1。
「ただいま……」
「お帰りー!」
いつも通りの母の声。母は元気だ。
去年、父が死んでからパートタイムとか何とかで、女手一つで育ててくれている。
古い集合住宅の『606』号室。それが、私の家だ。
エレベーターはあるけど、打ちっ放しのコンクリートの階段を髪の毛を揺らしながら毎日帰る。
元気になれないのは、父親が死んだから。陰を落とす。母親の空元気が余計に。
学校はつまらない。
もともと中学でも目立つ方じゃなかったけど、高校に入って友達も変わって、上辺だけの会話。
「怠ル……」 なんて言葉、道路とかマンションのコンクリートやアスファルトに向かって吐き捨てる。
見つめた視線の先にある無機質な命を持たないそこかしこに見える『シミ』みたいなもの。灰色でも黒でも無い濁ったものが、私に取り憑く。『シミ』。
浮かび上がるのは、シャボン玉みたいな偶像とか夢。何に成りたかったのかなんて、消えていく。
「由奈、ご飯」
「いらない……」
空元気な母との晩御飯は疲れる。気分じゃない。
どうせ、ラップして冷蔵庫に入れた晩御飯を、レンジでチンして食べる。
それが一人でも。
飽きてても、口に入れとけば死なない。何がこの先あるんだろ?
「じゃあ、お母さん、夜勤行ってくるね?」
「うん……」
母は介護職員で、夜勤専従。意外に稼ぎは良い。それならって、心配いらない。私は今日も一人で眠る。明日の授業の一限目は、保健体育。生理痛とかで休もうか、遅刻しようか。
それとも──。
(──ガチャン。コッコッコ……)
母親の玄関を閉める音と、マンションのコンクリートに響く足音がする。
あの人には夢なんてもの、あるんだろうか?
私には、無い。
しばらく、時計見てもテレビ見ても、スマホ見ても面白くない。21時。
とりあえず、冷蔵庫のラップされた晩御飯を、レンジでチン。
味がしなかった。
母親は、何処向いてるんだろう。
私は、いつでも知らない方へ向く。
父親の遺した『シミ』。
ドライヤーの加齢臭とか、枕カバーの匂いとか。普通なら嫌悪するオヤジ臭。
父親は、この世に居ない。
お酒が好きで、肝臓がダメになって死んだ。
とりわけ良い父親でもなかったけれど。死んでみたら穴が開いた。去年とか笑ってたのが嘘みたいに。
──シーンとしたダイニングテーブルに、オレンジの明かりが灯る。いつもの父親の椅子。
「お父さん……」
私がいつも父親の座ってた椅子に座ると、オレンジ色した何かの紙の端切れみたいなのが、ヒラヒラとフローリングの床に落ちた。
「鬼新線? 呼子鳥駅? 東八角駅? ──切符?」
手に拾った切符のような紙切れの文字を読む。
どうしてなのか、分からない。
けれど、私は、そのままお風呂にも入らず着替えもせずに、スクールバックを持って玄関を出た。
お金は、幾らか。使わずにおいた分が、まあまあと少し。お財布を見る。
玄関の扉を閉めた。
「お前は、何になりたいんだ?」
(え?)
誰かの声が聞こえた気がした。
私は、何に成りたかったんだろう。
夜中の玄関の扉の先に続くコンクリートの『シミ』が、延々と続く。
そろそろ夏になる蒸し暑さ。等間隔に設置されたマンションの白い蛍光灯の灯り。
好かれる事のない蛾や虫たちが、羽根を広げているのが、黒い点みたいにして見えた。