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蝉鳴村殺人事件  作者: 奥田光治
第一部 訪村編
20/57

第六章 惨劇再来

 夕方になると、榊原たちは今日の調査を切り上げて美作宿へ引き上げた。榊原は自室に戻ると、今日調べた事を思い返しながら何やら難しい表情で考え込んでいた。亜由美は自分の部屋に戻って休んでおり、柊は警察としてもう少し大津留と詰めたい事があると駐在所へ行っている。なお、この宿に宿泊しているという青空雫の姿は見えない。まだ帰っていないようだった。

 今日一日の調査だけでも、かなりの情報の収穫があった。そして、榊原はその集めた情報を頭の中で再構築しているところだった。改めて今日一日で出会って話を聞いた新たな人間を振り返ってみると、美作宿の娘で先代巫女である美作清香、扇谷証言の扇谷利吉老人、蝉鳴神社の神主である油山海彦、次期巫女候補だという天才少女・名崎鳴、蝉鳴学校教師の飯里稲美、大津留証言の張本人である大津留真造巡査、竹橋食堂の娘で次期巫女候補の一人である竹橋美憂、駿河大学の地質学研究者である青空雫、不気味な怪奇小説家の夕闇逢魔、そしてかつての巫女候補の一人である安住梅奈……と多岐にわたる。

 そこに話はしていないが姿を確認しただけの人物も含めると、村の最有力者である左右田昭吉元村長とその娘で現巫女の左右田常音、高山市役所蝉鳴村支所長の田崎伊周、涼宮事件の担当刑事だった警備会社社長の猪熊亜佐男、巫女候補の一人である堀川頼子、雪倉建業従業員の釘木久光と佐久川満とその数はさらに増え、これだけでもかなりの情報量といえるだろう。

 その上、そこにさらに次期巫女の座をめぐる争いや、村の有力者である堀川、安住、雪倉の三家の人間関係も絡んでおり、入手した情報は複雑怪奇を極める。とにかく今は、この膨大な情報を整理する時間が必要だった。

 そんなわけで、榊原が机の上に何枚も紙を広げて情報整理をしていると、不意に誰かが部屋の障子を叩く音がした。

「あの……失礼します」

 部屋の外から声がして、宿の主人である美作が遠慮がちに障子を開けて姿を見せた。まだ食事の時間には早い。榊原は眉をひそめながら尋ねた。

「何か?」

「それがその……お客さんに会いたいという方が下に来ているのですが、どうしましょうか?」

「私に、ですか?」

 正直、誰なのか見当もつかない。が、気になるのはそれを知らせた美作が、どうも落ち着かない表情を浮かべている事だ。

「一体誰ですか? 自分から私に会おうという物好きは?」

「それが……巫女様、でして」

 美作が言った言葉を、榊原は一瞬理解できなかった。

「巫女……というと、現巫女の左右田常音さん、ですか?」

「そうです。巫女様が、お客さんに会いたいとわざわざこの宿を訪ねて来られたんです」

 年下の少女に敬語表現を使う美作を見て榊原は改めてこの村における巫女の存在の重さを再認識する事になったが、それと同時にその巫女である常音がわざわざよそ者の自分を訪ねてきたという事実に戸惑いを隠せないでいた。榊原の頭の中では、昼過ぎに役場の前で出会った彼女の姿が浮かんでいた。

「どうされますか?」

「……会わない、というわけにはいかなそうですね。わかりました、すぐに下に……」

 榊原はそう言って立ち上がりかけた時だった。

「その必要はありません」

 どこか澄んだ声が美作の後ろから響き、榊原は動きを止めた。一方、美作の方は反射的に後ろを振り返り、そして慌てふためいたように告げる。

「み、巫女様! わざわざ上がって来られずとも、下でお待ちいただければ……」

「私から訪ねたのですから、こうして私から部屋に来るのが礼儀というものです」

 そう言って、美作の背後から昼頃に役場前ですれ違ったあの少女……現巫女の左右田常音が静かに姿を見せた。服装は昼間会った時と同じでごく普通の若い女性が着ているようなものだったが、どこか静かなたたずまいは彼女がただ者でない事を証明している。だが、榊原は臆することなく黙って彼女を見やっており、一瞬張り詰めた空気が部屋の中に漂った。が、すぐに常音は美作に対してこう告げる。

「……美作さん、ここからは二人きりで話をしたいので、外してもらえますか?」

「い、いや、しかし……」

「お願いします。そのために私はここに来たのです」

「……わかりました。終わりましたら、声をかけてください」

 そう言うと、美作は何とも言えない表情を浮かべながらも障子を閉めて一階に下りて行った。そのまま榊原と常音は部屋で対峙する。

「……さて、自己紹介が必要でしょうか?」

 口火を切ったのは榊原の方だった。が、常音の方は静かに首を振った。

「いいえ、その必要はありません。私立探偵の榊原恵一さん、ですよね」

「その通りです。巫女様は私の事をよくご存知のようで」

 ところが、その言葉を聞いて、常音は少し不満そうにこう返した。

「その『巫女様』という呼び方はここではやめてもらえませんか? 私には『左右田常音』というちゃんとした名前があります。村の人間ならともかく、外の人にまでそう呼ばれるのはあまり気分がよくありません」

「……いいでしょう。では、常音さん。立ち話もなんですので、ひとまず座りませんか?」

 その言葉をきっかけに、二人は部屋の真ん中にある机を挟んで腰かけ、一度仕切り直しをする事になった。

「改めまして、この村では蝉鳴神社の巫女、外では四月から私立東城大学大学院経済学研究科に進学が決まっています、左右田常音と申します。何卒、よろしくお願いします」

 その自己紹介に、榊原は少し興味を惹かれたようだった。彼女の言った東城大学は都内にキャンパスを構える名門私立大学であり、同時に榊原自身の出身大学でもあった。とはいえ、その話は今する話でもないので、榊原はそんな事はおくびにも出さずに話を進める。

「東城大学……という事は普段は東京に?」

「はい。この村の中では巫女様などと言われていますけど、村の外ではどこにでもいるただの東京の一女子大生に過ぎません。ですから、榊原さんも私に対して変に気を使わなくても結構です」

 とはいえ、その落ち着きぶりは普通の女子大生とは明らかに違うものだった。それだけに、榊原は慎重に尋ねる。

「それで、なぜ私の名前を?」

「私の大学の友達が以前榊原さんに助けてもらった事があるみたいで、その話を聞いた事があるんです。同姓同名の探偵さんがこの宿に泊まったという話は昨日のうちから噂になっていまして、お昼にあなたらしい人を役場の前で見た時にその友人から聞いた風貌と似ていたので、もしかしたらと思ったまでです」

「なるほど、ね」

 榊原は苦笑気味に言いながら、逆にこう問い返した。

「それで、そんなあなたが私に何の用でしょうか?」

 その問いに対し、常音は少し黙った後、探るように尋ねた。

「その前にお聞きしたいのですが、榊原さんはどうしてこの村に?」

「それも伝わっていませんかね? 蝉鳴神社に伝わる伝承を調べるためです」

「私がそんな建前を信じると本気で思っているのですか?」

「さぁ、どうでしょうね。逆に聞きますが、あなた自身は私の目的をどう思っているのですか?」

 榊原の軽い牽制めいた問いに対し、常音はジッと榊原の目をまっすぐ見つめながら切り返す。

「では単刀直入に言いますが、八年前の涼宮さんの事件を調べに来た……違いますか?」

「……まぁ、そう考えたくなる気持ちは理解できます」

 榊原ははぐらかすようにそう言って逆に相手の目を見つめ返した。が、常音もそれに動じる様子はない。

「違うのですか?」

「詳しい事は言えませんが、主目的ではないという事は言っておきます。ただ、本来の依頼を調べる中で八年前の事件を調べる必要が出てきているのは間違いありませんが」

「どちらにせよ、調べているのは間違いないという事ですね?」

「……だとしたら、どうしますか? あなたも、私が八年前の一件を調べないように忠告でもするつもりですか?」

 榊原はあえて静かに問いかける。が、それに対する常音の答えは意外なものだった。

「いいえ、その逆です。榊原さんには八年前の事件の真相についてしっかり調べてもらいたいのです。これは巫女としてではなく、私個人としてのお願いとなりますが」

 その言葉に、榊原は冷静に相手の表情を見つめていた。が、常音に動揺の色はない。どうやら本気らしい。

「……理由を聞いても?」

「理由が必要ですか? 未解決の事件の調査を探偵に依頼するのは何らおかしな話ではないはずです」

「ですが、私が改めて言うまでもなく、その事件について調べる事はこの村ではタブーになっているはずです。第一、あなたの父上……左右田前村長は娘のあなたがこのような依頼をする事に許可を出しているのですか?」

 その問いに対し、常音は小さく首を振った。

「いいえ、父は絶対に認めないでしょうし、巫女としての立場からすればこのような依頼をするわけにもいきません。ですから、あくまで女子大生の左右田常音個人としてあなたに頼みたいと言っているのです。もちろん、あなたにこのような依頼をしている事は父には内緒です。どの道、私がこうしてあなたに会った事は村中に知れ渡るでしょうが、その時は『あなたの目的を探ろうとした』とでも言っておくつもりです。本心はともかく、巫女の私がそう言えば、村人はそれ以上追及しないでしょう。もっとも、それができるのは私が巫女でいられるあと少しの間で、巫女をやめれば二度とあの事件の調査を頼む事はできなくなります。だからこそ、あなたがこの村に来たこの機会を逃すわけにはいきませんでした。無理を承知でここを訪ねたのはそれが理由です」

「……改めて聞きますが、私にタブーとなった事件の調査を依頼する理由は何ですか? 立場的には、あなたは涼宮玲音が死んだ事で巫女になる事ができた人間で、むしろ村の人間側に近いと思っていたのですが」

 榊原のさらなる追求に対し、常音は少し黙った後、小さくこう告げた。

「……私と彼女……涼宮玲音は友人だったから。これが理由では駄目ですか?」

 その答えに、榊原は眉をひそめる。

「私が今まで聞いた話では、あなたと涼宮玲音は巫女の座をめぐるライバル関係にあったはずでは?」

「確かに他の子や大人たちはそうだったのかもしれません。でも……私の本心は、彼女と争いたくなどありませんでした。だって……彼女は私に色々な事を教えてくれた、もう一人の先生だったから」

「と言うと?」

「おっしゃられるように、私も最初は彼女の事を避けていました。年上だったし、いつも一人で図書室にこもっていて、何というか近寄りがたい空気だったからです。でも……ある日、本を返しに一人で図書館に行ったときに、彼女の方から私に声をかけてきました。その時私が借りていた本が、彼女の好みと一緒だったみたいで……。それがきっかけで、私と彼女は時々図書館で密かに会うようになって、そこで私は彼女から色々な事を教えてもらいました。都会出身の彼女は外界から閉ざされたこの村から出た事のなかった私の知らない色々な事を知っていて、私は自分が世の中の事を全く知らなかった事を思い知る事になりました。彼女に会わなければ、私はただ父の言いなりの人形として村に縛り付けられるだけの人生を送っていたはずです。だから……私にとって、彼女は人生の恩人なんです。大きな声では言えませんが」

「……」

「本心を言えば、私は彼女が巫女になっても構わないと思っていたくらいなんです。だから……八年前に彼女が殺された時はとてもショックでした。しかも、捕まった犯人は無罪で、今も彼女を誰が殺したのかはわかっていないまま、事件そのものがなかったように扱われてしまっています。私にはそれが耐えられませんでした。あの後、私はなし崩し的に巫女になりましたけど、その気持ちは今も変わっていません」

「だから……私にあの事件の調査を依頼する、と?」

 榊原の静かな問いかけに、常音は無言で頷いた。

「その結果、あなたやこの村にとって不都合な真実が明らかになる可能性もあります。というより、今日調べただけでもほぼ確実にそうなると私は予測していますが、仮にそうなったとしても、一度依頼を受けた以上、私は止まる事はありません。そうなる事を覚悟の上でなお、あなたは私に依頼をするのですか?」

 榊原の念押しするような言葉に、常音は動じる事なく再び頷いた。しばらくの間、二人による睨み合いのような状態が続く。

 が、やがて榊原の方が矛を収めた。

「……まぁ、いいでしょう。さっきも言ったように、八年前の事件は今回私になされている依頼にも大いに関係あると考えています。従って村の人間であるあなた自身が調べてほしいというなら私にとっては渡りに船ですし、何よりあなたに協力して頂けるのなら、本来の依頼を果たすために私としても非常に助かる話です」

「じゃあ……」

「交換条件は巫女であるあなたにこの村の情報を提供してもらう事としましょう。もちろん差支えのない範囲で、という事で構いませんので」

「ありがとうございます」

 常音は深々と頭を下げた。ひとまず、村の中に協力者が得られるというのなら榊原としても喜ばしい事だった。

「早速ですが、いくつか聞いてもいいですか?」

「はい。と言っても、私もしばらくこの村を離れていたので、わかる事には限りがありますが……」

「構いません。聞きたいのは安住梅奈さんの事です」

 榊原の頭には、昼間に墓地で出会った女性の顔が浮かんでいた。確か『校誌』によれば、目の前にいる常音は梅奈と同い年のはずである。

「梅奈が何か?」

「実は、今日村の北西にある墓地で彼女に会ったんです。しかも彼女は涼宮家の墓石にお参りをしていました。これについて何か心当たりはありますか?」

 その問いかけに対し、常音は首をかすかにひねって答える。

「……いえ、わかりません。そもそも最近は年に何度か村に帰って来た時くらいしか梅奈と会いませんし、会ったとしてもそこまで会話は弾みませんから」

「村の外で会った事は?」

「ありません。私は東京、彼女は京都に住んでいますし」

「では、涼宮玲音さんと安住梅奈さんは特別親しい関係だったのですか?」

「どうでしょう……。そこまで親しかったかと言われると……」

 常音が少し言いよどむ。自信がないのか、あるいは何かを隠そうとしているのか……榊原はそれを確認するためにさらに質問を重ねようとした。

 が、その時だった。不意に一階の方が騒がしくなり、誰かがドタドタと階段を駆け上がってくる音が響いた。榊原と常音が極秘の協定を結んだことを誰かに知られるわけにはいかない。榊原と常音が咄嗟に口を閉じると、程なくして障子が開いて美作が慌てふためいた顔を見せた。

「巫女様、お話中申し訳ありません」

「構いません。何かあったのですか?」

 常音は今までの話がなかったかのようにポーカーフェイスで尋ねる。が、美作はそれに気付く事なくこう告げた。

「それが……堀川のお嬢様がいなくなったって大騒ぎになっていて! 今、村人総出で探し回っているんですが……」

 その言葉に、榊原と常音は顔を見合わせた。榊原が美作に確認する。

「堀川のお嬢様というのは……巫女候補になっているという堀川頼子さんの事ですか?」

「は、はい、そうです。お昼頃に岐阜市内の寮からお屋敷に帰省したそうなんですが、その後、部屋から姿が見えなくなったらしくって……」

 確かに、その時間帯に支所の前を車で通り過ぎた姿を榊原も見ていた。どうやら車の消えた先に彼女の屋敷……村の有力者の一人である堀川盛親の屋敷があったようだが、その彼女の姿が見えなくなってしまったらしい。時間はすでに夜八時を過ぎており、窓から外を見ると街灯の少ない蝉鳴村はすでに闇に染まってしまっている。その所々に、彼女を探す村人のものと思しき懐中電灯の明かりが見えた。

 榊原は、直感的に何か嫌な予感がした。と、そこへさらに二人の人間が駆け込んできた。それは柊警部と蝉鳴神社の油山海彦神主だった。

「榊原さん!」

「話は聞きました。柊さん、状況はどうなっていますか?」

「現在も捜索が続いていますが、日没で暗くなっているので捜索作業自体が困難になっています。二次災害の恐れもあるので明日の朝まで一度捜索を打ち切ろうという声も上がっていますが、堀川頼子の父親の堀川盛親が頑としてそれを認めようとしません」

「まぁ、無理もない話ですが……ところで、どうして神主さんがここに?」

 その問いには当の油山海彦神主本人が答えた。

「頼子ちゃんの行方がわからなくなったと村の人から聞いて、私も探しに出ていたんです。その途中で柊さんと鉢合わせして、どうせだからと一緒に探していたんですが……」

 どうやら、事態はかなり深刻らしい。

「それよりも、なぜ常音さんがここに?」

 と、ここで海彦が今さらながらの質問をした。なお、さすがに神社の神主である彼は、巫女である常音に対しても変にへりくだった態度を取ったりはしないようだった。同じ神社に仕える身として、立場上は同格だからという事もあるのかもしれない。

「少しこの方と話をしたいと思っただけです、探偵さんと話す機会など滅多にありませんから」

「はぁ……」

 と、そこへさらに騒ぎを聞きつけたのか、隣の部屋に引っ込んでいた亜由美も困惑したような表情で顔を覗かせた。

「あのー、さっきから騒がしいですけど。何かあったんですか?」

 柊が亜由美に事情を説明している間に、榊原はこの状況に対して海彦や常音と善後策を練っていた。

「可能なら、我々も捜索に参加しましょうか? 余所者の世話にはならないというのなら話は別ですが」

「いえ、正直、ただでさえ人手が足りないので、手伝って頂けるというならありがたいです。村人たちが何か言っても、私か常音さんがいれば問題ないと思いますし」

 と、ここで常音が口を挟んだ。

「私も一緒に行きます」

「いや、しかし……」

 海彦が一瞬ためらうが、常音は譲らなかった。

「この村の巫女として、放っておくわけにはいきません。それに、堀川さんは私の友人でもありますから」

「……わかりました。そこまで言うなら、私が言う事はありません。ただ、無茶はしないでください。いくら巫女とはいえ、君はか弱い女性なのだから」

「わかっています」

「話は決まったようですね」

 榊原はそう言うと、ようやく事情を理解した亜由美に声をかけた。

「君はどうする?」

「もちろん、ついて行きます。置いてけぼりなんて御免です」

「そうかね」

 数分後、榊原、柊、亜由美、海彦、常音の五人は美作宿の玄関前に立っていた。主人の美作はどこか不安そうに榊原たちを見送っていたが、巫女である常音が同行している以上、何か意見を言う気はないようだった。

 榊原が腕時計を確認すると、時刻は午後八時半。海彦の話では捜索は三十分前の午後八時頃から始まったそうだが、今も堀川頼子が見つかったという知らせはないらしい。

「どこから探しますか?」

「地理に不慣れな私たちだけで動くのは効率が良くないでしょう。常音さんを一人で動かすわけにもいきませんし、ひとまずこの五人で一緒に動くのがいいと思います。どこを調べるべきかは、海彦さんと常音さんのお二人の判断にお任せします」

「わかりました」

 と、その時さらに榊原たちに声がかけられた。

「あれー、どうしたんですか? みんなそろって怖い顔をして」

 そこには地質学者で榊原と同じくこの宿に泊まっている青空雫がキョトンした表情で立っていた。背中にリュックサックを背負って服は土で汚れており、どうやらこの時間までフィールドワークを続けていたらしい。

 榊原たちが事情を説明すると、さすがに雫も少し真剣な顔になった。

「それは……確かに大変な話ですね」

「青空さんは彼女らしい人を見ましたか?」

 雫は少し考えていたが、やがて力なく首を振った。

「見ていませんね。と言っても、私はずっと山の中で地層の観察をしたりしていたから、あまり参考にならないかもしれませんけど」

「とにかく人手がいります。捜索に参加してもらえますか?」

 海彦の必死の要請に、雫は快く応じた。

「もちろん参加します。困った時はお互い様です」

「助かります」

 ひとまず方針は決まった。榊原たちは五人で一緒に動き、美作や雫もそれぞれ心当たりのある場所を調べに行くという。とにかく一刻の猶予もない。榊原たちはすぐに行動を開始したのだった……。


 それから二時間後の午後十時半、事態は硬直状態となっていた。すでに時間帯は深夜に差し掛かろうとしているにもかかわらず、堀川頼子の行方はつかめない。周囲が暗くなっている事もあって捜索は難航しているが、堀川家は依然として捜索の続行を要求し続けており、今でも村のあちこちで村人たちが捜索活動を続けていた。

 そんな中、榊原たちは一度、村の中央にある支所の前に集まっていた。この場にいるのは榊原、柊、亜由美に加え、ずっと榊原たちに同行し続けていた常音と海彦の計五人である。その周りにも村人たちがいて不安そうな表情を浮かべながら捜索を続けているが、彼らの顔にも疲労の色が見えつつあった。

「見つかりませんね」

「これだけ見つからないとなると、村の中にはいないのかもしれません。もしかしたら、山の中で動けなくなっているのかも……」

 海彦が深刻そうな顔で言う。この村の周囲は山で囲まれており、そこに入った可能性も否定しきれなかった。

「しかし、なぜ彼女がそんなところに?」

「さぁ……私には何とも」

 そんなあまり意味のない会話をしていると、支所の中から一人のスーツ姿の男が姿を見せた。

「常音さん! どうしてこんな所に」

「田崎さん」

 どうやら相手は、高山市役所蝉鳴支所の支所長・田崎伊周らしい。支所長とは言っているが、昼間の態度から見るに旧村長で現高山市議会議員である常音の父・左右田昭吉の腰巾着のような存在らしく、実際さすがに立場上「巫女様」呼びこそしていないものの、世間的には一女子大生に過ぎない常音に対してどこか腫物を触るようにというか、もっと言えばへりくだったような態度を取っているのが印象的だった。

「心配しましたよ。お父様も心配なさっていました。すぐに帰られた方が……」

 そう言いかけて、田崎は彼女の横に控える榊原たちに気付いたようである。

「あの、常音さん。失礼ですが、そちらの方々は?」

 表面上はそう言いつつも胡散臭そうな顔で田崎が尋ねる。だが、榊原たちが何かを言う前に、常音が遮るようにして答えた。

「今はそんな事を言っている場合ではありません。捜索に協力してもらえるというのならば、素直にその好意に甘えるのが一番です。今はとにかく人手がほしいはず。違いますか?」

「それは……確かにそうですが、でも得体の知れない連中の手を借りるなど……」

「だから私と神主さんがこうして一緒に行動しているのです。そんな事より、堀川さんの手掛かりは何かないのですか?」

「そ、それが……どういうわけか何も見つからなくて……」

 と、ここで榊原が前に出る。

「失礼、彼女が失踪した時の詳しい状況はわかりますか?」

「な……い、いきなり何を……」

「お願いです。答えてあげてください」

 反論しようとする田崎に常音が言いかぶせる。さすがに巫女である常音にそう言われては何も言えなくなったのか、田崎は不承不承という風に当時の状況を説明し始めた。

「……頼子さんは今日の正午頃にこの村に帰ってきました。まずは神社に行って、そこの神主さんから巫女候補についての説明を受けてから堀川家の屋敷に戻り、ご両親の方々に挨拶した後、『仮眠をとる』と言って屋敷内にある自室に引っ込んだそうですが……午後八時頃に夕食に降りて来られない事を不審に思ったお手伝いの方が起こしに行ったところ、布団はもぬけの殻で誰もいなかったそうです」

「つまり、本人が自身の意思で部屋を出て行った可能性が高い?」

「さぁ、わかりません。ただ、室内に荒らされた形跡はなかったそうです」

「実際の所、誰にも気付かれずにその部屋から脱出する事は可能なのですか?」

「それは……やろうと思えばできると思います。問題の部屋は一階で、窓の外の庭は死角が多いので」

「部屋の中に携帯電話や財布などは残されたままでしたか?」

「さ、さぁ……そこまでは堀川さんから聞いていません」

 田崎は困惑気味に答える。ここで榊原は海彦の方を振り返った。

「正午過ぎに頼子さんが神社を訪れたというのは事実ですか?」

「えぇ。榊原さんたちが神社を去ってから少しして。巫女候補になった方は、一度神社にその旨を報告する必要があるので」

 確かに昼過ぎにこの支所前で頼子が乗る自動車を見た時、その自動車は神社の方から南へ走って行った。あれは恐らく、神社への挨拶を終えてから実家の堀川家へ帰る途中だったのだろう。

「ちなみに、他の候補者の方にはいつ説明を?」

 榊原が小声で海彦に聞く。海彦は答えていいものかとチラリと常音の方を見たが、常音が頷くとこちらも田崎に聞こえないよう小声で答えた。

「すでに候補者をご存知のようですので答えますが、竹橋美憂さんは昨日、この村に帰って来た時に済ませています。名崎鳴さんは……都合のいい時間にいつでもいいから来てほしいとは言っておいたんですが、まだ来ていませんね」

「そうですか」

 どうやら、あの時鳴が神社にいた事には気付いていないらしい。ひとまず、鳴自身の説明とも矛盾はなさそうだった。

「話を戻します。頼子さんがいなくなった理由に心当たりはありませんか?」

「そんなの……わかるわけがないじゃないですか! 彼女は今日この村に帰って来たばかりだったんですよ! 私だって出会ったのはちょうど半年ぶりですし……」

「半年ぶり? という事は、この間の年末年始に彼女は帰省をしなかったんですか?」

「さぁ……詳しくは知りませんが、しなかったみたいですね。左右田先生の話だと去年の夏休みに帰省したのが最後で、年末年始は受験勉強が忙しくて帰る余裕がなかったと言っていましたが……」

「そうですか……」

 と、そこで田崎は少し苛立ったように言った。

「さぁ、もうこれでいいでしょう! 捜索に協力して頂けるのはありがたいですが、これ以上部外者にうろつき回られるとはっきり言って迷惑ですので、ひとまずお帰り頂けませんか? 常音さんも申し訳ありませんが一度家にお帰り頂いて……」

 田崎はそう言って榊原たちを追い返そうとし、そんな田崎に対して常音がさらに何かを言い返そうとした……まさにその時だった。



 パンッ



 不意にどこからか、小さな、それでいてはっきりとした何かの破裂音と思しき音が聞こえ、役場の周辺が一瞬静まり返った。亜由美は一瞬花火もしくは爆竹か何かかと思ったが、その音を聞いた榊原と柊の表情が一気に険しくなったのを見てその考えを改めた。果たして、彼らはこんなつぶやきを漏らした。

「柊さん、今のは……」

「えぇ。銃声……のように聞こえましたね」

 村人に聞こえないよう小声ではあったが、その発言を聞いて亜由美は背筋が凍った。銃声……日常生活には縁のないはずの言葉があっさりと登場し、亜由美は恐怖を覚えながらも同じく小声で榊原に問いかける。

「どういう事ですか? 誰かが銃を撃ったって事ですか?」

「わからんが、今の音は銃声に聞こえた。音からして多分、拳銃か何かだろう。どこからの音なのかはわからないが……この近くではなさそうだ。柊さん、あなた拳銃は?」

「名目上は休暇できていますので所持していません」

 柊は悔しそうに言った。が、そんな言葉を交わしつつも、榊原たちは油断なく周囲を見回している。そんな二人に対し、亜由美がなおも声をかけようとした……その時だった。

 その緊迫した空気にはあまりにも場違いな……そして、この場所、この村に限っては『悪夢』を告げる音が、暗闇の中、唐突に村中に響き渡った。



 ……カナ……カナカナ……カナカナカナカナ……



 それが聞こえた瞬間、その場にいた全員がギョッとした表情を浮かべ、誰もが顔を青ざめさせながら互いの顔を見合わせる。

「い……今のは……」

 田崎がかすれた声で尋ね、榊原が闇の向こうを眺めながら深刻そうな表情で答える。

「……聞こえた限りでは、『ヒグラシ』の鳴き声ではないかと思います。季節外れの、という言葉がつきますが」

「ひ、ヒィッ!」

 田崎はそう悲鳴を上げながらその場に腰を抜かした。だが、恐怖はそれだけで終わらなかった。最初はかすかにしか聞こえなかった蝉の鳴き声が、徐々に大きくなっていったのだ。それはまるで、最初一匹しかいなかったヒグラシが、徐々にその数を増やしているかのような鳴き声だった。


 ……カナカナカナカナカナカナカナ……


 カナカナカナカナカナカナカナカナ……


 カナカナカナカナカナカナカナカナカナッ


「や、やめろ! やめてくれぇっ!」

 田崎が頭を抱えながらその場に突っ伏す。田崎だけではない。周囲に集まって来ていた村の人間が残らず蒼ざめ、絶句し、伝説通りの季節外れの蝉の大合唱に恐れおののいている。だが、事態はそれで終わらない。当初ヒグラシの鳴き声だけだったその大合唱に、次第に他の蝉の鳴き声まで混じり始めたのだ。アブラゼミ、クマゼミ、ミンミンゼミ、ニイニイゼミ、ツクツクボウシ……多種多様な蝉の鳴き声が混ざり合い、冬が終わったばかりの春先の暗闇に包まれた寒村にその不気味な大合唱だけが響き渡る。それはもはや、この世の出来事とは思えないほどどこまでも非現実的で……そしてその騒がしさに反してどこまでもどす黒い『悪意』のような何かを感じる光景だった。


 シャーシャーシャーシャーシャー……


 ジージージージージージージージージー……


 ミーンミンミンミンミンミーンミンミンミン……


 オーシツクツクボーシツクツクボーシツクツクボーシ……


 カナカナカナカナカナカナカナカナカナカナカナカナカナカナ……


「イヤァァァァッ!」

「た、助けてくれ! やめてくれ!」

「お怒りをお鎮めください!」

 村のあちこちから蝉の鳴き声に交じって村人たちの絶叫が響き渡る。が、それで呪縛が解けたのか、真っ先に動いたのは榊原だった。

「神主さんっ!」

「え……あ、はい!」

「この蝉、どこで鳴いているかわかりますか!」

「え、ええっと……」

 海彦が慌てて耳を澄ませる。村中に鳴り響いている以上、これはラジカセだの放送だのといった人為的な小細工とは考えられない。明らかに本物の……それも大量の蝉が一斉に鳴いている。問題は、それが一体どこなのかという事だった。

「た、多分ですが……うちの神社の方角だと思います」

「行きましょう! このタイミングでこの蝉の鳴き声……神社で何かあったと考えるべきです! 神社の主として、あなたにはそれを確認する義務があるはずです!」

「そ、それはそうですが……」

 海彦が怖気づく。神主とはいえ、村の人間として伝説上の『蝉の大合唱』がこうして実現してしまい、恐怖心の方が勝ってしまっているのだ。むしろ、この場では伝説に対する恐怖心を植え付けられていない外部の人間の方に耐性があった。

「行かないなら、我々だけでも行きます。ですが、外部の人間の我々が先頭に立って動くのは後々問題になる可能性がありますので、行動の保障を得るためにも、神主さんか常音さんのどちらかについてきてもらう必要があるんです。神主さんが行かないというのなら、常音さんに頼んで……」

「ま、待ってください! さすがにそれは……」

 海彦は慌ててそう答える。神主の責務を放棄して巫女である常音に全てを背負わせるというのはさすがに問題があるのだろう。

「……いいでしょう。一緒に行きます」

「ありがとうございます」

 そして、榊原は控えていた柊の方に振り返って小声で確認する。

「柊さんはどうしますか?」

「大津留巡査と合流してからそちらに向かおうと思います。万が一のことがあった時に、彼がいた方がスムーズにいきそうですし、それに何より、さっきの銃声が気になります」

 その発言に亜由美はハッとした表情を浮かべた。確かに銃声となれば、この村で唯一拳銃の所持が認められている大津留巡査に何かあったと考えるのが自然ではある。柊の立場として、彼の動向を確認するのは当然であった。

「そんなわけですので、そちらはお任せしてもよろしいですか?」

「もちろんです。何かあったらすぐ連絡します」

 そう言ってから、榊原はその視線を亜由美に向け、こちらも小声で指示を出した。

「君はここに残って村の様子を見張っておいてくれ。不審な動きをする人間がいないかどうかを確認しておいてほしい。できるね?」

「わ、わかりました」

 ひとまずの方針は決まった。それでもなお、蝉の鳴き声は止まらない。もはや一刻の猶予もなかった。

「行きましょう。事態は一刻を争います」

「えぇ」

 そう言うと、榊原と海彦は、神社の方へ走り始めたのだった……。


 蝉の声は村中至る所に響き渡る。そんな中、村の一角に姿を見せた怪奇作家・夕闇逢魔はどこか狂気じみた表情を浮かべ、その視線を神社があると思しき暗闇の方へ向けたまま、手元の手帳に一心不乱に万年筆で何かを書き込んでいた。あまりの速度にカリカリという万年筆の先が紙をひっかくような音が響くが、逢魔はそんな事にも気づかないようにただひたすらに手を動かし続ける。

「これだ……これだ……これだ、これだっ!」

 譫言のようにそんな事を叫びながら、逢魔は執筆の手を止める事無く、一歩、また一歩と神社の方へと歩み進めていく。

「これこそ小生が求めていた物! さぁ、もっと鳴け! もっと鳴き狂え! もっと小生の感性を刺激しろ!」

 そして逢魔は丸眼鏡の奥の瞳を怪しく光らせながら狂笑する。

「そして、全てを壊してしまうがいい! 見せかけの平穏はもう終わりだ! これからこの村には再び地獄が降臨する! 憎悪、悪意、怨念、殺意……全てが混ざった混沌がこの村を覆い尽くす! 小生はその目撃者となる事ができる! これ以上の至福はない! ふふふ……ははははははは……はははははははははっ!」

 蝉の鳴き声に紛れるように、狂気の怪奇小説家の笑いが村に木霊した……。


 榊原と海彦の二人が神社の石段の前に到着すると、すでに近隣の村人たちが恐々とした様子で、懐中電灯片手に石段の先の漆黒の境内の方を見つめているのが見えた。その中には、神社の石段のすぐ近くに住む扇島老人の姿もあった。

「扇島さん!」

「おお、海彦君。無事だったか。それにそっちは……あの探偵さんか」

「どうも」

 挨拶もそこそこに、榊原たちも石段の先を見やる。一番上の方に鳥居がうっすらと見えているが、その先の境内がどうなっているのかはここからでは見えず、今もなお蝉の大合唱が続いている。近づいてみてはっきりわかったが、この蝉の大合唱は明らかに神社の境内から発せられていた。

「誰か中に入った人は?」

「いや……銃声のような音もしたし、この状況ではとてもではないが、誰もあの中に入る気になれんかった。海彦君の事も心配していたんだが……ひとまず、無事でよかった」

 何にせよ、こうなってはやる事は一つである。

「これから私と榊原さんで神社の境内を確認します。皆さんはここで待っていてください」

「そ、そっちの余所者も行くのかね?」

「今は余所者とかそんな事を言っている場合じゃないでしょう! 明らかに何か異常な事が起こっているんです。確かめないでどうするんですか!」

「ん……まぁ、それはそうだが……」

 隣でそんな言い合いをしている間も、榊原の視線は絶えず神社の境内の方を見据えている。扇島もこの状況下でこれ以上意見するのも野暮だと考えたのか、それ以上榊原が同行する事について突っ込む事はなかった。それを確認すると、榊原は海彦に声をかける。

「正直、私にもこの先何が起こるかわかりません。神主さん、覚悟はできていますか?」

「大丈夫です。とにかく、神社で何が起こっているのかを確かめないと……」

 榊原と海彦がそんな会話を交わして最終確認をしていた……その時だった。


 本当に突然、今まであれほど大音量の合掌を続けていた蝉がいきなり鳴くのをやめ、突如として神社の境内……もっと言えば村全体が元の静寂に包まれたのだ。


「な……」

 突然の事態に海彦が絶句し、榊原は黙ったまま険しい表情で神社の境内を睨みつける。と、そんな中、扇島がうわ言のように呟いた。

「同じだ……あの時と……戦争中のあの日、あの時鳴いた蝉と全く同じだ……」

 だが、ここまで来て今更引っ込むわけにもいかない。榊原と海彦は一瞬顔を見合わせると、すぐに互いに無言で頷く。そしてそれを合図に、二人は懐中電灯片手に石段を登り始めた。

 石段は大体五十段前後。それを一段一段、辺りを気にしながらゆっくりと登っていく。緊張の余りか、春先にもかかわらず二人とも額から汗が流れ出てきたが、境内に入る鳥居に近づくにつれてだんだん空気が重くなっていくのがわかる。

「もうすぐです。備えてください」

 榊原が小声で言い、海彦も無言で頷いた。そしてそれから間もなくして、二人は境内入口の鳥居の場所まで到達し、すぐに懐中電灯で神社の境内を照らした。



 そしてその瞬間、二人はおそらく生きている間絶対に忘れる事ができないであろう光景を……後の日本犯罪史にその名を残す猟奇的な犯罪現場の第一の目撃者となってしまったのだった。



「グッ……」

 目の前に広がる異常な光景に、海彦は思わず呻き声を上げて片手で口を押える。榊原もそのあまりの光景に吐き気の様なものさえ感じながらも、何とか歯を食いしばって耐え忍んでいた。それほど、目の前に神社の境内に広がる光景は異常で……そして猟奇的なものであった。

「な……何なんだ、これは……」

 海彦が呻くように言う。そしてその先……二人が懐中電灯を照らす先に、それはあった。

 一言で言えば、神社の境内は地獄の様相を呈していた。それは、かつて写真で見た戦時中の地獄の光景がそのまま現代に出現したかのようなものだった。

 境内の至る所に季節外れの蝉の亡骸が転がっている。その数は百や二百程度ではなく、数千……下手すれば数万に至ろうかという規模である。その境内を埋め尽くさんばかりの蝉の亡骸の奥……本殿の社やその傍の御神木には、その蝉の亡骸と同じ数の蝉の幼虫の抜け殻……大量の空蝉が至る所にくっついている状態だった。これらの蝉が一気呵成に地面から這い出して御神木や社で羽化をし、あの大合唱を繰り広げた後寒さに耐えきれず一斉に死んでしまった……そうとしか考えられない光景だった。

 だが、これだけのものが広がっていながら、恐ろしい事に問題はそこではなかった。二人が懐中電灯で境内を見回すと、空蝉と蝉の亡骸で埋め尽くされた御神木の下に奇妙なものが確認できた。

 『それ』は最初、御神木の根の一部か何かにも見えた。というのも、『それ』は大量の空蝉や蝉の亡骸に埋もれて何が何なのかわからなかったからだ。だが、二人が懐中電灯の光を当てて確認すると、『それ』は空蝉と蝉の亡骸に覆われた何かの『物体』である事がはっきり分かった。そして、それが何なのか確認できた瞬間……ついに海彦が絶叫しながら懐中電灯を投げ捨ててその場に腰を抜かした。

「ひ、ヒィィィィッ!」

 一方榊原は、この男としては珍しい事に額から汗を流しながらも、一際険しい顔で『それ』を観察する。そして、おもむろにこう呟いたのだった。

「斎藤……お前の、悪い予感……残念だが、当たってしまったようだ」

 そして、空蝉に覆われた『それ』を真正面から見やる。


 端的に言って、『それ』は『人間』だった。これだけ大量の空蝉と蝉の亡骸に覆われながらも全く動こうとしない、人間の死体そのものだった。


 『死体』には大量の空蝉がへばりついていた。どうやら抜け殻をふりかけられたわけではなく、蝉の大量羽化が発生する前からこの場所に死体が放置されていて、地面から出てきた蝉の幼虫たちがこの『死体』によじ登ってへばりつき、この『死体』を木の代わりにして羽化をしたようであった。死体にへばりついた大量の蝉の幼虫が一斉に羽化し、羽化した蝉が死体にしがみついたまま大合唱をする光景……大量の蝉がうごめく下で微動だにせずにその過酷な運命を無言のまま受け入れてしまっている『死体』の姿……あまりに残酷な光景を想像して、さすがの榊原も思わず吐き気を覚えた。

 だが、問題はそこではない。そんな人としての尊厳を踏みにじるような扱いをされた『死体』の主は一体誰なのか。しかし、榊原がそれを確認する前に、一足早くその正体に気付いていた海彦が、その『死体』の主の名前を大声で絶叫した。


「ど、どうして! い……飯里先生っ!」


 大量の空蝉が皮膚や服問わず体中に付着し、その上からさらに大量の蝉の亡骸がふりかけられた死体……それは、今日の昼頃に榊原も出会っていた、蝉鳴学校ただ一人の教師である飯里稲美の変わり果てた姿だったのである……。



 死体と化した彼女の目は、虚ろなまま何も映さない。その何も見つめない視線の先には、役目を終えてひっくり返った、彼女と同じ境遇の、一匹の『ヒグラシ』の亡骸が転がっている……。



 時は二〇〇七年三月八日。


 場所は岐阜県高山市蝉鳴村。


 後の世に『蝉鳴村連続殺人事件』と呼ばれる事になる、日本犯罪史にその名を残した大事件の火ぶたが切って落とされた瞬間である。

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