60 聖女襲来
ルドヴィカがジャンルイジの看病につきっきりで、執務はほとんど女官たちが代理を務めてくれていた。
急ぎの件はグレゴリー夫人がまとめてルドヴィカの元へ届けて、ルドヴィカはパルドンに机を用意してもらいそれで確認印を押していた。
同時にジャンルイジ大公の執務も似たように秘書官が行ってくれて、この最終確認もルドヴィカが行っていた。
「ルカには色々と負担をかけてしまったな」
ようやく与えられた食事に口をつけながらジャンルイジはパルドンに声をかけた。パルドンは栄養科学の資料を確認して勉強をしていた。
急性膵炎になった後なので、しばらくは脂質の少ない食事をする必要があった。脂身の少ない肉類でタンパク質を補う為少し物足りないが仕方ないことだ。
「大公妃様はずっとあなたに声をかけておいででした」
「どんな言葉だった」
「……私が言ったというのは大公妃様にはだまっていてくださいね」
パルドンはぼそぼそっとジャンルイジ大公に耳打ちした。
その言葉を聞きジャンルイジ大公は顔を赤くした。
素直な反応にパルドンは頬を緩ませた。
「これでは殿下も簡単には死ねませんね」
「いうな」
もぐもぐとジャンルイジ大公は誤魔化すように食事を口に放り込み続けた。
意識を取り戻してから2週間が経過してだいぶジャンルイジ大公の体調は戻ってきた。微妙に浮腫みがでてしまっているが、寝たままだったのと大量に輸液を受け続けていたのだからしょうがない。
「早くリハビリに戻って失った分の筋肉を取り戻さなければ」
ベッド上でできる範囲のリハビリを開始した。腹部の痛みもなくなってきており、腹部の運動をしても問題なさそうである。
「無理は禁物ですよ。殿下」
パルドンはふふと笑った。
食事を食べながら、ジャンルイジは何か忘れているのを思い出した。それが何かまでは思い出せない。
目が覚めてルドヴィカに確認したいと思ったのに。
ジャンルイジ大公はうーんと記憶を手繰り寄せていたが、その作業は中断することとなった。
一瞬だけ部屋が揺れ、爆音とも衝撃音ともとれない大きな音がジャンルイジ大公の思考を停止させた。
音の後に、3階からでも手に取る程わかる程外は騒然となった。
外にいた使用人たちがわらわらと騒がしくしているのが聞こえた。
トヴィア卿が報告にきて衝撃音があった場所を教えてくれた。
馬房の方で、だいたいは察しがついた。
「ああ……」
ジャンルイジ大公は無気力になった。
「思ったよりも早くたどり着きましたね」
パルドンは困ったようにつぶやいた。
「そうだな」
ジャンルイジ大公ははぁとため息をついた。
特に慌てる様子もない。
隠す気もない魔力の気配で彼女だというのがすぐにわかった。
例の幼馴染が帰還してきたのである。
ルフィーノの話ではあと2週間程かかると聞いていた。最後に聞いた滞在場所を聞けば妥当な時間であろう。
「全く、あれほど霊獣で突進してくるなと言っていたのに」
ジャンルイジ大公の記憶が正しければ、これで3回目である。
修繕費は当然彼女に請求するのが筋であろう。
そういうことを考えながらジャンルイジ大公は幼馴染との再会を待った。
◆◆◆
久々に自室でゆっくりと眠り朝を迎えたルドヴィカはビアンカ公女と朝食をとっていた。
目を覚ましたジャンルイジの容態がどうなのかとルドヴィカに確認してくる。
ジャンルイジ大公が眠っている間はビアンカ公女も看病を手伝ってくれていた。変わり果てた兄の姿をみてはじめは声を失っていたが、ルドヴィカの教えられる通りにジャンルイジ大公の清拭をせっせとするようになった。
目が覚めると、ビアンカ公女は訪問を控えるようになった。
何度、彼女は我慢すればいいのだろう。まだ8歳なのに。
早くジャンルイジ大公にかけられた言霊が解除されるのを願うばかりである。
「そういえば、フランチェスカ嬢とはどのような方なのかしら」
ルドヴィカは何となく疑問を声にした。
一応、歴史家の授業も受けていたので形式的な内容は覚えている。
「ああ、えっと」
「確か、強い神聖魔法の持ち主で、聖女候補よね。戦争で傷病者の治癒魔法を引き受けて、多くの人が奇跡的な回復をとげたの。治せない者もいたそうだけど、それでも彼女がいなければもっとたくさんの人が死んだと」
ビアンカ公女が口にする前にルドヴィカは覚えていることをそらんじた。
「それだけの方なら、もう聖女様よね。まだ聖女候補というのは不思議ね」
ルドヴィカの言葉にビアンカ公女はため息をついた。
自分もそこまで親しいというわけではないが、何度か会ったことはある。
「それは、あの人が……」
知っていることを話そうとしたが、それよりもすごい衝撃音が聞こえた。
何かがぶつかって大公城の一部が破損したような、そんな音であった。
使用人たちがざわついて、騎士たちのせわしい足音が外から聞こえてくる。
「な、何事っ!」
まさか大公城への敵襲だろうか。それとも災害?
使用人たちにどのように指示を出さなければならないかルドヴィカは慌てた。
「災害といえば、災害かもしれないわね」
ビアンカ公女は落ち着いた様子で立ち上がった。
むしろ呆れた様子であった。以前にも経験しているようなそんな表情で。
先ほど衝撃音があったであろう場所へ集まっていたはずの足音が今度は近づいてくる気配がした。
この食堂へ騒がしい程の声が聞こえてくる。
こんなに騒がしいのははじめてかもしれない。
ばたん!
扉が開かれて、そこから現れたのは美しい少女であった。
ルドヴィカより少し背が高い、すらっと痩身のモデル体型である。
印象的なのは、艶やかな長いストレートヘア。黒絹を思わせる程美しい。
日本の理想美の黒、濡烏という言葉を思い出してしまう。
さらりとした髪を白く細い手でかきあげ、その時に見えたのは湖の底のように青い瞳であった。
白をベースにし、刺繍でアクセントをいれているのは伝統的な神官衣装であった。上衣からのぞく帯の色が紫なのでかなりの高位に位置するのがわかる。
ルドヴィカが週末訪れている教会の神父よりもずっとずっと高い地位にいる者だった。
ルドヴィカは動揺しながらも高位の神官に対して礼儀を尽くさなければと姿勢を正した。
女神官はルドヴィカの方まで歩き、近づいていく。
立ち止まる気配もなく、近く近くルドヴィカの目と鼻の先まで近づいてきた。
「あの、神官……さま?」
こんなに神官に近づけられたのははじめてであった。
「ルドヴィカ大公妃ですね」
発せられた声は凛としている。
「はい、私がルドヴィカ・アンジェロです。あの、どちらさまでしょうか?」
距離が近い女神官にルドヴィカはたじろぎながらも質問する。
「ああ、直に会ったのははじめてですよね。私はフランチェスカ・ヴィータ、あなたに運命を委ねた女です」
意味がわからない言葉であった。
それよりも今、フランチェスカ・ヴィータと名乗ったような気がする。
「もしかしなくても、聖女候補の、大公殿下の幼馴染のフランチェスカ嬢でしょうか」
美少女の笑顔は肯定を示していた。




