第八章 岐阜県警
翌日、すなわち二〇〇七年三月九日金曜日午前八時。朝日が昇り、ようやく蝉鳴村を覆っていた闇が晴れようとしていた頃、蝉鳴村上空に耳障りなローター音が響き渡り、側面に「岐阜県警」と書かれたヘリコプターが二機ほど飛来するのが村中から見えた。
ヘリはそのまま蝉鳴学校の方へ飛んでいくと、そのうちの一機がそこにある開けた校庭にゆっくりと着陸した。校庭には柊と榊原が出迎えに来ており、二人が見つめる中、ヘリの中から県警刑事部の捜査員たちが次々と顔を出してきた。
「柊警部、ご苦労様です!」
真っ先に飛び降りた三十代半ばと思しき刑事が素早く敬礼する。柊によれば、彼は県警刑事部捜査一課における柊の部下であり、柊の率いる捜査班の主任である山岡武信警部補との事だった。
「ご苦労。こんなところまですまないな」
「これも仕事ですので。そちらが榊原恵一さんですか?」
「あぁ、そうだ」
「初めまして! 県警刑事部所属の山岡武信です! 榊原さんのお噂はよく聞いております! 一緒に捜査できて光栄です!」
山岡は緊張したように挨拶し、榊原は苦笑気味にそれを返した。
「どうせろくでもない噂でしょうが……何にせよ、よろしくお願いします」
そこへ、山岡の後ろから、山岡と同年代と思しき大柄で温厚そうな刑事が姿を見せて榊原に挨拶してきた。
「どうも。同じく県警刑事部捜査一課巡査部長の間瀬健太郎です。警部がお世話になったそうで、どうぞよろしくお願いします」
「こちらこそ」
と、そんな事を話している間にさらに別の刑事がヘリから降りてきたが、それを見て榊原は一転して訝しげな表情を浮かべた。
「これは驚いたな……新庄、どうしてお前がここに?」
「斎藤警部に言われて、念のために県警に派遣されていたんです。何かあった時は捜査に協力するようにと。もっとも、その予想は外れてほしかったというのが本音ですが」
そこにいたのは今回の事件の依頼者である斎藤警部の部下で、警視庁刑事部捜査一課第三係主任の新庄勉警部補だった。オリンピック出場経験もある射撃のプロという一面を持つ刑事で、斎藤の右腕として榊原も何度か一緒に捜査をした経験があった。
「岐阜県警本部長の許可を得て、警視庁からの救援という形で私もこの捜査に参加します。そんなわけで、今回もよろしくお願いします」
「……斎藤も随分周到な事だな。まぁ、この状況では戦力は多いに越したことがない。頼みにさせてもらおう」
続いて、鑑識の人間が数人と検視官が、鑑識道具を携えて降りて来る。全員を下ろし終えるとそのヘリは再び離陸していき、その後に空中待機していたもう一機のヘリが着陸して来た。そして、そこからさらに何人かの刑事が下りてきて、最後に降りてきた人間を見た瞬間、柊の表情が変わった。
「よう、柊。ご苦労だったな」
「刑事部長……どうしてここに?」
それは、柊の直接的なボス……すなわち、岐阜県警刑事部長の汐留龍義警視正その人だった。
「この事件、私が直接指揮を執る事になった。もちろん、実際の捜査はお前に一任するが、建前上の最高責任者は私という事になる。事件解決まで、私もこの村に滞在するつもりだ」
「それは承知しましたが……しかしなぜです? 刑事部長自ら現場に出てくるというのは尋常ではありませんが……」
柊の当然とも言える問いに、汐留刑事部長もまた当然のように答えた。
「一つは、事件の被害者の一人が現職の岐阜県警の警察官であるという事。現職警官が殺されたという事で、本部長も事件の早期解決を望んでいる。ならば刑事部のトップである私が出てくるのは当然だろう」
「それは、そうですが……」
当惑する柊に、汐留はさらに続けた。
「もう一つは言うまでもなく、事件現場が蝉鳴村だからという点だ。ここはかつて涼宮事件が起こった場所で、あの時のような失敗は県警として二度と繰り返すわけにはいかない。しかも、加藤柳太郎の無実が立証された今となっては、涼宮事件は公には未解決であり、状況的に今回の事件が涼宮事件と密接に関係していることは疑いようがない。となれば、捜査の過程で嫌でも涼宮事件の再捜査をする必要に迫られるのは確実だ。そうなれば、涼宮事件という汚点を探られたくない村側は確実に抵抗をしてくるだろうし、しかも村の実質的トップは高山市議会議員でもある左右田昭吉元村長だ。彼がその立場を利用して政治的側面から捜査に圧力をかけてくる事は容易に想像ができる。まぁ、こういう閉鎖された村を舞台とした推理小説なんかではよくある話だが、現実にそれが起こり得るとなれば話は別だ」
汐留はいったん言葉を切ると、すぐに続ける。
「これら村側の妨害が原因で捜査に支障が出れば事件の解決は困難となり、最悪真実が捻じ曲げられて涼宮事件のような冤罪が発生してしまう可能性がある。今回は、そのような事態だけは絶対に避けなければならない。それゆえに、上層部は捜査を守るための政治的な対抗手段が必要と判断し、代表で私がこの村に派遣されたというわけだ。県警刑事部長の私がこの場にいれば、村側も捜査に対して無茶な圧力を加える事はできなくなるはずだからな」
どうやら、県警側もこの事件に対して本格的な対抗策を練ってきているらしい。明確な事件が発生した事で、榊原たち捜査をする側の戦力も整いつつあった。
「この村に捜査本部を立てる。他の刑事たちは適宜陸路で合流する予定だ。一通りの初動捜査がすみ次第、午後からでも第一回目の捜査会議を行う」
「それはいいですが、どこに捜査本部を置きますか? 支所の会議室ならスペース的にも充分かもしれませんが……」
柊の提案に、汐留は首を振った。
「いや、左右田元村長の息がかかっている場所を拠点にしたくない。ひとまず、この学校の教室を借りるつもりだ」
「この学校ですか?」
「元々生徒数も少なくて空き教室がかなりあるようだし、通報によれば被害者の一人はここの教師という事だが、そうなればどっちにせよ当面学校は臨時休校になる。それに教師が被害者一人しかいなかった以上、ここを管理する人間は必要になるだろう。それを我々県警がやろうというだけの話だ」
「しかし……」
「心配せずとも、すでに岐阜県教育委員会から許可は取ってある。左右田元村長に文句を言わせるつもりはこちらにもない。責任はすべて私がとる。その代り、君たちは必ず事件を解決しろ! いいな!」
「……了解しました」
柊はそう言って敬礼すると、到着した刑事たちを手伝うためにその場を離れる。一方、汐留は残った榊原に近づくと、低い声でこう言った。
「久しぶりだな、榊原君」
「……汐留さんこそ、お元気そうで」
榊原も真剣な表情でそう応じる。
「最後に会ったのは、君がまだ刑事だった頃だったか」
「十一年ほど前ですね。確か、神奈川県で起こった事件の際の合同捜査でしたか。あの頃は、汐留さんは神奈川県警刑事部の警視でしたね」
榊原はさらりと答え、汐留は小さく笑う。
「あぁ、そうだったな。もっとも、私は事件の後すぐに別の県警に異動したがね。あの時、県警刑事部で私の部下だった大内君と君が一緒になって捜査していたのが記憶に残っているが、大内君は今元気かね?」
「今は神奈川県警刑事部捜査一課の警部ですよ。私もたまに事件解決の依頼を受けたりします。まぁ、それなりの関係ですよ」
「相変わらずで何よりだ。……警視庁の橋本捜査一課長から連絡を受けて、警視庁の依頼で君に動いてもらっていると聞いた時はいささか驚いたが、事態がこうなってみると向こうの慧眼は正しかったという事がよくわかる。しかもご丁寧に新庄警部補までこっちに派遣して、もしもの時のために万全を期しておくとはね……。その辺は、さすがは君と同じ元『沖田班』の人間というべきか何というか……素直に頭が下がるね」
今、名前の出てきた橋本捜査一課長とは、榊原に今回の件を依頼した斎藤警部の直属の上司である現警視庁刑事部捜査一課長の橋本隆一警視正の事で、その橋本一課長は榊原が捜査一課の刑事だった時代に所属していた捜査一課十三係……通称「沖田班」において榊原の同僚だった人間である。榊原の実力を知る一部の警察関係者の間では「もし辞職していなかったら捜査一課長の椅子は間違いなく榊原のものだった」と今でもまことしやかにささやかれているが、元々「史上最強の捜査班」の異名で知られる沖田班の刑事だっただけあってこの橋本も並大抵の刑事ではなく、実際、三十代後半という史上最年少(というか異例すぎるほど)の若さで捜査一課長に就任したその実力は間違いなく本物である。ゆえに榊原とは今でも良好な関係を築き続けており、場合によっては事件の解決を依頼するような事もあったし、何年か前に起こった『シリアル・ストーカー事件』の時には捜査一課長と私立探偵という異色のコンビで久々に一緒に捜査を行ったりもしていた。
どうやらこの話を聞く限り、今回の依頼は橋本が斎藤を通じて榊原に行ったというのが真相のようだ。そんな事を思いながら、榊原は思考を事件に戻した。
「そう言う汐留さんこそ、わざわざ柊警部ほどの人間を私に同行させたという事は、あの時点で嫌な予感はしていたはずですが」
「否定はしない。当たってほしくはなかったがね」
そう言うと、汐留は榊原をじっと見つめてこう言った。
「正直、君がいるというだけでこれほど心強いものはない。本来、警察が民間人の君にこんな事を言うのはよろしくないが……頼りにしている」
「……ベストはつくします」
短くそう言うと、榊原も柊の後を追ってその場を離れた。
蝉鳴村を舞台に、いよいよ警察と『真の探偵』による本格的な捜査が始まろうとしていた……。
鑑識が到着した事で、蝉鳴神社及び白虎橋において、本格的な鑑識作業が開始される事となった。現場は警察の手で封鎖され、見張り役として残っていた亜由美や海彦、常音は任を解かれてようやく休む事ができた。
同時に、ずっと放置せざるを得なかった被害者二人の遺体が検視官による簡単な検視が行われた後で現場から搬出され、汐留らが乗って来たヘリに乗せられると、そのまま岐阜市内の岐阜中央大学付属病院に搬送されて正式な司法解剖が行われる事となった。その頃には陸路で県警本部やこの村を管轄する高山警察署の刑事たちが続々と村の入口に到着し、左右田元村長ら村の有力者たちはこの期に及んでも警察車両の村への侵入を渋っていたが、汐留が左右田村長たちを一喝する形で不承不承認められ、かくして五十名を超える捜査員たちが大挙して村に乗り込む形となった。その八年前とは全く規模の違う県警の力の入れ具合に、村民たちも不安の色を隠せないでいたという。
そして午後になって、早くも第一回目の捜査会議が捜査本部の置かれた蝉鳴学校の教室で開催される事になった。普段まったく生徒がいない教室に校舎中からかき集めた椅子と机が並べられ、人口密度が高い教室内で柊が司会となって、いよいよこの異常な事件に対する捜査会議が始まった。
「これより、この蝉鳴村で発生した一連の殺人事件についての捜査会議を始める!」
柊の音頭で、教室に居座る刑事たちの表情に緊張が走る。一番後ろの隅の席にはオブザーバーという形で榊原も座っており、黙って腕を組みながら話を聞いている。この捜査会議において、榊原は自分からは発言せず、あくまで情報収集に徹する構えのようで、柊や汐留もそれを容認していた。
そんな中、最初に初動捜査を担当した高山署の刑事たちから事件の詳細が報告された。
「今回、この村で起こった事件は全部で三つです。まず、昨日夜八時頃、この村にある実家に帰省していた女子高生・堀川頼子が失踪するという事件が発生し、後の被害者となる大津留巡査や飯里教諭を含む村人総出で村内の捜索が行われていました。この堀川頼子は事件から一夜明けた現在でも発見に至っておらず、引き続き捜索を続行中であります」
今も行方不明の堀川頼子の捜索は、すでに村人から県警へと主導権が移っていた。だが、午前中の捜索ではそれらしき姿を確認する事はできておらず、彼女の発見はこの事件の最優先課題でもあった。
「その捜索活動の最中、闇夜に紛れて新たに二件の殺人事件が発生しました。一件目は、この村の西にある白虎橋下の河川敷で、この村にある蝉鳴駐在所巡査・大津留真造の遺体が発見されたというものです。発見者は同じく捜索活動中だった村内の食堂経営者・竹橋和興氏と、高山市役所蝉鳴支所職員の名崎義元氏の二人です」
「名崎……」
何人かの刑事がその名に反応する。涼宮事件の裁判でキーポイントになった「名崎証言」の主の名は、警察関係者の間でもそれなりに知られていた。それだけに、再び出てきた「名崎」の名前を苦々しく思う刑事も多数いるようだった。
「二件目は蝉鳴神社の境内において、蝉鳴学校教諭・飯里稲美が射殺された事件です。神社方面で銃声が聞こえた事から事態が発覚し、駆けつけた蝉鳴神社神主の油山海彦氏と同行していた私立探偵の榊原恵一氏により遺体が発見されました。遺体は神社の御神木にもたれかかるように倒れており、さらに遺体のある場所を含めた境内中に大量の蝉の抜け殻や亡骸が転がるという異常な状況でした」
続いて、検視官が立ち上がって発見された二人の所見について報告する。
「発見された遺体は直ちに岐阜市の岐阜中央大学附属病院法医学教室に搬送され、そこで担当の法医学教授により正式に司法解剖が行われました。その結果が先程判明し、記録がこちらへ送られてきましたのでご報告します。発見された両名のうち、大津留巡査は頭部を殴られた事による撲殺、飯里教諭は眉間を銃で撃たれた事による射殺である事が確定しました。大津留巡査は最初の一撃ですでに致命傷を負っていましたが、その後も六回にわたって繰り返し殴打されており、頭蓋骨は粉々に近い状態だったと言います。また、飯里教諭に関しては銃弾が脳を貫通し、ほぼ即死だったと判断しても良さそうです」
と、ここで隣に座っていた鑑識が立ち上がった。
「その点について鑑識からも報告しますが、大津留巡査殺害に使用された凶器については、現場に遺棄されていた林業用の鉈が傷口の形状と一致。これが凶器と考えてまず間違いないかと思われます。また、神社で見つかった飯里教諭についてですが、遺体がもたれかかっていた御神木に貫通した銃弾がめり込んでいるのを発見。銃弾には飯里教諭の血痕が付着し、さらに線条痕を調べた結果、大津留巡査のものとして県警のデータベースに登録されていた拳銃の線条痕とこれが一致。大津留巡査のホルスターからは拳銃が紛失しており、この紛失した拳銃が飯里教諭殺害の凶器であると考えて問題ないと考えられます」
「つまり……警察官から奪われた拳銃が別件の殺人事件に使われてしまったという事か」
汐留が呟く。覚悟はしていたとはいえ、改めて証拠でその事実が明確に示されると、捜査本部は重苦しい空気に包まれた。
「問題の拳銃は六発式で、うち最初の一発は暴発防止のための空砲。また、現場の神社からは凶器の拳銃は未だ見つかっておらず、犯人が持ったままだと判断できます。従って、犯人の手には、最大四発の銃弾が残った拳銃がまだ存在する事になります」
つまり、犯人としては、まだ拳銃を使った犯行を行う事が充分可能という事になる。それはつまり、新たな犯行が起こるかもしれないという事を暗に示しているものだった。
「そうなると、犯人が大津留巡査を殺害した目的は、犯行に使う拳銃を入手するためという事か?」
「断定はできませんがその可能性はかなり高く、それを前提に動いた方が良いと思います」
汐留の問いに柊が答え、刑事たちにも緊張が走る。なお、拳銃が奪われていることが判明した時点で、捜査に従事する刑事たちには拳銃携帯命令と防弾チョッキの着用が命じられていた。もし逮捕の際に犯人が拳銃で抵抗するようなら、その時は犯人を射殺する事もやむなしというのが県警上層部の判断である。
「続けます。死亡推定時刻についてですが、大津留巡査、飯里教諭共に、昨日の午後九時から午後十一時の間と推察されました。堀川頼子の失踪が発覚し、被害者二人を含めた村人総出の捜索が始まったのが午後八時頃。遺体発見は両名ほぼ同時で午後十一時頃なので、時間的には一致すると考えていいでしょう」
検視官の言葉に、捜査員たちはいっせいにメモを取る。
「飯里教諭殺害が大津留巡査の拳銃で行われている事を考慮すれば、犯人はまず大津留巡査を殺害して拳銃を奪い、その後神社の境内で飯里教諭を射殺したという流れになるでしょう。つまり、殺害の順番は大津留巡査が最初で、次に飯里教諭となるはずです。また、午後十時四十五分頃、現場となった神社の方から破裂音のような音が響いたと複数の村人が証言しており、他にそれらしい音の情報がない事から、状況的にこの破裂音が飯里教諭を殺害した銃声だったと判断して差し支えないでしょう」
その推測に柊も頷く。その破裂音というか銃声は柊自身が聞いているし、それ以外に銃声らしい音が聞こえなかった事も柊本人がよくわかっている。遺体に動かされた形跡がない事や背後の御神木から銃弾が見つかった以上、殺害現場はあの御神木の前で間違いなく、そこで発砲したとなれば必ず村中に銃声が響いたはずだ。それがあの午後十時四十五分の一発しかなかった以上、犯行時刻がそこだと断定しても差し支えはなさそうだった。
「発砲音直後から遺体発見までの神社への人の出入りは?」
汐留の問いかけに対し、聞き込みなどを担当していた間瀬が立ち上がって答える。
「それが、神社周辺に住む住民も捜索に参加していたため、異常を感じた彼らが神社入口の石段前に駆け付けたのは発砲から十分程度が経過した後……すなわち、午後十時五十五分頃でした。犯行からそこに至るまでの神社の出入りは不明で、おそらく犯人は住民が駆け付けるまでのこの十分の間に神社を脱出したものと思われます。その後、午後十一時頃に榊原さんと油山神主が神社前に到着し、そのまま境内に突入。そこで被害者の遺体を発見し、そこからさらに十分ほどして柊警部が境内に駆け付けたという流れです」
その言葉に柊と榊原は頷いて肯定の意を示す。それを受けて、今度は山岡が立ち上がって声を張り上げた。
「ここで、この事件の気になる点についていくつか述べていきます。まず気になるのは、被害者の飯里教諭がなぜあの時間に誰もいない神社を一人で訪れたのかという点ですが、普通に考えた場合、彼女の目的が失踪した堀川頼子捜索にあった以上、彼女を探すために神社を訪れたと考えるのが妥当ではないかと思います。実際の所、境内は神主の油山海彦氏が捜索に出かける前に一通り見回って堀川頼子がいない事を確認しているのですが、被害者がそれを知らなかったと考えれば別におかしな事ではありません。そして、そこで何者かに射殺されてしまった。こう考えるのが最も自然ではないかと考えます。ただしこの場合、被害者が神社を訪れたのはあくまで偶然ですから、犯人はその偶然を利用して被害者を殺害したという事になり、突発的犯行の側面が強くなってしまいますが」
山岡のその発言を受けて、柊はすかさずこう聞き返した。
「では、普通ではない考えは?」
「被害者が犯人に神社に呼び出されていたという場合です。この場合、飯里教諭が神社を訪れたのは必然であり、犯人はそれを待ち受けて被害者を殺害した事になり、すなわち計画的犯行の側面が強く出てくる事となります。そしてその場合、一人怪しい人物が浮かび上がってくるのも事実です」
「怪しい人物?」
「言うまでもなく、現在まで失踪状態である堀川頼子自身です」
その言葉に、捜査員たちがざわめく。
「例えば、失踪していた堀川頼子が『自分が今神社にいる』というような情報を何らかの形で飯里教諭に知らせれば、被害者は間違いなく神社に駆け付けるでしょう。というより、この状況で飯里教諭を神社におびき出そうと思ったら、この言い訳を使うしかないと思います。そしてそれは、当然ながら失踪している堀川頼子本人がやったと考えれば一番しっくりくるのです」
「つまり……失踪中の堀川頼子がこの事件の犯人だというのか?」
「あくまで一つの推理でしかない事は断っておきますが、あり得ない可能性と言い切れないとは思います」
実際、刑事たちの中にもこの推理に同意を示す者が何人かいるようだった。
「その場合、なおのこと堀川頼子の行方が問題になるわけだが、例えば彼女は携帯電話を所持していなかったのかね? 所持していれば、そこから手懸りを掴めると思うのだが」
汐留はそう問いかける。もし彼女が携帯電話を所持していれば、たとえ現物が手元に無くても、位置情報や具体的な通話履歴・メールのやり取りなどの情報開示を携帯会社に要請する事ができる。警察だけが使える奥の手の一つであるが、これには引き続き山岡が答える。
「携帯電話の所持の有無についての確認はまだできていませんが、このご時世で女子高生が携帯電話を持っていないという事はまずありえないと思われるので、持っている事を前提に動きたいと考えています。ただ、現段階では彼女の携帯電話の種類や管轄する電話会社の詳細等が不明なので、それを特定するところから始めます。そうでなければ岐阜地裁への令状請求もできませんから」
当然ながら、個人が所有する携帯電話の個人情報の開示を電話会社に求めるには他の強制捜査同様に裁判所の令状が必須で、令状の発行を行う裁判官を納得させるためには彼女の携帯の種類などの情報が必須になる。現段階ではそうした情報が不足しているため、被害者の携帯電話を足掛かりにした捜索は、令状申請・審査の時間を合わせれば数日後という事になりそうだった。
「ただ、電話会社から情報を開示してもらったとしても、通話やメールの記録はともかく、具体的な位置情報の特定は難しいかもしれません。携帯電話の位置情報でわかるのは「その携帯電話がどの基地局の管轄エリア内にいるか」という事までです(注:事件が起こった二〇〇七年現在の話。二〇二五年現在の場合だと、例えばスマホのGPS機能でより詳細な位置情報が記録できるので、十年以上前よりもさらに細かく携帯電話の位置を特定できる)。この蝉鳴村は近隣にある基地局が村の全ての通信を管轄しているので、『蝉鳴村の中にいるかどうか』というわかりきった事しか判明しないはずです。また、現状では堀川頼子の自宅への家宅捜索が行われていないので何とも言えませんが、例えば彼女が携帯電話を部屋に置きっぱなしにしたままで失踪していれば位置情報はなおさら意味がない事になるでしょう。いずれにせよ、堀川頼子の行方はこの事件における大きな問題となってくるのは自明です。これが一つ目の大きな問題となるでしょう」
そう言って一度間を取り、山岡はさらに話を続ける。
「第二の問題ですが、それは言うまでもなく、飯里稲美殺害現場の異常な状況です。現場を見ればわかるように、飯里教諭殺害現場は季節外れに鳴き始めた蝉の抜け殻とその亡骸で埋め尽くされており、それはこの村に伝わる蝉の伝承に酷似しているものであります。実際、銃声がした直後から十五分程度、境内で季節外れの蝉が大量に鳴いていた事は、当時村にいた人間すべての証言から明らかです。つまり、あの蝉の大群は犯人があらかじめ用意しておいた空蝉や蝉の亡骸を遺体の上にばらまいたわけではなく、本当の意味で純粋な超常的自然現象によって発生したものだという事です。果たして、この季節にあれだけの蝉が一斉に羽化をして鳴くというような事が自然科学的に発生しうるのか、発生しうるのならなぜ犯行直後にその現象が起こってしまったのか。これについては現状、これと言った回答を出す事ができていませんが、我々警察としてはこれを単なるオカルト的な現象と片付けるわけにもいきません。そこにある理由を、納得できる形で説明する必要があると考えます」
そして山岡はさらにこう続ける。
「最後に第三の問題ですが、これは第一の問題にも通じる部分があるのですが、すなわち犯人が被害者二人を殺害した動機であります。果たして、犯人があの二人を殺害する動機とは何なのか? 一件目の大津留巡査の殺害については『拳銃を奪うため』という動機で納得できなくもないのですが、二件目の飯里教諭の殺害については全く動機らしい動機が見えてきません。これについては今後の捜査で解明していく必要がありますが、いずれにせよ大きな問題となるのは自明であります」
と、そこで柊が山岡の後を受けて発言し始めた。
「それについてだが、この事件についてさらにもう一つ気になる点があり、それが動機の解明に直結する可能性がある。それは、事件発生前にこの村から東京拘置所に郵送された一冊のノートに関する問題だ。これについては東京警視庁の新庄警部補から詳細を説明してもらおう」
そう言われて新庄が立ち上がると、事件前の葛原光明の死刑執行後に『葛原光明』宛で東京拘置所に輸送されて来た「小里ノート」についての詳細な情報を捜査員に説明した。
「ご承知の通り、この葛原光明は数年前に東京奥多摩の旧白神村で起こった第二次白神村殺人事件……通称『イキノコリ事件』の犯人として知られる人物です。また、この小里ノートを執筆したフリーライターの小里利勝はイキノコリ事件の被害者の一人であり、状況的にイキノコリ事件の際に犯人である葛原が小里の所持品の中からこのノートを奪い、そこから逮捕されるまでの一週間の間に第三者にこのノートを送り付け、その第三者が今回死刑執行後に葛原にノートを送り返してきた……と考えるしかありません。そのノートが郵送されたのは高山市内にある高山西郵便局で、調べたところ、この郵便局はこの村のポストの郵便物も収集している事がわかりました。つまり、このノートを葛原から受け取った人物はこの村の中におり、その人物が今回、このノートを東京拘置所に送ってきた可能性が高いのです。……正直な所、事態がこうなった以上、このノートの送付は今回蝉鳴村で発生した事件の犯行予告のような物で、すなわちノートを送り付けたのもこの事件の犯人ではないかという考えが浮かんできているのも事実です」
新庄の言葉に刑事たちがざわめく中、新庄はさらに続けた。
「問題の葛原光明は大学院生時代に犯罪学を専攻しており、その修士論文執筆の際に涼宮事件をテーマにしていた関係から、実際にこの村を訪れた経歴があります。つまり、ノートの送り主と葛原がこの村で実際に会っていた可能性が極めて高い。しかも、小里ノートに書かれているのも、小里利勝が涼宮事件の関係者に対して行ったインタビュー文で、ここにも涼宮事件が絡んでいます。涼宮事件については、逮捕された加藤柳太郎の無罪が実証された現在、公式には未解決扱いとなっていますが、こうなると、今回の事件と涼宮事件、さらにイキノコリ事件の間には何らかの関係がある事は充分に考えられ、従って涼宮事件の再捜査を行う必要性があると強く進言する次第です」
新庄は改めてそう主張するが、それは県警の刑事たちも強く思っている事だった。というより、元より彼らはそのつもりでこの村に乗り込んできているのだ。
「捜査方針は決まったな。第一に、現在も行方不明になっている堀川頼子の早期発見。そもそも今回の事件はこの堀川頼子失踪をきっかけに立て続けに発生しており、この失踪事件が今回の殺人事件に深く関係しているのは、堀川頼子が犯行に関わっている、いないに関係なく間違いないと思われる。また、この堀川頼子は現在この村で進んでいる次期巫女選びの候補者の一人で、この巫女選び自体が事件に関係している可能性も捨てきれない。いずれにせよ、堀川頼子の発見がこの事件の進展に重要不可欠である事は各々充分にわかっている事と思う」
柊の言葉を、刑事たちは真剣な表情で聞いている。
「二つ目は、神社における蝉の大量死の謎の解明だ。もっとも、これに関しては科学的な知識が必要になると思われるので、主に鑑識を中心に解明に全力を挙げてもらいたい。もしかしたら事件に関係がない事象かもしれないが、逆にこの異常な状況がこの事件を解明するきっかけになる可能性を完全に捨てきる事ができないのも事実だ。境内に転がっていた蝉の亡骸や空蝉については、現在すべて回収して検証が行われているところだ。何か手掛かりがあるなら、些細な事でも報告をしてほしい」
柊はここで一段と声を張り上げる。
「そして、最後にあの涼宮事件の再捜査だ。事がここに至った以上、村人側がどれだけ拒否しても、涼宮事件の再調査は避けて通る事のできない絶対条件だ。あの時逮捕された加藤柳太郎は、裁判の結果、疑う余地のない完全無罪だった事が既に立証されている。そうなれば、八年前に実際に涼宮玲音を殺した真犯人が存在するはずで、その真犯人は未だに野放しになっている。しかも、この期に及んでその犯人が村の外部の人間だったとは考えにくい以上、真犯人は確実に村の人間であるはずだ。今回の事件は、その涼宮事件を発端に起こっている可能性が非常に高い。涼宮事件の解決こそが、今回起こったこの事件の解決につながると肝に銘じておけ! もう二度とあの時のような誤認逮捕は許されないぞ! いいな!」
「はっ!」
刑事たちが一斉にその檄に応じる。
「では、諸君らの健闘を祈る。解散!」
その言葉と同時に、県警の刑事たちが一斉に動き始めたのだった……。




