はじめての夜
「君の家は財政難だ。だから財産援助と引き換えに、私と結婚する。こちらはその事情は理解しているから、君にもこちらの事情を伝えておこう」
政略結婚の旦那様——クリストファー・ハリス公爵閣下は、それはそれは誠実な人柄だった。
本日妻になったばかりの私に対して、公爵家の弱みともなりうる御家事情を、包み隠さず教えてくれたのだ。
愛のない結婚ではあるが、お互いに尊敬し合える関係は築けそうだと、前向きな気持ちになれる初夜だった。
まぁ、契りは交わしていないのだけれど。
——話はほんの少し前にさかのぼる。
結婚式を挙げて正式に夫婦になった夜。
メイドに丁寧に磨き上げられ、華やかだけれど少し薄着の私が寝室を訪れると、クリストファー様は私の肩に毛布をかけて部屋に招き入れてくれた。
案内されたのは、ベッドではなく部屋の中央に置いてあるソファ。テーブルの上にワインとチーズでもあれば少しは洒落た雰囲気になっていたかもしれないが、そんなものはない。磨き上げられたテーブルが、つるりとした表面を光らせているだけだった。
愛のある結婚ではないので初夜も義務的なものになるだろうという予想はしていたが、想像以上にドライな雰囲気である。さていったい何を切り出されるのか——にわかに緊張が増してくる。
クリストファー様は脚の低いテーブルを挟んで向かい合って座ると、目の前の私をまっすぐ見つめ、口を開いた。
「まずは、この婚姻を了承してくれてありがとう。そして、今日この日までまともに会うことができず申し訳なかった。私は君の弟から君の為人を聞いていたが……君は、さぞかし不安だっただろう」
甘やかな雰囲気などは一切ないが、突き放している口調でもない。これから生活を共にするパートナーとして私のことを対等に扱い、気遣いを向けてくれている。
——あぁ、この人は、いい人だ。
私の生家は落ちぶれかけの伯爵家である。領地運営がうまくいかず、財政難に陥ったところを婚姻と引き換えに多額の資金援助で助けていただいた。
身分差を考えてもクリストファー様は「公爵家が助けてやったのだ」とふんぞり返っても許されるだろうに、感謝と謝罪を言葉にしてくれるとは。
とんでもないです、と私は首を振った。
「お礼を申し上げるのはこちらですわ。クリストファー様のおかげで、ティアーズ家は立て直すことができそうです。それに……クリストファー様が今とてもお忙しいのは承知しておりますわ。お義父様のこと、ご愁傷様でございました……」
クリストファー・ハリス公爵閣下は、私の兄と同い年で、20歳を少し超えたばかりだ。とても頭が切れる方で人格も申し分なく、国王陛下や王子殿下からの覚えもめでたいともっぱらの評判である。とはいえ公爵位を継ぐにはまだまだお若い。
そんなクリストファー様が公爵となったのには事情がある。
ハリス公爵家は、クリストファー様の父君——ハリス前公爵が流行病に倒れ、そのまま帰らぬ人となってしまったのだ。クリストファー様が公爵位を継いだのは、ついひと月前の話である。
亡くなった前公爵はこの国の宰相であり、その仕事を補佐していたクリストファー様がそのまま後継に任命された。あまり反発はなく、「まぁあの人なら」という反応が大勢だという。
宰相としての仕事の引き継ぎと、遺産整理に領地運営と……時間がいくらあっても足りないであろうことは想像に難くない。
婚姻を結ぶにあたり、事前の顔合わせは一切なく、直接会話をするのも実は今がはじめてなのだが、それも致し方なかろうと納得していた。こちらは助けてもらう側であるし、弟も特に忠告はしてこないし、クリストファー様は世間からの評判がとても良いので、まったく不安に思うこともなかった。
とはいえ、なぜこのタイミングでの結婚なのかは疑問に残る。私の実家はともかく、公爵家側のメリットが見えないのだ。ティアーズ家の次男である私の弟がクリストファー様の秘書として働いているという縁はあるが、それと今回の政略結婚との関係性は不明だ。
婚約と資金援助を打診されてから今日を迎えるまで、10日も経っていない。あまりに性急で、何らかの事情があることは容易に想像できた。
しかし、それを探るのは出過ぎた真似だろう。
ティアーズ家にとって必要な情報であれば弟から流れてくるだろうし、私が知るべき事情であればクリストファー様が教えてくれるだろうし、それらがない以上、下手に立ち回ってクリストファー様を不快な気持ちにさせるのは避けたかった。こちらは実家を助けていただいたという恩があるので、結婚をすることでその恩に報いることができるのであれば、それだけで十分だ。
「——あぁ、ありがとう。……さっそくで悪いが、本題に入らせてもらう」
クリストファー様は私のお悔やみに礼を返すと、つい、と一枚の紙をテーブルにすべらせた。——肖像画である。ウェーブのかかった長い黒髪の女性が描かれている。年齢は30歳くらいだろうか。少し釣り上がった細眉と垂れ目が印象的な色気のある美人で、意志の強そうなルビー色の瞳が紙越しにこちらを睨んでいるようだった。
「えっと……この女性は?」
見覚えのない顔である。
テーブルから顔をあげて、首を傾げる。クリストファー様は膝の上で手を組んで、テーブルの上の女性をじっと見つめていた。
「……ジョセフィーヌ・ダドリー。数年前に亡くなった兄の、妻だった女性だ」
お会いしてからずっと、クリストファー様は無表情だった。
父君を亡くしたばかりで悲しみもまだ癒えないなか、仕事に追われて余裕もないが、努めて平静であろうとする表情。
しかしその女性の名を口にする一瞬だけは、声色がわずかに強張り、グレー色の瞳に鋭い光が宿ったことに気付いてしまった。
——そして冒頭の台詞に至る。
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