けぶる視界に見えるもの(卅と一夜の短篇第17回)
焼き鳥を買いに家を出た。
俺が食べたかったわけじゃない。買ってくるか、と金を出されたから、受け取って家を出ただけだ。
慣れない大人と同じ部屋の中、テレビだけが賑やかにしている空間よりはマシかと思って出てきたが、ドアを開けた途端に後悔した。陽が暮れ、雲も出てきてずいぶん薄暗くなったというのに、むわっとした熱気は弱まることなく俺を取り囲み、蝉の声が叩きつけるように降ってくる。
こんなにねっとりと暑い夏を俺は知らなかった。
少し前まで住んでいた生まれ育った町は、暑い暑いと言ってはいたが、もっと優しい暑さだった。蝉も、どこか遠くで鳴いているだけで、こんなにうるさいものだとは思っていなかった。
一緒に移り住んだ母さんは言う。思ってたのと違う、と。それが慣れないこの町のことをさすのか、慣れないあの男のことをさすのか、俺にはわからない。
優しくていい人なの、と母さんは言っていた。俺があの男にはじめて会う前日のことだ。
あの男と過ごす間、母さんが嬉しそうに笑っていたから、俺はそいつのことを認めてやった。家の中に母さんの友だちが増えるようなものだと思っていたからだ。
でも、そんな簡単なことじゃなかった。あの男と母さんが結婚したら俺の苗字は変わって、住む場所も変わった。友だちはみんな遠くなって、知っている店は無くなって、通いなれた道は見当たらなくなった。
あの男の両親がくれたという一軒家は、広いけどあまり新しくはなくて、エアコンの効きが悪い。車は男が乗る一台しか置けなくて、新しい仕事を見つけた母さんは仕方なくバス通勤をしているけれど、不便だ、思ってたのと違う、とよく言っている。
俺には男が優しいのかわからない。母さんが遅くなる日に夕飯を作る男は優しいのかもしれないが、文句どころか何も言わない男のことは、まだわからない。ただ、男が作るハンバーグやオムライスよりも、本当は母さんの作る煮物やだし巻き卵のほうが好きだと言えないでいるから、お互いさまだと思う。
新しいクラスメイトとは普通に話せるようになったけど、あの男とはまだうまく話せていない。だから、本当は焼き鳥を買いに行くのもちょっと不安だったなんて、言えなかった。
家から歩いて五分ちょっとのとこにある焼き鳥の屋台は、その横のお好み焼き屋がおまけでやっている店だ。学校の帰りに通ると屋台の横には煙草を吸うおじさんが集まっていて近寄りにくいし、焼き鳥を焼いているおじさんの顔が怖いから、いつも速足で通り過ぎることにしている。
そんな店に、行かなくてはならない。お金を受け取ってしまったから手ぶらでは帰れないし、たぶん、あの男は焼き鳥を待っているだろう。焼き鳥を夕飯にするつもりかもしれないし、買って帰らなかったら怒られるかもしれない。それにもし、俺が気に入らないから一緒に住むのをやめよう、と言われたら、母さんが泣くかもしれない。
そんなのは嫌だと、俺はポケットのお金を握りしめて焼き鳥屋に向かう。
店の横に集まる煙草臭いおじさんたちを見ないようにしてたどり着いた屋台には、誰もいない。なんだ、緊張して損した。
「なんだ。焼き鳥買いに来たのか?」
肩の力を抜いた俺に煙草を吸っていたおじさんのひとりが話しかけてきて、どきっとする。おじさんは煙草を吸殻入れにすりつけて片付けると、俺の返事も聞かずにお好み焼き屋のドアを開けて店の中に顔を突っ込んでいる。
「おーい、大将。焼き鳥屋にお客だよ」
店の中で返事をする声がして、すぐに怖い顔のおじさんが出てきた。いつも、焼き鳥を焼いている人だ。
「おう、お待たせ。お客さんは、と」
「この子だよ。坊主、おいしく焼いてもらえよー」
そう言って、煙草のおじさんは店に入っていった。お店の人を呼んでくれたお礼を言う間もなかった。
「坊主、注文は?」
煙草のおじさんを気にしていた俺は、焼き鳥屋のおじさんに言われてはっとする。そういえば、何を買って帰ればいいんだろう。店先に置かれた看板には、いろいろな種類の焼き鳥が乗っている。
少し考えて、あの男が焼き鳥を買ってくるか、と金を渡してきたときのことを思い出す。あのとき、なんとなくつけていたテレビに映っていたのは、焼き鳥屋の紹介だった。たしか、鶏もも串と鳥皮だった。
同じメニューが看板にあって、ほっとする。
「ええと、鶏もも串と鳥皮を五本ずつください」
「おう、ちょっと待っとけ」
おじさんが店から串に刺さった肉を持ってきて、焼きはじめた。太陽の熱気とはまた違う暑さが風にまじり、汗があごを流れる。じゃわじゃわという蝉の声に交じって、じうじうと肉が焼ける音がして、いい匂いの煙が流れてくる。ふと気が付けば、煙草を吸っていたおじさんはみんな火を消して、ただ店の壁に並んでしゃべっているだけだ。
じうじうじう。
まだだろうか。
じうじう、ぽつ。
「あ、雨だ」
誰かが言って、すぐにばらばらと雨粒が落ちてくる。
慌てておじさんたちの並ぶ軒下に入ると、焼き鳥を焼きながら店のおじさんが声をかけてきた。
「夕立だな。すぐやむだろうから、ちょっと店ん中で待っとけ」
店のおじさんが言う通り、このあたりは黒い雲に覆われてざんざん雨が降っているけれど、遠くの空では薄い雲の間に夕焼けの名残が明るく残っている。すぐにやむだろうけれど、打ち付ける雨が強すぎて足元にしずくが跳ね上がる。こんなに激しい雨は、生まれ育った町では滅多に降らなかった。
ひざ下まで濡れそうな雨に、店の中で待つという勧めは魅力的だったけれど、ためらいが足を止める。
店の中には、たくさんの煙草を吸っているおじさんがいるんじゃないだろうか。もくもく煙たい店の中にはお酒を飲んで大きな声で騒ぐ大人がたくさんいて、家の中よりもっと居心地が悪いんじゃないだろうか。
そんなことを考えていると、軒下に並んでいたおじさんたちが俺の背中を押して、ぞろぞろと店の中に入っていく。
「さあ、坊主も行こう」
「なに、汚いとこだけど遠慮するな」
「お前らの店じゃねえぞ、勝手なこと言うな」
「ははは。ほら、大将が怒り出す前に入っちまおう」
何か言う間も与えられず、俺は店の中にいた。意外に煙草の匂いはしなくてソースが焼けるいい匂いばかりで、もくもくしている煙はお好み焼きを焼く煙のようだった。
がやがやとした店に入ると、おじさんたちはそれぞればらばらの席に座っていく。一緒にしゃべっていたからみんな同じグループなのかと思ったら、実は違ったらしい。行き先に困った俺がきょろきょろしていると、一番最初に店の人を呼んでくれたおじさんが手招きしているのが見えた。
ほっとして近寄ると、おじさんの横の空いている席をすすめてくれる。
お礼を言わなきゃ、と思っていた俺は、言われるままおじさんの横に座らせてもらうことにした。
「あの、さっきはお店の人を呼んでくれて、ありがとうございました」
俺が頭を下げると、おじさんとおじさんの仲間らしい人たちが嬉しそうに笑った。
「なんだ、そんなこと。ここは常連が多いし、店主がいい加減だからよくあることだよ。でも、どういたしまして」
「礼儀正しいねぇ。ここの店主にも見習ってほしいくらいだよ」
「ほんと、あの人愛想無ぇからなあ。口も悪ぃし」
「大将もお前にだけは言われたくないだろうよ」
「あぁ? なんだと?」
わあわあと言い合うおじさんたちは、お酒を飲んでいて大きな声で騒いでいる。店の中も煙でいっぱいだ。でも、思っていたような怖い騒ぎかたじゃなくて、俺たちがクラスで馬鹿話して盛り上がっているときみたいな騒ぎ方だし、煙はおいしい匂いに満ちている。
なんか、思ってたのと違う。
意外に居心地のいい騒がしさの中で座っていると、がらり、と店の戸を開けて店のおじさんが入ってきた。
「おい」
短く言って、じっと俺のことを見ている。
「あ、はい」
焼き鳥が焼けたから、呼びにきたのか。慌てて立ち上がると、店のおじさんはすぐに背を向けて出ていく。急いでその背を追う俺に、いろいろなところからおじさんたちの声が飛んできた。
「気を付けてな」
「まっすぐ帰れよ」
「またなー」
あちこちから聞こえる声にうなずき返しながら店を出ると、薄暗い空に広がっていた雲は消え、雨はもうやんでいた。降り出したときには聞こえなくなっていた蝉の声もいつの間にやら戻ってきて、またわんわんと響いている。
「ほら、これ」
屋台に入った店のおじさんが、大きな紙袋を渡してきたので受け取る。やけに大きくて、やけに重たい。
紙袋の口を少し開けて中を覗くと、明らかに注文した数より多い。倍くらい入っている。
「あの、これ……」
「お使い、偉いな。ちっとばかしおまけしといたから、いっぱい食え」
戸惑う俺の方を見ずに、店のおじさんは煙の出ていない焼き鳥を焼く機械を触っている。
もらってしまっていいのだろうか。俺が悩んでいるうちに、店主は屋台から出てきて空を見上げて、俺の背中を押す。
「もう降らんだろ。すぐ真っ暗になるから、早く帰れ」
ぐいぐい押される背中に、俺は慌てて振り向きながら言う。
「あ、あの、ありがとうございます! 焼き鳥、食べます!」
「おう、また来いよ」
短く言って、店のおじさんはさっさと屋台の中に戻っていった。まだ、仕事があるのだろう。これ以上邪魔してはいけないと、俺は頭を下げて歩き出す。
「ちょっと大将~、焼き鳥のほう終わったなら俺のお好み焼き焼いてよ~。油売ってないでさあ」
「うるせえ、今忙しいんだ。もうちょっと待っとけ!」
背中にそんな声が聞こえて、俺は思わず振り返る。ぱちり、店のおじさんと目が合った。
慌てて顔をそらした店のおじさんは、何をするでもなく腕を組んで屋台の中に立っている。もう一度、頭を下げてから歩き出す。少しして振り返ると、やはり店のおじさんと目が合う。
これは、もしかして。
店が見えなくなるぎりぎりまで歩いてから振り向くと、屋台から出てこちらを向いているおじさんの姿が見えた。間違いない。俺がちゃんと帰ってるか、見守ってくれているんだ。
俺はなんだかおかしくなって、店のおじさんに手を振ってから歩き出す。
煙草臭いおじさんたちは、にぎやかで楽しいおじさんたちだった。
怖い顔のおじさんは、ぶっきらぼうだけど実は優しいおじさんだった。
やっぱり、思ってたのと違う。
くすくす笑いながら家についた俺は、玄関の外でうろうろしている人影を見つけた。そして、向こうも俺に気が付いたらしい。俺を見つけたあの男の目が、ほっと緩んだように見えて、俺は驚く。
もしかして、心配して待っていたのだろうか。
さっさとドアを開けて家に入っていく男の気持ちは見えないけれど、俺は思い切って声をかけてみることにした。
「……ただいま。焼き鳥、買ってきた」
男が驚いた顔で振り向いたので、俺は紙袋を見せながらそのまま続ける。
「あのさ、店のおじさんがいっぱいおまけしてくれて、また来いよって言ってた、から。あの、よかったら、こんどはお好み焼き食べに行こう。俺と、母さんと、その、父さんと、三人で」
陽気なおじさんたちにもらったあったかい気持ちが勇気になって、言葉が出てくる。
ぶっきらぼうなおじさんにもらった優しさが強さになって、俺は新しい父さんの顔から眼をそらさずにいられた。
「……ああ! 行こう! よし、行こう。お好み焼きでも、焼き鳥でも、なんでも食べに行こう!」
おかげで、嬉しそうに輝く笑顔の父さんを見られたし、張り切りすぎて今すぐお好み焼き屋に行こうとする父さんを止められた。
そして母さんが帰ってくるまでの間に、おまけしてもらった焼き鳥を二人で食べた。食べながら話をして、さっき焼き鳥を買ってくるかと言ったのは、俺がテレビの焼き鳥をじっと見つめていたから、食べたいのかと思ったためだということがわかった。
いつも黙っていたのは、俺に嫌われないようにと考えすぎて、どう接していいかわからなかったのだということもわかった。ときどき作ってくれる料理も、俺の好みがわからないから子どもが喜びそうなものを頑張って作ってくれていたらしい。本当は和食が得意だということも話してくれて、さっそくだし巻き卵を作ってくれた。母さんのとどっちがおいしいか悩むくらい、おいしかった。そのことを話すと、父さんは顔をふにゃふにゃにさせて笑う。
ほんと、なんか思ってたのと違う。
そのあと、母さんが帰ってきて仲良くなった俺たちに驚くので、焼き鳥屋に行ったところから全部話して聞かせた。
そしたら、父さんは暗くなってから俺ひとりで買い物に行かせたことを怒られてしまった。そこで俺が父さんを庇ったら、今度は母さんがすねてしまって、父さんは慌てて母さんをなだめている。けれど、父さんの顔はふにゃふにゃのままで、母さんの機嫌はなかなかなおらない。
そんな父さんと母さんを見ていたら、どうしてか俺の目元に涙がにじむ。
涙をごまかすように食べた焼き鳥はぬるくなっていたけれど、今まで食べた中で一番美味しい焼き鳥だった。
大学生のとき、焼き鳥を買いに行っておまけをたくさんもらったのはいい思い出。
おまけしといたよ、と笑うおっちゃんが、おつかいえらいな、ぼうず! といい笑顔で言ったのは、悲しい思い出。