ティアーズ家の怪物
その日は、いつも以上に寝苦しい夜だった。
夕方に降った雨のせいで湿度が高く、風も吹いていないのでぬるま湯のような空気が全身を包む。
ウォルト・ティアーズはついに耐え切れなくなり、水を一杯飲もうとベッドから抜け出した。
ハリス家付きの秘書官として働くウォルトは、姉と同じ屋根の下、ハリス公爵家の屋敷に居住している。
クリストファーや姉であれば、枕元のベルを鳴らせばすぐにメイドが馳せ参じるだろうが、ウォルトの立場は一介の秘書官だ。雇われの身で、立場としては使用人に近い。夜中に水が飲みたくなったなら自分で用意しなければならない。
燭台を持って廊下を進み、キッチンへ入る。
途中、窓から見えた庭園のひまわりは皆、落ち込んだように下を向いて太陽が昇るのを待っていた。
戸棚からコップを取り出して、樽に溜められていた井戸水を汲むと一息に飲み干す。
——ぬるい。汲んだばかりの井戸水であればもう少し冷えているだろうが、真夜中にそこまでする気力はない。
北部は良かった。冬は厳しいが。
王都の夏は、ティアーズ領よりも暑い。
冬は王都の方が過ごしやすいが、ないものねだりは人間の性か、今は領地で暮らす両親と兄が羨ましかった。
ティアーズ領は、北部の国境沿いに位置している。
横長の長方形に近い形をしていて、領土の南半分と東側は、ダドリー侯爵家の領土と接していた。
この国の北部には山脈が連なり、それは隣国との国境にもなっている。
ティアーズ家は国境警備のための私軍を持っているが、自然の要塞に守られているためそこまで大規模なものではない。夏になったら訓練がてら、ティアーズ家のために氷を掘ってきてくれるくらいのゆるさがあった。
そのゆるさは、領地を治めるティアーズ家の面々の人柄が影響しているだろう。
北部の土地は作物の実りが悪く、天候に恵まれない年は税金を納められない農民も少なくない。そういった者たちに対して、ティアーズ家は税金を免除してやり、その分は私財を切り詰めて補填していた。
父も母も兄も姉も、自身の贅沢よりも領民への還元を優先する、言ってしまえばお人好しだった。領民たちはそんな領主を慕い、それはそれは平和な領地運営が為されていた。
しかしその優しさは、貴族社会においては侮られる理由にしかならない。
領民に還元しすぎるあまり十分な財力を持たないティアーズ家は貧乏貴族と揶揄され、政治の世界でも発言力を持っていなかった——おそらく祖父も父も兄も、領民が幸せであればそれで十分で、権力なんてものには興味ないのだろうが。
ウォルトは家族のことを甘いと思っているが、その甘さが嫌いではない。
ただしそれは運営する領地を持たない自分が持つべき甘さではないこと——そして、その甘さを持ったままティアーズ家が生き残れる保証はないことに、幼いころから気付いていた。
だから、今の自分がいるのだ。
伯爵家の出身ながらも筆頭公爵家に取り入るウォルトのことを、一部の人間はやっかみを込めて怪物と呼んでいることをウォルトは知っている。
その言葉にはあまり気持ちの良くない感情が含まれていることも当然承知しているが、それで構わない。
他の家族が持っていない狡猾さは、自分が引き受ける。
力を持たないお人好しの貴族は、良いように利用されて、使い捨てられるだけなのだから。
兄が王立学園の最終学年を迎える年が、ウォルトの入学の年だった。兄はウォルトと入れ替わる形で、学園を中退した。特に深い意味はない、学費の都合だ。
一度に二人を通わせられるほどの財力がないから、3兄弟のなかで一番頭の良いウォルトを優先して学ばせる。
それはティアーズ家の中で元々決められていたことで、兄は在学する3年間で4年分の知識を得るため勉学に励み、姉は学園から戻ってきた兄を家庭教師として学びを深めた。
同じようなやりくりをする貴族家は珍しくなかったが、ティアーズ家ほど露骨な——末子と入れ替わる形で長子に中退させるような家は他になかった。
しかしそのおかげで、ウォルトはクリストファー・ハリスに目をかけられるようになったといえる。
ウォルトほどではないが、兄も姉も優秀な頭脳を持っている。
実直で誰よりも勉学に励む同級生の兄のことを、兄と級友であったクリストファーは気に入り、側近にならないかと誘ったという。しかし兄は中退する予定であることを理由にそれを辞退し、代わりに「自分よりも優秀な弟が入学してくる」とウォルトを推薦した。
王太子であるアーノルドの一番の側近であるクリストファーの動向は、学園内でも注目されていた。
かくして、ウォルトは図らずも鳴り物入りで、学園に入学したのである。
警戒するべき才覚。
兄を踏み台にする弟。
もしくは、伯爵という身分を嘲る気持ち。
「怪物」という言葉には、いろいろな意味が込められているのだろう。
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