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蝉鳴村殺人事件  作者: 奥田光治
第一部 訪村編
18/57

第四章 蝉鳴の伝説

 翌日、三月八日木曜日午前七時半。榊原は布団の中で目を開け、ぼんやりとした表情で起床した。隣には柊がまだ眠っているが、窓のカーテンの隙間からはすでに朝日が差し込んでいる。

 あの後、結局それ以上何かする事もなく、そのまま入浴をして午後十一時頃には就寝となった。田舎の夜は都会と違ってまったく音がしなかったが、その分すんなりと眠りに入る事ができたようで比較的あっという間に眠りに落ちたようだった。それは隣の柊も同様のようで、眠る顔はかなり安らかである。

 榊原はゆっくり立ち上がると、カーテンを開けて外の景色を眺めた。そこには、凡庸とした豊かな田園風景が広がっていた。三月なのでまだ田植えなどはなされていないようだが、昨日の夕日に包まれた景色とはまた違った趣を醸し出している。

 確か朝食は八時だと言っていたので、それまでに準備をしておかなければならない。榊原は寝ている柊を起こさないように普段のスーツに着替えると、そっと部屋を出て一階にある洗面へと向かった。先日風呂に入った際に、洗面がその隣にあるのは確認済みである。

 一階に下り、洗面へと向かおうとして、榊原はふと何の気もなしにラウンジの方へと顔を向けた。自分たち以外に客はおらず、主人である美作はおそらく朝食の準備をしているはずなので、本来ならそこには誰もいないはずである。

 だが、その時榊原の視界に入ったのは、ラウンジの奥の方で椅子に座って庭の方を眺めている誰かの姿だった。

「ん?」

 榊原は足を止めて、再度ラウンジの中をよく見る。見間違いではない。確かにそこには誰かがいた。思わずラウンジに足を踏み入れるが、相手はこちらに背を向けたまま振り返る様子はない。榊原はいつもの癖で、その人物を観察していた。

 後姿ではあるが、黒い長髪や華奢な体格からいって明らかに女性である。それもかなり若い。まだ二十歳前後と言ったところだろうか。服装は白いワンピース姿で、椅子に座りながらぼんやりと庭の方を眺めている。が、榊原は即座に彼女の座っている椅子がただの椅子ではなく、いわゆる電動式の車椅子である事に気が付いた。差し込む朝日に照らされ、そんな彼女の姿はどこかはかなく感じられる。

 思わずその光景に見とれていた榊原だったが、気配に気が付いたのか、不意に彼女は首だけを緩慢な動作でラウンジの入口にいる榊原へと向けた。初めて彼女の顔が明らかになるが、その表情はどこか透明で、今にも壊れてしまいそうな危ういものだと榊原は感じ取っていた。

 しばし互いを見つめ合ったまま何とも言えない沈黙がその場を支配する。が、先に言葉を発したのは榊原だった。

「失礼、私たち以外に誰かがいるとは思わなくて。お名前をお聞きしても?」

 榊原の問いに対し、しかし女性はなぜか不思議そうに首を捻ると、やがてまるで無邪気な子供のような笑顔を浮かべてこう答えた。

「きよか……わたし、きよか!」

 その返答に、榊原は思わず絶句した。どう見ても二十歳前後に見える外見に反し、その口調は明らかに外見年齢にそぐわない幼いものである。どうこたえるべきかとしばし考え込んでいると、不意に後ろから廊下を誰かが走ってくる音が聞こえた。

「お、お客さん、申し訳ありません!」

 美作だった。彼はラウンジに入ると、「きよか」と名乗った女性の元に駆け寄り、厳しい表情でこう言った。

「清香、今日はお客さんがいるんだ。部屋に戻りなさい」

「えー、つまんなーい。おとうちゃん、いっしょにあそんで!」

「いいから、早く」

 彼女はどこか不満そうな表情をしていたが、やがて車椅子をゆっくり動かし、かすかな駆動音と共に榊原の傍を通り抜けて廊下の奥へと消えていった。後には榊原と美作だけが残される。

「彼女は一体?」

「いや、お恥ずかしいところ見られてしまいました。あれはその……私の娘の美作清香みまさかきよかといいます。普段から朝になるとこうしてラウンジから庭を眺めるのが好きでして。今日はお客さんがいる事を伝え忘れてしまったのですよ。普段はこんな事はないのですが……」

 美作は申し訳なさそうに頭を下げた。

「娘さんでしたか。しかし、あの状況は一体……」

「……私の妻が十年前に事故で亡くなったという話は昨日したと思いますが、実は当時十一歳だった清香も妻と一緒にその事故に巻き込まれてしまいましてね。その時に足と頭に傷を負ってしまって、それが原因で外傷性の脳障害のような症状を起こしてしまったのです。あれから十年経って体だけは成長しているのですが、あの子は今でも頭の中は事故当時の十一歳児のまま。足の怪我の方も一向に良くならず、今でも車椅子の生活を余儀なくされています」

「そんな事が……」

「私がここで民宿を続けているのは、村のためという事もありますが、あの子を都会で生活させるだけの自信が私にはないからという事もあります。ここなら、村の人たちは娘の事を大切にしてくれますから」

「……もしかして、玄関のあのスロープも?」

「えぇ。もちろん、身体が不自由なお客様のためという事もありますが、概ね娘のためと言ってもいいでしょう。あの子が外に出るために必要なものですので」

 美作は一瞬顔を伏せたが、すぐに深々と頭を下げた。

「お聞き苦しい話をして申し訳ございません。食事はすぐにお持ちいたします」

 そう言って美作は調理場へ消えていく。それと入れ替わるように、二階から起きてきたばかりと思しき亜由美が姿を見せた。

「どうしたんですか、榊原さん?」

「いや、少しね」

 榊原はそう言って言葉を濁すと、改めて洗面所へと向かう。亜由美は何が何だかわからず首を捻ったが、考えても無駄だと思ったのかそのまま自分の洗面所へ向かったのだった。


 それから一時間後の午前九時頃。朝食を済ませた榊原たちは昨日予告していたように村の調査をするために宿を出た。玄関まで見送りに来た美作に対し、榊原は予定を伝えておく。

「予定通りなら夕方くらいには戻る手はずですので、今晩もよろしくお願いします」

「はぁ、わかりました。それではお気をつけて」

 美作はそう言うと、やや不安そうながらも宿の奥へと引っ込んだ。それを見届けると、榊原たちは改めて玄関を出て日が昇った村を見渡す。一夜明けた村の光景は、昨日のどこか人を寄せ付けないような真っ赤な夕日に染まった景色から一変し、どこにでもあるような平凡なものへと変貌していた。

「さて、まずは神社ですね」

 そう言いながら、榊原は美作からもらった地図を確認する。柊も横から地図をのぞき込んでいたが、やがてそのうちの一ヶ所を指し示した。

「地図だとここですか。この道をずっと山の方へ向かった先となっていますね」

 神社は村の一番奥……北側にある山の麓付近にあるようだ。昨日村に入ってきたあの橋がちょうど村の最南端であり、どうやら宿と接しているこの道が村を南北に貫くメインストリートになっているようである。この道をそのまま北へ向かえば、途中人家の集中する村の中心部を抜けた後、そのまま神社に到着するはずだった。

「じゃあ、早速行きましょう」

 榊原の言葉がきっかけとなって、三人はそのまままだ田植えする前の田んぼが広がる田舎道を歩きはじめる。やはり田舎の朝は早いのか、所々に村人と思しき人影も見えたが、彼らは一様に警戒気味にこちらを見つめている。

「どうやら、我々が来た事はすでに村中に伝わっているようですね」

 柊がそんな感想を漏らすが、榊原にとってそれは想定内だったようで、特に何もコメントする様子もなく先を急ぐ。

 そうこうしているうちに、三人は村の中心部へと差し掛かろうとしていた。中央にかつての蝉鳴村役場があり、その周囲に固まるように人家が集中している。商店街など生活の主要施設はほぼここに集まっているらしい。が、さすがに田舎だけあって人通りはそこまで多くはない。しばらく歩くと、この村の中では珍しいコンクリート造りの三階建ての建物……旧役場のビルが見えてきた。

「そう言えば、今の村役場の立場はどうなっているんですか? かつては独立した村だったんでしょうが、確か二年前に高山市と合併しているはずですよね」

 榊原の問いに対し、柊は少し考えた後丁寧に答えた。

「私も県内のローカル新聞で読んだ程度ですが、二〇〇五年にこの村が高山市に合併された際、村議会は解散して役場業務も終了し、当時の村長も退職しています。ただ、その村長は直後の高山市議会議員選挙に出馬して見事当選し、現在は高山市議会議員として活動。この旧役場自体も高山市役所蝉鳴村支所と名を変えて、高山市役所の支部として引き続きこの地域の行政を担っているそうです。支所長こそこの村の人間ではありませんが、市議会議員になった前村長の権力は未だにこの村では健在で、実際のこの村の行政活動はその前村長が牛耳っている形になります」

「つまり、立場などは大きく変わったものの、実質的にそこまで大きな変化はなかったという事ですね。ちなみに、その前村長の名前は?」

 何気なしに聞いた問いだったが、柊の答えはすぐだった。

左右田昭吉そうだしょうきち。岐阜県警にとっては忘れられない名前です。何しろ八年前の涼宮事件で、被害者の涼宮玲音の父親と一緒になって加藤氏の有罪を積極的に訴えていた人物ですから。今でも県警の中には、加藤氏の逮捕は彼からの圧力のせいだと思っている人間も少なくありません」

「なるほど、ね」

 榊原はそう呟きながら旧役場……現高山市役所支所の建物をジッと眺めた。と、その視線が不意に役場の敷地の隣にある小さな建物に移る。

 そこには、赤いランプを掲げた見覚えのある建物……平たく言えば警察の駐在所の建物があった。

「あれがこの村の駐在ですか?」

「えぇ。正式には岐阜県警高山警察署蝉鳴駐在所。この村にある唯一の駐在で、十年以上前からこの村出身の同一の巡査が配属されています」

「大津留真造巡査、ですね」

 八年前の涼宮事件の発端となり、後の裁判で問題となった「大津留証言」をした巡査である。どうやら、事件後もこの村の駐在を続けているらしい。

 ただ、残念ながらというか何というか、その建物のドアは固く閉ざされており、中に誰かがいる様子はなかった。隣の駐輪場らしき場所に自転車がない事から、パトロールか何かに出かけているらしいことが予測できる。

「話を聞くのは後にした方がいいみたいですね」

「あぁ、そうだね」

 亜由美の言葉に、榊原は静かに頷くとそのまま役場と駐在の前を離れ、再び道に沿って神社の方へ歩き始めた。

 しばらく歩くとやがて住宅地を抜け、再び周囲を田んぼで囲まれた田園地帯に入る。が、さらに歩くと目の前を横切るように西から東へ一本の川が流れていて、目の前にその川を渡すコンクリート造りの橋が架かっているのが見えた。橋の欄干には「瀬見川」という名前が刻まれており、どうやらこの川が、葛原論文にも書かれていた、この村のかつての名前である「瀬見川村」の名前の由来となった川らしい。その瀬見川を渡るとほんのすぐ先に北側の山々が近くにまで迫っており、やがてその麓の十字路までたどり着くと、正面の雑木林の中へ向かって古い石段が上に続いているのが見えた。見上げると石段の上には立派な鳥居があり、明らかにそこが神社である事を示している。

「ここ、か」

 榊原はそう呟くと、特に躊躇する事もなく石段を登り始めた。石段の周囲は鬱蒼とした雑木林に囲まれていて、朝だというのにどこか暗い雰囲気を醸し出している。まだ春先であるためか鳥などが鳴く声もほとんど聞こえず、その静けさが逆に不気味である。三人の口数も、おのずと少なくなっていった。

 やがて石段を登り切って赤い鳥居をくぐると、そこはもう神社の境内だった。場所的には山の中腹辺りになるのだろうか。背後の北側には切り立った崖がそびえたっているが、その手前の開けた場所……鳥居のほぼ正面に大きくて古い社がその姿を見せている。右手には一際古い巨木があってそこに注連縄が巻かれてあり、明らかに御神木と言った風である。一方左手には手を清めるための手水舎があり、さらにその奥に社と同じく古い建物があるのだが、どうやらこちらは社務所のようだった。社の裏手にもいくつか建物があるようではあるが、ここからではそこまでは見えない。そうした敷地の周りは今までと同じく雑木林で囲まれていて、日の光をほとんど遮っている状態だった。

 榊原は社へ続く石畳を進んでいくと、そのまま社の正面に立った。石畳の左右に三つずつ合計六つの神社特有の石灯篭が等間隔に並び、社にはそうした社にはおなじみの賽銭箱が置かれているが、お世辞にも中に賽銭が入っているようには見えない。が、榊原にとってこの建物は普通とは別の意味を持つ建物であった。

「ここが?」

「えぇ、そうです。八年前……涼宮玲音が磔遺体となって見つかったあの社です」

 柊がそう答えた瞬間、何とも言えない生暖かい風がその場に吹いたような気がした。榊原としても、今まで色々な殺人現場を見てきた身分ではあるが、今でも慣れる事はない。

「中に入る事は……さすがにできないみたいですね」

 亜由美が社の扉を確認しながら言う。どう見てもその扉はしっかり閉まっていて、勝手に入れるようには思えなかった。

「柊さん、そう言えば今、凶器の槍はどうなっているんですか?」

「加藤氏が有罪になればその時点で返却されたんでしょうが、何しろ無罪判決が出てしまいましたからね。そうなるとあの槍は重要証拠物件ですから、たとえ国宝級の代物だろうが何だろうが検察としては返却できないでしょう」

「という事は……」

「今でも岐阜市にある岐阜地方検察庁本部の証拠保管庫に眠っているはずです。おそらく、事件が解決するまで半永久的に」

 つまり、今この社の中にあの槍は存在しないという事である。三人は何とも言えない気持ちでその社を眺めつづけていた。

 と、その時だった。不意に左手にある社務所の入口の扉が開き、中から誰かが出てきた。榊原が視線を向けると、そこには神主の服装をした榊原と同年代……おそらくは四十歳から四十五歳程度と思しき男性が当惑気味に立っていた。

「あの、どなたですか?」

 一目で神社の関係者だとわかる姿である。榊原は何か言われる前に頭を下げて挨拶した。

「失礼、つい見とれてしまいまして。神主さんですか?」

「えぇ、はい。ここの神主の油山海彦あぶらやまうみひこといいます。それでその……あなた方は?」

 神主……海彦はそう言って自己紹介すると、困惑気味な表情で再び尋ね返した。これに対し、榊原は美作の時と同じような言葉を返す。

「東京で私立探偵をしています榊原恵一と申します。この神社の伝承に関する調査を依頼されまして、こうして見学させて頂いていたところです」

「伝承の調査、ですか?」

「何でもこの神社には蝉に関する珍しい伝承があるそうで。よろしければ、お話をお伺いしてもよろしいですか?」

「はぁ……まぁ、構いませんが。しかし、珍しい事もあるものですね。こんな片田舎の古びた神社の伝承を調べてほしいなどという人間がいるとは……」

 神主本人にそう言われてしまっては何ともやるせない話だが、ともかく海彦は三人を社務所に招き入れ、三人は素直にそれに従った。社務所の客間に通され、海彦がお茶を入れて戻ってきたところで改めて話が再開される。

「それで、何をお知りになりたいんですか? 私にわかる事は限りがありますが……」

 申し訳なさそうに言う海彦に対し、亜由美と柊は榊原を見つめる。すべて任せるつもりらしい。榊原もそれはわかっているのか、まずは当たり障りのないところから切り込んでいった。

「では、早速。まずはこの神社の成り立ちの辺りから教えて頂けますでしょうか?」

「そうですね……。伝えられている伝承などから推察すると、この神社は今から一三〇〇年ほど前……つまり、奈良時代の頃に建立されたと考えられています。もちろん、今に至るまでに何度か建て直しはされているでしょうから法隆寺のような世界遺産級の古代建造物というわけではありません。現に、今の社が作られたのは江戸時代だという事ですしね。でも、神社そのものができたのはさっきも言ったくらいの年代で間違いないと思います」

「確かに随分古いですね……。しかし、一体どのような経緯で?」

 榊原はさらに突っ込む。どうやら事件の謎云々以前に、本人も言ったように多少なりとも伝承について興味があるようだった。海彦はそれに対して丁寧に答える。

「初代の残した文献がいくつかあるのですが、そもそも発端はその頃に同じく美濃の国の関ヶ原で起こった合戦だったそうです」

 その言葉に、亜由美が首を捻った。

「それって、関ヶ原の戦いの事ですか? 石田三成と徳川家康がぶつかった天下分け目の戦い。でも、確か関ヶ原の戦いが起こったのは今から約四〇〇年前の西暦一六〇〇年の事だったと思うんですけど……」

 つい最近受験を終えたばかりの亜由美がそんな言葉を発する。これに対し、海彦は微笑みながら解説した。

「確かに、一般的な方々はおそらくそちらの関ヶ原の戦いの事を思い浮かべるのでしょう。ですが、実は歴史学的に見るのであれば、関ヶ原における合戦は二度発生しているんです。その一回目の関ヶ原における戦いが、天智天皇の死後に起こった『壬申の乱』における、大友皇子軍と大海人皇子軍による不和の関の戦いです」

「壬申の乱……」

 思わぬ歴史用語の登場に亜由美は少し驚いた様子だった。

「この戦いの記録はほとんど残っていないのですが、それでも二度目の関ヶ原に匹敵するような激戦になったのは間違いないようです。関ヶ原には黒血川という川があるのですが、この川の名前の由来はこの不和の関の戦いで死んだ両軍の兵士の血で川が真っ黒に染まった事から付いたそうです」

 その光景を思い浮かべたのか、亜由美が少し眉をひそめる。が、榊原は平気そうに質問を続けた。

「それで、その元祖関ヶ原の戦いがこの神社とどう関係するんですか?」

「……この戦いにおける勝者は、皆さんが歴史でご存知のように、大海人皇子側の軍勢でした。その際、大友皇子軍は大津京目がけて敗走をしたわけですが、この時大友皇子軍の将軍の一人で朝廷の神祇政策の責任者でもあった私の先祖……油山何某とでも言っておきますが、とにかく彼はこの乱の勝敗に見切りをつけ、そのまま美濃の山奥に逃げ込んでこの神社を建てたんだそうです。それがこの神社の始まりだと伝わっています。もっとも、当初は神主一族の名前を取って『油山神社』などと呼ばれていたようですが、文献が少ないのでこの辺りの事はよくわかりませんね」

「なるほど……」

 榊原は深く頷きながらさらにこう問いかける。

「それで、この神社に伝わる蝉の伝説というのは?」

「まぁ……あまり気分のいい伝説ではないんですがね」

 そう前置きすると、海彦は葛原論文に書かれていた事とほぼ同じ話……すなわち、室町時代の土岐康之の乱以降にこの辺りに瀬見氏という武家が土着して「瀬見川村」が誕生し、その際に神社の名前も「瀬見川神社」に改名された事。戦国時代に内ケ島氏理が金の鉱山目的でこの村に攻め込んで領主の瀬見武親以下多数の被害者が発生し、その後、生き残った村人がこの神社で内ケ島氏を呪う呪詛を行ったところ季節外れの蝉の大群が現れ、その数日後に天正大地震で内ケ島氏が城下町事全滅してしまった事。そしてその事件をきっかけに村や神社の名前が「瀬見川」から「蝉鳴」に変わった事などが語られた。もちろん、その辺の話は葛原論文で触れられているので榊原たちはすでに知っている話だったが、話の腰を折る必要も感じなかったので、榊原はさぞ初めて聞いたかのように相槌を打ち続けていた。

「なるほど、そんな事があったんですか」

 一通りの話が終わり、榊原は感心した風に頷く。だが、海彦の話はそれで終わらなかった。

「えぇ、確かに現在に伝わる蝉の伝説の発端はこの内ケ島氏理の侵攻に関わるものです。しかし、この伝説が現在まで語り継がれているのには他にも理由があります」

「と言いますと?」

「実は、この内ケ島氏の事例とよく似た事が、その後の歴史においても再び発生しているのです」

 その話は葛原論文にも載っていない事だった。榊原は興味深げに先を促す。

「二度目の事例は、時代も下りに下って太平洋戦争中に起こったと言われています。この件については伝承のみならず、直接それを経験したというご老人も村の中にまだ何人かおられるはずです」

「戦時中ですか……」

 打って変わってかなり最近の話である。

「終戦間近の冬の事だったそうです。まだ二月にもかかわらず、夜になっていきなりこの神社の境内で大量の蝉が鳴くという事が起こったそうです。何の前触れもなく突然伝承通りの事が起こって村はパニックとなり、恐怖のあまり神社に駆け付ける者は誰もいなかったのだとか。それから一時間ほどしてこの蝉の合唱は収まり、この社務所内で事が収まるのを息をひそめて待っていた当時の神主である私の父・油山山彦あぶらやまやまひこが外に出ると……境内には大量の蝉の抜け殻と、鳴き終えた後で死んでしまった蝉の亡骸が大量に散らばっている光景が広がっていたと言います。そしてその数日後……出征していた村人たちの部隊が南方で全滅したという知らせが入り、当時の村の人たちは再び伝承が現実のものとなったと気味悪がったとの事です。私も今は亡き父にこの話を聞いたのですが……いや、聞いているだけでも背筋が凍る話でしたよ」

 そう言うと、海彦は何かを思い出したかのようにこう言った。

「少しお待ちください。お見せしたいものがあります」

 そう言って一度奥へ引っ込むと、しばらくして木箱に入った何かを持って帰って来た。

「これは?」

「当時、父が残した記録です。お役に立つかと思って」

 そう言って木箱の蓋を開け、油紙に包まれた中身を取り出す。まず、取り出されたのは何枚かの写真だった。白黒のいかにも古ぼけた写真であるが、そこには今とそう変わりない神社の境内が写し出されていた。そしてそれを見て、亜由美は思わず顔を背け、榊原と柊は顔をしかめた。

「これは……なかなか凄まじい光景ですね」

 その白黒の写真一面に、蝉の抜け殻と亡骸が境内の至る所に転がっている有様が克明に記録されていた。白黒ではあるが、数えただけでも軽く数千は超えるのではないかという数であり、もはやその光景は「異常」以外の何物でもなかった。今までは伝承として伝え聞いていただけでいまいち実感がわかなかったのだが、こうして写真とはいえ実際に目の前にその光景を見せられると、何とも背筋がゾッとするようなものを感じる。

「それと、こちらも」

 そう言って取り出したのは指輪を入れるような小さな木の小箱であったが、その中に入っていたのは正真正銘の空蝉……蝉の抜け殻だった。木箱を見ると、同じ小箱がもういくつかあるようである。

「これはまさか……」

「えぇ。この写真に写っている抜け殻のいくつかを父が回収して、こうして保存しておいたそうです。そのうちいくつかは、実際に社内にも祀って供養してあります。二度とこのような災いが起こらないようにという意味を込めて」

 今見せられたのはどうやらヒグラシの抜け殻のようだが、それ以外にもアブラゼミ、ニイニイゼミ、ツクツクボウシと多種多様な蝉の抜け殻が保管されているのだという。当たり前だが、神社としてはかなり異様な話であった。

「私が知っているのはこの程度です。お役に立ちましたか?」

 海彦の言葉に、しばし圧倒されていた榊原は素直に頭を下げた。

「ありがとうございます。おかげでかなり参考になりました」

「それは良かったです。いやぁ、久々の外からのお客さんですので緊張しましたよ。そうだ、何なら神社の境内をご案内しましょうか?」

 思わぬ申し出に、榊原たちは顔を見合わせる。

「よろしいのですか? もちろんやって頂けるならありがたいのですが……」

「今の時期は仕事もそこまでありませんし、別に構いませんよ。では、少し準備をしますので、少々お待ちください」

 そう言って立ち上がりかけた海彦に対し、榊原は少し真剣な表情で声をかけた。

「その前に、一つよろしいですか?」

「はい、何でしょうか?」

 何を聞くのかと亜由美は一瞬身構えたが、それゆえに続く言葉に少し拍子抜けしてしまった。

「トイレに行きたいのですが、御手洗いはどちらに?」

「あぁ、すみませんね。ええっと、いったんこの社務所を出てもらって、すぐ左隣に一般参拝客用の便所があります。そちらをご利用ください」

「ありがとうございます。……そういうわけだから、私は一足先に外に出ているよ」

 そう言うと、呆気にとられている二人を残して榊原はそのまま部屋を出て行ったのであった。


 榊原は一人で社務所を出ると、辺りを見渡した。目的の便所はすぐに見つかったが、榊原はすぐにそちらへ向かおうともせず、そのまま社務所の前で改めて境内を見渡している。

「八年前……ここで何があった……」

 そう呟きながらジッと社の方を見やる。戦国時代と戦時中に大量の蝉が泣いたという境内だが、今はその光景が信じがたいほどの静けさに包まれており、蝉はもちろん、鳥の鳴き声すら聞こえない。山奥の神社にふさわしい、荘厳な雰囲気が漂っているように榊原は感じていた。

「さすがに解決は簡単そうではないか。今は情報を集める事に全力を挙げるべきだな」

 そう言って、再び何気なく境内を見回した……その時だった。不意に榊原の視線がある一点で突然止まった。

「ん?」

 社の賽銭箱の近く。そこに一瞬だが何か人影のようなものが見えたのである。もちろん最初に来たとき、そこには人などいなかった。榊原は一瞬どうしたものかと迷ったが、すぐに表情を引き締めて声をかけた。

「誰かいるのかね?」

 返事はない。が、このまま引っ込むわけにもいかず、榊原はゆっくりと社の方へ近づいていく。やがて正面までたどり着くと、榊原は自分が見間違いをしたわけではない事を確認する事になった。

 賽銭箱の陰。そこに一人の少女が腰かけていて、ジッと榊原の方を見下ろしていたのである。

「……」

 少女は黙ったまま榊原の方を見つめ続けている。年齢は小学校低学年くらいだろうか。少なくとも十歳以下なのは間違いない。この薄暗い神社とは正反対の真っ白なワンピースを着ていて、その姿はどこかこの場所では浮いて見える。榊原は、何か場違いなものがこの空間に出現したようにしか思えなかった。

 とはいえ、現実に少女が目の前にいるのは事実である。しばし無言で対峙した後、榊原は思い切って少女に話しかけようとした。

 だがその直前、不意に少女が小さな微笑みを浮かべ、か細くて今にも消えそうな、しかしそれでいてどこかミステリアスな雰囲気の声で榊原に話しかけた。

「問題。1~20までの整数をすべて掛け合わせてできる数をAとする。このAが2のX乗で割り切れるとした場合、Xの最大値は何か?」

 一瞬何を言われたのかわからず、榊原としては珍しい事に少し思考が硬直してしまった。それくらい、少女の口から発せられた言葉の内容は、明らかにその外見と大きく外れたものであった。だが、榊原もすぐに思考を回復させ、さすがともいえる精神力でこの異常ともいえる状況で言葉を切り返す。

「それは、私に聞いているという事でいいのかね?」

「もちろん。おじさんにはわかる?」

 少女はかわいく小首をかしげるが、言動と表情が全く一致していない。榊原はどこか薄ら寒いものを感じながらも、ひとまず彼女の出した問題に答える事にした。一見難しそうに見える問題だが、実は中学数学の知識があれば充分に解ける問題である。榊原は一瞬深呼吸して目を閉じると、ゆっくり目を開けてこれに答えた。

「一見Aを計算して求めたくなるが、それは罠だろう。Aは1~20までの整数すべてを掛け合わせた数字なのだから、掛け合わせる数字を素因数分解した数字でも割り切れるはず。そこで、1~20のすべてを素因数分解すると、1=1、2=1×2、3=1×3、4=2×2、5=1×5、6=2×3、7=1×7、8=2×2×2、9=3×3、10=2×5、11=1×11、12=2×2×3、13=1×13、14=2×7、15=3×5、16=2×2×2×2、17=1×17、18=2×3×3、19=1×19、20=2×2×5。よってAはこれらの素数すべてを掛け合わせた数なのだから、A=1の9乗×2の18乗×3の8乗×5の4乗×7の2乗×11×13×17×19。Aを2のX乗で割る場合、この素因数分解における2の累乗の数字がその最大値になるから、割り切れる最大値は2の18乗。よってX=18が答えだ」

 いともあっさりと暗算で答えた榊原に対し、少女は満面の笑みを浮かべた。

「正解。おじさん、凄いね」

「別段誇るような話じゃない。それより、君の質問には答えた。だからこっちの質問にも答えてほしい」

「質問?」

「君は誰だ? そして、なぜあんな質問を私に?」

 そう聞かれても少女は不思議な笑みを浮かべていたが、やがてゆっくり立ち上がると社から榊原を見下ろすようにして答えた。

「私、めい。おじさんは?」

「……榊原恵一」

 榊原は慎重に答えた。なぜだかはわからないが、この年端もいかない少女に何か得体のしれないものを感じたのである。

「もう一つの質問に答えてくれないかね? さっきの質問は一体……」

 だが、すべてを言い終える前に、少女は榊原の言葉を遮るようにして微笑みを浮かべながら言葉を発した。

「教えない! でも、すぐにわかると思うよ」

 そう言うと、鳴と名乗った少女は境内から飛び降り、そのまま鳥居の方へと走っていった。だが、鳥居のちょうど下に到達したところで急にピタリと足を止め、呆気にとられている榊原の方を振り返る。

「そうだ。多分、誰も言っていないだろうから、私が代わりにおじさんに言ってあげるね」

 そう言うと、鳴は体ごとクルリと振り返って、ニコリと笑いながら一礼してはっきりと言った。

「蝉鳴村へようこそ」

 その言葉を置き土産に、彼女は再度榊原に背を向け、風のような勢いでそのまま石段を下りて行ってしまった。後には突然の出来事に反応できずにいる榊原だけが一人残される。

「今のは……何だったんだ?」

 そんな言葉が思わず出てくる。と、そこで亜由美たちが遅ればせながら社務所から姿を見せた。

「あれ、榊原さん。何やっているんですか?」

 亜由美の言葉に、榊原はハッと我に返った。

「いや……何でもない」

 榊原としては今の段階ではそう言うのが精一杯である。それを知ってか知らずか、亜由美たちの後に続いて出てきた油山海彦が丁寧な口調で穏やかな微笑みを浮かべながら頭を下げた。

「お待たせしました。では、ご案内します」

 それを機に、榊原はやや無理やりに意識を切り替えて海彦の後を追ったのだった。


 来るときに見たように、この神社は山の中腹にある崖のすぐ下に位置しており、神社の奥の方にはかなりの高さの崖がそびえたっている形だった。

 社の裏手には祭具殿や祭りの際などに使われている集会場があり、そうした施設のさらに奥がその崖の真下に相当する。神社入口の石段から社へ続く石畳がある旨の話はすでにしていると思うが、その途中で裏手へ向かう石畳が社の西にある社務所方面へ分岐しており、その石畳は社務所前で右折するとそのまま社務所前を通って境内の奥へ向かい、社裏手で再び右折して裏の広場の中央を貫くように通じている。神社の上空から見ると、石畳の経路が社に沿うようにして逆コの字型に通じているといえばわかるだろうか。そのうち、社務所前の石畳(逆コの字型の縦棒の部分)に沿うような形で石灯籠が社務所側に三つ等間隔で並んでおり、さらにその先にある社裏手の広場の中央を貫く石畳(逆コの字の上横棒の部分)にも、左右三つずつの計六つの石灯籠がこちらも等間隔で置かれている状況であった。

 また、社務所前の石畳の社側……つまり社務所の正面には社の建物に沿う形で台座に乗った七つの小さな石像のようなものが設置されている。海彦の話では『七つ地蔵』というそのままの名前がついているらしく、何でもこの神社ができた頃から存在しているかなり古いものらしい。設置された経緯は不明であるし、そもそも本当に地蔵なのかどうかさえわからないらしいが、油山氏の初代がこの地に逃れた際に付き従った七人の部下を祀っていると伝わっているらしく、現在でも村人から大切にされ、文化財としての価値も計り知れない石像であるという事であった。(神社境内の詳細は見取り図参照)。


挿絵(By みてみん)


 そして、そんな裏手の一番隅……石畳の経路が行きつく先に、神社の裏手にそびえる崖を登っていくための石段が設置されていた。

「実は、この神社の御神体はこの崖の一番上にある洞窟内部に設置された祠に安置されているんです。祠の中にある御神体が神社全体を上から支配している構図ですね。この石段は、その祠に続くものとなっています」

 そんな解説と同時に、海彦は足元に注意するよう呼びかけて石段を登り始めた。榊原たちも慌てて後に続く。

 石段は崖にへばりつくように設置され、幅は大体一メートルから一メートル五十センチほどのかなり狭いものである。一応近年設置されたのであろう金属製の手すりこそついてはあるが、吹き曝しだけあって風が常に崖へ向かって吹き込んでおり、ちょっとでも身を乗り出したらそのまま下の神社の境内向かって真っ逆さまに落ちていきそうである。榊原は別に高所恐怖症ではないが、この構図にはいささかの恐怖を感じずにはいられなかった。

「これは、どれくらいの高さがあるんですか?」

「大体三十メートルくらいですかね。もっとも、祠に人が行くのは年に一回の祭りの時くらいで、しかも行ける人間が限られているので、基本的に問題はありませんが」

 そう言っているうちに、一行は石段の一番上へと到着した。そこには、崖の一番上にポツンと開いた洞窟への入口があった。

「この先に御神体があります。さすがにお見せするわけにはいきませんが……」

「構いません。それより、その御神体というのは?」

「あぁ、初代の油山何某が使っていたという剣です。祭りの時だけ出されますが、普段はこうして祠に安置してあるわけです」

「なるほど」

 とりあえず、案内も終わったようなので、一行はひとまず石段で再び崖の下まで戻る事にした。神社の境内に戻った瞬間、亜由美がホッとしたようなため息をつく。

「色々ありがとうございました。ひとまず、今日はこのくらいにしておきます。またお伺いするかもしれませんが、その時はよろしくお願いします」

「いえ、こちらこそ。これからどうされるんですか?」

 その問いに対し、榊原は少し考え込んだ。

「そうですね。どこか、文献資料が残っている場所があればいいんですが……」

「文献、ですか……それなら、学校はどうでしょうか?」

 思わぬ提案に、榊原は訝しげな表情を浮かべた。

「学校というと……確かこの村にあるのは蝉鳴学校という小中合同の学校だけだったはずですが」

「そこです。この村には図書館がありませんので、あの学校の図書室が一般開放されて村の図書館代わりになっているんです。調べ物をするならあそこしかないと思いますが」

「そうですか……」

 ある意味渡りに船ともいうべき申し出である。何より、蝉鳴学校は涼宮事件被害者・涼宮玲音の通っていた学校であり、図書室は彼女が実際に勉強していた場所である。どの道行く必要はあるだろう。

「わかりました。では、そうさせてもらいます。教えて頂いてありがとうございました」

「いえいえ、どういたしまして」

 海彦はそう言って微笑むと、静かに三人を見送ったのであった。


 神社の石段を下りると、再び目の前に田園地帯が広がっている。すでに時間は正午過ぎになろうかというところだ。榊原たちは、神社の石段の前で今後の方針を相談していた。

「さて、これからどうするか、だが……」

「海彦さんに勧められたように、学校に行ってみるのが一番じゃないんですか?」

 柊の言葉に、榊原は一応頷きながらも言葉を続けた。

「確かに学校には一度行っておく必要はあると思います。ですが、その前にもう一ヶ所行っておきたい場所があるんです」

 榊原はそう言うと、そのまま近くの家を指さした。神社の入口、そのほぼ正面にある古い民家である。

「あれは?」

「扇島利吉。八年前の事件の重要証言である『扇島証言』の当事者が住んでいる家で、同時に扇島証言の根幹をなす目撃証言がなされた場所でもあります。どうやら、まだご存命のようですね」

 榊原の言葉に、柊と亜由美は息をのんだ。八年前、あの家の主である扇島利吉老人は、事件直前に加藤氏と被害者の涼宮玲音らしい人物が今まさに榊原たちがいる神社の入口から石段を登っていく様子を目撃している。いわゆる「扇島証言」と呼ばれるものであるが、裁判においてこの証言は弁護士から矛盾を突き付けられて破綻し、その二人が誰なのかを特定する事ができないという理由で証拠採用はされていない。

 しかし、それでもこの証言が事件の中で大きな役割を果たしているのも事実である。榊原としても話を聞きたいと思うのは当然であった。

「しかし、いきなり押し掛けるというのは無理があるんじゃないでしょうか? 例の裁判で、多分向こうも警戒しているはずですし」

 亜由美がそのように反論する。が、榊原は小さく首を振った。

「何もいきなり事件の事を聞くつもりはない。表向き、私はあくまで『蝉鳴伝説』の調査に来ているという事になっている。だから、最初はその話をしてみようと思う」

「というと?」

「裁判記録から見て、この老人は戦前の生まれだ。という事は、場合によってはさっき海彦神主が話した『戦時中に神社の蝉が鳴いた』という一件について何か詳しい事を知っている可能性がある。ひとまず、私はこちらの話を持ち掛けてみるつもりだ」

「あぁ、なるほど……」

 亜由美は感心したような声を上げる。柊も納得したようだ。

「では、学校の前にあの家に行きますか」

「それが一番でしょう。むやみに歩き回って村人に警戒されるような事はしたくありませんしね」

 そう言うと榊原は、そのまま扇島家の方へと歩いていく。残る二人も覚悟を決めたようにその後に続いた。

 先程は神社の入口のほぼ真正面と書いたが、厳密には神社の入口から南東へ五十メートルほど行った、メインストリートから少しずれた田んぼの真ん中にその家はあった。家の敷地と神社の入口との間に遮るものはなく、なるほど確かにあの家からなら神社の入口はよく見えるだろう。明らかな田んぼ道を通り、三人は家の前に到着する。近くで見ると、一般的な農家と言った風貌の平凡な家だった。敷地内に入り、家の玄関の前まで行くと榊原が代表してインターホンを押す。

 だが、返事はない。

「留守でしょうか?」

 柊が首をかしげる。試しに榊原が扉に手をかけると、鍵はかかっておらずすんなりと扉は開く。が、外部の人間がほとんど来ないこんな田舎では、日中なら留守でも家に鍵がかかっていない事など珍しくはない。今までの経験から榊原はそう判断していた。つまり、これだけで中に誰かがいると判断する事は出来ない。

「どうしたものかな」

 榊原がそう呟くと、そのまま家の中に向かって声を上げようとした。

 が、その直前だった。

「あんたら、誰だい?」

 そんな声が三人の背後からかかった。慌てて振り返ると、農作業着を着た老人が、後ろから訝しげな視線をこちらに送っている。手には畑にまく肥料か何かの袋が握られていた。

「あぁ、えっと……失礼ですが、扇島利吉さんですか?」

 榊原が咄嗟に問いかける。と、老人は戸惑う事なく頷いた。

「そうだが、あんたらは?」

「失礼。榊原恵一と申します」

「あぁ……昨日から美作さんの家に泊まっているとかいう物好きか」

 どうやら、榊原の噂はすでにこんなところにまで届いているようである。榊原は苦笑気味に尋ね返した。

「ご存知でしたか」

「村中で噂になっているよ。何でも、探偵だとか何とか……」

「おっしゃる通りです」

「で、その探偵がわしなんぞに何の用があるんだ?」

 老人……扇島が厳しい表情で榊原を試すように尋ねる。それに対し、榊原はあくまでもかつ下手に慎重に答えた。

「実は、一つ聞きたい事がありまして。そこの神主さんから聞いたのですが、何でも戦時中に伝説通りに冬に蝉が鳴いた事があるとか。その件に関して、戦前の生まれであるあなたなら何かを知っているのではないかと思いまして、こうしてお尋ねした次第です」

 その言葉に、扇島は厳しい表情を崩し、何とも拍子抜けした表情を浮かべた。

「え、何だね、てっきり八年前の事を聞かれると思っていたのに、そんな事を聞くのかい?」

「伝え聞いているかも知れませんが、私はあくまで今回蝉鳴神社の伝承について調べに来ただけですから。それとも、聞けば答えてくださるのですか?」

「いや、そういうわけでは……」

 おそらく、榊原が事件の事を聞いてくると踏んであらかじめ追い払う準備をしていたのだろう。だが、ものの見事に梯子を外されて思考がこんがらがってしまっているらしい。相手があからさまに警戒している場合は、最初のうちは徹底的にその事についての話を避けて相手の警戒の感情を空回りさせ、自身に対する拒絶をしにくくさせてしまう。それが今回榊原の仕組んでいる心理戦だという事を、亜由美はようやく理解しつつあった。

「まぁ、立ち話もなんですから、できれば中でお話ししたいのですが……よろしいですか?」

「……いいだろう」

 そう言うと、扇島は持っていた肥料袋を玄関の脇に置いて、さっさと中に上がってしまった。三人も無言で一礼すると、急いでそれに続く。そのまま三人は居間に通され、丸机の周りに腰かけた。扇島もお茶を出すでもなく、そのまま腰を下ろす。

「で、戦時中の事について話せばいいのか?」

「はい。先程も言いましたが、神主さんの話では戦時中にかつての伝承通りに蝉が鳴き、その翌日に出征中だった村人の死が伝えられたという事です。果たしてこれが本当の事だったのかどうか、あなたにならわかると思いまして……」

「本当だ。間違いない」

 扇島の答えは簡潔だった。今度は榊原の方が拍子抜けする番である。

「……随分あっさり仰いますね」

「そりゃそうだ。何しろ、わしはそれをここで直接聞いているんだからな」

 そう言うと、扇島はゆっくりと話し始めた。こう見えて、元々話し好きな性格なのかもしれない。

「思えば、もう六十年以上も前の話になるのか……。あの狂気に満ちた時代、この村にも戦争の暗い影は確実に浸食していた。わしはたまたまその当時病気で体調を崩していて、軍役に引っかからなかったせいで召集されること自体は免れた。が、わしと同い年の連中は何人も出征していったよ。そして、そのほとんどが戻らなかった。今でも、一人生き残ってしまったことを申し訳なく思う時がある」

 扇島は不意に遠い目をして語り続ける。

「あれは……一九四五年の一月か二月頃だったと思う。ある日の夜、わしが寝ていると急に神社の方から変な音がし始めた。最初は小さく……次第にその音は村中に響き渡るほど大きくなっていった。それは、あまりにも季節外れで……そして場違いすぎるものだった。わしが……わしが子供の頃から聞かされ続けた伝承が、まさに目の前に現れた瞬間だった」

「それがまさか……」

 榊原の呟きに扇島は頷く。

「そう、それは身の毛もよだつほどのおびただしい数の蝉の鳴き声だった。ヒグラシ、アブラゼミ、ニイニイゼミ、ツクツクボウシ、クマゼミ……種類も何もかもバラバラな蝉が、闇夜の中で一斉に鳴き始めた。村の人間は戦慄し、誰も神社へ行こうなどというものはいなかった。わしらは怯えながら、蝉が鳴きやむのを待つしかなかった」

 その瞬間、扇島の目が暗くなる。

「その翌日だったよ。出征中だったわしの同輩そのすべてが、出征先で部隊ごと全滅したという知らせが届いたのは。この村から出征した者たちが所属していた部隊、それが派遣されたのは小笠原諸島にある小さな島……硫黄島だった」

「硫黄島……」

 榊原の表情が厳しいものになった。日米両軍が激しい激戦を繰り広げ、米軍六〇〇〇人以上の命と引き換えに日本軍守備部隊約二万人前後がほぼ全滅したという太平洋戦争史に名を残すあの激戦の事は、榊原でなくても知っている人間は多いはずである。

 そんな榊原の反応を見ながら、扇島は語り続ける。

「今でも一部の人間の遺骨は戻ってはいない。例えば、左右田前村長の兄でわしの友人でもあった左右田仁吉そうだじんきち君は、結局遺骨も含めてこの村に帰ってくる事はなかった……。今でも左右田前村長は、硫黄島への遺骨探索作業へ多額の寄付金をしていると聞く。わしらからしてみれば、あの蝉どもが皆を殺したと思えてしょうがないんだ」

 扇島は握り拳を作りながらそう言った。その剣幕に亜由美は何も言う事ができない。一方、榊原は毅然とした表情で、静かに扇島の話に疑問を投げかけた。

「一つ聞いてもいいですか?」

「何だ?」

「あの伝承は、より詳しく言うならば『蝉が鳴くときその命と引き換えに村の敵が滅ぶ』というようなものだったはずです。しかし、今の話では死んだのは村の人間で、この伝承でいう村の敵とはとても言えません。その点はどうだったのでしょうか?」

「……『災い鳴く時 蝉が鳴く 蝉が亡く時 災い亡く』の口伝の事か」

 扇島の言葉に榊原は眉をひそめる。

「知っていたんですか」

「今の若い衆は知らんだろうな。知っているのはわしらくらいの年寄りまでくらいだ。話を戻すが、村の敵は確かに死んでおった。それをわしらが知ったのは、戦後になってからだったが……」

「何があったんですか?」

「……この村の近くに日本軍の米軍捕虜収容所があった事は知っているか?」

 唐突な問いに、榊原は亜由美と顔を見合わせた。

「えぇ、一応は。場所まではわかりませんが」

「……驚いた。この村について調べているというのは本当のようだな」

「いえ、この子の友人の祖父がその収容所の勤務で、その話を又聞きしただけです」

 そう言われて、亜由美は思わず頭を下げる。

「まぁ、いい。あの収容所は墜落したB29爆撃機の乗組員なんかが収容されていたんだが、その中に一人、ジョンソン・マッケンジーというアメリカ陸軍の将校がいた。B29爆撃機による日本本土への空襲を指揮していた男だが、搭乗していた機が帰還途中でゼロ戦の奇襲を受けて墜落。本人は生き延びたものの捕まり、収容所に収監されていた」

「陸軍の人間が何で爆撃機の指揮をしているんですか? そういうのは空軍の管轄だと思うんですけど……」

 亜由美が素朴な質問を投げかける。これに答えたのは榊原だった。

「亜由美ちゃん、太平洋戦争の頃のアメリカ軍に空軍は存在しないんだ。確か、アメリカ空軍が正式に発足したのは一九四七年の事だったはずだ。当時の基準では、基本的には海軍に所属しない飛行機はすべて陸軍の所属とされていて、有名なB29爆撃機も陸軍の管轄だった。この当時、陸軍内で航空機を管轄していたのは『アメリカ陸軍戦略航空軍』という部署だったはずだ。つまり、陸軍の人間が爆撃機の指揮をしていたとしても何ら不思議な事ではないという事だ」

「ほう、若いのによく知っているな」

 ここで初めて扇島は感心したような声を上げた。

「以前、調べた事がありましてね」

「ならば話が早い。このジョンソンという男だが、主に北陸方面の空襲を担当していて……実は、この村の周辺にも爆撃を行った事がある。村にも爆弾が落ちて、まさか落ちると思わず油断していた村人数名が死んだ」

「この高山に、ですか? しかし、失礼ですがこんな田舎に爆撃しても米軍にとっては意味がないのでは?」

 榊原の問いに対し、扇島は怒りを噛み殺した声で答えた。

「最初から狙っていたわけじゃない。富山かそこらを空襲した帰り道に、爆弾がたまたま余っていたから余興で適当な場所に落としたというのが事の真相だ。もっとも、それが原因で周辺を警戒していたゼロ戦に撃ち落とされたんだから、自業自得だがな」

「それで、そのジョンソン氏が何か?」

「……さっきも言ったように、この話を聞いたのは戦後になってからの話だ。戦後になって収容所が解体された時に、その情報がこの村まで届いた。それによるとだな……収容されてから数ヶ月ほどして、ジョンソンは収容所内で不慮の事故で死んでしまったんだそうだ。それも、あの日……神社で蝉が鳴いたあの日にな。つまり、蝉が鳴いた事で村に面白半分に爆弾を落として村人を殺した野郎が死んだって事だ」

「本当ですか?」

 思わぬ話に榊原は眉をひそめた。

「あぁ、何でも収容所の中で一酸化炭素中毒の事故が起こったらしくてな。それに巻き込まれて死んだらしい。もっとも、時代が時代だから死因が本当かどうかはわからないが……少なくとも奴が死んだことは間違いないようだった。実際、流出した奴の死体の写真を見た事がある。だから、村の敵が死んだっていうのは間違いないんだが……わしにしてみれば、それよりも硫黄島で村の仲間たちが死んだ方が印象に残っているのは確かだな。いずれにせよ、伝説は間違いなくあった。それがわしの結論だ」

「なるほど……」

 榊原は少し何かを考えているようだったが、やがて一つだけこう質問をした。

「その捕虜収容所というのは具体的にはどこにあったんですか?」

 その質問に扇島は険しい表情を浮かべる。

「それを知ってどうする?」

「気になるだけです。例の伝承に関係あるとすれば、調べてみるのもいいかもしれないと思っただけで。もっとも、無理に答えてもらわなくても構いませんが」

 しばらく扇島は厳しい表情を崩さないままだったが、やがて深いため息をついてこう言った。

「まぁ、いいだろう。別にわしが隠すような事でもないし、どの道、県の図書館なりで調べれば簡単にわかる事だ。その収容所はこの村の北東を少し進んだ辺り……蝉鳴神社から見るとちょうど東の方角の森の中にあった。もっとも、建物は戦後に解体されてもう何も残っていない。今はその場所にはこの村の共同墓地があるだけだ」

「共同墓地、ですか」

「あぁ。収容所が解体された後、どこからかやってきた坊主がその場所に千願寺せんがんじとかいう寺を建てて、境内の裏手の敷地に村の共同墓地を作った。だが、この村は蝉鳴神社の影響力が強い事もあって寺は葬儀や法事の時くらいしか仕事がなくてな。ほどなくその坊主が病気で死ぬと、跡継ぎがいなかった事もあって廃寺になってしまった。結局、ないと困るという事で墓地だけは役場が管理する事になったが、今あの場所にはその墓地と千願寺の廃墟だけが残されている状態で、村の子どもたちが肝試しをするような場所になっている」

 そう言うと、扇島はじろりと榊原を睨んだ。

「……わしが話せるのはこの程度だ。参考になったか?」

 その言葉に榊原はしばらく黙って何か考えていたようだが、やがて小さく頭を下げた。

「ありがとうございます。非常に参考になるお話でした。それでは、お邪魔でしょうから我々はこの辺でお暇させて頂きます」

 その言葉に、扇島は改めて不安げな顔をする。

「どうも解せないな。あんた、本当に八年前の事件について何も聞かないつもりなのか?」

「……そこまで言われるとむしろ『聞いてくれ』といわれているようにも聞こえるのですが」

「い、いや、そういうわけではないが……。ただ、今までわしを訪ねてきた連中は、どんな人間であれ誰もが多少なりともその質問をしてきたものでな。ましてや……」

「わざわざ東京からこんな小村にやってきた自らを私立探偵などと名乗るいかにも怪しい人間が、たとえ興味本位でも八年前の事件の事を聞かないはずがない、と?」

 ズバリ聞かれて、今度は扇島の方がしどろもどろになる。

「そ、その……ん、まぁ、そうだ」

「ご安心を。宿でも主人に言いましたが、あの事件について興味がないかと言われれば、まぁ、それは嘘になります。ですが、私は無駄な事はしない主義です。聞いたところで絶対に答えてくれないどころか警戒されてしまうようなこの状況で、わざわざ自分の不利になるような事はしないだけですよ。それに、そんな事をしたら神社の伝承を調べるという目的自体に支障が出てしまいますのでね」

「嫌に潔いんだな。あるいは探偵のくせに馬鹿正直と言うべきか……」

「合理的なだけです。探偵ですから」

 榊原は涼しげにそう言うと、本当にその場で立ち上がってしまった。

「ま、あなたが自分から話したいというのなら、その時は聞いても構いませんが……今のところ、その必要性を感じていませんのでね。では、私はこれで」

 そう言うと、榊原は呆気にとられている扇島を残して、あっさりとその場を後にした。亜由美たちが慌ててその後に続くのを、扇島はどう反応していいのかわからない様子で見送るしかなかった。


「本当に伝承の事しか聞きませんでしたね」

 扇島の家を出て村の中心方面へ歩きながら、亜由美は不思議そうに榊原に言った。

「言っただろう。私は最初からあの老人に事件について聞く気はなかった」

「でも、せっかく出会ったんですから何か聞いておいた方がよかったんじゃなかったんですか? また話を聞けるとは限りませんし」

「それもさっき言った通りだ。今のところ、あの老人に聞くべき事は何もない。というより、何も聞かなくてもそれなりの情報は把握したつもりだ」

「え?」

 聞き捨てならない言葉に、亜由美は反応する。

「今の、どういう意味ですか?」

「要するに、何も証言だけが情報を得る手段じゃないという事だ。例えばさっき話を聞いた部屋だが、おそらくあそこが『扇島証言』で彼が境内に向かう連中を見たという部屋その物だろう。実際、縁側から神社の入口がよく見えた」

 そう言われて、亜由美と柊は顔を見合わせる。

「そう言われればそうかもしれませんけど……」

「つまり、あの部屋に入れただけで、『扇島証言』が事実なのかどうかある程度の推測は考えられるという事だ。その状況で相手の機嫌を損ねてまで証言を聞くのは徒労以外の何物でもない」

「で、どうだったんですか?」

 亜由美の問いに対し、榊原はあっさり答えた。

「裁判で認定された通りだよ。明るい今ならまだしも、暗くなってからあの距離で神社入口にいる人の顔を見分けるのは至難の業だ。見たところ、入口の石段の辺りに外灯はないようだしね。ただ、逆を言えばだれかわからなくとも人が歩いている姿自体は充分に確認ができる。とはいえ、それはあくまで意識的にあの石段を見ていたらの話で、誰かが来ても見過ごす可能性は充分に高いと思う。まぁ……それが自分の目で確認できただけでも充分に収穫だよ」

 そう言うと、榊原は切り替えるようにこう言葉を続けた。

「さて、じゃあ、今度こそ学校に向かうとするか。調べる事はまだまだたくさんある」

 榊原の言葉に、亜由美と柊は小さく頷いたのだった。


 それから少し歩いて、三人は村の西側に位置する蝉鳴学校の前に向かった。神社の石段前にある交差点を西方面へ進み、村の北西に着いたところで、村の一番西を貫く道をずっと南下する事で到着する。その途中、村の北西の端に着いてみるとそこはT字路になっており、そのうち北へ進む道はそのまま村の北部の山間部を貫く山道になっていて、どうやらそこから富山県方面へ抜ける事ができるようだった。つまり、この村と外部を繋ぐ道は、来るときに使った村の南側から岐阜方面へ抜ける道と、この村の北西から富山方面へ向かう道の二本しかないという事である。また、この北へ抜ける道の入口部分にも車止めのチェーンが設置されており、道を少し進んだところに開けた駐車場があるのが見えた。どうやらここでも、村の中に外部の自動車を進入させないという方針は徹底されているようである。榊原たちはそのT字路を南へ向かい、橋を渡って道を直進し続け、やがて目的の蝉鳴学校の前に到着する事ができた。

 さて、その蝉鳴学校であるが、学校と言っても一階建ての校庭付きの田舎の集会場といった趣の建物ある。ただ、今時の都会の学校にありがちな排他的な雰囲気は存在せず、誰でも自由に出入りできるようになっているようだった。

「こういう光景はむしろ貴重だな。元々学校という場所は地域に開かれた場所だったはずだが、六年前に大阪の小学校で起きた児童殺傷事件以降、安全のために学校が閉ざされる傾向が大きくなってしまった。やむを得ないという事はよくわかっているが……残念な話だよ」

 榊原はそう言いながら、校内の敷地に入っていく。入ってすぐは校庭という名の広場になっているが、今は春休み中という事もあってか子供たちの姿はない。建物は二つの建物が渡り廊下でつながっている形式で、そのうち右側の建物の入口に「図書室」と書かれた看板がかかっている。油山神主が言った通り、図書室は誰でも出入り自由らしい。榊原は無言で図書室の扉に手をかけた。

 と、その時だった。

「ちょっと、あなたたち! 何をやっているんですか!」

 誰かが校舎の方から飛び出して来て榊原たちの方へと駆け寄ってきた。振り返ると、三十代半ばくらいの女性である。

「ここは部外者が立ち入っていい場所じゃありません。あなたたちは誰なんですか?」

 そう言われて、やむなく榊原は何度目かわからない自己紹介をした。

「失礼、私立探偵の榊原恵一と申します。こっちは友人の柊長親さんと宮下亜由美さん。蝉鳴神社の伝承について調べていまして、油山神主から調べごとがあるなら図書館に行けばいいと言われたのですが……」

「私立探偵? ……もしかして昨日から美作宿に泊まっているっていう……」

「こんなところまでその情報が来ていましたか。田舎の情報網というのは恐ろしいですね」

 榊原は苦笑気味に笑うと、改めて女性に尋ねた。

「それで、あなたはどなたですか? こちらも名乗ったのですから、それくらいは教えてほしいのですが……」

「え、あ、そうですね」

 相手は慌てて居住まいをただすと、頭を下げて自己紹介した。

「私は飯里稲美いいざといなみ。この学校の教師をしています」

「ほう、あなたがこの学校を一人で切り盛りしているという」

 榊原が感心した風に言うと、彼女……稲美は照れたように笑った。

「そんな……村のみんなが支えてくれているからこそです。私一人では何も……」

「いえ、充分に凄い事だと思います。それで、話を戻しますが……私たちは蝉鳴神社の伝承について調べているのですが、そのためにこの図書室に保管されているという村の資料を閲覧したいのです。許可して頂けますか? それとも、何か特別な許可でも?」

「え、いや、そんなものはありませんが……ただ、見た事もない人がいきなりやって来たんでびっくりして……」

 と、その時校舎の方から別の声がかかった。

「先生、まだぁ?」

 見ると、校舎の方から何人かの子供たちが顔を出しているのが見える。どうやら、春休み中にもかかわらず校舎内に子供たちがいるようだ。

「ここは子供たちにとって遊び場みたいなものなんです。だから、休み中もずっと開放しているんです」

「それは大変ですね」

「本当です。今も体育館の方でバレーボールの準備をしていたところなんですけど、一人じゃ大変で……あっ、愚痴ってすみません」

 慌てて頭を下げる飯里に対し、不意に後ろで控えていた柊が顔を出した。

「なら、手伝いましょうか?」

「えっ?」

「いや、正直私は彼の付き添いでして、資料調べの間やる事もないでしょうから」

「じゃあ、私も混ぜてもらっていいですか? 実は将来教師になりたいと思っているので、今のうちにこういう経験もしてみたいですし」

 亜由美もそれに乗っかる。榊原は、二人が飯里や生徒たちからの情報収集を買って出た事を瞬時に悟り、二人に向かって軽く頷いていた。

 一方、飯里は少し迷っていたようだったが、やはり大変だったのは事実のようでやがて素直に頭を下げた。

「すみません、じゃあ、お言葉に甘えてもいいでしょうか?」

「お安い御用です。では榊原さん、終わったら体育館に来てください」

「わかりました」

 榊原がそう答えると、柊と亜由美は稲美に続いて体育館……どうやらここから見えないだけで校舎の裏手にあるらしい……に向かって行った。それを見届けると、榊原は改めて図書室に入った。

 中はカビの臭いと本の臭いが入り混じる独特の雰囲気の空間だった。田舎の図書室ではあるが思った以上に本の数はあるらしく、ざっと見ただけでも一般書に混じって甲賀三郎の『琥珀のパイプ』の初版本などというマニアがよだれを垂らしそうな逸品が平然と並んでいたりする。また、本に混じって子供の遊び道具も混ざっているらしく、棚の上にトランプやすごろく、さらには凧揚げの凧やコマなどが無造作に置かれていたりもした。

「何ともよくわからないラインナップだな……」

 榊原はそう言いながら図書室の奥へと進んでいった。一番奥には校舎と結ぶ渡り廊下へと続く扉が見える。やがてその扉から少し進んだ一角に『郷土資料』のコーナーが現れ、そこに蝉鳴村に関するいくつかの資料がびっしり並んでいた。

 榊原はひとまずそこに近づいて神社に関係しそうな資料をいくつか抜き出す。が、それをした後でいったん周囲を見回すと、そっとその隣にある棚へと移動した。


『校誌』


 それがそのコーナーの名前だった。どうやら一年ごとに発刊されるこの学校の校誌がすべて保管されているらしい。榊原は黙って棚を一瞥すると、その中の一つ……『一九九九年度版』を取り出して他の資料の間に挟み、閲覧コーナーの机へと移動した。そのまま資料を調べるふりをして校誌を開ける。そこには、この年度にこの学校に在籍していた生徒……つまり涼宮事件当時にこの学校にいた生徒全員の集合写真が貼られていた。

 集合写真自体は事件前に撮影されていたものらしいが、榊原の目的は生徒の顔と名前だった。榊原はその一つ一つを手帳にメモしていく。


左右田常音そうだとこね……当時中学三年』

安住梅奈あずみうめな……当時中学三年』

雪倉美園ゆきくらみその……当時中学一年』

柾谷健介まさたにけんすけ……当時小学六年』

加藤陽一かとうよういち……当時小学六年』

堀川頼子ほりかわよりこ……当時小学五年』

手原岳人てはらたけと……当時小学一年』


 全部で七名。正確に言えば中学生三名に小学生四名。それがこの当時蝉鳴学校に在籍していた生徒の名前だった。この他に、当時からこの学校を切り盛りしていた飯里稲美もしっかりと写っている。また、正式な生徒ではなく図書館を利用しているだけの形だった被害者の涼宮玲音も、一応申し訳程度に集合写真の横に個別写真の形で掲載されていた。

 このうち数名の名前に榊原は心当たりがあった。被害者の涼宮玲音は当然として、柾谷健介というのは小里ノートに登場したインタビュー相手の事だと考えるのが妥当だ。また、加藤陽一は涼宮事件の被疑者として逮捕された加藤柳太郎の息子と考えるのが筋であろう。確か葛原論文の中で、柳太郎の逮捕後にその息子がいじめを受けて自殺未遂を起こしたという記述があったはずだ。

 さらに、左右田常音の名字にも聞き覚えがあった。今もなお村に大きな影響を与えている前村長にして現高山市議会議員の名前が確か左右田昭吉だったはずである。だとすれば、この少女は当時の左右田村長の関係者とみるのが妥当だろう。

 残る安住梅奈と雪倉美園、それに堀川頼子と手原岳人に関しては今の所手掛かりはない。ただ、小里ノートによれば、当時涼宮玲音は同じ学校に通う女子生徒と巫女役をめぐって対立し、嫌がらせを受けていたという話だった。だとすればこの中で可能性があるのは、残る女生徒である左右田常音、安住梅奈、雪倉美園、堀川頼子の四人である。また、この年齢表記が正しいなら、二〇〇七年三月現在、当時小学一年生だった手原岳人はまだ中学二年生、四月から中学三年生という年齢である。そうなれば、彼だけはまだこの学校に在籍をしている可能性がある。

「その他の面々に関しては……」

 榊原は独り言を呟きながら記憶を整理する。加藤陽一は自殺未遂後この村を追われ、母親はこの時の過労が原因で病死しているはず。裁判で無罪になった事から父親の柳太郎はすでに釈放されているはずだが、彼自身が今どこで何をしているのかはわからない。また、柾谷健介は事件後に村を出て、小里ノートが書かれた時点では富山県内の高校に通っていたはずだ。今の時点で十九歳。順調にいけばどこかの大学に在籍しているか就職しているかである。

「柊さんを通じて県警に調べてもらう他ないか……」

 榊原がそう言って息をついた時だった。

 ガタンッ、とどこからか小さな音がした。反射的に榊原は立ち上がる。

「誰だ?」

「……クスクス」

 本棚の陰から不意にそんな声がした。そして、その笑い声に榊原は聞き覚えがあった。やがて、その声の主が本棚の間から姿を見せる。

「君は……」

 それは、さっき神社にいたあの少女……「鳴」と名乗った少女だった。榊原は一瞬混乱しかけたが、冷静に考えてみれば年齢的に言って彼女が学校にいる事に何ら不思議はない。榊原は突然の不意打ちに対して深呼吸をして気持ちを落ち着けると、改めて少女に話しかけた。

「また会ったね。と言っても、まだ別れて数時間しか経っていないわけだが」

 少女はそんな榊原を、笑みを浮かべながら見つめている。

「君には聞きたい事がないわけじゃないが……ひとまず何の用だね? また問題でも出してくれるのかな?」

 だが、鳴はその問いに対し首を振ると、おもむろに榊原を指さしてこう言った。

「今度はおじさんの番」

「私の番?」

「何か数学の問題を出して。私がそれに答えるから」

 無邪気な顔をして、少女はそんな事を言ってくる。

「なぜそんな事をしなければならないのかね?」

「私の趣味!」

 そんな堂々と言われても困ってしまう。だが、言わなければ逃がしてくれそうにもなかった。

「……どんな問題でもいいのかね?」

「うん」

「前提として、君は少なくとも中学レベルの数学の概念までは理解しているという事で構わないのかね?」

「もちろん!」

「ふむ……では、こんなのはどうかね?」

 そう言いながら、榊原は近くの机の上にあったメモ用紙にさらさらと何かを書いて鳴に手渡した。そこにはこう書かれていた。


◎Xの3乗とYの3乗とZの3乗の合計が次の①~⑤の数である時、X、Y、Zに当てはまる整数は何かを答えよ。ただし、答えるのは①~⑤のうち一つだけでよい。

 ①33  ②42  ③58  ④70  ⑤81


 問題を読んだ後、鳴は首をひねるようにして榊原に尋ねた。

「これって、解くのは一問だけでいいの?」

「あぁ。もちろん問題ごとに難易度の差があるから、どの問題を解くかを選択する事自体が大きな問題になっているがね」

「ふーん。じゃあ、一問以上解けるんだったら別に解いてもいいの?」

「構わんよ。できるものならね」

 榊原の返事に、鳴は真剣な表情で手渡された問題を見やった。

「うーん……ちょっと難しいなぁ」

「まぁ、そう簡単に解けるような問題は出していない。簡単な問題を出しても君が納得しないだろうからね」

「それはそうだけど……」

「時間はどれだけかかってもいい。答えは次に会った時にでも聞くとしようか」

 そう言ってから、榊原は少女に尋ねた。

「さて、今度はこっちから聞きたいんだがね」

「何?」

「まず、君はこの学校の生徒という事でいいのかね?」

 鳴は頷いた。

「そうだよ。今は一年生で、四月から二年生」

「だが、君の数学の知識は小学生のレベルを超えている。私からしてみれば、さっきの確率の問題よりも、そっちの方が不可解だ」

 この問いに対して、鳴は首をかしげただけだった。

「そんなに変かな? 私にとっては、当たり前の事なんだけど。数学って、面白くってワクワクするの」

「自覚なし、か。まぁ、いいだろう。問題なのはその次だ。君はさっき蝉鳴神社にいた。なぜかね」

「何でだと思う?」

 鳴は悪戯めいた口調で聞き返す。榊原は、改めてこの少女の事を単なる少女ではなく、一人の対等な相手として対応する事とした。

「……推測はできる。が、それはあくまで証拠のない推察だ」

「ふーん、わからないって言わないんだね」

「私の仕事で、それは禁句だ。どんなにわからない事でも心の奥底では何らかの推察は用意しなくてはならない。因果な商売だ」

「それってどこか計算に似ているね」

「そうか?」

「どんなにわからない事でも必ず答えはある。ね、数学と一緒でしょ?」

 そう言われて、榊原は苦笑する他ない。

「それで、おじさんの出した解は?」

「……ある一つの証明条件さえわかれば、答えられる。だから、一つだけ尋ねたい」

「なぁに?」

「現時点におけるこの村の『巫女役』は誰かね?」

 その問いに対し、鳴は満面の笑みを浮かべた。

「凄い、その質問をするって事は、本当に答えがわかっているんだね」

「答えは?」

「多分おじさんの予想通りだよ。今の巫女役は、左右田常音お姉ちゃん」

「そうか……」

 つまり、八年前の事件で涼宮玲音が殺された後、結局問題となっていた巫女役になったのは村長の娘である左右田常音だったという事になる。常音にしてみれば、意図せずして巫女役の座が転がり込んだわけだ。もっとも、本当に「意図せずして」だったかどうかはわからないが。

「だとすれば、一九九九年七月当時十五歳だった左右田常音は二〇〇七年三月現在二十二歳。確か聞いた話だと、巫女役は二十三歳で交代になるはずだった。となれば……八年前同様、また巫女役交代の時期が来ているんじゃないか?」

「そうだよ」

「そうなれば……君があそこにいた理由は一つしかない。他ならない、君自身が新しい巫女役の候補になっているという事だ。違うかね?」

 そこで、鳴はパチパチと拍手をした。

「正解! 凄いね、おじさん」

「褒められるような事じゃない」

「でも、ちょっと違うかな。私はあくまでも巫女役候補の一人にすぎないんだって」

「候補、ね。他の候補者は誰なのかな?」

「知らない。それに興味もない。私は数学ができればそれでいいから」

 鳴はそう言って笑う。

「ちなみに、君が巫女役候補の一人だったとして、さっき神社にいた理由は?」

「うーんとね、巫女役について話がしたいって油山のおじちゃんが言っていて、いつでもいいから神社に来てくれって言われたから行ったの。でも、行ってみたらおじさんたちが話しているみたいだったし、今日はやめておいた方がいいかなぁって思って、そのまま帰ってきちゃった」

「なるほどね」

 ネタばらしされてみると納得のできる理由である。榊原はさらに彼女に対して質問しようとした。

 と、その時だった。渡り廊下へ続く扉の向こうから誰かがこちらへ歩いてくる足音が聞こえてきた。

「あ、先生だ!」

 鳴はそう言うと、反対側にある校舎へ続く入口の方へと駆け出す。

「何かまずいのかね?」

「みんなと一緒にいないから探しに来たんだと思う。でも、私、一人でいたいから」

 そして小さく微笑んでこう言う。

「さっきの問題、また会った時に答えるから! じゃあね、おじさん!」

 その言葉を最後に、鳴は図書室を出て行った。榊原はしばし呆気にとられていたが、やがて首を振り、校誌を元あった棚に戻すと、再び席に戻って何食わぬ顔で資料を調べ始めた。その直後、扉が開いて稲美が顔を見せる。

「どうしましたか?」

 榊原が尋ねると、稲美は困ったような表情をして尋ねた。

「すみません、今ここに女の子が来ませんでしたか?」

 予想範囲内の問いではあったが、榊原としては別に彼女をかばう義理はないので、正直に答える事にした。

「今しがた、そこから一人出ていきましたよ。随分数学が好きみたいな子でしたが」

「その子です! 全く、どこに行ったんだか……」

 稲美はため息をつく。

「あの子は何なんですか? 少し話しましたけど、あの子の数学の知識はどう考えても小学生のものではなかった」

「あの子は……数学の天才なんです。何でああなったのかはわかりませんけど、ここに入った時には微積分を普通に理解していました。それどころか、去年数学オリンピックに出場して、あの歳で準優勝をしたんです。生まれながらの天才、という事なんでしょうね」

「それは……凄い」

 榊原としてはそう言う他ない。

「でも、おかげで他の子とは話が合わないみたいで……頭がいい分、話が他の子より進み過ぎてしまうんです。というより、下手をしたら大人でもついていけません。私でも話し相手になれない事が多いんです。だから、いつも一人でいる事が多くて、友達もほとんどいないみたいです。私も頭が痛いんですけどね」

「まぁ、そうでしょうね」

 そう答えながらも榊原は考えていた。もしかして彼女が神社での出会い頭にいきなり数学の問題を出してきたのは、自分と話が合う人間かどうかを見極めるためだったのではないだろうか。そして、見事にそれに答えた榊原に好感を持ち、榊原が学校に来たのを見てこの図書室で待ち受けていた……というのは考え過ぎだろうか。

「彼女から聞いたんですが、彼女が巫女役の候補になっているというのは本当ですか?」

「そんな事まで話したんですか? 珍しいですね」

 稲美は少し驚いたように榊原を見ながら答えた。

「えぇ、確かにそうです。今の巫女役が今年度で最終年になるので、彼女が候補になっています。でも、他にも候補がいますから、どうなるかはわかりませんね」

「失礼ながら私には理解できないのですが、巫女役というのはそんなに名誉な事なんですか?」

 稲美は頷いた。

「少なくとも村の中ではそうですね。巫女役になれば本人というよりも、その一族の村の中での発言力が大きくなりますから。左右田前村長が議員になれたのも、娘さんが巫女役になって村の中で発言力が大きくなったからだと思います」

「あぁ、今の巫女役は左右田さんの娘さんなんですね」

 榊原はさも今知ったという風に聞く。

「そうなんです。今は東京の大学に通っていて、四月から大学院に進学するみたいです。確か今は帰省中で村に帰ってきていて、次の巫女役をどうするか神主さんたちと話をしているはずです」

「やっぱり後任選びは巫女役の意向が最優先されるんですか?」

「そうです。巫女役の引継ぎは最終的に先代の巫女役が決定します。もっとも、左右田さんが選ばれた時は涼宮さんの事もあったし、それに先代の巫女役が後任を指名する事もできなかったから、結局例外的に寄合の多数決で決めましたけど……」

 そこで稲美はハッとした表情をして慌てて口をふさいだ。

「いけない、私ったら余計な事を……」

「あの……その話だと、左右田さんの娘さんが巫女役に選ばれたのは涼宮さんの事件の時の事なんですか? いや、依頼に関係ないとはいえ、さすがに今の話は少し気になって……答えたくないならそれでも構いませんが」

 榊原は小里ノートの事などおくびにも出さずに尋ねる。稲美はどうしようかと少し迷っていたようだが、今さらなかった事にもできず、ため息をついて答えた。

「実はここだけの話……あの時涼宮さんは巫女役に内定していたんです。先代の巫女役が続行不可能になって急遽の話でした。でも涼宮さんが殺されて、結局紆余曲折の末に寄合で左右田さんが選ばれた形になったんです」

「先代の巫女が続行不可能、というのは?」

「その子が事故に遭って……回復を待ったんですけど治る見込みがなくて、この時ばかり彼女の家族の許可を得た上で、寄合で巫女役を決めました」

 その話は小里ノートにも書いてあった。だが、ここへきて榊原は何かピンとくるものがあった。事故で動けなくなった少女。その心当たりがあったのだ。

「もしかして、その先代の巫女というのは、美作宿の娘さんじゃないんですか?」

 その言葉に、稲美はハッとしたように顔を下げる。

「どうして……」

「いえ、今朝、宿で彼女を見たもので。確か、清香さんでしたか」

「そう……会ったんですか」

 稲美は頷いた。

「そうです。あの子は七歳の頃から巫女役になっていたんですけど、十一歳の時に事故であんな状態になって……それでやむなく寄合で巫女を決める事になりました」

「確かに、あの状態ではそれもやむを得ないでしょうね」

 榊原は納得したように頷いた。

「でも、寄合で選んだ結果があの事件ですから、村の中でもしきたりを破ったからあんなことになったという人がいないわけじゃありません。だから、今回は前回以上に巫女役である左右田さんの発言が重くなると思います。でも、名崎さんのお父さんも頑固だから……」

「名崎?」

 思わぬ名前に榊原は思わず口を挟んだ。それは確か「名崎証言」の元になった村役場の職員の名前ではなかったか。だが、稲美は不思議そうに聞き返してきた。

「あの、さっきあの子から名前を聞いていないんですか?」

「いえ、『鳴』という名前しか」

 榊原は正直に答える。これに対し、稲美はこう答えた。

「なら、仕方がないですね。あの子の名前は『名崎鳴なさきめい』というんです。お父さんは旧村役場……今の高山市役所蝉鳴支所の職員さんなんですけどね」

 その瞬間、榊原はある事を思い出していた。そもそも名崎が八年前の事件で「名崎証言」をする事になったのは、彼の妻が産気づいたと連絡を受けて診療所へ向かって自転車をこいでいたがゆえだったはずだ。そして、あの『鳴』という少女の年齢は七歳……。

「あの子が……事件当日に生まれた名崎義元の娘なのか」

 榊原は稲美に聞こえないように、思わずそう小さく呟いていたのだった。

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