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蝉鳴村殺人事件  作者: 奥田光治
第二部 殺戮編
23/57

第九章 駆け引き

 それから一時間後、榊原と亜由美は村の東方……青龍橋の辺りを歩いていた。捜査員たちは主に事件が起こった村の西側か神社の辺りを中心に捜査を行っているので、東側のこちらに刑事たちの姿はあまりない。

「あの、現場とか関係者とかを調べないでいいんですか?」

 心配そうに聞く亜由美に、榊原は何でもない風に答えた。

「そっちは柊警部たち警察がちゃんと調べているはずだ。何だかんだ言って、日本の警察の捜査能力は優秀だからね。それはかつて警察の人間だった私自身がよく知っている。だからこそ、私は警察の手が回らないところを中心に調べてみようと思う。それが役割分担というものだろう」

「それは……確かにそうかもしれませんけど、じゃあ、私たちはどこを調べるつもりなんですか?」

 それに答える前に、榊原は青龍橋近くのある一軒家の前で立ち止まり、その家を見上げながら答えた。

「ここだよ」

 その家の表札には『柾谷』という文字が躍っていた。

「柾谷……もしかして、この家は……」

「『小里ノート』に書かれていたインタビューに答えていた少年……柾谷健介の実家だ。生前の大津留巡査の話だと、彼は今この実家に彼女同伴で帰省しているらしいからね。警察が目先の捜査で手いっぱいである以上、私が話を聞くのが適任というものだろう」

「話、聞かせてくれると思いますか?」

「わからないが、もし駄目なら他の方法を探すまでだ。とにかく、やってみなければ話は始まらない」

 そう言いながら、榊原は家の呼び鈴を鳴らした。しばらく反応はなかったが、やがて扉が開いて二十歳前後と思しき若い男性が訝しげな表情で姿を見せる。

「あの、どなたでしょうか?」

「突然お訪ねして申し訳ありません。失礼ですが、柾谷健介さん、ですか?」

「は、はぁ、そうですが……」

 榊原の問いかけに、彼……柾谷健介は当惑気味に頷いた。そんな柾谷に榊原は丁寧に一礼する。

「初めまして。私は一昨日からこの村に滞在している、東京で私立探偵をしている榊原と申します。こちらは宮下亜由美君。私のその……助手、のようなものです」

「み、宮下です」

 いきなり紹介されて亜由美も慌てて頭を下げる。一方、柾谷はブレザーを着た亜由美の容姿に戸惑いを覚えたようだった。

「女子高生の助手さんですか? 東京の探偵というのは斬新なんですね」

「い、いえ。高校はもう卒業して、四月から大学生です。助手というより、事務所のアルバイトみたいなもので」

「あ、なるほど。それは失礼しました」

 一応納得したように謝罪すると、改めて柾谷は榊原に向き直った。

「それで、その東京の探偵さんが俺に何の話ですか?」

「少し、あなたに聞きたい事がありましてね。お時間、頂けませんか? もちろん、嫌なら無理は言いませんが……」

 そう言われて、柾谷は少しの間ジッと榊原の目を見て何かを考えていたが、やがて小さく息を吐いて首を縦に振った。

「わかりました。ここでは何ですから、ひとまず中へどうぞ」

「では、失礼します」

 そう一礼して、二人は家の中に入れてもらい、客間のような場所に通された。改めて正面に腰かける柾谷を見ると、彼はひょろりと背の高い青年と言った印象で、確かにその顔は、昨日、蝉鳴学校の卒業アルバムで見た柾谷健介の面影があるものだった。

「ご両親はおられないようですが?」

「堀川のお嬢様を探しに出ています。俺はその……留守番です。俺、普段は大学で村の外に出ていますし、正直、役に立つ事もないでしょうから」

「この村に帰省されていたんですね」

「まぁ、そうですけど……どうしてその事を?」

「昨日、大津留巡査から聞きました。まさかあの時は、こんな事になるとは思っていませんでしたが」

 そう言うと、柾谷の表情も少し暗くなった。

「また、こんな事件が起こってしまうなんて……。しかも、よりによって俺が村に帰っている時に」

「大津留巡査や飯里教諭の事は?」

「よく知っています。大津留のおっちゃんは子供の時から世話になっていましたし、飯里先生に至ってはそれこそ実際に色々教わっていましたから」

 そう言ってから、柾谷は改めて榊原の方を見やった。

「あの、それを聞くためにわざわざ俺の所へ?」

「あぁ、いえ。そう言うわけではないのですが……いや、話の流れ次第では今回の事件について君にも色々聞く事になるかもしれませんがね」

「えっと……話が見えないんですけど」

 少しイラついたように言う柾谷に対し、榊原はようやく本題に入った。

「では、本題に入りましょう。今から三年ほど前、当時富山の高校に通っていた君は、小里利勝というフリーライターからインタビューを受けませんでしたか?」

 それを聞かれて、柾谷の眉が小さく動く。

「え、えぇ、受けましたけど……どうしてそれを知っているんですか? あのインタビューは、結局記事にならなかったはずですけど」

「記事にならなかった事をご存知なんですね」

「もちろんです。俺も気になって、あの小里とかいうライターが記事を載せると言った号の雑誌を買いましたから。でも、その記事は載っていなくって、正直、何のためのインタビューだったのかと怒りを覚えた記憶があります。俺だって、それ相応の覚悟をしてあのインタビューを受けたのに……」

「記事が載らなかった理由は知らないんですか?」

「知るわけないじゃないですか。むしろ、今からでもその理由を知りたいくらいです。あの小里って記者、一体何のつもりで……」

「亡くなったんですよ」

 唐突に榊原から発せられた言葉に、柾谷はポカンとした表情を浮かべた。

「……は?」

「ですから、そのインタビューをした小里利勝氏は、それから一ヶ月ほどして亡くなってしまったんです。だから、記事が雑誌に載る事もなかった」

「……嘘でしょう。何で亡くなったんですか? 俺が会った時、あの人は元気そうで……」

「殺されたんです」

 榊原の言葉に、柾谷はさらに唖然とする。

「こ、殺された……も、もしかして、俺が答えたインタビューのせいだとでもいうつもりですか?」

 妙な事を聞いてきた柾谷に対し、榊原は少し訝しげな表情をしながらもこう答えた。

「いえ、それとは完全な別件です。君は、同じ三年前の六月に、東京奥多摩の旧白神村で起こった猟奇大量殺人事件を知っていますか? 『第二次白神村殺人事件』とか、一部では『イキノコリ事件』などと呼ばれている事件ですが」

「は、はい。そんな事件があったって事は、当時のニュースで言っていたから何となく覚えてはいますが……」

 そこまで言って、彼の顔色が変わった。

「まさか……」

「お察しの通り、その白神村で起こった事件の被害者のうちの一人が、あなたにインタビューをしたフリーライターの小里利勝氏だったんです」

「そうだったんですか……」

 柾谷はどこか気の抜けたような表情をしている。が、榊原はさらにこう問いかけた。

「ところで、君は『葛原光明』という名前に心当たりはありますか?」

「葛原……いえ、ありませんが、なぜですか? その人は一体何者なんです?」

「犯人です」

 榊原の返事は簡潔だった。

「犯人?」

「今言ったイキノコリ事件を引き起こし、小里利勝氏をはじめとする大量の人間を惨殺した大量殺人鬼。それがこの『葛原光明』という男です。事件から一週間後に逮捕され、先日、東京拘置所で死刑が執行されました」

「は、はぁ……でも、俺はそんな殺人鬼の事なんかまったく……」

「その葛原なんですがね、実は以前、この村を訪れた事があるようなのですよ」

 その言葉に、柾谷はもう絶句するしかないようだった。

「ど、どういう事ですか?」

「心配せずとも、彼が来たのはイキノコリ事件が発生するよりも前……つまり、まだ彼が殺人鬼になるよりも前の話です。具体的には二〇〇三年の七月頃……イキノコリ事件発生の約一年前です。だからお聞きしているんですよ。あなたは、その頃にこの村で『葛原光明』と名乗る男に会った事はありませんか?」

 そう聞かれて、柾谷は混乱した表情を浮かべていたが、やがてすぐに力なく首を振っていた。

「わかりません。あの頃、俺はもう富山にある中高一貫の私立高に進学していて、村から距離を取っていましたから。正直、この村から出たくて仕方がなかったですし」

「村を出たかった、ですか」

「えぇ。俺は、こんな古い因習に縛られた村から早く離れたかった。特に涼宮さんの事件が起こって以降はそういう思いが強くなったんです」

「……インタビューでも言っていた、巫女争いの事ですか?」

 榊原にそう言われて、彼の眉がピクリと動く。

「どうしてその事を? あのインタビューは結局表沙汰にはなっていないはずなのに」

「実は、それがもう一つの問題でしてね。先程、私は小里利勝が葛原光明の引き起こした大量殺人事件で殺されたという話をしましたね」

「は、はい」

「その葛原光明なのですが、小里利勝殺害後、彼の荷物の中からあなたのインタビューの内容が書かれた取材ノートを持ち出していた事が判明したんです。つまり、あなたの記事は雑誌に載る以前の話として、取材ノートの段階で殺人鬼の手に渡り、そのまま長い間世間の目から秘匿されていた事になるんです」

 その事実に、柾谷の顔色が変わった。

「お、俺のインタビューが殺人鬼の手に?」

「えぇ」

「何で! どうしてその殺人鬼はそのノートを……」

「……先程、私は葛原がイキノコリ事件以前にこの村を訪れていたという話をしましたが、その理由は、当時彼がある大学院で犯罪学を学ぶ大学院生で、その修士論文の題材としてこの村で起こった涼宮事件を選んでいたが故だったんです。つまり、葛原も涼宮事件の真相について調べていた人間で、それゆえにあなたに対するインタビューが書かれたノートに興味を持ったんでしょう。たとえ……それが自身が大量殺人を起こした後だったとしても、ですが」

「まさか……あのインタビューがそんな事になっていたなんて……」

 柾谷は本気でショックを受けていたようだった。

「実は、葛原の死刑が執行された今になって、そのインタビューが書かれたノートが初めて表に出てきましてね。それによって、君が答えたインタビューの内容が、実に四、五年ぶりに白日の下にさらされたというわけなのです」

 そのノートが葛原の死刑執行後に何者か……おそらく蝉鳴村在住の誰かの手によって東京拘置所に送られてきた事までは榊原も話さなかった。今この場で、そこまで詳しい事情を彼に話す事はないと判断したからだ。

「そんなわけで、私はそのインタビューについて改めて聞くためにこうして君を尋ねたというわけです。そこで改めてお聞きしますが……あのインタビューの内容は正しいという事で間違いありませんか? つまり、当時の巫女の座をめぐる、涼宮玲音さんとその他の候補者たちの対立の話ですが」

「え、えぇ」

 いきなりの急展開に彼の頭は追いついていないようだったが、それでも何とか彼はそう答えてくれた。

「あのインタビューには今まで涼宮事件について表沙汰になっていなかった事がいくつか書かれていました。一つは、当時被害者の涼宮玲音さんが次の巫女に事実上内定していて、同じく巫女候補だった蝉鳴学校の他の女生徒たちと対立状態に陥り、嫌がらせのような事まで起こっていたという事。そして、その涼宮さんが巫女になった後にやるであろう舞の練習をするために、人知れず毎日神社を訪れていた事です。これに間違いはありませんか?」

「ありません。あの時、俺はそれが表沙汰になっても構わないというつもりでインタビューに答えましたから」

 柾谷の顔が少し真剣なものになる。

「よろしい。ですが、そうなるともう少し突っ込んで聞かなければならない事があります。あのインタビュー記事には少し曖昧な部分がありました。それは、具体的に誰が涼宮玲音に嫌がらせをしていたのかという部分です。これについて、今この場で答える事はできますか?」

「それは……」

 柾谷は躊躇するように言葉を切った。だが、これについては榊原もこの時点である程度推測を立てていた。

「実は、この点については私も候補者を絞り込むところまではできているんです。昨日の話ですが、私は蝉鳴学校の図書室で、事件当時の校誌を確認しました。そこには事件当時あの学校に在籍していた生徒の写真と名前が掲載されていて、その中に涼宮さん以外の女生徒は全部で四人しかいませんでした。涼宮さん死後に実際に巫女になった左右田常音さん。前回に引き続き今回も巫女候補になっていて、なおかつ現在失踪中の堀川頼子さん。それに、左右田常音さんと同い年の安住梅奈さんと、もう一人は君の一つ年上に当たる雪倉美園さんです。状況的に、この四人の中に嫌がらせをしていた人間がいたとみて間違いないと思います」

 その言葉に、柾谷は思わず顔をそむける。どうやら図星のようだった。

「どうでしょう? それが誰なのか、教えてもらう事はできませんか?」

「……」

 柾谷はそれでもなお黙り込んでいたが、やがてポツリとこう言った。

「本当の所を言うと……俺にもよくわからないんです」

「わからない?」

「確かにインタビューに答えたように、涼宮さんに対する嫌がらせがあったのは事実ですし、具体的に誰が嫌がらせをしていたのかも言う事はできます。でも、俺が確定的に『間違いなく嫌がらせをしていた』と言えるのは一人だけで、当時の状況を考えたら、多分嫌がらせをしていたのは複数の人間だと思うんです」

「複数……」

「正直、あの状況なら、巫女の候補者だった他の四人の誰もが、巫女の座を奪った涼宮さんに対してそれぞれ思うところがあったと思います。問題は、それを『嫌がらせ』という形で実際に行動に移したかどうかです。何度も言うように、実際に涼宮さんに対する嫌がらせをしていたと俺が断言できるのは一人だけです。その現場を直接見た事がありますから、これに関しては間違いありません。だけど、それ以外にも彼女に実際の嫌がらせをしていた人がいるのもほぼ間違いない。直接見た事はないけど、涼宮さんやあの時の学校の雰囲気なんかでそれは俺にも理解できました。でも……俺はそれを突き止める勇気がなかったし、止める勇気もなかった。相手が一人だったらもしかしたらできたかもしれないけど、もし四人全員が実は嫌がらせをしていたとしたら、その四人全員の怒りの矛先が俺に向くかもしれないと思った。俺は、それに耐えられる自信はなかった。だから、涼宮さんを気の毒に思いながらも傍観するしかなかった。その結果……あんな事件が起こってしまった。俺は……あの嫌がらせを傍観したという意味では、間違いなく『罪人』なんです」

 最後は振り絞るような声だった。

「……逆に言えば、君は具体的に嫌がらせをしていた人間を一人だけは名指しできるわけですね」

「……はい。でも、それを言う事は……」

「なら、私の方からその人物を指摘しましょう。君はそれが当たっているかどうか、イエスかノーで答えてくれればよろしい」

 そして、榊原は自身の考えを告げる。

「涼宮事件直前、涼宮さんに対する嫌がらせを確実にしていた人間……それは、今回もまた巫女候補になっており、なおかつ失踪している堀川頼子さんではありませんか?」

 その瞬間、柾谷は大きく目を見開いて榊原を見やったが、やがて重苦しい沈黙ののちに、小さく頷きを返したのだった。

「やはり……そうでしたか」

「ど、どうしてわかったんですか?」

 隣の亜由美が尋ねるが、榊原は首を振りながら答える。

「偉そうに言ってはいるが、実の所、証拠も何もない賭けに近い推理だった。ただ、十八歳という年齢でありながら今回も巫女候補になっている以上、彼女の巫女の座に対する執着はかなり強いと感じた。そんな人間なら、以前の巫女選びの際もその座に対する執着は非常に強かったはずで、そうなれば巫女に内定した涼宮玲音に対する憎悪は生半可なものではなかったと思ったまでだ」

 いずれにせよ、榊原の推測は当たった。少なくとも、堀川頼子が涼宮事件の直前、被害者の涼宮玲音に対する嫌がらせを行っていた事実がここに明らかになった。だとするなら、その堀川頼子の嫌がらせが、涼宮事件に何か影響を与えている可能性は否定できない。

「そして……ひいてはそれが、堀川頼子失踪に端を発する今回の事件の引き金になっているのかもしれないな」

 榊原のそんな呟きに、柾谷はバッと顔を上げた。

「それは、本当ですか?」

「わかりません。今はまだ証拠が足りませんからね。何にせよ、ひとまず聞きたい事は聞けたと思います」

 そう言うと、榊原は立ち上がる。

「いきなり押しかけてすみませんでしたね、ありがとうございました。また何か聞きたいときはお邪魔するかもしれませんので、その時はよろしくお願いします。もし、君の方から私に話したい事があるというなら、この名刺の携帯番号にかけてください」

 そう言って、榊原は名刺を柾谷に手渡す。そしてその場を辞去しようとしたが、玄関の近くで、榊原たちは柾谷と同年代と思しき若い女性がいるのと鉢合わせをした。

「あ……」

 その女性は腰まで届こうかというロングヘアにロングスカートという服装で、眼鏡をかけて恥ずかしそうに俯いた文学少女風の女性だった。彼女に気付き、柾谷は慌てて呼びかける。

「おい、蝶花! 用事が済むまで俺の部屋にいてくれって言っただろ!」

「ご、ごめん……柾谷君……」

 彼女はぼそぼそと聞き取りにくい声で脇にどく。榊原が訝しげに彼女を見ると、柾谷が恐縮気味にこう言った。

「すみません。大学の同級生で、その何というか……俺のガールフレンドの井島蝶花です。せっかくだから親への挨拶もかねて俺の実家に来てもらったんですけど、見ての通り人見知りで……」

「す……すみません……」

 彼女は小さな声でそう言うと、そのまま奥へ引っ込んでしまった。

「見たでしょう。俺、もう外に生活の基盤があるんです。だから、もうこの村のいざこざには巻き込まれたくないのに……何でこんな事に……」

 そんな柾谷に、さすがの榊原もかける言葉が見つからなかったのだった……。


「あれ? 探偵さんじゃないですか」

 榊原たちが柾谷家を出ると、そこで巫女候補の一人である竹橋食堂の竹橋美憂とばったり遭遇した。彼女の手には岡持が握られており、どうやら出前の途中らしい。

「こんな所で何をしているんですか?」

「ちょっと話をね。そういう君は、出前ですか?」

「そうです。うちの食堂のサービスらしくって、普段は父がやっているんですけど、その……事件のせいで色々忙しいらしくて、代わりに私が。この村も高齢化が進んでいて、結構注文は多いみたいですよ」

「なるほど」

「……話って、例の事件の事ですか?」

 美憂が探るように尋ねてくる。

「まぁ、一応そういう事になりますか。色々聞いて回っている所です」

「怖いですよねぇ。まさか、今になってまたこんな殺人事件が起こるなんて……」

「君も昨日は堀川頼子さんの捜索を?」

「いえ、父に言われてずっと家にいました。夜も遅いし、私はずっと岐阜市にいてあまりこの村の事に詳しいとは言えませんから」

「ふむ」

「……今でも信じられませんよね。大津留おじさんが死んだなんて」

「大津留巡査の事は知っていたのすか?」

「はい。この村で唯一の駐在さんですからさすがに。私が村を出るまで、よく遊んでもらっていました」

「もう一人の飯里先生の方は?」

「そうですね……私は直接教えてもらったわけではありませんし、そこまで親しいわけじゃありませんね。もちろん、帰省の時にたまに会う事くらいはありましたけど」

「では、今回の帰省で飯里先生に会った事は?」

「え? うーん……今回は会ってないかなぁ。別にうちの食堂に来たりもしなかったし」

 そんな事を言いながら、彼女は柾谷家のインターホンを押した。しばらくして、さっき別れた柾谷が顔を出す。

「はい」

「どうも、竹橋食堂です。出前を届けに来ました」

「あぁ、美憂か。悪いな」

 柾谷はそう言って玄関のドアを開け、その間に美憂は岡持から丼をいくつか取り出してかまちに置いていく。そして、柾谷は財布を取り出しながら美憂と軽い世間話を始めた。

「しかし、巫女候補様が出前って……何か間違ってる気がするんだけどな」

「いいの、いいの。正直、私、巫女争いなんて興味ないし、こんな肩書が通用するのもこの村だけだしね」

「……そうだな」

 と、柾谷が家の前で聞き耳を立てていた榊原たちに気付く。

「あの、まだいたんですか?」

「あぁ、失礼。偶然家の前で彼女に会いましてね。ところで、随分気安い関係のようですが?」

「……えぇ、まぁ。歳が近かった事もあって、小さい頃に彼女が村を出るまでは一緒に遊んだりしていたんです。もっとも、出て行った後はそこまで会う機会もなくて、今では単なる昔の知り合いっていうくらいの関係ですけどね」

「それ、本人の目の前で言う?」

 美憂は少し不満げにそんな事を言ったが、柾谷はすました表情である。

「事実だからな」

「まぁ、いいけど。じゃあ、二時間後にまた器の回収に来るからね。それと、明日のお昼と夜も注文だったよね?」

「あぁ、頼む」

「それじゃあ、二時間後に」

 そんなやり取りの末に、再び柾谷家の玄関の扉は閉められる。美憂は再び岡持を持ち上げ、改めて榊原に問いかけた。

「私はこの後も出前ですけど、探偵さんはどうするつもりなんですか?」

「色々調べてみるつもりですよ。こうなった以上、昔の事件を調べるのがタブーだのなんだのと言っている場合でもなくなったようですしね」

「ふーん、そうですか。ま、私はどっちでもいいですけどね。こう言ったら何ですけど、私は涼宮事件の時には村にいなかったし、涼宮玲音さんにも会った事がないから、私からしたら普段新聞に載っている事件とそう大差ない感覚ですから」

 そう言うと、美憂は片手をヒラヒラ振りながらその場を去って行った。後には榊原と亜由美だけが残される。

「さて、まだ調べなくてはならない事は多い。今度こそ、次の調査に向かおうとしようか」

「は、はい。そうですね」

 亜由美の返事を聞くと、榊原は一瞬チラリと背後の柾谷家の方を見やったが、やがて首を振ってその場を離れたのだった……。


 同じ頃、柊たち岐阜県警は事件の捜査を着実に進めていた。その一環として行われたのが、三人の被害者(うち一人はあくまで現段階では「行方不明」だが)の自宅の家宅捜索である。

 三人のうち、大津留巡査は勤務先の蝉鳴駐在所に住んでいて、従って駐在所の建物そのものが捜索対象となった。また、神社で異常な状態で見つかった飯里稲美は蝉鳴学校に隣接する小さな家に住んでいて、そこもすでに警察の手による家宅捜索が実行に移されている。

 だが、最後の一人である堀川頼子の実家……すなわち村の名家である堀川家への家宅捜索は難航した。というより、堀川家当主で頼子の父親である堀川林業経営者・堀川盛親が彼女の自室に対する家宅捜索を拒否したのである。それどころか、盛親は警察による事情聴取そのものをも拒絶し、すでに堀川家と県警の間で一触即発の状態となりつつあった。

「どうしてもお話をしてくださらないのですか?」

「くどい! 貴様ら警察に話す事などわしにはない!」

 堀川林業の入口で、押し寄せる県警関係者たちを前にスーツ姿の盛親は啖呵を切った。

「頼子さんがいなくなった時の事をお聞きしたいだけなのですがね」

「話す必要などない! それよりも、警察はまだ頼子を見つける事ができんのかね?」

「探してはいますが、情報がなければ我々にできる事も限界があります。だからこそ、失踪当時の事をお聞きした上で、手掛かりを探るために部屋の捜索を行いたいと言っているのですが」

「知った事か!」

「あなたは自分の娘が心配ではないのですか! それとも、何か探られて困るような事があるのですか?」

「黙れ!」

 こんな押し問答が続き、結局警察は堀川家から有力な情報を得られないままで終わっていた。

「どう考えても、何かを隠している態度ですね」

「堀川家……というより、堀川盛親は何を抱えているんだ?」

 他の刑事たちがなおも盛親相手に抵抗している中、柊と山岡は小さな声でそんな事を呟いていたりしていた。と、そこへ間瀬が駆け寄って来る。

「県警本部から連絡がありましたが……駄目ですね。岐阜地裁に家宅捜索令状の請求をしたそうですが、他二箇所はともかく、現段階では、堀川家に対する強制家宅捜査の令状は出せないというのが裁判所の答えだそうです」

「駄目か。まぁ、薄々予想はできた事だが……痛いな」

 柊が苦々しい顔を浮かべる。捜査対象である堀川頼子が現段階では「行方不明」である事から、裁判所も家宅捜索令状を出す事を渋っているようである。

「こうなると、現状では堀川盛親の主張を通さざるを得ないな」

「とにかく、堀川頼子の行方をはっきりさせない限り、どうしようもないという事ですね」

「そういう事になる。さて……どうするか」

 柊はそう言いながら、唾を吐きながら刑事たちにまくし立てている盛親の方をジッと睨みつけていたのだった……。


 それと同じ頃、村の名家である安住酒造の安住煕正が、同じく名家である雪倉建業の雪倉統造の屋敷を訪れていた。すでに述べたようにこの二人は実の兄弟であり、涼宮事件当時の巫女候補でもあった安住梅奈と雪倉美園の父親でもある。それぞれの娘二人も現在帰省でそれぞれの屋敷に滞在しているところだったが、頼子の失踪に思うところがあったのか、彼女たち本人の姿は今この場にない。代わりに統造の妻で、三代前の巫女として実質的に雪倉家のトップに君臨している雪倉笹枝がこの場に同席していた。

「しかし、えらい事になったもんよのぉ。堀川の家はすっかり混乱状態じゃ」

 昔ながらの和服に羽織というこれまた昔ながらの格好をした煕正が苦々しい表情でそんな事を言う。対して、その正面に座る大工の棟梁としての作業服姿の雪倉統造は深刻そうな表情を浮かべ、その隣に座る雪倉笹枝は深いため息をついている。やがて、統造がたしなめるように言った。

「他人事じゃなかろうて。さっき見てきたが、堀川の屋敷に警察が押し掛けとった。今の所は令状がないらしくて盛親さんも頑張っておったが、このまま捜査が進まんかったらそうも言ってられへんじゃろうな。それどころか、こっちに飛び火してくるかもしれん」

「左右田の村長も今回ばかりはどうしようもないか」

「今回ばかりは警察がかなり本気を出しとるらしい。もちろん、村長も色々手回しはしとるらしいが、十年前みたいにはいかんかもしれん」

「忌々しいのう。余所者が村ん中好き勝手うろついて余計な事を暴こうとしちょうのを、わしらは黙って見てるしかないっちゅう事か。あぁ、忌々しい」

 照正は持っていた扇子を何度も膝に打ち付けながら吐き捨てるように言う。と、ここで笹枝が口を挟んだ。

「それより、問題は殺人の方よ。誰がやったと思う?」

 相手の腹を探るような言い方だったが、照正は肩をすくめて首を振る。

「さぁのぉ。飯里先生も大津留巡査も、別に何か恨みを買う人間ではなかったでなぁ。それに、言ってはなんやが、二人は別にこの村の中枢にかかわる人間でもない。正直、殺す意味がわからん」

「何か知ってる事はないの?」

「ないのう。そういうそっちはどうなんじゃ?」

「あるわけないわよ。むしろ今回の事で警察がたくさんやって来て、いい迷惑ね」

「ふん。それはわしも同感よのぉ」

 と、ここで統造が口を挟む。

「堀川んとこの娘が姿を消して、代わりに二人の人間が殺されとる。普通に考えたら、堀川のお嬢が二人殺して逃げ回っとるって事にならんか?」

「本気でそう思っとるんか?」

「わからん。ただ、これが本当じゃったら、少なくとも話がこれ以上大きくなることはない。堀川の家に全部押し付ければ、これ以上警察も介入できんようになる」

 親類筋とはいえ、村のためならば誰かを切り捨てる事に統造は容赦がなかった。照正もせせら笑いを浮かべる。

「確かに。やったら、堀川に全部押し付けるように何とかして誘導してみるか?」

 照正が若干冗談交じりの口調でそんな事を言う。が、統造は首を振った。

「言うたじゃろ。今回は警察が予想以上に本気じゃと。下手な小細工しても、すぐに見破られて終わりじゃ。事態が動かん限り、おとなしゅうしとった方がええ」

「そうか。まぁ、しゃあないわなぁ」

 照正は扇子を広げてあおぎながらそう言った。そんな照正を見ながら、統造はさらに問いかける。

「冗談はさておき、もし堀川のお嬢が犯人じゃったとして、何で殺したと思う?」

「それこそわからん。せっかく巫女候補になったのに、それを自分から潰す意味がない。さすがに人を殺した人間が巫女になれん事くらいわかっとるじゃろうに」

「だったら、やっぱり他の人間か犯人って事?」

 笹枝がそう尋ねるが、二人は曖昧な答えを返す。

「それもどうじゃろうか。さっきも言ったように、あの二人を殺す動機がある人間がおるかのぉ」

「しかも飯里先生は伝承通り蝉の亡骸に埋め尽くされて死んどった。そこまでする理由がわからん」

「……正直、あの夜、蝉の声が響いた時には心臓が止まるかと思った。というより、どうやったんじゃ。どうやったら、あんな殺し方ができる?」

「……やっぱり、祟り、かのぉ」

 一瞬、その場が静まり返る。村の有力者とはいえ、あの『蝉の伝承』に対する恐怖は子供の頃から魂に刻みつけられている。重苦しい沈黙がしばしその場を支配した。

「この話はやめじゃ。それより、あの得体の知れん探偵はどうしとる?」

 と、ここで照正が榊原の話題を出した。統造がホッとしたように答える。

「聞いた話じゃと、警察と一緒に動いとるようじゃ。同行しとった男も県警刑事部の警部だったようじゃし、やっぱり最初からつながとったようじゃのぉ」

「大津留巡査がわしらに報告よこさんかった理由が今になってようわかった。確かに、これはどうにもならん話じゃて」

「おまけにあの探偵、あぁ見えて元警視庁捜査一課の刑事だったそうじゃて。見た目より切れる人間なのは間違いなさそうじゃ」

「ねぇ。その探偵が犯人って可能性はないのかしら?」

 不意に笹枝がそんな事を言った。が、照正が首を振る。

「わしらもそう思いたいところじゃが、それはなさそうじゃ。あの探偵、大津留巡査と飯里先生が殺された時、左右田の巫女様と油山の神主殿と常に一緒にいたそうじゃ。アリバイがあるっちゅう事よ」

「あら、そうなの。残念ね。余所者が犯人だったら一番楽だったのに」

 笹枝は事もなげにそんな事を言う。

「十年前の加藤みたいにか?」

「そうね、否定しないわ。あいつが無罪になったせいで、村にしこりが残ったのも事実だし」

「つくづくいけすかん奴じゃったのぉ。今どこで何しとるかは知らんが、おとなしゅう有罪になっとりゃよかったんじゃ」

 恐ろしいほどに自分本位の考え方だが、他の二人も否定をしない。村のためなら犠牲になるのは当たり前……それが彼らの根底にある考え方なのである。

 と、ここで統造が何かに気付いたかのように呟いた。

「思ったんじゃが、加藤が犯人っちゅう線はないか? 前の事件で犯人にされかけた復讐をしとるとか」

「奴が今、この村におると?」

「……いや、それはないか。さすがにおったら気が付くし、それにそうだとしても飯里先生を殺す理由がわからん。飯里先生はあの事件には直接絡んでなかったはずじゃしのぉ」

 統造はそう言ってあっさり自説を引っ込める。が、隣の笹枝は思う所があるのか、真剣に今の説を考えているようだった。

 だが、これ以上考えてもじり貧なのも事実である。やがて照正が大きくため息をついて強引にまとめにかかった。

「とにかく、堀川のお嬢が見つかるまで、わしらは静観じゃな。今は下手に動かん方がええ。盛親さんには頑張ってもらわななぁ」

「同感じゃ」

「……えぇ、そうね」

「ほな、この話はいったん終わり。次の話に移ろうか」

 ……その後もしばらく、三人により密談は続いたのだった。


 さらに同じ頃、村の中央の高山市役所蝉鳴支所では、この期に及んでも左右田昭吉が少しでも県警の捜査を緩めようと圧力をかけようとしていた。現場の捜査官に市議会議員の立場から直接圧力をかけようという計略は、県警刑事部長である汐留が現地入りした事で破綻していた。ならばと議員の立場で培ったコネで岐阜県警本部長に直接コンタクトをとる事にしたのだが、正直こちらも芳しくはない状態だった。

『ですから何度も言うように、この案件はもう私ではどうにもならないところまで来ているのですよ』

 最近着任したばかりだという岐阜県警本部長は、表面上は穏やかそうな声色ながらも、その実のらりくらりと左右田の要求を電話口でかわし続けていた。左右田もそれがわかっているが、ここで焦っては意味がないと必死に自分のペースに持ち込もうとしていた。

「別に私は捜査をやめてくれと言っているつもりはありません。事が殺人事件である以上、捜査をする事は必要ですからな。ただ、あなた方の捜査で村人の生活に支障が出ていて、一部の村人からは警察の捜査に反発する動きも出ているので、あなた方の捜査をもっと円滑に進めるためにも、もう少し穏便な捜査にして頂けないかとお願いしているわけでして……」

『それについての答えは何度も言った通りです。「この件についてはもう私が判断できる領域を超えている」。おわかりになられますか?』

「だから、何を言って……」

『端的に言って、この案件については私より上が動いている。だから、私が何か言ったところで何も変わらないし、従ってあなたの要求を受け入れるわけにはいかない。そういう事ですよ』

「仰っている意味がわかりませんな。県警本部長のあなたの上などという存在がいるわけが……」

『いますよ。何しろ今回の案件は、東京の警視庁や、さらにその上の警察庁も動いているようですからな。私にも、棚橋惣吉郎警察庁長官直々に「手心を加える事なく容赦なくやれ。いざとなれば責任は私がとる」と連絡がありました。警察庁長官本人からそんな事を言われたら、私としても逆らうわけにはいきませんからなぁ』

「なっ……」

 左右田は絶句した。県警本部長ならまだしも、警察庁長官……すなわち、日本警察のトップが動いているとなれば話は別である。いくら左右田でも所詮は一介の地方議員に過ぎず、日本警察のトップ相手に圧力を加えられるような人脈など持ち合わせてはいなかった。

『まぁ、老婆心ながら言っておきますが……あなたは『涼宮事件』が我々警察にとっては耐え難い汚点であるという事実をもう少し認識された方がいいですよ。この場合の警察は「県警」ではなく文字通りの「日本警察」ですが、あなたが思っている以上に、警察上層部はこの事件に対して本気を出しています』

「それはどういう……」

『言葉のままの意味ですよ。約八年前、あんた方がやらかした当時の現場の捜査員に対する圧力や懐柔による捜査妨害のせいで冤罪事件を引き起こしてしまい、警察の信用を失墜させた恨みを上層部は忘れていないという事です。今の時代、昔の推理小説みたいに、地位に胡坐をかいた圧力で警察の捜査を押しとどめられるなどと思わない方がいいですな。それに……』

「それに?」

『……大きな声では言えませんが、今回の事件、どうも何年か前に東京で起こったある事件ともつながりがあるようでしてなぁ。警視庁もこの一件に関与してきています。実際の捜査こそ我々岐阜県警に一任されていますが、事はもう岐阜県警だけでおさまるような事態になっていないのですよ。我々はあくまで実働部隊に過ぎません。私が何か言って捜査方針を変えようとしたところで、後々警察庁や警視庁からお叱りの電話がきて元に戻るだけです』

「しかし……」

『まぁ、あれですな』

 最後に、県警本部長はこう言った。

『八年前の一件……あんた方はやり過ぎたんですよ。同じやり方が二度通用するものではないというのは世間の常識でしょうに。武士の情けでこの電話はなかった事にしてさしあげますが……古き村の伝統か何かは知りませんが、たまりにたまった膿を出すにはいい機会だと思いますがねぇ』

 失礼、という声と同時に電話が切れる。左右田はしばらく黙り込んでいたが、やがて受話器を叩きつけると吐き捨てた。

「くそっ! どいつもこいつも役立たずが!」

 事態が自分の思惑を超えて動いており、もはや長年培ってきた自分の権力でさえ通用しない状況になりつつあるこの事態に、左右田はもどかしい思いを抱かざるを得なかったのだった……。


 ……受話器を置くと、岐阜県警本部長・法澤公康のりざわきみやす警視長は、その体を深々と椅子に沈めながら苦笑気味に笑った。

「随分向こうさんも必死ですな。まぁ、ある意味こっちの予想通りという事になりますが……」

 そう言うと、机の正面にずっと立って今の会話を聞いていた自身の来客の方に視線を向ける。きっちりとしたスーツ姿の来客は黙ったまま本部長の方を見ており、法澤はその態度に慣れていると言わんばかりに話しかける。

「御覧の通りです。わざわざそっちに報告する手間が省けたわけですが……これでよかったのですかな?」

「充分です。後はこちらにお任せください」

 来客はそう言って一礼すると部屋を出ていく。法澤は相変わらず穏やかな表情を浮かべながらそれを見送ると、改めて少し疲れたように背もたれにもたれかかり、ゆっくりと目を閉じたのだった……。


「……犯人があのノートを拘置所に送り付けてきた理由、ですか?」

 同じ頃、村の中を歩きながら、亜由美は今しがた榊原が言った言葉を復唱していた。

「あぁ、どう考えるね?」

「どうって……何か目的があったんですか?」

「私はそう考える。私が常々信条としている事だが、犯罪者は己の犯罪に文字通り人生を賭けているがゆえに、予想に反した偶発的な事でも起こらない限りは基本的に無駄な事はしない。仮に、それでも無駄に見える何かをしていたのだとすれば、その一見無駄に見える行為に犯人にとっては必要な何かがあったと考えるべきだ」

「それは……そうかもしれませんが、でも、拘置所にあのノートを送り付ける行為に対する理由といわれても……」

 戸惑う亜由美に、榊原は静かに答える。

「これはあくまで私の推測に過ぎないが……おそらく、犯人はこの状況を意図的に構築するために拘置所にノートを送り付けるなどという事をしたのだと思う」

「この状況、というと?」

「言うまでもなく、警察が全面的に村の捜査を行っているこの状況だ」

 榊原の言葉に、亜由美は首をかしげる。

「えっと、それはつまり、犯人は警察に事件の捜査をしてほしかったって事ですか?」

「そう言う事になるね。実際、ノートが送られてきたからこそ警察は私にこの村の調査を依頼し、さらに岐阜県警の柊警部も同行する事になった。それゆえに、事件後、即座に警察が動く事ができ、こうして正常な捜査を行う事ができている」

「でも、何のために? 犯人なら、普通は警察に出てきてほしくないと思うはずじゃないですか?」

「普通ならね。だが、この犯人は普通ではない」

 榊原はそう言い切った。

「犯人の真の目的……それは、あらかじめ警察にこの村を警戒させておく事で事件が起こった際に村側が行うであろう妨害工作をさせないようにし、村側の抵抗を封じた上で、タブーとなっていた八年前の涼宮事件を再捜査させる事だったと私は考えている」

「妨害工作の封じ、ですか?」

「実際、我々がいなかったらこれだけの大事件がおそらく村の有力者と繋がっている猪熊元警部の指揮で隠蔽、もしくは歪曲されてしまっていた可能性が高い。それは実際に彼の態度を見ればわかる話だろう」

「まぁ、確かにそうですが……」

 亜由美は、昨日高圧的な態度で榊原たちを恫喝して捜査妨害を試み、明らかに事件そのものを外部から隠蔽しようとしていた猪熊元警部の姿を思い出していた。榊原や柊があの場にいなければ、現場にどんな工作をされていたのかわかったものではない。下手すれば、現場に細工をして事故もしくは自殺に偽造するくらいの事はしていた可能性さえあるのだ。

「実際、八年前の涼宮事件では事件の捜査が捻じ曲げられ、無実の人間が罪を着せられて逮捕に追い込まれるなどという事が起こっている。事と次第によっては真実を簡単に捻じ曲げる事を辞さないこの村の構図は涼宮事件ですでに明確になっている事だ。だが、今回はあのノートのせいで私や県警がすでに動いていた事で村側が事件の捜査を妨害する事はかなわなかった。しかも送られた先が『イキノコリ事件』という大事件を引き起こした死刑囚だった事もあり、この件については『イキノコリ事件』に関係ありという事で岐阜県警のみならず、警視庁やその上の警察庁も動いている様子だ。たとえこの村の有力者が警察に圧力をかけて捜査を捻じ曲げようと画策しても、それは所詮県警レベルまで。その上の警視庁や警察庁といった国家規模の権力まで動いているとなれば、所詮は一地方の権力者に過ぎないこの村の有力者たちが対抗する事は不可能だ」

「つまり……犯人は今回、涼宮事件の時のように村の有力者たちの好き勝手で事件が歪められるのを良しとせず、意図的に警察を介入させる事で古き良き推理小説なんかでありがちな村側の捜査妨害行為を完全に封じ込めたって事ですか?」

 ようやく榊原の言いたい事を理解した亜由美の言葉に榊原は頷く。

「そうなるね。しかも、実際に具体的な事件が発生した事で、裁判で無罪が出て以降、県警内でもタブー視されていた涼宮事件の再捜査も行わざるを得ない状況に陥った。私の推測になるが、昨晩、事件発生後に猪熊元警部が通報をしないなどの隠蔽工作を画策しようとしたのは、警察が介入する事で涼宮事件の再捜査が始まる事を恐れた村の有力者側の思惑があったと考えている。そして、犯人も涼宮事件の再捜査を拒もうとする村の動きがある事がわかっていたがゆえに、先程から言っているような妨害封じのような手段を取った。つまり、犯人は自身が事件を起こし、なおかつ同時に警察を呼ぶ事で、何が何でも本件及び涼宮事件の公式な再捜査をさせたがっていたという事になる」

「じゃあ……」

「あぁ」

 榊原は断言する。

「今回のこの事件、犯人の動機の根幹には間違いなく『涼宮事件』が関与している。でなければ、犯人がわざわざノートを送り返すなどという行為に打って出る意味がなくなってしまう」

「でも、それは……確かに村側の妨害を封じる事はできますけど、犯人にとっても諸刃の剣なんじゃないですか?」

 亜由美の指摘に、榊原は真剣な表情で答えた。

「この事件の犯人の恐ろしい所はそれでね。犯人はこの事件に警察が介入する事を望んでいた。そうする事で事件に対する村の妨害工作を防ぐのが目的だ。しかし、それは同時に犯人自ら本気の警察を村に招き入れ、県警はもちろん、警察庁や警視庁を含めた日本警察の総力を相手に逃げ切らなければならない事を示している。にもかかわらずそれをやったとすれば……」

「やったとすれば?」

 榊原は静かに答える。

「それはすなわち、警察の総力を持った捜査を逃れられるという自信が犯人側にもあるという事に他ならない。何にせよ……この犯人がその辺の一般的な殺人事件の犯人とは明らかに違う部類である事は、ほぼ間違いなさそうだ。今回の一件……こう言っては何だが、解決までにかなり苦戦する事になるかもしれないぞ」

 一部の関係者からは名探偵と称される榊原が発したこの不吉な言葉に、亜由美は何も言えなくなってしまったのだった……。


 それから榊原は少し歩くと、村の中心部の辺りにある家の前に立っていた。そこはどうやら雑貨屋らしいのだが、生憎今はシャッターが閉められ『定休日』と書かれた札がかかっている。

「ここは……」

 亜由美が戸惑ったような声を上げると、榊原は黙ってシャッターの上を目で示す。そこには『手原商店』と書かれた店名が掲げられていた。

「『手原』……ですか?」

「あぁ。涼宮事件当時、蝉鳴学校に在籍していた生徒は被害者の涼宮玲音を除けば七人。左右田常音、堀川頼子、安住梅奈、雪倉美園、柾谷健介、加藤陽一……そして最後の一人が、当時最年少の七歳で、当時のメンバーの中で現在も唯一蝉鳴学校に在籍している手原岳人という少年だ。順当にいけば、四月から中学三年生になるはずだがね」

「涼宮事件の時の生徒の一人……」

「気になるだろう。柾谷健介同様、我々が知らない何かの情報を持っている可能性はある。話を聞いてみる価値はあると考えた」

 そう言いながら、榊原は店の横にある自宅内へ通じると思しきドアの呼び鈴を押そうとする。が、その前に榊原の背後から声がかかった。

「あんた、誰だ?」

 その声に振り返ると、そこには四十代と思しき気難しそうな表情の日焼けした作業着姿の男が立っていた。

「失礼、私は……」

「美作宿に泊まっている探偵だろう。んな事は知ってる。俺は何でそんな奴がうちに来たのかって聞いてるんだ」

 男は険しい表情を崩さずに尋ねる。どう考えても歓迎されているようには見えなかったが、榊原は根気強く会話を続けた。

「そういうあなたはどなたでしょうか?」

「あんたみたいな胡散臭い奴に言う必要があると思うか?」

「思いませんが、人に名前を聞いたのですから、自分も名乗ってもらいたいですね。私としても、あなたが誰かわからない事には対処のしようがありませんので」

 その切り返しに男は心底嫌そうな顔をしたが、さすがに榊原の言う事も正論だと思ったのか、渋々といった風に答えた。

「……手原岳政てはらたけまさ。この店の人間だよ」

「榊原恵一です。以後、お見知りおきを」

 榊原はそう言って一礼しながら、どうやらこの男が問題の手原岳人の父親のようだと見当をつけた。が、そんな岳政の態度はかなりつれないものだった。

「お見知りおきも何もない。とっとと帰ってくれ。あんたに話す事はないし、何かを売るつもりもない」

「随分な態度ですね」

「どうせ事件について聞きたい事があるとか、そんなところだろう。はっきり言うが迷惑だ。俺は事件に巻き込まれたくないし、家族を巻き込むつもりもない。警察も信用できない。前の涼宮さんの事件で信用した結果があの無罪判決だからな。もう厄介事は御免なんだよ」

「……」

「どうしても話を聞きたいなら、令状でも何でも持って来い。そうでないなら、俺も家族もあんたに話す事は何もない。ほっといてくれ」

 そう言うと、岳政はそのまま榊原たちの脇をすり抜けてそのまま家に入ろうとする。取り付く島もないとはこの事だった。どうやらかなり余所者や警察に対する不信感があるようである。だが、榊原としてもこのまま引っ込む事はできなかった。

「なぜそこまで我々を拒絶するのですか?」

 駄目元での質問であった。が、岳政は背中を向けたまま、こう切り返す。

「……涼宮さんの事件の時、まだ小学一年生だった俺の息子はかなりの精神的ショックを受けた。度重なる警察からの聴取やマスコミからの執拗な取材攻勢もひどかったが、特に加藤陽一君が事件後に自殺を図った事は、息子の心に取り返しのつかない傷を残した」

「加藤陽一……」

 その名前は葛原論文にも出てきていた。涼宮事件で逮捕された加藤柳太郎の息子で、事件直後、加藤が逮捕されて加藤家が村八分状態になった際に今度は彼がいじめの標的となり、その後自殺を図った少年である。幸い一命はとりとめたらしいが、その自殺未遂事件の詳細についてはまだ調べ切れていないというのが実情だった。

 だが、岳政は榊原が何かを聞く前に吐き捨てるようにこう言った。

「……彼は、俺の息子の目の前で自殺を図ったんだ」

「えっ……」

 隣の亜由美が思わずそんな声を上げて絶句する。一方、榊原は真剣な表情で岳政の話を聞いていた。

「あの時、殺人犯の息子の汚名を着せられて追い詰められた陽一君は、ある日の夕方、蝉鳴学校の体育館の屋根にはしごを使って登り、そこから飛び降り自殺をしようとした。だが、そこにはたまたま忘れ物を取りに来ていた息子がいたんだ。彼はよりによって、俺の息子の目の前で体育館の屋根から飛び降りた。さすがに意図的じゃなかったとは思うが、タイミングは最悪だった」

「……」

「幸い、彼は一命をとりとめた。だけど、俺の息子は彼が目の前で血まみれになって横たわる姿を見ちまった。まだ小学一年生の人間が、自分の知り合いが血まみれになって倒れているのを見たんだぞ! それがどれだけの事だったのか、あんたにわかるのか!」

「……」

「それ以来、俺の息子は何かあるとふさぎ込むようになった。それでも小学校を卒業するまでは無理して学校に行っていたが、他の子どもたちと馴染む事ができなくて、中学校に入った頃から引きこもりになってしまった。ありがたい事に飯里先生が毎週週末の土日にうちに来てくれて家庭教師みたいなことをしてくれていたから学力が追い付かなくなるという事はなかったが……今回はその先生が殺されてしまった。あいつは今、それでかなりのショックを受けている。話をできる状態じゃないのは理解してくれ」

「そう……でしたか」

 榊原としてはそう反応するしかない。岳政は疲れたように息を吐いて、力なくこう言った。

「……もういいだろ。帰ってくれ」

 そう言い残すと、今度こそ岳政は家の中に消え、ガチャリと鍵をかける音が響いた。後には榊原と亜由美だけが残された。

「どうしますか?」

「……やむを得ないな。ここは一度退く事にしよう」

 こうも拒絶されてしまっては、榊原としてもどうする事も出来ない。一時退散する他なかった。

 だが、家から離れようとした時、榊原はふと何かの視線を感じて家の方を振り返った。すると、建物二階のある部屋の窓にかかっていたカーテンがサッと閉じられるのが見えた。どうやら、今の今まで誰かが窓からこちらを見ていたようである。

「あの、何か?」

「……いや、何でもない」

 心配そうな亜由美の言葉に榊原はそう答え、今度こそその場を去ったのだった……。


 同時刻、村の一角にある安住家の一室で、二人の女性が膝を突き合わせていた。一人は安住家の一人娘であり、この部屋の主である安住梅奈。もう一人は雪倉家の娘である雪倉美園。親たちは相変わらず雪倉家で何か話し合いをしているようだが、元巫女候補である娘たちの方もしっかり動きを見せていたのである。

「久しぶりに来たけど、相変わらず大きな家よね。まぁ、私が言う事じゃないんだけど」

 安住家の屋敷は安住酒造の酒蔵も兼ねているため、村内の屋敷の中でも規模がかなり大きい。二人がいるのはそんな屋敷の隅にある梅奈の自室だった。ここ数年は梅奈が京都に下宿している事もあってか部屋の中は比較的片付いており、そんな中で部屋の隅の窓際に設置された石油ストーブが音を立てているのが印象的だった。

「あんた、相変わらず冷え性なのね。京都は冷えるって聞くけど、よく生活できてるわね」

「大きな……お世話」

 そう言いながらも、梅奈は自身のベッドの上で毛布を膝の上にかけながら蒼ざめた顔をしていた。もっとも、彼女がそんな顔色をしているのは単に冷え性だからと言うだけではないだろうが。

「そんな事はどうでもいいのよ。それより、どう思う?」

「……頼子ちゃんの事?」

「他に何があるっていうのよ。っていうか、何がどうなってるか私が知りたいぐらいよ。何で飯里先生と大津留のおっさんが殺されなきゃいけないのよ。まじで、意味わかんない!」

 美園は苛立ったようにそんな事を言う。強がってはいるが、心なしか美園もどこか焦っているように見えた。

「頼子の奴、どこに行ったと思う? 何か心当たりある?」

「わからない……。わからないけど、嫌な予感がする」

「……警察は、頼子が飯里先生たちを殺して逃げたって思ってるっぽいけど、どう思う?」

 焦りを隠すためか、美園が立て続けに問いかける。が、梅奈は耳をふさぎながらイヤイヤと言わんばかりに首を振りながら叫んだ。

「わかんない! わかんないわよ! 何で……何で今になって、こんな事に……。こんな事なら、帰って来なきゃよかった! そうしたら……」

「うるさい! 黙りなさいよ! 私はあんたの泣き言を聞きに来たわけじゃないわ!」

 美園もイライラした様子で一喝する。それからしばらくして、二人が少し落ち着いたところで話は再開された。

「ねぇ、冷静になりましょ。取り乱したところで状況は何も改善しないわ」

「う、うん……」

「……思うんだけど、他の巫女候補の連中が何か仕込んだって可能性はない?」

「他の候補って……竹橋美憂と名崎鳴?」

「そうよ」

「わからないけど……さすがに鳴ちゃんはないんじゃない? いくらなんでも小学生が警察官を殴り殺したり、銃を撃ったりできるとは思えないし……」

「……確かに、それはそうなのよね」

 美園が悔しそうに言う。本人も鳴が事件に関係しているという推理は苦しいと自覚しているが故だろう。

「でも、あの子頭がいいから、直接人を殺せなくても、何か仕込んできそうで……」

「どうかな……それだったら、まだ竹橋さんの方が可能性はあると思う。でも私、あの子の事よく知らないし」

 その言葉に、美園はどういうわけか一瞬複雑そうな顔を浮かべたが、すぐに苛立った風に吐き捨てた。

「……そうね。あいつ、小さい頃からずっと外の学校に行ってたしね。それがまたむかつくんだけど」

 と、そこで梅奈がふと何かに気付いたように言う。

「そういえばあの子……柾谷君と仲が良かったんじゃなかったっけ?」

「柾谷の奴と?」

「そんな話を聞いた事がある。それに、柾谷君も今ちょうど村に帰って来てるみたいだから、話を聞くんだったらちょうどいいんじゃないかな?」

「あいつ、帰って来てるの?」

「うん。……彼女同伴で」

 その言葉に美園が眉をピクリと動かす。

「彼女?」

「詳しくは知らない。でも、本当みたい。名前は確か……井島蝶花さん、だったかな」

「気楽な奴ね! こっちは大変な事になってるっていうのに!」

 美園は吐き捨てるように言った。

「とにかく、梅奈も気をつけなさいよ。いつ私たちに火の粉が降りかかって来るか、わかったもんじゃないんだから」

「わかってる……当分、この家からは出ないつもり」

「それが一番かもね。でも、油断はしないようにね」

 そう言うと、言いたい事は一通り言ったのか、美園は立ち上がってこの場から辞去しようとする。が、部屋から出る前に、不意に立ち止まって振り返り、梅奈にこんな言葉をぶつけた。

「一応聞いておくけど……梅奈、あんたが何かしたわけじゃないわよね?」

 その言葉に、梅奈は少し肩を震わせたが、すぐにこう言い返した。

「その言葉……そっくりそのまま返す。美園こそどうなの?」

「……冗談。私は何もしてないわ」

「私もよ」

 一瞬、二人の視線が交錯するが、やがて美園は首を振って今度こそ部屋から出て行った。残された梅奈はしばらく俯いて黙り込んでいたが、不意にベッドの枕を抱え込んでか細い声で人知れずこう呟いたのだった。

「助けて……お願い……」


 その日の夕方、榊原たちは美作宿から退去する準備を進めていた。事態がこうなってしまった以上、捜査が長期化するのは目に見えており、そうなるとずっと美作宿に宿泊し続けるのも支障が出るのは確実だった。そのため、榊原たちもいったん美作宿を退去し、捜査員たちが寝泊まりする事になった蝉鳴学校の体育館の方に拠点を移す事になったのである。なお、榊原たちは体育館に大量に敷かれた布団で雑魚寝をする事になりそうだったが、女性である亜由美については特別に学校の宿直室が開放され、他の女性捜査員数名と共にそこに宿泊する事が決まっていた。

 だがその前に、榊原は美作に頼んでフロントにある過去の宿帳を確認していた。

「あった。これか」

 それは、葛原光明がこの村を訪れたという四年前の宿帳だった。調べると「二〇〇三年七月二十三日」の日付と共に、「葛原光明」と書かれた署名が残されていた。滞在期間は同年七月二十七日までの四日間となっている。

「お望みのものは見つかりましたか?」

 どこか憔悴しきった様子の美作が尋ねる。

「えぇ。助かりました」

 すでに具体的な事件が起こり、県警に協力する形になっている榊原も涼宮事件について遠慮なく調べる事ができるようになっている。そこで榊原は、ここに到着した当初から気になっていた事……すなわち、四年前の葛原光明がこの宿に泊まっていたのかどうかについて美作に直接質問をぶつけていた。事ここに至って美作も覚悟を決めたらしく、彼は宿帳を確認する事を許可し、それを受けて調べた結果、案の定、葛原の名前が確認できたのである。

「この葛原という男について覚えている事はありませんか?」

 何しろ四年も前の事なので榊原も駄目元で尋ねたが、案の定美作も首を振った。

「さすがにそんな前の事は……それに、あの頃は最高裁で加藤さんの無罪が確定したばかりで村の中も混乱していて、正直記憶が曖昧なんですよ。申し訳ない事ですが」

「昨日、大津留巡査もそんな事を言っていました」

「大津留さん……どうしてあんな事に……」

 美作の顔が暗くなる。とはいえ、知り合い二人があんな凄惨な状況で殺害されたとなれば、それも仕方がない事ではあった。

「……一つ、お聞きしたい事があるんですが」

「何でしょうか?」

「あなたの奥さんと娘さんは、涼宮事件の前に事故に遭遇したと言っていましたね。その結果奥さんが死亡、清香さんは脳にダメージを負ってあのような状態になった、と」

 その清香はさっき見たところ、一階の談話室でにこにこ笑いながら車椅子に座って庭の方を見つめていた。この状況下においても、彼女は自分の世界にこもったままのようであった。

「えぇ、その通りです」

「その事故というのは、具体的にどのようなものだったのでしょうか? もちろん、答えたくないというのならば結構ですが」

 榊原はそう付け加えたが、意外にも美作は少し逡巡した後に口を開いてくれた。

「……一九九七年の事でした。あの日、二人は当時岐阜市内のレストランで働いていた私に会うために村から車を走らせていました。その途中、ガードレールを突き破って山道から崖下へ転落してしまったんです」

 それは、この村へ向かうあの狭い山道の途中で起こった悲劇だったらしい。しかも、滅多に人が通らない山道で起こった事故だった事もあって発覚が遅れ、二人が到着しない事を心配した美作が警察に通報し、警察が崖下に転落した自動車を発見したのは事故発生から十二時間以上が経過した頃だったという。落下した車は滅茶苦茶に破壊された上に炎上しており、運転席から発見された美作の妻……美作清奈みまさかきよなはほぼ即死。さらに周囲を捜索した結果、転落中に車内から投げ出されて地面に叩きつけられていた清香も発見され、こちらも意識不明の重傷。一ヶ月以上も生死の境をさまよったあげく何とか一命はとりとめたが、ダメージは深刻で結果的に今のような状態になってしまったのだという。

「事故の原因は?」

「何分、車体が激しく損壊していて、しかも炎上していた事から詳しい事はわからなかったんですが、ガードレールを突き破った辺りにブレーキ痕がなかったので、スピードを出し過ぎてブレーキを踏む間もなくガードレールを突き破ったんじゃないかと結論付けられたみたいです」

 そう答えてから、美作は不安そうに尋ねた。

「あの……家内の事故が、今回の事件に何か関係があると?」

「いえ。ただ……これだけ巫女候補が立て続けに事件に巻き込まれている中で、先代巫女の清香さんも事故に遭っているというのが、どうも気になったものでして」

 何気なくそんな事を言った榊原だったが、それに対して美作は真剣な顔で答えた。

「……清香だけじゃないんです」

「ん?」

「清香だけじゃなく、今までの歴代の巫女の中には、不審な死を遂げた人間が何人もいるんです」

 それは美作による告発に他ならなかった。

「……どういう意味でしょうか?」

「今から数えて四代前……つまり雪倉笹枝さんの一代前ですが、その時の巫女が堀川盛親さんの奥さんの雅奈さんだったという事はご存知ですか?」

「えぇ、まぁ。生前の駐在さんから聞きました。確か、頼子さんが生まれた直後に病気で亡くなったとか」

「確かに表向きはそう言われていますね」

「表向き、ですか」

 何とも意味ありげな言い方だった。

「あくまで噂ですけどね。何でも雅奈さん、食事をしていた時に急に具合が悪くなって、そのまま回復せずに亡くなったそうなんです。公式な死因は急性心不全という事でしたけど、状況が状況だったんで、誰かに毒殺されたんじゃないかという噂が当時流れたりしたんです。今となっては、真実はわかりませんけどね」

「……すみません、ややこしくなってきたので一度歴代の巫女について整理させてもらってもいいですか?」

 榊原はそう言って、美作に手伝ってもらって戦後以降の巫女について一覧表を作ってみた。年齢は当時のものである。


・1945年……終戦、繭島留子(13)が巫女に就任

・1955年……繭島留子(23)が巫女を退任、左右田鷹代(14)が巫女に就任

・1964年……左右田鷹代(23)が巫女を退任、堀川(安住)雅奈(10)が巫女に就任

・1977年……堀川雅奈(23)が巫女を退任、雪倉笹枝(13)が巫女に就任

・1987年……雪倉笹枝(23)が巫女を退任、大島瀧江(17)が巫女に就任

・1993年……大島瀧江(23)が巫女を退任、美作清香(7)が巫女に就任

・1999年……美作清香(13)が巫女を退任、左右田常音(15)が巫女に就任

・2007年……左右田常音(22)が巫女退任予定


「雅奈さんの一代前の『左右田鷹代』さんというのは?」

「左右田元村長の妹さんです。左右田元村長が戦後直後くらいから合併で村長を辞すまでずっと村長の座にいる事ができたのも、妹の鷹代さんが巫女だったからという点がかなり大きいです」

「左右田昭吉さんが初めて村長になったのはいつですか?」

「一九五五年です。当時二十七歳でした。だから今年で七十九歳になるはずです」

「では、常音さんは昭吉さんが五十六歳の時の子供ですか?」

「えぇ、どういうわけか長いこと結婚していなかったんですが、一九八〇年くらいになってやっと嶋子さんという方と結婚して、一九八四年に今の巫女様……常音さんが生まれました。……堀川雅奈さんが亡くなったのも同じ一九八四年ですがね」

 榊原は少し考え込むと別の質問をする。

「ちなみに、この鷹代さんは?」

「巫女を辞めた後に大島家の大島幸一郎さんという方に嫁いで、後に巫女になる大島瀧江さんを出産しました。鷹代さん自身は瀧江さんの巫女就任以前に病死しているんですけど、瀧江さんが巫女になる事ができたのもお母さんの鷹代さんが巫女経験者だったからという理由が大きいんです。ですが、瀧江さんが辞める時にちょっと色々あって、大島家は村を出て行ってしまいました。生きていれば幸一郎さんは七十七歳、瀧江さんは三十七歳になるはずですが、今はどこで何をしているのか……」

 榊原はさらに質問の切り口を変えた。

「戦後すぐに巫女になっている繭島留子という人物は?」

「私も噂くらいしか聞いた事はありませんが、出征した若者がほとんど戦死した上に米軍の爆撃で壊滅状態になっていた村で、先代神主の山彦さんの後押しを受けて戦後直後から巫女を勤め、山彦さんや左右田元村長と一緒になって村の復興に尽力した人物らしいです。もっとも、繭島家はその後子宝に恵まれなくて、一九七〇年代くらいに留子さんが亡くなった事で家そのものが消滅して、今はもう残っていないらしいです」

「そうですか……」

 そう言って榊原は巫女の変遷や左右田家関係の家系図を書いたメモ帳(下図参照)を眺めていたが、不意に顔を上げて美作を見上げた。


挿絵(By みてみん)


「あともう一つ、よろしいですか?」

「えぇ、もちろん」

「この宿帳ですが……『涼宮事件』当日のものは残っていますか?」

 さすがに美作の顔が険しくなった。

「あの事件の時の宿帳ですか?」

「えぇ。一九九九年七月二十三日のもの、という事になりますが」

「えっと……ちょっと待ってください」

 美作はそう言って宿帳を調べていたが、やがて一冊の古びた宿帳を取り出した。

「多分……これだと思いますが」

「拝見します」

 榊原は中を確認する。すぐに、問題の日付のページが見つかったが、そのページには当日の宿泊客の名前はなかった。

「誰も泊まっていなかったのか?」

 が、榊原の目はすぐに前のページ……つまり七月二十二日へと移った。この宿帳はそもそも「宿に来た日」に記帳し、宿を出る際に記帳した名前の下に日付をサインするシステムになっている。つまり複数日宿泊していた場合、記帳されているのは最初に泊まった日付のみとなるのだ。そして案の定、二十二日から二十三日にかけて複数日宿泊している客が何人かいた。


魚肥由紀也うおひゆきや 愛知県豊田市△△』

羽住福太郎はずみふくたろう 東京都世田谷区●●』

杉沢村夫すぎさわむらお  山梨県丹波山村××』


「全部で三人……」

 これらの名前は各種捜査資料や葛原論文の本文中にさえ登場しておらず、榊原にとっても初見の名前ばかりである。というより、おそらく当時の警察もここまでは調べていなかったのではないだろうか。

「いずれにせよ……誰かはわからないが涼宮事件当時、外部の人間がこの村にいたのは確実というわけか」

 そう言いながらメモを取っていた榊原だったが、ふとその手が止まった。傍で見ていた美作が不思議そうな顔をする。

「あの、何か?」

「いえ……」

 そう言いながらも、榊原の目はある一点に向けられていた。

「山梨県丹波山村……か」


 その日の夜、榊原は蝉鳴学校に設置された捜査本部の一角で新庄を捕まえていた。

「山梨県丹波山村?」

「あぁ。その地名が少し気になった」

「一体何が……」

「例の『イキノコリ』事件の概要は知っているな? あの事件、そもそもは八王子市内を走っていた都バスが予備校生によってバスジャックされ、そのバスジャック犯の指示で奥多摩を走行していたバスが無茶な運転に耐えきれずに崖下に転落。事故を生き延びた乗客たちは大怪我を負って動けなくなったバスジャック犯を拘束した上で事故現場近くにあった廃村の白神村に避難し、そこで葛原がバスジャック犯を含む他の乗客を皆殺しにしたというものだった」

「その通りですが……」

「最終的に葛原によって殺害される事になった、このバスジャックを起こした予備校生の名前は須賀井睦也すがいむつや。結局、本人が殺されてしまった事によってこの男がバスジャックを起こした理由は不明のまま終わってしまい、事件から三年が経過した今でもこの点については未解明のままだ。だが、後の捜査で発見された証拠品や犯人の葛原自身の証言から、バスジャック当時、この須賀井という男はある場所を目指すように運転手に指示を出していた事がわかっている。その場所というのが……山梨県の丹波山村。東京・山梨の県境の山梨側にあり、イキノコリ事件のあった奥多摩にも近い場所だ」

「……何か関係あるとでも?」

「わからん。偶然の一致と言われればそれまでではあるし、イキノコリ事件が解決した後で一応私もこの村の事は調べたが、それらしい何かが村で起こったというような記録は確認できなかった。だが……こう言っては何だがマイナーな地名が立て続けに出てくるというのは、どうも偶然にしてはでき過ぎている気がする」

「調べてみますか?」

 新庄は真剣な顔で尋ねる。

「その方がいいかもしれない。現状、我々は動けないから東京の斎藤頼みという事にはなるが」

「連絡してみます。現状ではどんな些細な情報でも必要ですから」

 そう言って新庄は一度離れる。これが吉と出るか凶と出るか……それはさすがの榊原にもわからなかった。

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