Ep,1 帽子屋と白ウサギ
少しだけ、恋愛方面での事柄が載っています。
そういうものがお嫌いな方は、ここで引き返した方がよろしいと思われます。
目を覚ますと、そこは湖のすぐ側だった。
教室で授業を受けていた………筈なんだけど。
今まで、目にしたことのない美しい湖。
夢でしかみれないと思っていた、七色の蝶。
花の匂いがする、爽やかな風。
無駄な雑音が聞こえないその場所は、現実ではなかった。
そこで仰向けに寝ている、ということは、今まで寝ていたのだろうか。
改めて、周りを見る。
木や空、はたまた先ほど目にした七色の蝶……全てが全て、「ぐにゃり」という効果音が必要なくらいに歪んでいた。
それでも、「恐怖心」なんてものは感じなくて、逆に、この場所が気に入ってしまった。
完璧なものなんて、完璧じゃない人には似合わない。だから、あの世界が嫌いだったの。
この場所は、完璧じゃない。歪んでいるからこそ、ここは美しい。
延々と話し続ける教師の声。
だらだらと喋る級友たちの声や雑音。
そんなものとは、一切切り離されたこの場所。
まさに、理想の世界。
というか、
そもそも、ここはどこなのだろう。
あまりにも心地よすぎて、考えることをしなかった。
そう、授業は? 教室は? 学校は? どうでもいいけど、先生や級友達は?
「ここは、夢の世界」
ふと、横で声が聞こえた。
横、というか、仰向けになっているため、横上から声が降ってくる状況だけど。
「夢の世界?」
声の主を見ようとせず、空を見上げたまま聞き返した。
「そう。君が望んだ不思議の世界」
「私が……望んだ世界」
「君は、あの世界が嫌いなんでしょう?」
そう。あの世界が大嫌いだった。
どうでもいいことで溢れかえっているもの。そう、自分を含んだ全てが無意味。
「そう……ね。あの世界が嫌いだった」
「だった……?」
「ええ、嫌いだった」
「今は好きなの?」
そんな筈ないじゃない。大嫌いなあの世界なんて、好きになれないし、なりたくもない。
「嫌いよ」
「じゃぁ、なんで?」
「今は、そんなことどうでもいいから。
だって、私はあの大嫌いな世界から開放されたのでしょう?」
「うん、君が望んだから」
「だったら、嫌いだろうが好きだろうが、私には関係ないじゃない?」
何言っているんだろう。
よくわからないけど、本当にそう思ったの。
きっと、声の主も分けがわからない筈よね。
言った本人が理解していないんだもの。
「フッ。面白いね
ますます気に入った。
フッ、ハハハッ」
その後も、声の主は笑う。可笑しそうに、それでも壊れることなく、笑い続ける。
「そう? 気に入ってもらえて、よかったわ。
フフッ、フフフッ」
そして、可笑しくって二人で笑った。顔は見えないけど、彼と笑い合う。
ひとしきり笑うと、彼は手を差し伸べた。
「さぁ、起き上がって『アリス』。一緒に行こう」
「アリス………私が……アリス?」
差し出された手を取り、起き上がりながら聞き返す。
「そう、君が『アリス』」
彼と目線が同じくらいになって、顔が覗けた。
白い髪に白い肌、赤い瞳に赤いスーツ。剣を腰に挿し、柄の部分からは金色の懐中時計がぶら下がっていた。とても綺麗な容姿をしていて、身長は私よりも30センチくらい高いと思われる。
一つ、注目すべきところがある。
頭から、耳が生えている。
恐らく本物の、ではなくて、髪が立っているというようなものだと思われる。短いウサギの耳が、生えているように見えるのだ。
観察を続けていても、会話は続く。
「アリスって……不思議の国の?」
「そうだね、ここは不思議の国だ。だから、ここにいる君は『不思議の国のアリス』になるんだろうね」
「いや、そういうことじゃないんだけどね」
まぁ、どうせ言ってもわからないんだろうな。
「いいや、それより……私の名前はアリスじゃないんだけど」
「いや、君の名前は『アリス』だ。
今まで、君がどう呼ばれてきたかは知らないけど、間違いない。
君の名は『アリス』なんだよ」
「間違っているわ……。
だって、私の名前は」
何? 私の名前は…? 思わず俯いてしまう。
何で思い出せないの。思い出せない? 違う。
知らないのよ。今まで、何て呼ばれてきたのか。どうやって返事してきたのか。記憶がないの。
「『アリス』」
思わず顔を上げると、彼が優しい笑みをこちらに向けていた。
「君は『アリス』
それ以外の何者でもないんだよ」
「アリス………」
ふと、彼が片膝をついてしゃがみ込んだ。
何事かと思い、目で追ってしまう。
すると彼は、主君に対する跪きの様な姿勢をとった。
「僕は潤。白ウサギだよ」
「白ウサギ………」
「そう、白ウサギ。
『アリス』を夢の世界へと導く、君だけの案内人」
「案内人……」
言われてみれば、白ウサギに見えないこともない。
白髪だし、髪とはいえウサギ耳が生えているし、赤チェックのスーツを着ているし、時計も持っている。……でも、腰に物騒なものを挿しているけど。
「この世界で、一番君を大事に、大切に思っている者だよ」
「私を……大事に……?」
どういう意味だろうか。
あの世界でなら、これは「好き」という意思表現になるのかもしれないけど…。
ここでの「大事」と向こうでの「大事」は、きっと違うと思うから。
「一番の君の理解者、ってとこかな
(……きっと、君も僕無しでは生きていけなくなる)」
「理解者……」
理解者以外にも、何か言っていた気がしたけれど、聞き取ることはできなかった。
「さぁ、『アリス』
一緒に行こう」
「何処へ?」
「君が安心して眠れる場所へ」
「具体的には、何処」
「僕の家」
「なんであなたの家なの」
「ハハッ」
「いや、笑って誤魔化さないでよ」
「ま、いいじゃないか。
楽しければ、それでよし」
「いや、楽しくないし」
ぶつくさ垂れていると、潤は顔を近づけてきた。
「…何」
「いや、綺麗な顔してるなぁ、と」
「誉めても何もでてこないわよ」
「というか、ただ単に………」
ちゅっ
「美味しそうだな、食べたいな、と思っただけ」
食べたい? 食べたじゃないか………。
アイツ………唇舐めやがった。
「顔、真っ赤だけど」
「お前が、変なことするからだ」
「ハハッ、じゃぁさ……。
どこまで赤くなるか、試していい?」
そう言いながら、潤は顔をぐぐっと近づけてくる。
逃げたいのは山々だけど、生憎、肩を捕まれ既に身動き取れません。
「許可なんて、最初からとる気ないでしょう」
「分かっちゃった?」
「妙に行動が早いあたりでね」
「ハハッ、本当に、面白いね。
でも、一応は相手の気持ちを汲まないと」
「そんな気持ち、全く見えないんだけど」
「うん、だってさぁ……。
ヤダ、って言われて逃げられたら、できないじゃん」
「つまり、嫌だ、と言ってもお前はやると」
「そのつもりだけど……嫌なの?」
笑顔で変なことを聞くな。
初対面の奴にそこまで心を許すほど、警戒心は薄くない。
「嫌に……決ま……って」
「ん? よく聞こえないなぁ」
口が、回らない。
何故か、否定できない。嫌なはず、逃げたいのに、言葉が出ない。身をよじる事さえできない。
そもそも、こいつなんで口調変わってるんだ……キャラまで変わっていないか?
というか、何故に「唇舐めた」時に拒否にしなかった、自分。
「何も言わないってことは、良いってことだよね」
「いや、誰もそんなこと」
「否定しない=肯定してる」
「なんだその、無理矢理自己中方程式」
必死のツッコミも虚しく、潤は顔を近づけてくる。
肩を掴む力は、一向に弱まらない。
本格的に、貞操なんてものが危うくなってきている。
ここで、青春なんてものは儚く散ってしまうのか。
随分とネガティブな考え事をしていると、天からの救いの声が。
「おい、白ウサギ。 『アリス』を離すんだ」
妙に殺気立っていませんか、この声。
今にも、誰か殺してしまいそうな雰囲気。
「ハンッ、帽子屋か」
「そうだ。だから、さっさと『アリス』を離せ」
何がどうやってだから、に繋がるのやら。
傍観者として、会話にツッコミを入れてみる。
「嫌だ」
「嫌もへったくれもない。
さっさとどけ」
「だから、嫌だといっているだろうが」
「嫌、で済まないんだ」
「案内人が『アリス』を傷つけてどうする」
「案内人としての仕事は終わった。
今は、潤としての行動だ」
「屁理屈言うな、この馬鹿が」
「そっちこそ、帽子屋の仕事はどうした。
この阿呆が」
「仕事は全て終わらせてきた。
それに、帽子屋は『アリス』を守るべき存在ではないからな。
どちらかというと、傷つける方だ」
「じゃあ何故、俺が傷つけるのを阻止しようとする」
「私が傷つけるのはいいが、他人が傷つけるのは気に入らない」
「変な理屈言うな」
「理屈じゃない。
遠まわしな命令だ」
いや、結構ストレートだったはず。
お互い、似たようなことしか言ってないし。
「ともかく…」
ふと、帽子屋と呼ばれている人と目が合った。
彼は、指をパチンと鳴らすと、その場から姿を消した。
状況を飲み込めずにいると、後ろから誰かに抱きすくめられた。
「ひゃっ」
驚きのあまり、随分と間抜けた悲鳴を上げてしまった。
潤が驚愕の表情をしている。その視線につられ、上を見上げる。
するとそこにいたのは
「『アリス』は私がもらう。
危険な白兎とは一緒に居させられない」
先ほど消えたはずの、帽子屋だった。
彼は、抱きしめたまま指を鳴らした。
パチンッ
次の瞬間には、潤は視界から消えていた。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・
アリスが消えたあと、未だ潤はアリスがいた場所を見つめていた。
だが、ふと目を瞑り、剣を抜いた。
「フッ」
小さな気迫と共に繰り出した剣は、芝生を刈り、奥の茂みをへこませ、その奥の木々を傷つけた。常識的に考えると、ありえないことだが、潤はそれを易々と成し遂げてしまった。
幾度となくそれを繰り返し、沢山の物が傷ついたとき、潤は剣を納めた。
そして、ため息をはきながら呟いた。
「よりにもよって、帽子屋に奪われるとは…。
『アリス』…どうか無事でいてくれ」
そして、沢山の傷を残して潤はその場を去った。
残ったのは、『アリス』が目覚めたときの様な静けさと、不完全な美しさだけだった――――――――――――――――――――