第十二章 神隠しバス
蝉鳴神社地下に隠されていた戦時中の遺体焼却炉の発見。そして、その焼却炉の中から見つかった比較的最近の焼死体。……それらのニュースは、発見から数時間以内には村中に知れ渡る事になった。
発見された焼死体はすぐさま地上に搬出され、司法解剖のために再び航空警察隊のヘリが遺体を岐阜市内へ搬送するために飛び立つ事となった。そして、それと同時に岐阜県警の刑事たちは、大挙して堀川家の前に押しかけていた。
「だから、この家の中に入る事は許さんと……」
堀川盛親が額に青筋を立てて追い返そうとするが、今回は警察側も引くに引けない事情があった。
「残念ですが、もはやそんな押し問答をしている場合ではなくなりました」
先頭に立つ柊が冷酷に告げる。
「何を……」
「情報が伝わるのがやけに早いこの村の事ですからすでにご存知かと思われますが、数時間前、神社の地下から見つかった戦時中の焼却炉から、最近焼かれたものと思われる焼死体が発見されました」
「知っている。しかし、それが一体……」
「現場で検視官が行った簡単な検視の結果、骨の様子などからこの遺体はおそらく女性。それも、少なくとも二十歳以下の若い人間ではないかという判定が下されました。この村で姿が見えない若い女性……正直、我々としては心当たりは一人しかいないわけなのですがね」
その言葉に、ようやく盛親の表情が変わった。
「ま、まさか……」
「もう一度言います。この家を捜索させてください。事態がこうなった以上、我々としては手段を選んでいられません。それでもなお拒まれるおつもりなら、直ちに岐阜地裁に家宅捜索令状の交付を申請する事も辞さないつもりです。事がここに至れば、裁判所側もそれを拒む事はないでしょう」
「何を言って……」
「我々が得たいものは一つです」
そして柊は告げる。
「堀川頼子さんが使っていたクシかブラシ……もしくは、生まれた時のへその緒でも残っていればなおいいですね。とにかく、彼女のDNAのサンプルになりそうなものを貸して頂きたい」
「何のために……」
「決まっているでしょう」
柊は容赦なく告げた。
「今回発見された遺体と堀川頼子さんのDNA鑑定を行いたいと考えています。一致しなければそれはそれでよし。ですが……我々の考えでは、この両者は一致するはずです」
「き、貴様……まさか……その遺体が頼子だと……」
「何卒、捜査にご協力を」
柊はとどめといわんばかりに慇懃無礼に頭を下げる。その態度に対し、盛親もついに反論しきれなくなってしまったのだった……。
それから数時間後の深夜十時。こんな時間にもかかわらず蝉鳴学校は明かりが煌々と輝き、捜査本部が置かれている教室内では臨時の捜査会議が開かれていた。
「結論から報告します。本部の科捜研からの報告で、問題の地下焼却施設の中から見つかった焼死体が、失踪中の堀川頼子のものである事が間違いないと立証されました」
鑑識からのその報告に、刑事たちの間に緊張が走る。
「確かか?」
「DNA鑑定は現在も続行中ですが、それよりも早く別の手懸りから立証されました。被害者……あえてそう呼ばせて頂きますが、被害者の堀川頼子は、下宿している岐阜市内で一年ほど前に歯医者に通っていた事があり、その歯医者で歯の型取りを行っていました。その歯型と、発見された焼死体の歯型および治療痕が完全に一致。両者は同一人物であると判定して間違いないそうです」
「死亡推定時刻は?」
これについて、鑑識職員は首を振った。
「何分、焼死体ですので詳しい所はわからないそうです。ただし、遺体の炭化具合や焼け残った臓器の具合などから少なくとも二十四時間以内という事は考えにくく、おそらく数日前ではないかと結論付けられています」
「数日前……」
となれば、少なくとも二十四時間以内に発生した安住家への放火事件を彼女が起こす事はできない。というより、そもそもあの蝉の異常な羽化が榊原の推測通り地下の焼却炉が発した熱によるものだとするならば、この焼却炉が燃えていたのはまさに境内で飯里稲美が射殺された事件発生時そのものであり、つまりこの死体が燃やされていたのもその頃で、必然的に燃やされていた彼女が事件に関与しようがない事は自明となってしまうのだ。
「彼女は犯人ではなかった……。それどころか、事件の最初に殺された第一の被害者だった可能性さえあるわけか」
柊はそう呟くと、さらなる報告を鑑識に求めた。
「被害者の死因は?」
「これが恐ろしい話なんですが……解剖した結果、肺の中から大量のすすが発見されました。となれば、体が炎上して事切れる最後の瞬間まで、彼女は息をしていたという事になります」
「それはつまり……」
「あの地下の焼却炉の中で文字通り生きながら焼かれた……そう考えてもらって結構かと思います。逃げる事もかなわず助けを呼んでも誰も来ない……そんな絶望の中、全身を焼かれ、文字通り死ぬまでのたうちながら、苦しみ抜いて死んでいったと考えられます。正直な所、鑑識生活も長いですがここまで悲惨な死に様を今まで見た事はありません。想定しうる中で最低最悪の殺し方といっても過言ではないと思われます」
それは、考えられる限りもっとも悲惨で残虐な死に様だった。そしてそれは、この事件の犯人が被害者たちにぶつける『憎悪』の激しさと『狂気』の強さを余すことなく伝えていると言っても過言ではなかった。
「榊原君、君はどう思う?」
不意に、正面の汐留が後ろの席の榊原に話を振った。榊原はその問いに対してゆっくり立ち上がると、おもむろに淡々とした口調で告げた。
「……少なくともこれで、飯里稲美が殺害された理由は明確になったと思います」
「というと?」
「単純明快です。おそらく、飯里稲美は堀川頼子を探す過程であの神社を訪れ……そしてそこで、犯人が堀川頼子を焼却炉で殺そうとしている場面を偶然目撃してしまった。だから、犯人としては目撃者を射殺せざるを得なかった……そう考えればすべてに納得がいくはずです」
榊原の推理に刑事たちはざわめく。
「つまり、彼女の殺害は犯人にとって予定外の事だったと?」
「えぇ。そうでなければ殺害される動機のない彼女が殺された理由が見えてきません。おそらく、犯人は元々地上で誰かに発砲するつもりはなかったと思います。この静かな村でそんな事をすれば、すぐに誰かが銃声がした場所に駆け付けてくるのは目に見えていますから。にもかかわらず今回、そのリスクを冒してまで銃声が発生する犯行を選択した事に私はずっと疑問を持っていましたが、これが予定外の殺人だったと考えれば充分に説明がつきます」
「では、本来の拳銃の用途は?」
「堀川頼子が発見された今となっては明確です。本来の標的である彼女を抵抗させる事なくあの地下焼却炉に追い込むため。いくら彼女でも、相手が拳銃を構えているとなれば、実際の発砲の有無にかかわらずいう事を聞かざるを得ないでしょう」
「それが本当なら、状況は変わってくる。大津留巡査殺害の動機は当初の推測通り拳銃を奪う事。そして、飯里稲美殺害は、犯行現場を見られた事による口封じでいわば偶然であると推測できた。ならば、犯人が真に動機を持っていたのは……」
汐留の言葉を、榊原が静かに続けた。
「言うまでもなく、堀川頼子です。つまり第一の事件は、全ては堀川頼子をあの焼却炉で殺害するために発生したものだったのです。焼却炉で殺害したのは犯人の彼女に対する憎悪もあると思いますが、それ以上に彼女を行方不明扱いにし、その後の犯行のスケープゴートにするという目的もあったと思いますがね。もっとも、予想外に早く彼女の遺体がこうして見つかった事で、その目的については我々が一矢報いた事になるわけですが」
いずれにせよ、ここへきてようやく第一の事件の一面が明らかになった形である。
「となれば、第一の事件における真の標的は堀川頼子で、第二の事件の標的は確実に死ぬ場所に仕掛けを施された安住梅奈という事になる」
「なら、犯人の目的は巫女候補の殺害か?」
「いや、それなら安住梅奈の殺害はおかしい。彼女は今回の巫女候補にはなっていないぞ」
刑事たちが議論する中、不意に榊原が発言した。
「確かに安住梅奈は今回の巫女候補にはなっていません。しかし、涼宮事件当時の巫女候補の一人ではあります。そして、それは堀川頼子も同様です」
その言葉に、全員の顔色が変わった。
「まさか……犯人の狙いは、涼宮事件当時の巫女候補という事ですか?」
「何度も言うように、今回の一件は明らかにあの涼宮事件に関わっており、さらに言えばそもそもの事件の発端となった小里ノートに書かれている事も、その当時に起こっていた巫女争いについての告発です。ならば、あの時の巫女騒動が今回の事件の動機に深くかかわっていると考えても何らおかしくはないはずです」
「ちょっと待て! それが本当なら……」
汐留の表情が険しくなり、榊原も大きく頷いた。
「この推理が正しいなら、犯人の次の標的になる可能性がある人間は二人。涼宮事件当時の巫女候補だった現巫女の左右田常音と 同じく候補者の一人だった雪倉美園です。しかも今までの傾向を見るに、この犯人は目的を達成するためならば、その周囲にどれだけの被害が発生しようと一向に構わないという非常に危険な思考タイプの人間です。それは第一の事件における大津留巡査と飯里教諭、第二の事件における安住煕正の例を見れば一目瞭然でしょう。犯人はすでに本命とは無関係であろう人間を容赦なく三人も殺害している。おそらく……相手が刑事であっても全くためらわないでしょうね」
榊原のその言葉に、刑事たちの表情が一気に引き締まった。今さらながら、自分たちがどれだけ危険な犯人を相手にしているかを理解した形である。
「ただし、ここまでの推理は証拠らしい証拠のない私個人の推論に過ぎません。この推理自体が間違っている可能性もありますし、仮に合っていたとしても、この推理だけでこの村の権力者である左右田元村長や雪倉統造・笹江夫婦を説得するのは不可能に近いでしょう。しかし……」
「わかっている。推測とはいえ、可能性がある以上、何もしないわけにはいかんだろうな」
汐留はそう言って柊に合図を送り、柊も深く頷いた。
「左右田常音、雪倉美園の二名に加え、念のために現巫女候補の竹橋美憂、名崎鳴の周囲を特に警戒します。もっとも、向こうが拒否しなければという条件付きではありますが」
「わかってはいたが、村側が捜査に非協力的すぎる。それが犯人の思うつぼだという事がどうして理解できないのか……」
汐留の言葉に、刑事たちは重苦しい沈黙で答えた。代わって柊が問いかける。
「問題の地下焼却炉についての詳細は?」
これについては安住家に引き続き現場の調査を行った火災調査官が報告する。
「部屋の大きさは十メートル四方。四方の壁の中にガソリンを入れるタンクがあり、壁に何カ所も設置された噴射口から火のついたガソリンを噴射する事で部屋の中の物体を焼き尽くす仕組みのようです。一種の火炎放射器のようなものですね。あと、東側の壁に直径五十センチほどの金網付きの噴気孔が確認され、おそらくこの噴気孔は神社東側の山中のどこかに通じていて、焼却時にはそこから煙が噴き出ていたと思われます。ただ、燃やされたのが夜間の場合、暗闇のため煙を視認する事は不可能かと」
「そんな代物があの神社の地下に眠っていたとはな。神様とやらの罰が当たっても仕方がない話だぞ」
汐留は苦々しい表情で呟く。その間にも調査官の報告は続いた。
「どうやら戦時中にタンクにガソリンを入れられたまま放棄されたようで、一度だけ再び焼却設備を使用する事が可能な状態のまま、戦後から今に至るまでずっと眠り続けていたようです。また、地蔵の下から発見された施設の扉を開けるための装置ですが、焼却炉を開けるための上のダイヤルキーとスイッチ以外の装置については、焼却装置を実際に作動させるスイッチと、タンク内のガソリンの残量を示すメーターだと判明しました。赤のスイッチで焼却炉を稼働し、黒のスイッチで焼却炉を停止するシステムだったようです。つまり、犯人は被害者をあの地下焼却炉に閉じ込めた後で扉を閉め、その後地上で焼却装置を作動させる事で、自らの手を下さずに被害者を殺害する事ができたという事です」
「……状況から考えると、涼宮事件直前に亡くなったという先代神主の油山山彦氏は確実にこの地下焼却炉の存在を知っていたはずだ。というより、焼却炉の設置を推し進めた張本人の可能性すらある。いくら当時の軍部でも神社の主である彼の許可なしにこんなものは作れないはずだし、当の山彦氏は予備役になってなお軍部と繋がりがあった節があるからな」
「問題は、山彦氏以外でこの地下焼却炉の存在を知っていた人間が誰か、という事ですね」
汐留の言葉に柊がそう言って付け加える。だが、実際のところそれは不明と言わざるを得なかった。秘密の存在とはいえ、生前の山彦氏が直接その存在を口にしていた可能性や当時の記録を残していた可能性がある以上、誰がその存在を知っていてもおかしくないと言わざるを得なかったからだ。
「ところで、堀川家の家宅捜索の結果はどうなった?」
堀川頼子の死亡が確定した事で、必然的に堀川家に対する家宅捜索も実行に移されていた。今回ばかりはさすがの堀川盛親も捜索を拒否する事はできず、捜索自体は比較的スムーズに進んだという事だった。が、立ち上がった刑事の表情は、あまり芳しくないものだった。
「堀川頼子の私室を中心に調べましたが、彼女は岐阜市内の学校から帰ってきてすぐに事件に巻き込まれていますので、私室内はほとんど片付いた状態でした。手懸りらしい手懸りと言えば、彼女が持ち帰ってきた帰省用の荷物という事になりますが、その中にも気になる物は何も」
「携帯電話はどうだ?」
「室内にはありませんでした。改めて電話会社に通話記録を問い合わせてみましたが、失踪直前から電源が切られたままだという事です。状況的に、焼却炉で被害者もろとも焼かれてしまったと思われます」
「そうか……」
汐留は苦々しい顔をする。が、その刑事はさらにこう言葉を続けた。
「ただ先程、県警本部から一つ気になる連絡が」
「何だ?」
「岐阜市内での堀川頼子の動向について改めて調べた所、彼女が別の犯罪に関与している疑いが浮上したとの事です」
思わぬ情報に、捜査本部にざわめきが起こる。
「別の犯罪というのは?」
「昨年の八月……つまり約半年前という事になりますが、夜間に岐阜市内の公園で一人の男性が何者かに襲われて暴行を受け、所持していた財布や腕時計を奪われたという強盗致傷事件が起こっています。被害者の男性は一命こそ取り留めましたが意識不明の重体で、半年経った今も意識が戻らない状況が続いています」
「それ、もしかして天田議員の事件ですか?」
と、別の刑事が心当たりがあったのかそんな発言をし、その刑事は深く頷きを返した。
「はい。被害者は岐阜市議会議員の天田弘毅。同僚議員との会食後に自宅まで徒歩で帰宅中、途中の公園で何者かに襲われたとみられています。担当は岐阜中央署ですが、捜査担当者の話によると、現場となった公園周辺ではかねてから中高年のサラリーマンを狙ったおやじ狩りが頻発していて、そのおやじ狩りが相手が市議会議員であるとは知らずに天田議員を襲撃したとみて捜査を進めているそうです」
「確か、その事件は犯人の一部が捕まったと聞いているが」
汐留が重々しい口調で言う。
「はい。問題のおやじ狩りですが、実は岐阜市内の不良高校生を中心とする若者複数人のグループによる犯行で、そのうち少年二人と少女一人の三人が年末から年始にかけて次々と逮捕され、全員が犯行を認めています。ただ、彼らの自供によるとこのおやじ狩りグループは男四人と女二人の合計六名で構成されていたらしく、あと三人が今もまだ捕まっていません。というのも、この六人は市内のゲームセンターで遊んでいた若者たちが意気投合して即席のグループになったものなのですが、名前もそれぞれが自称したニックネームで呼び合っていたらしく、互いの素性などはよく知らないまま犯行に及んでいたようなのです。なので、メンバー同士のつながりが希薄で、何人か捕まえても他のメンバーについてよく知らないというたちの悪い状況になっていると言います」
「その程度のつながりで強盗事件を起こせるとは、何とも嫌な世の中になったものだ」
汐留が吐き捨てるように言う。
「ただ、襲撃された天田議員の服などには犯人の指紋が付着しており、その照会作業が今も続けられていました。で、ここからが本題なのですが、先程の家宅捜索で堀川頼子の部屋から押収された彼女の指紋が、この天田議員襲撃事件の現場に残されていた指紋と一致したという連絡が入ったのです」
思わぬ事実の発覚に、刑事たちは険しい顔を浮かべ、汐留はさらなる情報を求める。
「つまり、堀川頼子が件のおやじ狩りの捕まっていないメンバーの一人である可能性が出てきたわけかね」
「その通りです。どうも彼女には平時から、良家のお嬢様という表の顔とは別の裏の顔が存在していたようですね」
「うむ……」
にわかに話がきな臭いものになってきたと誰もが感じ取っていた。
「一応聞くが、もし巫女候補が何らかの犯罪を犯していた場合、その人物は巫女になれるのか?」
汐留の疑問に対し、柊は慎重な口調でこう答えた。
「詳しくは今の巫女なり油山神主なりに聞いてみなくてはなりませんが、まず無理だと思います。いくら山奥の閉ざされた村でも、さすがに犯罪者を巫女にするような事はないと思いたいものです。しかも、被害者はよりにもよって岐阜市の市議会議員。下手に彼女をかばうと高山市議会議員を務める左右田元村長の立場が危うくなりますし、彼の失脚はこの村の存続そのものにもつながりかねません。どれだけ有力な家の娘だったとしても、他にも巫女候補がいるのに、そこまでのリスクをこの村が負うとは思えないのですが」
「それもそうか……」
と、ここで山岡が質問を投げかける。
「疑問なんですが、父親の堀川盛親や村の他の有力者たちは、彼女がおやじ狩りのメンバーで、半年前に天田議員を襲撃した事実を知っていたんでしょうか?」
「どうだろう。家宅捜索の時の感触では知らなかったようにも見えるが……」
「そもそも警察も今まで気付いていなかった事実に、村からほとんど出ていない彼らが気付けるとも思えない。気付いたとすれば彼女自身が父親である堀川盛親に告白したという事になってくるが、果たしてそんな事をするだろうか?」
「うーん……」
いくつか意見が出るが、決定的なものはないようだった。この点については今後の調査を期待するしかないようである。
「失礼、一つよろしいでしょうか?」
と、そこで声を上げたのは、一番後ろで捜査会議を黙って聞いていた榊原だった。急な発言に戸惑いつつも、柊は咳払いしながら許可を出した。
「構いません、どうぞ」
「先程、岐阜市で発生した天田議員の襲撃事件で被害者の財布と腕時計が盗まれたと言っていましたが、その盗難品は見つかっているのですか?」
思わぬ質問だった。柊が報告していた刑事の方に視線をやると、刑事は緊張した様子でその問いに答える。
「担当する岐阜中央署の話では、腕時計については捕まった三人のうちの一人の自宅から見つかりましたが、財布については見つかっていないそうです。三人の自供によれば、奪った財布の中に入っていた現金はその日のうちにゲームセンターなどで使い切ってしまい、残った財布についてはブランド品だった事もあり、捕まっていない方の少女がもらったという事です」
「捕まっていない少女、というのは今までの話の流れで言うと堀川頼子という事になりますか?」
「現状ではその可能性が高いと考えられます」
「もう一つ。そのおやじ狩り事件が起こったのは八月という事ですが、実際問題としてその当時の堀川頼子のアリバイはどうなっているのですか?」
「それは現在岐阜中央署の担当者が確認中ですが、夏休み期間中ですので明確なアリバイはなさそうです。一応、お盆期間に一週間ほど実家のあるこの村に帰省していたようではありますが、問題の天田議員襲撃事件が起こったのはその帰省よりも三日ほど前の話ですので、これは問題にはならないと思います」
「なるほど……ありがとうございます」
榊原の質問はそれだけだった。他に何かないかと柊は部屋を見回すが、幸いというか何というか、それ以上の質問はないようだった。
「とにかく、彼女がおやじ狩りのメンバーだったかどうかの捜査は、今の所は担当する岐阜中央署と県警本部に任せるしかない。こちらはやれる事をやっていこう」
会議を締めくくる汐留の言葉に、刑事たちは黙って頷いたのだった。
捜査会議が終わった後、刑事たちがそれぞれの捜査に移る中、榊原は蝉鳴学校の廊下で誰かと携帯で話をしていた。
「わざわざ直接私の携帯に連絡してくるとはね」
『事態が切迫しているようですので、少しでも情報は早い方が良いと判断しました』
「……結局の所、斎藤、お前の予想が当たってしまったわけだが、予想以上に事件は複雑化している。情報がほしいのは事実だ」
電話の相手は、今回の一件を直接榊原に依頼し、新庄を県警に送り込んできた張本人でもある警視庁刑事部捜査一課の斎藤孝二警部だった。
『榊原さんをもってしても事件を防げませんか』
「残念だが、今回のこれはいつもの事件とは明らかに性質が違う。もちろん、私も県警も全力は尽くすつもりだが……正直、今後も新たな殺人が発生する可能性はゼロとは言えない。極めて遺憾ではあるがね」
『榊原さんにそこまで言わせますか』
「それほどの相手という事だ。正直、私が今まで対峙してきた中でも最悪クラスの犯人になる可能性がある。こちらとしても覚悟を決めて捜査に臨む必要がありそうだ」
少し厳しい声でそう言ってから、榊原は本題に入った。
「話を戻そう。こうして連絡してきたという事は、頼んだ件の結果が出たという事か?」
『はい。昨日榊原さんから依頼のあった、涼宮事件前後の美作宿の宿帳に書かれていた『杉沢村夫』という人物についての報告です。山梨県警に照会しましたが、結論から言えば、山梨県丹波山村に居住、もしくは本籍が置かれている人物に、該当する名前の人物は存在しませんでした。書かれていた番地も存在しないそうです』
「やはり偽名か」
榊原は眉をひそめるが、すぐにこう続けた。
「新庄に送ってもらった写真は確認したか?」
『はい。問題の美作宿の宿帳の該当ページの写真ですね。すぐに鑑識に回しました』
榊原は新庄にこの一件を頼む際、問題の宿帳を携帯で撮影した写真も同時に警視庁に送ってもらっていた。そして、どうやらその行為は吉と出た様子である。
『送られてきた写真の文字を鑑識で筆跡鑑定しました。その結果、『イキノコリ事件』後に行われた家宅捜索で押収された同事件の被害者の遺品に残されていた筆跡と完全に一致。『杉沢村夫』の正体は、筆跡を見る限り、同事件の被害者であり、バスジャック犯でもあった浪人生・須賀井睦也のものと考えて間違いなさそうです』
「須賀井睦也……」
まさかここでもう一度その名前を聞く事になるとは思わなかった。
「つまり、須賀井は涼宮事件当時、この村を訪れていたという事か」
『筆跡鑑定の結果を信じるならそうなります。しかも偽名で宿泊しているとなれば、かなり怪しいと言わざるを得ません』
いわゆる『イキノコリ事件』が発生したのは二〇〇四年で、涼宮事件の発生は一九九九年。二つの事件には五年の開きがある。そしてイキノコリ事件当時、この事件の被害者になった須賀井睦也は大学受験を立て続けに失敗して二浪しており、年齢は二十歳だったという。となれば、須賀井がこの村を訪れたのは十五歳の頃……おそらく中学三年生の頃という事になる。しかも宿泊記録を見る限り、訪れたのはたった一人での事だったようだ。
「須賀井は確か東京の人間だったな」
『はい。本籍は東京都町田市で高校まではそこに在住。イキノコリ事件当時は八王子市内のアパートで一人暮らしをしていました』
「東京の中学生がたった一人でこんな岐阜の山奥の小村の宿に偽名を使って宿泊する……少なくとも、異常な話なのは確かだ」
問題はその際の須賀井の目的と、涼宮事件との関係である。もしかしたらそれが明らかになれば、本人が死亡してしまったため明らかにされないままになっていた、イキノコリ事件の直接的なきっかけとなったバスジャック事件の真相が明らかになるかもしれなかった。
「須賀井の家庭環境は?」
榊原が確認する。イキノコリ事件で殺害されたとはいえ、バスジャック犯でもあった須賀井の経歴は事件後に被疑者死亡のまま警視庁によって捜査されているはずだった。
『それですが、須賀井は幼い頃に両親が離婚しており、その後町田市在住の父方に引き取られています。ただ、須賀井には母方に引き取られた姉がいましてね。その姉との仲は良かったようです』
「姉……」
『名前は杉沢香江奈。須賀井とは六歳差の姉で、須賀井が中学生だった当時は八王子総合大学文学部に通う大学生でした』
どうやら、偽名に使った「杉沢」の名字はこの姉の名前からきているらしい。だが、斎藤は彼女についてさらにこんな情報を続けた。
『問題は、その姉が二〇〇七年現在行方不明扱いになっているという点です』
「……穏やかな話じゃないな。事故か、あるいは事件か?」
『公式見解は事件という事になっていますが、実際の所は不明です。あまりに不可思議な事件なので、今となってはオカルトとして語られる事も多いと聞きます』
そう前置きしてから斎藤は告げた。
『正式名称は『鳩野観光夜行バス失踪事件』。今から十年前……『涼宮事件』発生の二年前に当たる一九九七年に発生した一種の「怪事件」ですが、覚えていませんか?』
その事件名を聞いて、榊原の表情が一気に険しくなった。
「あの事件か。私も概要程度しか知らないが……」
『名古屋駅前から八王子経由で新宿駅に向かっていた夜行バスが山梨県下で忽然と姿を消し、乗客乗員はおろかバス自体も現在に至るまで発見されていないという「平成最悪の神隠し事件」です。須賀井睦也の姉・杉沢香江奈はこの事件で謎の失踪を遂げた夜行バスの乗客だったんです』
斎藤の言葉に、榊原は新たに捜査線上に浮上した件のバス失踪事件についての情報を思い返していたのだった……。
正式名称を『鳩野観光夜行バス失踪事件』、通称『夜行バス神隠し事件』と呼ばれるその事件が発生したのは、斎藤の言うように一九九七年の八月十二日から十三日にかけての事だった。
八月十二日の夜、JR新宿駅前へと向かう一台の夜行バスが愛知県のJR名古屋駅前から発車した。この夜行バスこそが、後に「平成最悪の神隠し事件」と呼ばれる事になるこの事件の主役となるバスであった。このバスは名古屋市内に本社がある『鳩野観光』というバス会社が運行しており、名古屋駅前を発車した後は適宜パーキングエリアでの休憩をはさみながら中央自動車道を東へひた走り、途中でJR八王子駅を経由した後に最終目的地の新宿駅前に到着する運行計画だった。乗員は交代要員を含めた運転手二名と乗客十三名の合計十五名。行程は順調に進み、少なくとも最終休憩地点である釈迦堂パーキングエリア(山梨県)に到達した事までは後の捜査でもはっきりしている。実際、このパーキングエリア内に設置された防犯カメラに、駐車する問題のバスの車体がかすかにではあるが映っていた事が後の調査で確認された。
だが、この釈迦堂パーキングエリアで目撃されたのを最後に、十名以上の乗員を乗せたこのバスは突如として忽然とその姿を消してしまうのである。翌十三日の到着予定時刻になっても経由地点である八王子駅前にバスが姿を見せず、さらに時間が経過して終点である新宿駅前到達予定時刻になっても、新宿駅前はおろか八王子駅前にすらバスは現れなかった。運が悪い事にものが夜行バスであったため乗客の身内などによる出迎え等がなく、このため新宿駅前到達予定時刻から一時間が経過しても定時連絡がない事に不審に思った鳩野観光本社が状況を確認した事によって初めて異常事態が発覚(夜行バスの運行は交通事情などに左右されるので、予定時刻から多少遅延したとしてもすぐに異常事態と判断される事は少ない。とはいえ、一時間以上の遅れともなれば話は別である)。その後、会社側が乗客の家族等に問い合わせても誰一人バスを降りた形跡がなかったため、この時点で会社側は異常発生と判断し、まず会社が所在する愛知県警に事件の一報が通報された。
通報を受けた愛知県警は捜査を開始しつつ、同時に中央自動車道が通る長野県警、山梨県警、警視庁に追跡調査を依頼。捜査の結果、山梨県下までは確実にバスが進んでいた事が確認できたため、捜査の主体は山梨県警に移る事となった。この時点で新宿到達予定時刻から数時間が経過。異常事態発生はもはや明らかであったが、中央自動車道及びその周辺で該当バスによる事故等の報告は一切入っておらず、何の前触れもなく突然一台のバスが消えるという事態に、誰もが困惑を覚えたという。
その後、警察は中央自動車道に設置された各種防犯カメラを徹底的にチェックしたが、その結果、問題のバスが予定にはない大月インターチェンジで一般道に降りていたという事実が発覚した。もちろん、こんな事は運行予定の計画外の話であり、会社側の提出した予定では経由地の八王子駅に行くために最寄りの八王子のインターチェンジで降りるはずだった。何かイレギュラーな事態が発生していたのは確実である。が、その後の足取りが一切掴めない。雲をつかむような話に山梨県警は必死の捜査を展開したが、その後もバスの行方はつかめないままでいた。
そんな中、事態が動いたのは十三日の昼頃の事だった。山梨県の一角にある山道を小学生と思しき少女が一人で歩いているのをたまたま通りかかった登山者が発見。駆けつけた地元の警察が身柄を保護して身元を確認した結果、この少女が失踪した夜行バスの乗客の一人だった事が判明したのである。予想外の生存者の発見は世間や警察を驚かせたが、問題はその少女が発見された場所だった。
その場所とは、中央自動車道が東西を貫く山梨県中央部から遠く離れた山梨県北部の東京や長野との県境付近……山梨県丹波山村の近くだったのである。
『……その後、山梨県警はその少女が発見された周囲を徹底的に捜索しましたが、結局問題のバスを見つける事はできず、事件は現在でも未解決のままとなっています。県警の話では、バスそのものが見つかっていない現状では事件とも事故とも言い難く、事件発生から十年が経過した現在は、表向き、県警の数名の捜査員が掛け持ちで調査を続けている状態が続いているそうです』
掛け持ち……すなわち専従捜査員が設置されていないという事は、要するに通常の行方不明事案と同じく、遺留品の発見など何か事件の進展となる情報があるまでは静観の姿勢を見せているという事なのだろう。遺族にとってはとんでもない話だが、警察も暇ではない。何らかの事件とはっきりしているならともかく、生死がはっきりしない失踪状態ではこうした対応もやむを得ない所なのだろう。
だが、榊原は斎藤のあるフレーズにすぐに反応した。
「『表向き』……とは意味深な言い方だな」
『その点については後程詳細を説明します。それで本題なんですが……ご存知のように、この事件では丹波山村近くで発見された乗客の少女がおり、彼女の存在が事件解決の突破口になるかと一時は期待されていました。この少女の身元についてはプライバシーの侵害及び今後の生活に影響が出る可能性があるとして年齢以外は公表されておらず、捜査に携わった県警の捜査員以外知らない状態です。ですが今回問い合わせた結果、山梨県警側が問題の少女の身元開示に応じました』
そして、斎藤は問題の少女の氏名を告げた。
『失踪したバスから生存した少女の名前は「月村杏里」。事件当時は八王子在住の小学四年生。そしてこの名前、もちろん榊原さんはご存知ですね?』
「……あぁ」
榊原は重苦しい声で頷いた。
「月村杏里は……小里利勝と同じく、イキノコリ事件で葛原光明に惨殺された被害者の一人だ。イキノコリ事件当時十七歳。確か、光蘭女学院高等部の二年生だったか」
ここで再びイキノコリ事件関係者の登場である。葛原光明、小里利勝、須賀井睦也に次いで、これでもう四人目である。
『事件当時、月村杏里は名古屋にいる親戚の家に夏休みを利用して一人で遊びに行っていて、その帰りに一人でこの夜行バスを利用。そこで事件に巻き込まれています。ただ、幸いにも丹波山村近くの山道を歩いているのを発見されて無事に保護され、この事件における数少ない生存者の一人となっているんです』
「彼女本人は事件について何か言っているのか?」
榊原は当然とも言える問いを発したが、これについての解答は厳しいものだった。
『それが……県警によると、発見当時、月村杏里は事件のショックからか記憶をなくしてしまっていて、何が起こったのか聞き出す事ができなかったらしいんです。問題のバスで何が起こり、そしてなぜ丹波山村近くの山道を一人で歩いていたのか……その辺りの事情も全く覚えておらず、事件後しばらくは呆然自失の状態で、まともに話す事もできなかったとか』
つまり、当時の山梨県警はせっかくの生存者である彼女から何も情報を引き出す事ができなかったという事である。
「だが、まったく情報がなかったというわけでもあるまい」
『もちろん、山梨県警もいくつかの情報を得てはいます』
それによると、県警は月村杏里が発見当時着ていた服や靴などを押収し、そこに付着していた土などを解析に回していた。だが、靴などから検出された土はいずれも発見地の丹波山村周辺のもので、大した手掛かりにはならなかったという。また、発見当時の彼女は手ぶらで、バスの車内に持ち込んだはずの帰省用の小振りなリュックサックなどは所持していなかったらしい。ついでに言えば、発見当時の彼女は山道を歩いている途中に時々転んでいたのか擦り傷等は確認できたが、骨折など重大な怪我などは確認できなかったという。つまり、何者かに暴行を受けたとか、あるいは事故で大破したバスから脱出したとか、そういう事はなかったようだった。
「……確かに、この情報で今まで明らかになっていなかった須賀井睦也と月村杏里の関係ははっきりした。この二人は両方ともイキノコリ事件の七年前に起こったこのバス失踪事件の関係者だったという事だ。場合によっては、ここから今まで謎に包まれたままだった須賀井のバスジャックの真実を明らかにできるかもしれない」
そう言ってから榊原はさらに続けた。
「だが、須賀井と今回の事件の関係は謎のままだ。その辺りについてはどうなっているんだ?」
榊原の問いに、斎藤はすぐに応じた。
『それなんですがね……実は件のバス失踪事件ですが、「生存者」は月村杏里一人だけではありません』
「ん?」
『県警の話によれば、マスコミには公表されていない生存者がもう一人いたらしいのです。その乗客はバスの所在がまだ明らかだった時点である事情からバスから離れ、その結果バスと共に失踪せずに済んでいました。ただ、バスの失踪前にバスから離れた……つまりバスの失踪に直接関係ないと考えられた事から、警察はマスコミにもこの人物の存在を明らかにしていなかったんです』
「具体的には?」
『失踪前に、問題のバスが山梨県の釈迦堂パーキングエリアで休憩を取ったという話はしましたね。この釈迦堂パーキングエリアが問題のバスの行方が確実に確認できた最後の瞬間であるわけですが、実はこの釈迦堂パーキングエリアでトイレに行き、そのまま取り残されてしまった乗客が一人いたんです』
「パーキングエリアに……取り残された?」
思わぬ話だった。だが、その話を聞いた瞬間、榊原は何かがピンときた様子だった。
「もしかして……その取り残された乗客というのは……」
電話口で斎藤はその名を告げた。
『ご想像の通り……涼宮事件の被害者で、当時はまだ名古屋に住んでいた「涼宮玲音」その人です。事件当時は中学三年生だったようですが』
ついにここで、須賀井と涼宮事件が結びついた。
「しかし、夜行バスに置き去りにされるなどという事があり得るのか? 普通、夜行バスは出発前に乗客が全員乗っているかどうかの確認をするはず。乗客をパーキングに置き去りになどしたら、会社の責任問題になるはずだからな」
『その通りです。しかし、現に彼女は置き去りになってしまっています。当時の涼宮玲音の証言では、気分が悪くなってパーキングのトイレに行き、そこで十分ないし十五分ほどこもっていたのですが、戻ってみるとあるはずのバスがなかったという事です。深夜にもかかわらずパーキングエリアのベンチで途方に暮れた表情をして座っている彼女を不審に思った別の夜行バスの運転手が彼女に話しかけ、置き去りの事実が発覚しました。幸い連絡先がわかったのでパーキングの事務所から警察に通報され、その日は警察に保護されています。ただ……その後問題のバスは二度とその姿を見せず、結果的には置き去りにされて正解だったわけですが』
「そもそも、彼女はなぜそのバスに?」
『友人との卒業旅行だったようです。同じ中学の友人二人と一緒に夏休みを利用して東京観光をするつもりだったらしく、チケットは終着の新宿駅までとなっていました。ちなみに、その友人二人はバスと一緒に失踪し、現在も発見されていません』
「それは……」
何とも辛い話である。
『実際、かなりつらかったようですよ。その友人二人とは日頃から仲が良かったらしく、無事に名古屋の自宅に帰宅した後も一人だけ助かってしまった罪悪感でふさぎ込むようになってしまったんだそうです。それどころか、他の二人の関係者から「何で一人だけ助かったのか?」という風に攻められたらしく、校内でもそれに端を発するいじめが発生していたようです。それで精神が不安定になって、新学期が始まってすぐに不登校になってしまいました。結局、高校受験をする事もできず、何とか中学を卒業した後は二年ほど引きこもりのような生活を続けていました。しかし、しばらくして母親も病死したことでますます彼女の精神面は悪化し、父親の涼宮清治はこれ以上名古屋での生活は不可能だと判断。玲音の療養を兼ねて引っ越しを決断し、その引っ越し先として選んだのが自身の生まれ故郷の……』
「蝉鳴村だった……という事か」
そこから先はよく知っている。蝉鳴村に引っ越してきてからわずか三ヶ月後、涼宮玲音は新しい環境で引きこもりを脱したにもかかわらず、涼宮事件でその若い命を散らしてしまうのである。思い返せば、確かにあの「葛原論文」の冒頭にも、涼宮玲音が中学時代に受けたいじめが原因で引きこもり、事件の三ヶ月前に引っ越してきた旨の事が書かれていた。だが、まさかこのような事情があったとはさすがに予想ができなかった。
「ちなみに、山梨県警は当然涼宮玲音からも事情聴取をしているはずだが、その聴取で彼女が何を話したかわかるか?」
『県警に残っている記録によると、名古屋を出発した後はしばらく友人二人と一緒に小声で話し込んでいましたがそのうちに熟睡。次に目が覚めた時には問題の釈迦堂パーキングエリアに着いていて、すでにバスはパーキングの駐車場に停車している状態だったようです。その時は友人二人も寝ており、他の客もほとんど就寝しているように見えたといいます。で、そこでさっきも言ったように少し気分が悪かった事からバスから降りてトイレに行き、十五分ほどして戻ってきたら、あるはずのバスがなくなっていたという事です』
「バスから出る時に運転席の横を通るはず。その時に運転手の顔を見るはずだが、その点については?」
ところが、その問いに対する斎藤の答えは意外なものだった。
『それが、調書記録によれば、彼女はバスを出る時に運転手の姿を見ていません』
「見ていない?」
『交代要員の運転手は運転席すぐ後ろの席で寝ていたそうですが、肝心の運転席はもぬけの殻だったそうです。ですがエンジンは止まっており、運転手もトイレに行ったのかと思って特に変には思わなかったそうです』
「そのパーキングで降りたのは彼女一人か?」
『証言では、彼女が降りた時に他に降りた人間はいなかったとの事です。もっとも、さっきも言ったように彼女が目を覚ました時点ではすでにバスはパーキングに停車した後で、停車直後に降りた人間がいた可能性は否定できませんが』
現に運転手の姿はなかったようなので、その可能性がないとは言えなかった。
『なお、当然ながら彼女は手荷物を座席に置いたままトイレに行ったので、その荷物も現在に至るまで見つかっていません。携帯電話でも入っていれば位置情報が特定できたかもしれませんが……』
「当時は一九九七年。この当時の女子中学生が携帯電話を持っているとは思えないな」
というより、この年代では携帯電話その物がまだ珍しかった時代である。女子中学生どころか一般人でも持っている人間は少なく、だからこそこんな失踪事件が成立してしまったのだろう(今なら携帯の位置情報で大体の位置はわかる)。実際、斎藤に聞いてみると、当時のバスの乗員の中に携帯電話を持っている人間はいなかったとの事である。
「ひとまず話はわかった。一九九七年に山梨県で一台の夜行バスが失踪する事件があり、このバスは現在まで乗員もろとも行方がわからなくなっている。そしてそのバスの乗員には、月村杏里、涼宮玲音、そして須賀井睦也の姉の杉沢香江奈が乗車していた。事件の結果、涼宮玲音は謎の置き去りをされて難を逃れ、月村杏里は山梨県丹波山村近くで発見。そして須賀井は仲の良かった姉を失う事になってしまい、その後、新たな情報が得られなかった事もあり、県警の捜査は縮小される事になってしまった」
『そうなりますね』
斎藤は同意する。そして、ここまでわかれば須賀井がこの村を訪れた理由にも説明がつくはずだった。
「須賀井は、問題のバス失踪事件の真相を独力で解決するつもりだったのかもしれない」
『どういう意味ですか?』
「警察が捜査を縮小した事を知った当時中学生の須賀井は、自分で姉の行方を探そうとした。だが、バスそのものが発見されておらず手掛かりが全くないこの状況で、中学生の須賀井にできる事は限られている。例えば……数少ない生存者の話を実際に聞くとか」
『……まさか、須賀井は事件当時置き去りにされて助かった涼宮玲音に話を聞くために、蝉鳴村を訪れたという事ですか?』
だが、彼の心情を思えば充分にあり得る話だった。
「警察は二人いた生存者の詳細情報をマスコミには公表しておらず、さらに涼宮玲音に至ってはその存在すら表に出していなかった。だが、中学生とはいえちゃんと調べればそういう人間がいた事を突き止める事が不可能とは言い難い。そして恐らく、二人いる生存者のうち先に身元がわかったのが涼宮玲音の方だった」
『だから、直接彼女に話を聞きに行ったと?』
「そう考えなければ、彼がこの村に来た理由に説明がつかない。仮に両方の身元がわかっていたとしても、存在自体は公表されていた月村杏里と違って涼宮玲音は情報公開そのものがなされていない。ならば、未知の情報源である涼宮玲音の証言を先に聞きたいと思うのが筋だろう」
そして、運命の一九九九年七月二十三日、当時中学三年生の須賀井睦也は偽名で蝉鳴村を訪れた。宿帳の住所を『丹波山村』にした理由は詳しくはわかりかねるが、事件に対する当てつけのようなものだったのではないかと榊原は推測した。
『だが、その矢先に涼宮事件が起きてしまった』
「あぁ。おそらくだが、その時の彼はパニックに陥ったはずだ。何しろ、須賀井には涼宮玲音に対する動機のようなものがあるんだからな」
無論、それは問題の夜行バス失踪事件絡みの関係である。おまけに彼は偽名で宿に宿泊していた。普通に考えれば怪しすぎる人間である。
「だが、幸か不幸か警察は加藤柳太郎を最重要容疑者とみなし、その結果須賀井に捜査の手が伸びる事はなかった。そして、警察が加藤に疑いの視線を向けている間に、彼は村を脱出する事に成功してしまった」
筋は通っている。だが、斎藤はさらに踏み込んだ考え方をしているようだった。
『榊原さん、実際の所、彼が涼宮玲音を殺害した犯人であるという可能性はないんですか?』
思い切った発言だった。そして、事がここに至れば榊原もそれを考えていないわけがなかった。
「……やはりその考えに行きつくか」
『実際問題として、彼には動機もあり、さらに事件当時蝉鳴村にいたという事も確認されています。加藤柳太郎氏の完全無罪が証明された今となっては、限りなく怪しい人間なのは確かです』
もっとも、問題の須賀井睦也は三年前のイキノコリ事件で葛原光明により殺害されてしまっており、話を聞きたくても聞けないというのが現状だった。だが、榊原には一つ気になっている事があった。
「その件についてだが……村にやってきた須賀井は、涼宮玲音と会う事はできたんだろうか?」
『……どういう意味ですか?』
「葛原の書いた涼宮事件の記録を読んだとき、大きな謎になっている部分の一つに『名崎証言』と呼ばれるものがあった。事件発生の直前、役場職員の名崎義元が被害者と正体不明の男が一緒に歩いているのを目撃したという証言だ。当時、この人物は逮捕された加藤柳太郎氏であると判断され、裁判では検察もそう主張したわけだが、弁護側の反論でこの男が加藤氏であった可能性は現在では事実上否定されている。では、この男は一体誰なのか? 村の人間はこの時間帯に彼女と会った事を完全に否定しており、実際の所、候補となりえる人物も今までは発見できていなかった。だが、須賀井睦也という男の存在がはっきりした今となっては話が変わってくる」
『……まさか』
斎藤もその可能性に気付いたようだった。
「名崎証言に出てくる、事件直前に田んぼ道で涼宮玲音と話をしていたという謎の男……それが須賀井睦也である可能性は否定できない」
斎藤は息を飲む。それも無理もない話で、日本の裁判史にその名を残す涼宮事件の大きな謎の一つ……名崎証言の謎が、今崩れるかもしれないのである。
「斎藤、事件当時の須賀井睦也の身長はわかるか? 写真が残っていればなおいいが」
『身長、ですか』
「裁判で名崎証言が否定された最大の要因は、名崎義元の見た男女の身長関係が実際の涼宮玲音と加藤柳太郎の身長関係と合致していなかったせいだ。被害者の涼宮玲音は女性としてはやや高めの一六三センチメートルで、加藤柳太郎の身長は一六七センチメートル。ところが、名崎証言で目撃された男女は『男性の方が女性よりも頭一つ分高く見えた』となっていて、少なくとも涼宮玲音と加藤柳太郎の身長差ではありえない。この証言をもとに考えれば男性側は少なくとも涼宮玲音よりも十五センチから二十センチほど背が高いはずで、従って涼宮玲音と身長差がほとんどない加藤柳太郎が男性側である可能性は低いと結論付けられた。だが、事件当時の須賀井の身長が一八〇センチ前後だったとすれば、この問題は解決する。中学三年生の男子なら、このくらいの身長でも疑問はないはずだ」
『わかりました。それについてはすぐに調べてみます』
斎藤は即座に了承する。ひとまず、これについては調査待ちである。
「話を戻そう。実際に殺害したか、あるいは単に事件前に会っただけか、あるいは会う前に事件が起こってしまったか……いずれにせよ、須賀井は夜行バス失踪事件についての大した情報を得られずに帰京する事になってしまった可能性が高い。そして、須賀井はもう一人の生存者……月村杏里に行きついた。おそらく、それはイキノコリ事件の直前の話だったはずだ」
『ですが、月村杏里は事件当時の記憶を失っています。だからこそ生存者がいたにもかかわらず、警察の捜査が暗礁に乗り上げたはずです』
「それは須賀井本人もよくわかっていた事だろう。だから……奴は月村杏里の記憶を『無理やり』にでも蘇らそうとした。具体的には、彼女を事件当時と同じ状況に置く事で、だ」
そこで、斎藤は再び息を飲んだ。
『もしかして……イキノコリ事件の発端となった須賀井のバスジャックの動機は……』
「あのバスに乗車していた月村杏里を七年前の事件と同じ状況に置く事で無理やりにでも七年前の事件の記憶を呼び覚ます事が目的だった。だからこそ、ご丁寧に行き先を彼女が発見された丹波山村周辺に指定したと考えれば説明がつく。もっとも……月村杏里が記憶を思い出すどころか、丹波山村に行きつく前にバスは白神村に転落し、葛原光明による『イキノコリ事件』が幕を上げて二人とも帰らぬ人になってしまったわけだが……」
何度も言うが、肝心の須賀井本人が死亡してしまっている現在では、これらの榊原の推理は証拠のない推測に過ぎない。だが、この推理の妥当性が極めて高いのも間違いのない話だった。
「何にせよ、こうなった以上はこの夜行バスの事案もこの事件に無関係というわけにはいかない。山梨県警側は動きを見せていないのか?」
それに対する斎藤の答えは意外なものだった。
『実はその件についてですが、表向きは動いていなかったものの、ここ数年の間に、裏では県警による極秘の捜査が進んでいたようなのです』
「というと?」
『言うまでもなく、生存者の二人が立て続けに死亡してしまっていたからです。一九九九年には涼宮玲音、二〇〇四年には月村杏里。もちろん、これらの事件は夜行バスの事件とは直接的には無関係であり、実際にそれぞれの事件で犯人が捕まっています。しかし、涼宮事件で加藤氏に無罪が下された二〇〇三年辺りから県警の中で検証チームが造られ、二〇〇四年のイキノコリ事件終結直後から通常業務と並行しつつ極秘裏に再捜査が行われつつあったようです』
「なるほどな……山梨県警もさすがにおかしいとは思っていたか」
となると、この先山梨県警との情報共有も必要になってくる可能性があるが、そちらは警視庁に任せた方がいいかもしれないと榊原は思った。
「で、本当の所、山梨県警側は夜行バス事件についてどう思っているんだ? 全く未知数というわけではないだろうが」
『……実は、最近になって、行方不明になっている乗客の中に一人怪しい人物がいる事がわかったそうです。目下の所、この人物の調査を行っているとか』
「何者だ?」
『森永勝昭という男です。事件当時名古屋在住で、職業は運送会社社員。しかしこの男、最近になってずっと未解決だった強盗殺人事件の犯人である可能性が浮上したんだそうです。現場に残されていた指紋とこの男の指紋が一致しました』
「強盗事件、ね」
また新しい事件の出現である。今回の事件、一体いくつの事件が複雑に絡み合っているのか、もはや予測がつかない状態だった。
『一九九七年、夜行バスの事件が起こる少し前の時間帯に名古屋市内で二人組の強盗が銀行の現金輸送車を襲撃。輸送車に乗っていた警備員二名が刃物で刺されて小野崎靖樹という四十三歳の警備員が死亡、もう一人の新津友信という二十五歳の警備員も意識不明の重傷となり、現金五千万円が入ったアタッシュケース二個……つまり合計一億円が奪われたという大事件です。犯人二人はアタッシュケースを一つずつ持って別々に逃亡。しかし、一年前にそのうちの一人が京都市内に潜伏しているところを京都府警に逮捕され、取り調べの結果、共犯者が森永勝昭である事を自供。そして愛知県警による調査の結果、森永が問題の失踪したバスに乗っていて行方不明になっている事が発覚したという流れです。当然、森永が持ち逃げした五千万円入りアタッシュケースの行方もわかっていません』
「つまり……問題のバスには人知れず五千万円の現金が乗っていたわけか」
こう言っては何だが、何か起こるには充分すぎる金額である。
『あるいは、森永自身がバスで何かをしでかした可能性も捨てきれません。何しろ、森永はバスに乗る前に実際に人を一人殺していますから』
「ふむ……」
いくつもの新しい情報が出てきた。少し黙って何か考えた後、榊原は斎藤にこう尋ねた。
「問題のバスの全乗員のリストを見る事はできるか?」
『山梨県警から預かっています。送りましょうか?』
「頼む」
ひとまず、現時点で共有できる情報はこのくらいだった。
『今後ですが、我々警視庁は山梨県警と協力して、夜行バス事件について調べたいと考えています。何かあったらすぐに連絡を取って、情報共有ができるようにしたいと思います』
「同感だ。今回の事件、全ての情報を的確に整理しないと解決はまず不可能だ。心してかかる必要がある」
『もちろんです。では、これで』
「あぁ」
電話が切れる。通話を切ってしばらくすると、斎藤からのメールで問題のバスに乗っていた乗客の名簿が送られて来た。榊原は早速それを確認する。そこには以下のように書かれていた。
『鳩野観光夜行バス失踪事件 乗員名簿(数字は事件が発生した一九九七年当時の年齢)』
【失踪】
・長崎純平(30)……鳩野観光バス運転手
・諸伏哲彦(41)……鳩野観光バス運転手(交代要員)
・廣井国夫(59)……名阪証券第一営業部長
・廣井千代子(56)……日本舞踏家、国夫の妻
・栗原悟(25)……警視庁八王子中央署地域課巡査
・垣内翔馬(22)……名邦大学文学部四年
・桐野瑠美乃(22)……名邦大学文学部二年
・林田智代(27)……ピアニスト
・松尾貫太郎(45)……代議士秘書
・森永勝昭(43)……戸部島運送社員
・杉沢香江奈(21)……八王子総合大学文学部三年
・神寺茉莉(15)……名古屋市立名古屋第二中学校三年
・白小路若菜(15)……名古屋市立名古屋第二中学校三年
【生還】
・涼宮玲音(15)……名古屋市立名古屋第二中学校三年
・月村杏里(10)……八王子市立八王子中央小学校四年
「年齢と所属から見て……この神寺茉莉と白小路若菜が涼宮玲音と一緒にバスに乗ったという子か」
榊原はそう呟いた。もちろん、名簿には須賀井睦也の姉である杉沢香江奈や、強盗殺人犯と目される森永勝昭の名前もあった。
「ひとまず、現状ではこちらの捜査は斎藤達に任せるしかないな。当面、この村から動く事ができない以上、やむを得ないが……」
そう呟きながら、榊原は捜査本部へと戻って行ったのだった……。




