ラブ!コバルト
私はスマホに視線を落としたまま呆然としていた。
まるで、自分の席だけが、お昼休みの喧騒から切り離されてしまったかのようだ。
向かいの席で、友人の澪が美味しそうにお弁当を食べなるのを眺めつつ、ため息を一つ。
「傑作、だったんだけどな」
そう呟くと、隣からもため息が聞こえてくる。
「またダメか」
同じように独り言を呟いていたのは、私の隣の席の武藤虎太郎だった。
彼は、百八十センチ声の長身に適度についた筋肉、六月になったばかりだというのに小麦色の肌に、整った顔立ちではあるものの、威圧感のある雰囲気。
趣味はサーフィンですと言われればしっくりくるような、そんな男子だ。
まともに話したことはないし、これからも話すことはないだろう。
そう考えて、視線をそらそうとしたその時。
彼のスマホの画面がちらりと見えた。
一瞬、自分の目を疑った。
だって、その画面は、紛れもなく『WebマガジンCobalt』の『短編小説新人賞』の結果発表のページだったのだから。
私のスマホにも、現在、同じ画面が表示されている。
何が何だか訳が分からないでいると、澪が口を開いた。
「で、陽花はコバルト短編、どうだったの? 名前あった?」
よく通る声に、武藤の耳がぴくりと動いた気がした。
そして、武藤はこちらを見て、ハッキリとこう言ったのだ。
「同志なのか」
それが高校一年生の時の出来事だった。
記憶を手繰り寄せるのをやめ、私はグラスに残ったジュースを飲む。
すっかりぬるくなっていた。
午後三時のファミレスは、高校生グループと主婦たちが多数を占めていて、時折スーツのサラリーマン二人連れなんかもいる。
そんな騒がしい中、私の向かいに座っている武藤は、原稿用紙の束に視線を落としたまま微動だにしない。
それはいい。集中してくれてるのだから。
気になるのは、さっきからため息が多いこと。
妙に喉の渇きを覚えて、グラスに残ったジュースを一気に飲み干し、おかわりを取ってこようと立ち上がろうとしたその瞬間。
武藤が、ばさりと原稿用紙をテーブルに置く。
私はごくりと唾を飲み込んで、グラスを右手に持ってお尻を椅子から少し浮かせた体制のまま固まった。
そして武藤が顔を上げ、言う。
「読み終わった」
「ああ、そう。うん。それで、どう、かな?」
私はそう言って座り直す。
武藤の表情が曇っていることから、なんとなく察せるけれど。
彼は小さくため息をつき、少し躊躇してから口を開く。
「全体的に、あんまりおもしろくない」
「ああ……。そっか」
「ファンタジーって言ってたけど、ファンタジーの雰囲気がないし、主人公もヒロインもいまいち魅力が伝わってこない」
武藤の言葉が、胸にぐさぐさとナイフのように突き刺さる。
脳内の私は口から血を流してぱったりと倒れていた。
相変わらず、容赦ない感想を真正面から言ってくださる……。
色々と言い返したいことはあるけど、貴重な時間を割いてくれているのも事実。
「これ、今月の締め切りのコバルト短編に応募するの?」
武藤の言葉に、私はううんと唸る。
「もう一作、別のがあるから、あれを応募する。現代恋愛もの」
「ああ、先週、読んだやつか。あっちも微妙な気がするんだが、今読んだやつよりもマシだな」
武藤はそこまで言うと、コーラを一気に飲み干す。
「ねえ、武藤のも下読みするよ」
「じゃあ、頼む」
武藤はカバンから原稿用紙を取り出し、こちらに差し出す。
「はいはい」
私はそれだけ言うと、武藤の小説を読み始める。
ボロクソ言ってやろうと思って読み始めたものの、だんだん虚しくなってきた。
「これ、素直におもしろいよ……」
読み終えた時、私はそう言わざるを得なかった。
これなら、コバルト短編の受賞も狙えるかもしれないと思える作品だったのだ。
「そっか。それは良かった」
武藤は安心したように笑った。
彼の笑顔は、いつものような尖ったような雰囲気がなくなって、ちょっとかわいい。
一年生の時に隣の席で、実はお互いにコバルト短編に応募している同志だと分かり、自然と私たちは仲良くなった。
現在、私と武藤はお互いの小説を読み合い感想を言い合ったり、結果を知ってなぐさめ合ったりして、そんなことをしながらもう一年が過ぎようとしている。
「紫さ、お前、書くだけじゃなくてちゃんと読んでる?」
ふと武藤に聞かれて、私はぎくりとする。
実は、読書はあまりしていない。
きちんと読んだのは、小学校五年生の頃で、おまけに朝の読書週間の時だ。
姉から借りたコバルト文庫がおもしろくて、休み時間も読んでいた。
ただ、それ以降も小説にハマったわけではなく、私の中で短い読書ブームは過ぎていった。
「読んでは、いるよ」
「その言い方からすると、読んでねえな。実際に紫の文章は稚拙だ。もっと読め」
武藤は椅子に深く腰かけ、足を組み、私に向かってそんなことを言う。
うぜええ。なんでそんなに偉そうなんだよ、いつもいつも。
「武藤は読んでるの?」
「毎日一冊は読んでる」
本当に? とは聞き返せなかった。
そうだろうと思ったからだ。
だって武藤は、ここ最近、どんどんレベルが上がっていく。
書くもの、書くものがおもしろい。
それは読んで書いてを繰り返しているからだろう。
「ま、お前にもまだ伸びしろはあるんじゃね?」
武藤はそれだけ言うと、グラスをもって席を立った。
そして、さり気なく私の空のグラスも左手に取り、聞いてくる。
「なにがいい?」
「ピーチ」
「わかった」
頷いて、武藤はドリンクバーのほうへ向かう。
その途中ですれ違った別の制服の女子高生が「今の人、イケメンじゃない?」「本当だ!」とかなんとか騒いでいる。
でも、そのイケメンはこてこての恋愛小説を書いてるよ。
女子高生が主人公で、作者に『俺、男だけど』って言われてもいまいちピンとこないような、そんな小説を書いている男だよ!
もちろん、バカにしているわけではない。むしろ褒めている。
「なんか知らない女子に話しかけられた」
戻ってきた武藤はため息をついて、椅子に腰掛ける。
「サーフィンとかやってそうだからだよ」
「サーフィンどころか俺は泳げねえよ」
「肌が小麦色なのは、海に行ってるとかスポーツしてるとか思われてるのよ」
「俺は元卓球部だ。おまけにもうやめた。そしてこの肌は生まれつきだ」
「あと、無駄に筋肉ついてるし」
「小説ばっか書いてると運動不足になるから合間に筋トレしてるんだよ」
「なんか、『小説命』って感じだよね」
私の言葉に、武藤は笑いながらコーラを一口飲み、それから言う。
「当然だろ」
次の日の朝。
私はいつもに増して注意力散漫だった。
よく転び、つまづき、物は落とすし、壁にはぶつかる。
そこまで心ここにあらずなのは、昨日の武藤からの辛口批評が原因というわけではない。
その理由は、コバルト短編の発表が今日だからだ。
なんとか無事に学校に着き、私は自分の席について、大きなため息をつく。
「おっはよー。陽花」
その声に顔を上げると、澪が首を傾げて聞いてくる。
「なんか悩んでるの?」
「ううん。今日は、コバルト短編の発表で……」
「あ、そっか。受賞してるといいねえ」
「いいなあ。そうだったらうれしいんだけど。せめて最終選考ー」
「せめて最終選考とはまた大きく出たね。でも、その自信、いいよ!」
澪は真っ白な歯を見せて笑う。
「そっかなー。じゃあ、自信持とう。今回のは自信作なんだー」
「へー。自信作なら受賞もあるんじゃない?」
「澪は私を褒める天才だなあ。受賞したら何でも奢る」
「わーい。じゃあ焼肉!」
「いいけど、澪、すごい食べるよね」
「成長期ですから!」
澪はそう言ってお腹を叩くけど、よく食べる割にはほっそりしている。
「なんで太らないんだろうねえ。体質?」
「いやー。最近、演劇部の練習キツいのよー」
「そういえば、夏に大会あるんだっけ?」
「大会ってゆーか、コンテスト。全国高校生演劇甲子園、ってのがあってね。それに応募する作品製作してるの」
「全国高校生演劇甲子園かー。なんかすごそう」
「すごいよー! ってゆーか、コンテストの締め切りが今月末で結構ヤバいのよ」
澪は困ったような顔をしたけれど、今月末ってそんなに時間がないのでは……。
「大丈夫なの?」
「なんとかやってみるしかないね! 間に合わなかった時はしょーがないさ!」
澪はやけに爽やかな表情で言った。
ああ、もし、結果が悪くてもこれくらい潔くいられればいいのになあ。
待ちに待ったお昼休み。
本当は四限目にスマホで『WebマガジンCobalt』を確認したかったけど、スマホいじると『はい、ボシュート!』って言って没収する先生だから確認できず。
ようやくお昼休みで、スマホをいじっても平気なのに、『短編小説新人賞結果発表』をタップできない。
指が震える。結果を知りたくない。
自信作だからこそ、それが選外だったら……と思うと怖くて怖くてたまらない。
だけど、『あの作品なら自信あるから受賞してるんじゃない?』という前向きな私と、『自信作って言ってる時ほど無理だよ。いつもそうだろ』という後ろ向きな私がいる。
スマホを持ったまま動けない私を見た澪が言う。
「どした? まさか受賞してた?」
「うう……違う。怖くて結果が見られないの。澪、確認してくれない?」
「いいよ。ペンネームは井戸蘭、だったよね」
「うん」
「陽花は紫陽花だもんね。英語で紫陽花はハイドランジア。そこから井戸蘭をペンネームにするとはなかなか」
澪はそこでぴたっと動きを止め、それから私に聞いてくる。
「ねえ、武藤君のペンネームってなんだっけ」
「え、小樽新亜」
「へー。あ、じゃあ、これか。すごいね」
澪の関心したような声を聞いて、嫌な予感がした。
嫌な予感というのは、当たる。
その日は家に帰ってからは、部屋にこもっていた。
私は、選外だった。もう一歩にすら名前がなかったのだ。
それだけでも落ち込むのに、もう一つ衝撃的な出来事があった。
武藤は、なんと最終選考に残っていたのだ。
しかも、最終選考で三十六点って高い点数だし。
ものすごく悔しくて、せめて、選評では厳しいこと言われているといいなと意地悪な気持ちたっぷりで読んだら……。
「思った以上に褒められてるしー! 三浦しをん先生に『惜しいですね』とか言われるとか、本当にムカつく!」
私はそう言って枕をぐーで殴る。
これまでずっと、コバルト短編に応募する同士として仲良くやってきたのに。
なんだか裏切られた気分だ。
本当は、ちゃんと『おめでとう』と言わなきゃいけないことはわかっている。
頭ではわかっていても、言葉にならないし、むしろ憎まれ口を叩いてしまいそうだ。
ため息をついてから、スマホでコバルトのサイトを開き、もう一歩のところに自分の作品名とペンネームがないか、確認する。
ないものはない。
もし、私がもう一歩に残っていたら、武藤の最終選考を少しは喜んであげられたのかもしれない。
私は最終選考までいったことはもちろんないし、もう一歩に入ったのは二度だけだ。
二度目のもう一歩は、もう去年の六月のこと。
つまり、丸一年間、私は選外という記録を叩き出している。
武藤だってそうだった。
むしろ、武藤は雑誌の頃から応募を始めて、三年目でようやくもう一歩に入ったと言っていた。
私はあいつよりも成績が良い。
いずれは追い越してしまうだろう。
そんなことを心のどこかで考えていた。
まさか、こんなにも早く先を越されるなんて……。
私が武藤を避けて一週間が経過した。
子どもっぽいことは重々承知している。
だけど、やっぱりどうしても、納得がいかない。
武藤の最終選考の作品も、まだ読んでいない。
多分、私はこの出来事を現実だとまだ捉えていないのもしれない。
漠然とした現実のようなものとして考えて、ふわふわと宙を漂っていつか消える日を待っている。
そして、自分を守るために武藤とは話さない。
そういうわけで、今日も放課後になった途端に教室を出ようとしたら、腕を掴まれた。
「無視すんなよ」
武藤がこちらを睨みつけている。
そんなに睨みつけたって怖くなんかないぞ! 超インドア派なの知ってんだからな!
……という意思を示すために、私は武藤を睨み返す。
すると、武藤は両手を顔の前で合わせて頭を下げる。
「お願いします」
「え? なに?」
「ちょっと付き合ってほしい所があるんだけど」
「どこに」
「『ぬくもり公園』に、ちょっと取材をしたいんだ」
「え、あの、『ぬくもり公園』?! 今から?」
「いや、夜になってからがいい」
「余計に嫌だよ! 一人で行きなよ!」
「小説の都合で、二人っていう設定で、だから、千円あげるから今夜お願いします!」
「千円あげるとか生々しいな」
私の言葉に武藤は顔を上げ、「じゃあ、二千円?」と値段を上げてくる。
少しだけ考えてから、私は笑顔で言う。
「お金なんかいらないよ」
「マジか! まるで紫が天使のように見えてきた……!」
「なんで一人で取材に行けないのか、本当の理由を言ってくれたら、着いていってあげてもいいよ」
「えっ!」
途端に武藤の目が泳ぎ出す。
「その理由を言ったら、着いていくよ」
「わーかったよ! しょーがねえ……」
武藤は半ばヤケになって言うと、頭をがしがし掻いてから続ける。
「怖いんだよ。あの公園、ゾンビ出るらしいし」
「それで女子について来てもらうのー?」
「男友達には断られた。お前だけが頼みの綱だ。この通り」
武藤は深々と頭を下げた。
なんかこれ気持ち良いな。
最終選考のことなんか、すっかり忘れて、私は武藤のつむじを眺める。
それからこう言う。
「そこまで言われたら、しょーがないかな」
「ありがとうございます」
「あ、その後でファミレスでご飯奢りね。デザートつき」
「金いらねーとか言ってたくせに」
「え? なに? 口ごたえすると行かないよ?」
「すみません。喜んで奢らせていただきます」
そう言った武藤は、悔しそうな顔をしていた。
ああ、その顔を見ただけで、すっきりしたなあ。
「現地集合とか……。武藤は気が利かないな」
そう呟きながら、私は自転車のペダルをこぐ。
現在時刻は午後八時過ぎ。
ようやく辺りが暗くなってきたので、武藤から『取材、お願いします。俺もすぐ出ます』とラインが届いた。
両親共に仕事で出張なので家を出るのは簡単だったけど、やっぱり気が重い。
だって、『ぬくもり公園』は有名な心霊スポットなのだから。
昔、あの公園は、外国人の豪邸が建っていたらしい。
だけど家族が突然、変死をしたので、今は豪邸は壊され、公園になったのだが……。
出るのだ。
夜な夜なゾンビが……。
もちろん、これは都市伝説であり、本当にそんな悲劇があったのか、そもそも豪邸跡地だったのかも怪しい。
ただの噂でしかない。
だけど、この公園でここ最近、『ゾンビを見た』という人は、チラホラいると聞く。
どうせ何かの見間違い……たとえば枯れ木とか、そういうものだと思うんだけど。
やっぱり、そんな噂がある公園に行くのは気が重い。
公園のすぐそばに自転車を停めると、ちょうど武藤もやってくる。
彼は懐中電灯と、それから右手に傘を持っていた。
私は首を傾げて聞いてみる。
「今日、予報で雨降るって言ってた?」
「いや、これは武器」
「え、まさか、ゾンビがきたらそれで戦うの?」
「万が一、ゾンビが襲ってきたら、これで怯むかもしれないだろ」
「ってゆーか、戦うんじゃなくて逃げようよ」
「そ、それもそうか」
武藤の声が上ずった。
こいつ、本当に怖いんだな。私より怖がってるよ。
それなのにゾンビの話を書くとか、どういう神経してるんだ。どM?
公園に入ると、辺りはしんと静まり返っている。
もともとここには遊具なんかはなくて、遊歩道と池とベンチがあるだけだ。
遊歩道を歩き出す私に武藤が話しかけてくる。
「俺と紫の出会いは、小学五年生の時だったな」
「なに急に。ってゆーか、小学校一緒だった?」
「一緒だったよ! 覚えてねえの?」
「え? 知らない」
むしろこんな人相の悪い男子いたら、嫌でも覚えてる。
「俺、昔はひょろっひょろの体で丸坊主だったからな。今と随分とイメージ違うと思う」
「ふーん。ってゆーか、なんでそんな昔話なんか始めたのよ」
「明るい話をしてたほうが安心するだろ!」
「そんなに怖いなら、ホラーなんか書かなきゃいいじゃない」
「女子はホラー好きだろ? 書ければ受賞できるような気がするんだよ」
「偏見だなあ」
「で、俺は小学五年生の時に、紫に出会った」
「話が戻った」
ゆっくりと歩きながら、武藤の思い出話に耳を傾ける。
「小六の卒業式に転校して、高校でこっち戻ってきたけど。まさかお前が隣の席だとはな」
「そんな思い出話をされても、私は記憶にないんだよなあ」
「コバルト文庫、読んでた」
「え?」
「タイトルまでは思い出せないけど、確かにお前は小五の時にコバルト文庫の本を読んでいたよ」
「そういえばそんなこともあったなあ」
私の言葉に、武藤は黙りこんだ。
そして、奴が口を開こうとした、その時。
近くで女性の悲鳴が聞こえた。
私と武藤は足を止め、顔を見合わせる。
そして、武藤は悲鳴の聞こえたほうを懐中電灯で照らす。
その先にいたのは、ふらふらと歩く人間。
「ゾンビだ!」
武藤はそう叫び、「え?」と言う私の手をひいて来た道を走って戻る。
そして自転車を止めた場所に行くと、そこには人影があった。
武藤の懐中電灯によって照らされたのは、ボロボロの服に顔から血を流した……ゾンビだ。
一匹じゃない、ぱっと見、三匹はいた。
私と武藤は一目散に逃げだす。
「ゾンビは動くものを追うって聞いたことがある。一旦、隠れよう!」
公園の駐車場の煌々と光る自動販売機の後ろに、私と武藤は身を隠す。
肩で息をしながら、私は小声で言う。
「今日って、コスプレの日とか、そういう、日じゃないの?」
「そんな日ねえよ」
「じゃあ、なんであんなにゾンビがいるの?」
「わからない……」
武藤はそう言ったきり、俯いた。
私はまだあれが本物のゾンビだと認識できない。
誰かのイタズラなんじゃないかと思っている。
すると、うめき声と足音が聞こえてきた。
自動販売機から覗いてみると、ゾンビがぞろぞろとこちらにやってくるのが見えた。
心臓が冷たい手に掴まれるような感覚。
ゾンビ、だ。
映画で観たような、人を襲う、あのゾンビが目の前にいる。
そう思った途端、叫び声を上げて走って逃げ出したい衝動に駆られた。
だけど、今出て行っても襲われるだけ。
すると、武藤が言った。
「紫、俺が時間を稼ぐから、お前はその間に逃げろ!」
「はあ?! 何言ってんの!」
私の声が予想以上に大きくなってしまい、ゾンビたちは一斉にこちらを見た。
ああ、もうダメだ。
こんなことなら、もっと小説を書いて読んで、努力しておくべきだった。
武藤の最終選考に残った作品も読んでおくべきだった。
私がそんな後悔をしていると、武藤が言う。
「俺のペンネーム、小樽新亜、並べ替えると、オルタンシアになる。意味は――」
そこで、ゾンビたちが私たちの目の前にいることに気づく。
武藤が傘を振り回そうとした瞬間。
「ちょ、ちょ、待って!」
ゾンビがそう言って、人間語を話した。
武藤の動きがぴたりと止まり、「ちょっとやり過ぎだよ!」と聞き覚えのある声。
ゾンビたちをかき分けてこちらに来たのは澪だった。
事態が飲み込めない。なんで澪が?
「ごめん。ちょうどここで作品撮ってたら、二人が見えてね。撮影が終わったゾンビ役の後輩が、『ちょっと驚かせてきます』とか悪ノリしたみたいで」
澪が頭を下げると、ゾンビたちも「すみません」と頭を下げる。
私はようやく自体を理解して、口を開く。
「えっと……。じゃあ、これってもしかして、演劇部?」
「そうそう。全国高校生演劇甲子園の作品」
澪の言葉に、隣でどさっと音が聞こえた。
武藤が座りこんでいる。
「なんだよ……」
武藤はそう言って、しばらくそのまま動けなかった。
腰が抜けたらしい。
「すごく面白かったよ! 小学生男子が作家になりたい理由が、窓辺でいつも本を読んでる女子に自分の書いた小説を読んでもらいたいから、っていうのが初々しくていいよね」
私は大きく頷いて、スマホから視線を上げる。
向かいの席では、武藤がテーブルに突っ伏している。
騒がしいファミレスの喧騒が、ようやく耳に入ってきた。
「なに? さっきのゾンビ騒動で疲れた?」
「いや、まさか俺の小説を目の前で読んで、感想言われるとは思ってなかった」
「だって、せっかく最終選考で残った作品なんだもん。直接感想言ったほうがいいかな、って」
「そうかもしれないけどさ」
机に突っ伏したままの武藤に、私は言う。
「ごめんね。ずっと最終選考残ったのに、おめでとうって言えなくて」
「いいよ、別に気にすんな」
武藤が顔を上げ、ニッと歯を見せて笑ったので、ホッと一安心。
そこで私はふと思い出して聞く。
「そういえば、さっき、武藤のペンネームに何か意味があるみたいなこと言ってたけど、オルタンシアってどういう意味?」
武藤は窓の外に視線を向け、ようやく聞き取れるくらいの声で呟く。
「好きな子の名前だ。悪いか」