静観するガラスのキング
アーノルド殿下の執務室に向かう道すがら、見慣れたメイド服の後ろ姿を見つけた。
「……エミリー?」
声をかけると、彼女はびくりと肩を揺らしてこちらを振り返り——ウォルトを見つけると、安心したようにホッとため息をついた。
「あぁ、ウォルト様でしたか。良かった」
「どうしたんです、こんなところで。この先は殿下のお部屋になりますが」
「噴水のところで、奥様の日傘を忘れてしまって。今取りに戻っているところなのですが、どうやら道に迷ってしまったみたいで……」
「そうですか。宜しければ、僕がそこまで送りましょうか。殿下に届け物があるので、少しそこでお待ちください」
「いえ、それは申し訳ないです!!」
エミリーがやたらと恐縮するので、ウォルトは少し居心地の悪さを覚えながら噴水広場までの道順を彼女に教えてあげた。エミリーはグレイディ侯爵家の五女で、出身階級だけで見れば彼女の方が上だ。二人とも、公爵家に雇われているという立場である。しかし、ウォルトは宰相付秘書官という公に認められた役職についているが、エミリーは一介のメイドであった。しかも、ウォルトは公爵夫人の実弟である。
ウォルトはエミリーに対して適切な敬意をもって接していたが、エミリーの態度にはどこか卑屈なものがあると、ウォルトはうっすら感じていた。
もう少し権高な態度をとっても許されはするだろうに、とウォルトは思うが、こちらから言えるものでもない。
少し早足でエミリーが去っていくのを見届けて、ウォルトはアーノルドの執務室へと向かう足を早めた。
小脇に抱えた紙袋がかさりと揺れて、甘じょっぱいバターの香りがふわりと鼻腔をくすぐった。
◇◇◇
「想定通りだし期待通りだよ、ありがとうウォルトくん」
ウォルトから封筒を受け取ったアーノルドは、中に入っている2つの書類と「却下」の判子を見てにこりとウォルトに笑みを向けた。
部屋には今、アーノルドとウォルトの2人しかいない。以前秘書を雇わないのかと尋ねたら、「クリスと君が僕の両腕だよ」と返されたことがある。
「殿下にお褒めいただき光栄です」
ウォルトは慇懃に頭を下げる。視線が下がったとき、アーノルドの執務机のうえに飾られたチェスのキングが目に入った——以前、ウォルトとの対戦で彼が初勝利をあげたときに使っていた駒だ。透明なガラスでできたその駒は、室内の光に照らされて細部の装飾がきらきらと輝いている。
ウォルトの視線に気づいたのか、アーノルドはガラスの駒を指先でつまみ上げた。
手のひらの上で転がしながら、頬杖をつく。
「本当は今すぐにでも対戦を申し込みたいところだけど……ウォルトくんには無理をさせてしまったからね。今日はまだ、昼食をとっていないのだろう。その紙袋から良い匂いがする」
「そうですね……これは、閣下が買ってきてくださりました。今日、閣下は姉上と有意義な時間を過ごせたかと思います。秘書官として弟として、両殿下に御礼申し上げます」
「なに、私はリズの提案にのっただけさ。あの2人もいい加減じれったいし、仕事に追われてすれ違ってしまうのも私の本望ではないからね。それに、察しが良くて仕事も早い秘書官がいてくれるおかげだよ」
アーノルドの言葉に、ウォルトもにこりと笑みを返した。
「あんまり引き止めると悪いからね。少し遅い時間帯だが、ゆっくり昼食を楽しんでくれ」
「ありがとうございます」
「この書類も助かったよ。それにしても……叔父上殿の一派は、近いうちになんとかしないといけないね。国王陛下だけでなく、私やクリスやリズ、そしてウォルトくんのためにも」
王弟オズワルドがダドリー家と共謀して武器を蓄えようとしている話をウォルトが掴んだのは数ヶ月前。
あれから監視の目を強くしていたが大きな動きはない。静観を続けていた状況だが、その間ずっと、じわじわとこちらの体力は削られている。
——黒百合殿下は、正攻法でぶつかってくるような相手ではない。このまま受け身の姿勢でいれば、謀略に乗せられて向こうの手のひらの上で踊る羽目になるだろう。
コツ、と含む音を立てて、キングの駒が机に置かれた。
「また近いうちに、クリスと君を呼ぶよ」
「承知しました」
ウォルトはぺこりと頭を下げて、王太子の執務室を後にした。
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