リンボの黄昏
いつもそこに残っている魂が二つある。
天使はその二人に目をつけていて、顔を合わせる度にさっさと然るべき場所に行けと促す。命令されると、彼らは決まって立ち上がって歩き出すが、また気がついたらリンボの別の場所で座っている。
天国と地獄の狭間、リンボには数多のさまよえる魂が留まっており、彼らを追い立てる仕事に専従する天使がいる。毎日、大勢の魂を相手に大わらわだ。
大抵の魂は自分がどこへ行けば良いのか分かっていないだけであり、天使が優しく行き先を説明すれば動いてくれる。まだこれまでの人生に未練を残し、何とか戻ろうとさまよっている者もいる。自分が死んだことを、きちんと理解していないのである。彼らは多少説得に時間がかかるが、最後は納得して次の世界へ旅立とうという気になる。
だが__死を自覚しており、どこに行くべきかも分かっていて、なおその場に留まろうとする者も中には存在する。
例えば、天使にとってすっかり顔なじみになった、二人の魂がそうである。
年を重ねた男と、まだあどけない顔の少年の魂だ。彼らはいつも一緒にいる。二人っきりで、天使の説得を無視してリンボに留まっている。
いつも側に寄り添う二人は、言葉を交わすこともある。
「坊や」
男の声はしわがれている。
「天使がまた催促にくるぞ。そろそろ観念して、天国へ行ったらどうだね」
「嫌だよ」
「何故?」
少年はわざとらしく肩をすくめた。
「天国へ行ったら、行ったっきりじゃないか。そんなに焦ることないよ」
「それはそうだな」
少年はなかなか生意気なのである。
「だが、リンボにずっといても退屈だろう」
「別に。静かでいいよ」
「静か?」
男は耳に手を当てた。さまよえる魂のすすり泣きや文句が絶えず聞こえる。そうした彼らへの対話に追われてうんざりしている天使の声も。
少年はけだるそうに首を振った。
「あいつらは少なくとも、僕に話しかけてはこないから。無視をすれば、聞こえなくなる」
「そうか」
「おじさんは?」
殊更邪気のない顔で、少年は聞いた。男は顔をしかめた。
「わしは地獄に行くと決まっているからな。なるべくリンボに残っていたいのさ」
「じゃあ、お互い居座り組だね」
その時、天使が二人のいる場所を巡回に来た。二人は顔を見合わせて、離れた所に移動することにした。
「こら、待て!」
そんなかけ声と共に、少年は天使に捕らえられた。天使という割に手つきは荒い。天使の手に噛みつこうとして頭をはたかれた少年は、代わりに顔を思いっきりしかめてみせた。
「大人しくしろ!」
天使は荒い息を吐いた。天使は人間よりも遙かに体力があるはずだが、一日中広いリンボを駆けずり回っているので、かなり疲れていた。
「今日は、相棒はいないのか?」
「おじさんなら、水を飲みに行ったよ」
冷たい清水が湧き出る泉が一カ所だけあるのである。喉が渇いた魂でいつもごったがえしている。
天使は少年に尋ねた。
「天国へ行く準備は、できたか?」
「まだ」
そう即答し、少年は天使を笑った。天使は憮然とした顔で、少年を解放した。
「天国はいいところだぞ」
「でも、僕ホントに天国行きなのかなあ」
「何?」
少年は天使を見上げた。
「そうやってリンボから追い出して、地獄に連れて行かれるのはまっぴらごめんだよ」
「安心しろ、坊や。大抵の子供は死んだら天国へ行けるさ。よっぽどの罪を犯してなければな」
「僕、母さんの戸棚からキャラメルを一つくすねたことがあるよ」
天使は思わず笑顔になった。
「そりゃあ大罪だな。だが、神様は許して下さるさ」
「おじさんのことも?」
天使は笑みを消した。
少年は、辺りを見回す。いつも一緒にいる男は、まだ戻ってこない。
「おじさんは、自分が地獄行きだって言ったよ。どうして?」
「本人が語らないことを私がべらべら吹聴することはできん」
天使は、新顔の魂を見つけ、話しに行こうと歩き出した。少年が追いすがる。
「おじさんも、天国に行くことはできない? それなら、僕だって喜んでリンボを出るんだけどなあ」
「審判を下すのは私じゃない。イエスだ」
「イエス様に、お願いすればいい?」
「いいかい、坊や」
天使は噛んで含めるように言い聞かせた。
「君たちの人生は、もう終わったんだ。今から、罪を償ったりつけ加えることはできない。もう審判は下された後なのだ」
そして、少年たちは審判の結果を無視して裁判所の廊下に座り込んでいるようなものなのだ。
「審判を受け入れるか、今のままでいるか。二つに一つだ。自分たちで選びなさい」
普段魂たちにさっさと出て行けとばかり言っている天使は、少年に向かって珍しい言い方をした。
別の日、天使は、裁縫をしている男に出くわした。少年は近くにいない。
「何をしているんだ?」
布切れをせっせと縫い合わせている男は、顔も上げずに答えた。
「布からボールを作ってやるんだ」
「あの坊やのために?」
「座っているだけじゃ、退屈だろうからな」
退屈なら、天国へさっさと行けばいいんだ__その言葉を天使は飲み込んだ。
代わりに、問いかけた。
「一体いつまで、リンボにいるつもりだ」
男は手を止めて、天使の顔を見た。そして、ちょっと考えてから答えた。
「リンボの終わりが来る、その時まで」
天使は鼻を鳴らす。そんなに長い間いてもらっちゃ困るとでも言いたげに。
「あの子は天国へ行けるんだろう」
男が天使に尋ねた。天使はうなずく。
「イエスはキャラメルのみにて生きるにあらずだ」
「は? キャラメル?」
男はぽかんとする。天使が冗談を言ったとは気づいていない。
「あの子があまりここで我が儘を言っていたら、天国に入れてもらえなくなるだろうか?」
「それはない」
「そうか。よかった」
もう一つ、天使は忠告した。
「あんたがここを動かん限り、あの子もここに居続けるだろう。よく考えて身の振り方を決めるんだな」
少年が、男にもらった布製のボールを蹴っていると、天使がすっ飛んできた。
「苦情が出てるんだ。もう少し、静かに遊べ」
「皆の声で、聞こえないと思ってたのに」
「誰もが神経を尖らせているんだよ。君が思うよりもな」
「ごめんなさい」
ボールを抱え、少年はうなだれた。座って眺めていた男が立ち上がって、少年の隣に立った。
「うるさくして、すまなかった」
二人に揃って頭を下げられ、天使は苦笑いした。
「まあ、気をつけるんだな。静かな分には文句も言われないだろうから」
「大変だね、いろんな仕事があって」
「全くだよ」
天使は二人の顔を見回した。
「皆大人しく次の場所へ行ってくれれば、何も苦労することはないんだ」
その途端、二人はまた同じ仕草で明後日の方向を向いた。
その後も、布製のボールは役に立った。二人は、どちらが長くボールを頭にのせていられるかのゲームを始めた。少年は、自分に大道芸の才能がありそうだと思った。披露できる場所はもうないけれど。飽きた後は、また話をした。少年の家族の話。男が見てきた世界の話。
「わしはろくでもないことしかしてこなかったからなあ。地獄に行くのは当然だ」
「でも、地獄って嫌なところなんでしょう?」
「そりゃそうだ。いいところでは罰にならん」
「僕は嫌だよ。おじさんが地獄に行くの。ずっとここにいる方がずっとましだ」
「ああ、わしもそう思うよ」
だが、坊やは違う。
「天国はいいところらしいぞ。きっと美味い物が沢山あって、きれいな天使がお世話をしてくれるんだ。いっそのこと、えいっと一緒にリンボを出てしまおうか」
「でも、おじさんは地獄じゃないか!」
少年は怒った。
「僕が天国に行くかどうかなんて、どうでもいいよ。おじさんと一緒に地獄に行くのでもいいよ。でも、二度と会えないのは嫌だ。それなら、ずっとリンボにいるよ」
「そうか……」
男は怒れる少年の頭を優しく撫でて、薄暗く辺りの景色がほとんど見えないリンボに目をやった。
「最初は何て退屈で陰気な場所だと思ったが、ここもなかなか悪くはないな」
「そうだね」
天使が近くを通った。相変わらず、誰かをがみがみと叱ったり、なだめすかしたりしている。少年がちょっとだけ手を振り、すぐにやめた。見つかったら、また面倒くさいことになるからだ。
「リンボがなくなる時まで、一緒にいようね」
少年が、男を見上げて言った。
「ああ、約束だ」
二人が交わした握手は、誰にも見られなかった。
ある時天使を見かけ、二人は挨拶した。いつもは天使を見るとこそこそ身を潜めているが、今日は何となく良い気分だったのだ。
「こんにちは!」
「ああ……こんにちは」
天使は浮かない顔で立ち止まる。
「お元気ですか?」
「まあまあだ」
まあまあというわりには、元気がなさそうに見える。
「腹でも壊したのか?」
天使は男を軽く睨んだが、すぐに顔を伏せた。
「何か用か。用事がないのなら行くぞ。達者でな」
「ちょっと、待て」
男と少年は、天使の腕を捕まえた。
「何か妙だな。いつもは、さっさと出て行けとかいつまでいるんだとか言うのに」
「別に、そんな気分じゃない時もあるさ」
「天使なのに、気分でお仕事サボっていいの?」
ずけずけと無邪気な顔で少年は聞く。天使は怒った顔で口を開いた。だが、何も言わずにすぐ閉じた。
「悩みでもあるのか。イエスに怒られたとか」
「僕らのせいで?」
天使は、髪をうっとうしそうにかきあげた。
「まあ、確かに今しがた、お前たちのことを考えていた」
何か照れるね、と言おうとした少年は、天使が悲しそうな顔になったのに気がついた。
「何を考えていたんだ?」
「もうすぐ、わかる」
天使はそれだけ言って、二人の手をそっとほどかせた。
「これまでもお前たちをずっと見てきたが、これからも見守っていたいと思っている」
言い残して、天使は走って行ってしまった。
少年と男は、顔を見合わせる。
「何だったのかな?」
「さあ、分からんな。忙しすぎてついにおかしくなったのかもしれん」
「かわいそう……」
自分たちも天使の手を焼かせる一端だということは棚に上げて、少年はしょんぼりとした。
「喉が渇いたな。泉に行こうか」
「うん。行こう」
二人は連れ立ってリンボを歩いた。
泉には沢山の魂が集まっていた。皆、泉ではなく、同じ方向を見ていた。
少年が、男をつつく。
「ねえ、あれ……」
つられて目を上げ、男は息を呑んだ。
リンボの空が焼けていた。異様なほど真っ赤で眩しい空から落ちる光が、いつも暗いリンボを照らし出していた。
二人は、初めてリンボの全容を見た。
男には、どこまでも果てしなく広がる平原と、巻いた干し草が見えた。遠くに、農場と柵もあった。彼はその光景に、懐かしさよりも苦々しさを覚えた。農場の末っ子に生まれた彼が、見返りのない家業の手伝いにうんざりして、捨てた景色だった。泉だと思っていたのは、父親が掘った井戸だった。
少年は、立派な家々や、華やかな店が建ち並ぶ街を見た。彼が大好きだった菓子屋と玩具屋があった。乳母と駆けっこした石の道路が、長く長く伸びていた。水が冷たく深い運河もあった。
二人の耳に、すすり泣きや慟哭の声が四方から入ってきた。周りの魂は、皆地面に身を投げ出し、叫んでいた。
顔を上げると、真っ赤な夕焼けが見える。既に空の端から夜の空がじわりじわりと浸食している。
男と少年は、どちらからともなく手をつないだ。周りの中の一人が、よろめきながら、沈みゆく太陽があるであろう方角へ向かって歩き出した。それにつられて、一人、また一人。
男は、少年の手をきつく握った。
「リンボの終わりがくる時まで……か」
少年が気がかりそうに男を見上げる。
気づけば、その場に残っているのはわずかである。夜の闇は確実に背後に迫っている。
「わしらも行こう」
少年は反射的に首を振ったが、男が歩き出すと、黙って従った。
口数の少ない旅だった。少年は、何度か涙を拭った。男は辺りを見渡してばかりいた。
別れ道まで来て、彼らは握っていた手を離した。
「それじゃ__元気でな。坊や」
少年は口をへの字につぐんでいる。
「坊や?」
「__うん」
少年は、微笑む男の唇が震えていることに気がついた。
「おじさんも、お元気で」
「ああ。これから行く場所では、いつも、坊やを思い出すことだろうよ」
少年は、男にすがりついた。しばらくしてから、男が優しく少年を引きはがした。
彼らは別れ、別々の道を一人で歩き始めた。少年は、一人で行く天国は楽しくないよと思っている。男は、リンボでの日々は楽しかったなと思い起こしていた。