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「パパ、今度の日曜日にドリームランドに行こうよ!」
――すべての始まりは、奈津美のこの言葉だった。
8歳になったばかりの娘が、仕事から帰宅してネクタイを解く隆夫にすり寄って、甘えるように言ったのだ。
ドリームランドとは、「裏野ドリームランド」という名の、自宅から一番近い遊園地。7月の後半、夏休みに入ったばかりのこの時期に、父親の休みと合わせて家族で行きたいという、娘からの提案だった。
「もう、奈津美ったら我儘云わないの!」
かつて、隆夫が幾度も癒されたその優しい笑顔とともに、娘をたしなめる雅美。そうは云いながらも、その実、彼女の眼は「私も行きたい」と訴えている。
「よし、わかった! 今度の日曜日、遊園地に行こう」
「本当!? 本当に?」
隆夫の目の前にいる女子二人が、ぴったり声を揃えて、キラキラと目を輝かせた。
「うん、本当さ。じゃあ、約束だ……指切りげんまん、嘘ついたら針千本、飲ぉます!」
右は娘、左は妻。
隆夫は、左右の小指を一本づつ使って、二人と約束を交わした。
「やった、やったぁ。遊園地!」
「良かったね、奈津美」
はしゃぎまわる二人の背中を見つめながら、感じた充実感。
今思えば、あれが家族の最後の幸せなひとときだったのかもしれない……。
ドリームランドに行くくらいなら、娘や妻との約束を破り、針千本を飲んでおけばよかったのかもしれない……。
★
――数日後の、日曜日。
隆夫は、連日の残業に疲れ切った、そして、まだまだ睡眠を貪り続けようとする体を叩き起こし、まだ朝の時間から、裏野ドリームランドへと向かう車のハンドルを握る。
渋滞になりかけの道路を走り抜け、まるで中古車販売の展覧会場の如く込み合った駐車場に駐車場所を確保した。
「観覧車に乗りたい!」
車から降りた途端に、奈津美が叫んだ。
そして、手をつなごうとした妻の雅美の手を振り切り、雲一つない快晴の空の中で聳える巨大な観覧車に向かい、走り出したのだ。
「ちょっと待ってよ、奈津美!」
「おいおい、走ったら危ないぞ。止まりなさい」
両親の言葉も、お構いなし。娘は糸の切れた凧のように飛んで行って、チケット売り場の前で、二人を手招きしている。
「パパ、ママ――早く!」
「もう、仕方がないなぁ」
「ホント、仕方ない子ね」
普段の運動不足が露骨にわかるほどの、おぼつかない足取りで隆夫と雅美が走って行く。娘にだいぶ遅れ、チケット売り場へと辿り着いた。
急かされるようにして、ようやく入場券を買った雅美。すぐにかけ出そうとする真奈美の手を隆夫がしっかりと握り、三人一緒になって、入場口を通り抜ける。
と、遊園地の奥まった位置にある観覧車へと行く途中だった。
急に奈津美が足を止めたのだ。
それは、ミラーハウスの入り口前での事だった。
「あ、やっぱり、先にこっちがいいかも」
「ミラーハウス? でもこれ、怖そうだよ。大丈夫?」
「うん……ママもちょっと怖いかも」
「大丈夫、大丈夫。真奈美が付いてるからさ!」
こうして三人は、昔懐かしい感じの、ペンキ絵で描かれたドラキュラ伯爵のような男が見下ろす入り口をくぐることになった。
「何だか、目がまわったわ」
アトラクションから出て来るなり、顔をしかめた雅美が頭を振る。
人間が無限に折り重なる、ミルフィーユのような世界。でも、特にたいしたことはなかったな、と隆夫は思った。娘も、同じように感じたらしく「じゃあ、次は観覧車ね」と、すぐに興味の矛先を元に戻そうとしている。
そのときだった。
「あ、ごめん。携帯電話、落としちゃったみたい」
雅美が、バッグのポケットを探り探り、云った。
「じゃあ、ここで奈津美と待っているから、戻って捜して来たら?」
「いや、待たせたら悪いから、二人で先に観覧車の所に行ってていいわ」
「でも……」
そんな二人のやりとりを終わらせたのは、娘の一言だった。
「真奈美、アイスが食べたーい!」
思わず、顔を見合わせた夫婦。雅美が優しく笑い、隆夫に云う。
「ほらね。奈津美もこう云ってるし、パパは奈津美と先に行って、アイスでも食べててよ」
「そうだな……。わかった」
係員に事情を話し、雅美はもう一度ミラーハウスの中へと入っていく。
それを見送った隆夫は、ちらほらと雲の出てきた空の下、奈津美の手を引いて観覧車の方へと向かった。
観覧車近くの、小さな売店。
アイスクリームを美味しそうに舐める娘と一緒に、ビーチパラソルの作る日陰の下で隆夫は雅美を待っていた。
「ママ……遅いね」
アイスクリームの白い部分を舐めつくし、黄色いコーンの部分を齧り始めた奈津美が、ぽつり、呟いた。ゆっくりと回転する観覧車を見上げるその瞳は、明らかに今の状態に飽き飽きしている。
「じゃあ、ママに電話してみるか」
雅美の携帯に電話をするが、応答がない。念の為、ショートメールで「先に二人で観覧車に乗ってる」とメッセージを残しておく。
「どうやらママ、まだ携帯を捜してるみたいだね……。じゃあ、先にパパと二人で観覧車に乗ってようか。ママが来たら、もう一度、三人で乗れば良いもの」
「うん、そうしようよ!」
係員に導かれ、「4」の番号の付いた赤いゴンドラへと二人して乗り込む。
少しづつ、まるで何かを確かめるかの如く少しづつ上昇していく、ゴンドラ。高さが上がるにつれ、奈津美のテンションも上がってゆく。
ついに、席で大人しく座っていられなくなった、奈津美。
まるでタコのように、窓ガラスに自分の両手と鼻の頭をべったりとくつけて、はしゃぎ出した。
「うわあ、高い! ねえ、パパ。あの背の高い建物は何かな?」
「うーん……市役所かな」
「まだまだ、上がるね。まるで、天国に昇って行くみたい!」
「あははは。確かに高いけど、さすがに天国までは登れないよ」
「そうだよね、あははッ」
そのまま、高いテンションでしゃべり続ける娘。だが、ゴンドラが頂上を越えたあたりのときだった。
急に動きを止めた奈津美が、隆夫の向かいの席に、ゆっくりと腰を掛けたのだ。
首が折れてしまったかのように、直角に近い角度で、がっくりと項垂れる。
「……」
「どうした、奈津美」
「ママ……どこ行っちゃったの?」
滝のように真っ直ぐに垂れ下がった前髪が、奈津美の顔を覆い尽くす。
その隙間から漏れたかのような力のない言葉に、隆夫は胸が苦しくなった。
――急に、母親が恋しくなったのだろうな。
そう思った隆夫は、努めて明るく、声を掛けた。
「きっとママ、まだミラーハウスなんだよ。でも、そろそろ携帯電話も見つるだろうし、このゴンドラが下に着いた頃には、会えるんじゃないのかな」
「そう……かな……そうだと……いいけど」
隆夫の言葉も空しく、それっきり言葉を発しなくなった、奈津美。下降を始めたゴンドラの中で、しばらくの沈黙が続く。
ぴくりとも動かない娘の表情を、隆夫は見ることができなかった。
――下に降りて雅美に会えば、奈津美も元気を取り戻すさ。
そう高を括った隆夫が空を見遣ると、雲行きが増々怪しくなっていた。一雨あるかもと感じたそのときに、ゴンドラから降りる時間になる。
最も低い位置にやってきたゴンドラの両開きドアが、音もなく自動で開いた。
ぽっかりと空いたその空間が、二人を外の世界へと誘っている。
「奈津美、出るよ。ママはその辺で待ってるさ、きっと」
「うん……そう……かな……」
一人、ゴンドラの外に進み出た隆夫は、助けを求めるかのような気持ちで直ぐに外を見回し、雅美の姿を捜した。
けれど、そこに彼の妻の姿はなかった。
「ありがとうございました……」
そんな、覇気の無い男性係員の声は、もちろん聴こえてはいない。
今度は自分が肩を落とす番とばかりに、がっくりと肩を落とした隆夫。どうやって奈津美には話したらいいだろう、とほんの少しの時間を使って考えた彼は、ゴンドラから降りたばかりの娘がいるはずの場所に、振り返ったのだ。
「……ママ、まだみたいだね。さっきの売店で、待ってようか?」
けれど、その声に反応する人は、誰もいなかった。
奈津美が――すぐ傍に居るはずの奈津美が――そこに、いなかったのだ。
まるで、神隠し。
近くにいた係員に訊いても、まったく要領を得ない。「そんな女の子、いました?」とまで云い出す始末。
「奈津美……どこだ!」
雅美と合流できないまま、隆夫が必死の形相で園内を捜索をする。
しかし、娘はいつまでたっても見つからない。
気付けば、あれほど快晴だった空が、今はどんよりを通り越し、ぽつぽつと冷たい雨を落とし始めていた。