蒼い彼女
蒼空は確かに輝いていた。
香織に出会ったのはたぶん、電車の待合室だったと思う。やけに暑い日で、扇風機が一台だけついたそこはとにかく暑かった。ガラスが歪むように見えて、太陽の光は人の少ない愛知のホームを焼いていた。僕はシートに座って、活き活きとした草木を眺めていた。
香織が入ってきたのは5分と経たない頃だったと思う。明らかに同じ高校の制服だったし、何より同じクラスだった。それまで特に接点無く、ただ「少し暗い子」程度に感じていた。その日だけ、僕は無性に彼女を見つめていたと思う。理由は分からなかったけれど、それはきっと「待合室という空間に一緒」なんていう小さなものだろうと思う。なにより、それまで気にしたことなんてなかったのだ。
僕は割と運動ができないし、香織もどちらかといえば得意な方じゃなかった。数学が苦手だし、テストは平均60点だし、ロックは聞かない。だけどインディーズバンドの音楽性とか、クセの強い政治家とか、どこか変わっている人をいじるのが好きで、僕が真似ると香織は笑った。お互いの共通点が見つかる度会話をし、香織の気持ちは解らないけれど僕は接点を手に入れていた。それがとにかく嬉しくて嬉しくてたまらなかった。やがてそれは月一から周一になり、日課になった。だけどたったそれだけが、僕らの世界だった。
親の趣味で僕は時々東京に行き、クラシックコンサートを聴くことがあった。それが別段嫌な訳じゃなかったけれど、ちょうどその日は香織と遊ぶことを約束していた日だった。それに気が付いたのが前日の夜ご飯を食べているときで、僕は一瞬箸もろとも石化した。スマホで香織宛てのメールを打とうとするが、香織に嫌われないかということばかり考えて進めない。それでもなんとか書き上げ、恐る恐る電気を消して床に就いた……結局、気になりすぎて布団の中で動画でも見ながら返信を待っていた。目が痛くて耐えられなかったが、それ以上に返信を待ち望んでいた。着信の音と共に震える手でメールを開き、目をかっぴらいて内容を読んだ。
『そっか、残念!でもしょうがないよー……親御さんのいう事には逆らえないもんねっ。
それにね、私もあえないことになっちゃって、だから、ごめんね。また遊ぼうね!』
たった数文のメールは、案外あっさりしていた。しょうがない。その一言がやけに目についた。悲しいようで、不思議な心地だった。香織の予定はなんだろうと思いながら、電源を落とした。
コンサート自体に興味はなかったけれど、僕はホールの中の装飾に驚かされていた。昨年は酉年だったので、酉の絵を。その前は、というように毎年鮮やかな干支が演奏の場を飾っていた。美しいと、僕でも思えるような演奏。だけど、僕は楽しくはなかった。特別何かを批判したりすることはなかったけれど、それでも面白いとは思えなくて、最中はずっと別の事を考えていた。
香織は、誰のまねをしたら笑ってくれるんだろう。
香織が喜びそうなことはないかな。
そんなことばっかり考えていると3時間はほんの一瞬に感じられた。だからいつも帰りの新幹線で「無駄な時間じゃなかったな」と思いながら弁当を食べることができたんだろう。新幹線は高速で愛知から東京を行き来するけれど、いつでも蒼空は青かった。
香織が入院したと聞いたのは、翌日朝のホームルームで担任から知らされた。吹奏楽部だった彼女はその日も練習があり、夜遅くまで校内で練習を続けていた。どうやら僕と遊ぶことも、部員たちと楽しそうに話していたそうだ。しかし、自転車で帰宅していた彼女は、飲酒運転をしていた中年男性にひかれ、たまたま居合わせた人の通報によって病院へと搬送された。その最中、僕は情けなくも涙を流していた。
その日は誰よりも早く校門を出て、自転車をこいだ。土煙とか汗とか、そんなものを風に任せて香織の下へ。道には紅く染まった葉が散らばり、冷めた光が反射して眩しかった。何も持ってきている物は無かったけれど、何より、謝りたかった。
「ご案内します」
看護婦さんが香織の下へと案内してくれた。看護婦さんがドアを完全に開くまで心拍が激しくて、息が苦しかったが、香織の衰弱した様子を見て、覚めた。悲しみとか、冷たさとか、そういうものを全てひっくるめた存在の省庁の様に見え、心底僕は泣きそうになった。だけど、香織は僕を見てすぐ笑ってくれた。
病室は明るかったけれど、外は既に暗かった。電灯が白く光る。香織の手を握ると、その冷たさが一層身に染みる。
「……ごめん」
「君が謝ることじゃないよ」
悔しかった。香織の一番気付いてあげるべきだった時に、何にも考えてあげられていなかったこと。大切な人との約束を破って、別のことをすること。だけど握ったその手が、どうしようもなく好きだと思って、悲しかった。
「どこが悪いの?」
「足が、ちょっとね」
「車椅子?」
「そう」
窓の外には、予定のない時雨が降っていた。
どうやら通り雨で、少し経つといつも通りの黒い空へと戻った。僕は香織を車椅子で引きながら、星空の見える屋外へと連れていった。特に理由がある訳でもなく、小さな罪滅ぼしだったのかもしれない。
「きれい」香織は空を見上げながら言った。
「私、君を信じ切れてなかったのかもしれない」
「そうなの?」
「だって、私の身体の重さを、知ってくれる人だもん」
僕らはとにかく忘れたかった。スマホなんか家に置いて、心の底までその黒くて蒼くて紅い空間を、僕たちは見ていた。辺りをちらつく黄金の星たちが、まるで宇宙の住人のように思えた。風が森林を揺らしてサーと鳴らし、香織が「冷たい」と呟く。それでも香織は笑っていた。僕らは何も考えたくなかった。学校とか親とか病気とか、うっとうしい物もつまらない物も全部蒼空に吸い込まれた。
「二人っきりなんだ」
僕はつばを飲んだ。