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4。

「誰だ、こんなことをする奴は! 俺を馬鹿にしてんのか!」


 今にも飛び出そうな眼球と、怒りで真っ赤に染まった顔。

 隆夫が、ミラーハウスに向かって猛然と走り出す。


「奈津美は、誰かに監禁されているにちがいない! 誰だ……許さんぞ!」


 まるで、人が変わってしまったかのようだ。

 目を吊り上げた隆夫が、吠える。

 だが、その鋭い刃を纏った言葉に反応する物体は、この、元遊園地にはない。増々どす黒く変化した雲の渦巻く空に、ただ空しく、彼の声が吸い込まれただけだった。


 息を切らし、ミラーハウスの入り口前にやって来た、隆夫。薄汚れた、立て付けの悪いドアを、荒々しく蹴破った。


「奈津美、いるんだろ? いるなら、返事してくれ!」


 鏡張りの世界の中で、声が山彦のように反射する。

 しかし、何の返事もない。

 隆夫は、気持ちを奮い立たせ、奥へと進むことを決めた。


 壁の何処かに、穴でも開いているのだろうか――ひんやりとした風が、頬に当たる。何故か、腕にぞわりと鳥肌が立った。

 淀んだ空気の中の、埃臭い、すえた臭いが隆夫の鼻を衝く。

 2年前の記憶を辿りながら、とにかく、前に進む。


 幾つもの鏡が折り重るように配置された、迷路。

 進むべき道を見失った――そんな空間に、足を踏み入れたときだった。


「うわあ!」


 突然、隆夫が素っ頓狂な声を上げた。

 その視線の先では、無数の鏡に反射された無数の自分の姿が、天国――もしくは地獄の先にまで届くほどの長さで、連凧のように連なって並んでいる。

 しかし、彼が声をあげた原因は、それではなかった。

 隆夫の顔付き――

 それが、自分の顔とは思えないほどの、酷いものだったのだ。


 ――まさに、ゾンビ。雅美と、おんなじだ……。これが、僕の顔?


 飛び出た眼球に、溝のように刻まれた皺と、こけた頬。

 一瞬、愕然と立ち尽くした隆夫だが、ここで立ちどまることはできない。襲って来た突然の吐き気に耐えながら、奥へと進む。

 と、聞こえて来た、呻き声――らしい音。


「……ち。……ち」


 隆夫の他には誰もいないはずの空間に、時折、微かに響いている。

 音は、奥に進めば進むほど大きくなり、「声」に近づいていった。


「……っち。……っち」


 声が、少し鮮明になる。はっとする、隆夫。

 聞き覚えのある声。

 聞き違えるはずの無い、その声!


「こっち。こっちよ、あなた……」


 声に導かれるように、隆夫は奥へと進んだ。

 ふと、鏡の中の自分に感じた、違和感。すべてが自分の写像であるはずのその動きが、揃っていないように感じたのだ。

 だが、気のせいだろうと、前に進む。


「その声は……雅美!? 雅美なんだろ?」


 自分だけの狂気の世界に声を張り上げてみるが、その問いに答える者はいない。


 と、その代わりに聞こえだしたのは、しくしくと忍び泣く、女性の声だった。

 再び、隆夫がはっとした表情を見せる。

 この2年間、時折思い出したようにさめざめと泣いていた、妻の雅美。

 そのときにそっくりな、すすり泣きだったのだ。


「やっぱり雅美だな! どうしてお前がここにいる?」


 そのとき、鏡の創り出す虚実世界――幾重にも重なり合う自分の姿の世界――の中で、たったひとつだけ、違う姿があることに隆夫が気付いた。


 アコーディオンの蛇腹のように連なった中の、近い方から数えて13番目。


 それは――紛れも無き、自分の妻だった。

 ぼさぼさになった髪をふり乱すように突っ立っている彼女の姿は、美しかった2年前のそれとは、比べるべくもない。

 が、そんな妻でも自分の妻なのだ。

 見間違える訳など、ない。


 何故かそのとき、妙な安堵感が彼の心に宿った。

 不思議な、懐かしさを感じたのだ。

 それはどうやら、彼女の服装から来ているらしかった。そう……。彼女の服装は、2年前の「あの日」と全く同じであり――。


「雅美、ありがとう……。君も来てくれたんだね! 実は、奈津美がここに監禁されているのかも知れないんだ。一緒に探して――」


 と、不意に雅美の頭がぶんぶんと左右に振られ、すすり泣きの声が止んだ。


「奈津美は……」


 鏡の中の世界の閉じこめられた雅美がそう呟きながら、顔を上げた。

 それを見た隆夫が、目を剥く。

 彼の脳髄を、どしんと重い衝撃が、貫いたのだ。


 ――そうか、ここ2年間ずっと感じていた違和感の正体が、今わかった。それは、雅美の髪型が、以前とは“左右逆”だったことだ!


 隆夫の両足が、がくがくと音を立てて、震え出す。


 ――この2年間、家で共に暮らしたあの女は、一体……誰?


 とそのとき、足の震えの負けじとばかりに、胸の携帯が震えた。

 吹き出した汗で落としそうになりながらも、右手で操作して、携帯の画面を出す。そこにあったのは、新規メールの到着通知。

 奈津美からの、メールだった。


“ありがとう、パパ。これで、みんないっしょだね”


 と、雅美のすぐ横に現れた、小さな影。

 それは2年振りに見る、ピンク色のこども携帯を手にした、俯き加減の奈津美だった。


「奈津美は……ここに……いる……わ」


 すだれのように垂れた髪の隙間で口を動かし、雅美が、にやりと笑う。


「奈津美!」


 ああ……懐かしい奈津美。愛しい、奈津美。

 隆夫は、あらん限りの力を使って、娘の名を呼んだ。


 そして――彼の思いは、通じた。

 奈津美が、ゆっくりと顔を上げる。

 げっそり削れた頬と窪んだ瞳ではあったけれども、精一杯のふんわりやさしい笑顔を、彼に見せてくれたのだ。


「奈津美! 雅美!」


 半狂乱で叫び、彼が二人に駈け寄った、その瞬間。

 炎に炙られた水あめの塊が融け落ちるが如く、二人の皮膚という皮膚ががどろどろと融け、流れ出した。そして、ゾンビの成れの果て宜しく、みるみる顔も、腕も、足も、すべての骨が、あらわになった。


「うわああああ」


 逃げようとするも、腰が抜けてしまった隆夫は尻を床につけたまま、動けない。

 血走った目をひん剥き、恐怖におののいた体を仰け反らせる。

 けれど、恐怖はそれで終わらない。

 終わるはずもない。


 突然、隆夫の体が、燃えるように熱くなった。

 と思った瞬間、有毒ガスが噴き出したかのように腐臭が辺りに立ち込めて、激しく彼の鼻を衝いた。

 それは、明らかに隆夫自身の体が腐敗した臭い、だった。


「あ、あ……」


 メルトダウンしていく、体。

 咽喉に尋常でない熱さを感じた、そのすぐ後。

 彼は、この世の最期に、泥沼にはまった蛙が溺れたかのような、ごぼごぼとした、声にならない声を発した。


 既に骨と化した彼の右手は、だが決して、携帯電話を離さない。


“パパ、これからはいつもいっしょだよ”


 茶色い沈着物が付着した画面に、浮かび上がった文字。

 それは、今着信したばかりの、奈津美からのメールだった。


 カラン……。


 床に落ちた、携帯電話。

 電源が落ち、画面は真っ暗になる。

 いつの間にか、鏡の世界からいなくなった、母と娘。鏡は、何も映さない。

 つい先ほどまで人間の形をしていた、父の姿もない。



 永遠の静寂が、裏野ドリームランドに訪れたのだ。




 ― 了 ―

お読みいただき、誠にありがとうございました。

失くした携帯を捜す時は、充分お気を付けください……特に遊園地では。

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