第三章 蝉鳴村来訪
「小里ノート」を読み終えると、榊原は一息をついて新幹線の窓の外を見た。読んでいる間にいつの間にかかなりの距離を進んでいたらしく、外には静岡県特有の茶畑が広がっているのが見える。
「読み終わりましたか?」
そう言われて隣を見ると、亜由美が微笑みながら榊原の方を見ていた。
「あぁ、まぁね。君もこれは読んでいたね?」
亜由美は頷く。昨日説明した時点で、彼女も『葛原論文』と『小里ノート』には一通り目を通していたはずだった。
「はい。ついでに言えば、昨日この話を聞いてから、家のパソコンで事件の事は一通り調べてきました」
「行動が素早いね」
「これから関係する事件の事を全く知らずに榊原さんに同行するほど、私は無謀じゃありません。調べ物は好きですし」
亜由美はすました表情で言う。ある意味、秘書としては有能になるかもしれないと榊原は密かに思ったりした。
「それにしても、神社の巫女をめぐる対立か……。少し不謹慎だが、古き良き推理小説にでも出てきそうなシチュエーションだな」
「でも、このいじめが何か事件に関係しているんですか?」
「そうだね。確かにこの手のいじめは陰湿なものだが……だからと言って殺人事件にまで発展するようなものとも思えないのも事実だ。だが、少なくとも葛原はここに何かあると考えたんだろう。そして、このノートを送り返してきた人物も」
榊原はそう言うと、ノートを閉じてアタッシュケースの中に丁寧にしまった。
「いずれにせよ、現地に着いてからが問題だな。向こうに着いてからはおいそれと休んでもいられないだろうから、今のうちに心の準備をしておきなさい」
榊原はそのまま腕を組んで目を閉じてしまった。新幹線は、快調に西方面へと走り続けていた……。
それからしばらくして、二人は岐阜羽島駅のプラットホームに降り立った。岐阜羽島駅は愛知県の名古屋駅と滋賀県の米原駅の間に造られた駅であり、両隣にある名古屋や米原とは違って在来線が駅構内で直接接続していない。一応隣接して名鉄羽島線の新羽島駅があるので乗り換えそのものは可能であるものの、どちらかといえば新幹線専用というイメージが強い駅というのが亜由美の印象だった。一説によると、豪雪地帯である関ヶ原に新幹線の線路を通すにあたって除雪車の待機基地を設置できる駅が必要となり、諸々の議論の末に大垣や岐阜などの主要都市ではなくこんな場所に新幹線駅が設置される事になったそうである。
それはさておき、二人が改札を出て駅の外に出ると、すでに待ち人は駅前に車を止めて榊原たちを待ち構えていた。年齢は四十代前後。榊原とほぼ同年代で、見事にはやした口髭が特徴的な、何というか「ダンディ」という表現がふさわしい渋い表情の男である。そのミスター「ダンディ」は二人に気付くと、車を離れてゆっくりと榊原たちの方へと近づいてきた。
「失礼、榊原恵一さんですか?」
顔に似合ったよく通る渋い低音のテノール声で男は尋ねる。榊原が黙って頷くと、男は恭しく一礼した。
「お待ちしていました。私、岐阜県警刑事部捜査一課に所属しています柊長親と申します。階級は警部です。斎藤警部とはかつてある事件の捜査で知り合った仲でして、今回案内役を頼まれました。榊原さんの事は前々から彼に聞いていて、お会いするのを楽しみにしていました」
「それは恐縮です。ちなみに、彼は私の事をどんなふうに言っていましたか?」
榊原の問いに、柊は少し笑いながら答えた。
「警視庁伝説の刑事、正真正銘の名探偵……まぁ、そんな感じでしょうかね」
「……少し、帰りたくなってきました」
「まぁ、そう言われずに。今回の件、私どもも興味を持っています。ところでええっと、そちらのお嬢さんは?」
柊の問いに対し、亜由美は丁寧に頭を下げた。
「この度、榊原探偵事務所の秘書として採用されました宮下亜由美です。同行しても構わないという事でしたのでこうしてお邪魔しました。よろしくお願いします」
「はぁ、秘書ですか……」
ブレザー姿の彼女を見て、柊は訝しげにそう言った。これに対し、榊原はいささか面倒臭そうに説明する。
「彼女、先日高校を卒業したばかりでしてね。四月からは大学生なんですよ。同行できないというならそれはそれで考えますが……」
「いえ、構いませんよ。どうせなら人数は多い方がいい。では、立ち話もなんですので、どうぞ車に。続きは走りながらと致しましょう」
柊の案内で、二人は止めてあった車……警察車両ではなくどうやら柊の自家用車らしく、黒の乗用車だった……に乗り込んだ。榊原が助手席、亜由美が後部座席に座ると、柊は運転席に乗り込んで車を出発させた。
「蝉鳴村までは、このまま車で二~三時間程度と言ったところでしょうか。東海北陸自動車道に入った後、飛騨清見インターチェンジで下りて、そこから一般道でさらに一時間程度かかります。到着する頃には夕方になっていると思いますが、ご了承ください」
「覚悟はしていましたが、やはり相当な山の中ですね」
少し参ったような榊原の言葉に柊は苦笑しながらも丁寧に答える。
「本当は富山県の方から行く方が簡単なんですけど、さすがにそこまで遠回りさせるわけにもいきませんしね。まぁ、東海北陸自動車道が開通して移動も大分楽になりましたよ。位置的には高山市の西部、白川村から少し南に下った辺りになりますか。高山市の中心部は市の東部、つまり長野県寄りの場所にありますから、同じ高山市でも市の中心部からかなり距離があると思ってください」
「市の面積が香川県以上というのはやはり伊達ではありませんね。となると、やはり何日か泊まり込みという事になりますか。村に宿泊施設はあるんですか?」
「村には民宿が一件だけあります。基本的にお客はいないらしいので、飛び入りでも泊めてくれると思います。今日はひとまず、そこに行く事にしましょう」
「お仕事はよろしいのですか?」
「休暇を取っていますので大丈夫です。それに今回の一件は、うちの刑事部長も極秘に承認していますので問題ありません。もっとも、事件が起こっているわけでもないので、暇な刑事を一人休暇という形で有能な探偵さんの付き添いに回すくらいしかできないわけですが」
どうやら、すでに根回しは済んでいるらしい。
「岐阜県警も斎藤と同じ意見という事ですか?」
「正確には、岐阜県警のごく一部という表現が正しいです。涼宮事件は、岐阜県警内部では基本的にはタブー視されていますから」
「冤罪事件だったから、ですか?」
榊原は遠慮なく尋ねる。
「まぁ、平たく言えばそう言う事になりますね。現に涼宮事件担当だった当時の主任警部は、無罪判決が出たと同時に自主退職に追い込まれていますから」
榊原の頭に、葛原論文に出てきた刑事……猪熊亜佐男警部の名前が浮かぶ。が、それを顔に出す事なく榊原は話を続けた。
「柊さんは、涼宮事件に関係を?」
「いえ、当時私は同じ岐阜県内でも南の方にある多治見署の刑事課にいたもので。県警本部の刑事部に異動したのは三年ほど前の話ですね。さっき言ったこの件に興味を持っている『ごく一部』というのは、あの当時涼宮事件に関係なかった県警内部の人間、という意味ですよ。私に休暇をくれた刑事部長も事件後に他県警から異動してきた口でしてね。まぁ、そんなわけで涼宮事件とは一切しがらみがないからこそ、このお役目を拝命したともいえるのでしょう。もっとも、仕事のない暇人だからというのも理由かもしれませんが」
口ではそう言っているが、榊原は彼の物腰からこの刑事がそんな窓際にいるような人間でない事を敏感に感じ取っていた。大体、警視庁刑事部捜査一課第三係を率いる斎藤と一緒に仕事をした経験があるというからには、それなりに有能であるはずなのだ。おそらく、斎藤からの連絡を受けて今回の一件に何かあると彼自身も考え、無理を推して今回の依頼に関与しようとしているのだろう。だが、榊原はあえてそれを指摘する事もなく、そのまま相手の話に乗った。
「蝉鳴村に行った事はありますか?」
「いえ、先輩刑事から一通りの話を聞いただけです。ですので、村の人間も私が刑事だとは知らないはずです。その点はご安心ください」
「それを聞いて安心しました。さすがに刑事が一緒となれば、向こうも警戒しますのでね」
と、そうこうしているうちに車は一宮インターチェンジから東海北陸自動車道に乗った。柊は少し冗談めいた口調で言う。
「さて、しばらくは高速道路の快適なドライブを楽しんで頂ければと思います」
「では、お言葉に甘えて。少し考え事をしたいと思います」
榊原はそう言うと目を閉じ、そのまま本当に何事かを考え始めてしまったのだった。
高速に乗ってから二時間ほどして、車は高山市西部にある飛騨清見インターチェンジで降りた。ちなみにこのインターチェンジの先の道路は通行禁止になっているため、ここまで来た車はすべてこのインターチェンジで降りる事となる。
「本当はこのまま富山方面にまで接続するはずなんですけど、まだ白川村インターチェンジと飛騨清見インターチェンジの間の道路が接続されていないんですよ。全線開通は来年、つまり二〇〇八年の七月ごろになるくらいとされています。そうなったら、世界遺産である白川郷への観光客も増えるんでしょうが……それが果たしていい事なのかどうかは私にはわかりかねますね」
インターチェンジを降りながら、柊はそう解説した。この高速道路にもいろいろあるようである。榊原はポツリと呟いた。
「少なくとも、蝉鳴村に行きやすくなったというべきなんでしょうね」
「そうですね。八年前のあの事件の際はさっきの高速道路自体がなかったものですから、岐阜市にある県警本部から現地まで五時間~六時間程度はかかったらしいです。確か飛騨清見インターチェンジが開通したのは事件の一年後の二〇〇〇年だったはずですから。それに比べれば、随分行き来しやすくなったものですよ」
さて、高速を降りてしばらくは一般的な道を走っていた柊の車だったが、しばらくするとどこをどう走ったのかいつの間にか他の車が一台も走っていないような山道を走っており、そのままどんどんと山奥へと進んでいった。すでに日が暮れかけている事もあり、うっそうと茂った誰もいない森林を走る車から見える景色はなかなかに不気味である。
「いよいよそれらしい雰囲気になってきましたね、榊原さん」
「あまり縁起でもない事を言わないでくれるかね、亜由美ちゃん」
そんな事を話しているうちに、所々アスファルトで舗装されていない場所まで出てきた。その度に車がガタガタ揺れて、左側の崖に落ちそうになる。
「道の手入れがあまり行き届いていないようですね」
「聞いた話だと、県からの予算がなかなか下りないようですね。特に行政区分が高山市になって村役場や村議会が廃止されて以降はどうしても。過疎の村だとどうしてもそういう事が起こるんですよ。とはいえ、こんな道でも岐阜県側から村へ続く生命線です。先輩から聞いた話だと、朝と夕方の二回、この道を市営のバスが往復するんだとか」
「こんな道でバスとすれ違わない事を祈りますよ」
幸いバスとすれ違う事はなく、車は順調に走り続けた。やがてインターチェンジを降りてから一時間程度経った頃、道の先に一本の橋が見えてきて、その手前で車は不意に停車した。
「その橋の向こうが蝉鳴村です」
そこは一本の川の手前だった。橋の前は開けた広場になっており、その一角にさっき柊が言っていた市営バスのバス停らしきものが見える。この手の推理小説だとこういう場所にかかっている橋はすぐにでも落ちそうな吊り橋と相場が決まっているものだが、幸いと言うべきか何というべきか橋はコンクリート製のしっかりしたもので、洪水が起こってもそう簡単に流されそうにないものだった。橋のたもとには「この先蝉鳴村」という簡単な文字と、その横に草でおおわれた「歴史と文化の小村、蝉鳴村へようこそ!」という陳腐な文字が書かれた看板が立ててあった。
だが、その肝心の橋の入口はなぜか一本の鎖で封鎖されており、車がこの先に通れないようになっている。もっとも立入禁止というわけではないようで、やろうと思えば鎖は簡単に外せそうな上に、左右の歩道は封鎖されていないので車の進入だけを防いでいるという感じだ。その鎖には『関係者以外車両通行禁止』と書かれたプレートがぶら下っている。
「あれは?」
「読んで字のごとくですよ。蝉鳴村は外部からの車の進入を禁止しているんです。村に入れるのは基本的に村民の自家用車と、警察車両や工事車両みたいに必要があって村に入る車だけです。それ以外の人間はここに車を駐車して、徒歩で村に行く事になります」
「何でまたそんな面倒臭い事を?」
「村そのものが排他的であるという事と、外部の車が入って村の景観が崩れる事を嫌っているみたいですね。八年前の事件までは排他的要素をなくして観光化を目指そうという動きもあったみたいですけど、事件が起こって以降は興味本位で訪れる人間が相次いだことでますます排他的な傾向が強くなりました。この広場は、観光化が叫ばれていた頃に造られた物だそうです。そんなわけで、ここからは歩きになります」
そう言うと柊は一度車を動かし、広場の一角に停車させてエンジンを切った。榊原たちも車を降り、問題の橋の前に立つ。
「いよいよ、だな」
榊原はそう呟くと、ゆっくりと鎖を乗り越え、そのまま橋の対岸へ向かって歩き始めたのだった。
橋を渡ってしばらくは薄暗い山林が続いていたが、やがて山林が大きく開け、同時に明るい夕日の日差しが榊原たちの目に飛び込んできた。思わず顔をしかめて目を細めるが、そこには夕日に染まったのどかな田園地帯の風景が広がっていた。
「ここが……蝉鳴村」
それが、榊原が蝉鳴村を直接見た最初の瞬間だった。村の入口は村から見てやや小高い場所にあり、そこから村の全景を眺める事ができる。四方を山に囲まれた盆地にある小さな村らしく、その大半は田んぼだが、あちこちに古い木造造りの家がいくつか点在しているのが見える。一見すると、ここで八年前に凄惨な殺人事件が起こったとは到底思えないような、物凄くのどかな風景だった。
ただ、あえて言うならこの村全体を真っ赤に染めている夕日が、どことなく懐かしさを感じさせると同時に、他人をこの村に寄せ付けない何かを発しているようにも感じられた。思わずその場で立ち止まってその鮮やかな赤い色彩に目をやっていた榊原だったが、やがて意を決したように村へと続く下り坂を歩き始めた。亜由美と柊もその後に続く。
パッと見ると何とも異様な集団ではある。赤い夕日に照らされたのどかな田園地帯の田んぼ道を、スーツにアタッシュケースの男とブレザー姿の女子高生、さらに同じくスーツ姿のダンディな男が歩いているのである。あからさまに場違いであろうし、シュールな光景にも程があるが本人たちは一切気にしていない様子だ。
「さてと。とりあえず今日はその宿とやらに腰を落ち着けておきたいが……柊さん、宿の場所はどこですか?」
「先輩の話では、ここから五百メートルほど進んだ場所にある小さな民家だそうです。多分、行けばわかりますよ」
その言葉に従って、榊原はスーツを夕日に照らされながら田んぼ道を黙々と歩き続けた。人影はほとんど見られないが、それでも何人かの村人と途中ですれ違い、その度に胡散臭いというか警戒した視線を向けられた。
「やはりというか何というか、あまり歓迎されていない様子だな」
「まぁ、そうでしょうね。村人さんたちにしてみれば、私たちはわけのわからない侵入者でしょうから」
亜由美が冷静にコメントする。榊原は小さく首を振ると、そのまま先を急いだ。
やがて、しばらく行くと田んぼの真ん中に一件だけポツンと立った家が見えた。近づいてみるとその玄関に申し訳程度に「美作宿」という看板がかかっており、宿のすぐ横のスペースに停車している送迎車と思しき車の側面にも同じく「みまさか宿」とひらがなで書かれているのが見える。どうやらここが村で唯一の民宿らしい。亜由美はその看板を見ながら呟く。
「これって、『みまさか』と読むんですか?」
「だろうね。まぁ、とりあえず入ってみようじゃないか」
榊原はそう言うと、憶する様子もなく民宿の扉を開けて中に入る。中はロビーというより一般的な民家の玄関ともいうべき場所で、古き良き昭和の民宿を思い出させるような作りだった。ただ、身体障害者に対するバリアフリーのためなのか入口にスロープが設置されているのが印象的で、ここが宿泊施設であるという事を思い出させていた。
榊原は中に向かって声をかけようとしたが、その直前に奥から一人の初老の男が姿を見せた。どうやら、彼がこの民宿の主人らしい。が、突然予約もなしに現れた客に対し、どこか戸惑ったような表情を浮かべている。
「あのぉ、どちら様でございましょうか?」
当然の疑問に対し、榊原は小さく頭を下げて答えた。
「突然お邪魔して申し訳ありません。実は、仕事でこの村に寄ったのですが、数日程こちらに泊めて頂きたいと思いまして。ここ、民宿ですよね?」
「はぁ、そうですが……失礼ですがお名前は?」
男は訝しげに尋ねる。
「これは失礼。榊原恵一と申します。こっちは宮下亜由美ちゃんと、柊長親さんです」
「はぁ……しかし、一体どのような仕事でこんな片田舎まで?」
「まぁ、その話は後ほどと致しましょう。とりあえず、泊めて頂けるのかどうかだけでも教えて頂ければ嬉しいのですが。もしかして、すでに満室でしたか?」
「いえ、そういうわけでは。ここ数日、お客様は誰もいらっしゃりませんし、お泊めする事に異存はありません。ただ、何分うるさい村でございまして、よくわからない人間を泊めるわけにはいかないのです。せめて、ご宿泊の目的を教えて頂ければと」
温厚な口調ではあるが、何やら随分警戒されたものである。だが、榊原はあくまでも自分のペースだった。
「ですから、仕事です。内容は……まぁ、ちょっとした調べ物と言ったところでしょうか」
そう言うと、榊原はおもむろに名刺を一枚取り出して相手に渡した。そこには驚いた事に、堂々と『榊原探偵事務所所長 榊原恵一』とシンプルに書かれていた。それを見て、相手の顔色が厳しくなる。
「探偵、ですか?」
「東京で開業しています。ちょっとした依頼でしてね」
「……まさか、八年前の事件の事を調べに来たのですか?」
相手の険しい言葉に、亜由美は後ろから不安そうな表情で榊原を見ている。これだけ警戒されているところに馬鹿正直に『探偵』の文字が書かれた名刺を渡した榊原の考えが理解できなかった。だが、榊原は別に動じる様子もなく、それどころか苦笑気味にこう答えた。
「確かに八年前の事件の事は知っていますし、興味がないといえば嘘になりますが、残念ながら今回はそれとは別件です」
「別件って、あんた探偵なんじゃ……」
「あぁ、一応言っておきますが、推理小説と違って探偵というのは別に事件を解決する事だけが仕事じゃありませんよ。言ってみれば何でも屋のようなものでしてね。依頼さえあればどんなことだってするんです。今回もその口でしてね」
「は、はぁ?」
思わぬ反応に男は首を捻る。
「実は、この村にある神社……蝉鳴神社といいましたか、とにかくその神社の伝承について民族的・科学的に調べてほしいという依頼でしてね。いささか風変わりな依頼ではありますが、まぁ調べる事が私の仕事ですので引き受けたわけです。それで、私の知り合いの柊さんがこの村の事を知っているというので、案内役をお願いしてここを紹介してもらったというわけです。そんなわけで、しばらくここを拠点に蝉鳴神社にまつわる伝承について調べたいと考えているのですが……そんな理由では駄目でしょうか?」
「えーっと……はぁ、まぁ、それでしたら別に……」
当惑気味ではあったが、男は何とか首を縦に振ってくれた。
「そうですか、ありがとうございます。いや、断られたらどうしようかと思っていましたよ。こちらも仕事なので帰るわけにはいかなくて。それで、手続きはどうすれば?」
「あ、すみません……。それではこちらにご記名を」
何となく納得できない様子ではあったが、一度客と認めた事で何か割り切ったのか、素直に宿帳を差し出す。榊原はその宿帳に三人の名前を記名した。
「とりあえず一週間ほど泊まりたいと思っています。その後は伝承の調査次第で宿泊を延長するかどうか決めさせてもらいましょう。それで構いませんか?」
「はぁ、結構です。あ、申し遅れました。私、この宿の主人の美作頼元と申します」
そう言って男……美作は頭を下げた。
「すみません、少し部屋の準備をしてきますので、そちらの客間でお待ちください。とりあえず上がって頂ければ……」
「では、失礼します」
そう言って榊原たちは靴を脱いで上がると、玄関脇にある部屋に通された。そこは民宿のラウンジともいうべき場所で、部屋の中にはいくつかの椅子や申し訳程度のテレビが備え付けられていた。部屋の横には縁側があって、そこからこの家の小さな庭が見られるようになっている。また、部屋の隅には本棚もあって『ご自由にお読みください』と案内されていたが、そこにある本の大半がなぜか横溝正史の金田一耕助シリーズばかりであり、何ともコメントに困るラインナップに亜由美は中途半端な表情をするしかなかった。もしかしたら美作の趣味なのかもしれない。
三人を通すと美作はそのまま一礼し、部屋の準備をするために二階に上がっていった。後には三人だけが残される。
「びっくりしました、榊原さん。いきなり自分の正体を言うなんて……」
亜由美の言葉に対し、榊原は縁側から庭の方を眺めながらこう答えた。
「今回は正体を隠すのは得策ではないと考えたまでだ。こんな閉鎖的な村では、下手に正体を隠すと、いざばれたときの反動が怖い。それだけで何かよからぬ事を考えていると敵視されてしまう可能性も捨てきれないからね。特にこの村は八年前の事件で興味本位に村にやってくる人間も多かったはずだ。だからこそ、正体を隠して後で探偵とばれた時の反動は他の場所以上のものがあるだろう。そのくらいはここに来る前から予想できたから、探偵であること自体は最初からばらした上であくまで事件の事を調べに来たわけではないと強調しておいた方が、少なくとも村の人間を敵に回すリスクを避けられると考えたわけでね」
「そうか……最初から正直に言っているからこそ、村人は榊原さんに対して拒絶的な対応を取る事ができないんですね」
「あぁ。正直という事は不利になる事もあるが、状況いかんでは立派な武器にもなるという事だ」
「でも、あの人あの滞在理由を信じているんでしょうか? どこか納得できないような顔をしていましたけど」
亜由美のこの問いに対しては、榊原も苦笑気味に言った。
「いや、心の底ではそこまで楽観的に考えてはいないだろう。だが、自分の事を素直に探偵だと正直に暴露した人間が言っている事を頭ごなしに否定する事は心理的に出来ない。心の底では疑っているだろうが、こっちがその手の行動をとらない限りあえて糾弾してくる事はないはずだ。もちろん、彼が我々を認めてここに宿泊をさせている以上、他の村の人間もあからさまに我々を拒絶する事はないと思う」
「……心理戦はもう始まっているって事ですね」
亜由美の言葉に、榊原は頷いた。その後ろで、柊が感心したような顔をしている。
「いやぁ、斎藤さんからある程度の事は聞いていましたが、さすがですね」
「いえ、まだようやくスタートラインに立ったところですから。本番はむしろここからです」
榊原は顔を引き締める。斎藤はこの村で何かが起こるかもしれないと危惧し、それは榊原も同じようなものを感じ取っていた。榊原の仕事は、この後蝉鳴村で起こるかもしれない葛原の負の遺産に対する決着をつける事……具体的には、あの小里ノートを拘置所に送り返してきた何者かを突き止め、何かが起こる、若しくは起こった際にそれに対処する事である。幸い、まだ村では何も起こっていないようではあるが……可能ならば、何かが起こる前に何とかしてしまいたいものである。
「葛原……お前は一体この村に何を仕込んだんだ?」
榊原は誰も聞こえない声で、思わずそう呟いていたのであった。
それから十五分ほどして、戻ってきた美作によって三人は部屋に通された。もちろん男女別で、榊原と柊で一部屋、亜由美で一部屋である。部屋自体は和室で入口も扉ではなく障子だった。小さな民宿らしくそれほど大きいとは言えなかったが、窓から見える景色もきれいで悪くはない部屋である。
「朝食と夕食については部屋にお持ちいたします。今日の夕食は七時半頃で構いませんか?」
「それで結構です」
「わかりました。ところで、明日はどのようなご予定でしょうか?」
美作の問いに、榊原は少し考えるとこう答えた。
「そうですね。九時頃にここを出て早速神社に行ってみたいと思っています。この村の地図のようなものはありますか?」
「ございます。明日の朝にでもお渡ししましょう」
「助かります」
「では、明日の朝食は朝の八時頃にお持ちします。それでは夕食までごゆっくりおくつろぎください」
そう言って、美作は下がっていった。どうやら、ここは彼一人で切り盛りしているらしい。部屋には榊原と柊だけが残される。
「さて、これからどうしましょうか?」
「すでに日も暮れかけていますし、今日はこの場から動くのは得策ではないでしょう。村の地理も何もわかっていませんし、下手に動くとあの美作という主人に怪しまれるだけですから。おとなしく明日の方針を確認しておくのが最善だと思います」
榊原はそう言うとアタッシュケースを部屋の隅に下ろして窓から外を見やった。すでに日は山の向こうに沈み、村全体を闇が覆い尽くそうとしている。街灯などもほとんど見えないので、夜になると本当の意味での暗闇に包まれるのだろう。その光景は東京在住の榊原にとってはあまり見慣れない物だが、今まで何度かこの手の田舎で発生した事件に関与した事はあったので、今さら新鮮さは感じられないのも事実であった。
「とはいえ、慣れる事がないのも事実だが」
榊原は小さくそう呟くと、改めて部屋の中央にある机の座布団に座って備え付けのお茶を入れた。反対側に柊も座る。と、ちょうどそのとき障子の向こうから声がかけられた。
「あの、榊原さん、入ってもいいですか?」
「あぁ、亜由美ちゃんか。どうぞ」
障子が開き、隣部屋に通されていた亜由美が部屋に入ってきた。彼女も座布団に腰かけ、ようやく三人は一息をつく。
「それで、明日からどうするんですか? さっきはああ言っていましたけど、やっぱり八年前の事件の事を調べるんですか?」
亜由美が尋ねる。だが、榊原は首を振った。
「いや、とりあえずは村人を刺激しないために、最初のうちはさっきも言った伝承調査という名目で村を歩き回ってみようと思う。とにかく、まずはこの村の事についてどんなことでも知っておきたい。必要があれば事件の事も調べるが……それはあくまでその必要があればの話だ。そもそも、斎藤から受けた依頼はこれから起こるであろう何かに対する対処であって、八年前の事件を解決する事ではない。その点で私はここの主人に嘘を言ったつもりはないよ」
それに、と榊原は続けた。
「私自身、あの論文に書かれていた伝承についてまったく興味がないわけでもないしね」
「はぁ」
亜由美としてはそうコメントする他ない。
「ひとまずは人間関係の把握だな。それと四年前……二〇〇三年に葛原がこの村に来た時の様子だ。具体的には調査の過程で誰に会ってどんな話をしたのか。それがわかればあのノートの送り主にたどり着く手掛かりになる」
「宿泊施設がここしかない以上、葛原もこの宿に泊まっていたのではないでしょうか? だとするなら、あの宿の主人が何かを知っているかも」
柊の言葉に、榊原は頷いた。
「その可能性は高いと思います。とはいえ、あの警戒感では聞き出すのは少々骨でしょう。まぁ、やり方次第ですね。あとは、葛原論文や小里ノートに登場していた人物たちが調査の主軸になってくると思います。奴が調べたとするなら、おそらくそうした人々にもコンタクトを取っているはずですから。とりあえずはさっきも言ったように、神社の調査を名目に彼らにも接触してみようと思います」
そんな事を話しているうちに、やがて時刻は七時半になった。同時に、階段を昇ってくる音がして、やがて障子が開いて夕食の乗った盆を持った美作が姿を見せる。
「夕食でございます。三人御一緒でよろしかったでしょうか?」
「えぇ、お願いします」
その言葉に、美作は一礼して部屋に入ると、机の上に夕食を並べていく。メニューは山菜などを使った田舎風の質素なものだったが、なかなかにおいしそうな臭いを醸し出している。その様子を見ながら、榊原は何気ない様子で話しかけた。
「おいしそうな料理ですね。これはご主人が?」
「そうです。お口に合えばいいのですが」
「この民宿はあなたお一人で経営されているんですか?」
「はぁ、家内は十年ほど前に事故で亡くなりまして。それ以降、こうして一人でこの宿をやりくりしています。まぁ、客は滅多にいませんから、こうして一人でも充分にやっていけるんですがね」
そう言うと、美作は入口まで戻って一礼する。
「食事が終わった後は、食器類は廊下に出して頂ければこちらで片づけさせてもらいます。浴場は一階の廊下の突き当りにありますので、御入浴は午後八時から午後十一時までの間に済ませてください。何分狭い民宿の浴場でございますのでお一人ずつのご利用となりますが、よろしくお願いします。それでは、私はこれで」
そのまま美作は障子を閉めてそのまま下に下りて行った。
「口数の少ない主人だな。それとも、意図的に最低限の事しか話さないようにしているのか……。まぁ、いい。とりあえずせっかく用意してくれた食事を食べる事にしようか。腹が減っては戦も出来ぬともいうし」
榊原の言葉を合図に、全員が箸を手に取って出された食事に手を付けた。何だかんだ言いながら、長時間の移動で三人ともお腹が減っていたのである。味については見た目通りなかなかのもので、美作の料理の腕がかなりのものである事を認めざるを得なかった。
「いけますね」
「あぁ……これはちょっとやそっとで身につく技術じゃないな。どこかで料理の勉強でもしていたのかな?」
亜由美の言葉に榊原はそんな感想を漏らす。食事が終わって言われた通りに食器類を盆に乗せて廊下に出したときには、時刻はすでに八時になろうとしていた。
「さて、時間もないし、言われた通りお風呂に行った方がよさそうですね。亜由美ちゃん、君から行くかね?」
「では、お言葉に甘えて」
亜由美はそう言うと、一度自分の部屋に帰っていった。
「ひとまず、今日はこれでミーティングも終わる事にしましょう。明日から忙しくなります。今日のうちに休んでおくのが得策です」
「それが一番でしょうね。では、私は少しラウンジで一服してきます。この部屋はどうも禁煙らしいので」
柊はそう言うと、バツが悪そうな表情でポケットから煙草を取り出して部屋を出て行った。一人残された榊原はしばらく窓から何の気もなしに外を眺めていたが、やがて美作が盆を下げに部屋の前に現れた。
「失礼します。お布団の方を敷かせて頂きたいのですが?」
「あぁ、すみませんね。お食事、おいしかったです」
「お口に合ったのなら幸いです」
「あれだけの味を出すにはかなりの修練が必要でしょう。どこかで料理の勉強をされていたのですか?」
「えぇ、まぁ。昔は岐阜市内のホテルで日本料理のシェフをしていましたので」
美作は布団を敷きながら自慢する風でもなくそう言う。
「そうだったんですか」
「もっとも、妻を亡くした時にこれ以上仕事を続ける気が起こらなくなって、こうして生まれ故郷に引っ込んで民宿を始めたわけです。世の中何がどうなるかわからないものですよ。それを言うなら探偵さん、あなたはどうして探偵などという職業を選ばれたのですか?」
「私ですか? まぁ、色々とありましてね」
榊原は窓際に立って彼が布団を敷く作業を見ながらそう苦笑気味に答えた。
「しかし、こう言っては何ですが、こんな村では民宿だけでは生活していけないんじゃないですか? お客もそういるとは思えませんし……」
「はっきり仰いますね。確かにそうですが、元々ここは副業のようなものでして、本業は農業や林業で生計を立てています。他の村人も似たり寄ったりですかね」
「そうなんですか」
「……本当は、以前はもっと観光面でこの村を発展させようという意見もあったんです。私が民宿を始めたのも、それを見越しての事でした。でも、あの八年前の事件のせいで何もかもが台無しになってしまいました。まったく……この村は何か呪われているんですかね」
そう言うと、美作は真剣な表情で榊原を見つめた。
「探偵さん。あなたが本当に神社の事だけを調べるというのなら別に文句はありません。でも、もし何かの間違いであの事件に興味を持ったとしても、そう簡単に首を突っ込まない方がいい。私はこうして外部の人間と付き合う仕事ですので、まだこの村では中立的立場ですが、村にはそうした事に反感を持つ人間もいます」
「それは……警告ですか?」
「忠告です。仮にも久しぶりのお客さんであるあなたが村を追い出されるところなど、見たくはありませんから」
そう言って、美作は不意に顔を背けた。
「出過ぎた事を申しました。失礼します」
そのまま布団を敷き終え、美作は部屋を出ていく。榊原はその姿を、真剣な表情で黙って見つめているだけだった。




