プロローグA イキノコリ事件
二〇〇四年六月八日火曜日早朝。東京都奥多摩地区旧白神村近くの山中。
豪雨の中、林業用の鉈が村の近くにある林の中で鈍く光り、そのまま鋭く振り下ろされる。直後、スイカが砕け散るようなグチャッという嫌な音と同時に、その場に響き渡っていた甲高い狂笑が途絶えた。
後には、目の前に転がる死体……塾講師・矢守昭平だった物体を見下ろす、鉈を振り下ろしたフードの人物……殺人鬼「イキノコリ」の姿しか残っていなかった。
後に、前代未聞の猟奇殺人事件と称される事になる、『イキノコリ事件』が終結した瞬間である。
イキノコリ事件……かつて大量殺人事件が起こった白神村という廃村。そこに迷い込んだバス事故の生存者十名が次々と惨殺されていったという犯罪史にその名を残す大事件である。今から語られるこの長い物語は、事件の犯人である「イキノコリ」により、関係者全員が皆殺しにされてこの猟奇殺人事件の幕が下りたところから始まる。
最後の生存者だった矢守昭平の息の根が止まってから数分後、「イキノコリ」は無言のまま気だるげな様子でまだ薄ら闇の残る白神村に戻ってきていた。その全身は血にまみれ、この殺人鬼がいかに残虐かつ猟奇的な殺人を繰り返してきたのかがよくわかる姿であった。
すでに標的は全員殺し終えた。この血塗られた村には自分一人しか存在しない。だが、「イキノコリ」にはまだ仕事が残っていた。これから自分が惨殺しバラバラにした被害者たちの遺体を村中にばらまき、その上で村から脱出するという作業が残っているのだ。面倒な作業ではあるが、完全犯罪を成し遂げるためには必要な作業である。
だが、何はともあれ「イキノコリ」は休息をとりたかった。すでにこの時、「イキノコリ」は四人もの人間を立て続けに殺害していた。一休みしないと、いくら「イキノコリ」といえ体が持たない。「イキノコリ」は重い足取りのまま、ある一件の廃屋へと向かった。
「旧村上家」。かつて白神村に住んでいた四家のうちの一件で、被害者となったバス事故の生存者たちはこの家を拠点にしていた。もちろん、全員が皆殺しにされた今、そこにあるのはバラバラになった彼らの遺体だけである。だが、「イキノコリ」は気にする様子もなくその家の中に入っていった。
中はすでに血の臭いで充満している。「イキノコリ」は黙って家の廊下を歩くと、生存者たちが拠点としていた部屋の中に入った。そこには血まみれで転がる少女……月村杏里の死体が転がっている他、その近くにはわずかながらも生存者たちの今や誰も持ち主のいない荷物が残されていた。何分、バス事故の現場から逃げてきただけあってその荷物の量は多くない。したがって、「イキノコリ」の目につきそうなものもそこにはないはずだった。
と、不意にその視線がある場所で止まった。それは、そうした荷物の中でも一際大きな鞄だった。「イキノコリ」は、その鞄の持ち主に覚えがあった。
小里利勝。本人はフリーのライターと名乗っていた。事件の終盤、村の近くにある河原近くで襲い掛かった「イキノコリ」に対して激しく抵抗した後、最後は力尽きて激流に転落していった男だ。生存者の中では抵抗した方だが、今となっては「イキノコリ」にとって過ぎた事である。
だが、「イキノコリ」はその鞄の中身がやけに気になった。もはや持ち主はいない。イキノコリは、思わずその鞄に手をかけ、中身を確認していた。はっきり言って、自分にとっても予想外の行動だった。
しかし、その中身を見て「イキノコリ」の表情が変わった。中にあったのは彼が取材したと思しき取材ノートのようだった。だが、そのノートをめくってみて最後の項目に書かれていた文字が「イキノコリ」の心をとらえたのだ。
「イキノコリ」はしばらくそのノートを食い入るように見つめていたが、やがてその紙の束をそっと懐にしまうと、そのまま立ち上がって外に出て行った。残された、自分の仕事に取り掛かるために。
それからの事はこの場で詳しく書かなくとも差し支えはないだろう。「イキノコリ」は仕事を無事済ませ、そのまま村を脱出した。彼が起こした『イキノコリ事件』が警察に認識され世を騒がせたのは、そのすぐ後の事である。
そして、村を脱出した「イキノコリ」がとある私立探偵との推理勝負に敗北して逮捕されたのは、この時から一週間ほど後の事であった……。