第五章 巫女争い
その後、稲美は鳴を探しに行くと図書室を出ていき、榊原はしばらく律儀にもちゃんと神社の資料を調べた後で、校舎裏手にある体育館の方へ向かった。体育館と言っても都会にあるような立派なものではなく、小ぢんまりとした武道場に近いものである。中に入ると、柊と亜由美が子供たちと遊んでいるところだった。
「あ、終わりましたか?」
「えぇ、一通りは」
柊の問いに、榊原は頷く。改めて見ると、子供の数は全部で四人しかいなかった。その上、見た感じ全員が小学生以下である。
「他に中学生の男の子が一人いるみたいですけど、その子はさすがに来ていないみたいですね」
「そうですか……」
おそらく年齢的に考えて、その中学生の男の子というのが、涼宮事件当時小学一年生だった手原岳人という少年だろう。今となっては、事件当時の被害者の同級生の中で唯一今でもこの学校に在籍している人間という事になる。
「で、どうでしたか?」
「いくつかの情報は集まりました。とはいえ、肝心のノートを送った相手に関してはまだ何とも。まぁ、今の所は直接事件の話を聞くわけにもいきませんからね。ひとまず村の状況を知るところからです。そっちはどうですか?」
「稲美さんが戻るまで子供たちの相手をしているところです。田舎の体力のある子たちだから、なかなか大変で……」
柊は実際に疲れたように言う。と、そこへ稲美が戻ってきた。
「すみません、やっぱり見つかりませんでした……」
「私たちも探すのを手伝いましょうか?」
榊原が尋ねるが、稲美は首を振った。
「いえ、そこまで頼るわけにはいきません。ひと段落着きましたし、何かこの後用事があるようでしたらそちらを優先して頂いても構いませんが」
「そうですね……」
榊原は少し考えると、頷いた。
「わかりました。では、我々はこれで」
「本当にありがとうございました。またいつでもおいでください」
ひとまず、三人は学校を出る事にした。時間はすでに昼過ぎになりつつある。
「さて、とりあえずそろそろ食事にするか。確か、村の中心部に食堂があったはずだ」
そんなわけで、三人は再び村の中心部へ向かって歩き始めた。その途中で榊原は図書室で聞いた話を二人にも説明する。
「巫女をめぐる争いか……本当にどこぞの推理小説みたいな展開ですね」
「ですが、この村の人間にとっては空想でもなんでもない現実です。問題は、その現実が何を引き起こしているのか、ですが」
柊の言葉に、榊原はそう答える。そうしているうちに、三人は先程通った村の中心部へと到着した。朝に比べると人通りは多くなっているが、それでも十数人が歩いている程度である。ひとまず支所の傍まで到着すると、榊原は周囲を見回した。
「さて、食堂は……」
その時だった。不意に背後から車のエンジンの音がした。何せ村の入口で車両の通行をすべてシャットアウトしている村である。それだけに、この場所でその音が聞こえた事に榊原たちは思わず振り返っていた。
見ると、神社の方角からこちらへ向かって一台の乗用車が走ってくるところだった。色は黒。狭い村の道だけあって速度はそこまで出ていない。と、それを見た近くにいる村人の何人かがひそひそと会話するのが聞こえた。
「あら、堀川のお嬢ちゃんが帰ってくるのって今日だっけ?」
「そうよ、知らなかったの? 今度から東京の大学に進学するとかで、一度岐阜市の学校の寮から村に帰ってくるって噂になっていたじゃない」
堀川のお嬢ちゃん、という言葉に榊原はピンときていた。確か、さっき確認した涼宮玲音の殺害年に蝉鳴学校に在籍していた生徒。その一人の名前が「堀川頼子」だったはずだ。しかも当時小学五年生だった事から考えて、三月時点の現在の年齢はおそらく今の亜由美と同じ十八歳。四月から大学へ通うという話と一致する。どうやら話を聞く限り、彼女は岐阜市内の全寮制の高校に通っているらしく、四月から東京の大学へ進学する事になったらしい。
そんな事を考えているうちに、車は榊原たちのすぐそばを通り抜けた。運転しているのは白髪の男性で、後部座席には予想通り亜由美と同年代程度の少女の姿が見えた。ガラス越しではあるが、顔の感じは校誌で見た『堀川頼子』の面影がそのまま残っている。どことなくきつそうな表情の彼女を乗せた車は、そのまま村の南側……美作宿のある方角へとまっすぐ走って行き、途中の田んぼ道で右に曲がった。
「そう言えば、村人であれば村内への車の進入は認められているという話でしたね」
「その通りです」
柊が頷く。涼宮事件関係者の一人である堀川頼子。葛原がこの村を訪れたのは二〇〇三年の七月で、すなわち彼女は中学三年生。ギリギリ村にいたはずだ。ならば、葛原が彼女と話をした可能性は捨てきれない。
「いずれ、話をする必要があるかもしれないな」
榊原はそう呟いて、何気なしに支所の方を見た。
と、そちらでも動きがあった。何人かの人間が支所から出てきたのである。と、それを見た柊の表情が厳しくなった。
「あれは……」
「誰ですか?」
「……先頭の男は前村長で現高山市議会議員の左右田昭吉。その隣で頭を下げているのは今の支所長の……確か名前は田崎伊周だと思います。でも、問題はそこじゃありません。左右田の隣にいるサングラスの男。あれは、涼宮事件を担当した猪熊亜佐男元警部です」
「何ですって?」
榊原は思わず彼らの方を見つめる。見ると、田崎という支所長が左右田にペコペコと頭を下げているのに対し、猪熊は左右田と親しげに話を続けている。
「確か、猪熊警部は岐阜県警を辞めた後で高山市内に警備会社を作ったと聞いていましたが……どうしてこんなところに」
「あの、顔、ばれませんか?」
亜由美がやや緊張気味に尋ねる。が、柊は首を振った。
「大丈夫です、私は彼とは直接面識がありませんから。彼の顔は事件資料で見ただけです」
「それなら、いいんですけど……」
と、榊原は三人の後ろにもう一人誰かがいるのを見て取っていた。長髪の若い女性であるが、やや俯き気味に左右田の後に続いている。年齢は二十代前半だろうか。だが、その面影に榊原は見覚えがあった。彼女も確か先程の校誌に載っていたはずである。
「あれは……左右田の娘の左右田常音か」
涼宮玲音に代わって巫女役になった左右田の娘……その本人が目の前にいるのである。四人は何やら話し合いながら歩いていたが、やがて支所の敷地内に停車してあった公用車の前に到着すると、左右田と猪熊だけがそれに乗車した。そのまま車は支所を出ると、いったん村の入口の方へ向かい、しばらくして左手の脇道に入って視界から消えた。後には田崎と常音だけが残されたが、二人はそのまま何かを話した後互いに頭を下げ、田崎は支所の中へ、そして常音は支所を出て神社の方へ歩いていく。
と、榊原たちとすれ違う瞬間、常音の視線が不意に榊原たちの方を向いた。そのまましばらくじっと榊原たちの方を見つめ続ける。何とも言えない沈黙がその場を支配した。
「あの……何か?」
榊原が思わず尋ねる。が、常音は黙って首を振ると、そのまま無言で神社の方へと去っていった。何が何だかわからず、榊原たちはそれを見送る他ない。
「何だったんでしょうか?」
亜由美が首をかしげて呟く。とはいえ、このまま立ち続けているわけにもいかない。ひとまずこの件について考えるのは後回しにした。
「まぁ、いい。ひとまず食事に……」
だがこの直後、三人の食事はまたしても先延ばしされる事になった。なぜなら、今度こそ食堂へ向かおうとする三人の背に、再び声がかけられたからだ。
「そこの三人、ちょっと待ちなさい!」
そんな声をかけられて振り返ると、そこにいたのは自転車に乗ってこっちへ向かってくる五十代後半くらいの警察官の姿だった。彼はそのまま榊原たちの前で停まると、厳しい表情で話しかけてくる。
「君たちか、昨日から村へ来て何やら調べているというのは。一体何が目的だね?」
「……この村は外部から来ただけで警察に呼び止められてしまうのですか?」
榊原としてはそう反応する他ない。その返事に、警官はますます眉を吊り上げた。
「ふざけるな。自分の事を私立探偵だとか抜かす、素性も知れぬ怪しい人間がいるとなっては、職務質問の一つもするだろう」
「素性も何も、本当に私立探偵なんですがね。ライセンスもありますよ。というより、この村は情報が伝わるのが本当に早いですね」
榊原は苦笑しながらそう言った。とはいえ、私立探偵が免許制になったのは割と最近の話だったりする。案の定、相手の警官はそれを知らなかったようだ。
「とにかく名前と、ここへ来た目的を話してもらおうか」
「情報が伝わっているなら知っているでしょう。名前は榊原恵一。目的は蝉鳴神社の伝承の調査です。そういうあなたこそ、名前くらい教えてください」
榊原の問いに対し、相手は厳しい表情のまま、ある意味榊原の予想通りの名前を名乗った。
「そこの蝉鳴駐在所の大津留真造だ。とにかく、村人から『怪しい奴がうろついているから何とかしてくれ』と言われているんだ。駐在所まで来てもらおうか」
「……神社の伝承を調べていただけでこの反応とは、随分ですね」
榊原はそう苦笑しながらも、後ろの二人に目配せして大津留におとなしく従った。
言うまでもないが、この巡査こそが涼宮事件の重要な証言となった「大津留証言」の大津留巡査であろう。だとすれば、榊原にも話したい事は山ほどあった。
村人がひそひそと何か噂しながらこちらを見ている中で、榊原たちは駐在所に連れ込まれてしまう。大津留はドアを閉めると、密室となった駐在所の中で三人に質問を開始した。
「さて、本当の所を話してもらおうか? 一体何の目的でこの村に来た?」
「だから、神社の調査だと言ったはずです」
「それを信じると本気で思っているのか?」
大津留はそう言って榊原を睨むと、後ろの二人にも目をやった。
「そっちの二人も、名前と職業を言ってもらおうか」
亜由美と柊は顔を見合わせて、榊原に視線を向ける。榊原はそれを見てしばらく何かを考えた後で、小さく頷く。
「やむを得ませんね」
その言葉に、前に出たのは柊だった。柊は渋い表情の大津留に対し、こう告げる。
「まず言っておくが、この件は他言無用という事でお願いしたい」
「は? 何を言って……」
そう言う大津留の顔の前に、柊は黙って警察手帳を突き付けた。それを見て、柊の顔色が変わる。
「け、警部って……あんた、一体……」
「岐阜県警本部刑事部捜査一課係長、柊長親だ。今は表向き休暇という事でこの村にきている」
その言葉に、大津留は慌てたように立ち上がって敬礼した。一駐在所の巡査にとって、県警本部刑事部の係長という役職は雲の上の存在である。
「し、失礼しました! そうとは知らず……」
「いいんだ。わけあって身分を隠している状態でね」
だが、大津留は混乱状態である。
「し、しかしなぜ県警本部の警部殿がこんな村に……」
「説明してもいいが、その前に一つ警告だ。朝から歩いているが、この村は随分情報が伝わるのが早いようだな。これから話す事は県警上層部も承認している極秘事項となる。従って、故意に誰かに話したとなれば、警察官服務規程内の守秘義務違反に該当する。これが何を意味するか、君にはわかると思うがね」
「そ、それは……」
大津留は少し逡巡する。どうやら、後で誰かに結果を報告するように言われているらしい。それを見て、柊は机の上にあった電話を勝手に借りると、ある番号に電話した。そして一言二言喋ると、大津留に受話器を渡す。
「君にだ」
「は、はぁ」
わけがわからず受話器を取る大津留だったが、直後、大津留は全身を硬直させた。
「け、刑事部長殿でありますか!」
どうやら、相手は柊が榊原に同行する事を極秘に許可した県警刑事部長らしい。まさか県警刑事部のトップと話す事になるとはさすがに思っていなかったようで、大津留は体を固めたまましばらく話を聞いていたが、やがて放心状態で受話器を下ろした。
「部長は何と?」
「……協力するように、との事でした。それと、秘密を厳守するように、とも」
「そういう事だ。万が一今から話す話が今後村人に漏れていたとなれば、ここが情報の流出元と考える。その場合、君に対する処遇は厳しいものになると思え」
「……肝に銘じます」
柊の言葉に、大津留は恨めしそうに榊原の方を見上げた。
「しかし、そうなるとこの方は……」
「私立探偵の榊原恵一。それは最初に言った通りで間違いありません。ただ、ちょっと厄介な依頼を受けまして、こうして柊さんに協力して頂いている次第です」
「協力って……」
「彼の依頼主は東京の警視庁だ。より詳しく言うなら、警視庁刑事部捜査一課第三係係長の斎藤孝二警部ということになる。岐阜県警の刑事部も、極秘裏にそれに協力している形だ」
柊はズバリ告げ、大津留はあまりの話に絶句する。
「け、警視庁がなぜこんな私立探偵に……」
「今でこそ私立探偵だが、彼はこう見えてかつて警視庁捜査一課のブレーンと呼ばれていた名刑事だ。今でもその手の依頼は多いらしい」
「その辺にしてもらえませんかね。少々気恥ずかしい」
榊原はそう言うが、大津留の見る目は大きく変わっていた。
「ちなみに、その後ろのお嬢さんは?」
「宮下亜由美です。榊原さんの秘書をしています」
亜由美は自分から挨拶する。ブレザー姿の少女の何とも言えない自己紹介に大津留は戸惑ったようだったが、やがて深く考えるのをやめたようだった。
「それで、県警の警部殿や、元警視庁の刑事さんが、どうしてこんな片田舎に? 蝉鳴神社の伝承を調べるため、というわけではないんですよね?」
「まぁ、そうなりますね。もっとも、一応ちゃんとそっちも調べてはいますが」
榊原が代表して答える。
「では、やはり八年前の涼宮事件の?」
「かかわっていないといえば嘘になりますが、本質はそこではありません。大津留巡査、あなたは葛原光明という名前をご存知ですか?」
「葛原? いえ……誰ですか?」
「三年前に東京西部で起こったいわゆる『イキノコリ事件』の犯人だった男です。この事件の事は?」
「も、もちろん知っています。しかし、なぜ……」
榊原は、葛原の死刑執行と葛原論文の存在、そして死刑直後に届いた小里ノートの存在といった流れを大津留に説明した。
「そんな事が……」
「警視庁は、このタイミングで高山……もっと言えば蝉鳴村から送り返されてきたノートの存在に懸念を示している。葛原の死をきっかけに、何か大変な事が起こるのではないかとな。そして、それは我々岐阜県警刑事部も同感だ。ただし、何も起こっていないこの段階で表立って警察が動く事はできない。そこで警視庁は自由に動ける榊原さんに調査を依頼し、現地の案内役として県警から私が休暇を取った上で同行しているという状況だ」
「まさか、またこの村で何かが起こると?」
大津留の顔が蒼くなった。
「そうならないように、私たちは調査を進めています。が、正直に言ってその可能性は高くなっているというのが私の主観です。かつてこの村を訪れていた葛原と、その葛原がイキノコリ事件後に小里ノートを送った相手の存在。葛原の死刑執行に合わせて小里ノートが高山から送り返されてきたという事実。そして村に来てみれば、巫女選びの真っただ中で村中がギクシャクしているというこの状況。あくまで私の勘ですが、何か嫌な予感がします」
「そのために、君の話を聞かせてもらう必要がある。協力してもらえるね?」
柊の言葉に、大津留は小さく頷いた。それを見て、榊原は質問に移る。
「まず確認です。今から四年前の二〇〇三年七月。葛原論文の記述によれば、後にイキノコリ事件を引き起こす事になる葛原光明がこの時期にこの村を訪れているはずです。この事について何か覚えはありますか?」
「それは……あの頃は最高裁の無罪判決直後で、興味本位で村にやってくる人間やマスコミ、それにその手の学者連中も多かったので、特定の誰かといわれても……」
大津留の答えは曖昧だった。
「当時の葛原は大学院生です。二十代前半のそんな人間がこの村にやってくれば、いくら状況が状況でも印象に残るはずだと思いますが」
「大学院生……」
そこで大津留の表情が変わった。
「もしかして……」
「覚えがありますか?」
「え、えぇ。確かにその頃、美作宿に宿をとって何か調べていた学生がいた気がします。そう言えば、自分にも話を聞きに来ていた記憶が……」
「名前は?」
「……すみませんが覚えていません。正直、自分もうんざりしていたもので、まともに相手もしていなかったと思います」
無理もない。事件の鍵を握る大津留証言の主という事で、その手のマスコミ攻勢が苛烈を極めていた時期だろう。対応がおざなりになるのもやむなしである。
「いいでしょう。では他の事を聞きます。先に言った通り、現在この村では再び巫女選びが行われている。この点は間違いありませんか?」
「え、えぇ」
「現在の巫女……つまり、涼宮事件後に涼宮玲音に代わって選出された巫女は左右田常音さんで、彼女が今年巫女の上限年齢である二十三歳を迎えるため、次の巫女の選出が行われる事になった。では、今回の巫女候補は誰なのでしょうか?」
その問いに、大津留は一瞬ためらったが、柊が無言で睨みつけているのを見るとやがて観念したように答えた。
「今の所は何人か候補が出ている状態ですが、有力なのは名崎鳴ちゃんと堀川頼子さん、それに竹橋美憂さんの三人です」
ある意味予想通りの名前である。だが、一人だけ初めて聞く名前があった。
「最後の竹橋美憂さんというのは?」
「堀川さんと同じく四月から大学一年になるこの村の出身の子で、この交番の近くにある竹橋食堂の娘さんです」
それは、さっき榊原たちが探していた食堂の事らしかった。
「小学校入学時に岐阜市内の小中高一貫の私立学校に入学して、今は岐阜市内の親族の家に下宿しています。だからこの村の蝉鳴学校に通っていた事はないし、涼宮事件の時も村にいませんでした。でも、村の出身者である事は間違いないので、今回候補者の一人になっているんです。昨日あたり、久々に村に帰ってきたはずですが……」
「三人の中で一番巫女になる可能性が高いのは?」
「それは私の口からは……」
大津留は口ごもる。さすがに自分の口からは言えないという事なのだろう。
「……それでは『涼宮事件』当時について聞きますが、この時は亡くなった涼宮さんと現巫女の左右田さん以外にも巫女候補がいたはずです。それが一体誰なのかという点と、その時の候補者たちが今回の巫女選びに出ているかどうかを教えてもらいたい」
大津留はしばし逡巡していたが、再び柊に睨まれてポツポツと答える。
「あの時、涼宮さんと左右田さん以外で巫女候補だったのは、安住梅奈さん、雪倉美園さん、堀川頼子さんの三人です。さっきも言ったように竹橋美憂さんはあの時村にいなかったので、前回は候補になっていませんでした。もっとも、最終的にあの時巫女になったのは左右田さんで、今回の巫女選びでは前回の候補者の中からは堀川頼子さんだけが候補になっています」
やはりというか、ある意味予想通りの名前だった。
「残りの二人はなぜ今回候補にならなかったんですか?」
「……安住梅奈さんは左右田常音さんと同じ学年ですから、年齢制限でそもそも今回の巫女候補になる資格がありません。もう一人の雪倉美園さんは今二十歳ですが、仮に今回巫女になっても三年後には辞めなければいけないという事が問題になって、最終的に寄合での話し合いで候補になる事を見送られたんです。もっとも、彼女本人や彼女の両親はこの決定に不満を持っているみたいで、それがまた問題に発展しています」
「と言うと?」
「自分は候補になれなかったのに、たいして年齢の違わない堀川頼子さんや竹橋美憂さんが候補になっているというのが我慢ならないようなのです。この村では巫女を出した家が大きな権力を得られるので、それがなおさら対立に拍車をかけています」
「権力、ですか」
まさに古き良き日本の怪奇推理小説にでも出てきそうな話だった。
「しかも、問題の堀川さん、安住さん、雪倉さんの実家はそれぞれこの村の中でも力を持っている家でして、それがまた問題をややこしくしているのですよ。本来なら私が何とかせねばならない立場ではあるのですが……この村では一介の巡査の力など吹けば飛ぶようなものでして」
「だが、今回の件はそんな言っていられないのも事実だ。さっきも言ったように。この件については岐阜県警本部はおろか、警視庁刑事部も興味を持っている。事態は君一人の判断でどうにかなる状況ではなくなっているという事を理解しておく事だ」
柊が改めて弱腰の大津留に釘を刺す。
「わかっています」
「その三人の実家というのは?」
榊原の問いに、大津留は苦々しい顔で答えた。
「堀川頼子さんの父親である堀川盛親さんは『堀川林業』という材木店の経営者。安住梅奈さんの父親である安住煕正さんは『安住酒造』という酒造店の経営者。雪倉美園さんの父親である雪倉統造さんは『雪倉建業』という工務店の棟梁で、さらに言えばその奥さんで工務店の副経営者でもある雪倉笹枝さんは三代前の巫女だった人です。形としては、他家の人間である統造さんが当時巫女をしていた笹枝さんと結婚した際に雪倉家に婿入りした形になっていて、名目上の棟梁兼雪倉家当主は統造さんという事になってはいますが、実質的な雪倉家のトップはかつて巫女でもある笹枝さんが握っているという複雑な構図です」
そこまで一気に言い終えた後、大津留は一息入れて「ただ」と続けた。
「その統造さんはといえば安住煕正さんの実の弟にあたる方で、つまり雪倉家と安住家は実質的な親戚。さらに言えば、残る堀川盛親さんの奥さんで頼子さんの母親でもある堀川雅奈さんは安住煕正さんの実の姉で、こちらは雪倉笹枝さんの一つ前の巫女経験者となっています。もっとも、雅奈さん自身は頼子さんを生んですぐに病気で亡くなってしまわれていますが、そういうわけで前回の巫女候補になっていた三人は血筋的には従姉妹の関係になるんです」
「そして、その従姉妹同士で巫女争いですか。何とまぁ……過去の巫女経験者を巻き込んで、複雑な家系図になっているようですね」
いよいよどこぞの古き良き推理小説に出てくる旧家の家系図のようになってきたと、榊原は密かに思っていた。かなり複雑な関係図だったので、大津留巡査に何度か確認しながらこの三家についての家系図を書いてみると以下のようになった(下図参照)。
「そしてこの四人に、現巫女である左右田常音さんの父親であり、戦後直後から長年村長としてこの村の政治的な舵取りをしてきた左右田昭吉元村長を含めた合計五人が、この村の実質的な権力者となっている状態です。まぁ、色々言いましたが、外から見たら複雑な事になっているのは間違いないでしょうね」
「……先代巫女であるはずの美作家はそこまで村の有力者という風には見えませんでしたが、その点はどうなっているのですか?」
榊原が素朴な疑問を尋ねる。その理屈なら、あの美作宿の主人もこの村においてそれなりの立場でなければならないはずだが、お世辞にもそうは見えなかった。これに対して、大津留は少しバツが悪そうに答える。
「美作さんについては少し特殊でしてね。言った通り、誰かが巫女に就任すると巫女の血縁関係者は村の中でかなりの権力を有する事になるのですが、それが原因で今までにも何度か村の有力者による巫女の座をめぐる争いがありましてね。あの子が巫女になった時はそんな権力争いにみんな疲れ果てていて、先々代の巫女……つまり雪倉笹枝さんの次の巫女だった人が『あえて中立的な人間に巫女をやってもらってその手の争いをなくそう』と言い出したんです。その結果、村の有力者から比較的距離を取っていた美作さんのお嬢さんが巫女に選出されたというわけです。あの時は、美作さん自身は岐阜市のホテルで料理人をしていたから、彼だけ単身赴任で岐阜市に出ていて、こっちには巫女になった当時小学生の清香ちゃんと、外から嫁いできた美作さんの奥さんだけが住んでいましてね。権力も何も、巫女の周囲がそんな状況ならそういう問題は起らないだろうと見越した上での人選だったわけですが……」
だが実際は、美作清香は任期途中で事故によりあの状態となり、問題の一九九九年に「巫女の意見が反映されない寄合による決定」という形で新たな巫女の選出をやらざるを得なくなってしまった。そしてその最中に『涼宮事件』が発生する事になったのである。
「ちなみに、その先々代の巫女さんというのは?」
「ええっと……大島瀧江さんという人です。この大島家も昔は村の中でそれなりの力を持っている旧家だったんですが、瀧江さんが巫女を辞めた直後に色々あって村から引っ越されてしまいましてね。今はもう村とは関係なくなってしまっています」
「大島瀧江、ね」
榊原はその名を繰り返し、何事か考え込む。その「色々」という言葉が少し気になったが、聞いても答えてくれなさそうなのでひとまずその件については置いておく事にした。
「他に何か聞く事はありますか?」
柊がそう尋ねると、榊原はすぐにこう返す。
「では、遠慮なく。何人か現在の所在を確認しておきたい人間がいます」
そう前置きして、榊原は大津留に対してさらに問いかける。
「八年前の事件の被害者・涼宮玲音の父親……すなわち被害者遺族である涼宮清治は今どうしていますか? 事件当時この村の観光案内所の職員だった事までは知っていますが」
確かにその点は気になるところだった。裁判で加藤の無罪が立証されて以降、被害者遺族である涼宮清治の動向はあまり知られておらず、さらに一通り村を歩き回ったにもかかわらずそれらしき人物の情報は耳に入って来ない。それを踏まえた上での質問だったのだが、大津留の答えは意外なものだった。
「彼はもう、この村にいません」
「いない?」
「はい。あの事件の裁判が終わって、その……加藤柳太郎の無罪が立証された直後に、彼は村を出て行ってしまいました。伝え聞くところによれば『娘の思い出が残るこの村から離れたい』という事だったようで。……今はどこで何をしているのかもわかりません」
「では、現在の涼宮家は?」
「その……ずっと空き家になっています。一応村で管理はしていますが……」
大津留は何とも気まずそうに顔を俯けた。この様子ではあまりしっかり管理をしているわけではないらしい。
「その家はどこに?」
「えっと……ここです」
大津留は壁にかかっている村の地図の一ヶ所を示す。それは瀬見川近くの一軒家のようだった。
「涼宮玲音の親族は現在村にいないという事か」
榊原は確認するように小さく呟くと、すぐに次の質問に移った。
「では、もう一人。柾谷健介という人物に心当たりは?」
それは小里利勝がイキノコリ事件前にインタビューをした、涼宮事件当時蝉鳴学校に通っていた少年の名前だった。インタビュー当時は村を出て富山の学校に通っているはずだったが、彼が今どうしているのかやはり気になったのだ。
この質問に対し、大津留はまたしても意外な答えを返した。
「柾谷さんちのケンちゃんですか? 彼なら三日ほど前に村に帰ってきましたよ」
「帰って来た?」
「えぇ。彼、今は新潟の方の大学に通っているんですが、ちょうど春休みで帰省しに来たんです。確か大学で知り合ったガールフレンドと一緒だったはずですが……」
あの事件の関係者……それも問題の小里ノートのインタビューに答えた人間がちょうど村にいる。それは、何か運命を感じたくなるような偶然だった。もっとも、もしかしたら偶然ではないのかもしれないが……。
「彼の家の場所は?」
「はぁ、この辺ですが……」
大津留は先程の地図の別の場所を示す。今日は無理でも、いずれ話を聞く必要性はありそうだった。
「……わかりました。ひとまずこれで結構です。また聞きたい事ができたら、改めてお話を聞かせて頂きます」
「……」
大津留は何も答えなかった。予想外の展開となって、この後どうすべきなのかを考えているようである。そんな大津留に、柊は改めて念押しをする。
「君にも村での立場があるのは理解している。だが、重ねて言っておくが、今回はもはやそんな事が問題にならないほど話が大きくなっている。今でこそ動いているのは岐阜県警と警視庁だが、事によっては……より上の存在が動く可能性さえある。君の今後の行動次第で、我々の対処も変わってくるという事は理解しておく事だ」
「上は……県警は、本気という事ですか?」
振り絞るように言う大津留に、柊は首を振った。
「県警じゃない。日本警察そのものが、だ。そうなれば、この村の有力者でもどうにもならないだろうな」
「……」
「失礼する」
その言葉を残し、榊原たちは難しい表情をして何かを考え込んでいる大津留を残し、蝉鳴駐在所を後にしたのだった。
駐在所から出ると、こちらを見てひそひそと何かささやいていた村人たちが、慌ててそそくさと去っていくのが見えた。
「随分嫌われたようだな」
榊原は苦笑気味にそんな事を言う。
「まぁ、いい。さて、いい塩梅に小腹もすきましたし、今度こそ昼食を食べる事にしましょうか」
そう言うと榊原は、駐在所のすぐ目と鼻の先にある『竹橋食堂』の前に立った。もっとも、その狙いが食事よりも次の巫女候補の一人だという竹橋美憂にある事は明白である。
食堂とはいえそれほど規模が大きいものではなく、いかにも個人経営と言わんばかりの外見をしている店だった。榊原がガラス製の引き戸を横に開けると、店の奥から若い女性の声が響いてきた。
「あ、いらっしゃいませ!」
その言葉とほぼ同時に、店の奥からエプロンをつけた小柄な女性が姿を見せる。おそらく年齢は亜由美と同年代か少し上くらいだろうか。店はカウンター席といくつかのテーブル、それに畳の敷かれた座敷がいくつかある簡素な構造で、どこぞの海の家と似ているとでも言えば大体の様子はわかると思われる。そんな中、彼女は明らかに余所者であるはずの榊原たちに動じる事なく尋ねた。
「えっと、三名様ですか?」
「そうです」
「では、そちらへどうぞ! すぐにお冷とメニューをお持ちしますね」
彼女に言われるまま、榊原たちは近くのテーブル席に腰を下ろした。それを確認すると、彼女はすぐにメニューとお盆に乗せたお冷を運んでくる。メニューと言っても一枚だけの簡素なもので、肝心の品目も簡単な定食と麺類、丼など和食中心のものに、申し訳程度にハンバーグやカレーがある程度のものだった。
「じゃあ、カツ丼を一つ。亜由美ちゃんは……」
「私はきつねうどんをお願いします」
「では、私は親子丼で」
三者三様に注文すると、少女は「ありがとうございます!」と笑顔で言って奥に引っ込んでいった。一息ついたところで改めて店内を見回すと、榊原たち以外にも何人か客がいるようだった。まず、カウンター席の隅の方にグレーの作業服と思しき服を着た三十前後と思しき男が二人。髪型は茶髪とスポーツ刈り。いかにも仕事中に休憩のために立ち寄ったという風で、うどんの丼を前に何やらひそひそと辛気臭い表情で話し合っている。
そして、窓際の席にはおそらくは二十代後半と思しき年齢の若い女性が腰掛けていて、何かの定食を食べているようだった。登山客か何かだろうか。山登りに行くようなアウトドアタイプの活動的な服装で、実際に横には山登りに行くような武骨なリュックサックも置かれている。
「お待たせしました!」
と、そこへ先程の少女がお盆に乗せたそれぞれの料理を運んできた。そのまま再び奥へ引っ込もうとするが、その前に榊原が声をかけた。
「あぁ、ちょっといいですか」
「はい? 私ですか?」
「えぇ。つかぬことを聞きますが……この店に竹橋美憂さんという方がいると聞いたのですが、ご存知ですか?」
その問いかけに彼女はきょとんとした表情で頷いた。
「ご存知というか、竹橋美憂は私ですけど……何か御用ですか?」
どうやらこの活発そうな少女こそが、三人の巫女候補の一人・竹橋美憂その人のようである。そもそもこうして竹橋食堂の仕事をしている以上、彼女が竹橋家の関係者である事は榊原の推理力がなくても一目瞭然ではあった。
一方、美憂の方も何かピンときたようで、手を叩いてこんな事を言って来た。
「もしかして、昨日から美作宿に泊まっているっていう探偵さんですか?」
「ほう、よくわかりましたね」
「だって、あまりこの辺りだと見ない人ですし、そもそもこの村でスーツ姿の人なんて普段は役場の人くらいしかいませんから」
「なるほど、ね」
榊原は感心したように頷いた。
「今日はこの店のお手伝いを?」
「はい。お父さんが用事で出かけているので、代わりに私が店番を。『どうせ客なんかそんなに来ないから』とか何とか言っていましたけど、私が料理できなかったらどうするつもりだったんでしょうね。それ以前に私、昨日久々に帰ってきたばかりでそれなりに疲れているんですけど、そんな娘をこき使うなんてどうかしていますよ」
美憂はさもわざとらしくそんな事を言う。
「君は普段、この村にいないのですか?」
榊原はさも初めて聞いたかのように聞き返し、美憂は何も疑う様子もなく気楽に答えた。
「はい。つい先日まで、岐阜市内の小中高一貫の学校に通っていましたから、こっちへはたまの帰省くらいしか戻っていなかったんです。大学も岐阜じゃないし、この後は本格的にこっちに戻って来れなくなるかもしれないですけど」
確かに、幼少期からこの村から離れた場所で生活をしていたせいか、彼女からはどことなく都会的であか抜けた雰囲気が感じられた。榊原は少し突っ込んだ質問をする。
「それにしては、次の巫女候補になっているようですが」
それを聞いて、美憂は複雑そうな顔をした。
「やっぱりその話、聞きました?」
「えぇ」
「正直、本当に困っています。私は別にやってもやらなくてもどっちでもいいけど、勝手に候補になっちゃって。変な事に巻き込まないでほしいなぁっていうのが本音ですね」
表向き、彼女は巫女の座に興味はなさそうである。まぁ、小さい頃から村のつながりが薄いとなればこういう反応になっても仕方がないかもしれないが、内心で彼女がどう思っているか、本当のところはわからない。口ではそう言いながら、本心では巫女の座を狙っている可能性だってあるのだ。
「まぁ、何かあっても大丈夫です。私、こう見えて空手やってるんで。その辺のごろつきとか、あるいは店で暴れている酔っ払いくらいなら逆に返り討ちできますよ」
そう言って美憂はいたずらっぽい笑みを浮かべる。
「それは頼もしいですね。もう長いんですか?」
「はい。中学校の頃から初めて、大学に入ってからも続けるつもりでいます。田舎と違って都会は物騒ですからね。身を守る手段は必要じゃないですか」
「……私からは何とも言えませんね」
榊原としてはそうコメントするしかなかった。
と、その時、カウンター席で食事をしていた作業服の男二人が立ち上がり、レジへ向かった。美憂がすかさず勘定に向かい、彼女の「ありがとうございましたぁ」の声に送られて、二人は食事の時と同様の辛気臭そうな表情のまま店を出て行った。その時、榊原は彼らの作業服の胸の部分に『雪倉建業』の刺繍があることと、ほんの一瞬ではあるが、彼ら二人がチラリと榊原の方を見て何か互いに頷くような仕草を見せた事を見て取っていた。
「今の二人は?」
「えっと、お父さんから聞いた話だと、ここの常連さんらしいです。雪倉建業の作業員さんで、確か名前は……茶髪の方が釘木久光さんで、スポーツ刈りの方が佐久川満さん、だったと思いますけど」
「雪倉建業、ね」
さっきの大津留巡査の話に出てきた、この村の有力者である雪倉統造・笹枝夫婦の経営する工務店の名前だ。その娘の雪倉美園が涼宮事件当時の巫女候補だったという話もすでに聞いている。ただ単にここに食事をしに来ただけならいいのだが、最後の意味深な仕草を見ると、その考えは楽観的と言わざるを得なかった。
「えっと、すみません。少し用事があるんで厨房に戻りたいんですけど、いいですか?」
と、美憂が申し訳なさそうに言った。
「あぁ、すみませんね。構いませんよ」
「じゃあ、失礼します。お勘定の時はレジの横のベルを鳴らしてくださいね」
そう言って、美憂は奥へ引っ込んでしまった。話し相手がいなくなってしまったのでひとまず三人はそれぞれの食事に集中するが、その間にも情報交換は絶やさない。
「どう思います?」
「何とも言えませんね。今はとにかく、情報を集める事に集中したい所ですが」
そう言いながら、榊原は何気なく店に備え付けられている古びたテレビを見やる。ちょうどニュースが流れているところで、アナウンサーが無表情に原稿を読み上げているのが見えた。
『では、次のニュースです。今年七月に行われる予定の参議院選挙に、愛知県の岡是康知事が立候補する方針である事がわかりました。岡知事は一九九八年に名古屋市長から愛知県知事に初当選し、現在まで知事として活躍し続けていました。岡知事が立候補をした場合、知事職を辞職する事になるため参議院選挙と同日に知事選が行われる可能性が高く、各政党が候補者擁立に動き出す構えを見せています。現在、岡知事は近日行われる岐阜県の三木橋寅蔵知事、静岡県の高砂勝充郎知事ら東海三県の知事が参加するシンポジウムに参加するために浜松市に滞在していますが……』
しばらくそんな退屈な政治のニュースが続いていたが、やがてそれが終わると、アナウンサーはすぐに別のニュースを読み上げ始める。
『次のニュースです。三日前に大規模な粉飾決算が発覚し、大阪地検特捜部から事情聴取を受けていた和菓子製造会社の社長が、今日になって正式に逮捕された事が明らかになりました。逮捕されたのは、向日市に本社を置く株式会社『篠木製菓』社長の篠木康麿容疑者。篠木容疑者は少なくとも三年前から粉飾決算を繰り返していたと見られており……』
ニュースの内容に、柊は顔をしかめた。
「また、粉飾決算の案件ですか」
「最近だと、ライブドアだのカネボウだのがやらかして大騒動になっていましたね」
「えぇ。噂だとカネボウは近々解散するんじゃないかって事ですが、そういう大企業の各地の粉飾決算事案が続発した事で、各地の特捜部が怪しい企業の一斉捜査に乗り出しているみたいです」
なおもニュースは続いていく。
『次です。本日未明、岐阜県大垣市の集合住宅で男性が倒れていると通報があり、病院に搬送されましたが死亡が確認されました。亡くなったのはこの家に住む阿閉貞輝さんで、警察は関係者から事情を聞くなどして、事件と事故、両方の可能性を考慮して捜査を進めるとしています』
「県内で事件ですか」
榊原が独り言を呟き、それに対して柊が応じる。
「ここ最近、何件か事件が重なっていて、うちもかなり忙しくなっています。実はこの休暇を取る前も、別件を解決したばかりでして」
「それは……大変ですね」
榊原の言葉に対し、柊はニュースで流れる事件の詳細を聞きながらこう続けた。
「しかしまぁ、事情を聞いている人間がいるという事は、すでにある程度容疑者の予測は立っているのだと思います。こちらの巫女争いに比べれば、背景はかなりわかりやすそうな事件です。毎回こうなら、警察も苦労せずに済むのですがね」
柊はそんな言葉を漏らし、榊原は苦笑気味に同意する。と、その時だった。
「巫女ですか。何だかきな臭い話ですねぇ。トラブルの臭いがプンプンします」
突然、榊原は後ろからそんな声をかけられた。振り返ると、窓際の席に座っていたアウトドア系の服装の若い女性がおもしろそうにこちらを見ていた。
「あなたは?」
「あ、ごめんなさい! 盗み聞きするつもりはなかったんですけど、おもしろそうな話だったからつい……」
コホンと咳払いして、その女性は榊原たちのいる方に歩み寄ると、芝居がかった仕草で一礼して挨拶した。
「改めまして、私はこういう者です」
そう言って懐から取り出した名刺を榊原たちに渡す。その名刺にはこう書かれていた。
『駿河大学理学部地質研究所 助手 青空雫』
「青空、ですか」
あまり聞きなれない名字に、榊原は思わずそんな言葉を漏らす。が、相手からすると慣れた反応のようで、彼女はクスクス笑いながらこう返した。
「珍しい名字でしょ。言っておきますけど、これでも本名ですよ。ほら、『スカイブルーホールディングス』という会社を知りませんか? そこの先代社長の青空海平が私の父です」
その言葉に亜由美は息を飲んだ。彼女の言った『スカイブルーホールディングス』は静岡県富士市に本拠を置く総合商社系の大企業グループだったはずだ。ついでに言えば、彼女の名刺に書かれていた駿河大学も同じ静岡県にある東海有数の名門私立大学だったはずである。
「大学の研究者の方ですか」
「えぇ。今はまだ助手ですけど、来月からは学校教育法の改正に伴って『助教』になる予定です」
「ほう、それは凄い」
榊原が感心した風に言う。
補足しておくと、この一ヶ月後に当たる二〇〇七年四月に大学教職員の呼称について定めた学校教育法が改正され、今までの助教授が「准教授」、助手が「助教」と「助手」に分裂する形で名称変更される事になっているのである。これはそれまでの助手が事実上教授の下請けになりがちだったという批判に対処するための変更で、このうち「助教」は教授や准教授と同様に自身の研究活動を職務とし、大学における授業や学生の指導、研究室の運営なども行う事ができるようになる(なお新設の「助手」は助教を含めた研究職の補佐や事務を担う、旧来の助手に似た役職となる)。
この女性……青空雫は現段階では助手ではあるが四月からは助教になるというわけで、それは今の段階ですでに指導教授からそれだけの期待がなされているという事の裏返しでもあり、すなわち若くしてそれなりに優秀な人間である事の証明でもあった。
「ここへはフィールドワークのために来たんですけどね。今日からしばらくの間、滞在するつもりです」
「という事は、宿は美作宿ですか?」
「もちろん。この村に宿はあそこしかありませんから。もしかしてあなた方も?」
「えぇ。昨日から泊まっています」
「じゃあ、また宿で一緒になるかもしれませんね。一人宿にならなくてよかったぁ」
「一人宿?」
「えっと、この仕事をしていると地方の集落なんかへフィールドワークに行く事も多いんですけど、場所が場所だけに宿に泊まっているのが私だけって事も結構あって……それを私が勝手に一人宿って呼んでいるだけです」
雫はそう言って快活に笑った。榊原は静かに相手を観察しながら話を続ける。
「しかし、地質研究所の方がなぜこの村に? 私の認識が正しければ、地震や火山の研究をされている研究所だと思うのですが」
「いえ、大したことじゃないんですよ。ただ、ここ一ヶ月くらいこの辺りで小さな地震が少し頻発しているんで、近くの山の地層を調べるついでに、その辺りの状況について確認しに来たんです。この辺、地層が露出しているところが多くって、地質学者の間だと結構有名な場所なんですよ。ちょっと離れていますけど同じ県内には濃尾地震で有名な根尾谷断層もありますし、私たちにとってはあこがれの場所だったりします」
「ふむ……しかし、群発地震となると近くにある白山との関係も気になるところですが」
「あぁ、大丈夫です。もちろんそっちの観測結果も確認していますけど、今のところ白山に怪しい動きはありませんから。今回の地震群と白山は無関係です」
「ならいいんですがね」
榊原はそう言って一応納得する。
「ところで、今さらですけどあなたたちは?」
「あぁ、失礼。私は私立探偵の榊原恵一と言います。こちらは友人の柊と、それと……」
「宮下亜由美です。この春から大学生です」
亜由美は頭を下げた。高校の制服姿の彼女に雫は少し面白そうな顔をしたが、あえて深く突っ込むような事はしなかった。
「探偵さんが何でこんな村に?」
「色々ありましてね。まぁ、依頼の一環です」
「へぇ、どんな依頼ですか?」
「ご想像にお任せします」
榊原ははぐらかすように答え、雫も肩をすくめた。
「まぁ、いいわ。じゃあ、私はもう行かなきゃ。少しでも調査を進めておかないと間に合わないし」
「そうですか。健闘を祈ります」
「そっちも。じゃ、またどこかで会う事もあるでしょう」
そう言って手をひらひらと振りながら雫は店を出て行った。
「狭い村の中に色々な人がいるものだ。……なかなか骨が折れそうだよ」
榊原は苦笑しながらそう言ったが、その目が全く笑っていないのを亜由美は見て取っていたのだった……。
それからしばらくして、三人は竹橋食堂を出て次の調査に向かう事にした。
「さて、次はどうしますか?」
「そうですね……」
柊の問いに対し、榊原が何か答えようとした時だった。
「ほう……これは、これは……随分と珍しい御仁がおられるようですな」
唐突にそんな声が聞こえ、榊原たちは声のした方に振り返った。
駐在所のすぐ近く……そこに三十代半ばと思しき一人の男が立っていた。もちろん、ただ男が立っていただけならばそこまで驚くべき事ではない。問題は、その男の格好が、この閉鎖的な村の中にあってもかなり異様かつ異質なものだったというところにあった。
一言で言えば、男は明治か大正か昭和初期当たりの文豪といってもいい風貌だった。ぼさぼさの頭に黒っぽい書生風の和服を着こなし、その上からさらに黒の羽織を羽織っている。足元はまさかの下駄で、本当に大正時代辺りからタイムスリップしてきたのだと言われても納得してしまいそうな姿だ。芥川龍之介とか太宰治辺りの風貌を思い浮かべる事ができれば、それの印象でほぼ間違いないと断言する事ができる。彼らとの違いといえば、彼の目にかけられているこれまたアンティークな丸眼鏡の存在程度だろうか。とにかく、そんな時代錯誤な姿をした男が、どこか不気味で虚ろな笑いを浮かべながらそこに立っていた。
「あなたは……?」
榊原の問いに対し、男は慇懃無礼に頭を下げながら挨拶をした。
「あぁ、失礼。珍しいものを見てつい取り乱してしまった。小生の悪い癖ですな」
「しょ、小生?」
聞きなれない一人称に亜由美が困惑するが、相手はそんな反応を気にする事なく自己紹介を続けた。
「失敬。小生は夕闇逢魔と申す者。しがない怪奇作家をしております。ここには執筆の題材を目的に長期滞在しているところでしてな。まぁ、言ってみれば小生も余所者というわけですが、小生以外に余所者が来ていると噂を聞いたもので、興味を覚えてこうして見に来た次第というわけです。いやはや、面倒でも見に来てよかった。おかげでこうして、あなた方を間近で見る事ができる」
そう言いながら、男……夕闇逢魔を名乗る自称怪奇作家は、カランコロンと下駄の音を立てながら榊原たちの方へ近づいて来る。亜由美が反射的に身を引くが、榊原は特に動じることなくこの奇妙な男と対峙した。
「夕闇逢魔……失礼、あまりその手の怪奇小説は読まないもので、その名前に心当たりはないのですが」
「左様ですか。まぁ、小生の作品は万人受けするものではありませんからな。興味がなければ、小生の名前を知らないのも無理はないでしょう」
「当然、その名前はペンネームですね?」
榊原の問いかけに、逢魔は口元にニヤリと笑みを浮かべて頷く。
「無論、そうですな。むしろ、自身の子供に『逢魔』などという名前を付けようとする人間がいればお目にかかりたいものです」
「何年か前に、自分の子供に『悪魔』と名付けようとして裁判沙汰になった事例を私は知っていますがね」
「小生も知っておりますよ。ですが、そんなものはごく一部の人間にしか当てはまらぬものでしょう。小生にそんな趣味はありませんな。そもそも、それを言うなら『悪』や『魔』などという字を人名漢字として認めている国に問題があると小生は考えますがな」
そう言いながら、逢魔はジロジロと榊原たちの方を見やる。
「小生の事より、あなた方の事です。こうして探偵などという人種にお目にかかれるとは思っておりませんでした。いやぁ、本当にいるものなのですなぁ」
「よく私が探偵だとご存知ですね」
「ご存知も何も、あなたが探偵である事は村の誰もが知っておりますよ。すでにご承知かもしれませぬが、この村は噂が伝わるのが早いものでしてな」
「……そのようですね」
そう言ってちらりと後ろを見やると、聞き耳を立てていた村人たちが慌てた風にそそくさとその場を離れていくのが見えた。
「それで、実際に私に会ってみてどう思いましたか?」
榊原が穏やかながら試すように尋ねると、逢魔はニヤニヤ笑いながら答えた。
「一見したところはどこにでもいるような凡人。しかし……その実はどうなのでしょうかなぁ。ただの凡人にしては、随分的確に動き回っているようですしなぁ。なかなか面白い御仁のようです」
「……買いかぶりすぎですよ。私は東京の一私立探偵に過ぎません」
「まぁ、そういう事にしておきましょう」
と、そこへ後ろから先ほど別れた大津留巡査が駆け寄ってきた。
「こらぁ! あんたお客人に何をやってるんだ!」
「おやおや、巡査殿のお出ましだ。相手にするのも面倒ですし、これは退散した方がよいようですな」
逢魔は一歩後ろに下がって一礼する。
「では、小生はこれにて。この村にいれば、またどこかで会う事もありましょうな。あなた方がこの村に何をもたらすのか……楽しみにしておりますよ」
そう言って、逢魔は何とも形容しがたい、自嘲気味というかせせら笑いというか、とにかくそんなふうに小さく笑いながらその場を去っていった。同時に榊原たちの所に大津留巡査が駆けつけてきて、息を整えながら何やらぶつぶつ呟いた。
「まったく、あの先生はいつも意味のわからん事を……対処するこっちの身にもなってほしいものだ」
そんな彼に、榊原は改めて質問を加えた。
「彼は?」
「一年ほど前から村の外れの空き家に引っ越してきた作家先生です。村人との付き合いもあまりなくて、気ままに村を歩き回っている事が多いですね。正直、何でこんな辺鄙な場所に引っ越してきたのかも含めて、何を考えているのかよくわからん人です」
そう答えてから、大津留は榊原たちに警告する。
「とにかく気を付けてください。この村には一筋縄ではいかない人間がこれでもかといるんです。私にできることも限度がありますので」
では、と言って大津留は駐在所に戻っていった。後には榊原たち三人だけが残される。
「……時に、亜由美ちゃんは本を読む方かね?」
「ええっと……まぁ、人並みには」
「では、『夕闇逢魔』という作家の名前に心当たりは?」
「……すみません、私も怪奇小説とかホラー小説の類はあまり読まないので、何とも言えません」
亜由美が申し訳なさそうに言う。まぁ、聞いておいてなんだが、むしろ彼女がその手の小説を読んでいた方が逆に驚きであるとも言えるので、榊原もその答えに対して失望した風ではないようだった。
が、そんな榊原の問いに答えたのは、意外な事に柊だった。
「私は彼の著作を読んだ事がありますよ」
「本当ですか?」
「えぇ。確か五年ほど前に『黒水面』という小説でデビューして、そこから四、五作品ほどの作品を執筆。実際に読んだ限り大衆受けする作風ではありませんが、とにかく怪奇描写が生々しくて、評論家からはいずれの作品もかなりの評価を受けていたはずです。本人は人付き合いが嫌いであまり表に出てこない事でも有名だったはずですが……まさかこんな村に引っ込んでいたとは」
「随分お詳しいですね」
榊原としては当然の問いかけだったのだが、柊は苦虫を潰したような表情を浮かべていた。
「いえ、実は……この夕闇逢魔という作家の作品はそのすべてが現実で実際に起こった事件をモチーフにしていて、その中に昔岐阜県で起こった事件をモチーフにした作品がありましてね。私は担当ではなかったのですが、気になって彼の事を調べた事があるんです。もちろん題材とした事件をそのまま使っているのではなく、実際に起こった事件を下敷きに、そこに怪奇現象などの非現実要素を絡めて独自の解釈をひねり出し、彼特有の世界観を作り上げるという書き方をしていますが」
「ほう……そういうタイプの作家ですか」
榊原は感心した風に頷いた。と、ここで亜由美が素朴な疑問を呈する。
「あの、その岐阜県で起こった事件って何なんですか?」
柊は一瞬複雑そうな表情を浮かべたが、ちゃんと質問には答えた。
「四年ほど前に不破郡の関ヶ原町で発生した殺人事件です。夜間に一台の乗用車が猛スピードで高速道路の防音壁に突っ込み、運転していた男性が即死。駆けつけた警察が事故車両を調べていたところ、トランクの中から若い女性の他殺体が見つかったという事件でした。一般的には『関ヶ原アベック殺人事件』とか、単に『関ヶ原事件』などと呼ばれている事件です」
「関ヶ原……そう言われれば、確かに四年ほど前に騒がれていた記憶があります」
さすがに元刑事の探偵だけあって日頃からその手の事件には注意を払っているらしく、榊原には問題の事件に心当たりがあるようだった。柊が事件の詳細を説明する。
「遺体で見つかったのは高円仄美という地元の関ヶ原町にある信用金庫に勤めていた女性で、対して乗用車を運転していて事故で即死した男は江橋統一という、同じく関ヶ原町内のスポーツ用品店に勤務していました。聞き込みの結果、この二人はかねてからの恋人同士だった事がわかり、状況的に何らかの理由で江橋が仄美さんを殺害し、遺体を隠すために車を走らせていた途中で焦って運転を誤り、事故を起こして死亡したものと考えられました。事件そのものは疑う余地のないシンプルなもので、被疑者の江橋も事故で死亡していたため検察は被疑者死亡のまま書類送検をしたんですが……」
「確か……あの事件はそこからが問題だったはずですね」
榊原は少し深刻そうな表情で言う。
「えっと、その後で何かあったんですか?」
亜由美の問いに、柊が重い口調で答える。
「事件後、被害者の高円仄美の遺族は民事裁判で江橋統一の遺族を相手取った損害賠償請求を行いました。ところがその席で、江橋の遺族側は江橋が犯人であるという警察の見解を否定し、江橋の完全無罪を主張したんです。ただ、この行為は当時の世論からかなりの批判を浴びましてね。まぁ、事件の状況的にどう見ても江橋以外が犯人である可能性が考えられなかった事からそれも仕方がない事ですがね。それでも江橋の遺族側は頑なに自身の主張を引っ込める事はなかったんですが……その結果、事態は最悪の結末を迎えました」
「最悪、ですか?」
「えぇ。江橋の事件から数ヶ月が経過したある日の深夜、一人の男が同じく関ヶ原町内にある江橋の遺族宅に侵入し、そこにいた五人を殺傷するという事件を起こしたんです。この事件は私も現場に臨場しましたが……ひどいものでしたよ。室内の至る所に血飛沫が飛び散っていて、執拗に被害者たちを嬲り殺した事がうかがい知れるような状況でした。最終的に襲われた江橋の遺族五名のうち四人が死亡、一人が意識不明の重傷を負っています」
あまりの急展開に、亜由美は絶句した。
「ど……どうして……そんな事に……」
亜由美は振り絞るように尋ね返す。が、それに対する柊の答えはさらに衝撃的なものだった。
「それが……犯人の男は被害者の江橋一家とは一切面識がなく、にもかかわらず一方的に彼らを憎悪して犯行に及んでいました」
「……あの、意味がわからないんですが……」
「でしょうね。実際、私も当初この男が何を言っているのか訳がわかりませんでしたから」
「……」
「本人曰く、『義憤』による犯行だったとの事です。もっとも、こんな所業を『義憤』なんていったら、この言葉を考えた人間は烈火のごとく怒り狂うでしょうがね」
柊は深いため息をついて続けた。
「早い話が、『独りよがりな「正義」の執行』とでも言うのがいいでしょうか。要するに、江橋の犯行を認めずあろう事か無罪を訴え続ける江橋の遺族たちの言動をテレビなどで見た犯人が彼らの行動が許せなくなり、『正義』を執行するつもりで彼らの家に乗り込んで『極悪非道』な江橋の遺族たちへの裁きを『執行』した……というのが本人の弁です。聞いているだけでムカムカしてきましたがね」
亜由美はもう何も言えなかった。というか、そんな事で簡単に人を殺せる人間がいる事に恐怖すら感じていた。代わりに榊原が言葉を発する。
「確か、その事件の犯人の名前は……」
「日沖勇也。愛知県の名古屋市在住で、当時愛知第三大学の大学院生だった男です。今でもはっきり覚えています。正直な所、刑事人生の中でもあんなに後味の悪い事件は初めてでしたよ。今では二件目の江橋一家殺傷事件は『日沖事件』などと呼ばれていて、かなり有名な事件になっているようですが」
柊が吐き捨てるように言う。
「……その犯人、どうなったんですか?」
「本人は『自分は正しい事をした。だから罰せられるなど論外だ。世間もそれを認めてくれる』などとふざけた事を言っていましたが、もちろん許されるわけがなく岐阜地検は岐阜地裁に起訴。幸い、涼宮事件の時のような法廷でのどんでん返しが起こるわけもなく極めて事務的に裁判は進み、最終的に岐阜地裁は日沖に対して死刑判決を下しています」
「まぁ、四人も死んでいればやむなしでしょうね」
榊原が補足する。ちなみに、日本の司法業界における死刑判決の基準となっている『永山基準』では、殺人の場合、被害者が四人を超えた時点でほぼ確実に死刑判決が下される傾向が強い。榊原が言ったのはその事についてだった。
「日沖はそのまま判決を受け入れたんですか?」
「いえ、信じられないという表情を浮かべた後『この世の正義は死んだのか!』と叫んで裁判官に食って掛かりましてね。そのまま退廷を命じられましたが、即日控訴しました」
「でも、控訴と言っても……」
亜由美はそう言って口ごもる。
「えぇ。この状況では、控訴しようが上告しようが結果は変わらないでしょうね。実際、日沖は最終的に最高裁まで上告しましたが、その最高裁も上告棄却の上で改めて死刑判決を言い渡して、最終的に事件から一年もたたずに日沖の死刑は確定しています。今は名古屋拘置所でその時を待っているはずです」
そこで柊は深く息を吐いた。
「まぁ、とにかく……事件そのものはこのような顛末で終わったわけですが、何しろ事件が起こった場所が関ヶ原だった事から一部の界隈で『落ち武者の祟り』だのなんだの色々騒がれましてね。そんな中で夕闇逢魔はこの事件をモチーフに自身の第三作目の作品となる『呪武者』を執筆しています。もちろん、小説では『関ヶ原で散った武者の亡霊の怨霊がドライブ中のアベックを襲った』というような内容に脚色されていて、実際の事件の真相とは程遠い結末になっていますが……」
「いずれにせよ、そんな作家がどういうわけかこの村に引っ越してきている……何か臭いますね」
「それについては同感です」
榊原と柊はそう言うと反射的に逢魔が去っていった方を見やった。すでにそこには誰もいなかったが、榊原たちは、そこに何とも不気味な空気が漂っているように思えて仕方がなかったのだった……。
予期せぬ出会いはあったが、榊原たちは村の調査を続行する。榊原が次に向かう事にしたのは、扇島老人の話にも出ていた米軍捕虜収容所跡地……現在は共同墓地になっているという村の北東部だった。
「何もないのはわかっているが、一応この目で現状を確認しておきたい」
それが榊原の判断だった。再び橋を渡って村の北へ向かい、北東部の角に到達すると、そこから森の中へ続く石畳の小道のようなものが確認でき、その道の前にすっかり風雨で削られた『千願寺』と書かれた石があるのが確認できた。
「この先のようだな」
そのまま三人は小道に沿って森の中へ進んでいく。うっそうと生い茂る木々の中を貫く小道を進む事十分ほど。不意に視界が開け、森の中の一角にいくつもの墓石が整然と並んだ墓地が出現した。墓地の中央を貫く石畳の周囲に並ぶ墓石はどれも古く、「先祖代々」と書かれたものが非常に多い事がうかがえる。
「つまり、近年になってからこの村に住み始めた家というのは少ないわけだ」
そう言いながら墓地を見回すと、石畳をずっと進んだ一番奥に、周囲を塀に囲まれた区域があるのが見えた。遠目ではあるが、文の横に『千願寺』と書かれているのが見える。どうやらあれが廃寺になった千願寺の境内らしい。すでに廃墟になってかなり経つらしく、ここから見てもかなり荒れ果てているのが見て取れた。
榊原がその廃墟の方へ向かおうとすると、急に後ろから柊が榊原の肩を叩いた。
「ちょっと、あれを」
柊が示す方を見ると、墓地の一角に誰かがいるのが見えた。墓石の一つの前にしゃがみ込んで祈っているようで、何とも近寄りがたい空気を放っている。
とはいえ、このまま見守っているわけにもいかない。榊原たちがそちらへ向かおうとすると、向こうも誰かが来た事に気付いたのか、ハッとした様子で立ち上がってこちらに振り返った。
「……」
若い女性だった。年齢は二十歳前後だろうか。肩口で切りそろえたショートヘアに喪服のような黒っぽい服装という格好で、どこか陰のある表情をした暗い印象の女性である。彼女はしばらく榊原たちを見つめていたが、やがて少し首をかしげて言葉を発した。
「あの……どなたですか?」
どこか疲れた様子というか覇気のない問いかけに、榊原は慎重に答える。
「……榊原です。昨日からこの村に滞在しています」
「榊原……あぁ、噂の探偵さん、ですか」
どうやら、彼女の耳にも榊原の噂は届いているようだった。という事は、彼女も村の人間という事で間違いなさそうである。
「そういうあなたは?」
「私、ですか。……安住です。安住梅奈」
「安住さん、ですか」
榊原の頭の中に、あの『校誌』に書かれていた名前の一つが浮かび上がる。安住梅奈といえば、涼宮事件当時に蝉鳴学校に通っていた一人で、村の有力者である安住煕正の娘であり、さらに涼宮事件当時の巫女候補の一人だった女性のはずである。まさかこんな所で会えるとは思わなかったが、それだけに榊原はさらに慎重な様子で質問を重ねる。
「安住というと、安住酒造の関係者の方ですか?」
「……えぇ。今日、この村に帰省したところです」
「帰省、という事は普段は別の場所に?」
「……この間、京都の大学を卒業しました。このまま何事もなければ、四月から京都の会社に就職する予定です」
何とも手ごたえのない受け答えだった。榊原としても我慢のしどころである。
「その安住さんが、どうしてこんな所に?」
「……墓参りに来たんです。今後就職したら、当分ここに戻ってくる事はないと思うから」
「ご先祖のお墓ですか?」
しかし、梅奈はその問いになぜか黙って首を振る。その態度に改めて彼女が参っていた墓石を見やると、それは薄汚れていてお世辞にも手入れがなされているとは言えない墓石だった。だが、そこに書かれている文字だけははっきりと読める。
『涼宮家代々之墓』
それは紛れもなく、涼宮事件の被害者である涼宮玲音が眠っているはずの墓だった。だが、榊原がさらに何かを聞こうとする前に、彼女は先手を打ってこう言った。
「……もういいですか? 私、帰らないと」
そう言って、梅奈はその場を去ろうとする。が、榊原はなおも食い下がった。
「なぜあなたが涼宮さんのお墓に? 関係ないはず、では?」
「……それこそ、外から来たあなたには関係ない事です。ごめんなさい」
彼女は短くそう答えると、そのまま榊原たちのすぐ近くをすり抜けるようにして墓地を去って行った。後には榊原たち三人だけが残される。
「どういう事でしょうかね」
柊が何とも言えない表情で呟く。できればもう少し情報を引き出したかったところであるが、正直とりつく島もなかったというのが実情だった。
「わかりませんが……生前の涼宮玲音と安住梅奈の間に何か関係があったと考えるのが妥当ではないでしょうか。問題は、その関係の内容ですが、それはこれからの調査次第でしょう」
そう言いながら改めて周囲を見回すが、今度こそ誰もいないようだった。そのままさっきまで梅奈がいた涼宮家の墓石の前に行くと、そこには花束と和菓子が供えられていた。確かに墓参りをしていたようである。
念のため、涼宮家の墓石を調べてみたが、特に変わった事はなかった。ただ、代々の涼宮家の人間の名前が側面に彫られており、その一番端に『涼宮玲音』の名前が刻まれているのがはっきりとわかった。
「見たところ、手入れはされていないみたいですね」
亜由美がポツリと呟く。確かに、もう長い間誰も掃除などをしていない感じである。
「大津留巡査の話だと、父親の涼宮清治も裁判で加藤柳太郎が無罪になった直後に失意のまま村から出て行ったそうだからな。それに……村の人間にとって涼宮事件はタブー視されている存在だ。その元凶である彼女の墓を手入れする事もはばかられているんだろう」
「玲音さんは何も悪くないのに……何か、納得できない話ですね」
亜由美は少し悲しそうに言った。
「ひとまず、私たちも祈っておこうか」
榊原のその言葉をきっかけに、三人は涼宮家の墓の前で少しの間黙祷する。それが終わると、榊原たちは改めて千願寺の廃墟の方へと向かった。
「これは凄いな」
意外にも境内の面積はかなり大きいようだった。ただ、敷地内はすっかり荒れ果てており、中央の縁石を除けば至る所で草が生い茂り、植えられている木々も手入れもされないまま無造作にあちこちへ枝を伸ばしている。正面の本堂もすっかり朽ち果てており、かろうじて建物としての形状は保っているが、かなりボロボロでいつ崩れ去ってもおかしくない状況だ。
「あれってハチの巣じゃ……」
亜由美が本堂の一角を指さしながら恐る恐る言う。確かに軒下の一角にスズメバチの巣と思しき丸い物体があるのが見て取れる。ただ、周囲に蜂の姿は一切なく、すでに放棄された巣の可能性が非常に高かった。
「逆に言うと、あれだけの規模の巣を蜂が放棄するほどの時間が経過しているという事だ」
さらによく探すと、敷地の一角に木々に埋もれるようにして鐘楼と思しき石垣も見えたが、その石垣のあちこちから草が伸びている上に、廃寺になった時に撤去されたのか肝心の釣り鐘はどこにも見当たらない。鐘楼そのものも完全に崩壊していて、石垣の上に鐘楼を構成していたと思しき木材や瓦が大量に積み重なっているのが見て取れた。
「人がいないと、お寺ってこうなっちゃうんですね」
亜由美がどこか感慨深げに言う。そして、扇島が言ったように、今までの所かつてこの場所にあったという米軍捕虜収容所の痕跡はどこにも見当たらなかった。ただ一つ、境内の本当の隅の方に何か小さな石碑のようなものがあって、そこに極めて読みづらくはなっていたが、『米※※虜供※碑』という文字が書かれているのが見て取れたのだった。
「『米軍捕虜供養碑』……でしょうね。一応、供養の碑は作っていたわけか」
「もっとも、肝心の寺がこうなってしまった以上、この供養碑の存在を知る人間すらいなくなってしまったようですが」
柊は複雑そうな表情でそんな事を言う。ある意味、忘れられるという事は死ぬ事よりも恐ろしい話なのかもしれない。
「さすがにこの状況で本堂に入るのは危険すぎますね。ひとまずこの程度で充分でしょう」
そう言って、榊原はいったんこの場から撤収する事を決めたようだった。柊や亜由美もそれに同意し、そのまま三人は千願寺の廃墟を後にしたのだった……。
……同じ頃、墓地を去った安住梅奈は、顔を俯かせながら村の道を歩いていた。その表情は相変わらず暗く、何か思いつめたような雰囲気を醸し出している。
「……」
そこには久々に村に帰ってきた喜びのようなものはない。むしろ、何かを恐れているような雰囲気があった。だが、それの暗い雰囲気の原因が何なのかは誰にもわからない。彼女はただ、自身の実家である安住家へ向かって重い足取りで歩き続けるだけだった。
と、その時だった。
「やっぱり、あんたも帰ってたんだ」
突然、そんな梅奈にかけられる声があった。彼女が顔を上げると、そこには梅奈同様に二十歳前後と思しき少し派手な服装に茶髪といういでたちの若い女性が立っていて、腕を組みながら怖い表情で梅奈を見つめていた。
「美園ちゃん……」
「元気そう……には見えないわね。シャキッとしなさいよ。仮にも安住家の人間でしょ」
その女性……雪倉家の娘であり、梅奈同様に涼宮事件当時の巫女候補の一人でもあった雪倉美園は、怖い表情のまま自分より年上の梅奈にそんな事を言った。年齢こそ違うが、この二人はもう一人の巫女候補だった堀川頼子と共に従姉妹の関係であり、今更梅奈に対する遠慮などというものはないようだった。
「美園ちゃんも帰っていたんだ」
「まぁね。さすがに巫女選びの時くらいは帰って来いって親父がうるさくてさ。ったく、何で出られもしない巫女選びのためにわざわざ帰って来なきゃダメなのよ。っていうか、梅奈はともかく、頼子が出られて私が出られない意味がわからないんだけど。頼子んとこはうまくやったわよね。まぁ、私たちは選ばれなかった者同士、仲良くやりましょうよ」
「……美園ちゃんは、元気なの?」
梅奈の何とも言えない問いかけに、美園はハァとため息をつきながら答えた。
「別に普通よ。退屈な大学生活。かったるいったらありゃしないわ」
「そう……なんだ」
「梅奈は変わったわよね。昔はそんな卑屈な性格じゃなかったのに」
「……私だって色々あったのよ」
「ふーん。ま、いいわ。それより、あんたはもうすぐその座を追われる『神聖なる』巫女様にはもう会ったの?」
どこか皮肉めいた口調で美園は尋ねる。
「常音の事?」
「他に誰がいるのよ。あんた、あいつとは同学年でしょ」
「そうだよね……。ううん、まだ会っていない。忙しそうだったから」
「あ、そう。まぁいいわ」
それよりも、と美園は続けた。
「親父から聞いたけど、私たちが村を離れている間に、何だか得体の知れない連中が村に来てるみたいだから梅奈も注意しなさいよ」
「得体の知れない連中?」
「変な格好をした怪奇作家に、どっかの地質学者。それに東京から来た探偵だって。いつからこの村は変人のメッカになったのやら」
「探偵……もしかしたら、その人にさっき会ったかもしれない」
それを聞いて、美園の表情がさらに険しくなった。
「どこで?」
「墓地の所で」
「墓地……梅奈、あんたそんなところで何をしてたの」
「何って……一応帰省したから、お墓参りに」
「……あんた、そいつに変なこと言ってないでしょうね」
「言ってない、はず」
「なら、いいけど。とにかく、余所者には余計な事を言わないのが一番よ。後で頼子にも注意しておかないと」
「……そう、だね」
二人はそんな事を話し合いながら、その場を歩き去っていく。
だが、その姿を近くの物陰から聞いている人間がいた事に、彼女たちは気づかなかった。彼女たちが去った後、物陰から姿を見せた人物……。
それは、今代の巫女候補の一人である竹橋食堂の娘……竹橋美憂その人だったのである。




