生きる
空は不気味な灰色だ。
眠れない都市で途絶えることのない人工の光が、この郊外にまで届く。雲はその微かな光を反射して、怪しく光る。
私の生きる時代では、ありきたりな光景だ。
正月の寒い夜に、私は一人で散歩をしている。
年が変わったって何も変わらないのに、人々は新年を祝って、家で団欒を楽しむ。だからだろうか、国道は閑散としていて、たまに通る自動車のヘッドライトが眩しいだけ。歩道からは、避けられない。
「素直じゃないなあ」
一粒の雪が頬に落ちた。
「冷たい」
赤のマフラーに顔をうずめると、吐いた息で頬が温まる。僅かな幸福に、私は一人で微笑んだ。
暗くて、冷たくて、静かな夜は、意図しなくても何かを考えてしまう。それはさっき食べた夕飯や、課題をやらなくちゃ、みたいな日常的なことではなくて、考えても終わりのない哲学みたいなこと。何でもない日常の何でもない疑問。意識しなければいつの間にか忘れ去ってしまう疑問。例えば――
「なんで生きてるんだろ」——そんなこと。
私は筧椛葉として生きている。高校に行って、そこそこ未満に勉強して、面白い流行に笑う。それだけ。何かに熱中することもなく、徒然なるままに日々を過ごしている。
ポケットに入れていたホットココアの缶を取り出す。両手で大事に握ると、冷え切った手のひらが息を吹き返した。この温かさが今は愛おしい。
私は何を求めているんだろう。私の情熱を受け渡してもいい何かを探しているのは間違いない。でも、何をすればいいのかわからない。不思議な疑問が切除できない良性腫瘍となって、心の裏にこびり付いている。
このまま生きても弊害はないと思う。大学へ行って、就職して、働いて……。でも、その先で何が待っているのかはわからない。ただ、老いて死ぬだけ?それはとっても、寂しい。こんな疑問さえ持たずに目先のことに精一杯尽くせるなら、現代は遠い昔より生きやすいのは確かだろう。
スマホの検索欄に「生きる意味」と入力すると、続けて、「ない」と出てきた。私と同じ考えの人って、いるんだな。でも、検索結果はどこか胡散臭かったからブラウザのタブを消すのに遠慮はなかった。
帰路の途中に私は、誰もいない公園のブランコに座った。ココアを太腿の間に乗せる。じんわり温まる。
ブランコ板に取り付けられた二つの鎖を握ると、温まっていた手のひらが冷えていく。そして私は目を閉じる。
私は私と向き合う。夜よりも暗い闇の中をかき分けて、本当の自分がいるはずの心の底を目指す。ここには人工の光は届かない。暗闇の中は風がなくて、進んでいるのか、戻っているのかさえわからない。それでも、進む。すると、心に隠されていた疑問達が浮かぶ。それらをゆっくりと、再生する。
私はどうして生まれた。何を持っていた。どうして生き続けた。何をしてきた。どうしてこれからも生き続ける。何をすべき。どうして生きていきたいと思う。何がしたい。
こんな、私のあけすけな実存は、前にも問われたはずだ。悲痛だけど、避けては通れない。でも、突き進もうとすると、怖気づいてしまうから、いつもここで止まる。生きがいが見つけられないから、私の目標は「生きる」なんだ。
「生きてて楽しいか?」誰かの声が聞こえる。たぶん、私だ。
私は立ち上がった。コツン、とココアが落ちる。拾い上げると、ココアも寒さで人肌並みになっていた。せめて一滴も残さずに飲んであげよう。
「早く帰ろう」
そう自分を急かしたのは寒いからだけではなく、不気味な空に、ちっぽけな私はいとも容易く潰されてしまうと感じたからだ。
明日が年明け最初の登校日だというのに、課題はちっとも終わっていない。先生に怒られるのは必至だ。冬将軍がベッドのそばにいるから布団から出られなかった…なんて、先生は笑ってくれるのだろうか。
「明日学校だね」棗に何でもないメッセージを送った。
本当は、なんで生きているのかがわからなくて、ずっと考えていた。そしたら気分まで落ち込んでしまった。重りをつけられたような億劫さにほだされた私に、課題をやる気力なんて湧かなかった。気晴らしの散歩は楽観を私に与えてくれたから、どうにか、やつれた心を潰さないでいられた。————最後は、台無しにしてしまったけれど。
こんなこと、考えなかったらもっと楽しく冬休みを過ごせたと思う。でも、生きる意味から逃げ出せなかった。
私は、何をおいても差し当たり私の生きる意味をどうにかしようとして――云わばどうにもならないことを、どうにかしようとして、とりとめもない考えをたどりながら、布団の温みに身を包んでいたのである。
現代文の先生でもあり、クラス担任の葦野先生の授業を思い出した。たぶん、私のサンチマンタリスムは、私の中の暗闇に影響されたに違いない。
手に握っていたスマホが震える。「やっと会えますね!待ち遠しいです!!!」棗の顔が思い浮かぶ。美人のくせに、笑うとぬいぐるみみたいにかわいいんだから。
棗はいつも活発な敬体でメッセージを返してくれる。『!』が付かなかったことは、ほとんどない。
「私も会いたい」と返したら、きっと数日は後悔してしまう。私はそんなキャラじゃない。だから精一杯の譲歩を込めて、「ねえ。落ち込んだ時って、何してる?」と打ち込む。すると、「欲望に忠実になります!もしかして、今日で冬休みが終わりだから、憂鬱なんですか?!」と、すぐ返信が来た。少し嬉しい。
「欲望に忠実ねぇ」私はついさっき、ささやかな欲望を抑圧した。もしそれに忠実になってしまった後の始末を考えると、どうも気後れした。私は棗に「うん、そうかもしれない(笑)」と嘘をつくことにした。
「そんな時は、好きなことを考えましょう!!寝ます!おやすみなさい!」棗は健康的な生活をモットーにしているから、日付が回る前にはすべてシャットアウトする。私も「おやすみ」と送ってから、電気を消してベッドに潜った。
新しい年が始まっても何か変わるわけじゃない。
毎日は水平線のように、続いていくだけ。
何日か経った後の放課後、私は棗の所へ遊びに行った。これはたいして珍しいことでもない。学年が変わると同時にバドミントン部をやめてしまった私は暇を持て余し、放課後は棗を尋ねるのが日課になっただけのこと。
棗は少人数の文化系クラブに所属している。でも活動は月に二、三回で、四階のその部室が使われていない日は、彼女はそこを借りて勉強や読書をしている。私はそれに便乗している、というわけだ。
熱い緑茶を好み、舌鼓を打つ姿は、日本美人な風貌にぴったりだ。だが、華麗な棗とは違って、最近の私は鬱々としている。今日、棗に会うのは気晴らしがしたかったからでもあるんだ。
「棗はさ、なんで生きてるか考えたことある?」
「特にないですね」
「私、なんか納得いかないんだよねー。今の自分の生き方というかなんというか。惰性で生きてるって感じがする」
「パッシブよりアクティブがいいんですか?」
「そう、それ」
「じゃあ、椛葉ちゃんがしたいことをすればいいじゃないですか」
「それがわかんないんだよねー」私は床を蹴って、オフィスチェアを回した。風景が滲んで、長くなる。物体は形を失い、色だけの情報に省略されて、有象無象へと堕落する。三半規管のリンパ液が渦を巻くのを想像すると、気持ち悪くなった。
両足の力を抜いて錨にする。木にプラスチックの靴底が衝突して、軽い音が鳴る。そのとき、私の手には好奇心が握られていた。
「棗はさ、なんで生きてるの……?」
「悪口ですか?」棗はくすりと笑う。
「ははは、違うよ。ごめんごめん」さすがにさっきのは言葉足らずが過ぎた。言った私でさえ笑ってしまう程だ。「ただ、棗の生きる意味をききたいだけ」と言い直す。
棗は緑茶を啜る。その凛々しい動作一つに、余裕を感じる。
「そうですねえ……」潤った唇が、無防備に開いたままになる。棗は、今まさに頭の中で言葉を紡いでいる。マフラーを編むようにゆっくりと、確実に、想いを編んでいる。いったいどんな色の毛糸で、どんな青写真を持ちながら手を動かすのだろう。彼女の体を開けば、見られるのだろうか―――。しかし、私の想像がどこかの終着点にたどり着くより早く、棗は唇の奥から、編み終わったマフラーを取り出した。
「私を生きる。としか、言いようがないですね。この精神と肉体とが合わさって私なんですから、乖離しない限りは変わりません」
私はオーダーメイドのマフラーを手に取る。手触りは柔らかいのに、丈夫だ。これが作られた過程を、私が知る手段はない。
「なるほどねー」
「ちゃんと聴いてました?」私が力を抜けた声を出すから、棗は不審に思ったのだろう。私は目を合わせて、「聴いてたよ」と返した。
棗は本当によくできた人だ。文武両道。芍薬、百合、牡丹の三輪セット。外見だけでなく、中身までお淑やかだから、見ていて飽きない。でも、そんな彼女が考えた生きる意味でも、私にはしっくりこない。もどかしくて、背もたれに体を預けて、チェアを左右に振った。
「棗~、なんかヒントちょうだい」
「知りません。駄々をこねていないで、自分に尋ねたらどうです?」
「もうやったよ~」
「じゃあ、納得がいく答えが見つかるまで、いろんな人に尋ねて回るのはどうですか?」
「え、それって誰かのを真似しろってこと?」
「いいえ。他人の答えをそのまま実行しろと言っているのではありません。他人の答えを元の形がわからなくなるまで咀嚼するのです。そして、あなたが必要だと思ったパーツだけを手に取って、新しく組み上げる。そうすれば、あなたの意味に近づけるのではないのでしょうか」
「でも、パクリみたいな気がする」
「そんなことありませんよ。唯一は、様々な物事が完全に溶け合って、まとまった一に見える状態を言います。それのルーツがすべて他人から受け取った事だとしても、です。人は社会の中でしか人として生きられません。そして社会という枠の中で人々は互いに影響しあいます。だから、何者にも影響されない人などいないのです。無から生まれたものだけをオリジナルとしなくても良いのです。何もないところから生まれたのは、宇宙くらいですよ」
「そうなのかなあ」想像しても、実感がわかない。
棗はもう一回湯呑に口をつけた後、「まあ、宇宙の話は否定されてしまうかもしれませんが」と付け足した。
そのとき、下校時刻を知らせる放送がかかる。
「じゃあ、誰かに当たってみるよ」
「ええ、応援していますよ」棗は両手でガッツポーズをしてくれた。
私には、悩んでいることがもう一つある。学生がみんな一度は持ったであろう、進路への悩みだ。
私は、学びたいことは特にない。だからって進学しないで就職するのはとっても勇気がいる。
みんなが歩むような、進学して就職する人生の道を進んでいけば、とりあえずは安泰だ。けど、苦しまなくていいわけじゃない。土台がしっかりした道を歩む方が、安心して目の前の問題に取り掛かれるだけのこと。
紙面上ではどれも変わらない見た目をしているから偏差値で大学を決める。
本来大学は学ぶために行くもの。学びたいことがわからないうちに決めたって、どうしようもないじゃないか。
「行きたいところは決まったか?」
担任の葦野先生が入ってきて、開きっぱなしだった扉を閉めた。開口一番、皮肉のきいた問いだ。
葦野先生は二十代後半で、決して授業が上手いとは言えない国語教師だ。普段は少年っぽく笑うのに、授業中は銅像のような顔をする。例えるなら、ロダンの考える人かな。
「決まりませんよ」私はきっぱりと言い放つ。
「にべもないなあ。興味がある科目はない?」
「ないですよー。あったら毎日寝てません」先生は「そうか」と苦笑する。
「三年で新しく学べる科目もあるから、それからでもまだ大丈夫だろう。だが、何もしないままというのは一番危ないぞ。せめてどんな学部で何を学べるかぐらいは知っておいてもいいんじゃないか」
「やってみます」やる気はないくせに、我ながら姑息な返答だ。
今日呼び出されたのは、進路についての面談、ということだったが、他にも話すことはあるらしく、先生はさて、と続ける。
「将来の夢はあるか?」
「ないですよ」あるわけない。希望よりも絶望を嘆く声が社会には溢れてみえるってのに、どんな空想家になれっていうんだ。
「みんなにその質問してるんですか?」
「ああ、――重要なことだからね」
「なぜですか?」先生は、持っていたペンを何回か回した後、そっと置いた。
「夢はこの世界において、その人を形作るものだ。鮮明でも漠然でも、細大を問わず、夢は夢だ。人は何でもできる。何にでもなれる。比喩じゃない、本当の話だ。だから、人は夢を持つ。そして、それに近づきたいという願いは人を動かす。夢を知ることは、自分を理解する第一歩だ。その人がなりたいもの、したいこと。それを希求してこそ、人生――――人の生だからね。筧もやってみたらどうかな?夢を言葉にできるなら、行きたい大学なんかすぐ決まると思うんだ」
「わたしのなりたいもの、したいこと……」復唱する。体の芯に届くように、先生の明朗な意思を異化させる。
けれど、私は途中で打ち切った。すぐに分かったからだ。これは、国語や数学の答えと格闘するよりはるかに時間がかかる特別な問題だと――。
「でも、そんなのすぐ出ないですよ」不満はすぐに口に出た。
「あたりまえじゃないか。じゃないと面白くない。それに、学生の時間が有り余るほどあるのは考えるためだからね。そのために使わないともったいないじゃないか」先生は屈託のない晴れ晴れとした笑顔を浮かべる。
さわやかすぎて、私は言葉を失った。どれだけ文句を連ねてもきっと無駄だろう。
私は、私の中にある暗闇を上から見つめると、縦と横と深さが限りない大海原にも見えた。この中から夢を見つけるとなると、体は独りでに委縮した。
「私にも、夢はあるんですか?」
「あるさ。夢がない人なんていない。」
おそらく、数字のような根拠はない。だけど、夢を夢見る先生はなぜか、強く見えた。この強さは、何かに似ている。方向性は違うけれど、自分の信念に百パーセントの努力を注ぎ込める人――そう、棗だ。
あ、思い出した。
「先生、私からも質問良いですか?」純粋な期待に、声が弾む。
「もちろん、聴かせて」
「人が生きる意味って、なんだと思います?」
すると、先生は今朝剃ったばかりの顎髭を弄りだした。
「いやあ、難しい質問だね」先生は深く、意識の底へと沈んでいく。考える人だ。
そして、私が羨望する「意味」を語りだす……と思っていた。
「うーん、意味なんてないんじゃないかな」
「――――え?」
「ああ、何もないってわけじゃない。ただ、意味があったか、なかったかなんて、後付けの解釈でしかない。終わってみないとわからないのが意味だ。でも、そうだなあ」
考える人は塗装がはがれかかった天井を見上げる。でも、天井を見ているんじゃなくて、きっと、この人だけの真理と向かい合っているんだ。
「意義はあると思う。筧も僕も、暫定的な役割を持っているはずだ。今、僕は筧に教えている。それは、意味はないかもしれない。でも、少なくとも教師と生徒という関係性には価値がある。僕の言葉を真剣に聞いてくれる筧が、今すぐにじゃなくても何か感じてくれるかもしれない。それは僕と筧の、今の関係があって成り立つものだ。だから、意義がある。意義がなければ、おそらく、意味も生まれないだろう」
そして、メッキの金属が崩れ落ちて、また爽やかな表情に変わる。
「たぶん人って、生きているうちにはそれくらい漠然としたちっぽけなものしか持ち合わせていないもんだよ」
意味はないけど、意義はある……。私は先生の発言の何割かしかわからなかった。
「……いまいち、わからないです……」眉を顰める私を見て、先生はけたけたわらう。
「納得がいくまで考えてごらん。筧ならできるよ」この人、生徒に腐心させるのを楽しんでるでしょ。なんかむかつく。
そこで面談は終わって、私は感謝の言葉を述べてから棗の所に向かった。考えることが増えてしまった。嬉しい悲鳴だ。
四限目終了のチャイムがのっそりと響く。先生は駆け足でなんとか話を終わらせようと試みるが、みんなは筆記用具をそそくさと仕舞うのに夢中だ。嫌なことからスイッチを切り替えるのはめっぽう早い。一分もすれば、教室はすっかりお弁当のムードだ。
「なぎはー。べんとうたべよー」芽唯は、居の一番に弁当の包みを私の机に置いた。
「ちょっと、まだ片づけ終わってないでしょ」
「遅いな~椛葉は。そんなんじゃ流行りについていけないよ~」からかいを多分に含んだ言い草が鼻につくけど、もう慣れてしまった。
「あんたが早すぎるんでしょ」と、私の気持ちを代弁してくれたのは、インテリの文系少女の麗だ。一方さっきの芽唯は、日焼けした小麦色の肌が特徴の、陸上部のエース。
文と武と、どっちつかずの私で作られたちぐはぐな三人組だから、主に芽唯が「よく知り合ったね~」とたまに呟く。ほんと、そうだね。
二つのテーブルを繋げて、三人分の居場所を作る。三角形に弁当を設置する。
「いただきます」波長の違う三人の声が、重なった。冷えてしまった食材も、幾分かはましになる。
しかし、善は急げ。早速、気になっている話題を投下する。
「二人はさ、生きる意味ってある?あったら、教えて欲しい」
「どうしたの?突然」芽唯が呆れている。
「いや、ちょっと気になっただけ」
でも、インテリの形容が似合う麗はやはり、反応してくれた。
「私が今何のために生きてるかってこと?それなら、あるけど」
「ぜひ、教えて」麗の声を一つも聞き漏らさないように、私は耳を傾ける。
「私はね、誰かのために生きてるよ。きっかけは古代ギリシアの話」麗は目を閉じて想像に耽る。
私の周りからは音が引いた。麗の、今まで見たことがない表情に、周囲のことは既に私の意識から遠のいていった。彼女の澄んだ声しか、耳には届かなくなっていた。
「その時代、とっても強い部隊が居たの。男性愛が強かったその都市は、男同士のカップルで部隊を作って他の都市と戦った。発案者は、『カップルならきっと恋人を守って戦うだろう』と考えたって言われてる。狙い通り、士気は高かったって」麗は、文字を一つずつ噛み締めながら、形にする。「彼らは、ただの作戦だったとしても、本当に、愛する誰かのために戦っていたと思うの。それって、素晴らしいと思うし、私はそうありたい。守りたい誰かのために生きたいと思ってる」
麗の心象風景には、何が映っているのだろう。古代ギリシアだろうか、それとも、愛している人だろうか。勇ましい理由を語る彼女は、とてもとても安らかだ。
「いいね、麗」芽唯は言った。二人の姿に私もつられて、「私も、とっても素敵だと思う」と素直に言っていた。恥ずかしいような、もどかしいような感覚が湧きたつ。けれど、不思議と、満たされている。
「私は麗ほど大層なものは持ってないよ」芽唯は静まった空気をもう一度賑やかにするために、おどけたように言う。芽唯の眼の、黒い芯に向かって、私は目を合わせる。
「私は考えない。いいや、もっと単純だ。そんなこと考えたくない。学年順位が最下位に近い私が考えたって、バカみたいなものができるよ。私は目の前にある幸せを掴んでいきたいだけさ。それで充分」手を頭の後ろに組む芽唯は、なんとなく誇らしい。芽唯らしい、あっさりした答えだった。
私は、受け取った答えに思慮を巡らせていると、麗が芽唯を肘でつついた。「なんか真面目過ぎて気恥ずかしいじゃん」
すると、芽唯がにやり、と口角を上げて、両手を構えた。
「椛葉!笑えー!」芽唯は素早い両手で私をくすぐろうとする。
「させるか!」私は咄嗟に芽唯の腕をつかんで阻止する。麗は、唇に手を当ててくすくす笑っていた。
そして、私は感じた。ここに居る私が本当のわたしなんじゃないかって。
ホームルームが終わったころから、初雪が降りだした。私の中にある、積もったらいいな、なんて少女のような感情を私は無視した。
今日の放課後も私は棗の所へ遊びに行く。
古い部室の扉を開けると、棗はストーブの前に移動して、しゃがむ。点火装置の音が鳴る。
「椛葉ちゃん、こんにちは」
「うん、こんにちは」
いつも変わらないこの挨拶が身に染みる。棗に会わないと学校に来た気がしない。
それからは、棗と今日の出来事や愚痴など、他愛もないことを話した。
一通り話して満足すると、私はふと、窓の奥を見やった。まだ雪は降っている。四階の窓からの風景は、雲に覆われている空しか見えない。窓に寄っていくと、だんだん、地上の世界が現れる。すると、すっかり枯れた樹に、雪が積もっている――――。
即時に地上を確認する。雪だ、雪が積もってる。今年度初めての銀世界に、心が躍る。
「積もってる……」しかし、私は「雪で遊ぶわけじゃないから……」と、逸る心を落ち着かせる。
棗は、私の隣に並んだ途端、窓を開けた。
「うわ、棗、寒いよ」
「いいえ、椛葉ちゃん。これからもっと寒くなりますよ」
棗は手のひらを差し出した。細くて整った指が五本並んでいる。
「行きましょう」
私はそれが意味することがすぐわかった。でも、私は手を取ることを躊躇っている。
「本当は遊びたいんですよね。雪を見た椛葉ちゃんの目が輝いていましたよ。別にいいじゃないですか、やりたいことをやりましょう」
窓から出ていくストーブの熱気が、私の見えないヴェールを攫って空へ行く。尻込みする意地も、熱気に乗ってどこかへ旅立った。
冷たくなる素手や、汚れてしまう制服なんてどうでもよくなって、私は棗の手を取った。
まずは、二人で大きな雪だるまを作ることにした。雪玉は、転がしていくうちにどんどん大きくなっていく。膝の辺りまで大きくなると、さすがに疲れてしまって、やめた。でも、棗は私より体が小さいのに、私より大きな雪玉を転がしていた。
棗は玉の大きさを、胸を張って自慢する。もし逆だったら、「五十歩百歩です」って抗議するんだろうなあ。
棗の雪玉を土台に、私の雪玉を乗せる。グラウンドに落ちている枝や石を集めて、顔を作る。不細工な出来に、私たちは笑いあった。
私が雪だるまの口を直しているとき、背中に何かがぶつかった。後ろを振り返ると、片手に雪玉を持った棗が居た。
「雪合戦しましょー!」
棗のそばには山積みの雪玉があるのに、私に雪玉を作る猶予をくれない。それじゃあ、売り言葉に買い言葉だ。
「いいよ!」
私は棗に向かって走る。棗は近づかせまいと反撃するが、私はそれをものともせず突進する。
彼女の小さい体を抱え上げるのに苦労はしなかった。棗が僅かな悲鳴を上げた時、私は雪で足を取られて転んでしまった。
二人で、冷たいカーペットに大の字で寝転がる。
たくさん動いたからか、私の頭はどこまでも澄み渡って、気持ちいい。
棗の左手を握る。今なら、どんな事にも負けない、そんな気分だ。
私は私と向き合う。四つの光が暗闇を照らす。右手に伝わる熱が、私の怖れを融解させる。もう怖くない。もっと深くへ、今まで届かなかったところへ、行こう。私の思考は加速する。
葦野先生は、「意味はないけど、意義はある」と言った。
麗は、「誰かのために生きる」と言った。
芽唯は、「考えない」選択をした。
そして、棗は、「私らしく生きる」と言った。
――――私はどうだろう。
そして、底までたどり着いたとき、私は一人で空を見上げていた。
「棗」
「なんですか、椛葉ちゃん」
「棗が助言してくれた通り、生きる意味を訊いてみたの」
「どうだったんですか?」
「なんか、掴めた気がする」嬉しくって、笑顔が止まらない。
「よかったです」棗も笑った。
私は棗と見つめあう。私は、私も知らないうちに「大好きだよ」と告げていた。棗は、「私もです」と言った。本当のことを言えるって、とっても嬉しい。最大限の信頼を、私たちは分かち合っているんだ。
ああ、なんだろう、この高揚は。
私は私を貫かなくちゃ、太陽は、私が今まで隠していたことでも照らしてくれるはずだ。
そうか、これが、私に足りなかったもの。私の腫瘍への、特効薬なんだ。
私の生きる意味は――――――――