第二章 小里ノート
論文を読み終えると、榊原はゆっくりと顔を上げた。丁寧に読んでいたためかすでに読み始めてからかなりの時間が経過しており、窓の外から夕陽が差し込みつつある。そんな中、斎藤は黙って榊原の読了を待っていたようだった。
「どうでしたか?」
「……興味深い内容ではある。未解決事件についての研究だから結論が出ないまま終わっている部分も多くはなっているが、一応、論理や推論にも目立った破綻は見られないし、妥当性のある論文だ。奴の論文でなかったら、素直に称賛できただろう」
榊原はそのようなコメントをして論文を机の上に置くと、ジッと斎藤を睨んだ。
「さて……今度こそ本題に入ってくれないか? まさか、私にこの論文を読んでほしいだけがために刑事のお前がわざわざここに来たわけでもないだろう。確かによくできた論文だが、だからと言って今さらこの事件に何か進展があるというわけでもなさそうだ。一体どういう事情があって、わざわざこの論文を引っ張り出して私に見せるような話になったんだ?」
榊原の当然の問いに、斎藤はしばらく黙っていたが、やがてこんな事を告げた。
「その質問に答える前に、実はもう一つ、榊原さんに見て頂きたい物があります」
そう言いながら、斎藤は鞄からおもむろに別の封筒を取り出し、論文と並べるようにして机の上に置いた。榊原は訝しげな表情を浮かべる。
「それは?」
「先日……具体的には葛原光明の死刑執行の三日後に、突然、葛原光明宛で東京拘置所に送られてきたものです。奴は天涯孤独で、死刑執行に伴い残された奴の遺品は本人の遺言に従って適宜処理される事になったのですが、そんな中でこれが送り付けられてきて、拘置所側は内容を確認した上で即座に警察に届け出ました。理由は、その封筒の中身がかなり問題のあるものだったからです」
「問題?」
「どうぞ、ご覧ください。すでに一通りの検査は済ませてありますので、指紋は気にしなくて結構です」
そう言われて、榊原は封筒の中身を確認する。そこには一冊の古びたノートが入っていた。一見するとどこにでもあるような大学ノートだ。だが、その表紙を目にした瞬間、榊原の顔色が変わった。そこに見知った名前が書かれていたからである。
『取材ノートNo19 小里利勝』
それは、榊原にとって忘れられない名前……あのイキノコリ事件において葛原の手にかかりながらも村からの脱出に成功し、最後は捜査陣営に葛原の犯行を立証する決定的な証拠を託して死んでいった男の名前だった。イキノコリ事件の被害者の一人として榊原はその名前を知っていたし、何より病院の遺体安置室で眠る彼の姿を直接見ていた。葛原によって片腕を切断された遺体の生々しさと、それに相反して安らかそうだった顔を榊原は今でも覚えている。
「小里利勝……まさかあの男の名前がこんなところで出てくるとは」
「えぇ。今から三年前、当の葛原光明によってあの旧白神村で殺害されたフリーライター。このノートは、その小里利勝のなくなっていたはずの取材ノートなんですよ」
「何でそんなものが拘置所に? それに『なくなっていた』というのは?」
榊原の問いに、斎藤は丁寧に答えた。
「事件後の捜査で、現場の旧白神村内にあったイキノコリ事件の被害者たちの遺品はすべて回収され、遺族に返却されました。ところが、小里の遺族からは、彼がいつも持っていた取材ノートがなくなっているという報告があったんです。常に肌身離さず持っていたもので、あの日も間違いなく持っていたと遺族は証言しています。ノートが入っていたという小里の鞄は村内の被害者たちが拠点にしていた場所から見つかったのですが、ノート自体はどこからも見つからず、当時の捜査員は事件のどさくさで紛失したのではないかと判断していました」
「それがこんなところにあるという事は、小里が殺害された後に、葛原がこのノートを現場から持ち去ったという事か?」
「私も同じ考えです。状況的にこれを現場から持ち去れるのは、あの村で最後まで生き残った奴以外にあり得ませんから。それで、その取材ノートの最後の項目を見てください」
言われるがまま榊原はノートを開ける。が、それを見て榊原は何が問題なのかを一瞬で悟った。最後の取材項目。その題名は以下のようなものだった。
『蝉鳴村事件取材記録~涼宮事件の謎を追って』
榊原は思わず顔を上げ、斎藤は重々しく頷いた。
「ご覧の通りです。事件の直前、小里利勝もこの涼宮事件の事を調べていたんです。あのイキノコリ事件において、奇しくも被害者と加害者の双方がはるか遠くで何年も前に起こっていた同じ殺人事件を調べていたという事になります」
事件から三年、当事者双方が死んだ今になって明らかにされた新事実だった。
「となると、奴がこのノートを持ち去ったのは……」
「多分、殺害後に被害者の荷物を調べたんでしょう。そこで奴は、小里が自身と同じ事件を調べている事、そして、そこにかつて自分が論文を執筆した際にはなかった情報が書かれている事を知った。奴は猟奇大量殺人犯ではありますが馬鹿ではない。かつては犯罪学に関する論文を執筆し、その犯罪学理論を踏まえてあれだけの犯罪を実行した歪んだインテリです。その葛原が、殺人の渦中とはいえそんなかつて全身全霊をかけて調べた事件の新情報を見つけたとなれば……」
「持ち帰っても不思議ではないか。持ち主は自身が殺してしまっているから、誰も文句は言わないだろうしな」
榊原はそう呟いてから、不意に表情を険しくして疑問を述べる。
「問題は、あの事件の際に葛原が小里氏の持ち物から奪ったはずのこのノートが、なぜ今になって送り付けられてきたのかという点。そして、こんなものを東京拘置所に送りつけてきたのは果たしてどこの誰なのかという点だ。これについては何かわかっているのか?」
その問いに対し、斎藤は難しい顔でこう答えた。
「書かれていたのは東京拘置所の住所と宛名の『葛原光明様』という名前だけで、しかもそれらの文字も筆跡を隠すためなのかパソコンで書かれている状態でした。それ以外の差出人の名前や住所は書かれていませんでしたが、消印を見ればいつ、どこの郵便局から配達されたのかはわかります。ただ……その郵便局が問題でして」
斎藤の言葉に、榊原は改めて封筒の消印を見やった。すると、その日付は葛原が死刑執行されたその翌日となっていた。つまり、葛原の死刑執行後に東京拘置所にこのノートを送り付けた何者かがいるのである。
だが、問題はそれだけではなかった。消印には斎藤の言うように発送場所の郵便局の名前が書かれているのであるが、その場所が問題だったのである。
『高山西郵便局』
「高山というのは、まさか……」
「岐阜県高山市。葛原と小里、二人が調べていた蝉鳴村が現在行政区分上所属している自治体です。そしてこの高山西郵便局の収集担当区域には、問題の蝉鳴村にいくつかあるポストも含まれています」
それは、イキノコリ事件で葛原が奪ったはずのノートが、なぜか問題の蝉鳴村のある岐阜県高山市から葛原の元へ送られた事を示すのに他ならなかった。
「一体、何がどうなっているんだ?」
「先程も言ったように、状況から考えて小里利勝が肌身離さず持ち歩いていたというこのノートをあの村から持ち出したのは、犯人である葛原光明以外考えられません。しかし三年前、榊原さんがこの事務所でイキノコリ事件を解決して葛原が逮捕された直後、我々警察は当然奴の家宅捜索を実施しましたが、こんなノートはどこからも発見されていません。もちろん自宅以外にも奴が立ち寄っていそうなところはすべて捜索しましたが、それでもノートは見つからなかったんです。つまり、逮捕された時点でこのノートはすでに奴の手元に存在しなかった事になります」
「……私の記憶では、イキノコリ事件が発覚してから私が依頼を受け、奴をこの事務所で陥落させるまでの間に約一週間前後の時間がかかっている。つまり、この一週間の間に奴にはノートをどこかへ処分する時間が存在したという事だ。そして、そのノートが今回高山市から送り返されたという事は……」
「奴が問題の一週間の間に、このノートを高山市在住の誰かに……もっと言えば、問題の涼宮事件の関係者に郵送した可能性が出てきます」
斎藤は断言した。その言葉に、榊原もこれがただ事ではない事を悟ったようだ。
「しかし、奴にノートを託せるような人間がいるのか? 奴は天涯孤独で、当時はイキノコリ事件の際に協力関係にあった柴井達弘ぐらいしか付き合いはなかったはずだ。その柴井もイキノコリ事件で命を落としている」
「それなんですがね、先程の葛原論文を読んでもらえればわかるように、奴はこの涼宮事件に対して異常ともいえる執着を持っていました。そして、論文中にもあったように、奴は論文取材のために実際に蝉鳴村を訪れた事があるんです。そして、奴はその時に蝉鳴村にいる涼宮事件の関係者と接触を持っていた可能性があります」
榊原の顔がますます厳しくなった。
「確かに、そんな事が書いてあったな」
「時期は奴がイキノコリ事件を引き起こす一年前……つまり涼宮事件が発生してから四年後の二〇〇三年の七月二十三日でした。徹底した取材を行うためにあえて事件が発生したのと同じ日に行ったようです。奴は大学と大学院でそれぞれ単位不足の関係から一浪ずつしているので、二十六歳の時、つまり二〇〇三年度……より正確には二〇〇四年の三月に大学院を修了しています。また、最高裁が加藤柳太郎に対する無罪判決を出し、加藤氏が村人への訴訟を提起したのも二〇〇三年でした」
「論文によれば最高裁で加藤氏に対する無罪判決が下されたのは二〇〇三年の五月十五日。つまり、無罪確定直後でちょうど事件がハイライトを迎えているときに村に行ったわけか。さぞかし村人の視線は厳しいものだっただろうな」
「逆に言えば、奴が高山市の誰かにノートを送ったとなれば、その取材の際に接触した蝉鳴村の関係者の誰かしかありえません。それが誰なのかは不明ですが……問題は、葛原がその涼宮事件の関係者に涼宮事件に関する新たな情報が書かれたノートを送り、その相手がこのノートを確実に読んでいる事。そして葛原の死刑が執行された今になってその相手がこのノートを送り返してきたという事実です」
そこで斎藤は何とも言えない険しい表情で告げた。
「正直に申し上げますが、今回のこの件に関して私は何か嫌な予感がするんです。何というか、今まで押さえつけられていたもののタガが葛原の死で外れてしまったというか、葛原が死んだ今になって何か恐ろしい事が起こるかもしれないというか。この送り返されてきたノートが、その前兆のように思えてならないのです」
「しかし、現段階で事件が起こっていない以上、警察が表立って動くわけにはいかない。だから、私に依頼をするという事か」
榊原の問いに、斎藤は頭を下げた。
「これは警察としてではなく個人的な依頼になります。もしかしたら私の杞憂なのかもしれません。ただ、この送り返されてきたノートに何かどす黒い悪意……今までの事件で感じた事のない、もしかしたら葛原以上の狂気のようなものを感じるのも事実なんです。そして葛原が処刑された今、それはおそらく、もう一刻の猶予もない」
そして、斎藤はここへ来て依頼の核心を告げた。
「私からの依頼はこうです。榊原さん、すべての謎の根幹……蝉鳴村に行ってもらえませんか? そして、そこで何が起こるのかを見極め、可能であるならば葛原が残したこの悪意の遺産に決着をつけてほしいのです。抽象的な依頼で申し訳ありませんが、何とかお願いできませんか?」
頭を下げる斎藤に対し、榊原はしばらくの間黙って考え込むしかなかったのだった。
斎藤が帰った後、榊原はしばらくデスクの椅子に座って考え込んでいた。問題の『葛原論文』と『小里ノート』は、調査の足しにという事で斎藤が置いて帰っている。その二冊の記録を前に、榊原は難しい表情で何かを考えていた。
依頼はとりあえず保留とし、明日の朝一番に返事を返すという事でとりあえずは決着した。すぐに受けなかったのは、斎藤同様、榊原も今回の依頼が何か異様な雰囲気を持っていると感じたからである。今はまだ何も起こっていないが、おそらく何が起ころうとこの依頼は普段受けているような依頼とは明らかに次元が違う事が起こる事が想定された。それを阻止できるかと言われれば、榊原としても難しいと言わざるを得ない。とはいえ、このまま放っておくわけにもいかないのも確かだった。
そんな事を考えながらしきりに悩んでいると、不意に部屋のドアが再びノックされた。斎藤が帰って来たのかと少し不思議に思いながら声をかけると、入ってきたのは予想外の人物だった。
「君は……」
「お邪魔でしたか?」
そう言って微笑んだのは、この場に場違いな一人の少女だった。年齢は十代後半。上野にある某私立高校のブレザーを着ているが、彼女がすでに二月の時点で来月から通う事になる大学の合格を決めている事を榊原は知っていた。榊原はその少女に話しかける。
「いや、邪魔ではないが……今日は随分たくさんの荷物だね。何かあったのかね、亜由美さん」
「何かも何も、今日が学校の卒業式です。式に帰りにそのまま寄らせてもらいました。一刻も早く、先日の件を決めてしまいたくて」
「先日の件というと……何だったかな?」
「もう忘れたんですか? それともとぼけているんですか?」
少女……宮下亜由美は苦笑気味にそう言うと、鞄から一枚の紙を取り出した。そこには『雇用契約書』の文字が書かれている。
「卒業と同時に受け取ってもらうという約束でした。そんなわけで、お願いできますか?」
それで榊原は彼女の「用件」を思い出した。
「あぁ、そう言えばそんな話をしていたね。郵送で送ってくれればよかったんだが」
「直接持ってきた方が早いと思いまして」
亜由美は相変わらず笑みを浮かべながら答えた。
この宮下亜由美という少女と榊原が初めて出会ったのは、今からちょうど一年ほど前だったと記憶している。彼女は鎌倉の実家を出て上野のアパートに住んでいるのだが、そこである事件が起きて、彼女からの依頼を受けた榊原がそれを解決したのである。なんでも、彼女の隣人がかつて榊原に事件を解決してもらった事があり、その紹介でわざわざやって来たらしいのだが、とにかくそれ以来彼女は依頼料を支払うためにちょくちょく事務所にやって来るようになった。そして、無事入試に合格していよいよ大学生というこの時期に、『もう大学生になるのだし、いっそ卒業と同時にこのまま事務員としてこのまま雇ってもらえないか?』と申し出てきたのである。
実のところ、榊原としても今まで解決して来た事件の資料が増え続けているため事務処理や雑務一般を一人でこなすのが限界になりつつあり、その処理のために一人くらい事務員を雇った方がいいのかもしれないと思っていた矢先の出来事だったので、知った仲である彼女のこの申し出は渡りに船と言った感じだった。そんなわけで両者の思惑が一致した事からこの交渉は比較的スムーズに進み、卒業式が終わり次第、彼女をアルバイトの秘書として採用する事が決まっていたのである。
榊原は出された書類を確認しながら頷いた。
「……いいだろう。じゃあ、かねてからの約束通り、これで雇用成立だ。今後ともよろしく頼むよ」
「ありがとうございます。それで、具体的にはどんな仕事をしたらいいんですか?」
「そうだね、とりあえずこの部屋にある事件ファイルの整理だな。かなりゴチャゴチャしているものでね。後は事務一般と依頼人への受付対応、それに事務所の留守業務と言ったところか」
「なかなかやりがいがありそうですね。頑張ります」
亜由美はそう言ってから、そこで初めてデスクの上にあった二つの文書に気付いた。
「それはそうと、何か依頼があったんですか?」
「まぁ、そうだ。もしかしたら、少しの間事務所を離れる事になるかもしれない」
「そうなんですか」
そう言って何気にそれらを見ていた亜由美だったが、不意にその表情が怪訝なものになった。
「あれ、これって……依頼って、蝉鳴村の何かなんですか?」
その思わぬ言葉に、榊原は顔を上げた。
「知っているのかね?」
「えぇ、まぁ。私の高校の友達に高山出身の子がいて、その子から色々と話を聞いた事があるんですけど、その中にその蝉鳴村の話があったんです。高山市は二〇〇五年に大合併をして日本最大の面積の自治体になりましたから、色んな地方の面白い話が多いらしいんですけど、その蝉鳴村の話は随分印象的だったから少し覚えていて……」
「確か、面積的には香川県や大阪府よりも大きいという話は聞いた事があるが……それで、その話というのは?」
てっきり例の内ヶ島氏に関する伝説かと思ったのだが、亜由美が話したのは全く別の話だった。
「その子のひいお爺さん、戦時中は陸軍大尉だったそうですけど、当時は同じ岐阜県の大垣市に在住で、戦時中は高山にあった部隊基地に配属されていたそうです。蝉鳴村はその部隊基地のすぐ近くにあって、よく行った事があるんだとか」
「高山の部隊基地って……あんなところに帝国陸軍の基地があったのか?」
榊原の素朴な疑問に、亜由美は少し真剣な表情でこう言った。
「それが……その人が配属されていたのは米軍の捕虜収容所だったらしいんです。国内で墜落した米軍機とかから捕縛された米兵を収監していた施設らしくて。もちろん、終戦と同時に閉鎖されたみたいですけど」
「米軍捕虜収容所、だと?」
そんなものが蝉鳴村の近くにあったという話は初耳である。榊原が考え込んでいると、亜由美はこう言葉を続けた。
「あの、もしかして出張というのは、この蝉鳴村ですか?」
「そういう事になる。少々厄介な依頼を引き受けてね。亜由美さん、君は今から八年前にこの村で起こった事件は知っているかね?」
「いえ、知りません。何か事件があったんですか?」
亜由美がキョトンとした様子で聞く。もっとも、犯罪に興味のない人間が知らなかったとしても無理はない話だ。
「そうか……まぁ、知らないならそれでいいんだがね」
「はぁ。ところで、それはそれとして、いつまでも他人行儀に『亜由美さん』呼ばわりはご遠慮したいんですけど」
「では、何と呼ぶべきかね?」
「『亜由美ちゃん』でどうでしょうか?」
「……善処はしておくが、君はそれでいいのかね?」
やや呆れたような口調の榊原に、亜由美は黙ったまま微笑みで答えた。
「まぁ、いいだろう。好きにするさ」
「ありがとうございます。それで、ありがとうついでにもう一つお願いがあるんですけど……」
「何だね?」
それに対して亜由美が告げた「お願い」に対し、今度こそ榊原は一際眉をひそめる事になったのである。
翌日、すなわち三月七日水曜日。品川駅の新幹線ホームに二人の人物が姿を現した。一人は相変わらずヨレヨレのスーツに黒のアタッシュケースをぶら下げた榊原恵一。そしてもう一人は、昨日同様に高校のブレザーを着た宮下亜由美だった。
「……その『お願い』とやらが『自分を一緒に蝉鳴村へ連れていけ』というのは、さすがの私も予想はできなかったな」
「そう言いながらも、『お願い』を聞いて頂いてありがとうございます」
亜由美はそう言って頭を下げた。
「しかし、何度も言うように、今回の依頼は何となく嫌な予感がする。ある程度の覚悟はしてもらうが、いいのかね?」
「雇ってもらった以上、一度くらいは榊原さんがどんな仕事をしているのかこの目で知っておきたいと思ったんです。それに、友達が色々と話していた蝉鳴村がどんなところなのか、一度見てみたいと思っていましたし」
「御両親は心配されていないのかね?」
「……私の親は、私の事にはあまり興味がないので、気にしてもらわないで結構です」
何やら訳ありのようである。榊原もそれ以上は聞かなかった。
「それより、何でブレザー姿なんだね。一応君はもう高校を卒業した後のはずだろう」
「だからこそです。これを着る機会なんて、もうこの三月中しかないと思って」
「まぁ、君がいいなら私は何も言わないが……」
と、やがてホームに新幹線が滑り込んでくる。二人はそれに乗り込むと、指定席に座ってとりあえず一息ついた。
結局、榊原は依頼を受諾する事にし、今朝の時点で斎藤にその旨を伝えておいた。今日にでも現地入りすると言うと、斎藤はかつて知り合った事がある岐阜県警の刑事に案内を頼んでおくと言ってきた。彼自身、榊原が受けるだろうという事を見越していたらしい。何かあったらすぐに自分も現地に飛ぶという事だったが、そんな事がない事を祈るばかりである。
なお、一連の依頼内容やイキノコリ事件の事、それに蝉鳴村で起こった涼宮事件の事はすでに亜由美にはある程度説明してある。そもそもは今回の依頼がいかに危ないものかを亜由美に認識してもらうための説明だったのだが、亜由美は特に動じた様子も見せず落ち着いたままで、何だかんだで同行を許可する事になってしまっている。
「あの説明を聞いてなお同行したいという女子高生がいるとは思わなかった。普通は顔を青ざめさせるくらいの事はするんじゃないか?」
「繊細な人間が榊原さんの事務所に雇ってもらおうなんて思わないと思いますけど」
「どういう意味だね、それは」
「言葉のままです」
そうこうしているうちに新幹線は出発した。このまま岐阜羽島駅まで行き、そこからは斎藤の言っていた岐阜県警の刑事が案内してくれることになっている。
その行程を確認すると、榊原はアタッシュケースから一冊のノート……『小里ノート』を取り出した。
「こんなところで取り出して、どうするつもりですか?」
「到着まで時間もあるし、とりあえずもう一度読んでみようかと思ってね。今回の依頼はすべてがこのノートから始まっている事だし、何度読んでおいても損はないだろう」
榊原はそう言うと、少し呆れたような亜由美を尻目に、そのままノートを開いて再び最後の項目を読み始めたのだった。




