第十章 安住家の崩壊
……それは、あろう事か村にまだ多数の岐阜県警の捜査員たちがいる中で発生した。
蝉鳴村連続殺人事件……その第二の惨劇が起こったのは、最初の惨劇の翌日……二〇〇八年三月九日金曜日の深夜の事だった。
午後十一時頃……ドンッ、と腹に響く振動と鈍い音が、突如として榊原が宿泊していた蝉鳴学校の体育館にまで響き渡った。事態に気付いた榊原が窓から外を見やると同時に、榊原と交代で仮眠をとっていた柊も布団から起き上がって厳しい表情を浮かべた。
「今のは……」
「気付きましたか」
榊原たちだけではなかった。体育館で仮眠をしていた他の刑事たちも、何の前触れもなく村に響き渡った異常な轟音に目を覚まし、何事かと窓から外を覗いたり、体育館から飛び出したりしていく。榊原と柊もすぐに体育館から外に出て、村の方を見やった。
一見すると、闇の中に沈む村の様子におかしな部分はない。だが、そんな暗闇の中で、次第にざわめきが大きくなっていくのがわかる。どうやら、村人たちも今の異常な物音に気が付いたらしい。明らかに異常な事が、今まさにこの村で起きつつあった。
「榊原さん!」
振り返ると、榊原とは別に宿直室に泊まっていた亜由美も飛び出してきていた。
「君も気付いたか」
「今の音は何なんですか? まるで……」
そこで亜由美は思わず言葉を切る。が、榊原はそれに続く言葉を告げた。
「まるで、何かの爆音のようだった……かね?」
「は……はい」
「……どうやら、犯人はまだ事件を終わらせるつもりはないようだ」
榊原がそんな事を呟いた直後だった。不意に村の一角が不自然に明るくなり、その明かりは徐々に大きく……そして赤々と広がっていくのが見えた。そして、その明かりの中央に、まるで陽炎のように揺らめく家屋が崩れ落ちていくのが……
「火事だ!」
刑事の誰かがそう叫び、その直後、村中に半鐘が鳴り響いた。
「くそっ!」
柊はそう叫ぶと火事が起こっている方角へと駆け出し、榊原や亜由美、さらに新庄や山岡たち他の刑事たちもそれに続く。途中、そちらへ向かっている村人たちと鉢合わせになり、先頭を走っていた柊が彼らを捕まえて怒鳴り散らした。
「燃えているのはどこだ!」
「あ、あれは安住の屋敷の方です!」
村人は震えながらも答えを返す。その言葉に、榊原はピンとくるものがあった。
「安住というと……『安住酒造』の安住家ですか?」
「そ、そうです! あの安住の御屋敷が燃えているんです!」
二日目の標的……それは、村の名家の一つである安住家の屋敷であった。榊原の脳裏に、事件発生前に墓地で遭遇した安住梅奈の顔が浮かぶ。
「この村に消防は?」
「じ、自警消防団と、役場の横に小さな消防署の分署があります。場所が場所ですし、村の中には貴重な合掌造の家屋もあって火事でも起こったら大変だから、左右田元村長の陳情で小さいながらもちゃんとした消防の分署を設置してもらったんですが……でも規模が小さいから常駐の消防士も十人以下しかいないし、消防車も一台しかなかったはずです」
村人のそんな言葉と同時に、村の中央から消防車のサイレン音が響き渡った。さすがに消防車は外部の自動車の進入が認められていないこの村においても例外的に進入が許可されているようだが、それでも遠目から見ても激しく燃え盛っているこの火災に対し、消防車一台では到底太刀打ちできそうもなかった。
「とにかく行きましょう!」
榊原に言われて、刑事たちは安住家の屋敷の方へと近づいていく。そしてようやく近くまで到着すると、目の前でまるで何かの怪物のように安住家の屋敷を焼き尽くしている巨大な火柱が飛び込んできた。
「これは……」
いくらなんでも火の回りが早すぎる。だが、榊原はその原因にすぐに思い当っていた。
「安住家は『安住酒造』の経営者。となれば、家の中に大量の酒が貯蔵してあったはずです。アルコールの含まれている酒類は、火災時においては燃料も同じです」
「そういう事か……」
やがて村で一台しかない消防車がやってきたが、この火の勢いでは一台程度ではどうしようもなく、消防士たちも周りに延焼しないようにするのが精一杯のようだった。それは駆けつけてきた村人の自警消防団も同じのようで、消防小屋から持ってきたポンプもほとんど役に立っていないようにしか見えなかった。
「家の住人はどうなった?」
柊の問いに対し、周囲の村人たちが震えながら答える。
「わ、わかりません。使用人たちの姿は見えるけど、安住の旦那様とお嬢様の姿がどこにも……」
と、その時だった。燃え盛る屋敷の中からよろよろと誰かが出てくると、庭先で崩れるように倒れ込んだ。何とか火が回る前に脱出していた使用人たちが慌てて駆け寄り、柊達もそちらに続く。
庭先で全身大火傷となって倒れていた人物……それは、この家の当主である安住煕正その人であった。
「触るな! 誰でもいいから出島先生に連絡して、ここに車を回してくれ! 一刻も早く治療をしないとまずい!」
柊が叫ぶ。この村に救急車がない事はよくわかっている。そして、倒れている煕正が生死をさまようほどの重傷である事は見ただけでわかった。息こそあるものの全身大火傷であちこちの皮膚が剥がれ落ちており、素人が見ても植皮が必要と判断できるほどの重傷である。はっきり言ってこの村にある蝉鳴診療所では対処不可能としか思えないほどの状態で、助かるには岐阜市内にある大病院にでも運んで緊急手術をする必要があるが、正直そこまで持つかどうかも怪しいというのが本音だった。
とはいえ、何にせよできる事はしなければならない。柊は山岡らに指示を出した。
「おい、航空警察隊のパイロットに校庭に駐機中のヘリを準備させろ! ここまでの重傷だと、蝉鳴診療所での対処は不可能だ! ヘリで岐阜市の病院まで空輸するしかない!」
「わかりました!」
「それと、岐阜消防庁にも連絡! 応援の消防車の派遣と、万が一消防車がこの村まで到達できなかった時のために消防ヘリの出動を要請してくれ! 最悪の場合、上空からヘリで鎮火剤をまく必要さえあるぞ!」
と、そこへ騒ぎを聞いて蝉鳴診療所の出島医師が診療所のライトバンで駆けつけてきた。出島医師が駆けおりてくるとすぐに柊や榊原が煕正の状態を説明し、それを聞いて軽く煕正を診察した出島の表情が案の定重くなる。聞いてみると、やはりこのレベルの火傷では大病院での植皮手術が必須で、診療所では応急処置程度しかできないという事だった。
「緊急事態なので、警察のヘリで岐阜市の岐阜中央大学付属病院まで空輸します! あそこならこのレベルの重傷患者に対する手術も可能のはずです! 今すぐ、彼をあなたのライトバンに乗せて蝉鳴学校まで運んでください! そこから後はうちの検視官がヘリに同乗します。彼は医師免許を持っていますので、その点は心配いりません」
「わ、私が一緒に行った方がいいのでは?」
出島がそう提案するが、柊は首を振った。
「この状況下で本業の医師であるあなたが村から離れると、今後何かあった時に今度こそ対応できなくなってしまいます。残酷かもしれませんが、あなたは残ってください」
「……わかりました」
出島も、事件が継続しているとしか思えないこの状況で医者の自分が村を離れるのはまずすぎると理解したのだろう。柊の意見に比較的あっさりと従い、すぐに煕正をライトバンに乗せる準備を始めた。
「残る一人……安住梅奈さんの行方がわかる人はいますか?」
榊原の問いかけに、しかし使用人たちも力なく首を振った。話を聞くと屋敷の中にいた事は間違いないようなので、逃げてきた姿がない以上、もはや最悪の状況を覚悟せねばならないようだった。
「とにかく、今はこの火が消えるのを待つしかありません。この火災が単なる事故なのか、それとも一連の事件の犯人による故意の放火……つまり『第二の事件』に相当するのか。……全ては火災鎮火後の捜査に賭けるしかありません。念のため、消防に火災調査官の派遣を申請しておいた方がいいかもしれませんね」
榊原の進言に、柊も黙って頷いた。だが、なおも榊原はこう続ける。
「それと、刑事たちに臨時の村の見回りをさせてください。昨日のように、一つの事件のどさくさに別の事件を起こされるという事態だけは避けなければなりませんので」
「……わかりました」
すぐさま柊主導で編成が行われ、二人一組でコンビを組んだ刑事たちが臨時の村の見回りのために散っていった。そんな中、ついに耐え切れなくなったのか屋敷の中央の柱がへし折れ、それと同時に屋敷そのものが大きな音を立てて崩れ去り、大量の火の粉が闇夜に舞った。それは、長年この村で権威をほしいままにしていた安住家の崩壊を象徴するかのような光景であった……。
その後の流れは簡潔に記しておこう。出島のライトバンで蝉鳴学校に搬送された安住煕正はすぐに校庭に駐機していた岐阜県警航空警察隊のヘリに乗せられ、医師免許を持つ検視官同伴で闇夜の空へ離陸していった。本来ならこのような真夜中の飛行など危険で認められるものではないのだが、緊急事態であるがゆえに県警の責任での離陸が許可された次第である。
だが、そうした努力もむなしく事態は最悪の結末を迎えた。岐阜市内の岐阜中央大学付属病院に到着するまでは何とか持ちこたえていた煕正であったが、緊急で行われた植皮手術の最中についに限界を迎え、その生涯をこれ以上ない苦しみの中で終える事になってしまったのである。死亡が確認された時点で遺体はすぐに司法解剖に回され、その後、彼は故郷と遠く離れた岐阜市の病院地下の遺体安置室に当面の間安置される事となったという。
一方、村の方でも事態は進行していた。安住家の屋敷を地獄に変えた業火は、出火から六~七時間以上が経過した翌三月十日土曜日午前七時になってようやく鎮火した。柊の予想通り、この村まで続く狭い道を応援の消防車はなかなか進む事ができず、結局朝になって岐阜消防庁のヘリが飛来し、鎮火剤を散布する事でようやく鎮火ができた次第である。もっとも、その頃には屋敷を包み込んでいた紅蓮の炎は屋敷のほとんどを焼き尽くしており、鎮火剤の投下は後始末に近いものだった。また、地元の自警消防団や分署の消防車は近隣に延焼させない事に全力を傾けるしかなく、幸いにもその努力は実って、安住家以外の延焼は防ぐ事ができたようだった。さらに事件後、刑事たちは村中を見回って新たな事件の発生を警戒したが、幸いこの時はこれ以外の事件の発生は確認される事がなかった。
火災鎮火後、直ちに県警による屋敷の捜査が始まり、そこへ安住煕正搬送後に即座に引き返してきた航空警察隊のヘリコプターに同乗して来た岐阜消防庁の火災調査官や検視官も加わって、徹底した現場検証が行われた。その結果、安住梅奈の部屋があったと思しき場所から一体の焼死体が発見され、この焼死体はすぐに蝉鳴診療所に運ばれて検視官立会いの元で出島医師による司法解剖が行われる事となった。そしてその結果、かつて彼女がこの診療所で受けた怪我の治療痕が遺体からも発見された事から遺体が部屋の住人である安住梅奈のものであるとほぼ断定され、後に実施されたDNA鑑定もそれを裏付ける結果が出た事から、遺体は正式に安住梅奈のものであると確定する事となった。
そしてその日の昼過ぎ、新たな事件を受け、蝉鳴学校で緊急の捜査会議が行われる事となったのである。
「結論から申し上げますが、今回の火災、火元は焼死体が発見された安住梅奈さんの部屋だとみて間違いないでしょう」
捜査会議冒頭、新たに呼び出された岐阜消防庁の火災調査官がそのような発言をした。
「他の部分に比べて明らかに燃え方がひどく、そう断言して問題はないと思います。その後、火は木造家屋を伝うように延焼し、屋敷内の酒蔵に保管されていた酒に引火したところで爆発的に燃え広がったと考えてもいいでしょう」
火が回った原因はともかく、思わぬ出火場所に刑事たちはどよめく。
「出火原因はわかりますか?」
柊のその問いに対する調査官の答えも、また意外すぎるものだった。
「端的に言って、何らかの爆発が部屋の中で発生したと思われます。部屋の隅から放射状に破片が飛び散っているのが確認され、発見された焼死体にも細かい破片が突き刺さっていました。これは何らかの爆発が室内で発生した事を示す重要な証拠です」
「爆発……」
これもまた予想外の出火原因だった。だが、出火原因が爆発だとするなら、あの時村に響いた鈍い轟音にも説明がつく。
「しかし、一体何が爆発したんですか? 出火場所の部屋の主である安住梅奈は一介の女子大生に過ぎません。そんな彼女の部屋で何が爆発するというんですか?」
「まさか……爆弾か何かが仕掛けられていた?」
当然真っ先に考えられる予想を刑事の一人が口にするが、火災調査官はそれを否定した。
「いえ、少なくとも現場から、爆弾と思しき部品や成分などは検出されていません。その代りと言っては何ですが、爆心地と思しき場所の近くに石油ストーブと見られる残骸が転がっていました。爆発当時、石油ストーブが爆心地にあったのは間違いなさそうです」
「石油ストーブ、ですか」
今は三月であるが、何しろ山奥にある村だけあって都会に比べて気温はかなり低く、この時期でも石油ストーブをつけること自体におかしな部分はない。というより、捜査本部となっているこの教室でも、今まさにストーブが入れられている状態だった。
「しかし、石油ストーブが爆発する事なんかあるんですか? 例えばストーブその物に製造段階での欠陥があったとかなら話はわかりますが……」
「いえ、こちらの予想では、爆発を起こしたのは石油ストーブではありません。現場からは木材などの破片の他に、細かい金属片のような物も見つかっています。この金属片ですが……おそらく、何らかのスプレー缶ではないかと思われます」
「スプレー缶?」
またしても予想外の物品に、誰もが戸惑いを浮かべる。が、調査官は淡々と説明を続行した。
「これは実際に起こり得る話なのですが、スプレー缶のようなものをストーブの前に置いておくと、熱によってスプレー缶内部の圧力が高まり、放っておくと最終的には爆弾に匹敵するほどの大爆発を引き起こしてしまうんです。日常の何気ない動作でうっかりやってしまいかねない上に、実際にやってしまうと本当に爆弾並みの破壊力が発生してしまうため、日常に潜む危険行為の典型例として知られている現象です」
「つまり、今回の火災は、被害者の部屋の石油ストーブの前に何らかのスプレー缶が置かれた結果発生したという事ですか?」
「私はそう判断します。そのスプレー缶ですが、現場から比較的大きな破片が見つかりまして、そこに書かれていた文字などを読むに、どうも消臭スプレーの類だったのではないかと思われます」
「消臭スプレー……」
それなら女子大生の梅奈が持っていたとしても何らおかしくはない。
「となると、今回の事件は一連の殺人事件に関係なく、安住梅奈がうっかり自身の消臭スプレーをストーブの前に置いてしまったが故に発生した事故、という事ですか?」
ところが、山岡のこの発言に対し、調査官は明確に首を振った。
「いえ、こんな事を言っておいてなんですが、私は本件が人為的な事件である可能性が高いと考えています」
「なぜですか?」
「簡単です。現場から発見されたスプレー缶のものと思しき破片ですが、これがどうも一本のスプレー缶の爆発だけで生じたものとは思えない……簡単に言えば、複数のスプレー缶が一気に爆発したとしか考えられないからです」
その発言に、捜査本部が一気にざわめいた。
「確かですか?」
「えぇ。破片の量がスプレー缶一本にしては明らかに多すぎますし、それに破片を調べてみると、どう見ても消臭スプレー以外のものとしか思えない破片も散見されるんです。こちらをご覧ください」
調査官はそう言ってビニール袋に入れられた別の破片を見せる。そこにはどういうわけか、赤地に『殺』という何とも穏やかではない文字が書かれていた。
「これは……」
「少なくとも消臭スプレーに『殺』の文字が書かれる事はないでしょう。あくまで現段階では私の推測ですが……これ、おそらく『殺虫スプレー』か何かの破片かと思われます」
「殺虫スプレー……あぁ、なるほど」
確かにそれなら破片に『殺』の文字が書かれていても不自然ではない。とはいえ、何とも言えないまがまがしさをその破片は醸し出していた。
「さらにもう一つ、この破片がわかりますか?」
そう言って取り出したのは、今度は黄色の下地をした何かの金属片だった。ただ、その破片には偶然にも製品情報が書かれた部分がわずかながら残されており、そこに不鮮明ではあるが文字が残されていた。
「ここに書かれていた文字を解読したところ、これは消臭スプレーでも、まして殺虫スプレーでもない事がわかりました」
「では、一体?」
「端的に言って、カセットコンロに使用される携帯用ボンベです」
その言葉に、誰もがギョッとした表情を浮かべる。
「それは穏やかではありませんね」
「えぇ。消臭スプレーや殺虫剤ならまだしも、こんなものが女子大生の部屋にあって、ましてうっかりストーブの前に放置するなどという事は通常考えられません。しかも、携帯用ボンベの中に含まれているのはLPG液化ブタンという可燃性の高い物質で、その危険度は他のスプレー缶と比較になりません」
「……正直に言って、どれくらいのスプレー缶がストーブの前に放置されていたと考えますか?」
柊の言葉に、調査官は淡々と結果だけ述べた。
「破片の量から逆算すると、私の推測では最低でも五、六本。下手をすれば十本前後はあったかと」
その発言に、捜査本部のざわめきは最高潮に達した。
「なるほど。確かに、これは偶然による事故とは考えにくいな。いくらなんでも、それだけの数のスプレー缶をうっかりストーブの前に放置するとは考えにくい。明らかに意図的に置かれたと考えるのが妥当だろう」
柊はそう断定する。実際、そう考えなければこの状況に説明がつかないのも事実だった。
「しかし、一体誰がそんな事を?」
「可能性として考えられるのは二人だ。一人目は、問題の部屋で就寝していた安住梅奈本人が自分の意思で置いたというケース……つまり、自殺だ」
「自殺……」
思わぬことを言われて刑事たちの間にざわめきが走る。考えなかったわけではないが、刑事たちの間でその可能性はほぼないと考えられていたからだ。とはいえ、可能性が存在する以上、検証しないわけにもいかない。
「実際、自殺の可能性はあるのですか?」
山岡のその問いに対し、答えたのは意外にも朝一で戻って来た検視官の男だった。
「少なくとも、自殺だとするならこれは安住梅奈の独断で、父親の安住煕正が関与していた可能性は低いと思います」
「どういう意味だ?」
「報告が遅れましたが、実は安住煕正をヘリで搬送中、一度だけ彼の意識が戻り、少し会話を交わす事ができたんです。もっとも、五分くらいの事でしたが」
その報告に、柊の表情が険しくなる。それはつまり、被害者自身からわずかながらではあるが話を聞けたという事に他ならなかった。
「被害者は何と?」
「先に言っておくと、事件の解決に役立ちそうな話は聞けませんでした。というより、煕正本人も何が起こったのかわかっていなかったようです。聞けたのは、自室で就寝中にいきなり部屋が火の手に包まれ、わけがわからないうちに体が炎に包まれたとの事でした。そこまで話すのが精一杯だったようで直後に再び意識がなくなり、その後は一度も目を覚ます事無く亡くなっています。ただ……この反応を見るに、煕正にとってもこの火災は完全に想定外の事のようで、少なくとも煕正と梅奈の親子が合意した上での一家心中の可能性は考えなくてもよいと思います」
「では、安住梅奈の独断による、家族全体を巻き込んだ無理心中という事ですか?」
だが、山岡のその問いに対しては警視庁の新庄が異議を唱えた。
「いえ、この状況で無理心中をする理由がわかりませんし、百歩譲って梅奈に無理心中の動機があったとしても、それならそれで自爆というこのような手法を採用する意味がわかりません。どう考えたところで手間がかかりますし、それにこのやり方では自分以外の人間が確実に死ぬかどうかもわかりません。実際、煕正こそ亡くなりましたが、それ以外の使用人は全員避難に成功しているわけですからね」
確かに、自殺の可能性は現状では完全に捨てきる事ができないのも事実である。だが、状況的にしっくりくる考えではなく、実際、こうして議論しておきながら捜査本部の刑事たちのほとんどが、この一件を自殺とは思っていない様子だった。
「では、仮に自殺ではないとして、第二の可能性は?」
「言うまでもない」
山岡の問いに、柊は厳しい表情で答える。
「安住梅奈……というより安住家に殺意を抱く第三者が明確な殺害目的でスプレー缶を石油ストーブの前に置いたケース……すなわち、殺人だ。そして、現在この村で立て続けに殺人事件が発生しており、殺人犯が未だ野放しになっている現状、その犯人は昨日起こった殺人事件の犯人と同一である可能性が極めて高い」
捜査本部に緊張が走る。
「つまり、今回の一件は蝉鳴神社の飯里稲美、白虎橋の大津留真造に次ぐ、第三の殺人だという事ですか?」
「遺憾ながら、その可能性が高いと言わざるを得ない。正確には事件としては昨日に続く第二の事件。被害者としては第三、第四の殺人という事になるだろうが」
細かい部分を訂正しつつも、柊はこう続ける。
「目的が不明瞭な第一の事件に対し、今回の事件は明確に安住家を狙った犯行だ。しかも、スプレー缶の仕掛けを仕込んだのが安住梅奈の部屋だった事を考慮すると、殺害の優先順位は爆心地にいて確実に死亡する梅奈の方だったと考えるのが妥当だ。よって、今後は被害者である安住家……特に安住梅奈に対する聞き込み調査が必要となってくる。安住家は村の名家だった。となれば、村人たちの尊敬を集める反面、何か恨みを買っていたとしても何らおかしくはない。その辺りの事を重点的に調べる必要があるというのが私の見解だ」
柊の言葉を刑事たちは真剣な表情で聞いている。と、ここで、本部長席でずっと腕組みしながら黙って話を聞いていた汐留が発言した。
「仮にこれが殺人だとするなら、ストーブの前にスプレー缶を置いたのは犯人という事になる。だが、実際問題としてそれは可能なのかね? いくら被害者の安住梅奈が寝ていたとはいえ、他人の部屋のストーブの前にスプレー缶を置くという行為が物理的にできるのかね?」
その問いに対し、発言を求めたのは火災調査官だった。
「助かった使用人に聞いたところによると、被害者の安住梅奈は冷え性で悩んでいたらしく、この時期になると寝る時にストーブを入れたままにしている事が多かったそうです。もちろん、我々火災調査官からすればこの行為はあまり褒められたものではないと思いますし、使用人の話では彼女自身も一定時間になるとストーブが自動的に切れるようタイマーをセットしていたとの事ですが」
「つまり、犯人がする事はストーブの前にスプレー缶を置く事だけという事か」
「基本的に、スプレー缶をストーブの前に置いたとしてもすぐに爆発するわけではありません。スプレー缶の温度が上昇して内部のガスが膨張し、それが限界に達した段階で一気に爆発します。つまり、置いてから爆発するまでの間に時間的な猶予があるわけです」
そう言ってから、調査官は正面の黒板に模造紙に描かれた何かの見取り図を張り付けた。
「簡単ではありますが、生き残った使用人の証言を基に作成した爆心地の部屋の内装図です。この内装図を見ればわかるように、問題のストーブは部屋の隅に置かれていて、その部屋のちょうど反対側に被害者の寝るベッドが置かれている構図になっています。さすがに布団に燃え移る可能性があるので、ストーブとベッドは離れた位置に置かれていたようです。そして、このストーブのすぐそばに、小さな小窓があるのが確認できるのです。この小窓は安住家の裏口近くに位置しており、鍵さえ開いていれば室内に入らずとも、この窓からストーブの前にスプレー缶を設置する事は充分に可能であると判断します」
資料によれば、その小窓は地上から一メートル前後の位置にあり、縦横五十センチ程度の小さなものだった。二枚の窓ガラスがはめ込まれた小さい窓ではあるが、外から物を室内に投げ込むだけなら充分すぎる大きさであるし、窮屈ではあるものの小柄な人間なら出入りできない事もなさそうである。
「問題は、その窓の鍵をどう開けるかだが……」
その問いかけに答えたのは柊だった。
「何しろ問題の窓そのものが吹っ飛んでしまっていますので何とも言えませんが、逆に言えば犯人からすれば後々窓ガラスが吹っ飛ぶ事はわかりきっているのですから、窓にどんな細工をしたところで問題ないわけです。例えば外からガラス切りか何かで穴をあけ、そこから手を突っ込んで鍵を開ける事は充分に可能だったと思われます」
「だが、窓が開けば外からの冷気が吹き込むし、いくら注意したとしてもスプレー缶を置く作業中に多少なりの音が発生するはずだ。寝ていた被害者がこれに気付かないとは思えないが、その点はどうだね?」
汐留の問いに、今度は検視官が手を挙げた。
「それについてはこちらから報告させてください。遅ればせながら、現場から見つかった焼死体を司法解剖した結果、体内から睡眠薬の痕跡が発見されています」
「睡眠薬だと?」
予想外の言葉に場がざわめく。
「生き残った使用人の話では、被害者は先日の犯行でかなり怯えていて精神が不安定になっており、処方されていた睡眠薬を飲んで寝ていたそうです。睡眠薬で眠ってしまいさえすれば、多少の音や冷気では彼女が起きる事はありません。どうも彼女は神経質な性格で普段から精神的な理由で不眠症になる事が多く、日頃から睡眠薬の処方を受ける事が多かったという事です」
「その事実を知っている人間は?」
「村の人間なら誰でも知っていただろうというのが使用人たちの話です」
「その上で、昨日あれだけの犯行があったとなれば、神経過敏な被害者が睡眠薬を服用して就寝する事はある程度予想ができる話だな」
汐留は思案気に頷いた上で、さらに疑問をぶつける。
「部屋の中にスプレー缶を投げ込む事が可能である事はわかったが、そもそも安住家の敷地内に簡単に侵入できるものなのかね?」
これについては山岡が答えた。
「現場となった安住家の屋敷は敷地の周囲を生垣で囲まれていますが、この生垣はそこまで高さがないため強引に突破できない事もなく、そもそも火災の影響で生垣自体が滅茶苦茶になっているため、犯人がここを無理やり突っ切った可能性を否定する事ができない状況です。また、敷地内に入るための正規の入口としては正面の門と裏木戸があるのですが、正面の門はともかく、裏木戸の方の鍵は掛け金式のかなり簡易的なもので、多少時間はかかるとは思いますが、やり方次第では外からでも充分に突破できると思われます」
「つまり、敷地への侵入自体はやろうと思えば可能というわけか」
「はい。肝心の屋敷の戸締り自体はしっかりしているので、多少敷地内に侵入されても問題ないという考えだったようですね」
「わかった。ところで話は変わるが、事件当日の被害者の行動はどうなっている?」
「それについては現在聞き込み捜査中です」
「では、それ以外で何か手掛かりになりそうな事は?」
その問いに対し、立ち上がったのは間瀬だった。
「それについて一つ。現場周辺を調べたところ、焼け跡の中からこのようなものが発見されました」
そう前置きして間瀬が示したのは、ビニール袋に入った一本の焦げたヘアピンだった。
「このヘアピンですが、鑑識で調べた所、行方不明になっている堀川頼子の指紋が検出されたそうです」
「堀川頼子の指紋だと?」
刑事たちがざわめく。堀川家への直接的な家宅捜索は父親である堀川盛親によって現在でも拒絶されたままであるが、岐阜県警側は即座に数日前まで堀川頼子が通っていた岐阜市内の高校に対する家宅捜索に踏み切り、そこに残されていた堀川頼子の私物から彼女の指紋を入手していた。そして、その指紋と安住家の焼け跡から見つかったヘアピンの指紋が一致したというのが間瀬の報告であった。
「高校の卒業アルバムを確認しましたが、堀川頼子がこのヘアピンと同一の形状の物をつけている様子が何枚かの写真に写っていました。岐阜市側にいる捜査員が友人らに聞き込みをしましたが、何年か前のクリスマスに友人数名と東京旅行をした際に購入したもので間違いないそうです。なお、今回の帰郷後に堀川頼子が安住家を訪れた形跡は現時点では確認されていませんので、正式に安住家を来訪した際に偶然敷地内でヘアピンを落としたという可能性はないと考えてよいかと」
「一見すると、堀川頼子が何らかの目的で安住家に不正侵入して、その際にヘアピンを落としたように思えるな」
汐留がかなり遠回しな言い方をする。が、それを聞いてもどういうわけか刑事たちの表情は険しかった。こう言っては何だが、証拠があまりにもあからさま過ぎるのである。
「可能性は二つでしょう。一つは純粋に堀川頼子が今回の爆破事件の犯人で、先程のストーブの仕掛けをしに安住家の敷地内に侵入した際にヘアピンを落とした可能性。この場合、先に起こった飯里稲美殺しと大津留真造殺しも堀川頼子の犯行という事になります。もう一つは、犯人は堀川頼子ではない第三者で、その犯人が失踪中の堀川頼子に罪を擦り付けるためにわざと敷地内に彼女のヘアピンを落としておいた可能性です」
柊がヘアピンに関する情報を簡潔にまとめる。いずれにせよ、証拠のない現状ではおいそれと判断を下す事はできなさそうだった。
「その他、何か手掛かりは?」
この問いかけに苦い顔をして立ち上がったのは鑑識の責任者だった。
「何しろ元が火災現場で大半の証拠が焼け落ちている上に、火災発生直後の救助作業やその後の消火活動で現場はかなり荒らされている状態です。我々も最大限尽くしましたが、残念ながら足跡などの特定はほぼ絶望的と言わざるを得ない状況ですね。むしろ、先程のヘアピンやスプレーの欠片が採取できただけでも奇跡と言っていいかもしれません」
「無理もないか……」
柊も悔しそうに言う。理屈ではわかっているが、認めたくないというのも事実だった。というより、こうした証拠を跡形もなく吹き飛ばせるのを狙ってこの犯行形態を選んだ疑いさえあった。
「今回の事件を受けて、他の有力家……左右田家、堀川家、雪倉家の動向は?」
「現状、大きな動きはありませんが、何しろ村の有力家の一角だった安住家の全滅という緊急事態です。影響力という意味では、先日の飯里稲美殺しや大津留真造殺しの比ではありません。ほぼ確実に極秘の会談などを行って、今後の方針を決めているはずです」
「その方針とやらがこっちの捜査を妨げるようなものでない事を祈るだけだな。もっとも、あまりにも明確な捜査妨害をするようなら、こっちも上層部が対処するはず。今回ばかりは、相手が何をしてきても捜査を妨害されるわけにはいかない」
汐留が苦々しげに言う。本件に関してはすでに警察庁など警察上層部も積極的に動いているため、いざとなれば村側との政治闘争もやむなしというのが今回の警察側の方針である。法澤公康岐阜県警本部長からの連絡ではすでに先日の時点で左右田村長側から捜査の緩和を求める要請があったようだが、ああ見えて百戦錬磨の警察官僚である法澤はのらりくらりとこれをかわしたという話であった。現場の知らない所で、上層部は上層部の戦いを演じているのである。
「とにかく、引き続き行方不明の堀川頼子の捜索、及び安住家……特に安住梅奈に恨みを持つ人間の特定作業を徹底しろ。あと、残る有力家と巫女候補の調査も怠るな。最悪、まだ殺人が続く恐れもある。そうなった場合、狙われる可能性が高いのがこれらの家だ」
「ハッ!」
刑事たちが一斉に飛び出していく。汐留と柊はそれを見送ると互いに顔を見合わせ、ただ無言に険しい表情を浮かべたのだった。
そして警察の予想通り、同じ時刻に支所の会議室で村の有力者たちによる緊急会合が行われていた。参加者は左右田元村長に堀川盛親、雪倉統造、雪倉笹枝の四人。そして部屋の隅に田崎と猪熊が控えている。本来ならこの建物の主である支所長の田崎が中心になるべき場面なのだが、むしろこの中では田崎が一番格下といった風で、話は実質的に実力者四人で行われている状態だった。
「まさか、一晩で安住家が壊滅するとは……。こう言っては何だが、相手を舐めとった」
雪倉統造が苦々しげにそう吐き捨てる。そしてそれは、他の面々も同様のようだった。
「安住家の葬儀はどうする?」
「喪主はうちがやるしかないわね。ただ、この状況だからすぐにはできそうにないわ。そもそも遺体がいつ戻って来るかもわからないし、先に死んだ飯里先生や大津留巡査の葬儀もまだできていないのにこっちが先にやるというのはさすがに筋が通らないわ」
雪倉笹枝がそう言う。こうなってしまった現状、安住家直系の生き残りは雪倉家に婿入りした雪倉統造ただ一人になってしまった形だった。
「警察は遺体を返さんのか?」
「返さないというより、返せないというのが正しいわね。煕正さんの遺体は岐阜市内の病院で解剖されたみたいだけど、そこから遺体をこの村に戻す手段と余裕がない。この状況で私たちが村を離れるわけにもいかないし、多分、警察はそれを絶対認めないはず。最悪、岐阜市の方で荼毘に付してもらって、後で遺骨だけ引き取ってから葬儀をした方がいいかもしれない」
「まぁ、それについては後で考えよう。今はそれより、事件の事だ」
左右田の一声で、その場の空気が張りつめた。
「あいつは……頼子は一体どこに行ってしもうたんじゃ」
堀川盛親が怒りを込めた声で振り絞るように言う。だが、それは他の面々こそが知りたい話であった。
「今も連絡はないんか?」
「ない。連絡さえあれば警察を出し抜いて色々と対処ができるんじゃが、連絡がない以上はどうしようもない。一体どうしてこんな事に……」
盛親はそう言って拳を握りしめるが、彼らにとってはそれよりも重要な事があった。
「それより、警察の動きはどうなっとる? これ以上村の内情に突っ込んでほしくはないが、左右田さんでもどうにもならんのか?」
統造の言葉に、左右田は腕を組んだまま重苦しい口調で答えた。
「今回ばかりは、警察があからさまに本気になっとる。県警どころか東京の警視庁、それにさらにその上の警察庁が積極的に動いているらしい。残念だが、ここまでくるとわしではもうどうにもならんな。例え県警を無理やり止めたところで、その上の警察庁が止まる気配がない。さすがのわしも、警察庁の警察官僚どもに横槍を入れるだけの権力は持ち合わせておらんよ」
「警視庁に警察庁って……何でそんな大物が動く?」
「わからん。東京で起こった事件に関係しているとか何とか言うていたが、事態が複雑になり過ぎてわしには理解ができんかった。村に来とる連中も県警の中でも精鋭らしいし、何より県警の刑事部長が直接現地入りしているのが痛い。今回は警察相手に何か仕込む隙はないと考えた方がいいかもしれん。涼宮の事件についても、ある程度までは踏み込まれる覚悟はしておけや」
左右田は深刻そうにそう言い、他の面々も重苦しい表情で顔を伏せる。
「つまり、この村は日本の警察組織そのものを完全に敵に回してしもうたっちゅうわけや。こら、見物やなぁ。見てる分にはおもろい話や」
猪熊がせせら笑うように言うが、その目は笑っていない。日本が世界に誇る捜査能力を持った警察組織そのものを本気にさせてしまったというこの状況は、村側からしてみれば看過できるものではないのだろう。とはいえ、もはやこうなってしまっては自分たちにはどうする事もできないのもよくわかっている。すでに彼らは手詰まりになりつつあった。
「しかし、一体誰が犯人なんじゃ。何で安住家を皆殺しにする必要がある?」
「狙われる人間に一貫性がなさすぎる。大津留巡査に飯里先生ときて、今度は安住家の二人じゃと? 犯人の目的は何なんや?」
だが、そんな議論に水を差したのはまたしても猪熊だった。
「無駄やなぁ。いくら議論したところで、警察にわからんもんが俺らにわかるわけがないやんか。あんたらはどう思っとるかは知らんけど、警察はその辺探るんは優秀やで。それは元々警察にいた俺が一番ようわかっとる。俺らにできるんは、今後どうやって犯人から逃れるかやないか? 誰がどういう基準で狙われているのかわからんのやったらなおさらや」
「それは……」
むかつく言い方ではあるが、誰も反論ができなかった。猪熊はさらにこう続ける。
「それとも、村の外部の人間である俺にはわからん狙われる理由でもあるんかいな? 心当たりがあるんやったら最低限の事は教えてほしい所やなぁ。警備会社の人間として、標的さえわかればいくらでも守る方法はあるからな」
その言葉に、その場にいる村の重鎮たちは一瞬目配せをするが、誰も発言する事はなかった。その反応をわかっていたのか、猪熊は肩をすくめて首を振る。
「まぁ、そう簡単に言えへん村の内情がある事はわかっとるさかい、俺も無理にとは言わへん。ただ、それやといくら俺でも仕事の遂行に限度がある事は理解しといてくださいや」
「……言われんでも、わかっている。余計な事は言わんでよろしい」
左右田が重苦しい口調で言い、猪熊はへいへいとせせら笑いながら一歩下がった。
「それはそうと、雪倉のお嬢ちゃんはどうしとる? 前の巫女候補で残ったのはもう美園ちゃん一人だけじゃろうて」
盛親の問いに、統造は少し心配そうな表情で答えた。
「さすがに安住の嬢ちゃんが死んだ事は堪えたらしゅうてな。今はおとなしく部屋にこもっとる」
「それはそうか」
と、ここで笹枝が口を挟む。
「それも大切だけど、他の巫女候補たちと、今の巫女……常音ちゃんはどうなのよ? 問題ないのかしら?」
その問いに、左右田が重い口調のまま答える。
「常音なら例の探偵相手に何やらコソコソやっているようだが、今こっちはそれどころではない。こちらに何か害が発生せん限りは、好き勝手にやらせておくつもりだ」
「随分な放任やな」
「巫女の役目さえしっかりしてくれるのならわしに文句はない」
「彼女が犯人に狙われる危険性はあらへんのか?」
「さすがにここまでの事態になると、わしらが何もせんでも、警察が勝手に巫女や巫女候補の監視をするはず。こちらとしては不本意ではあるし、もちろんこちらからあえて許可するような事はしなくてもよいが、それでも勝手にするならせいぜい利用させてもらう事としよう。それより、注意すべきはその『探偵』の方だ」
「探偵、ね。今となっては隠す事なく警察に協力して色々調べているみたいだし、元刑事だか何だか知らないけど、本当にうっとうしいわね。勝手に動く分、警察より厄介かもしれない」
笹枝が本気で忌々しそうに言った。
「今までの動きを見る限り、どうもその辺の凡庸な探偵っちゅうわけでもなさそうや。今さらやけど、警戒しておいた方がええかもしれん」
「実際、どれくらいの実力の探偵なの? 元刑事だというのなら、それこそ猪熊さんは何か聞いてはいないのかしら?」
笹枝の発言に再び全員の視線が猪熊に向くが、当の猪熊は肩をすくめて自嘲気味に答えた。
「本人らの話やと元警視庁刑事部捜査一課の警部補ちゅう事らしいが、確かに俺が県警におった頃、警視庁にそんな名前の凄腕の若手刑事がおるっちゅう噂は聞いた事がある。やけど、あくまで噂や。直接会ったりしたわけでもないし、遠く離れた東京の刑事がどんな人間かなんてさすがに知りようがあらへん」
「ふん、使えないわね」
笹枝は吐き捨てるようにして遠慮なく言うが、猪熊は傷ついた様子もなくこう付け加えた。
「ただ、辞めた時に三十代前半くらいやったとして、その最終階級が警部補となると、生半可な実力でないのは確かやろうな。警視庁の花形部署である捜査一課所属のノンキャリアの刑事が、その年齢で警部補になるなんて普通はありえへん。それこそ、よっぽど目覚ましい功績でもあげん限りはな。おまけに、辞めた今になっても警察が協力を求めとるっちゅう事になると、油断できん相手である事だけは間違いないと思うで」
「そういうものなの?」
笹枝は警察の階級には詳しくないらしくピンとこない様子だが、他方、左右田は黙って腕組みをしながら眉間にしわを寄せて猪熊の話を聞いている。どうやらこちらはその経歴の異常性がわかっているようである。
「とにかく、警戒だけは怠らんこっちゃ。もっとも、その警戒する相手が殺人鬼なんか警察なんか、はたまた件の探偵なんかは俺にはわからへんけどな。今の俺の立場から言えるのはそれだけや」
猪熊は締めくくるように言って一歩後ろに下がる。会議室の中は重苦しい空気に包まれ、それからしばらくの間、誰も一言も話す者はいなかったのだった……。
一方その頃、話題になっていた榊原はといえば、村中が新たな殺人……それも村の中で名家とされた安住家が壊滅するという大事件に大騒ぎとなっている中、どういうわけか亜由美同伴で蝉鳴神社の社務所を訪れていた。行ってみるとちょうど近くに住む扇島利吉も今後の相談のために神社を訪れていて、これ幸いと二人と話をしたいと申し出たところ思いのほかあっさりと認められ、社務所の一室に通される事となった。
「まさか今になってこんな事になるとはなぁ……」
扇島は首を振りながらそう言って深いため息をついた。このような状況になって、もはや余所者がどうとか言っている場合ではなくなってしまったのか、扇島の榊原たちに対する態度も当初に比べるとかなり軟化していた。
「で、わざわざここまで来て、何を聞きたいんだね? 海彦君の話だと信用できる人間らしいから、この際、わしは何でも話すつもりだが」
扇島のありがたい言葉に対し、榊原は深々と一礼してこんな事を言った。
「先代神主の油山山彦さんの事について、もう少し詳しくお聞きしたいのですが」
「山彦さんの事、かね」
「現状、私は彼の事について『戦時中から涼宮事件直前までこの神社の神主だった』事しか知りません。しかし、ほとんどの男性が出征した戦時中にもかかわらず神主を続けていたというのが少し気になりまして」
榊原の言葉に、傍らに控える亜由美もハッとした表情を浮かべた。確かに言われてみれば、村の男衆のほとんどが赤紙で召集されている中、終戦直前の状況にもかかわらず村に残って神主を続け、例の蝉の伝説を間近で体験したという山彦の経歴にはいささか不審な点がある。当時彼が何歳だったのかはわからないが、一九九九年の涼宮事件直前に死亡したとすれば終戦当時はかなり若かったと考えるしかない。普通だったら神主だろうが何だろうが真っ先に戦場に送られてもおかしくないはずだった。
「ふむ……」
扇島は少し考え込むと、チラリと海彦の方を見た上でこう答えた。
「まぁ、別にそのくらいの事ならいいだろう。実はな……山彦さんはこの村の神主ではあったが、同時に当時の帝国陸軍の若手将校の一人でもあったのだ」
思わぬ話に、榊原と亜由美は思わず顔を見合わせた。
「将校、ですか」
「あぁ。確か、終戦当時のあの人の年齢は三十五歳だったと記憶しておる」
榊原は素早く計算する。終戦時……つまり一九四五年当時三十五歳だったという事は、一九九九年に亡くなった際は八十九歳だったという事になる。榊原がチラリと海彦の方を見ると、彼はその視線の意味をすぐに理解したのか、こう答えた。
「私は一九六〇年生まれですので、今年で四十七歳です。なので、父が五十歳の時の子どもという事になりますね」
「堀川家もそうでしたが、こう言っては何ですが随分遅いですね」
「えぇ、まぁ。ただ、父の場合は理由がはっきりしていましてね。父は若い頃に一度結婚していたんですが、その奥さんが戦時中に気まぐれにこの辺りに飛んできた艦載機の機銃掃射に巻き込まれて亡くなってしまったらしいんです。私の母は、終戦から十年ほど経った頃に再婚した人間だったと聞いています」
「ちなみに、お母様は?」
「十五年ほど前……つまり一九九四年に病気で亡くなりました。当時の私は村の外に出ていたので、そこから亡くなるまでの五年間、父は一人でこの神社を守っていた事になります。私も『戻ろうか?』とは言っていたんですが、父は自分が生きている間は神社の事は気にせず好きにやればいいと言ってくれましてね」
「なるほど」
ひとまず近年の油山家の動向についてはわかった。榊原は話を戦時中の山彦へと戻す。
「それで、将校だったというのは?」
その問いには扇島老人が答えた。
「階級は確か……最終的には中尉だったと記憶している。徴兵されたわけではなく最初から軍人を志して陸士官……陸軍士官学校に入ってな。それなりに出世していたという話だ。だが、大東亜戦争……今でいう所の太平洋戦争が始まる一年ほど前に病を患い、予備役に回されて村に戻ると、再び神主の座に戻ったと聞いておる」
榊原は眉をひそめた。こう言っては何だが、戦時中の正規軍人としてはかなり歪な経歴だと感じたのだ。だが、それは扇島老人も感じているようだった。
「おかしな経歴だと思っておるのだろう?」
「えぇ、まぁ。忌憚なく言えば、そうなりますね」
「そう思うのも無理はない。実際、その当時から村の中でも色々囁かれておったでのう」
「と言いますと?」
「病気で予備役になったという事にはなっていたが、実際はむしろ軍の指示であえて予備役になったのではないか、とな」
思わぬ話に榊原は眉をひそめる。
「何かそう思う根拠でも?」
「根拠、か。根拠は今の千願寺のある場所にあった捕虜収容所だな」
それは、ある意味予想通りの答えではあった。榊原は先を促し、扇島は話を続ける。
「後で聞いた話だが、当時、軍は敵や国民に気付かれにくい人里離れた場所に極秘の基地を作り、そこで表沙汰にできないような極秘の研究を行ったりしていたらしい。具体的にどんな研究なのかは知らんが、おそらく今から見ればろくでもない研究だったんだろう。で、その候補地としてあの場所が浮上したわけだが、元々あの場所はこの神社の所有地で、当時はそこから質のいい木材が採れていた。いわば『神域』とも言える場所で、村人からすればそこで採れる木材は神社が祀る神様からの恵みであり、侵してはならない村の共有財産のようなものだったわけだ。当然、そこを切り開くとなれば、林業で生計を立てている村人側の反発があるのが必至なのはわかるかの?」
「えぇ、そうでしょうね」
榊原も頷く。扇島はさらに続けた。
「当時はすでに国家総動員法が発令されて多少の無理はできたとはいえ、軍としても下手に神域に手を出して村人の反発を買い、極秘にしたい基地が目立つような事はしたくはなかった。だが、土地の持ち主であり、当時は村の最高権力者でもあったこの神社の神主が基地設置を支持したとなれば、村民としても黙らざるを得なくなるとは思わんかね?」
「……だから、山彦さんをわざわざ軍から神主に戻す形で村人の反発を抑え込み、基地建造を無理やり強行した、と?」
「あくまで噂だ。だが、実際に山彦さんと軍の関係者が立ち話をしていたり、軍関係者がこの神社の境内に頻繁に出入りしているのを当時の村人が何度か見た事があるそうだから、信憑性は高いと思う。少なくとも、山彦さんと当時の軍に何らかのつながりがあったのは間違いないだろう」
「……」
「結局、山彦さんが村人を説得した事で、基地建造は現実のものとなった。基地は山彦さんが村に戻って来てからちょうど一年後に完成し、それと同じ年にアメリカとの戦争が始まった。そしてサイパン島が陥落して本土空襲が激化し始めた頃から、あの基地は捕虜収容所へとその役割を変える事になった。戦時中、多くの捕虜があそこへ連れて来られて……そしてそのほとんどは二度と出てくる事はなかった。収容所の中で何が行われていたのかはわしにもわからんし、知りたくもない。おそらく、軍から事情を聞かされていたはずの山彦さんも、それについては何も語ろうとしなかったよ」
「……」
「その後はこの前あんたに話した通りだ。終戦間際にあの忌まわしい『蝉鳴』の事件が起こり、終戦とともに収容所は閉鎖。建物は廃墟と化し、その跡地に千願寺が建立された。山彦さんは戦時中表向きは軍から離れていた事もあって戦犯指定を免れ、そのまま亡くなるまでこの神社の神主を続ける事となった。神主は別に公職ではなかったから、公職追放の対象からも外れていたしな」
扇島の話を聞き終えると、榊原は海彦の方を見やった。
「海彦さん、この話は?」
「……父が元々軍関係者だったという事は生前の父本人から直接聞いていますし、神主として戻ってきた後も軍と何らかのつながりがあった可能性がある事も知っています。ただ、父から直接、村に帰ってからの事を話をされた事はありません。軍人だった事はさすがに隠しようもないので話してくれましたけど、それも予備役に回されたところまでで、村に戻ってからの話は例の『蝉鳴』の話以外は全くしてくれませんでした。ですので、本当に父と軍に繋がりがあったのか、あったとしてどんな繋がりだったのかはよくわかりません。神社の倉庫に昔からの神社に関わる記録が保管されているので、もしかしたらそこに手懸りがあるかもしれませんが……父の不名誉になる事かもしれないので、私は調べてみようとは思えません」
「そうですか……」
榊原はそう言って少し何かを考えていたが、やがてこんな事を尋ねた。
「その収容所に収容されていた捕虜がどれくらいいたのかはわかりますか?」
「……さぁの。わしらは近づいたりせんかったからよくはわからんが、伝え聞く話では百人単位の人間が収容されていたらしい」
「では、その収容所から無事に生還した人間はいたのでしょうか?」
「それは、さっきも言った通りでな。いたのかもしれんが、少なくともわしは知らん。ただ、例の『蝉鳴』の出来事があった頃に、かなりの数の捕虜が死ぬ事故があったのは確からしい」
「前に話して頂いた『一酸化炭素中毒の事故』ですか」
「あぁ。もっとも、それが額面通り正しいかどうかはわからん。あの頃は適当な理由をつけて軍が真相を隠すなど、よくある話だった。大本営からしてそんな風だったからのう。この事故の話も、戦後になって伝え聞いた話に過ぎん」
「なるほど」
榊原はそう言ってさらに何かを考えていた。が、しばらくすると不意に海彦の方を振り返ってこんな事を言い放った。
「海彦さん、これから少し社の辺りを調べたいのですが、よろしいですか?」
「それは構いませんが、いきなりなぜですか?」
「今の話を聞いて、少し気になる事がありましてね。もし私の予想が正しいなら、大変な事になるかもしれませんが」
「大変な事、ですか?」
「えぇ。あぁ、あと亜由美ちゃん。悪いんだが、青空さんを探してきてもらえないかね?」
思わぬ頼みに、亜由美は目を白黒させる。
「青空さんって、あの地質学者の?」
「そうだ。専門家として、少し聞きたい事がある。できれば……外れてほしいものだが」
そういう榊原の表情は、どういうわけかかなり深刻そうなものになっていたのである……。




