「私の笑顔、好きでしょう?」
「決めた!今日からお前は俺の婚約者だ!」
そう少年――当時7歳だったから、幼児かもしれない――は、同じ年頃の少女に向かって高らかに宣言した。くりっとした丸い目は、自信に満ちあふれていたが、周囲の反応は困惑の一言に尽きた。何しろ、少年と少女は、第一王子の遊び相手として集められていた。それを、あろうことが肝心の王子をそっちのけに、拙いながら懸命に少女を口説く少年。その一種鬼気迫る執念は、大人たちの子供だからしょうがないと微笑ましく思う気持ちを確実に削いでいった。大人たちはじきに悟った。“こいつ、本気だ”と。結局少年は、少年の親が止めるまで、少女に言い寄った。あまりのしつこさに連行されていく少年の後ろ姿を見送りながら、少女は終始戸惑った表情をしていた。
――10年前の、出来事である。
王立学園の中庭に、一組の男女がいた。辺りに二人以外の人影はなく、木陰で涼みながら、少女は口を開いた。
「あれから、10年経ちましたが」
あの時の少女――アリアは、まるで歌うかのように楽しそうに言った。10年を経て、少し内気で大人しかった少女は、淑やかな仕草と社交的な性格をあわせ持つ魅力的な女性へと成長していた。彼女は心底楽しげにくすくすと笑いながら、隣を見やる。
「10年が、何だ」
彼女の隣には、地面に座り、片膝を立てた青年が憮然とした顔つきでそっぽを向いていた。アリアにかける声はどこか固く、よそよそしいものだったが、アリアがたじろぐことはない。その態度がかつての自分の行いに対する恥じらいと後悔からくるものだと知っている。何せ、彼の瞳がくりっとした愛くるしいものから、切れ長の一見冷たく感じる端正なものへ変わっていく様を、ずっと近くで見てきたのだ。それに、いくら表面的にぶっきらぼうになろうと、彼の根本はこれっぽっちも変わっていない。現に、彼の指はアリアの腰まで伸びた髪をいじくっているし、自分は地面に直に躊躇いなく座ったのに、アリアには自分の上着を敷物代わりにしないと頑なに座るのを許さなかった。彼は、昔からアリアが大好きすぎて、ときたまちょっぴり過保護なのだ。
「ロクトはちっとも私に、飽きませんね」
「……」
アリアの髪を好きに遊んでいた彼――かつての少年、ロクトの指が止まる。すっかり男らしく骨張って、自分のものをすっぽり覆い隠してしまうほど大きく育ったロクトの手を視界の隅にかすめてから、アリアは頭をロクトの肩に押し付けた。ロクトは一瞬体を固くしたが、その逞しい体はアリア程度の体重がかかっても、小揺るぎもしない。昔、同じくらいの身長の時にお姫様だっこをしてやる!と勢い良く持ち上げられ、健闘虚しく支えきれずに彼が下敷きになったことも、今や懐かしい思い出だ。今なら、お姫様だっこくらい彼にとっては朝飯前だろう。当の彼は人並みに羞恥心と常識を弁えてしまっていて、とてもじゃないが人前でそんな気を起こすことはない。そんな表向きは常識人に育った彼だが。
無言のロクトは、相変わらずこちらを見ようとしないので、それを良いことに、アリアは身を乗り出す。ロクトの立てられていない方の膝に手を置いて、勢いをつけ、こちらから見える彼の頬にキスをした。唇を離したアリアが、つくづく男にしてはきめ細やかな白い肌だなと嫉妬していると、ぐりんと音がしそうな程の勢いでロクトがこちらを向いた。切れ長の瞳がかっと開いて、人によっては怒っているととられそうな表情だ。
「アリア!お前って奴は、なんて破廉恥な!」
少しどころでなく上ずっている彼の声に、アリアは冷静に対応した。
すなわち、笑顔を浮かべたのである。キメ顔ではなく、かといって作った愛想笑いでもない、ただただ嬉しかったり楽しかったら出るような、ごく普通の笑いだ。
アリアのその表情を見た瞬間、ロクトの動きが錆び付いた人形のようにぎこちなくなった。よくよく見れば、何かに耐えるように、ふるふると震えている。行き場のない彼の手が意味もなく開閉していたので、アリアはどさくさに紛れて握っておく。そして、追い打ち、とばかりにもう一度ロクトと目を合わせ、にこりと微笑んだ。
「ロクト……私の笑顔、好きでしょう?」
ぐう、とロクトの喉から絞るような音が聞こえた。これがほんとのぐうの音も出ないかしらとアリアが呑気に思っていると、強引に手を引かれ、彼の腕の中に閉じ込められていた。ぎゅうぎゅうと加減なく抱きしめられるのは少し痛かったが、見違えるように成長した彼が昔のように大好きなアリアを他人に取られないように必死にしがみついていた姿をそのまま持っていることにアリアは安心するので、甘んじてされるがままだ。
やがて、アリアの頭の上から大きなため息が聞こえてきた。アリアが顔を上げようとすると、いつの間にか後頭部にまわっていた彼の手が阻止する。彼本人としては、赤面するなど動揺しているのを見られたくなかったのだと思うが、ちょうど彼の胸に耳が押し付けられる形となり、とくとくと速い彼の心臓の音が丸分かりた。
「……腹立だしいことだ」
ロクトがぽつりと呟く。
「それは私が?それとも、あなたが?」
「どっちもだ」
「私はチョロいあなたも好きですよ?」
ロクトがチッと大きく舌打ちした。あら行儀の悪いこと。
「お前ほんと、……結婚したら覚えてろよ」
そう言ってますます腕に力を込める彼が可愛くて、アリアは声を上げて笑った。
「――で、そのゲロ甘な話を私に聞かせてどうしろと?」
午後の授業後。
ロクトとアリアはそれぞれ別の授業を取っているため、昼休み後中庭で別れ、アリアは学友のマーサと合流していた。マーサはリズロ伯爵家の一人娘で、どちらかというと現実的な性格をしている。今も、アリアが詳細に昼休みの一時を語ると、うんざりとした半眼でこちらを見てきた。友人の飾らない視線を慣れた調子で受け止めながら、アリアは両の手をぱちんと合わせた。
「やっぱり、マーサもそう思います?」
「そうって、何が?」
「私とロクトのやり取りがゲロ甘ってことです」
「自覚はあったんだ……」
と言いつつどこか疑惑を含んだマーサに膨れっ面を返して、アリアは頬杖をついた。
「これでも、抑制されているらしいのです」
「は?抑制?」
思わずと言った調子で顔を上げたマーサに、アリアは得意気に説明した。
「昔の、と言っても7年くらい前でしょうか、私のことが好きすぎるロクトは、物理的に私へ好意を示すことを魔法で封じられたのです」
マーサは、激しい頭痛に襲われているようなしかめっ面で、アリアの言葉を復唱する。
「……物理的に好意を示すことを封じる?」
「そう!ようは、ロクトは自分から私に触れないのですよ」
アリアはえっへんと胸を張る。
「何しろ、その頃のロクトときたら、私に四六時中引っ付いて、周りの人に威嚇ばかりして――」
「いやいやいや、それっておかしくない?」
「そう、あまりにも私にベッタリだったもので、お父様が彼のお父上――公爵様と相談して、宮廷魔術師様に魔法をかけてもらうことに」
「いや、そっちじゃなくて、……そっちも大概おかしいけど、あんた、矛盾してない?」
マーサの指摘に、アリアはきょとんと首を傾げた。
「何がですか?」
「あんたに触れないってんなら、昼のゲロ甘はどういうこと?公爵子息、私が聞き流した話ではあんたに抱きついたりとかしてたと思うけど?」
「聞き流していたのですかマーサ……それは、彼の封印が解けかかっているからですよ?」
「解けかかってる?」
「ええ。元々、封印は私たちが結婚するまで効力を発揮する予定だったのですが。ロクトが私に触れないことがよほど堪えたらしく、人前では品行方正に振る舞い出して、お父様たちに解除を願ったのですが、取り合ってもらえず……ならばと自分で解除の方法を探っているうちに、徐々に解けてきたとか」
「あんた、それは……」
「それが高じて、魔術の成績が学年一位になったらしいですよ。それでも、完全な解除は結婚を待たないと無理だそうで」
「ああ、そう……」
真面目な公爵子息のそんな裏事情、知りたくなかったと死んだ魚のような目をして呟いている親友を見ながら、アリアは首を捻った。
「それでもこんなにゲロ甘なのに、彼ってば何が不満なのでしょうね?」
侯爵令嬢アリア・フィノル。
――彼女が、さらなるゲロ甘を知るまで、あと半年。