『葛原論文』 事件の考察~3
3 動機について
そもそも殺人事件が発生するような動機は、当然ながら基本的に事件ごとに千差万別ではあるものの、ある程度まではいくつかの体系に分類できると考える。その体系とは、例えば「物取り」「怨恨」「痴情」「喧嘩・抗争」「犠牲」「同情」「嘱託」「迷信・妄想」などの基本的なもの(この分類は長谷川公之著『犯罪捜査大百科(映人社)』p76~78より引用)に、政治目的に一般市民を狙う無差別テロなどやや特殊な動機によって構成されると思慮する次第であるが、いずれにせよ、今回はこの一般的な動機の体系に涼宮事件が合致するか否かを考えたいと思う。
まず、確実に今回の事件に当てはまらないと考えられる動機としては「物取り」「同情」「嘱託」などが挙げられるだろう。「物取り」については、現場に被害者の鞄が残されており、先述したようにその鞄の中からなくなったものもなかったとされている。さらに裁判資料によれば鞄の中に残されていた財布には6643円が残されており、中身が抜き取られた形跡は確認できなかったと結論付けられている事から、金銭目的の犯行とも考えづらい。また、被害者が亡くなった事で第三者に金銭的な利益が発生したという事もなかった。具体的には、被害者に生命保険等がかけられていた形跡もなく、未成年ゆえに遺産も大した額ではなかったと結論付けられている。
「同情」は被害者の境遇に同情した犯人が被害者を救済するために殺害に踏み切るというケースで、いわゆる安楽死などがこのケースに該当する。「嘱託」は被害者自身の依頼で殺害を実行するというケースで、いわゆる「嘱託殺人」や心中事件において自身は失敗し相手だけが死亡してしまったケースなどが該当する。いずれにせよ、それらの動機は今回の事件においては該当しないだろう。仮にこの事件が安楽死や嘱託殺人だったとした場合、その死を望んだのは被害者自身であり、その状況で犯人があのような残虐極まりない殺害方法を選択するとは思えないからだ。
また、一般人を狙った政治目的の無差別テロという可能性もないだろう。そのような動機の場合このような田舎で犯行を行う利点は皆無であり、また本当に政治目的の動機なら、その後に犯行声明なりを出さなければ意味がないからだ。大体、無差別テロなら被害者が一人だけというのは理解に苦しむ話である。
そうなると、多少なりでも可能性があるのは「怨恨」「痴情」「喧嘩・抗争」「犠牲」「迷信・妄想」という事になるだろう。以下、それぞれの可能性について一通り検証していきたい。
①怨恨
被害者に何らかの恨みを持っていた人間が被害者を殺害したというケース。この動機の場合、被害者に恨みを持つ犯人は被害者の遺体を痛めつける傾向が多く、それは今回の事件における「被害者を槍で串刺しにして張り付けにする」という残虐極まりない犯行形態に合致する。しかし、問題はわずか三ヶ月前にこの村に引っ越し、日頃からそこまで人付き合いがなかったと思われる被害者に殺意に発展するほどの恨みを持つ人間が果たして存在するのかという事であろう。
裁判資料や各種新聞記事を読む限り、被害者の涼宮玲音は敵を作るようなタイプの人間ではなく、村での行動もかなりおとなしいものである。すでに述べたように被害者は引っ越す前の名古屋在住時にむしろいじめを受けていた形跡すらあり、少なくとも他人に恨みを買ったり不快な思いをさせたりするような性格ではなかったと思われる。しかしそうなると、ますます短期間で彼女に殺意に発展するほどの恨みを持つ人間が現れるとは到底思えないのも事実である。
もちろん、外部の人間ではわからない閉鎖された村ならではの何らかの人間関係のトラブルが存在した可能性は否定できない。だが、これについては同じく外部の人間である私では調べ切れないのも事実であり、実際、村で行った実地調査で何人かの村人に話を聞く事ができたが、総じてその口は堅く、一学生に過ぎない私では調査に限界があるのも事実であった。これに関しては、今後何らかの決定的証拠が出てきて村人への追及が可能になるまではどうしようもないというのが私としての結論である。
②痴情
男女関係のもつれ、もしくは性的暴行目的の快楽殺人などがここに分類される。前者の動機の場合、当然ながら被害者との間に何らかの男女関係があった異性(もしくは、可能性は低いが同性)の人物が存在する事になる。しかし、怨恨の動機の際にも述べたが、わずか三ヶ月前にこの村に引っ越してきたばかりの被害者にそのような関係の人物が果たして存在したのかどうかが非常に疑問である。仮に存在したとしても、ここは都会ではなく人間関係が限定された閉鎖された集落であり、村内にそうした関係の噂が一切存在しないというのは解せない話である(少なくとも捜査段階でその手の噂が捜査員の網に一切かからないというのはまずありえないだろう。たとえ、この件に関して村側がどれだけ隠そうとしたとしても、である)。とはいえ、それでも被害者とその正体不明の相手が完璧に自身たちの関係を隠しきっていた可能性が全くあり得ないとは言い切れず、この動機の可能性を捨てきる事ができないのもまた事実である。ただ、仮に恋人の存在が事実だったとした場合、名崎証言で目撃された男女二人組のうち正体不明の男側がその恋人で、女性側は正真正銘本物の涼宮玲音だったという推測が成立する可能性もあるが、これについては現段階ではあくまで証拠のない推測に過ぎない次第である。
なお、後者の性的暴行目的の快楽殺人の線はほぼないと考えてもよいと思われる。その場合、あまり良い表現ではないが被害者の遺体には性的暴行の痕跡が見られるはずであるが、裁判で提出された解剖記録によれば、発見された遺体にはそうした痕跡は一切確認されていない。この事からも、性的暴行の可能性があり得ない事は明白であろう。
③喧嘩・抗争
直前に起こった被害者との喧嘩・争いをきっかけに衝動的に発生した過失致死的な殺人。現実の殺人事件においては比較的よく発生する事案である。ただし、すでに述べたように被害者は他人と争うような性格ではなく(もし何かやってきた相手に積極的にやり返すような性格なら、名古屋時代のいじめは発生していなかったはずである)、そんな被害者が殺人に発展するような喧嘩・抗争をするような状況が想定できないというのも事実である。
また、実際の現場の状況を見てみても、この可能性がかなり低いと思われる証拠はいくつか存在する。具体的には現場の神社に誰かが争ったような形跡が存在せず、またすでに何度も述べているように、被害者にも致命傷となった槍の一突き以外に防御創を含めた外傷が存在しない点……すなわち、事実上槍の一撃による即死だったと結論付けられている点だ。つまり被害者は抵抗する事もなくほぼ一方的に殺害されたという事になり、これらの観点から考えても、被害者が何者かと争った末に殺害されたという可能性は限りなく低いと結論せざるを得ないのである。
とはいえ、いくらおとなしいとはいえ被害者も人間である以上、怒りに我を忘れてしまう可能性が全くないとは言い難いため、動機の候補から排除するとまではいかないのも事実であろう。
④犠牲
犯人の秘密(犯罪の事実である事も多い)を守るために、その秘密を知った人間もしくは共犯者を殺害するというようなケース。いわゆる口封じ目的の殺人である。この場合、被害者の涼宮玲音が村の人間に関する何らかの秘密を知ってしまった、もしくは実際に何らかの犯罪現場を目撃してしまい、その口封じで殺害されたという可能性が考えられる。実際の所、現場が古い閉鎖環境にある村である事、また殺害場所が古い伝承が伝わる神社である事から、いささか推理小説的思考ではあるが「村の秘密を知ってしまった人間の口封じ」という可能性は無視できず、一連の動機の中ではかなり有力な部類になるのではないかとも思われる。とはいえ、あくまでこれが「現実離れした推理小説的思考」であるのも事実であり、現実の殺人事件で果たしてそのような事があり得るのかと言われると反論できない所はネックである。
⑤迷信・妄想
いわゆる「狐憑きからの解放」や「悪魔祓い」を目的とするような殺人、もしくは異常心理を根幹とする殺人がこれに含まれる。いくら古い風習が残る村とはいえさすがに今回の事件が「狐憑きからの解放や悪魔祓いを目的とした殺人」という可能性は限りなく低いと思われるが、犯行形態の残虐さから見るに、犯人側の異常心理を動機とする殺人という線は捨てきれず、実際に裁判においても検察側はこの動機を主張している。ただ、裁判で検察側がこの動機を主張したのは動機を明確に立証できなかったが故の苦し紛れという面が大きく、裁判においても「加藤氏が異常心理の持ち主だった」という主張は完全に否定されている。とはいえ、他にそのような異常心理の持ち主がいないという証拠もなく、可能性自体はわずかながら残っているというのが現状である。




