70 ある女の回顧(3)
「うぅ……」
アンは呻きながら簡素なベッドから起き上がった。
長い夢を見させられた様な気分であった。
随分と長く眠っていたようだ。
ビアンカ公女暗殺未遂事件の後、幽閉されていたことを思い出した。
身体的なむごい拷問を受けることを予想していたのであるが、思った以上に身体に傷はつけられていない。
そうしてくれた方が手間が省けて助かったのだが。
アンは大公家へ潜入する前に魔法棟で処置を施されていた。
苦痛を伴う身体的な拷問を受ければ、呪いが発動し突然死するようになっていた。
それを知っているのか、取り調べをする騎士も魔法使いもアンの体に危害を加えようとしなかった。
そのおかげでアンの取り調べは一向に進まない。
せいぜいアンの体を調べて魔法経路がどんなものか把握するくらいであろう。
あのルフィーノであればアンがアリアンヌと同じ言霊魔法を持っていることを知っているはずだ。
そして彼らができたのはアンにかけられた擬態魔法を解除し素顔を確認することくらいか。
牢屋の外へ出された時に通りかかる鏡をみたときにアンは自分の姿を確認した。数年ぶりとなる自分の素顔であった。
もう名前など思い出す気力にならない、忘れ去られた女の姿だ。
アンは首元のチョーカーに手を触れた。
幽閉された後につけられた魔法道具であった。
アンが言霊魔法を発動しようとすると強いめまいと不快感を感じてしまう。
これでアンは見張りの兵士らを取り込むことができなかった。
ルフィーノという男はやはりあなどれない。
この数年で言霊魔法の対策方法をここまで完成させたのだから。
もしかすると言霊魔法の良い参考資料元がいたのに気が付いたのだろうか。
アンは脳裏にルドヴィカの姿を思い浮かべた。
アリアンヌが逃亡し、入れ替わるように大公城へやってきた令嬢。
処分されるように、送られた鼠色の髪の令嬢。
捨てられる前の令嬢を、大公家へ潜入する前に何度かみたが、彼女の目には生気はなく疲れた表情をしていた。
かつてロヴェリア公爵家から捨てられた母の姿と重なった。
彼女が大公城へ訪れた後は、このまま大公家で朽ち果てる運命だと思っていた。
皇帝に捨てられたルドヴィカにはもう何もできる気力はないだろう。
そう思っていたが、ルドヴィカは予想外なほど明朗闊達であった。
かつての姿など嘘だったのではと思う程に大公城中を走り回り、よくわからない事業を展開して新しいものを取り入れていく。
あの引きこもりで決まった使用人以外は入れることをしなかった大公ですら彼女を止めることはできなかった。
妹を避け続けたあの大公が、あの女の訪問を受け入れたのだ。
しかも、夕食も一緒にするし、しばらく部屋で一緒に過ごすなど。
アリアンヌの姉だということで警戒していた使用人たちは次第にルドヴィカに打ち解けていった。
ルドヴィカもそれに応えるように彼らの意見を聞き、待遇改善に奔走し、大公妃としての株を上昇させていっている。
妹公女との関係性も改善すべくルドヴィカはアプローチを開始していた。
公女のメイドに潜り込んだアンにも心を砕いてくる。
かつてアリアンヌのメイドだった■■■■だったことも気づかないルドヴィカはあっさりとアンのことを信じて色々と考えを共有してきた。
一体何が起きたのかアンは理解できなかった。
もしかするとこの大公城の環境が思ったよりも良かったのかもしれない。
何となくアンは面白くないと感じた。
自分の母は髪の色を理由にロヴェリア公爵家から処分されたのに、同じ髪を持つルドヴィカは処分されるどころか大公妃として尊敬を集めている。
何故こんなに違うのだろう。
きっと大公妃になれたからだろう。
アンは日々ルドヴィカへの醜い感情を押さえつけられなくなっていった。
2カ月したところでアンはルドヴィカの変化に気づいた。
最近はルフィーノに魔法学の教育を施されているという。
その影響か、ルドヴィカの言葉にはわずかな力を感じ取った。
これは言霊魔法だ。
アリアンヌに比べ、アンに比べるとずっと小さな力で、たいした役にも立たなそうなものであった。
せいぜい少しだけ前向きになれる効果くらいしかない。
しかし、言霊魔法を持っているというのは厄介なことだ。
このまま大公城で勝手にされては困る。
例の聖女候補が解除していったとはいえ、取りこぼされたアリアンヌの言霊をアンは大事に管理していった。
そしてそれを使いながら、ビアンカ公女への言霊魔法を繰り返し行っていった。
少しずつ少しずつ誰にも気づかれないように身に浸透させて、自在に扱えるようにする予定だった。
それなのに、そのアンの努力を邪魔するかもしれない存在が現れるとは思わなかった。
大公についても、あのまま放置すれば勝手に死んでくれるはずだったのに最近は体調が改善してきているという噂を聞いていた。
本当は大公が死んだ後に、公女を利用して破滅させる計画であった。
アンは計画がほころんだ時の為の別の計画を実行することとした。
ビアンカ公女を暗殺し、大公城内を疑心暗鬼で満たす方法である。
その疑心をルドヴィカに集中させ、大公城は皇帝家への恨みを強くし、皇帝家はルドヴィカを不当に扱ったことを理由に介入する。
「結局墓穴を掘るだけだったわ」
どうして、あの時自分はルドヴィカとの会談をしたかったのか。
ほんの少しだけあの女を自分の自由にしてみたいと欲が出てしまった。
それでまんまとあの女に足元をすくわれてしまった。
既に自分と一緒に捕えられたスパイは自決したという。
取り調べの際に目を合わせた時にアンは彼らの声のない言葉を感じ取っていた。
皇帝の足を引っ張る前に自決するようにと。
体の中の装置を発動させ、体を壊すのだと。
証拠になりそうなものを奴らに提供するなと。
「そろそろ……」
覚悟すべきかとアンは自身に潜ませた装置を確認した。
拷問を受ければ発動する装置であるが、自力に触れれば突然死を与えてくれる。
見つかったスパイの末路だと笑った。
「うめー」
見張りの男が叫びアンは出鼻をくじかれた。
何をそんなに嬉しそうにしているのだと聞き耳たててしまう。
「おい、全部食うなよ。大公妃様が俺たちの為にくださった品だぞ」
「大公妃殿下はお優しい方だよな。こんな身分低い俺たちにも気を遣ってくれて……」
「この前なんて俺の妹が酷い肺炎ですぐに治療院への紹介状を作ってくれたんだ。しかもしかも、妹の看病のための時間がとれるようにと上にかけあってくれてさ。俺はもう大公妃様に忠誠誓った!」
「おいおい、牢屋番ごときの忠誠が何になるんだよ」
楽し気な見張りの会話である。
それを聞きアンは牢屋の格子を握りしめた。ぎりっと歯ぎしりした。
「どうして……」
母はあんなに人目を気にして、父からも疎まれ生きていたのに。
どうしてあの女はこんなに違うの。
同じ女だったじゃないの。
同じ処分されるだけの女だったじゃないの。
どうして。
◆◆◆
「たいへんです。偽メイドのアンが逃げ出しました」
部下の報告を聞いて、オルランド卿は慌てた。
どうやら見張り番を篭絡させて逃げ出したそうだ。
ルフィーノが用意した言霊魔法封じのチョーカーがあったというのに、魔法発動の副反応をおしのけて女は魔法を使った。
果たして彼女が向かう先はどこか。
大公城の警備を厳重にし、大公の許可を以て使用人たちの出入りを制限かけさせた。
「パルドン、ルカは今どこへ行っている?」
「大量のお菓子を作ってもらったからと使用人たちに配り歩いています」
こういう時に出歩かられるとは。せめて自室か執務室にいてくれた方が警備しやすいのだが。
と零しても意味はない。
声をかけて執務を休ませたのがたまたま今日だったのでだいたい自分がきっかけだ。
「すぐにガヴァス卿に指示を出して、彼女を自室へと戻るように伝えろ」




