を連れていく。すると、神社の石段の一番下の所で、あの扇島老人が腹を抱えて苦しそうに呻いているのが見えた。

「どうしたんですか!」

 榊原が駆け寄ると、扇島は額に脂汗を流しながらゆっくり顔を上げた。

「あ、あんたか……それが、畑仕事をしていたら急に腹が痛くなって……」

「腹痛……ですか」

 ひとまず扇島の様子を見るが、確かに苦しそうではあるものの外傷などは全く確認できず、本当に腹痛であるようだった。

「そうだ……もしかしたら、昼に食べた漬物が当たったのかも……」

「事件じゃないんですね?」

「……こんな時に、紛らわしい事になって、すまん……」

 ひとまず、榊原はホッと息を吐いたが、すぐにその表情を引き締める。本当に食あたりだったとしても命にかかわる可能性があるし、可能性は低いとはいえ毒物による腹痛の可能性がないとは言い切れない。とにかく診療所に運ぶ必要があるが、この様子では自力で歩けそうにないので、車か何かが必要だった。

 と、そこへ近くを巡回していた刑事がこちらの様子に気付いて駆け寄って来る。

「どうしましたか?」

「あぁ、ちょうどよかった」

 榊原は駆け寄って来た刑事に状況を説明し、さらにこう指示を出す。

「診療所の電話番号はご存知ですか?」

「もちろん」

「じゃあ、すぐに電話して、バンをこっちによこしてもらうように言ってください。どうも、自力で動く事はできなさそうですから」

「わかりました」

 その刑事はすぐに携帯を取り出し、その間に榊原たちは扇島の介抱に全力を注いだのだった……。


 それから三十分後、駆けつけた診療所のバンにより扇島は無事に蝉鳴診療所に運び込まれ、出島医師による診察を受ける事ができた。幸い大したことはなかったようで、薬を飲んだ後、しばらく診療所のベッドで様子を見るとの事である。原因も毒物など事件性のあるものではなく、扇島自身が推測した通り単なる食あたりではないかというのが出島の診察結果であり、皆が皆、診療所のロビーで安堵のため息をつく事になっていた。

「びっくりしましたよ。また何か事件が起こったのかと思いました」

 搬送に協力した若い刑事……所轄の高山署から派遣された野城敦哉のしろあつや巡査部長という名前だったが、とにかく彼はそんな事をホッとした表情で言った。そしてそれは、榊原も同じだった。

「全くです。仕方がない事なので文句は言いたくありませんが……こんな時に紛らわしい事をしないでほしいというのが本音ですね」

「同感です」

 と、そこで成り行きからここまで一緒に来る事になった関美が、横から遠慮がちな口調でこう言った。

「あの……そろそろお暇して構わないでしょうか? 私、夕闇先生の所に行かないと」

 とはいえ、せっかくの機会である。榊原は彼女にもいくつか質問をする事にする。

「夕闇さんの担当編集者なんですよね?」

「はい。本当は昨日来るはずだったんですけど、例の事件のせいで村に入れなくなっちゃって……。仕方がないから高山市のホテルに一晩泊まって、今日になって東京の上司と一緒に色々交渉して、何とか特別に村に入れてもらう事ができたんです。そしたら入ってすぐにこの騒ぎで、もう嫌になりますよ」

 関美はブツブツと愚痴を言っている。いくら仕事とはいえ現在進行形で殺人が発生している村に入ろうとする根性はなかなかに見上げたものがあるが、それと同時に、担当編集者とはいってもこの状況の村に警察が入村許可を出す事があるだろうかと、亜由美は心の中でささやかな疑問を抱いた。が、榊原はその問題に気付いているのかいないのか、穏やかな口調で関美との話を続ける。

「この村には普段からよく?」

「えぇまぁ、一ヶ月に何回かくらいですね。本当はもっと頻繁に会って色々打ち合わせをしたいんですけど、場所が場所ですから簡単には来られないんです。まったく、それに振り回される私の身にもなってほしいです。もっとも、おかげで村の人とは親しく話せるようになりましたけど……」

「今回殺された方々とも、ですか?」

 榊原の問いに、関美は慌てて首を振った。

「あ、いえ、さすがに安住家みたいな村の有力者の方とは無理です。でも、飯里先生や大津留さんとは立ち話をした事があります。さすがに……お気の毒だとは思います」

 この時だけ関美は少し沈痛な表情を浮かべる。

「事件の事は報道で?」

「はい。これだけの大事件ですから毎日派手に報道しています。もっとも、さっきも言ったみたいに入村には規制が敷かれているらしくて、村に入れたマスコミ関係者は私以外いないみたいですけど」

「前にこの村に来たのはいつですか?」

「えっと……去年の年末ですね。今年は暖冬で雪が残っていないみたいですけど、それでも一月とか二月のこの村は雪が凄くて、行く事すらできませんでしたから」

「あぁ、なるほど」

 と、ここで関美は深いため息をついた。

「とにかく、村に入れたはいいけど、今度は事件が終わるまで出られないみたいですし、しばらくはいつも通り夕闇先生の家に泊まる事になると思います。あの家広いから、空いている部屋はいくつかあるんです」

「泊まるって……大丈夫なんですか? その、男女が同じ家で二人っきりって……」

 亜由美が少し心配そうに聞くが、関美の反応はあっけらかんとしたものだった。

「心配しなくても大丈夫ですよ。そもそも、あの先生にそんな度胸があると思いますか?」

「……」

 亜由美は答える事ができなかった。確かに逢魔のあの様子だと、こう言っては何だが色気よりも仕事という感じではあった。

「それに、実際には絶対にありえないけど、例え先生が襲ってきた所で特に問題はありませんし」

「問題しかないと思うんですけど」

 亜由美が困ったような顔でそう言うと、関美は少し複雑そうにこんな事を言った。

「うーん、どうせばれちゃうことだからこの際言っちゃいますけど、私と夕闇先生、ただの仕事相手ってわけじゃないんです」

「仕事相手じゃない?」

 直後、関美は衝撃的な事実を告げた。

「夫婦なんです。私と夕闇先生」

 瞬間、亜由美は一瞬絶句し、直後に思わず声を上げた。

「え、エェェェェェッ! あの人、結婚してたんですか!」

 当の奥さんの前でするにはかなり失礼な発言であるが、その場の誰もが似たような思いだったらしく、あえて突っ込むような人はいなかった。とはいえ、榊原は多少驚いた表情を浮かべつつも、何かを悟ったように言葉を発する。

「あぁ、なるほど。だからこの村へ入るのが許されたんですか」

「えぇ。さすがの警察も、夫が村の中にいて、妻の私が会いに行きたいと言ったら村に入るのを拒否できなかったみたいです」

 図らずも、先程の亜由美の疑問に答えが出る形になったが、亜由美としてはそれどころではなかった。

「って事は、夕闇先生の名字は『不破』って事ですか!?」

「あ、いえ。『不破関美』は私の編集者としての名前……いわゆるビジネスネームで、本名は別にあります。夕闇先生は覆面作家ですので、今のように夕闇先生と夫婦だとばれると問題になる事もありますから、会社にも特別に認めてもらっています」

「はぁ、ちなみに本名は?」

 亜由美はそう尋ねたが、それに対しても関美は首を振った。

「夕闇先生の本名に繋がるかもしれないので、申し訳ありませんけど、先生の許可がない限り教える事はできません」

「そう……ですか」

 そう言われると、亜由美としても後を続ける事はできなかった。榊原はそんな二人の会話をジッと聞きながら何かを考えているようである。

 と、そこで突然、野城巡査部長の携帯電話のバイブレーションが鳴った。野城はそれに出ながら一度外に出ると少し何事かを話していたが、やがて戻って来て榊原にこう告げる。

「失礼、柊警部からです。夜の巡回の打ち合わせをするので一度戻って来いとの事ですので、先に行ってもよろしいですか?」

「そうですか。私は構いませんが」

「すみません。それでは、失礼します」

 そのまま野城は去っていく。そんな二人の様子を、関美は訝しげに見つめていた。

「また何か事件でもあったんですか?」

「いえ、そういうわけではないようですが、今後の打ち合わせか何かみたいですね」

「そう、ですか」

 と、そこで関美は何かに気付いたように榊原の方を見やる。

「と言うか、それならあなたも行かなくていいんですか? 刑事さんなんですよね?」

「ん? あぁ、そう言えば自己紹介していませんでしたね。改めまして、私は私立探偵の榊原恵一と言います。こっちは事務員の亜由美君」

「あ、亜由美です」

 亜由美が慌てて頭を下げ、案の定、関美の表情が不審げなものへと変わる。

「探偵、ですか?」

「えぇ。今は警察からの依頼で今回の事件の捜査協力をしています。夕闇さんにも、その一環で話を聞いたところでしてね」

「はぁ……民間の探偵さんにまで協力要請しないといけないなんて、刑事さんたちも大変みたいですね」

「特に大変なのは指揮をしている柊警部ですよ。自分がいる中でこれだけ事件が連続して起こっているわけですから、並の人間なら精神が参ってもおかしくない。よくやっていると思いますよ」

「でも、それが彼の仕事なんですよね。だったら、どんな状況でも最善を尽くさないといけないと思いますけど」

「手厳しい意見ですね」

「私だってあの夕闇先生を相手に仕事をしているんです。これくらいのことは言わせてください」

 そこで一際深いため息をついて、関美は切り替えるように告げた。

「ちょっと話し過ぎました。それじゃあ、私はこれで。何かあったら、さっきも言った通り夕闇先生の家にいますので」

「わかりましたが、そちらも気を付けてくださいよ。この事件の犯人は、目的のためならどれだけ被害が出ようがお構いなしの犯人のようですから」

「……肝に銘じておきます」

 そう言って頭を下げると、関美は左腕にはめた腕時計で時間を確認しながら、今度こそ診療所を急ぎ足で去って行った。後には榊原と亜由美だけが残される。

「じゃあ、我々も……」

 と、そこへ診察室のドアが開き、今度はそこから静かなモーターの駆動音と共に誰かが出てきた。振り返って見てみると、そこには出島医師と、電動車椅子に乗った先代巫女・美作清香の姿があった。

「あぁ、どうも。ちょうど彼女の定期健診中だったもので」

 出島がそう言って頭を下げる。一方、清香はこんな状況にもかかわらず相変わらずの無邪気な笑みを浮かべて夢心地にこちらを見ていた。そんな彼女を横目に、榊原は彼女に聞こえないように小声で出島に尋ねる。

「彼女、どうなんですか?」

「まぁ、変わりはありませんよ。この精神状態ではリハビリもできませんし、足の方は例の事故で神経をやられているんです。もちろん私も全力は尽くしていますが……多分、どれだけ医学が発展しても、彼女の足は二度と動かないでしょうね」

「……そうですか」

 思えば、彼女がこうなる原因となった交通事故でも彼女の母親が死んでいるのである。この村は一体何人の人間が死ねば済むのかと、榊原は少し暗澹たる気持ちになった。

「事故当時の診察もあなたが?」

「いえ、その時はまだ私はこの診療所にいませんでしたから、当時の先代所長が治療に当たったはずです」

「先代所長、ですか?」

「えぇ。沖本吉秀おきもとよしひでという大ベテランの医師で、私の大学時代の恩師でもあります。ここは元々彼の診療所で、三年前に彼が病気で亡くなった時に色々あって私が引き継いだんです。だから、私はこの村ではまだ新参者なんですよ」

「その沖本さんというのはこの村の出身だったのですか?」

「いえ、確か静岡の生まれだったはずですが、大学病院を引退した後、僻地医療に力を入れたいという事でこの村を人生最後の地に選んだそうです。小さな村なのにこんな立派な診療所があるのもそれが理由でしてね」

「そうでしたか……」

 思わぬところでこの診療所の歴史を知る事となり、榊原は感心した風な声を上げる。

「おじちゃん、どうしたの?」

 と、そこへ清香が首をかしげながらそんな事を聞いてきた。彼女の様子を初めて見る亜由美は少しショックを受けたような表情を浮かべている。父親の美作頼元の話では清香は今年二十一歳になるはずで、実際には亜由美と数歳しか違わないはずの彼女の現状に対して、色々思う所があったのだろう。

「いや、何でもないよ。それより、少し話をしないかね?」

「おはなし? うん、いいよ! なにをはなすの?」

 榊原は少し考える。この際、滅多に話す機会のない彼女から情報を引き出せないかと思ったのである。

「そうだね……今回の事件について、君は何か聞いているかね?」

「じけん?」

 清香はコテンと首を傾けて尋ね返す。

「じけんって、なぁに?」

「いや、知らなければいいんだが」

 さすがにこの状態の彼女に、今まで起こってきた残虐極まりない連続殺人の有様を説明をするわけにもいかない。榊原は質問を変える事にした。

「じゃあ、そうだな……飯里先生や大津留巡査の事は知っているかな?」

「いいざと……おおつる……あっ、せんせいとおまわりさん?」

「そうだ。どうかね?」

「うん、しってる! せんせいはときどききよかのうちにきてはなしをしてくれるし。おまわりさんもさんぽちゅうにきよかにこえをかけたりしてくれるよ!」

 と、榊原は少し訝しげな表情で出島医師に尋ねた。

「彼女、家から出て散歩したりできるんですか?」

「えぇ。お父さんの話だと、時々家の周りを車椅子で一人で散歩したりしているようです。ずっと家の中にいるより、そちらの方がいいだろうと」

「散歩……あぁ、そう言えば……」

 榊原は美作宿の入口に設置されていたスロープの事を思い出していた。あれがあれば車椅子でも外に出る事が可能なのだろう。

「大津留さんは、一人でよく散歩している彼女の事を気にかけていて、声をかけたりしていたようです。あと、飯里先生も彼女の様子を気にして、時々美作宿に家庭訪問をしていたと聞いています」

「そうでしたか」

 榊原は再び清香に向き直り、質問を再開する。

「二人に最後に会ったのはいつかな?」

「うーん……おぼえてない。ごめんなさい……」

 シュンとなる清香に、榊原は少し申し訳なさそうに言う。

「いや、謝る必要はない。無茶な質問をしているのはこっちの方だ」

「そうなの?」

「あぁ。では質問を変えるが、堀川頼子さんはどうだね? 彼女を知っているかね?」

「よりこおねえちゃん? うん。ときどきみたことあるよ」

 正確に言えば堀川頼子は清香よりも年下なのだが、彼女の認識ではそうではないようだった。

「最近はどうだね?」

「……わかんない。みてないとおもうけど、じしんない」

 清香はそう言ったが、これは仕方がないかもしれない。彼女は事件当日に帰村し、そのまま時を置かずに失踪してしまっているのである。むしろこれで彼女の目撃証言がここで出てくるような事があれば、それはそれで問題になるかもしれない話であったが、そこまでうまい話はさすがになかったようである。

「ならば、安住梅奈さんは?」

「うーん、うめなおねえちゃんだったら、さいきんはなしたよ」

「話した? いつ?」

「わかんない。でも、さいきん」

 どうもはっきりしなかったが、ひとまず彼女が帰村してから殺害されるまでの間なのは間違いなさそうである。生前に梅奈本人から聞いた話では彼女が帰村したのは今回の事件が始まった三月八日当日の事であり、その翌日の三月九日の夜に安住家は炎上して梅奈は死亡している。となれば、その間のどこかだと判断するのが妥当であろう。

「話したと言ったね。具体的にどこで何を?」

「えっとね。いえにいたらきたの。おとうさんにはなしがあるって」

「家……美作宿か。彼女が家に来たと?」

「うん。しょくどうのおじさんといっしょに」

 その言葉に榊原は眉をひそめる。

「『食堂のおじさん』というと……竹橋和興さんの事かな?」

「なまえはわかんない。でも、ちょうどおとうさんはいなくて、ふたりともそのままかえっていったよ。なんのようだったのかな?」

 清香はそう言ってまた首をかしげたが、それを知りたいのは榊原も同じだった。これについてはあとで竹橋和興本人に状況を確認する必要がありそうだが、娘の美憂を殺されて精神的にダメージを受けている彼に話を聞けるようになるまで、少し時間がかかりそうではあった。

「では、雪倉美園さんについてはどうかね? 何か知っている事はあるかね」

「みそのおねえちゃん? えーっとね……みそのおねえちゃんなら、きのうあったよ」

 今度は日時も正確だった。『昨日』という事は彼女が殺害される直前という事になるだろうか。もしそうならこれもかなり貴重な証言になる可能性が高かった。

「昨日で間違いないかね?」

「うん。みそのおねえちゃんのいえのまえのたけがいっぱいあるところのまえでだれかとはなしてた」

「話……。誰と話をしていたのかわかるかね?」

「うーん、わからない。みたことないおんなのひとだった」

「女の人……」

 榊原は何か思いついたように、何枚かの写真を示す。

「この中にその女の人はいるかね?」

 興味津々という風に写真を覗き込んだ清香であったが、その反応は明白だった。

「あ、このひと! このひとだよ!」

 清香が指さしたのは、美園と一緒に殺害された竹橋美憂の写真だった。確かに滅多に村に帰る事がなかったという美憂ならば、清香が知らないのも納得がいく話である。

「雪倉美園と竹橋美憂が事件前の時点ですでに会って何かを密談していた、か」

 榊原はそう呟いてしばし思案する。この話が本当ならば、今日の事件で殺された二人の少女には事件前から表に出ていない何らかの繋がりがあった可能性が浮上してくるのである。それだけに、この情報はかなり重要だった。榊原は慎重に質問を継続する。

「二人は何を話していたのかね?」

「えーっと……わかんない。でも、ふたりともすごくこわいかおをしてた」

「怖い顔?」

「うん。きよかがみてることにきづいたら、すぐにはなしをやめてしらんぷりしてたし」

「知らんぷり……他人のふりをしたという事か」

 話を聞く限り、どうやらこの二人はよほど自分たちの秘密の関係を知られたくなかったようである。

「あ、でも、そのまえにきよかにもちょっとだけきこえたことがあったよ!」

「それは?」

「えっとね……『じてんしゃ』と『しかたない』だったかな?」

 予想外過ぎる言葉にさすがの榊原も眉をひそめる。

「『自転車』と、『しかたない』?」

「うん。みそのおねえちゃんが『じてんしゃ』っていって、もうひとりのひとが『しかたない』っていってた。そのあと、もうひとりのひとはどこかにいっちゃった」

「そうかね……」

 新たな情報に、榊原は考えを巡らせる。と、ここで後ろにいた出島から待ったがかかった。

「あの、もうそろそろやめてもらえませんか? これ以上は……」

「あぁ、すみません。こちらも、少しでも情報がほしいものでしてね」

「それはわかりますが、あまり彼女に負担を与えないでください。治療に差し支えます」

 そう言ってから、出島は彼女の前でかがんで話しかけた。

「じゃあ、もう帰って大丈夫ですよ。次はまた、一週間後に来てください」

「うん! じゃあ、ばいばーい!」

 そう言って無邪気に笑いながら手を振ると、清香は電動車椅子を操って診療所を出て行った。それを見送りながら、榊原は出島に問いかける。

「一人で大丈夫なんですか?」

「えぇ。一応、自分の家の場所はわかっているみたいですし、少しでも外の空気を吸った方が精神的にはいいのも事実ですから、私からは何も言わない事にしています」

「ですが、この状況ですから……」

「確かにそうなんですがね。あまり一緒に行くと嫌がりますし、昼間のうちなら、事情を知ってる村人たちが注意してくれていますから大丈夫だと思います。この村、田んぼのある辺りは結構開けていますから、思った以上に人目があったりするんです。むしろ怖いのは、人目がなくなって明かりもほとんどない夜ですね。あくまで私の予想ですけど、犯人もそれを見越して夜ばかり犯行を繰り返しているんじゃないですか?」

「……確かにその意見は正しいのかもしれません」

 榊原がそう答えると、出島はこう言い添える。

「ま、私としては、なるだけ早くこの事件が終わる事を祈るばかりです。では、私はこれで。お二人も、早めに帰った方がいいですよ。さっきも言ったように、夜になったら何が起こるかわかりませんから」

 そう言うと、出島は診療所の奥の部屋に引っ込んでいった。今度こそ再び二人だけになり、亜由美はポツリと榊原に問いかけた。

「……今の話だと、美園さんと美憂さん、以前から繋がりがあったみたいですね」

「あぁ、そのようだね。とはいえ、具体的にどんな繋がりなのかは全くわからない。今まで調べた限り、竹橋美憂はずっと岐阜市内の学校に通っていて、この村に帰ってくること自体かなり珍しい話だったはずだ。例の涼宮事件の時も、この村に竹橋美憂はいなかった。その状況で、なぜこの二人が繋がったんだ?」

「……私にはわかりません。それより『自転車』に『しかたない』って、どういう意味なんでしょうか? 一体、二人は何の話を……」

「……『自転車』はよくわからないが、『しかたない』と聞くと、横溝正史の『獄門島』を思い出すな」

「そうなんですか?」

 どうやら亜由美は『獄門島』を読んだ事はないらしい。もっとも、つい最近までごく普通の女子高生だった彼女が読むような本ではないので、それも当然といえば当然であるが。

「あぁ。瀬戸内に浮かぶ島の旧家の三人の娘が見立てに沿って殺されていくという内容でね。作中である事件関係者が発した『きちがいじゃがしかたがない』という言葉が、事件の真相解明に大きな役割を果たす事になる。もっとも、有名な文言ではあるが『きちがいじゃが』の部分は現代だと放送禁止用語になっているから、この作品がドラマなどになると話の大幅な改変が当たり前になりつつあるがね」

「はぁ」

「もっとも、そこで使われたトリックは今回の事件とは全く関係ないものだから、この小説は全く何の参考にもならないがね」

「じゃあ、『自転車』の方は?」

「そっちの方は現段階ではさっぱりだ。今回の事件で自転車が使われたというような話は聞かない。強いて例を挙げるなら……涼宮事件の際に、名崎証言の名崎義元が自転車をこいでこの診療所に向かっていた事くらいだが、だからどうしたと言われればそれまでの話だ」

「確かにそうですよね」

 そんな事を言いながら診療所から出ると、気付けばすでに太陽は西に沈みかけようとしている。またこの村に、暗く先行きの見えない夜が訪れようとしていた。

「ひとまず、捜査本部に戻って情報の共有だ。この後の事に備える必要がある」

「犯人、どう動くと思いますか?」

「何とも言えんね。ただ……悔しいが、現状でこちらができる事が限られているのも事実だ。何とか次の犯行は防ぎたいところだが……」

 そう言いつつ、榊原の表情が険しくなっているのを、亜由美は見て取っていたのだった……。

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夕闇先生は露骨にうさんくさいが、鳴さんのような子供が本を見に来たりしても許してるので実はいい人っぽい。偽悪的な。 胡散臭さを増してホラー転向した京極夏彦先生のイメージ。
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