第三話 忍び寄る悪意 後編
崖から落ちた少年の前に現れたのは……
少年が目を覚ましたのは、冷たい岩の上だった。
鋭い痛みが脳を走る中、ゆっくり体を起こす。
「あれ、ガルル……」
薄暗い視界には、オオカミの背中と、黒い塊。否、塊のように群れた、大量の獣。
おそらく、テントを襲撃してきた集団だろう。見覚えのある、というより、あの時聞いた、耳をふさぎたくなるような憎悪の塊がそこにあったからだ。
周囲は高い崖に挟まれ、日の光があまり入ってこない。空気は少し湿り気があった。
気温もそれほど低くはなく、比較的過ごしやすい。もしかしたら、ここは獣達の巣なのかもしれない。
「ねぇ、なんでそんなに怒っているの?」
唸るガルルを手で静止し、前に出る。
その反応に対し、彼らは聞く耳を持たない。
憎悪の数は、百はくだらないだろう。
それぞれが同じ憎悪を持ち、掛け合わされて倍々に増幅されている。
故に、ちょっとやそっとの言葉では、燃え滾る炎を消すどころか、揺るがすことすらできない。
それでも、チャペは彼らに聞かなくてはいけない気がした。
牙をむき出し、威嚇体制の彼らの中から一匹、ゆったりと若い雄が出てくる。
「ぐ、ああ……」
脳が震える。手足が痺れる。小さな彼の眼は、鋭く、瞳は燃え盛る赤色で、目を逸らしたくなる。
少年の身体は、警告を鳴らしていた。
こいつは危ないぞ。そう、本能が訴えるが、それでも、前へ出る。
彼の後ろでは、今も唸り続ける相棒の姿。
大丈夫。何かあったら彼が助けてくれる。
だから、敵対の意思がないことを示さなくてはいけない。
背中に背負った剣を床に置き、片膝をつく。
一度合わせた目を逸らしてはいけない。チャペが森のサル達と触れ合う中で身に着けた護身術の一つだ。
目を逸らせば、こちらの立場が弱いと思われ、攻撃されるからだ。
緊張はゆっくりと、ゆっくりと解かなくてはいけない。
長い沈黙。
息を吸うことすら忘れてしまうような緊張感も、ある瞬間に解ける。
若い雄がほんの一瞬、目を逸らす。
チャペはその瞬間を見逃さなかった。
「教えてくれ、君達が何に怯えていて、怒っているのかを」
腰巾着から団子を取り出し、差し出す。
完全に警戒心が薄れた訳ではないが、恐る恐る、小さな彼が手を伸ばす。手に取るまでは一瞬だったが、それをすぐに口には運ばず、匂いを確かめ、チャペの方を一瞥し、食べた。
そして、彼は敵かもしれない少年へ、伝える。つい数日の間に起きた異変を。
その衝撃的な内容に、彼は耐えられず、涙が零れる。
「わかった。話してくれてありがとう。どこまで本当かはわからないけど、君たちが嘘をついているとは思えないけど」
袖で涙を拭い、
「できる限り、力になりたい。まずは、いろいろ確かめさせてくれないかい」
そう言い、剣を拾い上げて立ち上がる。
チャペがカッチたちのキャンプに戻る頃には、太陽は大きく西に傾いていた。
修復はまだまだ途中なようで、ありもので修復した継ぎ接ぎの不格好な骨組みだけが立っていた。それもそのはず。木を集める途中で襲われ、チャペは崖から転げ落ちてしまったのだから。
テントでは、カッチとウースがせっせと修復をしていた。
声を掛けようと口を開けた時、
「坊主!」
後ろから叫び声。
振り返ると、木の枝を大量に抱えた大男が、まるで死人を見るかのような目で少年を見ていた。
「まるで死人を見るかのようだね……」
声を掛けられた張本人は。苦笑いを浮かべる。
「少年! 生きていたのか!」
「話を聞いて、てっきりもうダメかと思いましたよ」
二人も彼に気づき、近寄る。
「まぁ、何とか」
三人の兵士たちは、彼の生還を喜んだ。
無事とは言い切れない、むしろ満身創痍が似合うような姿ではあったが。
日が沈む前にテントの組み立て、夕食時。
「よく戻ってきたな! またあいつらに襲われたんだって?」
ラートンが骨付き肉を頬張りながら問う。
少し興奮気味になっているのは、戻ってきたことに対して素直に喜んでいる証拠か。
「うん、まぁね」
チャペは肉を手に持ったまま、口に運ばない。
「食べないのですか?」
彼の容姿がおかしいことに気が付いたウースが心配そうに尋ねた。
「あー、うん。ちょっと口の中を切ってて」
そう誤魔化し、痛々しい笑みを向けた。
その様子を怪訝そうに見つめたのはカッチ。
でも、それは一瞬のことで、誰もそのそぶりに気づく様子はない。
「何かあったのか?」
そう尋ねた言葉に、少年の肩がピクリと跳ねる。
「いや、何もなかったよ。あいつら、あそこまで追ってこなかったんだ」
「ふーん、そうか。すぐに助けに行けなくてごめんな」
「それは仕方ないよ。あんな状況だったんだし」
痛々しい笑顔だった。
それに対する言葉は、何処か冷たかった。
「ありがとう。無事でよかった」
と。
夜。キャンプにいた者たちは寝静まる中、一人と一匹の姿がテントから抜け出す。
「ガルル。あの匂い、覚えているよね?」
それに応えるように、鼻をスンと鳴らす。
覚えていなければ、あの料理の骨を使ってもよかったが、香辛料を使用している以上、あまりあてにはならない。
「ガルル、行くよ」
音を立てずに、先行するオオカミの後を追う。
近くの岩山の麓。そこには大人一人通れるぐらいの幅と高さの横穴が開いていた。
「ここだね」
夜じゃなくても、きっと真っ暗だろう。
そんな中に、オオカミの嗅覚を頼りに踏み込む。
十数メートルほど進んだところで奥に壁が現れる。
「行き止まり、という訳ではないみたいだね」
オオカミの様子を見て、判断する。
手探りで壁を触って確かめる。
感触でわかったのは、壁が木製ということ。
耳を澄ませると、壁の中から、キイキイと甲高い鳴き声がする。
信じたくはなかったが、疑念が確信に変わった。
「よいしょっと」
木の板に隙間があることがわかり、そこに手を掛けると、簡単に外せた。
壁を伝うと、すぐに道は折れ、壁の感触が消える。
鳴き声はすぐ近くで聞こえ、反響する。
怯え、恐怖の感情に染まった鳴き声が、少年の心を突き刺す。
まだ見えていないが、不安が心をざわつかせる。そんな中、後ろから足音が聞こえてきた。
「誰だ!」
チャペは剣を抜き取り、振り返って構える。
一歩、二歩と下がり、足音の主を待つ。
すると、オレンジ色の明かりが壁を照らし、足音の主が悪態を吐きながら出てくる。
「誰って、それはこっちのセリフだぜ、少年」
その人物は、サル顔の小柄な男性だった。
「カッチ……」
「その様子じゃ、意外な人が来た! って訳じゃなさそうだな」
ニヤリと口角を上げるが、目は一切笑っていない。
「ここは、何?」
尋ねると、カンテラを持っていない右手で頬をかきながら、
「何って、知ってて来たんじゃないのかい?」
と、カンテラを軽く持ち上げ、辺りを示す。
チャペは振り返ると、そこには想像以上の凄惨な環境があった。
「なんだよ、これ」
小さなサルでも、とりわけ小さなサルが、十、二十と檻に入れられていた。
一部はすでに事切れている様子で、ピクリとも動かない。
「何って、あいつらのガキだよ」
彼は語り始める。
「子ザルの肉は貴重でな。栄養価も高く、美味なんだよ。お前も食べただろう?」
「あ……」
あの不思議な味わいの肉。やはり、そうだったのだ。
「骨は薬になる。生きていれば見世物小屋で金になる。故郷ではな」
右手を後ろ手に、彼は近づく。
「なぁ、少年。見逃してくれるよな?」
冷汗が垂れる。
少年は震えていた。何が正しいかわからない。生き物命を奪うことは間違っているとは言えない。自分が故郷でしてきたことは、そもそも命を育て奪い、自分たちの命としてきた行為。彼らと何ら変わらない。
「で、でも、お金稼ぎに使うのは……」
剣を持つ手が震える。
「金がないと、家族を食わしていけないからな」
「そ、そうだよね」
じゃあ、この状況を見逃せばいいのか。
問題ないじゃないか。
カッチに向けていた切っ先を下す。
「物分かりが早くて助かるよ」
笑顔が張り付いているかのように、表情を一切変えずに近づいてくる。
ガルルは一切警戒を解かず、唸り続ける。
相棒に指一本触れようものなら喉元に食らいつかんとばかりに。
チャペは考えた。
じゃあ、どうして俺はもやもやするのか。
どうしてカッチは見逃すよう言ったのか。
どうしてサルたちは怒り狂っていたのか。
その答えは、ヒントは。
「ねぇ、カッチ」
彼の足が止まる。
「これって本当に正しいこと?」
彼に尋ねることはきっと間違いかもしれない。でもそれ以上に、今の彼らの行いが間違いに見えて。
「これは必要最低限のこと? この子達の命に感謝はしてるの?」
カッチの眉が上がり、目は鋭さを増す。
チャペが脳裏に浮かべるのは、数日前、村を襲った魔物の姿。
蹂躙し、貪ったあの日を。
彼らの行いはそこに通ずるものがあるかに思えた。
「これじゃあ、僕の村を襲った魔物と同じなんじゃないの」
「あいつらと一緒にするな!」
怒号が響いた。
カッチの、聞いたことのない声に、少し足が竦む。
子ザルたちの悲鳴も大きくなる。
「五月蠅い! 黙れ!」
カッチは右手に持っていた物を檻へと投げつける。
「なっ――」
その先、視線を追えば、カンテラの光を反射してギラリと光るそれは、一匹の子ザルの脳天を貫いていた。
「カッチ?」
恐る恐る、視線を戻す。
「なぁ、クソガキ。物分かりの悪いガキは嫌いなんだよ。お前、何様なんだよ。俺たちに命助けられたくせに。お前も食べたくせに。うだうだうだうだうだうだ五月蠅ぇんだよ。見逃せばこちらも何もしないつもりだったのによ。自分からそのチャンスを逃すんだからな。全部、全部お前が悪いんだよ。分かるか? 分るよなぁ? なぁ?」
彼は腰から小刀を抜き出し、振りかぶる。
が、そこへガルルは飛込み。右手へ食らいつく。
「このくそワンコ!」
左手のカンテラで殴りつけ、右腕を振り回したところで彼は放した。
「もう許さねぇからな」
落としたナイフを左手に拾い上げ、カンテラを地面に置く。
「カッチ! 俺は戦いたくない!」
「今更泣き言言っても遅い!」
一瞬で間合いに踏み込まれ、チャペはその攻撃を剣で受け流すのに精いっぱいだ。
「ガルル! あの檻を壊して!」
「ふざけんな! 俺の努力をどうするつもりだ!」
「そんなの知らないよ! でも、あんなのは正しいとは思えない!」
カッチを押し返す。
「そんな曖昧な理由で、勝手なことするんじゃねぇ!」
「さっきのあれでよくわかった! カッチは子ザル達の命に感謝してない!」
「感謝したところで事実は変わんねぇ! あいつらは金になり、飯になり、薬になり、いろんな人の助けになるんだよ!」
「だから、それが魔物と一緒じゃないか! 彼らのおかげであることを忘れるから、簡単に殺せるんだ! 無駄に殺せるんだ! そんなの許せない!」
チャペの持つ剣の宝石が、淡く光り始める。
「だから!」
踵を返し、相棒が傷をつけた檻へと向かう。
「何する気だ!」
「ガルル、どいて!」
剣を振りかぶり、檻へと思い切り打ち付けた。
「やめろおおおお!」
追いかけるカッチの悲鳴をよそに、もう一撃食らわし、檻の上下を叩き切った。
「早く逃げて!」
破壊された檻の中から、子ザル達が飛び出していく。
「お前、お前お前お前! 死んでも許さねぇからな!」
怒りに任せて小刀を振りかぶる。
「死ぬわけにはいかない! 絶対、助けなきゃいけない人がいるから!」
その小刀めがけ、剣を振り上げる。甲高い金属音を鳴らし、小刀が飛ぶ。
「クソガキ」
「助けてくれたことには感謝してる。だけど、これに懲りたらもうこんなことをしないで」
カッチは悔しそうな顔を浮かべたまま、睨みつける。
と、そのとき。
再び明かりが通路を照らす。
「おや、何事かと思えば、派手にやってくれましたね」
ウースとラートンもこちらに来た。
「やっぱり無茶しすぎたんだよ。密漁なんかで金稼ごうなんて、欲が出過ぎだ」
そう言ってラートンがカッチの頭をバシバシ叩く。
「この仕事が上手くいけば、かなり美味いことになる予定だったが、邪魔されたんじゃ仕方ないわな」
「上手いこと言ってるつもりですか」
呆れ顔のウースに、ラートンがガハハと応える。
「さて、とりあえず。この落とし前は流石につけさせてもらうかな。そうでないと俺たちの気も済まないし、情報ばらされても困るしな」
「ええ、そうですね。彼に罪は……ありますが」
そう言って、二人とも武器を構える。
「何で」
流石に大人二人に子供一人とオオカミ一匹では太刀打ちできない。
もう終わりだ。
そう思った矢先、外が騒がしくなる。
「おいおい、もうサルどもに感づかれたってのか!」
後ろを警戒し、構える二人。
チャペも警戒する。
そこへ飛び出してきたのは、
「ウマソウナニイガスルナ!」
「コイツラ、クウカ?」
「イヤ、ダメダ」
魔物だった。
一瞬の隙を突かれ、ウース、ラートン、カッチの三人は魔物達に蹂躙され、倒れる。
「あ、ああ……」
あまりの出来事に腰が抜ける。
「ドコヲミテイル」
気づけば真横に魔物がおり、そこで意識が飛んだ。
連れ去られたチャペ達!
今後どうなるのか!?
ちなみに、おじさん達も、子ザル達もみんな仲良く連れ去られました。